問題のある見解や人類の攻撃性などの雑感

 日頃色々と考えているものの、それぞれ単独の記事にまとめられるほど整理できているわけではない事柄について、この機会に雑多に述べることにします。インターネット、とくにSNSの普及により、私もそうですが、平凡もしくはそれ以下の大衆の一人にすぎなくても世界中に容易に情報を発信できるようになり(もちろん、平凡な大衆の一人がSNSで発言しても、ほとんどの場合ほぼ全くと言ってよいほど世界的に大きく注目されることはないわけですが)、馬鹿げた見解を世界中の人々が閲覧することも可能になったわけです。かつては、新聞や雑誌やラジオやテレビといった大衆媒体の編集権により、そうした馬鹿げた見解が世界中に閲覧されることはある程度防がれていた、とも言えるわけですが、当然、そうした時代において大衆媒体の情報発信が間違っていたり偏っていたりしたことも珍しくありませんでした。

 こうした現代社会において、馬鹿げていたりとっくに否定されていたり倫理的に問題があったりする見解をインターネット、とくにSNS上で見つけることは容易で、そうした見解への反論や否定や罵倒や嘲笑を見つけることも容易です。ただ、そうした馬鹿げていたりとっくに否定されたりしている見解を発信している人(アカウント)が、たとえばTwitterではフォロワー数が二桁や三桁前半といった事例も珍しくなく、そうした人々(アカウント)をことさらに晒上げるかのような行為がどれだけ有意義なのか、といった疑問は残ります。

 ただ、馬鹿げていたりとっくに否定されていたり倫理的に問題があったりする見解への反論や否定や罵倒や嘲笑などは、自身が倫理的であることを閲覧者に周知させ(道徳性の誇示)、自身の評判を高めたり維持したりする効果があることも否定できないでしょう。より直接的には、問題のある見解を発信している人に対する反論や否定や罵倒や嘲笑などは、倫理的および知的優越感とつながっており、快楽であることは間違いないでしょう。最近偶然見つけたアカウントは、自己紹介欄で「先祖代々日本の土地を護る真の愛国者」、「趣味は『知性が足りない反日ネトウヨの監視』」、「ネトウヨの愛国フェイクをぶっ壊〜す」と述べており、少し閲覧した限りでは呟きがかなり攻撃的で嘲笑的であることからも、問題のある見解を述べるアカウントへの反論や否定や罵倒や嘲笑などが快楽になっている可能性は高そうです。このアカウントは「左寄り」と言えるかもしれませんが、「右寄り」でも同様のアカウントは珍しくないと予想されます。

 進化心理学については不勉強なので、的確な説明はできませんが、こうした攻撃性は進化心理学的観点から説明可能かもしれません。更新世人類の協働採食行動では仲間の選択が重要となり、成果を独占するような利己的にすぎる個体は排除されて破滅していき、この相互依存により人類は誰もが裁き裁かれるようになったことを認識し、お互いの評判を気にするようになった、と指摘されています(関連記事)。お互いの評判を気にするようになったことは道徳性の誇示に、問題のある個体を排除する行為は、問題のある見解を発信する人々への反論や否定や罵倒や嘲笑などにつながり、そうした行為を快楽と感じるような認知機序が選択されていった、とも考えられます。進化心理学への批判は多いようですが、現時点で進化心理学に多くの問題があるとしても、将来はさらに有効な分野になるだろう、と考えています。

 もちろん、主観的にはそうした「快楽」ではなく、「真摯に」問題のある見解への反論や否定や罵倒や嘲笑している人は少なくないでしょうし、それは社会的に有意義である、との確信がそうした人々にはあるのだと思います。ただ、Twitterにてフォロワー数が二桁や三桁前半のアカウントの問題のある見解への反論や否定や罵倒や嘲笑などは、「社会的意義」の観点では費用対効果がきわめて低いことも否定できず、そうした行為が「快楽」目的と判断されても仕方のないところはあると思います。

 一方で、影響力の低い人々の問題のある見解への反論や否定や罵倒や嘲笑などは「社会的意義」の観点では費用対効果がきわめて低い、との判断が短絡的とも考えられます。影響力の低い人々の問題のある見解への反論や否定や罵倒や嘲笑などは、閲覧者への道徳性の誇示や、倫理的および知的優越感を得られるといった「利益」もあるとはいえ、個人単位で見ればきわめて費用対効果が低い、と言えるでしょう。個人単位では、そうした問題のある見解、さらにはそれを発信している人々に関わらないのが「賢い」とも言えます。

 ただ、国なり地域なりより広い単位(社会)で考えると、問題のある見解を発信している影響力の低い人々を無視することは個人単位では費用対効果の点で「賢い」としても、社会全体では不利益になる、とも考えられます。問題のある見解を発信している人々のうち、影響(発信)力の高い人々を狙い撃ちにして批判する方が費用対効果は高いとしても、それでは大多数の影響(発信)力の低い人には届きにくいことが多いわけで、問題のある見解の社会全体への浸透を防げない、とも考えられます。そうすると、政治家が問題のある見解を信じるようになる、というかそうした見解を信じている人が政治家になる可能性は高まるわけで、それは社会にとって大きな不利益をもたらすかもしれません。

 問題のある見解を無視することは合成の誤謬(個人も含めて小さな単位では合理的な行動が、より広範な単位では不利益になること)につながりやすそうですが、その意味では、問題のある見解を発信している影響(発信)力の低い人々への反論や否定や罵倒や嘲笑などは、多くの人がそうした行動をとれば、合成の誤謬の逆となり、社会全体の利益となるかもしれません。ほとんどの社会問題は結局のところ、トレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくと考えていますが(関連記事)、問題のある見解への対応もその一例になるのだと思います。

 私自身について言えば、アイヌは鎌倉時代に北方から北海道へと侵略し、先住民である「縄文人」の子孫の男性を殺戮した、というような見解を批判したこともありましたが(関連記事)、最近ではほとんど言及していません。これは費用対効果の観点からそうしているわけで、個人単位では「賢い」と言えるかもしれませんが、ネットではかなり浸透しているようにも見える、そうしたアイヌに関する問題のある見解を無視することは、広く日本社会の観点では適切ではない、とも考えられます。ただ、そうした見解を主張しているのがごく一部の声の大きい人々だとすると、ことさらに取り上げて問題化することで、かえってそうした見解を広めてしまうかもしれません。この見極めはなかなか難しそうなので、試行錯誤しつつ対処していくしかないのでしょう。あるいは近い将来、人工知能がこうした問題を的確に判断できるようになるのでしょうか。

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