鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
平凡社新書の一冊として、平凡社より2021年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、満洲国を単なる日本による傀儡国家として把握するのではなく、日本人に限らず関わったさまざまな人々の主体性にも注目し、もちろん差別的側面は多かったことを認めつつ満洲国の複雑で多面的な様相を検証します。また本書は、当時の日本政府が当初は満洲国の建国を認めておらず、日本の強力で一貫した国家意志により傀儡国家としての満洲国が成立したわけではなく、そもそも、満洲国建国を主導した関東軍にも、当初は傀儡国家建設の意志はなかった、と指摘します。
本書はまず、日本にとっての満洲の位置づけを、政治および歴史的状況だけではなく自然条件からも解説します。満洲は資源の豊かな地で、日本が満洲を領有しようとしたのは、中国およびロシア(ソ連)への対策とともに、豊富な資源の魅力もありました。日本にとって満洲の直接的領有が現実的な目標とされるようになったのは、張作霖を統制できないと判断し、謀殺した頃からでした。満洲事変の前まで、満洲の輸出総額は30年弱で30倍以上に達するなど、急速に経済成長し、日本はその重要な輸出先の一つでした。日本にとって満洲は重要な輸出先でもあり、満洲事変の前より、日本と満洲は経済的に相互依存が強かった、と言えます。ただ、満洲では機械化が遅れており、その輸出品では大豆が大きな比重を占めていました。この満洲の経済成長には、満鉄が大きく寄与したようです。
満洲事変直前は、父の張作霖を日本軍に殺害された張学良は日本に対抗的な政策を推進し、満洲における日本の利益が脅かされている、との認識が日本に浸透しつつある状況でした。当時、世界大恐慌により日本も深刻な不景気で、英米を中心として国際協調路線の幣原外交に対して、強硬派は強い批判を浴びせましたが、そのさいに主張された言説が、「満蒙は日本の生命線」でした。日本で張学良、さらには中国への反感が高まっていた状況で、1931年9月に満洲事変が勃発します。当時の日本世論が満洲事変を壮挙として歓迎したのには、張学良と中国への不満の高まりがあったようです。
関東軍はダイチン・グルン(大清帝国)最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(宣統帝)を擁立しようと画策しますが、日本政府も陸軍大臣も溥儀擁立に関わらないよう、関東軍に指令しています。日本政府はもちろん、関東軍でさえ、満洲事変直後には建国で見解が一致していたわけではありませんが、石原莞爾など関東軍における満洲事変の首謀者たちは、新国家建設へと方針を転換し、溥儀の擁立を決めます。満洲国の建国にさいして、日本人や溥儀など旧帝政派の人々の間で思惑は交錯していましたが、本書は、満洲国が20世紀型の国家社会主義を採用した、と指摘します。満洲国の五ヵ年計画について、岸信介は戦後になってソ連の真似と証言しています。
こうして実際に建国された満洲国は、短命に終わっただけに、詳細に研究されているようです。満洲国の筆頭公用語は中国語で、第二公用語が日本語でした。ただ、中国語は「満洲語」もしくは「満語」と呼ばれ、マンジュ(満洲)人に固有の言語は「固有満洲語」と呼ばれました。満洲国では、「中国語」や「中国人」という呼称は、中華民国への帰属意識を示すものとして排斥されました。満洲国で五ヵ年計画など実験的な経済的政策が進められたことはよく知られているでしょうが、日中戦争の拡大による労働力不足などにより、期待されたような産業化は進展しませんでした。
第二次世界大戦で日本が敗北したことにより、満洲国は滅亡します。とはいっても、本書が冒頭で指摘したように、満洲国を承認した国はきわめて少なかったわけですが。戦後日本政治における満洲国とのつながりについて、本書は代表的な人物として岸信介と大平正芳を挙げます。すでに多くの指摘があるでしょうが、大平の対中姿勢は一種の贖罪意識によるものだろう、と本書も推測しています。本書は、満洲国や満蒙に関わった人々の経験は、戦後日本における親米反ソの現実政治にかなりの役割を果たした、と評価しています。本書は、政治と経済と軍事だけではなく、文化面の言及も多く、多面的に満洲国を描写しているように思います。
本書はまず、日本にとっての満洲の位置づけを、政治および歴史的状況だけではなく自然条件からも解説します。満洲は資源の豊かな地で、日本が満洲を領有しようとしたのは、中国およびロシア(ソ連)への対策とともに、豊富な資源の魅力もありました。日本にとって満洲の直接的領有が現実的な目標とされるようになったのは、張作霖を統制できないと判断し、謀殺した頃からでした。満洲事変の前まで、満洲の輸出総額は30年弱で30倍以上に達するなど、急速に経済成長し、日本はその重要な輸出先の一つでした。日本にとって満洲は重要な輸出先でもあり、満洲事変の前より、日本と満洲は経済的に相互依存が強かった、と言えます。ただ、満洲では機械化が遅れており、その輸出品では大豆が大きな比重を占めていました。この満洲の経済成長には、満鉄が大きく寄与したようです。
満洲事変直前は、父の張作霖を日本軍に殺害された張学良は日本に対抗的な政策を推進し、満洲における日本の利益が脅かされている、との認識が日本に浸透しつつある状況でした。当時、世界大恐慌により日本も深刻な不景気で、英米を中心として国際協調路線の幣原外交に対して、強硬派は強い批判を浴びせましたが、そのさいに主張された言説が、「満蒙は日本の生命線」でした。日本で張学良、さらには中国への反感が高まっていた状況で、1931年9月に満洲事変が勃発します。当時の日本世論が満洲事変を壮挙として歓迎したのには、張学良と中国への不満の高まりがあったようです。
関東軍はダイチン・グルン(大清帝国)最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(宣統帝)を擁立しようと画策しますが、日本政府も陸軍大臣も溥儀擁立に関わらないよう、関東軍に指令しています。日本政府はもちろん、関東軍でさえ、満洲事変直後には建国で見解が一致していたわけではありませんが、石原莞爾など関東軍における満洲事変の首謀者たちは、新国家建設へと方針を転換し、溥儀の擁立を決めます。満洲国の建国にさいして、日本人や溥儀など旧帝政派の人々の間で思惑は交錯していましたが、本書は、満洲国が20世紀型の国家社会主義を採用した、と指摘します。満洲国の五ヵ年計画について、岸信介は戦後になってソ連の真似と証言しています。
こうして実際に建国された満洲国は、短命に終わっただけに、詳細に研究されているようです。満洲国の筆頭公用語は中国語で、第二公用語が日本語でした。ただ、中国語は「満洲語」もしくは「満語」と呼ばれ、マンジュ(満洲)人に固有の言語は「固有満洲語」と呼ばれました。満洲国では、「中国語」や「中国人」という呼称は、中華民国への帰属意識を示すものとして排斥されました。満洲国で五ヵ年計画など実験的な経済的政策が進められたことはよく知られているでしょうが、日中戦争の拡大による労働力不足などにより、期待されたような産業化は進展しませんでした。
第二次世界大戦で日本が敗北したことにより、満洲国は滅亡します。とはいっても、本書が冒頭で指摘したように、満洲国を承認した国はきわめて少なかったわけですが。戦後日本政治における満洲国とのつながりについて、本書は代表的な人物として岸信介と大平正芳を挙げます。すでに多くの指摘があるでしょうが、大平の対中姿勢は一種の贖罪意識によるものだろう、と本書も推測しています。本書は、満洲国や満蒙に関わった人々の経験は、戦後日本における親米反ソの現実政治にかなりの役割を果たした、と評価しています。本書は、政治と経済と軍事だけではなく、文化面の言及も多く、多面的に満洲国を描写しているように思います。
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