前近代スワヒリ海岸の人々の遺伝的起源

 前近代スワヒリ海岸の人々のゲノムデータを報告した研究(Brielle et al., 2023)が公表されました。アフリカ、とくにサハラ砂漠以南は、その高温環境のため古代DNA研究に適しておらず、世界では古代DNA研究が遅れた地域と言えるでしょう(関連記事)。本論文は、前近代(1250~1800年頃)のスワヒリ海岸の都市部の人類遺骸から、合計80個体のゲノムデータを報告しています。これは画期的成果で、今後は、アフリカに限らず多くの地域で、これまで先史時代と比較して遅れていた歴史時代についても古代ゲノム研究が進展するのではないか、と期待されます。


●要約

 スワヒリ海岸の都市部の人々は、アフリカ東部およびインド洋にわたって交易を行なっていた、サハラ砂漠以南のアフリカ人としては最初期のイスラム教徒でした。アフリカ人と非アフリカ人の間のこうした初期の交流に、遺伝的交換がどの程度伴っていたのか、まだ明らかになっていません。本論文は、中世および近世(1250~1800年頃)の沿岸部の6ヶ所の町と、1650年以後の内陸部の1ヶ所の町に由来する、80個体の古代DNAデータを報告します。

 沿岸部の町の人々の多くは、DNAの過半がおもにアフリカ起源の女性祖先に由来しており、アジア系祖先に由来する割合も大きく、場合によっては半分を超えていました。アジア祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)には、ペルシアおよびインドに関連する構成要素が含まれ、アジア系DNAの80~90%はペルシア人男性に由来していました。アフリカ起源の人々とアジア起源の人々の間では1000年頃までに混合が始まっており、これはイスラム教の大規模な受容と同時期でした。

 1500年頃の前には、アジア南西部祖先系統はおもにペルシア関連で、これはスワヒリ海岸の人々によって語り継がれてきた最古の歴史「キルワ年代記(Kilwa Chronicle)」の物語と一致します。この時代以後、DNAの供給源はしだいにアラビア系構成要素が多くなり、これはアラビア半島南部との交流増加を示す証拠と一致します。その後のアジア人とアフリカ人との相互作用はさらに、スワヒリ海岸の現在の人々の祖先系統は、この研究でDNAが配列決定された中世の個体群と比較して、さらに変わりました。


●研究史

 7世紀以降のアフリカ東部の中世および近世のスワヒリ文化は、アフリカ起源の共通言語(スワヒリ語)、共通の主要な宗教(イスラム教)、沿岸部の町や村における地理的分布といった、共有された一連の特徴により定義されました。スワヒリ文化の人々は、モザンビーク北部やソマリア南部やマダガスカル、およびコモロ(Comoros)やキルワ(Kilwa)やマフィア(Mafia)やザンジバル(Zanzibar)やラム(Lamu)といった群島を含む広大な沿岸地域(図1aの黄色の線)に暮らしていました。何百万もの人々がスワヒリ人と認識していますが、その多くにとってこれは第二の自己認識で、主要な自己認識は出身の町や家族史や伝統的な社会的地位に基づくことが多くなっています。現在スワヒリ人と認識している人々が中世および近世のスワヒリ文化の人々とどのように関連しているのかは、古代DNAの欠如により解明困難でした。以下は本論文の図1です。
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 スワヒリ国としていられる中世の大規模な自治町と政体は、千年紀後半にアフリカ東部沿岸の漁業と農牧の居住地から生じました。沿岸の千年紀の遺跡群は7世紀に始まり、アフリカ東部地域全体にわたる共有された物質文化と慣行網の一部でした。これらの遺跡は、商船がインドもしくはアラビア半島からアフリカ東部沿岸へと移動することを可能とする、5月から10月にかけての南西の季節風と、同年に11月から3月にかけてその逆方向の移動を可能とする北東の季節風により促進された、インド洋交易体系に関わっていました。

 ムスリムは8世紀以降、おそらくは少数派として存在していました。大きな考古学的変化は11世紀において明らかで、新たな集落の確立と、サンゴで作られたモスクや墓のあるより古い集落の精緻化が伴い、イスラム教の広範な採用と一致すると、一般期に理解されている一連の変化です。この時点で、物質文化の多くの側面が内陸部アフリカ集団と深くつながったままだとしても、沿岸部の土器および物質伝統と、内陸部のそれとの間により明確な区分も現れました。

 スワヒリ人の町の政治的および行政的独立性は、インド洋におけるポルトガルの海軍と経済的支配が拡大するにつれて、16世紀に低下しました。18世紀初頭には、ポルトガルの影響力は弱まり、おマートそとの後にはザンジバルのスルタン国家が優勢になりました。19世紀には、奴隷化された人々を含む海外交易の成長が、アフリカ中央部地域からの大規模な人口移動と、ハドラマウト(Hadramawt、アラビア半島南端)のイエメン地域からの入植者がもたらされました。19世紀半ばには、イギリスと他のヨーロッパ列強が支配的になり、ヨーロッパ人の入植、アジア南部からの労働者の到来、さらには沿岸部ではないアフリカ東部の人々との相互作用がもたらされました。

 この多層的な歴史に照らすと、現在スワヒリ人と認識している人々が、中世の交易町を建設した人々と遺伝的にどの程度関連しているのか不明で、中世集団とそれ以前の集団との関係も同様です。インド洋交易網の一部として維持された大陸間のつながりは、外来者が一貫して海岸沿いに存在しましたが、そうした外来者がアフリカの住民とどの程度家族を持ったのかは、長く議論されてきました。

 スワヒリの伝統から、外来者は重要な影響力を有していた、と示唆されます。一連の一般的な口述史は、沿岸部の町の創始を、ペルシアの一地域として呼ばれている、シーラーズィー(Shirazi)として知られる集団の到来と関連付けます。このシーラーズィー伝統は、16世紀にキルワ年代記に書き記されました。シーラーズィーの起源に関するこれらの説明は、20世紀半ばの植民地主義者の考古学者により構築された物語の中心で、そうした考古学者は二千年紀の沿岸部アフリカ東部の遺跡群を、ペルシアとアラブの入植者により建てられた、と解釈し、より広範なインド洋世界とのつながりに焦点を当てました。しかし、外来起源の物語は、誤解を招く可能性があります。それは、スワヒリ社会の「エリート」が、外来起源を主張し、アフリカ内の文化的つながりを却下して、その社会的地位を確立し、宗教的および文化的類似性を示そうとしたからです。

 最近の研究では、植民地時代の考古学は深いアフリカ起源の証拠を無視する傾向にあり、考古学的記録の均衡のとれた全体像を提供するのではなく、中世スワヒリにおける外来物を強調した、と示されてきました。ほとんどの沿岸部世紀における輸入品は、通常すべての物の5%未満です。物質文化の他の側面も、それ以前の集落との連続性を示しており、その中には作物や家畜化された動物や工芸様式や土器の持続性が含まれます。言語学的証拠はアフリカ起源の追加の証拠を提供し、スワヒリ語はアジアからの借用語のあるアフリカのバントゥー諸語言語です。しかし、古代DNAの証拠なしには、遺伝的祖先系統が経時的にどのように変化したのか、という問題に直接的には対処できません。

 この研究は、6ヶ所の沿岸部もしくは島の町で見つかった個体群の骨格遺骸から古代DNAを生成しました。その6ヶ所の町とは、ムトワッパ(Mtwapa)とマンダ(Manda)とファザ(Faza)とキルワ(Kilwa)とソンゴ・ムナラ(Songo Mnara)とリンディ(Lindi)です。これらの個体の年代は1250~1800年ですが、10世紀以降の遺伝的事象への洞察を提供します。ケニア南部沿岸から内陸へ約100kmに位置し、沿岸部集団と文化期接触のあった人々が居住していた、マクワジニー(Makwasinyi)遺跡(1650年頃以後)で見つかった個体群の遺骸からも古代DNAが生成されました。古代の個体群から新たに報告されたデータは、現在の沿岸部スワヒリ語話者、および多様な過去と現在のアフリカおよびユーラシア集団の以前に刊行されたデータと比較されました。


●データセット概要

 156点の異なる骨格標本から、179点の古代DNAライブラリが生成されました。対象となる約120万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式に溶液内濃縮が適用され、異なる80個体から古代DNAの信頼性の標準測定に合格したゲノム規模データが得られました。この80個体はアフリカ東部で二千年紀に埋葬されました(図1aの黒印)。33点の骨格で直接的な放射性炭素年代が得られ、他の個体については、考古学的文脈もしくは直接的に年代測定された個体との親族関係の遺伝学的証拠に基づいて、年代の範囲が推定されました。海産物への依存のため、食物連鎖に入った古い炭素(海洋リザーバー効果)は、一部の個体の放射性炭素年代が実際の年代より古いことを意味するかもしれません。さらに、遺跡群全体の海洋食物への依存の違いは、沿岸部個体群と遺跡群の年代が完全な信頼性で決定できないことを意味しているかもしれません。スワヒリ人と認識している現代人93個体からアフィメトリクス社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)SNP配列で新たなゲノム規模データが生成され、沿岸部の町の多くの世代でその祖先が暮らしていた、と示唆されました。最後に、マダガスカルの19個体とアラブ首長国連邦の10個体の新たなゲノム規模データが生成されました。

 これらの遺跡のうち3ヶ所は北部沿岸部の町で、つまり、ムトワッパ(48個体、1250~1650年頃)とパテ島(Pate Island)のファザ(1個体)とマンダ島(8個体、1450~1650年頃)です。追加の3ヶ所の遺跡は南部沿岸部の町で、つまり、ソンゴ・ムナラ(7個体、1300~1800年頃)とリンディ(1個体、1500~1650年頃)とキルワ・キシワニ(Kilwa Kisiwani、2個体、1300~1600年頃)です。ムトワッパとマンダとソンゴ・ムナラの遺骸は、おもにエリートのムスリムの埋葬に由来し、多くの場合モスクの近くに位置します。ファザとキルワとリンディの埋葬については、同じパターンに従っているのかどうか、知るのに充分な文脈がありません。現在のケニア沿岸から約100km内陸に位置する、マクワジニーの13個体(1650~1950年頃)も分析されました。これらの埋葬は沿岸部の遺跡よりも年代が後になりますが、マクワジニー共同体はほとんどの点で孤立したままでありながら沿岸部の人々と交易していました。マクワジニーの人々は、それ以前の数世紀においてスワヒリ補器部の中世の町の人火と接触した可能性がある、内陸部アフリカ人集団を表す適切な代理かもしれない、と本論文では仮定されました。

 本論文で報告される80個体のうち、ゲノム規模分析では26個体が除外されますが、そのデータは依然として貴重です。これらのうち、18個体は高解像度の全ゲノム分析にはSNPが少なすぎたものの、確実に決定されたミトコンドリア配列など有益なデータをもたらし、5個体はより高品質のデータのあるデータセットにおける他の個体の1親等あるいは恐らく2親等の親族で、2個体は汚染の証拠を示し、1個体は限定的なデータでは人口集団の遺伝的外れ値で、汚染の可能性が高まりました。

 アフリカ東部沿岸の4個体の古代DNAデータが以前に刊行されましたが(関連記事)、スワヒリ人の町の個体は刊行されていませんでした。遺骸がタンザニア北東部のペンバ島(Pemba Island)のマカンガレ洞窟(Makangale Cave)1400年頃の1個体は、アフリカ西部集団とおもに関連する祖先系統を有しており、この祖先系統は現在、バントゥー諸語話者集団において一般的で、アフリカ東部において優勢であり、以後本論文では「バントゥー関連」と呼ばれます。600年頃と年代測定されたペンバ島のマカンガレ洞窟の別の1個体と、タンザニア東部のザンジバル島のクームビ洞窟(Kuumbi Cave)の600年前頃の1個体と、ケニアのパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)の1500年頃の1個体はすべて、おもにサハラ砂漠以南のアフリカ採食民関連祖先系統(関連記事)を有していました。これらの個体のどれでも、過去2000年間の異臭に由来するユーラシア祖先系統の兆候はなく、本論文で新たに報告された中世の沿岸部の町のほぼ全ての個体とは異なります。

 本論文では、「アフリカ祖先系統」は、紀元前2000~紀元後100年頃の刊行された古代DNAデータがあるサハラ砂漠以南のアフリカ人により遺伝的に適切な代理となるかもしれない人々に由来するDNAを指すのに用いられます。「ユーラシア」と「ペルシア」と「アラビア」と「インド」という用語は、これらの地域の現代の人口集団により代理となるかもしれず、紀元前2000~紀元後1000年頃のサハラ砂漠以南のアフリカにおける祖先系統と類似していると知られていない祖先系統を指すのに用いられます。紀元前2000~紀元後1000年頃のアフリカ人の祖先の一部が、たとえばアフリカ東部の牧畜新石器時代文化の人々の祖先系統の約40%など、ユーラシアに由来するかもしれない、という証拠(関連記事)は、これらの定義と矛盾しません。それは、全てのヒトが歴史の複数の時間深度で混合しているからです。供給源人口集団の時間と地理両方を明示する限り、「アフリカ祖先系統」という用語を正確に使用できます。


●遺伝的類似性

 古代の個体群における祖先系統の供給源の定性的な全体像を得るため、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行されました(図1b)。ユーラシアとアフリカの現代人1286個体が用いられ、軸が計算されました。新たに報告された古代の個体群をこのPCAに投影すると、この新たな古代の個体群は勾配を形成し、その一端は古代および現在のアフリカ人集団と重なり、もう一旦は現在のペルシア人とインド人の間に収まる、と分かりました。これは勾配の一方の端における供給源人口集団のさまざまな割合の混合を示唆しており、これらの供給源は複数のより深い祖先系統構成要素を有しているかもしれません。一部の沿岸部個体、とくにソンゴ・ムナラとリンディはこの勾配に収まらず、追加の複雑さが示唆されますが、この変動を理解する本論文の能力は、小さな標本規模により制約されています。類似のパターンはADMIXTUREを用いての教師なしクラスタ化(まとまり)でも証明され、サハラ砂漠以南のアフリカ人関連構成要素、アジア南西部関連構成要素、アジア東部もしくはインド関連構成要素がさらに示唆されます(図1c)。


●アフリカ人とペルシア人とインド人のDNAの割合

 qpAdmを用いると、ほとんどの中世および近世の個体は、アフリカの古代人とイランおよびインドの現在の人口集団を代理とできる少なくとも3祖先系統構成要素でのみ適合できる、と分かりました(図2a)。そうした3供給源モデルは、ムトワッパとファザの48個体(適合のP値は0.23)、マンダ個体群(適合のP値は0.28)、ソンゴ・ムナラの少なくとも1個体(I19550、適合のP値は0.38)に適合します。キルワの1個体(I8816)は内陸部のサハラ砂漠以南のアフリカ人と関連する祖先系統の輪リアが比較的高いので、最小の寄与物であるインド人の割合は、明確な検出の閾値を下回ります(2供給源モデルの適合のP値は0.27)。以下は本論文の図2です。
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 この種のアフリカ祖先系統は、本論文で調べられた地域のうち北方(ムトワッパとファザとマンダ)と南方(キルワとソンゴ・ムナラ)の個体群の間で、モデルが異なって適合しなければなりません。ケニアでは、最適なアフリカ人供給源は、約80%のバントゥー関連祖先系統と約20%の古代アフリカ東部牧畜新石器時代祖先系統の混合として適切にモデル化される(関連記事)、マクワジニー個体群です(図3a)。タンザニアでは、最適なアフリカ人の代理供給源は牧畜新石器時代の寄与の証拠がないバントゥー関連です。リンディで1600年頃に埋葬された1個体が、キルワの1個体とソンゴ・ムナラの1個体(I19550)のバントゥー関連供給源として用いられました。以下は本論文の図3です。
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 データを適合させるには3大陸供給源が必要ですが、マンダとファザとムトワッパの個体群はPCAでは勾配を形成し、2つの代理供給源人口集団を示唆します(図2b)。線形回帰を用いて、これら2供給源の祖先系統が外挿法で推定され、一方は100%アフリカ起源と一致した、と推測されました。同じ分析では、もう一方の供給源はペルシアとインド両方の祖先系統を有している、と結論づけられます。これは、サハラ砂漠以南のアフリカ人がペルシアおよびインド祖先系統構成要素の混合をすでに有していた集団と混合していたことと一致します。南北の個体群について2つの異なるアフリカ人供給源を考えると、少なくとも2つ、恐らくはそれ以上の混合事象があったに違いありません。これは、混合したペルシアおよびインド祖先系統の人々が海岸沿いのさまざまな場所でさまざまな在来のアフリカ人口集団と子供を儲けたならば、予測されるでしょう。

 ムトワッパとファザとマンダとキルワとソンゴ・ムナラの個体群を別々に分析すると、インドに由来するユーラシア祖先系統の推定割合が重複し、全ての遺跡について、混合したインドとペルシアの祖先系統の均質な1供給源人口集団と一致する可能性があるでしょう(図2c)。しかし、初期移民における変動的な割合を除外できないので、ペルシアおよびインドからの移民の2つもしくはそれ以上の波というシナリオを区別できません。インド祖先系統を検出する本論文の統計的能力は、複数個体からのデータ蓄積に依存しています。限られたデータもしくは低い割合のユーラシア祖先系統の個体が多く、たとえばキルワの個体I8816については、インド祖先系統を検出する能力がほとんどなく、確実には記載できません。


●ペルシアからの男性とアフリカからの女性

 男女の祖先が、北部沿岸遺跡群とキルワの古代の個体群に、アフリカおよびペルシアおよびインド的祖先系統を同じ割合で寄与したのかどうか、検証されました(表1)。この分析を実行するため、1~22番染色体とX染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は男女により異なる方法でその後の世代に継承される、という事実が用いられました。ソンゴ・ムナラでは、高品質の個体群が3方向モデルと適合しないので、同じ分析が実行できませんでした。

 まず、mtDNAが分析されました。確実にmtDNAハプログループ(mtHg)が決定された62個体(親族や低網羅率のゲノム規模データの個体が含まれます)の分析では、59個体が現在ではほぼ完全にサハラ砂漠以南のアフリカ人に限定されているmtHg-L*を有している、と分かりました。例外はmtHgが現在ではほぼアジア南部に限定されているM30d1であるムトワッパの1親等もしくは2親等の親族の1組と、現在ではサウジアラビアおよびアフリカの角で特徴的なmtHg-R0+16189の1個体です。これらの結果は、アフリカ人供給源に圧倒的に由来する女性祖先系統と一致します。

 男系で伝わるY染色体DNAの分析では、マンダの1親等ではない親族関係の男性3個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、そのうち2個体がJ2で、残りの1個体はG2と分かりました。YHg-J2とG2は両方、アジア南西部(おそらくはペルシア)に特徴的で、サハラ砂漠以南のアフリカ人ではほぼ存在しません。キルワの1個体もYHg-J2です。ムトワッパの男性19個体のうち14個体はYHg-J、2個体はYHg-R1aで、これらは全て、通常は非アフリカ系と考えられています。ムトワッパの男性19個体のうち3個体だけが、ファザの男性とともに、サハラ砂漠以南のアフリカに特徴的なYHg-E1です。

 次に、女性では2コピー、男性では1コピーとなるので、等しく男女の歴史を反映する常染色体(1~22番)に対して、ほぼ女性の歴史を反映しているX染色体が比較されました。アフリカ人祖先系統のX染色体は全ての部位でX染色体よりも有意に割合が高く、アフリカ祖先系統はおもに女性に由来し、ペルシア祖先系統はおもに男性に由来する、という独立した一連の証拠を提供します(表1)。混合がわずか数世代前に起きたと仮定すると、女性からのアフリカ祖先系統の割合の定量的推定値が得られ、マンダでは100%、ムトワッパおよびファザでは69~97%、キルワでは69~100%です。男性からのペルシア祖先系統は、ムトワッパおよびファザでは100%、キルワでは90~100%と推定されます。混合がより多くの世代で起きたならば、点推定値を得られませんが、それにも関わらず、おもにアフリカ人の女性とペルシア人の男性の供給源を推測できます。

 まとめると、これら複数の一連の証拠から、ムトワッパおよびファザとマンダとキルワの個体群のアジア南西部の祖先がほぼ完全に男性だったのに対して、アフリカ人の祖先はほぼ完全に女性だった、と示されます。


●1000年頃までに始まった混合

 世代ごとに既知の割合で分裂する、祖先人口集団から継承した祖先系統の一続きの規模に基づいて、混合がいつ起きたのか推測されました。北部のムトワッパとファザとマンダの個体群については795~1085年頃、南部のキルワとソンゴ・ムナラのI19550といった個体群については708~1219年頃の推定年代が、95%信頼区間で計算されました。不確実性区間は795~1085年頃まで重なっています。海洋リザーバー効果があったならば、これらの推定値は偏っており古すぎることになるでしょう。推定された年代は、混合が全て1回で起きた、との仮定も反映しています。しかし、ユーラシア人とアフリカ人の混合は、確実に何世代にもわたって起きており、じっさい、歴史的証拠とし本論文の遺伝学的分析は、現在までの内陸部アフリカおよびユーラシア両方からの移民の継続的な組み込みを記載します。しかし、模擬授業から、混合は推定された年代までに始まったに違いない、と示されるので、インドおよびペルシア祖先系統とすでに混合した男性が1000年頃までに海岸沿いに存在し、その時までにおもに女性のサハラ砂漠以南のアフリカ人と混合を始めた、と確信できます。


●アラブ人と他の移住の影響

 分析されたほぼ全ての沿岸部の個体はアジア祖先系統を有していましたが、例外もありました。リンディとソンゴ・ムナラの一部の近世の個体は最近のアジア祖先系統の証拠を示しません(個体I14001とI7944)。ソンゴ・ムナラの個体(I19547)では、マダガスカル関連祖先系統の可能性が見つかりました。類似の年代もしくは地域の他の個体と異なる縁談部個体群の発見は、インド洋交易網における継続的な交流を証明しますが、本論文の標本規模は一般的なパターンを特定するには小さすぎます。

 アジア祖先系統を有する本論文の個体の一部(マンダやキルワやソンゴ・ムナラのI19550個体)については、ペルシアもしくはペルシア・インド祖先系統の証拠がありません。しかし、他の個体、とくにムトワッパの個体については、他のムトワッパもしくはマンダ個体群を供給源として用いると、一部のアラビア関連祖先系統を有する供給源でのみモデル化できます。本論文は、アラブ関連祖先系統の正確な供給源を決定できませんでした。しかし、アラブ人とペルシア人との間の遺伝的勾配のどこかにある、と分かっています。ムトワッパにおけるこのアラブ関連祖先系統に適合する代理供給源は、アラビア半島をイランと分離するホルムズ海峡の沿岸にすむ現代人です。ホルムズ海峡とスワヒリ海岸は、17世紀末までにオマーンの支配下に置かれました。

 アラブ人関連の移住の直接的な遺伝学的証拠は、ソンゴ・ムナラの2個体に由来します。この2個体はともに近世と年代測定されており、近世にはアラビア半島との接触がよく記録されており、この2個体はqpAdmではアラブ関連祖先系統でのみモデル化できます(図2a)。現在の沿岸部人口集団の分析も、アラブ人からの遺伝的影響を示します。一部の個体のアジア祖先系統は中世のマンダのようにペルシアおよびインドとして完全にモデル化でき、他の個体については、ホルムズ海峡由来の祖先系統がより適しています。


●中世スワヒリ人と現代スワヒリ人の関係

 スワヒリ人と認識している現代人の2集団について、ゲノム規模データが収集され、89個体は以前に報告されたデータで、93個体は本論文で新たに生成されたデータです。以前に刊行されたデータセットの個体のうちほとんど(89個体のうち87個体)は、本論文で近隣の沿岸部地域から標本抽出された、中世の人々と類似した祖先系統を有する人々から少しばかり継承しただけでした。11±4%が中世スワヒリ人関連祖先系統、84±3%がバントゥー関連祖先系統、6±3%が牧畜鉄器時代関連祖先系統(関連記事)と推定されます。

 これらのパターンはYHgに反映されており、95%は通常アフリカ系ですが、ほぼ全てのYHgが近東の人々と関連する中世沿岸部個体群とは対照的です(表1および表2)。しかし、新たに生成されたデータは、中世集団と類似した集団からの祖先系統の推定割合がずっと高いことを示しており、中世スワヒリ人関連祖先系統との範囲は、46~77%です(供給源としてマンダとムトワッパのどちらの個体群を使用するかで変わってきます)。新たなデータのYHgも、中世の人々からのより大きな寄与と一致します。アフリカ関連のYHgの頻度は45%で、中世個体群の17%よりもずっと高いものの、以前に刊行されて研究で推定された95%より低くなります。

 スワヒリ人と認識している現在の個体群における祖先系統の割合の違いは、推定方法の違いを反映しているかもしれません。以前に刊行されたデータセットは、ケニアのキリフィ(Kilifi)とラム(Lamu)とモンバサ(Mombasa)を含んでおり、その人々の家族は過去3世代にわたってスワヒリ語を話していた、と示唆されました。新たに刊行されたデータセットはケニア沿岸の13ヶ所の人々を含んでおり、その祖先は沿岸部の町に暮らしており、何世代にもわたってスワヒリ人としての自己認識を持っており、中世沿岸部個体群からより多くの祖先系統を保持していた可能性が高い、より伝統的な上流階級のスワヒリ人が濃縮されていた、と示唆されます。より大きな中世沿岸部祖先系統は、孤立も反映しているかもしれません。本土から新たに刊行されたデータセットでは、ジョムヴ・クー(Jomvu Kuu)遺跡の個体群は他の遺跡の個体群よりも中世沿岸部祖先系統は、が顕著に少なく、その個体は全て、内陸集団との混合からより孤立していた可能性が高そうな島から得られました。アフリカ人とペルシア人の遺伝的断片の長さが用いられ、1096~1410年頃の新たに刊行された個体群における混合年代が推定されました。これらのデータは中世沿岸部標本よりも新しく、中世以来のアフリカもしくはアジアの人口集団との継続的な混合と一致します。


●内陸部の人々には最近のアジア祖先系統がありません

 マクワジニー個体群は過去3世紀と年代測定され、最も近い人口密集地から50km近く離れたツァボ(Tsavo)地域の奥深くに由来します。マクワジニー集団は、ムトワッパとファザとマンダの個体群のqpAdmモデル化では、アフリカ祖先系統の代理供給源として適合しますが、これらの個体群とは異なり、qpAdmではマクワジニー集団における最近のアジア祖先系統の証拠が見つからず、現在の非沿岸部人口集団と類似しています。じっさいマクワジニー個体群は、以前に報告されたデータセットにおいて、スワヒリ人と自己認識している現代の個体群と祖先系統では類似しています。マクワジニー個体群は21.3±1.2%の牧畜新石器時代関連祖先系統(紀元前3000年頃以後の存在した牧畜民に由来します)と78.7±1.2%のバントゥー関連祖先系統(紀元前1000年頃以後に存在した農耕民に由来します)として、適切にモデル化されます。この人口集団の形成における性別の偏りは検出されませんでした。バントゥー関連祖先系統と牧畜新石器時代関連祖先系統の混合の平均年代は紀元後300~1200年頃で、この範囲のほとんどは、この地域へのバントゥーン育大の影響の考古学的証拠と一致します。


●考察

 この研究の重要な調査結果は、アフリカの人々とペルシア祖先系統との間の1000年頃の混合の証拠です(図3)。これは、スワヒリ海岸へのペルシア人の到来、およびペルシア人と沿岸部の住民との間の相互作用を記載するキルワ年代記と一致します。この歴史が実際の航海に基づいているか否かに関わらず、古代DNAは圧倒的に男性に由来し、1000年頃までにはアフリカ東部沿岸に到来したペルシア関連祖先系統の直接的証拠を提供します。この時期は、イスラム教の広範な採用を含む、沿岸部でのかなりの文化的変容の考古学的証拠と一致します。キルワでは、硬貨の証拠が、アリ・ビン・アル=ハサーン(Ali bin al-Hasan)のシーラーズィー(ペルシア)王朝と関連する支配者を11世紀半ばに位置づけました。遺伝学的証拠から、この到来には1000年頃までに始まり、その後も継続した混合が伴っていた、と示唆されます。アフリカとアジアの両祖先系統の人々が主要な寄与をしており、アフリカ系の割合は平均して、ムトワッパとファザでは57%、マンダでは32%、ソンゴ・ムナラでは67%、キルワでは74%です。

 考古学的証拠は、本論文の遺伝学的調査結果に重要な背景を提供します。本論文で分析された個体群は、13~18世紀に生きており、ほぼエリートの状況から発掘されました。しかし、混合が起きた1000年頃の沿岸部遺跡群は、明確な社会的エリートの証拠をほとんど示しませんでした。本論文で標本抽出された遺跡のうち3ヶ所(ムトワッパとソンゴ・ムナラとファザ)は、1000年頃には町として存在していなかったので、これらの混合人口集団はその後にこれらの町へと移動しました。したがって、ムトワッパのエリート住民と他の遺跡の住民は混合人口集団から発展し、外来の移民もしくは入植者ではありませんでした。

 言語学的証拠は、さらなる背景を提供します。スワヒリ語はバントゥー諸語で、中世のスワヒリ人のほとんどの祖先系統はアフリカ人に由来するので、本論文の結果から、アジア起源の移民男性の子供が母親の言語を作用した、と示唆され、これは母方居住文化では一般的パターンです。しかし、スワヒリ人は非アフリカ人からの影響も更けており、インド洋周辺の社会との1500年にわたる強い相互作用を反映しています。ペルシアからの借用語はスワヒリ語の最大3%に寄与していますが、そうした借用語が直接的にペルシア語に由来するのか、他のインド洋の諸言語への採用を通じてなのか、不明です。アラビア語からの借用語は、スワヒリ語において最大の非バントゥー諸語要素で、おもに1500年頃以後の取り込みに起因するかもしれません。

 本論文の調査結果の繰り返しの主題は、人口集団の混合事象における男女の異なる参加です。スワヒリ海岸の中世の人々の系統における、おもに女性のアフリカ人と混合したおもに男性のアジア南西部人の祖先の証拠と、程度はずっと低いものの、女性のインド人祖先が見つかりました。これは、文化的接触が起きた場合の集団間における非対称的な社会的相互作用についての証拠を提供しますが、そうした遺伝的データはこれらのパターンに寄与する過程を明らかにできません。

 本論文は、中世沿岸部文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】と関連する時間と場所の部分集合のみからり情報を提供しており、これらの偏りを認識することが重要です。地理的範囲はケニアに偏っており、ソンゴ・ムナラやキルワやリンディのようなタンザニアの遺跡の個体群は、ケニアの祖先系統特性の類似性と違いの識別には充分ですが、一般的パターンの定義には不充分です。さらに、本論文で分析された個体群は、スワヒリ社会におけるすべての社会および経済的集団完全には表していません。本論文における沿岸部の墓のほぼ全ては、中世および近世の町並みにおいて顕著な位置を示していました。

 キルワとリンディとファザは例外かもしれませんが、本論文は注目されている沿岸部の遺跡のエリート個体群を分析しました。しかし、スワヒリ文化は多くの非エリート入植を含んでおり、その祖先系統は体系的に異なっていたかもしれません。スワヒリ人との自己認識を判断するため、さまざまな戦略でスワヒリ人と自己認識する現在の人々の2点の標本抽出から得られたデータの本論文の分析も、祖先系統パターンにおける定性的な違いを特定し、スワヒリ人と自己認識している集団がどのように高い下部構造と差異を現在保持しているのか、明らかにします。

 これらの調査結果は、古代DNAの将来の研究にとって複数の方向性を浮き彫りにします。一つの手法は、本論文が1000年頃に起きたと示した主要な人口集団の混合の前後を含む、12世紀以前の個体群を調べることです。別の手法は、現在の国名ではソマリやモザンビークやコモロ諸島やマダガスカルを含む、スワヒリ世界の標本抽出されていない地域の個体群を調べることです。しかし、本論文で提示された結果は、千年以上にわたるアフリカ東部沿岸での継続的混合の明白な証拠を提供し、その混合では、アフリカ人はアフリカの他地域やインド洋世界からの移民と相互作用し、家族を持ちました。アフリカ東部沿岸の祖先系統の物語には複雑な歴史があり、長期にわたる性別が偏った混合の遺伝学的調査結果は、この複雑性を増やします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:中世のスワヒリ海岸の人々におけるアフリカ系とアジア系の遺伝的起源の絡み合い

Cover Story:スワヒリ人の祖先:中世のDNAによって明らかになったアフリカ東部沿岸におけるアフリカ人とアジア人の交わり

 アフリカ東部のスワヒリ海岸に住んでいた中世の人々は、サハラ以南で初めてイスラム教徒となった。今回D ReichとC Kusimbaたちは、中世および近代(1250〜1800年)のスワヒリ海岸沿いの石造りの6都市に埋葬されていた人々など、計80人から得られたDNAの塩基配列を解読した。分析によって、1000年以前に東アフリカ沿岸部に沿って、アフリカ人女性とアジア人男性の間で混血が始まり、最初期のアジア人移住者の大半がペルシア系であったことを明らかにしている。こうした知見は、スワヒリ海岸の人々によって語り継がれてきた最古の物語である「キルワ年代記」とも一致する。最初期のアジア人移住者の祖先系統は、約10分の1がインド起源であった。表紙は、1896年に撮影されたザンジバルのスワヒリ人女性の写真を基に作成したものである。衣服の織物パターンは、DNA、中世の通商を示すダウ船、文化的影響を示すイスラムのシンボルなど、今回の論文の主題を反映するように描き直されている。


古代ゲノミクス:中世スワヒリ人の祖先には複数の系統が存在していた

 中世のスワヒリ人は、アフリカ系とアジア系の祖先を持つ人々によって構成されていたことが、古代DNA研究によって明らかになった。この知見は、この地域の現在の文化の状況と対応しており、東アフリカの沿岸部では民族の混合が1000年以上にわたって続いてきたことを示唆している。今回の研究を報告する論文が、今週のNatureに掲載される。

 東アフリカ沿岸部のスワヒリ文化は、アフリカ文化とアジア文化の特徴を併せ持っている。話し言葉であるスワヒリ語はアフリカ起源であるが、大部分の住民が信仰しているのはアジア由来のイスラム教だ。西暦900年の時点で、この地域にアフリカ人以外の人々が到来しており、インド洋を横断する交易ルートが確立されていたが、こうした初期の人々がどの程度混合していたのかは明らかでない。

 今回、David Reichたちは、中世から近代初期までの間にスワヒリ人が居住していた6つの沿岸部の町(西暦1250年~1800年)と内陸部の町(西暦1650年以降)で収集した合計80人のDNAの配列解読を行った。これら80件のデータセットのうち、54件がさらなる解析に使用された。その結果、中世のスワヒリ人において、アフリカ系とアフリカ系以外の祖先を持つ人々が大きな割合を占め、アフリカ系以外の祖先は主にペルシャ人の男性だったのに対して、アフリカ系の祖先は主に女性で、インドからの遺伝的寄与もわずかに認められた。

 今回の発見は、東アフリカでは、少なくとも1000年前に沿岸部の複数の地域でアジア人とアフリカ人が混合を始めたことを示唆している。このことは、スワヒリ海岸の人々が伝承する最古の歴史である「キルワ年代記」の内容とも一致する。こうした相互作用の状況は定かでないが、当時の東アフリカの人々は母系社会を形成していた。



参考文献:
Brielle ES. et al.(2023): Entwined African and Asian genetic roots of medieval peoples of the Swahili coast. Nature, 615, 7954, 866–873.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05754-w

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