森部豊『唐 東ユーラシアの大帝国』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は唐を、漢字文化圏の一王朝として把握するだけではなく、その多様な側面を取り上げます。唐は文化もその担い手の出自も複雑だった、というわけです。本書の特徴は、日本語の概説では、隋やさらには魏晋南北朝にさかのぼって、また五代にまで下ってともに語られることの多い唐の歴史を、ほぼ唐代に限定して叙述していることです。もちろん、唐の皇室の出自など、隋代以前の歴史にも言及されていますし、五代十国時代も短く取り上げられていますが、唐に関する概説でほぼ唐に限定した日本語の一般向け歴史書を読んだことはなかったので、私にとっては新鮮な構成でした。本書は、詩など文化面の言及は少なめであるものの、唐の概説として長く読まれることになるでしょう。
本書はまず、現代日本社会における一般的な「中国」の範囲を取り上げます。現代日本社会においては一般的に、「中国」とは中華人民共和国の領土全域ではなく、その一部である「中国本土」を指すのではないか、というわけです。「中国本土」とは、具体的には黄河と長江の流域、東南海岸部(福建)、嶺南(広東と広西)、雲貴(雲南と貴州)で、つまりは「漢人」が「古くから」居住していたか、支配していた地理的範囲です。「漢人」の母語が「漢語」で、日本では「漢語」が「中国語」と呼ばれており、モンゴル語やウイグル語やチベット語は一般的に「中国語」には含まれていません。「中国本土」以外の中華人民共和国領は、東北部(マンチュリア)、モンゴリア南部、新疆(東トルキスタン)、チベットで、これらは「中国本土(内中国)」に対して「外中国」と呼ばれることもあります。歴代の「中華王朝」は、「中国本土」だけを統治する場合(秦や宋や明など)も、「外中国」も支配した場合(元)もあります。
唐の支配領域は、当初雲南を除く「中国本土」だけでしたが、7世紀半ば以降に西トルキスタンまで支配圏に組み込み、その領域は中華人民共和国の領土を一部越えていましたが、チベットや雲南を支配することはできませんでした。7世紀後半には突厥が独立し、7世紀末にはモンゴリア東部で契丹が離反し、マンチュリアでは渤海が建国するなど、唐の領域は縮小し、8世紀半ばの安史の乱以降、唐は黄河流域と長江流域以南のみを支配する王朝となります。唐は安史の乱を境に大きく変わったわけです。本書は、安史の乱後の唐の支配領域を「中国」と呼び、これは「漢地」とも呼ばれ、「中国本土」にほぼ相当します(雲南が含まれません)。本書は、唐をユーラシアに位置づける観点から、「東アジア」ではなく「東ユーラシア」という地理的概念を用います。唐は単なる漢字文化圏の王朝ではなく、騎馬遊牧民も含めてもっと広い世界で把握しなければならない、というわけです。本書は、とくに初期において唐の遊牧社会的性格が強かったことを指摘するとともに、唐において遊牧社会的性格が弱くなっていったことを、「漢化」という言葉で安易に把握することに注意を喚起しています。本書は、唐がソグド人など多様な人々の活躍する王朝だったことを強調します。
本書は中国史の時代区分をめぐる議論にも言及していますが、中国も含めて共通の世界史の時代区分を必要とする見解に疑問を呈し、世界史を単純な3期に区分する見解を取り上げています。それによると、第1期は現代に通じる制度と文化が作られていく古典国家の形成期(紀元前4000年~紀元後3世紀前後)、第2期は騎馬遊牧民の動きが活発化するユーラシア史の形成期(4世紀~15世紀頃)、第3期は地球の一体化が進む時期(16世紀頃以降)です。かつての時代区分論争では古代か中世かが問題となった唐は、この区分では第2期に相当します。本書は、騎馬遊牧民である鮮卑が「漢人」勢力や他の騎馬遊牧民と争ったり共存したりする過程から唐は誕生した、と指摘します。
唐が建国に至った隋末の混乱について、煬帝が遊牧文化に関心をあまり有さず、北魏の孝文帝のような「漢化政策」を進めたことで疎外感を抱いた人が反乱に加わった、と指摘されています。唐の皇室の出自については日本でも関心が高いようですが、本書は、少なくとも文化面では鮮卑人だった、と指摘しています。唐の初代皇帝となった李淵(高祖)については、優柔不断な人物と伝わっていますが、本書は、これが李世民(太宗)を称揚するための誇張で、李淵の才能を軽視すべきではない、と指摘します。本書は李淵の成功要因として、王都の近くにおり、王都への経路上に有力な群雄がおらず、王都を早期に無血占領でき、突厥と和議を締結し、家柄がよく、ソグド人が協力したことを挙げています。ソグド人は玄武門の変で李世民に従い、その勝利に貢献しています。本書は玄武門の変の背景として、軍権や対突厥政策をめぐって、李世民とその兄である皇太子(李建成)や父である李淵との間に対立があったことを挙げます。
李世民が皇帝に即位して以降、臣下の諫言をよく受け入れたことについて、これまでにない類の皇帝だった、と本書は評価します。ただ本書は、李世民が「暗君煬帝」に対して自身を「明君」として演出した側面も指摘しています。それでも、李世民が当初は従属していた東突厥を滅ぼすなど、唐を安定化させた功績は否定できないようです。李世民はモンゴリアの諸勢力からテングリ=カガン(天可汗)の称号を送られています。東突厥の滅亡に伴い、120万人とも言われる遺民が唐に帰順した、とされています。唐は東突厥を滅ぼして西域に版図を拡大し、西方との交易路を掌握していきます。本書はこうして拡大した唐を、「東ユーラシア帝国」と評価しています。唐は隋の統治体制を基本的に継承し、それがほぼ完成したのは玄宗(李隆基)の頃でした。
太宗の後継者となった李治(高宗)は、前近代漢字文化圏において賞賛され模範とされてきた李世民と比較して、凡庸な君主と評価されてきたように思います。本書でも、李治は病弱で優柔不断な人物とされており、その皇后(李治の最初の皇后は名門の王氏)である武則天(則天武后)がしだいに政治の実権を掌握していった、と評価されています。武則天が権力を掌握していく過程で、北周と隋以来の中心的な政治勢力や唐建国の功臣は排除され、科挙合格者など新勢力が台頭していきます。武則天は690年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に即位し、国号を周としますが、即位後の武則天の政治は加齢(即位時にすでに60代半ば)のためかそれ以前よりも冴えなかった、と本書は評価しています。705年、すでに80代となっていた武則天は病に倒れ、政変により武則天の息子で退位させられた李顕(中宗)が復辟します。李治から武則天の時代は、突厥の再興(第二突厥帝国)や渤海の建国や新羅の攻勢やトゥプト(Tubo、吐蕃)の台頭により支配圏は縮小し、統治体制では、従来の律令体制が変容というか崩壊していき、対外的な軍事危機を現地民の徴兵で対処するなど、新たな体制が模索されます。
武則天時代末期からの中央政界の混乱を経て、712年に即位した李隆基(玄宗)が反対勢力を制圧したことで、長い政治的安定期を迎えます。この政治的闘争により、建国以来の支配集団はほぼ退き、武則天時代に政界に進出した科挙官僚が李隆基の治世を支えます。一方で、そうした新興勢力も李隆基の長い治世(唐の皇帝としては最長の44年間)において既成勢力になっていき、それに対抗する形で旧来の門閥に連なる勢力が台頭します。李隆基は、科挙官僚を重用しつつも、農民の本籍地(原住地)からの逃亡などへの対応では、実務に長けた「財務官僚」を起用していきます。従来の体制が弛緩というか変容していき、財政の立て直しが必要になったわけですが、それは軍備も同様でした。徴兵の負担の重さが農民の逃亡を促進した側面もあったため、唐は兵士に家族の帯同を許可し、期限なしで軍務に専念させるようになります。こうして誕生した60万人にもおよぶ職業兵士を指揮するために、節度使が設けられます。唐は軍備を労役(兵役)から財物による傭兵へと転換し、租税徴収の仕組みも変わっていきます。李隆基は仏教勢力が財政負担の一因になっていることから、これを弾圧・統制し、いわゆる三武一宗の法難には数えられていませんが、それに匹敵する規模だった、と本書は指摘します。なお、唐では9世紀に李炎(武宗)による廃仏がありましたが、これは三武一宗の法難でも突出して被害が大きく、また廃仏というよりは道教を除くすべての宗教の弾圧だった、と本書は指摘します。その結果、景教(東方キリスト教)と祆教(ゾロアスター教)と明教(マニ教)は「中国本土」からほぼ消滅しました。李隆基はその長い治世の後半には統治に倦んでいたようで、宦官の高力士の重用は、唐代後半に宦官が実権を掌握していく契機になりましたが、高力士自身は政治の表舞台に立ったわけではありませんでした。
長い李隆基の治世の末期の755年に起きたのが、上述のように唐にとって大きな転機となった安史の乱で、その少し前の751年に起きたタラス河畔の戦いは、ユーラシア東西の大勢力同士の激突ということで日本でも有名ですが、本書は、唐朝とアッバース朝がユーラシアの覇権をかけて戦ったわけではないようだ、と指摘します。本書は安史の乱について、唐への「反乱」というよりは、安禄山とその周囲のさまざまな集団が唐からの独立を目指していた、と指摘します。この「反乱」軍が一枚岩ではなかったことは、その多様な構成のためでもあるのでしょう。
安史の乱は763年に終結し、その前年に即位した李豫(代宗)の治世で、宦官が政治の表舞台に登場します。その嚆矢となったのが、李豫の即位に深く関わった李輔国でした。李輔国の権勢に不満を抱く李豫は李輔国を失脚させますが、今度はこれに貢献した宦官の程元振が李輔国以上の権勢を振るいます。李豫の治世は、安史の乱の終結直後にチベット帝国(トゥプト)に長安を一時的とはいえ占領されるなど、当初から苦難が続きました。安史の乱の鎮圧は、ウイグルの援助と「反乱」軍からの投降のためで、唐は降将を処罰できず、節度使に任命するくらいでした。その結果、河北の3節度使(河朔三鎮)は半独立王国のように振舞います。その他にも唐の命に従わない節度使がおり、軍閥化した地方の支配機構は藩鎮と呼ばれます。
上述のように、李隆基(玄宗)の治世には唐の租税徴収の仕組みも変わっていき、本書は、唐が「財政国家」に変容した、と評価しています。唐は人々に対して直接的に労役や兵役を課すのではなく、財源の確保を重視し、その金銭で労働者や兵士を雇う、というわけです。李豫(代宗)の治世には、華南の高級特産品を北方に輸送したり、塩を専売制にしたりすることで、軍費が賄われるようになります。李豫の次の李适(徳宗)の治世には、税目が一つにまとめられました(両税法)。両税法は課税対象者を、戸籍で把握された人々ではなく、実際に居住する土地所有者としたので、小作人など土地を所有していない人々は本籍地から自由に離れることも可能となり、社会は流動的になっていきます。こうして一時的に財政を立て直した李适は藩鎮の勢力削減に乗り出しますが、軍費が増えるばかりで藩鎮を制圧できず、「反乱軍」の大赦に追い込まれます。李适はこの一連の過程で、ますます宦官を重用するようになります。唐はこの頃には、ウイグル帝国とチベット帝国により西域の支配も完全に失います。
李适(徳宗)の後に即位し、改革に意欲的だったものの病もあって短期間で譲位した李誦(順宗)の後に、皇太子の李純が805年に即位します(憲宗)。李純は藩鎮の統制と財政改革を進め、その治世は「元和の中興」と呼ばれますが、43歳で突然崩御し、宦官による暗殺と推測されています。李純の後、唐の皇帝はほぼ宦官が擁立しており、李純の治世で進んだ藩鎮の統制も再び弛緩します。対外的には、唐は821年にチベット帝国と講和し(長慶の会盟)、これはチベット帝国の滅亡まで遵守されます。この時、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和条約が結ばれており、ユーラシア東部の三大国(唐とチベット帝国とウイグル帝国)の間の国境が定まりました。しかし、ウイグル帝国は840年、チベット帝国も842年以降に急速に衰退して滅亡し、唐も907年には滅亡します。この後、モンゴリアでもチベット高原でも、すぐに諸遊牧民を統合する勢力は現れず、ユーラシア東部は新たな時代を迎えます。上述のように、この頃に起きた廃仏(会昌の廃仏)の規模は大きく、本書はこれを、「華夷思想」による排外思想の台頭と把握し、隋から唐初の国際性や普遍性が失われていった、と指摘します。
9世紀半ばの李忱(宣宗)の治世には政治改革が進み、李忱は「小太宗」とも評価されましたが、軍費や官僚の人件費などで唐の財政状況は悪化していき、その負担が民からの過酷な収奪へとつながったことから、唐の支配は揺らいでいきます。待遇に不満を抱く藩鎮の兵士による反乱はそれ以前から珍しくありませんでしたが、この頃より民衆の抵抗運動が目立つようになります。その中で、唐に大打撃を与えたのが、874年に起きた王仙芝の乱と875年に起きた黄巣の乱でした。王仙芝は塩の闇商人で、黄巣は富裕な塩商人出身でしたが、塩の闇商売も行ない、科挙を何度か受けたものの合格できませんでした。黄巣に長安を占領された唐は、騎馬での戦いに長けているものの、唐に従ったり自立しようとしたりして去就の定まらなかった沙陀を許し、その軍隊を李克用に統率させ、李克用は黄巣を打ち破ります。この時、黄巣軍から唐に寝返った朱全忠(朱温)が李克用を殺そうとして、両者は不俱戴天の仇になり、沙陀と唐を滅ぼした朱全忠(後梁王朝)との抗争が五代十国時代初期の情勢を大きく左右しました。黄巣の乱は陳朝連れましたが、もはや唐の支配が及ぶのは関中と甘粛東部と四川と広東くらいになり、907年、唐の最後の皇帝となる李柷(哀帝)は朱全忠に譲位を迫られ、ついに唐は滅亡します。
五代十国時代の「五代」諸王朝について本書は、後梁と違って他の4王朝はすべて沙陀の出身か沙陀軍団に所属しており、沙陀化した武人だった、と指摘します。また本書は、「十国」も含めて五代十国時代の諸国の王家の出自が農民や体制外の塩の密売人などだった、と指摘します。本書は五代十国時代を、北部の沙陀系王朝と、南部の民衆や軍人から生まれた王権の二極構造として把握しています。「五代十国」には数えられていませんが、この時代に大きな役割を果たした契丹(キタイ、遼)は、「中国征服王朝」の一つとされてきましたが、近年では、「中央ユーラシア型国家」と把握すべきではないか、との見解も提示されています。「中央ユーラシア型国家」は、人口の少ない騎馬遊牧民が、その強い騎馬軍事力と交易による経済力と文書行政などにより、草原世界に立脚しつつ、人口の多い農耕世界を安定的に支配する、と定義されています。金や大元ウルスやダイチン・グルン(大清帝国)といった広く中華圏を支配下王朝のみならず、西夏やセルジューク朝なども含まれます。本書は唐の存在意義の一つとして、「中央ユーラシア型国家」の準備を挙げています。
本書はまず、現代日本社会における一般的な「中国」の範囲を取り上げます。現代日本社会においては一般的に、「中国」とは中華人民共和国の領土全域ではなく、その一部である「中国本土」を指すのではないか、というわけです。「中国本土」とは、具体的には黄河と長江の流域、東南海岸部(福建)、嶺南(広東と広西)、雲貴(雲南と貴州)で、つまりは「漢人」が「古くから」居住していたか、支配していた地理的範囲です。「漢人」の母語が「漢語」で、日本では「漢語」が「中国語」と呼ばれており、モンゴル語やウイグル語やチベット語は一般的に「中国語」には含まれていません。「中国本土」以外の中華人民共和国領は、東北部(マンチュリア)、モンゴリア南部、新疆(東トルキスタン)、チベットで、これらは「中国本土(内中国)」に対して「外中国」と呼ばれることもあります。歴代の「中華王朝」は、「中国本土」だけを統治する場合(秦や宋や明など)も、「外中国」も支配した場合(元)もあります。
唐の支配領域は、当初雲南を除く「中国本土」だけでしたが、7世紀半ば以降に西トルキスタンまで支配圏に組み込み、その領域は中華人民共和国の領土を一部越えていましたが、チベットや雲南を支配することはできませんでした。7世紀後半には突厥が独立し、7世紀末にはモンゴリア東部で契丹が離反し、マンチュリアでは渤海が建国するなど、唐の領域は縮小し、8世紀半ばの安史の乱以降、唐は黄河流域と長江流域以南のみを支配する王朝となります。唐は安史の乱を境に大きく変わったわけです。本書は、安史の乱後の唐の支配領域を「中国」と呼び、これは「漢地」とも呼ばれ、「中国本土」にほぼ相当します(雲南が含まれません)。本書は、唐をユーラシアに位置づける観点から、「東アジア」ではなく「東ユーラシア」という地理的概念を用います。唐は単なる漢字文化圏の王朝ではなく、騎馬遊牧民も含めてもっと広い世界で把握しなければならない、というわけです。本書は、とくに初期において唐の遊牧社会的性格が強かったことを指摘するとともに、唐において遊牧社会的性格が弱くなっていったことを、「漢化」という言葉で安易に把握することに注意を喚起しています。本書は、唐がソグド人など多様な人々の活躍する王朝だったことを強調します。
本書は中国史の時代区分をめぐる議論にも言及していますが、中国も含めて共通の世界史の時代区分を必要とする見解に疑問を呈し、世界史を単純な3期に区分する見解を取り上げています。それによると、第1期は現代に通じる制度と文化が作られていく古典国家の形成期(紀元前4000年~紀元後3世紀前後)、第2期は騎馬遊牧民の動きが活発化するユーラシア史の形成期(4世紀~15世紀頃)、第3期は地球の一体化が進む時期(16世紀頃以降)です。かつての時代区分論争では古代か中世かが問題となった唐は、この区分では第2期に相当します。本書は、騎馬遊牧民である鮮卑が「漢人」勢力や他の騎馬遊牧民と争ったり共存したりする過程から唐は誕生した、と指摘します。
唐が建国に至った隋末の混乱について、煬帝が遊牧文化に関心をあまり有さず、北魏の孝文帝のような「漢化政策」を進めたことで疎外感を抱いた人が反乱に加わった、と指摘されています。唐の皇室の出自については日本でも関心が高いようですが、本書は、少なくとも文化面では鮮卑人だった、と指摘しています。唐の初代皇帝となった李淵(高祖)については、優柔不断な人物と伝わっていますが、本書は、これが李世民(太宗)を称揚するための誇張で、李淵の才能を軽視すべきではない、と指摘します。本書は李淵の成功要因として、王都の近くにおり、王都への経路上に有力な群雄がおらず、王都を早期に無血占領でき、突厥と和議を締結し、家柄がよく、ソグド人が協力したことを挙げています。ソグド人は玄武門の変で李世民に従い、その勝利に貢献しています。本書は玄武門の変の背景として、軍権や対突厥政策をめぐって、李世民とその兄である皇太子(李建成)や父である李淵との間に対立があったことを挙げます。
李世民が皇帝に即位して以降、臣下の諫言をよく受け入れたことについて、これまでにない類の皇帝だった、と本書は評価します。ただ本書は、李世民が「暗君煬帝」に対して自身を「明君」として演出した側面も指摘しています。それでも、李世民が当初は従属していた東突厥を滅ぼすなど、唐を安定化させた功績は否定できないようです。李世民はモンゴリアの諸勢力からテングリ=カガン(天可汗)の称号を送られています。東突厥の滅亡に伴い、120万人とも言われる遺民が唐に帰順した、とされています。唐は東突厥を滅ぼして西域に版図を拡大し、西方との交易路を掌握していきます。本書はこうして拡大した唐を、「東ユーラシア帝国」と評価しています。唐は隋の統治体制を基本的に継承し、それがほぼ完成したのは玄宗(李隆基)の頃でした。
太宗の後継者となった李治(高宗)は、前近代漢字文化圏において賞賛され模範とされてきた李世民と比較して、凡庸な君主と評価されてきたように思います。本書でも、李治は病弱で優柔不断な人物とされており、その皇后(李治の最初の皇后は名門の王氏)である武則天(則天武后)がしだいに政治の実権を掌握していった、と評価されています。武則天が権力を掌握していく過程で、北周と隋以来の中心的な政治勢力や唐建国の功臣は排除され、科挙合格者など新勢力が台頭していきます。武則天は690年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に即位し、国号を周としますが、即位後の武則天の政治は加齢(即位時にすでに60代半ば)のためかそれ以前よりも冴えなかった、と本書は評価しています。705年、すでに80代となっていた武則天は病に倒れ、政変により武則天の息子で退位させられた李顕(中宗)が復辟します。李治から武則天の時代は、突厥の再興(第二突厥帝国)や渤海の建国や新羅の攻勢やトゥプト(Tubo、吐蕃)の台頭により支配圏は縮小し、統治体制では、従来の律令体制が変容というか崩壊していき、対外的な軍事危機を現地民の徴兵で対処するなど、新たな体制が模索されます。
武則天時代末期からの中央政界の混乱を経て、712年に即位した李隆基(玄宗)が反対勢力を制圧したことで、長い政治的安定期を迎えます。この政治的闘争により、建国以来の支配集団はほぼ退き、武則天時代に政界に進出した科挙官僚が李隆基の治世を支えます。一方で、そうした新興勢力も李隆基の長い治世(唐の皇帝としては最長の44年間)において既成勢力になっていき、それに対抗する形で旧来の門閥に連なる勢力が台頭します。李隆基は、科挙官僚を重用しつつも、農民の本籍地(原住地)からの逃亡などへの対応では、実務に長けた「財務官僚」を起用していきます。従来の体制が弛緩というか変容していき、財政の立て直しが必要になったわけですが、それは軍備も同様でした。徴兵の負担の重さが農民の逃亡を促進した側面もあったため、唐は兵士に家族の帯同を許可し、期限なしで軍務に専念させるようになります。こうして誕生した60万人にもおよぶ職業兵士を指揮するために、節度使が設けられます。唐は軍備を労役(兵役)から財物による傭兵へと転換し、租税徴収の仕組みも変わっていきます。李隆基は仏教勢力が財政負担の一因になっていることから、これを弾圧・統制し、いわゆる三武一宗の法難には数えられていませんが、それに匹敵する規模だった、と本書は指摘します。なお、唐では9世紀に李炎(武宗)による廃仏がありましたが、これは三武一宗の法難でも突出して被害が大きく、また廃仏というよりは道教を除くすべての宗教の弾圧だった、と本書は指摘します。その結果、景教(東方キリスト教)と祆教(ゾロアスター教)と明教(マニ教)は「中国本土」からほぼ消滅しました。李隆基はその長い治世の後半には統治に倦んでいたようで、宦官の高力士の重用は、唐代後半に宦官が実権を掌握していく契機になりましたが、高力士自身は政治の表舞台に立ったわけではありませんでした。
長い李隆基の治世の末期の755年に起きたのが、上述のように唐にとって大きな転機となった安史の乱で、その少し前の751年に起きたタラス河畔の戦いは、ユーラシア東西の大勢力同士の激突ということで日本でも有名ですが、本書は、唐朝とアッバース朝がユーラシアの覇権をかけて戦ったわけではないようだ、と指摘します。本書は安史の乱について、唐への「反乱」というよりは、安禄山とその周囲のさまざまな集団が唐からの独立を目指していた、と指摘します。この「反乱」軍が一枚岩ではなかったことは、その多様な構成のためでもあるのでしょう。
安史の乱は763年に終結し、その前年に即位した李豫(代宗)の治世で、宦官が政治の表舞台に登場します。その嚆矢となったのが、李豫の即位に深く関わった李輔国でした。李輔国の権勢に不満を抱く李豫は李輔国を失脚させますが、今度はこれに貢献した宦官の程元振が李輔国以上の権勢を振るいます。李豫の治世は、安史の乱の終結直後にチベット帝国(トゥプト)に長安を一時的とはいえ占領されるなど、当初から苦難が続きました。安史の乱の鎮圧は、ウイグルの援助と「反乱」軍からの投降のためで、唐は降将を処罰できず、節度使に任命するくらいでした。その結果、河北の3節度使(河朔三鎮)は半独立王国のように振舞います。その他にも唐の命に従わない節度使がおり、軍閥化した地方の支配機構は藩鎮と呼ばれます。
上述のように、李隆基(玄宗)の治世には唐の租税徴収の仕組みも変わっていき、本書は、唐が「財政国家」に変容した、と評価しています。唐は人々に対して直接的に労役や兵役を課すのではなく、財源の確保を重視し、その金銭で労働者や兵士を雇う、というわけです。李豫(代宗)の治世には、華南の高級特産品を北方に輸送したり、塩を専売制にしたりすることで、軍費が賄われるようになります。李豫の次の李适(徳宗)の治世には、税目が一つにまとめられました(両税法)。両税法は課税対象者を、戸籍で把握された人々ではなく、実際に居住する土地所有者としたので、小作人など土地を所有していない人々は本籍地から自由に離れることも可能となり、社会は流動的になっていきます。こうして一時的に財政を立て直した李适は藩鎮の勢力削減に乗り出しますが、軍費が増えるばかりで藩鎮を制圧できず、「反乱軍」の大赦に追い込まれます。李适はこの一連の過程で、ますます宦官を重用するようになります。唐はこの頃には、ウイグル帝国とチベット帝国により西域の支配も完全に失います。
李适(徳宗)の後に即位し、改革に意欲的だったものの病もあって短期間で譲位した李誦(順宗)の後に、皇太子の李純が805年に即位します(憲宗)。李純は藩鎮の統制と財政改革を進め、その治世は「元和の中興」と呼ばれますが、43歳で突然崩御し、宦官による暗殺と推測されています。李純の後、唐の皇帝はほぼ宦官が擁立しており、李純の治世で進んだ藩鎮の統制も再び弛緩します。対外的には、唐は821年にチベット帝国と講和し(長慶の会盟)、これはチベット帝国の滅亡まで遵守されます。この時、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和条約が結ばれており、ユーラシア東部の三大国(唐とチベット帝国とウイグル帝国)の間の国境が定まりました。しかし、ウイグル帝国は840年、チベット帝国も842年以降に急速に衰退して滅亡し、唐も907年には滅亡します。この後、モンゴリアでもチベット高原でも、すぐに諸遊牧民を統合する勢力は現れず、ユーラシア東部は新たな時代を迎えます。上述のように、この頃に起きた廃仏(会昌の廃仏)の規模は大きく、本書はこれを、「華夷思想」による排外思想の台頭と把握し、隋から唐初の国際性や普遍性が失われていった、と指摘します。
9世紀半ばの李忱(宣宗)の治世には政治改革が進み、李忱は「小太宗」とも評価されましたが、軍費や官僚の人件費などで唐の財政状況は悪化していき、その負担が民からの過酷な収奪へとつながったことから、唐の支配は揺らいでいきます。待遇に不満を抱く藩鎮の兵士による反乱はそれ以前から珍しくありませんでしたが、この頃より民衆の抵抗運動が目立つようになります。その中で、唐に大打撃を与えたのが、874年に起きた王仙芝の乱と875年に起きた黄巣の乱でした。王仙芝は塩の闇商人で、黄巣は富裕な塩商人出身でしたが、塩の闇商売も行ない、科挙を何度か受けたものの合格できませんでした。黄巣に長安を占領された唐は、騎馬での戦いに長けているものの、唐に従ったり自立しようとしたりして去就の定まらなかった沙陀を許し、その軍隊を李克用に統率させ、李克用は黄巣を打ち破ります。この時、黄巣軍から唐に寝返った朱全忠(朱温)が李克用を殺そうとして、両者は不俱戴天の仇になり、沙陀と唐を滅ぼした朱全忠(後梁王朝)との抗争が五代十国時代初期の情勢を大きく左右しました。黄巣の乱は陳朝連れましたが、もはや唐の支配が及ぶのは関中と甘粛東部と四川と広東くらいになり、907年、唐の最後の皇帝となる李柷(哀帝)は朱全忠に譲位を迫られ、ついに唐は滅亡します。
五代十国時代の「五代」諸王朝について本書は、後梁と違って他の4王朝はすべて沙陀の出身か沙陀軍団に所属しており、沙陀化した武人だった、と指摘します。また本書は、「十国」も含めて五代十国時代の諸国の王家の出自が農民や体制外の塩の密売人などだった、と指摘します。本書は五代十国時代を、北部の沙陀系王朝と、南部の民衆や軍人から生まれた王権の二極構造として把握しています。「五代十国」には数えられていませんが、この時代に大きな役割を果たした契丹(キタイ、遼)は、「中国征服王朝」の一つとされてきましたが、近年では、「中央ユーラシア型国家」と把握すべきではないか、との見解も提示されています。「中央ユーラシア型国家」は、人口の少ない騎馬遊牧民が、その強い騎馬軍事力と交易による経済力と文書行政などにより、草原世界に立脚しつつ、人口の多い農耕世界を安定的に支配する、と定義されています。金や大元ウルスやダイチン・グルン(大清帝国)といった広く中華圏を支配下王朝のみならず、西夏やセルジューク朝なども含まれます。本書は唐の存在意義の一つとして、「中央ユーラシア型国家」の準備を挙げています。
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