匈奴の人口構造
匈奴(Xiongnu)西部辺境地の墓地で発見された個体のゲノムデータを報告した研究(Lee et al., 2023)が公表されました。匈奴などユーラシア内陸部の遊牧民勢力についても、近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、たとえばアヴァールについて、社会的地位による遺伝的構成要素の違いがあり、支配層において200年間ほど起源地のユーラシア東部に由来する遺伝的構成要素の割合が高かった、と推測されています(関連記事)。遊牧民勢力はユーラシアでも比較的高緯度を主要な拠点としており、DNAの保存には比較的適していると考えられるので、遊牧民勢力の古代ゲノム研究が今後ますます進展し、歴史学や考古学では確認しづらい遊牧民勢力の様相が解明されていくのではないか、と期待されます。
●要約
匈奴は最初の遊牧帝国権力で、紀元前200~紀元後100年頃まで、ユーラシア東部草原地帯を支配しました。最近の考古遺伝学的研究は、匈奴帝国全体のきわめて高水準の遺伝的多様性を証明しており、匈奴帝国が多民族的だったとする歴史的記録を裏づけています。しかし、この多様性が局所的共同体において、もしくは社会政治的地位によりどのように構造化されていたのか、不明なままです。本論文はこの問題に取り組むため、匈奴帝国の西部辺境の貴族および地域エリートの墓地を調べました。18個体のゲノム規模データの分析により、これら共同体内の遺伝的多様性は匈奴帝国全体と匹敵し、高い多様性は拡大家族内でも観察された、と示されます。遺伝的不均質は最低の地位の個体群で最も高く、多様な起源が示唆されますが、より高い地位の個体群は遺伝的多様性が低く、エリートの地位と権力はより広範な匈奴集団の特定の部分集合内に集中していた、と示唆されます。
●研究史
匈奴帝国は、ユーラシアにおいて勃興した多くの歴史的に記録された多くの草原地帯帝国の最初であり、その形成は、千年後に日本海【原文では「東海(East Sea)」表記】からカルパチア山脈までに及んだモンゴル帝国を含む、その後の遊牧帝国権力の台頭の前兆となりました。現在のモンゴルの領土を中心とする匈奴帝国は、ユーラシア東部草原地帯と現在の中国北部やシベリア南部やアジア中央部の周辺地域を、紀元前209年頃に始まり、紀元後1世紀後半における最終的な崩壊まで、約3世紀にわたって支配しました。匈奴はその最盛期には、アジアの中央部と内陸部と東部の政治経済に大きな影響を与え、中華帝国の主要な政治的競合相手となり、匈奴帝国の中心部へと深く入り込んだ、ローマのガラス、ペルシアの織物、エジプトのファイアンス焼き、ギリシアの銀、中国の銅や絹や漆器を輸入した、遠隔交易網を確立しました。
匈奴は完全に新たな種類の政治的実体を表しており、ユーラシア東部草原地帯から西方はアルタイ山脈に至る異質な遊牧民および定住民集団を、単一の権威の下で組み入れました。匈奴はモンゴル中央部および東部のその中核から拡大するにつれて、多くの近隣集団を征服して統合しました。匈奴は中国北部で決定的勝利を収めながら、モンゴル西部およびバイカル湖の南部地域への拡大に成功しました。しかし、匈奴は征服のための騎兵隊の動員において専門家以上の存在でした。匈奴は、アジア中央部の絹の道(シルクロード)の諸王国にかなりの影響を及ぼした抜け目のない交易相手でもあり、匈奴後期(紀元前50~紀元後100年頃)においてユーラシアの交流網により大きな影響さ及ぼしました。それにも関わらず、匈奴内部の社会的および政治的組織に関する詳細な理解は欠けています。
匈奴の歴史物語はほぼその漢人【という分類を匈奴が存在した頃に用いてよいのか、疑問は残りますが】の政治的競合相手の著したものであり、そこでは、匈奴の政治形態が遊牧民エリートの「単純な組織体」として繰り返し軽蔑的に特徴づけられました。匈奴の社会政治組織について現在知られていることのほとんどは、アジア内陸部全体の遺跡の増加とともに、文献証拠から収集されてきました。葬儀記録から、匈奴には社会経済的階層があり、埋葬様式や建設への投資や供物の観点で個体間に明確な違いがある、と示唆されています。後期匈奴のほとんどの特定されている墓は、表面の厚い石輪の下にある立坑です。これらの目立つ埋葬は匈奴社会の地域的および局所的エリートの広範なつながりを表していますが、一般人は目立たない積石の下もしくは人目につかない穴に埋葬された可能性が高そうです。
匈奴帝国の最上位の貴族支配エリートは大規模な方形墓に埋葬され、より低い地位の個体の従者の埋葬が連接し、埋葬複合を形成します。方形墓と大型円形墓のエリートは豊富な副葬品を伴う場合が多く、通常は装飾された厚い木板の棺に葬られ、「外国」の高級品、金や金箔の物、ウマや他の貴重な家畜の犠牲が伴います。匈奴帝国の象徴である太陽と月を表す金属製の円盤と三日月形も、そうしたエリートの墓で頻繁に見つかります。その富と景観上の目立つ外観のため、多くの匈奴の墓は古代から略奪されてきましたが、それにも関わらず、墓の形態の違いは明確な社会的段階を表しており、匈奴帝国内の排他的な政治的派閥として方形墓があります。
以前の考古遺伝学的研究は、匈奴を構成した人々の特定を試みており、匈奴帝国全体のひじょうに高水準の遺伝的多様性を明らかにしてきました。最近、匈奴の27ヶ所の遺跡の60個体のゲノム規模研究(関連記事)では、この多様性はまずモンゴルにおける2つの遺伝的に異なる牧畜民人口集団のとういつにより形成された、と分かりました。一方は、西方の鹿石キリグスール(Deerstone Khirigsuur)文化およびムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化およびサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化と関連する集団の子孫で、もう一方は、東方のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化および石板墓(Slab Grave)文化の子孫で、他地域からの追加の人口流入が続き、その可能性が最も高いのはサルマティア(現在のウクライナの近く)と中華帝国です。
しかし、この証拠は、匈奴帝国は多民族で多文化で多言語の実体だった可能性が高い、との以前の主張を裏づけますが、これまで、そうした多様性が局所的に均質な共同体の異質な寄せ集めだったのか、局所的共同体自体も内部は多様だったのかどうか、判断できませんでした。さらに、匈奴の政治的地盤の多くの側面は、方形墓の帝国のエリート被葬者を誰が攻勢したのか、精巧な複合墓内の従者墓に埋葬された個体を含む、より低い地位の個体群との関係はどうだったのかなど、依然として不明です。高位の方形墓のエリートと標準的な円形墓の地元のエリートが匈奴人口集団の同じ区分に由来するのかどうか、あるいは、帝国の形成と関連する人口統計学的過程地位と起源により階層化されていたかもしれないことを示唆する、地元のエリートは侵入してきた匈奴帝国のエリートよりも以前の地元の人口集団と遺伝的に類似している可能性がより高いのかどうかも不明なままです。
これらの問題に取り組むため、モンゴルの現在のホブド(Khovd)州における、匈奴帝国の最西端辺境地に位置する、タヒルティン・ホトゴル(Takhiltyn Khotgor、略してTAK)遺跡の貴族エリート墓地とショムブージン・ベルチル(Shombuuzyn Belchir、略してSBB)遺跡の地元のエリート墓地の一連の埋葬が詳細に遺伝的に調べられます。高位と低位の18個体のゲノム規模データの分析により、両共同体は匈奴帝国全体に匹敵する高水準の遺伝的多様性を有していた、と示されます。高い遺伝的多様性は個々の複合墓と埋葬クラスタ(まとまり)とさらには拡大家族内で反映されています。したがって、広範な規模で遺伝的に多様な帝国を生み出した同じ社会政治的過程が最小規模でも機能し、わずか数世代の間でひじょうに多様な局所的共同体を生み出した、と分かりました。
TAKとSBBにおける社会および政治的地位に関して、識別可能な遺伝的パターンもあり、最低の地位の個体群(墓の形態と遺骸に基づきます)は最高水準の遺伝的異質性を有しています。対照的に、高位の個体群は遺伝的にさほど多様ではなく、高水準のユーラシア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しています。これはさらに、匈奴帝国における上流階級の存在と、エリートの地位と権力がより広範な人口集団の特定の部分集合内に集中していたことを示唆します。
●匈奴の貴族エリートと地元のエリートと従属者のゲノム規模データの生成
この研究の前に、2つの考古遺伝学的研究がエグ川(Egyin Gol)とタミル・ウラーン・コーシュー(Tamir Ulaan Khoshuu、略してTUH)遺跡で匈奴帝国の政治的中核にある匈奴期の墓地を集中的に調査しましたが、これらの研究はゲノム規模データを生成しなかったので、個体の祖先系統と関係を追跡する能力は限定的でした。他の研究はゲノム規模データの作成に焦点を当ててきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、遺跡ごとの分析された個体数は少なく、匈奴の共同体もしくは社会政治的地位との関連の可能性内での遺伝的多様性を調べるには充分ではありません。
この問題に取り組むため、2ヶ所の匈奴の墓地の考古遺伝学的調査が実行されました。それは、アルタイ山脈の匈奴帝国の最西端の辺境地に位置する、TAKの貴族エリート墓地とSBBの地元のエリート墓地です。これらの墓地には、広範な方形墓から標準的な円形墓や貧弱な穴状墓まで、個体の完全な社会的範囲が含まれています。このデータセットは、匈奴帝国の社会的および空間的末端の共同体におけるエリートと従属者の遺伝的多様性と異質性と関係をより深く理解するのに役立ちます。次に、これら辺境地の匈奴共同体が、モンゴル全域の追加の29ヶ所の匈奴遺跡の以前に刊行された考古遺伝学的データと比較されました(図1A)。以下は本論文の図1です。
これらの墓の多くに隣接するのは低位の「平民」の墓で、それは石棺もしくは土の穴の埋葬の上の単純な石積で構成されます。これらの方形墓と従者墓がともに、拡張埋葬複合を形成します。TAKでは、2基の完全な方形墓埋葬複合が発掘され、THL-82とTHL-64と第三の複合であるTHL-25が部分的に発掘されました。THL-82は東西に2基の従者墓が隣接する、大きな中央のエリート方形墓で構成されます(図1B)。THL-82は成人女性1個体(TAK001)を含んでおり、この女性個体は装飾された木板の棺に埋葬され、6頭のウマと中国の青銅製の戦車(チャリオット)の破片と青銅製の噴出口のある壺が伴っていました。木板の棺の使用は、エリートの匈奴の政治的文化と儀式を厳守して、この辺境地の状況ではとくに注目に値し、それは、大きなカラマツ材の木製板はこのほぼ気がないアルタイ山脈地域への多大な労力と対価で輸入されたに違いないからです。この従者墓はそれぞれ、土坑埋葬で成人男性1個体を含んでおり(TAK008とTAK009)、その一方(TAK008)はうつ伏せ(顔が下側)の位置で埋葬され、より一般的な匈奴の埋葬である仰向け(顔が上側)の位置とは異なります。
THL-64は、東側に2基の従者墓がある、大きな中心にあるエリートの方形墓で構成されています(図1B)。THL-82のように、THL-64も女性1個体の遺骸(TAK002)を含んでおり、TAK002は木製板の棺に、1頭のウマ、4頭のヤギ亜科(ヒツジもしくはヤギ)、太陽と月を表す黄金の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。従者墓はそれぞれ、半屈曲状態で単純な石棺に埋葬された思春期の男性個体(TAK003とTAK004)を含んでおり、これはモンゴル西部において長期間続いた歔欷所的な埋葬伝統と一致する姿勢です。
複合墓THL-25は、従者墓のみがこれまでに発掘されており、東側に3基の従者墓が隣接する大きな中心の方形墓で構成されています(図1B)。3基の従者墓は、小さな石積だけが目印となっている単純な土坑埋葬で構成されており、子供1個体(TAK005)と成人男性2個体(TAK006とTAK007)が含まれています。合計で、TAK墓地では8個体が遺伝的に調べられ、そのうち本論文で新たに提示されたのは7個体で、1個体(TAK001)は先行研究(関連記事)で報告されていました。
TAKの南西約50kmに位置するSBBの地元エリート墓地は、戦略的な高い峠に沿って位置し、その期間は紀元前50年~紀元後210年頃にまたがります。他の地元のエリートの匈奴墓地と一致して、TAKは成人の男女両方と子供の遺骸を含む円形墓でおもに構成されています。33基の墓のうち15基がこれまでに発掘されており、そのうち11基はこの研究で遺伝的に検査され、11基のうち10基はゲノム規模分析に充分なほど保存されていました(図1C)。分析された個体は、装飾された木板の棺と精巧な副葬品のある大きな石で囲まれた墓の個体から小さな石棺で構成される粗末な埋葬まで、明白な社会的地位の全範囲に及びます。
分析された墓のうち5基(12・13・14・15・18号墓)は1クラスタに配置されていますが、他の墓は空間的に分散しており、墓地の残りの代表的な標本として選択されました(2・7・8・19・26・29号墓)。7・8・15・19号墓はこの研究で分析された最高位の墓で、各墓は石輪で囲まれた木板の棺に埋葬された成人女性1個体で構成されます。7号墓は年長の成人女性1個体(SBB002)の遺骸を含んでおり、木製の手押し車、青銅製の大釜、土器の調理鍋、木板の棺に釘付けされた金の太陽の円盤と月の三日月形が共伴します。8号墓は年長の成人女性1個体(SBB003)の遺骸を含んでおり、この個体は四葉の装飾された棺に埋葬され、金色のガラス玉、中国の鏡の断片、少なくとも12頭のヤギ科(ヒツジもしくはヤギ)で構成される家畜の供物の大きな堆積が共伴します。
15号墓には成人女性1個体(SBB007)の遺骸が含まれ、この個体は木製の手押し車の断片、乗馬用の鋲、金箔の鉄製の帯留め具、漢王朝(Han Dynasty)の漆塗り杯とともに置かれた装飾された木板の棺に埋葬されています。19号墓は明らかに出産時に死亡した若い成人女性1個体(SBB008)の遺骸を含んでおり、この女性個体は乳児とともに埋葬され、子供の保護と関連するエジプトの神であるBesの男根を描いた、ファイアンス焼きの玉を含む玉で作られた首飾りを身に着けていました。SBB003と同様に、SBB008も中国の鏡の断片とともに埋葬されていました。
残りの墓はより単純で、小さな石棺もしくは石棺の上の石積で構成されます。13号墓は中年の男性1個体(SBB001)で構成され、弓や矢や槍が共伴します。12号墓に埋葬された思春期の1個体(SBB011)も弓や矢や槍とともに埋葬されており、26号墓に埋葬された子供1個体(SBB009)は子供の大きさの弓とともに埋葬されました。さらに3人の子供が14号墓(SBB005)と18号墓(SBB006)と29号墓(SBB004)に埋葬されており、副葬品は14および18号墓ではさまざまなガラス玉で構成されていますが、29号墓の子供は絹や革やフェルトとともに埋葬されていました。最後に、2号墓は年長の成人男性1個体(SBB010)を含んでおり、鉄製の太陽の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。埋葬堆積物の検査により、全てのSBB埋葬で絹の衣類の痕跡が回収されました。
この研究では、TAKとSBBの19個体で新たなゲノム規模データが生成され、そのうち17個体には分析に充分なヒトDNA(0.1%超)が含まれており、これらのDNAライブラリが、溶液内DNA捕獲手法を用いて、1233013の祖先系統の情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の「124万」パネルで、さらに濃縮されました。濃縮および配列決定後、11950~659982のSNPが、各個体で少なくとも1つの高品質の読み取りによる網羅に成功しました。内在性DNA保存が30%を超える6個体(SBB003、SBB007、SBB010、TAK002、TAK006、TAK008)について、0.7~2.5倍の網羅率で全ゲノムショットガン配列決定データも生成されました。全てのライブラリは古代DNA損傷の特徴的パターンを示し、短い断片長と末端におけるシトシンの脱アミノ化が含まれます。
17個体すべてで遺伝的性別が決定され、全個体でのミトコンドリアDNA(mtDNA)と男性10個体でのX染色体を用いて推定されたように、すべての個体は低い汚染率(6%)を示しました。下流集団遺伝学的分析については、疑似半数体遺伝子型呼び出しが実行され、この研究の新たな遺伝子型データがTAK001について以前に刊行された遺伝子型データおよび他の古代と現在の個体群と連結されました。各個体について片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)ハプログループの割り当ても試みられ、17個体でmtDNAハプログループ(mtHg)が、男性10個体のうち6個体でY染色体ハプログループ(YHg)の決定に成功しました。TAKとSBBと以前に報告された遺跡の個体間の遺伝的近縁性が推定されました。2組の遺伝的親族がSBBで特定されました。一方は2親等の親族(SBB005とSBB007)で、もう一方は2親等かより遠い関係の親族でした(SBB001とSBB005)。
●匈奴祖先系統のモデル化
TAKおよびSBB遺跡、およびより一般的に匈奴人口集団のより詳細な遺伝的分析に進む前に、まず匈奴祖先系統のモデル化が改良および更新され、モンゴル中央部および東部の先行する後期青銅器時代(Late Bronze Age 、略してLBA)および前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)期間の新たな利用可能なゲノム規模データ(関連記事)が組み込まれました。先行研究では、初期匈奴の個体群が、EIA(紀元前900~紀元前300年頃)のモンゴルに存在した2つの異なる遺伝的集団の混合としてモデル化されました。つまり、チャンドマン(Chandman)文化集団(チャンドマン_IA)と石板墓文化集団(石板墓)です。
チャンドマン_IAは、シベリアおよびカザフスタンのサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)やサカ(Saka)文化(紀元前900~紀元前200年頃)やパジリク(Pazyryk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)の集団と関連する、モンゴル西端の人々の代表でした。「石板墓」は、石板墓文化(紀元前1000~紀元前300年頃)の埋葬遺跡と関連するモンゴル東部および中央部の人々の代表です(関連記事)。モンゴル東部においてLBAのウランズーク文化(紀元前1450~紀元前1150年頃)から生じた可能性が高い石板墓文化集団はモンゴル中央部および北部へ、北方ではバイカル湖地域にまで拡大しました。
全体的に、ウランズークおよび石板墓文化の個体群は均質な遺伝的特性を示しており、それはこの地域に深い起源があり、古代アジア北東部人(Ancient Northeast Asian、略してANA)と呼ばれます。ウランズークおよび石板墓文化個体群の追加のゲノム規模データの最近の刊行(関連記事)は、より広範な地理的分布にわたる石板墓文化個体群の調査と、改より改良一般的に匈奴の形成の遺伝的モデル化改良の機会を提供しました。qpAdmプログラムを用いて、ウランズークおよび石板墓文化個体群の混合モデル化が更新されました。
まず、先行する青銅器時代の前とLBAウランズーク文化の個体(13個体)間のモンゴル東部における微妙な遺伝的変化が検出されました(図2A)。モンゴルで最北端のフブスグル(Khovsgol、Khövsgöl)県で見つかった個体(フブスグル_LBA)など、モンゴル北部の近隣のLBA人口集団からの遺伝子流動として、この違いがモデル化されました。全体的に、ウランズーク文化個体群はフブスグル_LBAからの24.5%の寄与を有するものとして適切にモデル化され個体水準では、フブスグル_LBAからの13.9~33.4%の寄与がある同じモデルにもほとんど適合し、例外は以上に高いフブスグル_LBAからの寄与(63.5%)がある1個体(ULN005)です。混合モデル化の結果に基づくと、ウランズーク文化の13個体のうち12個体は、ずっと高いフブスグル_LBA との類似性の点で、ULN005を除いて1分析単位(ウランズーク1)としてまとめられ(ULN005はウランズーク2として別に分析されました)、これはウランズーク文化個体群の遺伝子プールの代表として用いられます。以下は本論文の図2です。
鉄器時代(IA)石板墓文化個体群(16個体)の遺伝的構成をより深く理解するため、その遺伝的特性が先行するウランズーク文化個体群と比較されました。新たに刊行された11個体(関連記事)のデータを組み入れて、先行研究(関連記事)では検出されなかった微妙な遺伝的異質性が確認されました。16個体のうち11個体がウランズーク1とクレード(単系統群)を構成する一方で、残りの3個体は追加のフブスグル_LBA祖先系統を必要とします(図2)。とくに、石板墓文化の3個体(I6359、I6369、DAR001)は、フブスグル_LBA祖先系統の高い割合(42.6~79.7%)により他の個体とは顕著に異なります。
ほとんどの石板墓文化個体が遺伝的に均質な一方で、一部がフブスグル_LBA的遺伝子プールに由来する大きくて異質な祖先系統割合を有しているこのパターンは、近い過去の人口集団の混合に起因する可能性が高そうで、石板墓文化がモンゴルの中央部および北部に拡大し、この地域で在来の住民を低水準の混合で置換した、という考古学的証拠と一致します。集団に基づく下流分析での使用のため、個体の祖先系統モデル化に基づいて、石板墓文化の大半の個体(16個体のうち13個体)が単一の集団「石板墓1」に分類されましたが、集高い割合のフブスグル_LBA祖先系統を有する残りの3個体は別集団「石板墓2」に分類されました。
本論文で提示された新たな匈奴期個体群の遺伝的特性を特徴づけるため、qpAdmを用いてTAKおよびSBBの個体群の祖先系統構成がモデル化されました(図2)。ほとんどの個体(18個体のうち15個体)は、ユーラシア東部供給源としてウランズーク/石板墓と漢人_2000年前を用いた、匈奴の個体群に以前に適用された混合モデルにより、適切にモデル化されました。15個体のうち8個体は、石板墓1とチャンドマン_IAという2つの祖先系統でモデル化されました。5個体(SBB001、SBB002、SBB006、SBB008、SBB009)は石板墓1とチャンドマン_IAの間の混合で(石板墓1からは32~91%)、1個体(TAK005)はチャンドマン_IAと区別できず、2個体(SBB004とTAK004)は石板墓1と区別できません。さらに5個体が、ANAとは異なる追加のアジア東部祖先系統を用いてモデル化され、それは漢人_2000年前により表されます。3個体(SBB003、SBB005、SBB007)は石板墓1(28~77%)とチャンドマン_IA(11~52%)と漢人_2000年前(12~19%)の混合としてモデル化され、2個体(TAK002、TAK006)は石板墓1(48~74%)と漢人_2000年前(26~52%)の混合としてモデル化されます。
最後に、2個体はアジア中央部のゴヌル(Gonur)遺跡の青銅器時代(BA)個体群(ゴヌル1_BA)により表されるイラン/アジア中央部祖先系統を必要とします。一方の個体(SBB010)は石板墓1(39%)とチャンドマン_IA(48%)とゴヌル1_BA(13%)の混合として、もう一方の個体(TAK003)はチャンドマン_IA(72%)とゴヌル1_BA(28%)の混合としてモデル化されます。TAK003は同じ祖先系統の寄与がある以前に記載された初期匈奴個体群(前期匈奴_西部)よりもゴヌル1_BA関連祖先系統の割合が高く、匈奴の前期と後期の間におけるアジア中央部からの継続的な遺伝子流動を報告した以前の研究(関連記事)が裏づけられます。
石板墓1が鉄器時代の鮮卑(Xianbei)の状況に属するモンゴル南部(中華人民共和国内モンゴル自治区)のアムール川流域の個体(AR_鮮卑_IA)に置き換えられると、全てのqpAdm混合モデルが等しく適合することに要注意です。ウランズークおよび石板墓文化と関連する2個体(BUL002、I6365)を除く男性は全員YHg-Qに、AR_鮮卑_IAの男性3個体は全員YHg-Cに、匈奴の男性はYHg-QおよびCの両方に分類されます。決定的ではありませんが、これは、匈奴期の個体群のANA祖先系統供給源が石板墓文化のみさかのぼるのではなく、鮮卑など類似のANA遺伝的特性がある近隣集団も含んでいるかもしれない、と示唆します。
18個体のうち残りの3個体は同じ埋葬複合THL-82から発掘され、異なるユーラシア東部祖先構成要素を必要とします。従者墓の2個体(TAK008、TAK009)は高い割合のユーラシア西部祖先系統を有していますが、チャンドマン_IAもしくは前期匈奴_西部のどちらかとの姉妹クレードとしてモデル化されません。次に、その遺伝的特性が世界規模の古代および現在の人口集団一式でf4(ムブティ人、世界規模の比較対象;TAK008/TAK009、前期匈奴_西部)の計算により比較されました。前期匈奴_西部との有意な余分の類似性を示す人口集団はありませんが、いくつかの人口集団はTAK008/TAK009と余分な類似性を示します。
TAK009については、上位の兆候はほぼアジア東部の古代の個体群/人口集団です。これと一致して、TAK009は前期匈奴_西部とさまざまなアジア東部人口集団の混合として適切にモデル化され、その中にはフブスグル_LBAや石板墓1や漢人_2000年前が含まれます。TAK008については、全体的な類似の傾向が観察されますが、古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)との高い類似性を有する人口集団が見つかり、上位の兆候では、たとえば、バイカル湖に近いウスチ・キャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡の14000年前頃の個体(UKY)や、現在のアメリカ大陸先住民のミヘー人(Mixe)とケチュア人(Quechua)です。
これと一致して、TAK008はフブスグル_LBAもしくはUKY)からの10%以下の寄与で適切にモデル化されるものの、石板墓1や漢人_2000年前などANEとの類似性のない他のアジア東部人の代理では適切にモデル化されません。方形墓で発見された以前に刊行された女性個体であるTAK001は、TAK008およびTAK009とおなじモデルで適切に説明されるものの、混合割合はさまざまです。TAK001の祖先系統は、90.7%がフブスグル_LBAに、残りは前期匈奴_西部に由来します。
匈奴期において、石板墓祖先系統と関連しない形態でのフブスグル_LBA祖先系統の存在が観察されることはかなり予想外で、それは、EIAのモンゴルにおいてフブスグル_LBA祖先系統は石板墓祖先系統にほぼ置換されたからです。フブスグル_LBA祖先系統はモンゴル期のハルザン・ホシュー(Khalzan Khoshuu)遺跡からも報告されており、この遺跡はTAK遺跡からわずか95km離れているだけです。LBA後のフブスグル_LBA祖先系統の時空間的分布、とくにアルタイ地域の分布の理解には、さらなる標本抽出が必要です。
●匈奴共同体内および匈奴帝国全域での高い遺伝的多様性
TAKとSBB、および匈奴帝国全体での匈奴の遺伝的多様性の空間的パターンを調べるため、先行研究で記載された手法に従って主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行され(図3)、アフィメトリクス社アクシオムゲノム規模ヒト起源1(Affymetrix Affymetrix Axiom Genome-Wide Human Origins 1、略してHO)配列で遺伝子型決定された現在の個体群の遺伝子型データセットに、古代の個体群が投影されました。全ての新たな匈奴の個体は、匈奴について以前に報告された遺伝的特性(関連記事)の多様性範囲内に収まり、ユーラシア人の東西間で主成分1(PC1)に沿って広く分散します。このパターンから、全体的に匈奴で観察された顕著な遺伝的異質性は、匈奴帝国中核から遠い西方辺境地に沿った遺跡にも存在する、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
次に、各遺跡内の遺伝的異質性の水準が定量化され、モンゴル内の全体的な匈奴の遺伝的多様性と比較されました(図4)。各個体のPC1座標が分析の主要な変数として用いられました。それは、PC1は一般的に匈奴とユーラシア人両方の内部における遺伝的差異の主軸を把握しているからです。高低のPC1値は、それぞれ東部と西部のユーラシア人との高い遺伝的類似性を表しています。以下は本論文の図4です。
PC1軸に沿ったSBBとTAKの個体群の広範な分布に基づいて、各遺跡はひじょうに不均一だと分かりました。各遺跡と匈奴全体(全匈奴)の遺伝的多様性を統計的に比較するため、2集団が同等のPC1偏差を有する、という帰無仮説についてブラウン・フォーサイス検定が適用されました。TAKは全ての匈奴個体の偏差と区別できない水準でひじょうに不均一ですが、SBBは全匈奴よりも低い多様性を示します。少なくとも5個体が標本抽出された、以前に刊行された匈奴の遺跡の遺伝的多様性も比較されました。モンゴル北部の前期匈奴のサルキティン・アム(Salkhityn Am、略してSKT)遺跡(11個体)は、全匈奴と類似した高水準の不均一性を示します。さらに東方に位置する後期匈奴のウグウムル・ウウル(Uguumur Uul、略してUGU)遺跡(5個体)は、ユーラシア西部祖先系統のより高い寄与があるより中間的な水準の多様性を示しますが、統計的には依然として全匈奴に匹敵します。しかし、この遺跡の標本規模が小さいことから、統計的解像度は限定的です。
UGUは依然として、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)よりもずっと高い多様性を示します。対照的に、さらに北東に位置する別の後期匈奴となるイルモヴァヤ・パッド(Il’movaya Pad、略してIMA)遺跡(8個体)は、おもにユーラシア東部祖先系統を有しています。その遺伝的多様性は全匈奴よりずっと低く、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)と匹敵します(図4)。IMA遺跡における低い遺伝的多様性は、偏った標本抽出の歪みかもしれないことに要注意です。それは、わずか8個体が遺跡の300ヶ所の円形墓と方形墓で分析されたからです。10000のSNPに低解像度処理された各個体について100回PC座標の計算を繰り返すと、結果は低網羅率の個体群におけるPC座標のより高い不確実性に影響を受けない、と分かりました。
広く匈奴の全個体と局所的共同体の遺伝的多様性の同等水準から、ひじょうに不均一な匈奴帝国に寄与した動的な人口統計学的過程は局所的規模でも起きた、と示唆されます。TAKとSBBとUGUの墓地内の高い遺伝的多様性は、単一の局所的共同体内の多様な遺伝的背景のある個体群の共存と、これが匈奴の政治的形成の数世紀後となる後期匈奴においてさえ継続したことと、前期匈奴の初期においてすでに進行していた遺伝的混合の関連する人口統計学的過程を確証します。全体的に、全ての期間における教示で見られる高い遺伝的多様性は、「代表的な」匈奴の遺伝的特性の定義の意味のある試みを妨げます。それは代わりに、匈奴帝国を最も特徴づけるユーラシアの遺伝的多様性のほぼ全体にまたがる人口集団水準の遺伝的不均一性だからです。
●社会的地位の遺伝的多様性と考古学的意味
匈奴の遺伝的多様性が社会的地位もしくは社会的集団への帰属によりどのように構造化されていたかもしれないのか、より深く理解するため、TAKの貴族エリート墓地(図3D)とSBBの地元エリート墓地(図3E)の考古遺伝学的データが調べられました。TAKでは、2基の完全な方形墓複合が発掘されており(THL-82、THL-64)、個別の埋葬単位内の遺伝的多様性の調査が可能になります。年長の成人女性1個体(TAK001)が成人男性(TAK008、TAK009)の2基の従者墓に隣接する方形墓に埋葬されている、最も豊かな複合墓であるTHL-82については、3個体間で遺伝的近縁性は確認されませんでした。高位女性の遺伝的特性が低位男性2個体とは強く異なっていた一方で、低位男性2個体は相互に遺伝的に類似しており、ずっと高水準のユーラシア西部祖先系統を有していました(図2B)。つまり、これら男性2個体がまとめて前期匈奴_西部祖先系統86.8%でモデル化される一方で、TAK001はこの祖先系統構成要素を9.3%しか必要としません。低位男性の高い割合のユーラシア西部祖先系統とは対照的に、高位女性(TAK001)は、石板墓1ではなくフブスグル_LBAにより表される高水準のユーラシア東部祖先系統を示します。
思春期個体の従者墓2基とともに方形墓に埋葬された成人女性1個体(TAK002)を含むもう一方の方形墓複合であるTHL-64については、思春期の両個体は男性と判断されました。しかし、THL-82とは異なり、帝位の若い男性は遺伝的に類似しておらず(図2B)、一方の個体(TAK003)はひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA、ゴヌル1_BA)を有しており、もう一方の個体(TAK004)は高水準のユーラシア東部祖先系統(石板墓1)を有しています。同様に高位女性は、2供給源(石板墓1、漢人_2000年前)に由来する高水準のユーラシア東部祖先系統(図3D)を有しています。
最後に、方形墓が発掘されていない、THL-25と関連する従者墓3基が分析されました。3個体のうち2個体(子供のTAK005と成人男性のTAK006)から分析に充分なDNAが得られました。この両個体は親族関係にない男性で、遺伝的にはひじょうに似ていない、と判断されました。子供の方(TAK005)がひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有している一方で、成人男性の方(TAK006)はTAK遺跡で観察された最高のユーラシア東部祖先系統(石板墓1、漢人_2000年前)を有しています。
したがって、TAK墓地の個々の複合墓内でのひじょうに高い遺伝的多様性が見つかりました。高位の女性両個体(TAK001、TAK002)は比較的高水準のユーラシア東部祖先系統を有していますが、低位の従者墓の男性は、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統からひじょうに高水準のユーラシア東部祖先系統まで、ひじょうに高い遺伝的不均一性を示しました。低位男性が高位女性の家臣もしくは使用人だったならば、低位男性は匈奴帝国の多様な地域および匈奴帝国外の出自だったかもしれない、と示唆されます。
SBB遺跡では、より低い全体的な遺伝的多様性が見つかり、とくに、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統を有する個体は見つかりませんでした(図3E)。しかし、ユーラシア西部祖先系統を最高水準で有するのは成人男性2個体(SBB001とSBB010)であるものの、この2個体のユーラシア西部祖先系統はわずかに異なる供給源に由来します(SBB001はチャンドマン_IA、SBB010はチャンドマン_IAとゴヌル1_BA)。TAKでは、最高位の墓は女性で(SBB002、SBB003、SBB007、SBB008)、これらの女性全員のモデル化された祖先系統は石板墓1を含んでおり、他のわずかな祖先系統の寄与があります。SBB007が女性との遺伝的判断はとくに注目されます。それは、この墓が乗馬用具や金箔の鉄製の帯留め具や漢王朝の漆塗り杯を含んでおり、それらの副葬品は別の文脈では男性の騎乗戦士と関連した従装具と想定されているからです。同様に、成人男性であるSBB010は鉄製の針が入った骨製管箱とともに埋葬されており、報歳道具が女性だけと関連していたわけではなかったことを示唆しています。
【解剖学的に】性別が不確かだった、子供3個体(SBB004、SBB005、SBB006)と思春期1個体(SBB009)の遺伝的性別も決定されました。SBB005とSBB006は女性でしたが、SBB004とSBB009は男性でした。SBB009は、11~12歳の思春期男性成人男性SBB001および年長の思春期個体SBB011とともに埋葬されていた弓と似ている、子供用の大きさの弓とともに埋葬されており、若い時に弓の使用を習っていた、という匈奴社会の男性の説明を裏づけます。これはSBB009の事例のように10代前半の若い男性には当てはまる可能性が高そうですが、幼い子供期には当てはまらない可能性が高そうで、それは、4~6歳の子供であるSBB004の墓にそうした装具がないことにより証明されています。
SBBにおける埋葬の空間的関係を調べると、空間的近接性と遺伝的祖先系統特性との間に有意な相関は見つかりませんでした(図3E)。2個体の遺伝的祖先系統特性の類似性を表すため、上位2主成分(PC)の空間で定義された2点間のユークリッド距離が用いられました。マンテル検定で提供されたP値は0.146で、2つの埋葬と遺伝的距離との間の空間的近接性が無関係である、という帰無仮説を却下できませんでした。SBBの5基の墓クラスタの個体(SBB001とSBB005とSBB006とSBB007で構成され、SBB011からは分析可能なゲノム規模データが得られませんでした)が他者よりもその遺伝的特性において類似している、という仮説も裏づけることができませんでした。これを判断するため、各個体の組み合わせの地理的距離が、クラスタ内の組み合わせでは1、他の組み合わせでは0に置換されました。しかし、相互に隣に埋葬された親族関係のある個体2組(SBB001とSBB005、およびSBB005とSBB007)に基づいて、親族は相互と有意により密接に配置されている、と分かりました。SBBもしくはTAKにおいて親族関係のある個体はこれらだけでした。
成人男性SBB001と子供の女性SBB005は2親等の親族でしたが、遺伝的には相互に似ておらず、成人男性SBB001はずっと高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有しています。子供の女性SBB005はSBB007の2親等の親族でもあり、SBB007は金箔の帯留め具や漢王朝の漆塗りとともに埋葬された高位女性でした。SBB005とSBB007の両女性個体は、漢人_2000年前としてモデル化されるわずかな祖先系統構成要素を共有しています。匈奴におけるゲノム規模の遺伝的近縁性に関する以前の調査は、親族関係の組み合わせの10事例を特定しました(関連記事)。
これらのうち全ての組み合わせは、同じ場所内もしくはひじょうに近い場所に埋葬されており、ほとんどの組み合わせは遺伝的に類似しています。しかし、モンゴル北部中央のタミル・ウラーン・コーシュー遺跡の2親等の母系で関連する男性1組(タミル・ウラーン・コーシュー001とTUH002)は同様に、比較的高水準の遺伝的非類似性を示し、一方の男性はもう一方よりかなり多いユーラシア西部祖先系統を有していますが、SBB001とSBB005との間ほど違いは大きくありませんでした。より高水準の遺伝的多様性を含むそうした拡大家族は、匈奴では比較的一般的だったかもしれませんが、その確認には墓地のより密な標本抽出が必要でしょう。
遺伝的近縁性の検出だけではなく、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の塊も調べられました。SBB005は合計で55.1 cM(センチモルガン)になる長いROHの塊を有しており、差異著の塊は40.7 cMに及ぶ、と分かり、SBB005は2親等の親族の夫婦の子供と示唆されます。近親婚は遺伝的近縁性の推定を歪める可能性があるので、SBB005とSBB001とSBB007との間の遺伝的近縁性の程度は、わずかに過大評価されるかもしれません。それにも関わらず、SBBにおける遺伝的多様性と不均一性遺伝的近縁性の全体的なパターンから、一部の地元エリート家族は遺伝的にひじょうに多様で、婚姻は遺伝的に異質な個体間で起き、拡大親族関係の複雑な交流を作った、と示唆されます。
●匈奴エリートの遺伝的動態
まとめると、TAKとSBBのエリート遺跡において高水準の遺伝的不均一性および多様性が観察され、最高の遺伝的不均一性は最も低い地位の個体間で観察されました。対照的に、貴族および地元のエリート女性であるこの研究における最高位の個体群は、より高水準のユーラシア東部祖先系統を有しており、多様性が低い傾向にある、と分かりました。ユーラシア東部祖先系統はより高いPC1値により表され、高位個体群のPC1の平均は、低位の個体群よりも有意に大きくなります。これは、エリートの地位と権力が、先行するEIA石板墓文化集団に祖先系統がさかのぼる個体に不釣り合いに集中していたことを示唆します。エリート女性6個体のうち3個体、低位の子供の女性1個体、低位の男性1個体は、漢人_2000年前と一致するわずかな祖先系統寄与を有しており、漢王朝の集団との地域間のつながりが、以前に理解されていたよりも大きくて複雑だったかもしれない、と示唆されます。
この研究の前には、エリートの方形墓の1個体のみが、ゲノム規模の方法で分析されました。それは、モンゴル中央部北方の匈奴帝国のエリート遺跡であるゴル・モド2(Gol Mod 2)遺跡の1号墓で発見されたDA39です。この成人男性はこれまでに発掘された最大の方形墓複合の一つに埋葬されており、少なくとも27個体の従者の埋葬に囲まれており、ローマのガラス製鉢など稀な外来物を含んでいて、匈奴帝国の単于(chanyu)もしくは支配者だった可能性が高そうです。西方辺境地のエリート女性と同様に、DA39もひじょうに高い割合のユーラシア東部祖先系統(石板墓1から39.3%、漢人_2000年前から51.9%、残りはチャンドマン_IA)を有しており、THL-64墓のTAK002と遺伝的に類似していました。地位と権力の指標により階層化された祖先系統のそうしたパターンは、匈奴の政治的形成の性質と、匈奴帝国の多様な政治的行為者の相対的な権力動態に関する手がかりを提供します。
最後に、これら辺境地共同体の女性における富の集中とエリートの地位は、さらに注目されます。匈奴帝国の周辺地域における女性の墓は、とくに豊かで高位である傾向にある、と以前に指摘されました。TAKとSBBにおけるエリート女性墓は、匈奴社会における上位個人に相応しい流儀と一致します。社会的地位と生物学的性別との間の関連は統計的に有意で、フィッシャーの正確検定のP値は0.002です。木板の棺に入念に埋葬されていない唯一の女性は子供でした。TAKとSBBにおける匈奴の女性の顕著な地位は、匈奴帝国における女性の強力な役割、および新たな領域や領土の拡大と統合の戦略において重要な立場だった可能性が高いことを物語っています。
●考察
このゲノム規模の考古遺伝学的研究では、匈奴帝国の西方辺境地に沿って位置する2ヶ所の墓地における、後期匈奴の個体群の高い遺伝的不均一性が見つかりました。全体的に、遺伝的不均一性はより低い地位の個体間で最高である、と分かりました。とくに、TAKにおけるエリートの方形墓を囲んでいる従者墓はきょくたんな水準の遺伝的不均一性を示しており、低位の家臣である可能性が高いこれらの個体は、匈奴帝国の多様な地域に由来した、と示唆されます。対照的に、TAKとSBBにおける最高位の個体群は、より低い遺伝的多様性と、EIA石板墓文化集団に由来する祖先系統を高い割合で有している傾向にあり、これらの集団は匈奴帝国の形成期に支配エリートに不相応に貢献した、と示唆されます。
それにも関わらず、TAKの辺境地墓地における貴族エリートの埋葬パターンは、匈奴帝国の中核内に位置するずっと巨大な方形墓の墓地とは対照的で、そうした匈奴帝国の中核では、ゴル・モド2遺跡1号墓のような埋葬複合はエリートの円形墓の従者埋葬に隣接しており、従者の埋葬の扱いと墓の備品から、そうした従者はTAKの家臣よりもずっと高い社会的地位だった、と示唆されます。したがって、TAKで観察された従者墓内のきょくたんな遺伝的不均一性は辺境地の状況により特徴的だったかもしれませんが、匈奴帝国中核の墓地におけるさらなる研究が、これらの動態の理解に必要です。
遺伝的多様性と地位に関連する一般的傾向にも関わらず、SBBおよびTUH遺跡における匈奴の家族も特定され、その拡大親族網は遺伝的に多様で、匈奴の遺伝的多様性を形成した混合過程の概観を提供します。注目すべきは、そうした結婚が匈奴の初期形成段階に限定されておらず、後期匈奴にも続いたことです。匈奴の墓地に関するいくつかの以前の調査とは対照的に、墓地内で密接な(1親等)親族は特定されず、幾何の位置と遺伝的特性の類似性との間の強い相関も観察されませんでした。しかし、SBB遺跡において相互に近くに埋葬された2親等親族の2事例が観察されました。匈奴帝国の墓地のより包括的な標本抽出のある将来の研究が、密接な親族がさまざまな埋葬文脈内でどのようにどこで埋葬されたのか、解決するのに必要です。
最後に、本論文の調査結果から、この研究における最高クラスの個体群が女性だったことも確証され、匈奴の女性は匈奴帝国の辺境地に沿って新たな領土の拡大と統合においてとくに顕著な役割を果たした、という以前の観察を裏づけます。この研究に基づいて、匈奴帝国全体の大規模で広範に発掘された匈奴墓地における密な標本抽出とゲノム規模の考古遺伝学的分析が、匈奴の中核から広範な辺境地までの匈奴社会の複雑な構造を高解像度で解明する、と期待されます。
参考文献:
Lee J. et al.(2023): Genetic population structure of the Xiongnu Empire at imperial and local scales. Science Advances, 9, 15, eadf3904.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adf3904
●要約
匈奴は最初の遊牧帝国権力で、紀元前200~紀元後100年頃まで、ユーラシア東部草原地帯を支配しました。最近の考古遺伝学的研究は、匈奴帝国全体のきわめて高水準の遺伝的多様性を証明しており、匈奴帝国が多民族的だったとする歴史的記録を裏づけています。しかし、この多様性が局所的共同体において、もしくは社会政治的地位によりどのように構造化されていたのか、不明なままです。本論文はこの問題に取り組むため、匈奴帝国の西部辺境の貴族および地域エリートの墓地を調べました。18個体のゲノム規模データの分析により、これら共同体内の遺伝的多様性は匈奴帝国全体と匹敵し、高い多様性は拡大家族内でも観察された、と示されます。遺伝的不均質は最低の地位の個体群で最も高く、多様な起源が示唆されますが、より高い地位の個体群は遺伝的多様性が低く、エリートの地位と権力はより広範な匈奴集団の特定の部分集合内に集中していた、と示唆されます。
●研究史
匈奴帝国は、ユーラシアにおいて勃興した多くの歴史的に記録された多くの草原地帯帝国の最初であり、その形成は、千年後に日本海【原文では「東海(East Sea)」表記】からカルパチア山脈までに及んだモンゴル帝国を含む、その後の遊牧帝国権力の台頭の前兆となりました。現在のモンゴルの領土を中心とする匈奴帝国は、ユーラシア東部草原地帯と現在の中国北部やシベリア南部やアジア中央部の周辺地域を、紀元前209年頃に始まり、紀元後1世紀後半における最終的な崩壊まで、約3世紀にわたって支配しました。匈奴はその最盛期には、アジアの中央部と内陸部と東部の政治経済に大きな影響を与え、中華帝国の主要な政治的競合相手となり、匈奴帝国の中心部へと深く入り込んだ、ローマのガラス、ペルシアの織物、エジプトのファイアンス焼き、ギリシアの銀、中国の銅や絹や漆器を輸入した、遠隔交易網を確立しました。
匈奴は完全に新たな種類の政治的実体を表しており、ユーラシア東部草原地帯から西方はアルタイ山脈に至る異質な遊牧民および定住民集団を、単一の権威の下で組み入れました。匈奴はモンゴル中央部および東部のその中核から拡大するにつれて、多くの近隣集団を征服して統合しました。匈奴は中国北部で決定的勝利を収めながら、モンゴル西部およびバイカル湖の南部地域への拡大に成功しました。しかし、匈奴は征服のための騎兵隊の動員において専門家以上の存在でした。匈奴は、アジア中央部の絹の道(シルクロード)の諸王国にかなりの影響を及ぼした抜け目のない交易相手でもあり、匈奴後期(紀元前50~紀元後100年頃)においてユーラシアの交流網により大きな影響さ及ぼしました。それにも関わらず、匈奴内部の社会的および政治的組織に関する詳細な理解は欠けています。
匈奴の歴史物語はほぼその漢人【という分類を匈奴が存在した頃に用いてよいのか、疑問は残りますが】の政治的競合相手の著したものであり、そこでは、匈奴の政治形態が遊牧民エリートの「単純な組織体」として繰り返し軽蔑的に特徴づけられました。匈奴の社会政治組織について現在知られていることのほとんどは、アジア内陸部全体の遺跡の増加とともに、文献証拠から収集されてきました。葬儀記録から、匈奴には社会経済的階層があり、埋葬様式や建設への投資や供物の観点で個体間に明確な違いがある、と示唆されています。後期匈奴のほとんどの特定されている墓は、表面の厚い石輪の下にある立坑です。これらの目立つ埋葬は匈奴社会の地域的および局所的エリートの広範なつながりを表していますが、一般人は目立たない積石の下もしくは人目につかない穴に埋葬された可能性が高そうです。
匈奴帝国の最上位の貴族支配エリートは大規模な方形墓に埋葬され、より低い地位の個体の従者の埋葬が連接し、埋葬複合を形成します。方形墓と大型円形墓のエリートは豊富な副葬品を伴う場合が多く、通常は装飾された厚い木板の棺に葬られ、「外国」の高級品、金や金箔の物、ウマや他の貴重な家畜の犠牲が伴います。匈奴帝国の象徴である太陽と月を表す金属製の円盤と三日月形も、そうしたエリートの墓で頻繁に見つかります。その富と景観上の目立つ外観のため、多くの匈奴の墓は古代から略奪されてきましたが、それにも関わらず、墓の形態の違いは明確な社会的段階を表しており、匈奴帝国内の排他的な政治的派閥として方形墓があります。
以前の考古遺伝学的研究は、匈奴を構成した人々の特定を試みており、匈奴帝国全体のひじょうに高水準の遺伝的多様性を明らかにしてきました。最近、匈奴の27ヶ所の遺跡の60個体のゲノム規模研究(関連記事)では、この多様性はまずモンゴルにおける2つの遺伝的に異なる牧畜民人口集団のとういつにより形成された、と分かりました。一方は、西方の鹿石キリグスール(Deerstone Khirigsuur)文化およびムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化およびサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化と関連する集団の子孫で、もう一方は、東方のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化および石板墓(Slab Grave)文化の子孫で、他地域からの追加の人口流入が続き、その可能性が最も高いのはサルマティア(現在のウクライナの近く)と中華帝国です。
しかし、この証拠は、匈奴帝国は多民族で多文化で多言語の実体だった可能性が高い、との以前の主張を裏づけますが、これまで、そうした多様性が局所的に均質な共同体の異質な寄せ集めだったのか、局所的共同体自体も内部は多様だったのかどうか、判断できませんでした。さらに、匈奴の政治的地盤の多くの側面は、方形墓の帝国のエリート被葬者を誰が攻勢したのか、精巧な複合墓内の従者墓に埋葬された個体を含む、より低い地位の個体群との関係はどうだったのかなど、依然として不明です。高位の方形墓のエリートと標準的な円形墓の地元のエリートが匈奴人口集団の同じ区分に由来するのかどうか、あるいは、帝国の形成と関連する人口統計学的過程地位と起源により階層化されていたかもしれないことを示唆する、地元のエリートは侵入してきた匈奴帝国のエリートよりも以前の地元の人口集団と遺伝的に類似している可能性がより高いのかどうかも不明なままです。
これらの問題に取り組むため、モンゴルの現在のホブド(Khovd)州における、匈奴帝国の最西端辺境地に位置する、タヒルティン・ホトゴル(Takhiltyn Khotgor、略してTAK)遺跡の貴族エリート墓地とショムブージン・ベルチル(Shombuuzyn Belchir、略してSBB)遺跡の地元のエリート墓地の一連の埋葬が詳細に遺伝的に調べられます。高位と低位の18個体のゲノム規模データの分析により、両共同体は匈奴帝国全体に匹敵する高水準の遺伝的多様性を有していた、と示されます。高い遺伝的多様性は個々の複合墓と埋葬クラスタ(まとまり)とさらには拡大家族内で反映されています。したがって、広範な規模で遺伝的に多様な帝国を生み出した同じ社会政治的過程が最小規模でも機能し、わずか数世代の間でひじょうに多様な局所的共同体を生み出した、と分かりました。
TAKとSBBにおける社会および政治的地位に関して、識別可能な遺伝的パターンもあり、最低の地位の個体群(墓の形態と遺骸に基づきます)は最高水準の遺伝的異質性を有しています。対照的に、高位の個体群は遺伝的にさほど多様ではなく、高水準のユーラシア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しています。これはさらに、匈奴帝国における上流階級の存在と、エリートの地位と権力がより広範な人口集団の特定の部分集合内に集中していたことを示唆します。
●匈奴の貴族エリートと地元のエリートと従属者のゲノム規模データの生成
この研究の前に、2つの考古遺伝学的研究がエグ川(Egyin Gol)とタミル・ウラーン・コーシュー(Tamir Ulaan Khoshuu、略してTUH)遺跡で匈奴帝国の政治的中核にある匈奴期の墓地を集中的に調査しましたが、これらの研究はゲノム規模データを生成しなかったので、個体の祖先系統と関係を追跡する能力は限定的でした。他の研究はゲノム規模データの作成に焦点を当ててきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、遺跡ごとの分析された個体数は少なく、匈奴の共同体もしくは社会政治的地位との関連の可能性内での遺伝的多様性を調べるには充分ではありません。
この問題に取り組むため、2ヶ所の匈奴の墓地の考古遺伝学的調査が実行されました。それは、アルタイ山脈の匈奴帝国の最西端の辺境地に位置する、TAKの貴族エリート墓地とSBBの地元のエリート墓地です。これらの墓地には、広範な方形墓から標準的な円形墓や貧弱な穴状墓まで、個体の完全な社会的範囲が含まれています。このデータセットは、匈奴帝国の社会的および空間的末端の共同体におけるエリートと従属者の遺伝的多様性と異質性と関係をより深く理解するのに役立ちます。次に、これら辺境地の匈奴共同体が、モンゴル全域の追加の29ヶ所の匈奴遺跡の以前に刊行された考古遺伝学的データと比較されました(図1A)。以下は本論文の図1です。
これらの墓の多くに隣接するのは低位の「平民」の墓で、それは石棺もしくは土の穴の埋葬の上の単純な石積で構成されます。これらの方形墓と従者墓がともに、拡張埋葬複合を形成します。TAKでは、2基の完全な方形墓埋葬複合が発掘され、THL-82とTHL-64と第三の複合であるTHL-25が部分的に発掘されました。THL-82は東西に2基の従者墓が隣接する、大きな中央のエリート方形墓で構成されます(図1B)。THL-82は成人女性1個体(TAK001)を含んでおり、この女性個体は装飾された木板の棺に埋葬され、6頭のウマと中国の青銅製の戦車(チャリオット)の破片と青銅製の噴出口のある壺が伴っていました。木板の棺の使用は、エリートの匈奴の政治的文化と儀式を厳守して、この辺境地の状況ではとくに注目に値し、それは、大きなカラマツ材の木製板はこのほぼ気がないアルタイ山脈地域への多大な労力と対価で輸入されたに違いないからです。この従者墓はそれぞれ、土坑埋葬で成人男性1個体を含んでおり(TAK008とTAK009)、その一方(TAK008)はうつ伏せ(顔が下側)の位置で埋葬され、より一般的な匈奴の埋葬である仰向け(顔が上側)の位置とは異なります。
THL-64は、東側に2基の従者墓がある、大きな中心にあるエリートの方形墓で構成されています(図1B)。THL-82のように、THL-64も女性1個体の遺骸(TAK002)を含んでおり、TAK002は木製板の棺に、1頭のウマ、4頭のヤギ亜科(ヒツジもしくはヤギ)、太陽と月を表す黄金の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。従者墓はそれぞれ、半屈曲状態で単純な石棺に埋葬された思春期の男性個体(TAK003とTAK004)を含んでおり、これはモンゴル西部において長期間続いた歔欷所的な埋葬伝統と一致する姿勢です。
複合墓THL-25は、従者墓のみがこれまでに発掘されており、東側に3基の従者墓が隣接する大きな中心の方形墓で構成されています(図1B)。3基の従者墓は、小さな石積だけが目印となっている単純な土坑埋葬で構成されており、子供1個体(TAK005)と成人男性2個体(TAK006とTAK007)が含まれています。合計で、TAK墓地では8個体が遺伝的に調べられ、そのうち本論文で新たに提示されたのは7個体で、1個体(TAK001)は先行研究(関連記事)で報告されていました。
TAKの南西約50kmに位置するSBBの地元エリート墓地は、戦略的な高い峠に沿って位置し、その期間は紀元前50年~紀元後210年頃にまたがります。他の地元のエリートの匈奴墓地と一致して、TAKは成人の男女両方と子供の遺骸を含む円形墓でおもに構成されています。33基の墓のうち15基がこれまでに発掘されており、そのうち11基はこの研究で遺伝的に検査され、11基のうち10基はゲノム規模分析に充分なほど保存されていました(図1C)。分析された個体は、装飾された木板の棺と精巧な副葬品のある大きな石で囲まれた墓の個体から小さな石棺で構成される粗末な埋葬まで、明白な社会的地位の全範囲に及びます。
分析された墓のうち5基(12・13・14・15・18号墓)は1クラスタに配置されていますが、他の墓は空間的に分散しており、墓地の残りの代表的な標本として選択されました(2・7・8・19・26・29号墓)。7・8・15・19号墓はこの研究で分析された最高位の墓で、各墓は石輪で囲まれた木板の棺に埋葬された成人女性1個体で構成されます。7号墓は年長の成人女性1個体(SBB002)の遺骸を含んでおり、木製の手押し車、青銅製の大釜、土器の調理鍋、木板の棺に釘付けされた金の太陽の円盤と月の三日月形が共伴します。8号墓は年長の成人女性1個体(SBB003)の遺骸を含んでおり、この個体は四葉の装飾された棺に埋葬され、金色のガラス玉、中国の鏡の断片、少なくとも12頭のヤギ科(ヒツジもしくはヤギ)で構成される家畜の供物の大きな堆積が共伴します。
15号墓には成人女性1個体(SBB007)の遺骸が含まれ、この個体は木製の手押し車の断片、乗馬用の鋲、金箔の鉄製の帯留め具、漢王朝(Han Dynasty)の漆塗り杯とともに置かれた装飾された木板の棺に埋葬されています。19号墓は明らかに出産時に死亡した若い成人女性1個体(SBB008)の遺骸を含んでおり、この女性個体は乳児とともに埋葬され、子供の保護と関連するエジプトの神であるBesの男根を描いた、ファイアンス焼きの玉を含む玉で作られた首飾りを身に着けていました。SBB003と同様に、SBB008も中国の鏡の断片とともに埋葬されていました。
残りの墓はより単純で、小さな石棺もしくは石棺の上の石積で構成されます。13号墓は中年の男性1個体(SBB001)で構成され、弓や矢や槍が共伴します。12号墓に埋葬された思春期の1個体(SBB011)も弓や矢や槍とともに埋葬されており、26号墓に埋葬された子供1個体(SBB009)は子供の大きさの弓とともに埋葬されました。さらに3人の子供が14号墓(SBB005)と18号墓(SBB006)と29号墓(SBB004)に埋葬されており、副葬品は14および18号墓ではさまざまなガラス玉で構成されていますが、29号墓の子供は絹や革やフェルトとともに埋葬されていました。最後に、2号墓は年長の成人男性1個体(SBB010)を含んでおり、鉄製の太陽の円盤および三日月形とともに埋葬されていました。埋葬堆積物の検査により、全てのSBB埋葬で絹の衣類の痕跡が回収されました。
この研究では、TAKとSBBの19個体で新たなゲノム規模データが生成され、そのうち17個体には分析に充分なヒトDNA(0.1%超)が含まれており、これらのDNAライブラリが、溶液内DNA捕獲手法を用いて、1233013の祖先系統の情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の「124万」パネルで、さらに濃縮されました。濃縮および配列決定後、11950~659982のSNPが、各個体で少なくとも1つの高品質の読み取りによる網羅に成功しました。内在性DNA保存が30%を超える6個体(SBB003、SBB007、SBB010、TAK002、TAK006、TAK008)について、0.7~2.5倍の網羅率で全ゲノムショットガン配列決定データも生成されました。全てのライブラリは古代DNA損傷の特徴的パターンを示し、短い断片長と末端におけるシトシンの脱アミノ化が含まれます。
17個体すべてで遺伝的性別が決定され、全個体でのミトコンドリアDNA(mtDNA)と男性10個体でのX染色体を用いて推定されたように、すべての個体は低い汚染率(6%)を示しました。下流集団遺伝学的分析については、疑似半数体遺伝子型呼び出しが実行され、この研究の新たな遺伝子型データがTAK001について以前に刊行された遺伝子型データおよび他の古代と現在の個体群と連結されました。各個体について片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)ハプログループの割り当ても試みられ、17個体でmtDNAハプログループ(mtHg)が、男性10個体のうち6個体でY染色体ハプログループ(YHg)の決定に成功しました。TAKとSBBと以前に報告された遺跡の個体間の遺伝的近縁性が推定されました。2組の遺伝的親族がSBBで特定されました。一方は2親等の親族(SBB005とSBB007)で、もう一方は2親等かより遠い関係の親族でした(SBB001とSBB005)。
●匈奴祖先系統のモデル化
TAKおよびSBB遺跡、およびより一般的に匈奴人口集団のより詳細な遺伝的分析に進む前に、まず匈奴祖先系統のモデル化が改良および更新され、モンゴル中央部および東部の先行する後期青銅器時代(Late Bronze Age 、略してLBA)および前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)期間の新たな利用可能なゲノム規模データ(関連記事)が組み込まれました。先行研究では、初期匈奴の個体群が、EIA(紀元前900~紀元前300年頃)のモンゴルに存在した2つの異なる遺伝的集団の混合としてモデル化されました。つまり、チャンドマン(Chandman)文化集団(チャンドマン_IA)と石板墓文化集団(石板墓)です。
チャンドマン_IAは、シベリアおよびカザフスタンのサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)やサカ(Saka)文化(紀元前900~紀元前200年頃)やパジリク(Pazyryk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)の集団と関連する、モンゴル西端の人々の代表でした。「石板墓」は、石板墓文化(紀元前1000~紀元前300年頃)の埋葬遺跡と関連するモンゴル東部および中央部の人々の代表です(関連記事)。モンゴル東部においてLBAのウランズーク文化(紀元前1450~紀元前1150年頃)から生じた可能性が高い石板墓文化集団はモンゴル中央部および北部へ、北方ではバイカル湖地域にまで拡大しました。
全体的に、ウランズークおよび石板墓文化の個体群は均質な遺伝的特性を示しており、それはこの地域に深い起源があり、古代アジア北東部人(Ancient Northeast Asian、略してANA)と呼ばれます。ウランズークおよび石板墓文化個体群の追加のゲノム規模データの最近の刊行(関連記事)は、より広範な地理的分布にわたる石板墓文化個体群の調査と、改より改良一般的に匈奴の形成の遺伝的モデル化改良の機会を提供しました。qpAdmプログラムを用いて、ウランズークおよび石板墓文化個体群の混合モデル化が更新されました。
まず、先行する青銅器時代の前とLBAウランズーク文化の個体(13個体)間のモンゴル東部における微妙な遺伝的変化が検出されました(図2A)。モンゴルで最北端のフブスグル(Khovsgol、Khövsgöl)県で見つかった個体(フブスグル_LBA)など、モンゴル北部の近隣のLBA人口集団からの遺伝子流動として、この違いがモデル化されました。全体的に、ウランズーク文化個体群はフブスグル_LBAからの24.5%の寄与を有するものとして適切にモデル化され個体水準では、フブスグル_LBAからの13.9~33.4%の寄与がある同じモデルにもほとんど適合し、例外は以上に高いフブスグル_LBAからの寄与(63.5%)がある1個体(ULN005)です。混合モデル化の結果に基づくと、ウランズーク文化の13個体のうち12個体は、ずっと高いフブスグル_LBA との類似性の点で、ULN005を除いて1分析単位(ウランズーク1)としてまとめられ(ULN005はウランズーク2として別に分析されました)、これはウランズーク文化個体群の遺伝子プールの代表として用いられます。以下は本論文の図2です。
鉄器時代(IA)石板墓文化個体群(16個体)の遺伝的構成をより深く理解するため、その遺伝的特性が先行するウランズーク文化個体群と比較されました。新たに刊行された11個体(関連記事)のデータを組み入れて、先行研究(関連記事)では検出されなかった微妙な遺伝的異質性が確認されました。16個体のうち11個体がウランズーク1とクレード(単系統群)を構成する一方で、残りの3個体は追加のフブスグル_LBA祖先系統を必要とします(図2)。とくに、石板墓文化の3個体(I6359、I6369、DAR001)は、フブスグル_LBA祖先系統の高い割合(42.6~79.7%)により他の個体とは顕著に異なります。
ほとんどの石板墓文化個体が遺伝的に均質な一方で、一部がフブスグル_LBA的遺伝子プールに由来する大きくて異質な祖先系統割合を有しているこのパターンは、近い過去の人口集団の混合に起因する可能性が高そうで、石板墓文化がモンゴルの中央部および北部に拡大し、この地域で在来の住民を低水準の混合で置換した、という考古学的証拠と一致します。集団に基づく下流分析での使用のため、個体の祖先系統モデル化に基づいて、石板墓文化の大半の個体(16個体のうち13個体)が単一の集団「石板墓1」に分類されましたが、集高い割合のフブスグル_LBA祖先系統を有する残りの3個体は別集団「石板墓2」に分類されました。
本論文で提示された新たな匈奴期個体群の遺伝的特性を特徴づけるため、qpAdmを用いてTAKおよびSBBの個体群の祖先系統構成がモデル化されました(図2)。ほとんどの個体(18個体のうち15個体)は、ユーラシア東部供給源としてウランズーク/石板墓と漢人_2000年前を用いた、匈奴の個体群に以前に適用された混合モデルにより、適切にモデル化されました。15個体のうち8個体は、石板墓1とチャンドマン_IAという2つの祖先系統でモデル化されました。5個体(SBB001、SBB002、SBB006、SBB008、SBB009)は石板墓1とチャンドマン_IAの間の混合で(石板墓1からは32~91%)、1個体(TAK005)はチャンドマン_IAと区別できず、2個体(SBB004とTAK004)は石板墓1と区別できません。さらに5個体が、ANAとは異なる追加のアジア東部祖先系統を用いてモデル化され、それは漢人_2000年前により表されます。3個体(SBB003、SBB005、SBB007)は石板墓1(28~77%)とチャンドマン_IA(11~52%)と漢人_2000年前(12~19%)の混合としてモデル化され、2個体(TAK002、TAK006)は石板墓1(48~74%)と漢人_2000年前(26~52%)の混合としてモデル化されます。
最後に、2個体はアジア中央部のゴヌル(Gonur)遺跡の青銅器時代(BA)個体群(ゴヌル1_BA)により表されるイラン/アジア中央部祖先系統を必要とします。一方の個体(SBB010)は石板墓1(39%)とチャンドマン_IA(48%)とゴヌル1_BA(13%)の混合として、もう一方の個体(TAK003)はチャンドマン_IA(72%)とゴヌル1_BA(28%)の混合としてモデル化されます。TAK003は同じ祖先系統の寄与がある以前に記載された初期匈奴個体群(前期匈奴_西部)よりもゴヌル1_BA関連祖先系統の割合が高く、匈奴の前期と後期の間におけるアジア中央部からの継続的な遺伝子流動を報告した以前の研究(関連記事)が裏づけられます。
石板墓1が鉄器時代の鮮卑(Xianbei)の状況に属するモンゴル南部(中華人民共和国内モンゴル自治区)のアムール川流域の個体(AR_鮮卑_IA)に置き換えられると、全てのqpAdm混合モデルが等しく適合することに要注意です。ウランズークおよび石板墓文化と関連する2個体(BUL002、I6365)を除く男性は全員YHg-Qに、AR_鮮卑_IAの男性3個体は全員YHg-Cに、匈奴の男性はYHg-QおよびCの両方に分類されます。決定的ではありませんが、これは、匈奴期の個体群のANA祖先系統供給源が石板墓文化のみさかのぼるのではなく、鮮卑など類似のANA遺伝的特性がある近隣集団も含んでいるかもしれない、と示唆します。
18個体のうち残りの3個体は同じ埋葬複合THL-82から発掘され、異なるユーラシア東部祖先構成要素を必要とします。従者墓の2個体(TAK008、TAK009)は高い割合のユーラシア西部祖先系統を有していますが、チャンドマン_IAもしくは前期匈奴_西部のどちらかとの姉妹クレードとしてモデル化されません。次に、その遺伝的特性が世界規模の古代および現在の人口集団一式でf4(ムブティ人、世界規模の比較対象;TAK008/TAK009、前期匈奴_西部)の計算により比較されました。前期匈奴_西部との有意な余分の類似性を示す人口集団はありませんが、いくつかの人口集団はTAK008/TAK009と余分な類似性を示します。
TAK009については、上位の兆候はほぼアジア東部の古代の個体群/人口集団です。これと一致して、TAK009は前期匈奴_西部とさまざまなアジア東部人口集団の混合として適切にモデル化され、その中にはフブスグル_LBAや石板墓1や漢人_2000年前が含まれます。TAK008については、全体的な類似の傾向が観察されますが、古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)との高い類似性を有する人口集団が見つかり、上位の兆候では、たとえば、バイカル湖に近いウスチ・キャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡の14000年前頃の個体(UKY)や、現在のアメリカ大陸先住民のミヘー人(Mixe)とケチュア人(Quechua)です。
これと一致して、TAK008はフブスグル_LBAもしくはUKY)からの10%以下の寄与で適切にモデル化されるものの、石板墓1や漢人_2000年前などANEとの類似性のない他のアジア東部人の代理では適切にモデル化されません。方形墓で発見された以前に刊行された女性個体であるTAK001は、TAK008およびTAK009とおなじモデルで適切に説明されるものの、混合割合はさまざまです。TAK001の祖先系統は、90.7%がフブスグル_LBAに、残りは前期匈奴_西部に由来します。
匈奴期において、石板墓祖先系統と関連しない形態でのフブスグル_LBA祖先系統の存在が観察されることはかなり予想外で、それは、EIAのモンゴルにおいてフブスグル_LBA祖先系統は石板墓祖先系統にほぼ置換されたからです。フブスグル_LBA祖先系統はモンゴル期のハルザン・ホシュー(Khalzan Khoshuu)遺跡からも報告されており、この遺跡はTAK遺跡からわずか95km離れているだけです。LBA後のフブスグル_LBA祖先系統の時空間的分布、とくにアルタイ地域の分布の理解には、さらなる標本抽出が必要です。
●匈奴共同体内および匈奴帝国全域での高い遺伝的多様性
TAKとSBB、および匈奴帝国全体での匈奴の遺伝的多様性の空間的パターンを調べるため、先行研究で記載された手法に従って主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行され(図3)、アフィメトリクス社アクシオムゲノム規模ヒト起源1(Affymetrix Affymetrix Axiom Genome-Wide Human Origins 1、略してHO)配列で遺伝子型決定された現在の個体群の遺伝子型データセットに、古代の個体群が投影されました。全ての新たな匈奴の個体は、匈奴について以前に報告された遺伝的特性(関連記事)の多様性範囲内に収まり、ユーラシア人の東西間で主成分1(PC1)に沿って広く分散します。このパターンから、全体的に匈奴で観察された顕著な遺伝的異質性は、匈奴帝国中核から遠い西方辺境地に沿った遺跡にも存在する、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
次に、各遺跡内の遺伝的異質性の水準が定量化され、モンゴル内の全体的な匈奴の遺伝的多様性と比較されました(図4)。各個体のPC1座標が分析の主要な変数として用いられました。それは、PC1は一般的に匈奴とユーラシア人両方の内部における遺伝的差異の主軸を把握しているからです。高低のPC1値は、それぞれ東部と西部のユーラシア人との高い遺伝的類似性を表しています。以下は本論文の図4です。
PC1軸に沿ったSBBとTAKの個体群の広範な分布に基づいて、各遺跡はひじょうに不均一だと分かりました。各遺跡と匈奴全体(全匈奴)の遺伝的多様性を統計的に比較するため、2集団が同等のPC1偏差を有する、という帰無仮説についてブラウン・フォーサイス検定が適用されました。TAKは全ての匈奴個体の偏差と区別できない水準でひじょうに不均一ですが、SBBは全匈奴よりも低い多様性を示します。少なくとも5個体が標本抽出された、以前に刊行された匈奴の遺跡の遺伝的多様性も比較されました。モンゴル北部の前期匈奴のサルキティン・アム(Salkhityn Am、略してSKT)遺跡(11個体)は、全匈奴と類似した高水準の不均一性を示します。さらに東方に位置する後期匈奴のウグウムル・ウウル(Uguumur Uul、略してUGU)遺跡(5個体)は、ユーラシア西部祖先系統のより高い寄与があるより中間的な水準の多様性を示しますが、統計的には依然として全匈奴に匹敵します。しかし、この遺跡の標本規模が小さいことから、統計的解像度は限定的です。
UGUは依然として、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)よりもずっと高い多様性を示します。対照的に、さらに北東に位置する別の後期匈奴となるイルモヴァヤ・パッド(Il’movaya Pad、略してIMA)遺跡(8個体)は、おもにユーラシア東部祖先系統を有しています。その遺伝的多様性は全匈奴よりずっと低く、先行するEIA集団(石板墓およびチャンドマン_IA)と匹敵します(図4)。IMA遺跡における低い遺伝的多様性は、偏った標本抽出の歪みかもしれないことに要注意です。それは、わずか8個体が遺跡の300ヶ所の円形墓と方形墓で分析されたからです。10000のSNPに低解像度処理された各個体について100回PC座標の計算を繰り返すと、結果は低網羅率の個体群におけるPC座標のより高い不確実性に影響を受けない、と分かりました。
広く匈奴の全個体と局所的共同体の遺伝的多様性の同等水準から、ひじょうに不均一な匈奴帝国に寄与した動的な人口統計学的過程は局所的規模でも起きた、と示唆されます。TAKとSBBとUGUの墓地内の高い遺伝的多様性は、単一の局所的共同体内の多様な遺伝的背景のある個体群の共存と、これが匈奴の政治的形成の数世紀後となる後期匈奴においてさえ継続したことと、前期匈奴の初期においてすでに進行していた遺伝的混合の関連する人口統計学的過程を確証します。全体的に、全ての期間における教示で見られる高い遺伝的多様性は、「代表的な」匈奴の遺伝的特性の定義の意味のある試みを妨げます。それは代わりに、匈奴帝国を最も特徴づけるユーラシアの遺伝的多様性のほぼ全体にまたがる人口集団水準の遺伝的不均一性だからです。
●社会的地位の遺伝的多様性と考古学的意味
匈奴の遺伝的多様性が社会的地位もしくは社会的集団への帰属によりどのように構造化されていたかもしれないのか、より深く理解するため、TAKの貴族エリート墓地(図3D)とSBBの地元エリート墓地(図3E)の考古遺伝学的データが調べられました。TAKでは、2基の完全な方形墓複合が発掘されており(THL-82、THL-64)、個別の埋葬単位内の遺伝的多様性の調査が可能になります。年長の成人女性1個体(TAK001)が成人男性(TAK008、TAK009)の2基の従者墓に隣接する方形墓に埋葬されている、最も豊かな複合墓であるTHL-82については、3個体間で遺伝的近縁性は確認されませんでした。高位女性の遺伝的特性が低位男性2個体とは強く異なっていた一方で、低位男性2個体は相互に遺伝的に類似しており、ずっと高水準のユーラシア西部祖先系統を有していました(図2B)。つまり、これら男性2個体がまとめて前期匈奴_西部祖先系統86.8%でモデル化される一方で、TAK001はこの祖先系統構成要素を9.3%しか必要としません。低位男性の高い割合のユーラシア西部祖先系統とは対照的に、高位女性(TAK001)は、石板墓1ではなくフブスグル_LBAにより表される高水準のユーラシア東部祖先系統を示します。
思春期個体の従者墓2基とともに方形墓に埋葬された成人女性1個体(TAK002)を含むもう一方の方形墓複合であるTHL-64については、思春期の両個体は男性と判断されました。しかし、THL-82とは異なり、帝位の若い男性は遺伝的に類似しておらず(図2B)、一方の個体(TAK003)はひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA、ゴヌル1_BA)を有しており、もう一方の個体(TAK004)は高水準のユーラシア東部祖先系統(石板墓1)を有しています。同様に高位女性は、2供給源(石板墓1、漢人_2000年前)に由来する高水準のユーラシア東部祖先系統(図3D)を有しています。
最後に、方形墓が発掘されていない、THL-25と関連する従者墓3基が分析されました。3個体のうち2個体(子供のTAK005と成人男性のTAK006)から分析に充分なDNAが得られました。この両個体は親族関係にない男性で、遺伝的にはひじょうに似ていない、と判断されました。子供の方(TAK005)がひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有している一方で、成人男性の方(TAK006)はTAK遺跡で観察された最高のユーラシア東部祖先系統(石板墓1、漢人_2000年前)を有しています。
したがって、TAK墓地の個々の複合墓内でのひじょうに高い遺伝的多様性が見つかりました。高位の女性両個体(TAK001、TAK002)は比較的高水準のユーラシア東部祖先系統を有していますが、低位の従者墓の男性は、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統からひじょうに高水準のユーラシア東部祖先系統まで、ひじょうに高い遺伝的不均一性を示しました。低位男性が高位女性の家臣もしくは使用人だったならば、低位男性は匈奴帝国の多様な地域および匈奴帝国外の出自だったかもしれない、と示唆されます。
SBB遺跡では、より低い全体的な遺伝的多様性が見つかり、とくに、ひじょうに高水準のユーラシア西部祖先系統を有する個体は見つかりませんでした(図3E)。しかし、ユーラシア西部祖先系統を最高水準で有するのは成人男性2個体(SBB001とSBB010)であるものの、この2個体のユーラシア西部祖先系統はわずかに異なる供給源に由来します(SBB001はチャンドマン_IA、SBB010はチャンドマン_IAとゴヌル1_BA)。TAKでは、最高位の墓は女性で(SBB002、SBB003、SBB007、SBB008)、これらの女性全員のモデル化された祖先系統は石板墓1を含んでおり、他のわずかな祖先系統の寄与があります。SBB007が女性との遺伝的判断はとくに注目されます。それは、この墓が乗馬用具や金箔の鉄製の帯留め具や漢王朝の漆塗り杯を含んでおり、それらの副葬品は別の文脈では男性の騎乗戦士と関連した従装具と想定されているからです。同様に、成人男性であるSBB010は鉄製の針が入った骨製管箱とともに埋葬されており、報歳道具が女性だけと関連していたわけではなかったことを示唆しています。
【解剖学的に】性別が不確かだった、子供3個体(SBB004、SBB005、SBB006)と思春期1個体(SBB009)の遺伝的性別も決定されました。SBB005とSBB006は女性でしたが、SBB004とSBB009は男性でした。SBB009は、11~12歳の思春期男性成人男性SBB001および年長の思春期個体SBB011とともに埋葬されていた弓と似ている、子供用の大きさの弓とともに埋葬されており、若い時に弓の使用を習っていた、という匈奴社会の男性の説明を裏づけます。これはSBB009の事例のように10代前半の若い男性には当てはまる可能性が高そうですが、幼い子供期には当てはまらない可能性が高そうで、それは、4~6歳の子供であるSBB004の墓にそうした装具がないことにより証明されています。
SBBにおける埋葬の空間的関係を調べると、空間的近接性と遺伝的祖先系統特性との間に有意な相関は見つかりませんでした(図3E)。2個体の遺伝的祖先系統特性の類似性を表すため、上位2主成分(PC)の空間で定義された2点間のユークリッド距離が用いられました。マンテル検定で提供されたP値は0.146で、2つの埋葬と遺伝的距離との間の空間的近接性が無関係である、という帰無仮説を却下できませんでした。SBBの5基の墓クラスタの個体(SBB001とSBB005とSBB006とSBB007で構成され、SBB011からは分析可能なゲノム規模データが得られませんでした)が他者よりもその遺伝的特性において類似している、という仮説も裏づけることができませんでした。これを判断するため、各個体の組み合わせの地理的距離が、クラスタ内の組み合わせでは1、他の組み合わせでは0に置換されました。しかし、相互に隣に埋葬された親族関係のある個体2組(SBB001とSBB005、およびSBB005とSBB007)に基づいて、親族は相互と有意により密接に配置されている、と分かりました。SBBもしくはTAKにおいて親族関係のある個体はこれらだけでした。
成人男性SBB001と子供の女性SBB005は2親等の親族でしたが、遺伝的には相互に似ておらず、成人男性SBB001はずっと高水準のユーラシア西部祖先系統(チャンドマン_IA)を有しています。子供の女性SBB005はSBB007の2親等の親族でもあり、SBB007は金箔の帯留め具や漢王朝の漆塗りとともに埋葬された高位女性でした。SBB005とSBB007の両女性個体は、漢人_2000年前としてモデル化されるわずかな祖先系統構成要素を共有しています。匈奴におけるゲノム規模の遺伝的近縁性に関する以前の調査は、親族関係の組み合わせの10事例を特定しました(関連記事)。
これらのうち全ての組み合わせは、同じ場所内もしくはひじょうに近い場所に埋葬されており、ほとんどの組み合わせは遺伝的に類似しています。しかし、モンゴル北部中央のタミル・ウラーン・コーシュー遺跡の2親等の母系で関連する男性1組(タミル・ウラーン・コーシュー001とTUH002)は同様に、比較的高水準の遺伝的非類似性を示し、一方の男性はもう一方よりかなり多いユーラシア西部祖先系統を有していますが、SBB001とSBB005との間ほど違いは大きくありませんでした。より高水準の遺伝的多様性を含むそうした拡大家族は、匈奴では比較的一般的だったかもしれませんが、その確認には墓地のより密な標本抽出が必要でしょう。
遺伝的近縁性の検出だけではなく、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の塊も調べられました。SBB005は合計で55.1 cM(センチモルガン)になる長いROHの塊を有しており、差異著の塊は40.7 cMに及ぶ、と分かり、SBB005は2親等の親族の夫婦の子供と示唆されます。近親婚は遺伝的近縁性の推定を歪める可能性があるので、SBB005とSBB001とSBB007との間の遺伝的近縁性の程度は、わずかに過大評価されるかもしれません。それにも関わらず、SBBにおける遺伝的多様性と不均一性遺伝的近縁性の全体的なパターンから、一部の地元エリート家族は遺伝的にひじょうに多様で、婚姻は遺伝的に異質な個体間で起き、拡大親族関係の複雑な交流を作った、と示唆されます。
●匈奴エリートの遺伝的動態
まとめると、TAKとSBBのエリート遺跡において高水準の遺伝的不均一性および多様性が観察され、最高の遺伝的不均一性は最も低い地位の個体間で観察されました。対照的に、貴族および地元のエリート女性であるこの研究における最高位の個体群は、より高水準のユーラシア東部祖先系統を有しており、多様性が低い傾向にある、と分かりました。ユーラシア東部祖先系統はより高いPC1値により表され、高位個体群のPC1の平均は、低位の個体群よりも有意に大きくなります。これは、エリートの地位と権力が、先行するEIA石板墓文化集団に祖先系統がさかのぼる個体に不釣り合いに集中していたことを示唆します。エリート女性6個体のうち3個体、低位の子供の女性1個体、低位の男性1個体は、漢人_2000年前と一致するわずかな祖先系統寄与を有しており、漢王朝の集団との地域間のつながりが、以前に理解されていたよりも大きくて複雑だったかもしれない、と示唆されます。
この研究の前には、エリートの方形墓の1個体のみが、ゲノム規模の方法で分析されました。それは、モンゴル中央部北方の匈奴帝国のエリート遺跡であるゴル・モド2(Gol Mod 2)遺跡の1号墓で発見されたDA39です。この成人男性はこれまでに発掘された最大の方形墓複合の一つに埋葬されており、少なくとも27個体の従者の埋葬に囲まれており、ローマのガラス製鉢など稀な外来物を含んでいて、匈奴帝国の単于(chanyu)もしくは支配者だった可能性が高そうです。西方辺境地のエリート女性と同様に、DA39もひじょうに高い割合のユーラシア東部祖先系統(石板墓1から39.3%、漢人_2000年前から51.9%、残りはチャンドマン_IA)を有しており、THL-64墓のTAK002と遺伝的に類似していました。地位と権力の指標により階層化された祖先系統のそうしたパターンは、匈奴の政治的形成の性質と、匈奴帝国の多様な政治的行為者の相対的な権力動態に関する手がかりを提供します。
最後に、これら辺境地共同体の女性における富の集中とエリートの地位は、さらに注目されます。匈奴帝国の周辺地域における女性の墓は、とくに豊かで高位である傾向にある、と以前に指摘されました。TAKとSBBにおけるエリート女性墓は、匈奴社会における上位個人に相応しい流儀と一致します。社会的地位と生物学的性別との間の関連は統計的に有意で、フィッシャーの正確検定のP値は0.002です。木板の棺に入念に埋葬されていない唯一の女性は子供でした。TAKとSBBにおける匈奴の女性の顕著な地位は、匈奴帝国における女性の強力な役割、および新たな領域や領土の拡大と統合の戦略において重要な立場だった可能性が高いことを物語っています。
●考察
このゲノム規模の考古遺伝学的研究では、匈奴帝国の西方辺境地に沿って位置する2ヶ所の墓地における、後期匈奴の個体群の高い遺伝的不均一性が見つかりました。全体的に、遺伝的不均一性はより低い地位の個体間で最高である、と分かりました。とくに、TAKにおけるエリートの方形墓を囲んでいる従者墓はきょくたんな水準の遺伝的不均一性を示しており、低位の家臣である可能性が高いこれらの個体は、匈奴帝国の多様な地域に由来した、と示唆されます。対照的に、TAKとSBBにおける最高位の個体群は、より低い遺伝的多様性と、EIA石板墓文化集団に由来する祖先系統を高い割合で有している傾向にあり、これらの集団は匈奴帝国の形成期に支配エリートに不相応に貢献した、と示唆されます。
それにも関わらず、TAKの辺境地墓地における貴族エリートの埋葬パターンは、匈奴帝国の中核内に位置するずっと巨大な方形墓の墓地とは対照的で、そうした匈奴帝国の中核では、ゴル・モド2遺跡1号墓のような埋葬複合はエリートの円形墓の従者埋葬に隣接しており、従者の埋葬の扱いと墓の備品から、そうした従者はTAKの家臣よりもずっと高い社会的地位だった、と示唆されます。したがって、TAKで観察された従者墓内のきょくたんな遺伝的不均一性は辺境地の状況により特徴的だったかもしれませんが、匈奴帝国中核の墓地におけるさらなる研究が、これらの動態の理解に必要です。
遺伝的多様性と地位に関連する一般的傾向にも関わらず、SBBおよびTUH遺跡における匈奴の家族も特定され、その拡大親族網は遺伝的に多様で、匈奴の遺伝的多様性を形成した混合過程の概観を提供します。注目すべきは、そうした結婚が匈奴の初期形成段階に限定されておらず、後期匈奴にも続いたことです。匈奴の墓地に関するいくつかの以前の調査とは対照的に、墓地内で密接な(1親等)親族は特定されず、幾何の位置と遺伝的特性の類似性との間の強い相関も観察されませんでした。しかし、SBB遺跡において相互に近くに埋葬された2親等親族の2事例が観察されました。匈奴帝国の墓地のより包括的な標本抽出のある将来の研究が、密接な親族がさまざまな埋葬文脈内でどのようにどこで埋葬されたのか、解決するのに必要です。
最後に、本論文の調査結果から、この研究における最高クラスの個体群が女性だったことも確証され、匈奴の女性は匈奴帝国の辺境地に沿って新たな領土の拡大と統合においてとくに顕著な役割を果たした、という以前の観察を裏づけます。この研究に基づいて、匈奴帝国全体の大規模で広範に発掘された匈奴墓地における密な標本抽出とゲノム規模の考古遺伝学的分析が、匈奴の中核から広範な辺境地までの匈奴社会の複雑な構造を高解像度で解明する、と期待されます。
参考文献:
Lee J. et al.(2023): Genetic population structure of the Xiongnu Empire at imperial and local scales. Science Advances, 9, 15, eadf3904.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adf3904
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