南川高志『マルクス・アウレリウス 『自省録』のローマ帝国』
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2022年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者には本書の四半世紀近く前に刊行された著書『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』があり(関連記事)、面白かったので、五賢帝の最後となるマルクス・アウレリウスについて四半世紀近く経て新たな知見も盛り込まれ、より詳しく知ることができるのではないか、と思って本書を読みました。本書はマルクス・アウレリウスについて、とくにその著書である『自省録』に注目し、『自省録』を同時代の文脈に位置づけ、マルクス・アウレリウスの歴史上の意義を論じています。
本書はまず、『自省録』が世に出るに至った経緯を解説します。マルクス・アウレリウスは後世に『自省録』と呼ばれるようになった文章を公開するつもりはなく、古代にはほとんど言及されていませんでした。10世紀以降のビザンツ(東ローマ)帝国で、この文章が言及・引用されるようになり、ギリシア語で「タ・エイス・ヘアウトン(自分自身に)」との題がつけられます。10世紀には、『タ・エイス・ヘアウトン』は全12巻として伝えられたようです。16世紀半ばに、10世紀以降の写本に基づいた印刷版がラテン語対訳つきで刊行され、元々の文章には段落しかなかったのに章が区分されるなど、現代のような体裁が整えられ、近代日本では「瞑想録」や「省察録」とも訳されました。『自省録』の各文章がいつ書かれたのか、手がかりはほとんどないそうです。マルクス・アウレリウスはローマ語を母語としていましたが、公開するつもりのなかっただろう『自省録』はギリシア語で書かれており、哲学的表現にはギリシア語の方が適している、とマルクス・アウレリウスは考えたのだろう、と本書は推測します。
『自省録』がストア派哲学に基づいていることは古くから指摘されていますが、ローマにストア派哲学が広く受容されたのは紀元前2世紀後半以降でした。マルクス・アウレリウスは、初期と中期と後期に区分されるストア派哲学の歴史において、後期ストア派の流れを最後に代表する人物と位置づけられています。マルクス・アウレリウスは、宇宙を一つの国家とし、その国家の市民として生きることを善とする、ストア派のコスモポリタニズム(世界市民思想)を堅持し、人間は自然に即して(理性に従って)生きることにより存在と目的を果たすことができ、そのために自身の意思外にあるすべてから解放されねばならない、と考えていました。マルクス・アウレリウスにとって、死は自然の神秘であり、恥ずべきものではなく、そこから死への恐怖より解放されようとしたようです。
紀元後1世紀には、ローマに広く定着したストア派の哲学者やストア派を支持する元老院議員などが皇帝から抑圧・迫害され、一般的にはストア派哲学とこうした政治的行為の結びつきが自明のものとされてきたようです。しかし本書は、そうした抑圧・迫害の本質はストア派の教説にあるのではなく、地方都市や属州都市の有力者がローマの中央政界に続々と参入するようになり、ローマ古来の伝統重視の気風が強まり、皇帝への現実的批判になった、と指摘します。皇帝がこの保守的運動を鎮圧するさいに、似た性格を有して運動に精神的助力を与えていた「哲学」に罪が着せられたのではないか、というわけです。
マルクス・アウレリウスは121年4月26日に生まれ、法務官(プラエトル)に就任した父は若くして死亡し、執政官(コンスル)を異例となる3回務めた祖父の養子となります。マルクス・アウレリウスの母は執政官も務めた元老院議員の娘で、マルクス・アウレリウスはローマでは最上位階層に生まれたわけです。五賢帝の時代は一般的には安定していたと評価されていますが、戦争がなかったわけではなく、ローマ中央政界では政争もあり、本書は、五賢帝の一人であるハドリアヌス帝の治世が時代を画する、と指摘します。ハドリアヌスは地縁・血縁などで自分とつながる人々を重用し、そうした中にマルクス・アウレリウスの一族もおり、マルクス・アウレリウス自身も幼少期からハドリアヌス帝と面識があり、ハドリアヌス帝は後継者に指名したケイオニウス・コンモドゥス(アエリウス・カエサル)の娘(ケイオニア・ファビア)とマルクス・アウレリウスを婚約させたように、マルクス・アウレリウスを寵愛していたようです。アエリウス・カエサルはハドリアヌス帝よりも先に没し、後継者となったアントニヌスはハドリアヌス帝の死後に即位しますが、イオニア・ファビアとマルクス・アウレリウスの婚約を破棄させ、マルクス・アウレリウスを自分の娘(ファウスティナ)と婚約させ、10代で執政官に就任させることにします。こうして、マルクス・アウレリウスがアントニヌス帝の後継者として周知されます。ただ、『自省録』ではハドリアヌス帝への言及は少なく、謝辞も捧げられていないことから、ハドリアヌス帝周辺の非情な政争によりマルクス・アウレリウスはハドリアヌス帝について『自省録』で沈黙したのではないか、と本書は推測します。
マルクス・アウレリウスはローマにおける最上位階層の出身者として、さらには次期皇帝として、当時最高級の教師たちから教育を受け、哲学の教師の多くはストア派でした。マルクス・アウレリウスは当時のローマ人にとって必須だった修辞学から次第に離れていきます。本書はその社会的背景として、皇帝による統治で政治弁論の比重が低下したことを挙げ、マルクス・アウレリウスの個人的想いとして、修辞学が専門化して人格陶冶にさほど役立たなくなったように考えたのではないか、と推測します。ただ、マルクス・アウレリウスは哲学に傾いたとはいえ、その治世の指針となったのは、ストア派哲学の思想や理想ではなくアントニヌス帝の行動だった、と本書は指摘します。
アントニヌス帝の近くでローマ皇帝のあり方を学んでいたマルクス・アウレリウスは、アントニヌス帝が161年に没すると即位します。この時にはとくに政争はなく、順調に即位したようです。ただマルクス・アウレリウスは、同じくアントニヌス帝の養子とされたルキウスを共同統治者としています。ただ、権威の上では明らかにマルクス・アウレリウスの方が上位でした。それまでも、皇帝が晩年に継承候補者に皇帝並の法的権限を与えることはありましたが、治世当初、しかもまだ40歳目前だった皇帝が、治世当初から共同統治者を任命したのは初めてでした。アントニヌス帝はマルクス・アウレリウスのみに帝位を継承させようとしましたが、本書はその考えられる理由として、マルクス・アウレリウスがルキウスにつながるイタリア系の元老院貴族勢力に配慮しようとしたことと、自分の男子が無事成長するのか不安だったことを挙げています。一方で、騎士身分の登用を進めるなど、既成勢力の言いなりになったわけではないようです。
マルクス・アウレリウス帝は五賢帝の最後に数えられていますが、その治世は平穏とは言えず、即位直後にはパルティアとの戦争が始まり、これは165年までには実質的に終結したものの、166年にはパルティアとの戦争から帰還した兵士たちが持ち帰った疫病により、ローマ帝国は大打撃を受けます。本書はこれを、完全にパンデミック(世界的規模での感染症流行)だった、と評価しています。この疫病は天然痘と考えられており、そのためにローマ帝国の総人口の1割となる約600万人が死亡した、と推測されています。疫病が始まった頃には、ドナウ川の北方の諸部族がローマ帝国属州に侵攻してきて、パルティアとの戦争は共同統治者のルキウスに任せたマルクス・アウレリウス帝ですが、今回は自身も出陣します。168年に始まったこのマルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の最期まで続きます。マルコマンニ戦争の最中の169年1月、マルクス・アウレリウス帝とともにローマへ帰還しようとしたルキウスは38歳で死亡します。さらに、イタリア北部やイベリア半島も攻撃されるなど、マルクス・アウレリウス帝は戦争に忙殺された感があり、ローマへも169年以降長く帰還しませんでした。
マルクス・アウレリウス帝は60歳に近づき、177年にはまだ15歳の息子のコンモドゥスを執政官として、同年にはアウグストゥスの称号を与えて共同統治者とします。マルクス・アウレリウス帝は息子のコンモドゥスを伴って北方へと向かい、マルコマンニ戦争に対処します。マルクス・アウレリウス帝は元々建康ではなく、180年3月17日、58歳で没します。死に瀕したマルクス・アウレリウス帝はコンモドゥスに戦争継続するよう指示したようですが、コンモドゥスは単独皇帝となり、しばらく戦った後で講和条約の締結により戦争を終結させます。
『自省録』には死に関する記述が多く、それは元々建康ではなかったマルクス・アウレリウスが、晩年に死期を悟った中で書かれたことと、後期ストア派の影響が指摘されていますが、本書は、それだけではなく当時の社会背景を重視します。当時、ローマ帝国では前近代において異例なほど都市化が進んでいましたが、下水の処理が充分ではなく、ローマ市を流れるティベル川の水質汚染は酷く、当時高名な医師だったガレノスはティベル川で獲れた魚を食べないよう警告していたくらいでしたが、ローマ市民は食べていました。疫病の流行は、こうした都市の劣悪な衛生環境も原因でした。また、乳幼児死亡率がたいへん高く、ローマ人にとって死はたいへん身近だったようです。後期ストア派では、死は善でも悪でもなく自然なことで、来世や魂の不死は考えられていませんでしたが、一般のローマ人は「死後の生」を信じており、遺族が命日に墓所を訪れることもありました。元々ローマ人にとって死は身近なものでしたが、マルクス・アウレリウスは自身の治世における疫病と長引く戦争によりさらに死が身近なものとなり、それが『自省録』における死に関する記述の多さになっている、と本書は指摘します。
マルクス・アウレリウスの評価が高まる契機となったのは、4世紀に「背教者」のユリアヌス帝がマルクス・アウレリウスを模範とし、最高の名君と主張したからでした。それは、マルクス・アウレリウス帝を統治者としてよりも「哲学者」として評価してのことでした。この後、マルクス・アウレリウスは「哲人皇帝」で「最高の名君」として扱われるようになり、近代にはその評価が確立します。本書は、理想と現実との埋めがたい差を認識し、自身への励ましと叱咤の言葉として『自省録』を把握し、それが多くの人々に感銘を与えて現在も読み継がれている、と指摘します。
本書はまず、『自省録』が世に出るに至った経緯を解説します。マルクス・アウレリウスは後世に『自省録』と呼ばれるようになった文章を公開するつもりはなく、古代にはほとんど言及されていませんでした。10世紀以降のビザンツ(東ローマ)帝国で、この文章が言及・引用されるようになり、ギリシア語で「タ・エイス・ヘアウトン(自分自身に)」との題がつけられます。10世紀には、『タ・エイス・ヘアウトン』は全12巻として伝えられたようです。16世紀半ばに、10世紀以降の写本に基づいた印刷版がラテン語対訳つきで刊行され、元々の文章には段落しかなかったのに章が区分されるなど、現代のような体裁が整えられ、近代日本では「瞑想録」や「省察録」とも訳されました。『自省録』の各文章がいつ書かれたのか、手がかりはほとんどないそうです。マルクス・アウレリウスはローマ語を母語としていましたが、公開するつもりのなかっただろう『自省録』はギリシア語で書かれており、哲学的表現にはギリシア語の方が適している、とマルクス・アウレリウスは考えたのだろう、と本書は推測します。
『自省録』がストア派哲学に基づいていることは古くから指摘されていますが、ローマにストア派哲学が広く受容されたのは紀元前2世紀後半以降でした。マルクス・アウレリウスは、初期と中期と後期に区分されるストア派哲学の歴史において、後期ストア派の流れを最後に代表する人物と位置づけられています。マルクス・アウレリウスは、宇宙を一つの国家とし、その国家の市民として生きることを善とする、ストア派のコスモポリタニズム(世界市民思想)を堅持し、人間は自然に即して(理性に従って)生きることにより存在と目的を果たすことができ、そのために自身の意思外にあるすべてから解放されねばならない、と考えていました。マルクス・アウレリウスにとって、死は自然の神秘であり、恥ずべきものではなく、そこから死への恐怖より解放されようとしたようです。
紀元後1世紀には、ローマに広く定着したストア派の哲学者やストア派を支持する元老院議員などが皇帝から抑圧・迫害され、一般的にはストア派哲学とこうした政治的行為の結びつきが自明のものとされてきたようです。しかし本書は、そうした抑圧・迫害の本質はストア派の教説にあるのではなく、地方都市や属州都市の有力者がローマの中央政界に続々と参入するようになり、ローマ古来の伝統重視の気風が強まり、皇帝への現実的批判になった、と指摘します。皇帝がこの保守的運動を鎮圧するさいに、似た性格を有して運動に精神的助力を与えていた「哲学」に罪が着せられたのではないか、というわけです。
マルクス・アウレリウスは121年4月26日に生まれ、法務官(プラエトル)に就任した父は若くして死亡し、執政官(コンスル)を異例となる3回務めた祖父の養子となります。マルクス・アウレリウスの母は執政官も務めた元老院議員の娘で、マルクス・アウレリウスはローマでは最上位階層に生まれたわけです。五賢帝の時代は一般的には安定していたと評価されていますが、戦争がなかったわけではなく、ローマ中央政界では政争もあり、本書は、五賢帝の一人であるハドリアヌス帝の治世が時代を画する、と指摘します。ハドリアヌスは地縁・血縁などで自分とつながる人々を重用し、そうした中にマルクス・アウレリウスの一族もおり、マルクス・アウレリウス自身も幼少期からハドリアヌス帝と面識があり、ハドリアヌス帝は後継者に指名したケイオニウス・コンモドゥス(アエリウス・カエサル)の娘(ケイオニア・ファビア)とマルクス・アウレリウスを婚約させたように、マルクス・アウレリウスを寵愛していたようです。アエリウス・カエサルはハドリアヌス帝よりも先に没し、後継者となったアントニヌスはハドリアヌス帝の死後に即位しますが、イオニア・ファビアとマルクス・アウレリウスの婚約を破棄させ、マルクス・アウレリウスを自分の娘(ファウスティナ)と婚約させ、10代で執政官に就任させることにします。こうして、マルクス・アウレリウスがアントニヌス帝の後継者として周知されます。ただ、『自省録』ではハドリアヌス帝への言及は少なく、謝辞も捧げられていないことから、ハドリアヌス帝周辺の非情な政争によりマルクス・アウレリウスはハドリアヌス帝について『自省録』で沈黙したのではないか、と本書は推測します。
マルクス・アウレリウスはローマにおける最上位階層の出身者として、さらには次期皇帝として、当時最高級の教師たちから教育を受け、哲学の教師の多くはストア派でした。マルクス・アウレリウスは当時のローマ人にとって必須だった修辞学から次第に離れていきます。本書はその社会的背景として、皇帝による統治で政治弁論の比重が低下したことを挙げ、マルクス・アウレリウスの個人的想いとして、修辞学が専門化して人格陶冶にさほど役立たなくなったように考えたのではないか、と推測します。ただ、マルクス・アウレリウスは哲学に傾いたとはいえ、その治世の指針となったのは、ストア派哲学の思想や理想ではなくアントニヌス帝の行動だった、と本書は指摘します。
アントニヌス帝の近くでローマ皇帝のあり方を学んでいたマルクス・アウレリウスは、アントニヌス帝が161年に没すると即位します。この時にはとくに政争はなく、順調に即位したようです。ただマルクス・アウレリウスは、同じくアントニヌス帝の養子とされたルキウスを共同統治者としています。ただ、権威の上では明らかにマルクス・アウレリウスの方が上位でした。それまでも、皇帝が晩年に継承候補者に皇帝並の法的権限を与えることはありましたが、治世当初、しかもまだ40歳目前だった皇帝が、治世当初から共同統治者を任命したのは初めてでした。アントニヌス帝はマルクス・アウレリウスのみに帝位を継承させようとしましたが、本書はその考えられる理由として、マルクス・アウレリウスがルキウスにつながるイタリア系の元老院貴族勢力に配慮しようとしたことと、自分の男子が無事成長するのか不安だったことを挙げています。一方で、騎士身分の登用を進めるなど、既成勢力の言いなりになったわけではないようです。
マルクス・アウレリウス帝は五賢帝の最後に数えられていますが、その治世は平穏とは言えず、即位直後にはパルティアとの戦争が始まり、これは165年までには実質的に終結したものの、166年にはパルティアとの戦争から帰還した兵士たちが持ち帰った疫病により、ローマ帝国は大打撃を受けます。本書はこれを、完全にパンデミック(世界的規模での感染症流行)だった、と評価しています。この疫病は天然痘と考えられており、そのためにローマ帝国の総人口の1割となる約600万人が死亡した、と推測されています。疫病が始まった頃には、ドナウ川の北方の諸部族がローマ帝国属州に侵攻してきて、パルティアとの戦争は共同統治者のルキウスに任せたマルクス・アウレリウス帝ですが、今回は自身も出陣します。168年に始まったこのマルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の最期まで続きます。マルコマンニ戦争の最中の169年1月、マルクス・アウレリウス帝とともにローマへ帰還しようとしたルキウスは38歳で死亡します。さらに、イタリア北部やイベリア半島も攻撃されるなど、マルクス・アウレリウス帝は戦争に忙殺された感があり、ローマへも169年以降長く帰還しませんでした。
マルクス・アウレリウス帝は60歳に近づき、177年にはまだ15歳の息子のコンモドゥスを執政官として、同年にはアウグストゥスの称号を与えて共同統治者とします。マルクス・アウレリウス帝は息子のコンモドゥスを伴って北方へと向かい、マルコマンニ戦争に対処します。マルクス・アウレリウス帝は元々建康ではなく、180年3月17日、58歳で没します。死に瀕したマルクス・アウレリウス帝はコンモドゥスに戦争継続するよう指示したようですが、コンモドゥスは単独皇帝となり、しばらく戦った後で講和条約の締結により戦争を終結させます。
『自省録』には死に関する記述が多く、それは元々建康ではなかったマルクス・アウレリウスが、晩年に死期を悟った中で書かれたことと、後期ストア派の影響が指摘されていますが、本書は、それだけではなく当時の社会背景を重視します。当時、ローマ帝国では前近代において異例なほど都市化が進んでいましたが、下水の処理が充分ではなく、ローマ市を流れるティベル川の水質汚染は酷く、当時高名な医師だったガレノスはティベル川で獲れた魚を食べないよう警告していたくらいでしたが、ローマ市民は食べていました。疫病の流行は、こうした都市の劣悪な衛生環境も原因でした。また、乳幼児死亡率がたいへん高く、ローマ人にとって死はたいへん身近だったようです。後期ストア派では、死は善でも悪でもなく自然なことで、来世や魂の不死は考えられていませんでしたが、一般のローマ人は「死後の生」を信じており、遺族が命日に墓所を訪れることもありました。元々ローマ人にとって死は身近なものでしたが、マルクス・アウレリウスは自身の治世における疫病と長引く戦争によりさらに死が身近なものとなり、それが『自省録』における死に関する記述の多さになっている、と本書は指摘します。
マルクス・アウレリウスの評価が高まる契機となったのは、4世紀に「背教者」のユリアヌス帝がマルクス・アウレリウスを模範とし、最高の名君と主張したからでした。それは、マルクス・アウレリウス帝を統治者としてよりも「哲学者」として評価してのことでした。この後、マルクス・アウレリウスは「哲人皇帝」で「最高の名君」として扱われるようになり、近代にはその評価が確立します。本書は、理想と現実との埋めがたい差を認識し、自身への励ましと叱咤の言葉として『自省録』を把握し、それが多くの人々に感銘を与えて現在も読み継がれている、と指摘します。
この記事へのコメント