コーカサス南部の人口史
コーカサス南部の新石器時代3個体の新たなゲノムデータを報告した研究(Guarino-Vignon et al., 2023)が公表されました。本論文は、コーカサス南部に位置するアゼルバイジャンのメンテシュ・テペ(Mentesh Tepe)遺跡の、新石器時代となるショムテペ・シュラヴェリ文化(Shomutepe-Shulaveri culture、略してSSC)期の3個体のゲノムデータを報告し、コーカサスの人口史を検証しています。ヨーロッパには及ばないとしても、アジア南西部の古代ゲノム研究もかなり進んでいるようで、日本人の私は、更新世から青銅器時代にかけてのアジア東部の古代ゲノム研究のさらなる進展を期待しています。
●要約
コーカサス南部は肥沃な三日月地帯の外れに位置するにも関わらず、新石器化の過程は、まだ起源が不明のSSCとともに紀元前六千年紀の開始期にやっと始まりました。本論文は、ショムテペ・シュラヴェリ文化の開始期にまでさかのぼる、アゼルバイジャンのメンテシュ・テペ(Mentesh Tepe)遺跡の新たな3個体のゲノムデータを提示します。本論文は、抱き合っている学童期(juvenile)の2個体が兄弟だった、と証明します。メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代人口集団は、アナトリア半島農耕民関連人口集団とコーカサス/イラン人口集団との間の近い過去の遺伝子流動の産物である、と本論文は示し、人口集団の混合がコーカサス南部において農耕発展の中核にあった、と論証します。
コーカサス南部の青銅器時代個体群を、メンテシュ・テペ遺跡など同地域のコーカサス南部の個体群と比較すると、ポントス草原地帯(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)人口集団とメンテシュ・テペ遺跡関連集団との間の遺伝子流動が、後期青銅器時代および現代のコーカサスの人口集団の構成に寄与した、と証明されます。この結果から、コーカサス南部の新石器時代における高い文化的多様性は、詳細な遺伝学的分析の価値がある、と示されます。
●研究史
近東では、新石器時代の生活様式が紀元前9000年頃から紀元前7000年頃の間に出現しました。レヴァントや中国南部など新石器化のいくつかの中心地が特定されてきており、そこから他の大気の農牧生活様式が拡散しました。この拡散の機序は、過去数十年間に多大な注目を集めてきました。一部の場所(たとえば、アナトリア半島やイラン)では、新石器時代は在来の狩猟採集民の文化変容を通じて確立しましたが(関連記事)、ほとんどの地域(ヨーロッパやアジア南東部)では、農耕民人口集団が拡大し、ある程度の混合で同化過程が起きました。
大コーカサス山脈の南側の黒海とカスピ海の間に位置するコーカサス南部での新石器化の機序は、よく分からないままです。中石器時代の遺跡は、アゼルバイジャン西部のダムジリ洞窟(Damjili Cave)のユニット5、アルメニア西部のクムロ2岩陰(Kmlo-2 Rock Shelter)、ジョージア(グルジア)西部のコティアス・クルデ洞窟(Kotias Klde Cave)で知られています。コティアス・クルデ洞窟から発掘された人骨の古遺伝学的分析は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後となるそれ以前の上部旧石器時代遺跡との遺伝的連続性を示しましたが(関連記事)、LGM前の個体群との不連続性を示しました(関連記事)。その遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)はある程度、古代イランの人口集団と共通の起源を有していて(関連記事)、アナトリア半島およびレヴァントの狩猟採集民の遺伝的祖先系統とは異なっており(関連記事)、この期間の地理的に近い人口集団間の高い遺伝的分化が論証されます(関連記事)。
前期新石器時代に分類される最初の集落は土器文化に属しており、ナガタニ(Nagutni)遺跡などジョージア中央部、パルリ(Paluri)遺跡遺跡などジョージア西部、ダムジリ洞窟のユニット4などアゼルバイジャン西部において、いくつかの場所で証明されています。しかし、農耕と牧畜の証拠は乏しいままで、これらの遺跡は中石器時代と新石器時代との間の移行期的段階を表している、と示唆されます。
この文脈では、SSCは完全な新石器時代一括を有する最古のコーカサスの文化です。小コーカサス山脈の北側山麓の集落のいくつかのまとまりで見られるSSCは、円形の日干し煉瓦の家屋、家畜動物と栽培穀物、時には切り込みや浮き彫りの装飾がある手作りの土器、黒曜石と骨のインダストリー(関連記事)により特徴づけられます。アラタシェン(Aratashen)/アナシェン(Aknashen)文化(アララト平原)およびナヒチェヴァン(Nakhchivan)地域のキュルテペ(Kültepe)文化などの異形的文化は、コーカサス南部でも見られます。そのわずかに後となるカミルテペ(Kamiltepe)文化(ミル草原地帯文化)は、おそらくポルテペ(Polutepe)遺跡を含んでおり、建築、黒曜石の代わりに燧石の道具を使用していること、むしろイラン北部やザグロス地域と関連している土器に描かれたパターンにより、異なります。
SSCの起源は依然として議論されています。土器段階からSSCへの急速な移行のため、新石器化の過程における人口連続性があり得ます。しかし、いくつかの文化的および生物学的特徴は在来ではありません。ウシ(関連記事)やブタやヤギなどの家畜化された動物は、アナトリア半島東部とザグロス山脈に起源があります。同様に、SSC遺跡群で回収された苞穎コムギとオオムギは、タルホコムギ(Aegilops tauschii)の祖先がコーカサスで見つかり、在来だったかもしれないとしても、中東の他の場所で栽培化されました。物質文化と建築は、アナトリア半島南部や、メソポタミア北部およびザグロス地域の先ハラフィアン(Halafian)およびハラフィアン文化など、近隣地域との技術的移転を証明しています。
まとめると、これらのデータは強い文化的つながりと、恐らくは肥沃な三日月地帯からの他の集団とのある程度の混合を示唆しています。じっさい、本論文で分析された標本であるメンテシュ・テペ遺跡の小さな集葬墓に由来する1個体と、ムガーン(Mughan)草原地帯のポルテペ遺跡もしくはアルメニアのアナシェンおよびマシス・ブルール(Masis Blur)の他の個体群(関連記事)により確証されたゲノム規模データではすでに、コーカサス南部集団がアナトリア半島東部とザグロス地域の人口集団をつなぎ、紀元前6500年頃に始まった遺伝子流動(関連記事)を証明した、勾配の一部だったことを示しました。
SSCの最古級の遺跡の一つであるメンテシュ・テペは、アゼルバイジャン西部のトヴズ(Tovuz)県に位置し、2007~2015年に発掘されました(図1a)。いくつかの居住が明らかになり、その最古の痕跡は新石器時代のSSC期にさかのぼります。この時点で、植物群は穀物、とくにオオムギやタルホコムギやエンマーコムギが優先しており、これはコーカサス南部の新石器時代において一般的な関連です。動物遺骸はおもに家畜で構成され(ヤギやヒツジやウシやブタやイヌ)、野生動物は稀です。メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代個体群の食性は、コムギやオオムギやレンズマメなどおもにC3蜀部に依存しており、淡水魚の証拠も一部あり、動物性タンパク質の消費は個体差があります。土器は古典的なSSC遺跡とは植物で捏ねていることによって異なり、これはカミルテペ遺跡もしくはキュルテペ文化のナヒチェヴァン遺跡の最初の居住と共有されている特徴です。多くのSSC遺跡で観察されるように、家屋は円形であり、日干し煉瓦で作られており、藁や他の有機物の追加は、ある場合とない場合があります。SSC占拠の2段階が表されており、灰の厚い層によりいくつかの段階に分かれています。以下は本論文の図1です。
新石器時代の埋葬が稀な状況において、メンテシュ・テペ遺跡は約30個体を含む集団埋葬の発見という点で例外であり(図1b)、これは遺跡の頻繁な仕様の第一段階の末と関連しています。考古人類学的分析では、この集団埋葬はほぼ同時の堆積である複合葬儀行動で、対照的に、一部の連続した堆積物は完全に分解されていない遺体の処置を可能とする、と示されてきました。埋葬の個体数は、性別や年齢の偏りと同様に、伝染病や飢饉や突発的事態などの劇的な事象を示唆しますが、暴力の証拠は骨では証明されませんでした。
死体の特定の向きや位置はありませんが、いくつかの意図的な配置が見られます。最も目立つものは、抱き合っている学童期(juvenile)2個体により形成されています(図1c)。そうした配置は稀ですが、他の事例は、トルコのディヤルバクル(Diyarbakir)遺跡(紀元前6100年頃)やイタリアのヴァルダロ(Valdaro)遺跡(紀元前3000年頃)など、新石器時代と原史時代に見つかっています。二重埋葬は恋人の抱擁とみなされることが多いものの、この説明の主張は分かりにくいことが多くなっています。
SSC人口集団の起源と、この共同体の構造化をより深く理解するため、集団埋葬で見つかった個体の一部の古遺伝学的調査が実行されました。遺伝的データが得られ、次に、すでに刊行された構造から得られた他の個体、および同時代のアジア南西部人のゲノムと比較されました。
●DNAの分離と配列決定
メンテシュ・テペ遺跡の構造342の30個体から、23個体の錐体骨が標本抽出されましたが、女性1個体(MT7)と男性2個体(MT23とMT26)でのみゲノム規模データが得られ、その網羅率の範囲は0.1~0.3倍で、124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)では61151~205055が得られ、古代DNA損傷も見られました。他の4個体については、配列決定が浅く、生物学的性別の決定のみ可能で、男女2個体ずつでした。成人の骨盤測定から推測されたすでに刊行された性別決定と比較して矛盾はないものの、遺伝的データにより一部の学童期個体の性別をより堅牢に決定できました。
●新石器時代コーカサス南部の遺伝的構造
本論文のゲノム規模データはヒト起源データセット(Human Origins dataset、略してHOデータセット)や、親族関係にない以前に刊行された古代人3529個体のゲノムと統合されました。新たなメンテシュ・テペ遺跡の3個体と、コーカサスやアナトリア半島や近東や中東の他の古代の人口集団との間の遺伝的関係を解読するため、(1)古代人のゲノムが投影された現代人のデータセットでの主成分分析(principal component analysi、略してPCA)と、(2)HOおよび古代人のデータセットでの教師なしADMIXTURE分析が実行されました(図2a・b)。
PCAでは、メンテシュ・テペ遺跡個体群が以前に刊行された一部の他のコーカサス南部の新石器時代もしくは銅器時代個体(関連記事1および関連記事2)と重なるものの、アナシェン遺跡の1個体は主要な新石器時代クラスタ(まとまり)とよりもコーカサス狩猟採集民(CHG)の方にわずかに近く(図2a)、イラン新石器時代(N)クラスタと新石器時代アナトリア半島農耕民集団との中間に収まる、と示されます。
ADMIXTURE分析からは、メンテシュ・テペ遺跡個体群は主要な3構成要素を有している、と示唆されます。それは、30%のイラン新石器時代(イラン_N、緑色)構成要素、15%のレヴァント新石器時代(淡紅色)、つまり先土器新石器時代(PPN)構成要素、アナトリア半島もしくはヨーロッパ新石器時代人口集団と共有される55%の青色と桃色の構成要素です(図2b)。
両方の分析から、新たなメンテシュ・テペ遺跡個体群は、すでに刊行されていた個体MTT001(異なる配列決定戦略にも関わらず)、およびコーカサス南部の他の新石器時代(アゼルバイジャンのポルテペ遺跡、アルメニアのマシス・ブルールおよびアナシェン遺跡)もしくはアゼルバイジャンのアルハンテペ(Alkhantepe)遺跡に代表される銅器時代の個体群と類似した特性を示し、アナシェン遺跡の1個体が最高のイラン_N/CHGの割合を有しているとしても、百分率における真の有意な差異はない、と示されます。
メンテシュ・テペ遺跡個体群は、アルスランテペ(Arslantepe)遺跡の青銅器時代(BA)人口集団や、他の銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島人口集団ともひじょうに類似していますが、後期新石器時代(LN)アナトリア半島のテル・クルドゥ(Tell Kurdu)遺跡個体群(本論文ではテル・クルドゥ_LNと呼ばれます)とはかなり遠く、テル・クルドゥ_LNは代わりに新石器時代アナトリア半島人口集団とクラスタ化します(まとまります)。
メソポタミア南東部のゲノムデータが欠如しているため、PPNと後期青銅器時代(LBA)においてメソポタミア北東部に居住していた集団の祖先系統のみを検討できます。その結果、コーカサス南部の人口集団はPPNメソポタミア人とは異なる特性を示し、それはコーカサス南部人口集団がアナトリア半島集団との類似性をより多く有しているものの、メソポタミア北東部のネムリック9(Nemrik 9)遺跡のLBA個体(ネムリック9_LBA)と類似した特性を示すからです。と観察されます。以下は本論文の図2です。
本論文の標本においてPCAで観察されたユーラシア西部のより古い人口集団との遺伝的類似性について形式的に検証するため、D形式(ムブティ人、Y;Z、MT)のD統計が実行されました。アナトリア半島/コーカサス/メソポタミアの集団(Z)とメンテシュ・テペ遺跡(MT)個体群の組み合わせがヨーロッパ西部人口集団と同じ遺伝的関係を有さない場合、統計量はゼロから有意に逸れます。D形式(ムブティ人、Z;MTT001、MT23/MT7/MT26)のD統計は0から有意に逸れないので、メンテシュ・テペ遺跡標本はMTT001とひじょうに類似している、と確証されます。
単一のメンテシュ・テペ遺跡集団内で(ただ、以下で言及されるように、男性個体MT26はMT23と親族関係にあるので除外されます)再結合されたMT7・MT23・MTT001との同じD統計(図2c)を実行すると、メンテシュ・テペ遺跡集団は、サツルブリア(Satsurblia)遺跡およびコティアス・クルデ洞窟のCHGとよりも、初期ヨーロッパ農耕民(ギリシア_N、セルビア_EN)、アナトリア半島農耕民、アナトリア半島の続旧石器時代(EP)個体(アナトリア_EP)、新石器時代レヴァント(PPN)の方と多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と観察されます。
メンテシュ・テペ遺跡集団は、CHGおよびザグロス山脈のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡個体に代表されるイラン_Nとより多くのアレルを共有しているものの、ヨーロッパ西部狩猟採集民(HG)、つまりイベリア半島_HG、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbourg)遺跡個体、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の個体(ゴイエ_Q2)、ラトビア_HGや、ヨーロッパ初期農耕民や、アナトリア_EPや新石器時代レヴァントとのアレル共有はより少ないことにより、新石器時代アナトリア半島人口集団、つまり北部のバルシン(Barcın)遺跡、南東部のテル・クルドゥ遺跡、中央部のテペシク・シフトリク(Tepecik Çiftlik)遺跡の個体群からも逸れています。
メンテシュ・テペ遺跡集団はポルテペ遺跡の新石器時代個体群およびアルハンテペ遺跡の後期銅器時代1個体と異なっており、両遺跡はアゼルバイジャンのムガーン平原のさらに東方に位置します。メンテシュ・テペ遺跡集団は、新石器時代アルメニア集団(アナシェンおよびマシス・ブルール遺跡)とも分岐していません。最後に、ユーラシア人の多様性に関して、メンテシュ・テペ遺跡集団は全員均質なクラスタを形成し、このクラスタはコーカサス南部の新石器時代祖先系統を表しており、この祖先系統は東方から西方にかけて、アナトリア半島南東部で見られる新石器時代集団と近い過去の祖先系統を共有しています。
qpAdmを用いて、メンテシュ・テペ遺跡集団と各個体を、アナトリア半島南東部祖先系統を表すテル・クルドゥ_LNと、イラン_N(37%)の2方向混合としてモデル化できました(図2d)。テル・クルドゥ_LNをバルシン_Nに、イラン_NをCHGに置換しても、メンテシュ・テペ遺跡集団について許容可能なモデルが提供されますが、個々にモデル化すると、全ての標本で常に提供されるわけではありません。メンテシュ・テペ遺跡集団は、新石器時代アナトリア半島集団(テル・クルドゥ遺跡もしくはバルシン遺跡)とメソポタミア北部(ネムリック9もしくはマルディン遺跡)との間の混合としてもモデル化されました。
最終的に3人口集団モデルが検証され、メンテシュ・テペ遺跡集団について、CHG(15~25%)、アナトリア半島人口集団(バルシン遺跡個体40%もしくはテル・クルドゥ遺跡45%)、新石器時代メソポタミア北東部人口集団(ネムリック9遺跡個体29~45%)を含む、許容可能なモデルが得られました。他の新石器時代コーカサス南部集団(ポルテペ遺跡とアナシェン遺跡とマシス・ブルール遺跡)で同じ分析が実行され、メンテシュ・テペ遺跡集団と同じ種類の組み合わせを含む、p>0.05のモデルが得られました。これら3人口集団におけるアナトリア祖先系統の量は、アナシェン遺跡1個体が最高のCHGの割合を示すとしても、メンテシュ・テペ遺跡集団よりも有意に異なるわけではありません。
最後に、DATESを用いて混合事象の年代が推定されました。イランの新石器時代のガンジュ・ダレー遺跡を表す個体群の少なさと、網羅率の低さを考慮して、イランの新石器時代遺跡、つまりセー・ガビ(Seh Gabi)遺跡とテペ・アブドゥル・ホッセイン(Tepe Abdul Hossein)遺跡とウェズメー洞窟(Wezmeh Cave)遺跡から、他の個体が追加されました。その結果、アナトリア半島騎亜とイラン供給源との間の混合はメンテシュ・テペ遺跡の居住のわずか15±5世代前に起きた、と分かりました。1世代28年とすると、この混合事象の年代は紀元前6300年頃です(第一段階の居住は紀元前5880年頃)。しかし、メンテシュ・テペ遺跡集団についてDATESにより推定された祖先系統共分散の減少は、データとあまり適合しません。
●青銅器時代への遺伝的移行
新石器時代コーカサス南部集団の一般的な特性を確立し、コーカサス南部の青銅器時代人口集団の遺伝的構造の意向が調べられ、この中には、アルメニアのカラヴァン1(Kalavan-1)遺跡およびカプス(Kaps)のタリン(Talin)遺跡のネクロポリス(大規模共同墓地)と墓のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化個体群(関連記事)や、最近刊行された古代の個体群(関連記事)が含まれます。残念ながら、メンテシュ・テペ遺跡の銅器時代の層から古代DNAは回収できていません。D形式(ムブティ人、メンテシュ・テペ集団;コーカサス_BA、アナトリア_BA/コーカサス_BA)のほぼ全てのD統計がゼロで、メンテシュ・テペ遺跡集団からコーカサス南部もしくはアナトリア半島の青銅器時代の1人口集団への優先的な遺伝子流動は見られません。
PCAでは、アルメニアの全ての青銅器時代個体はともに図示され、草原地帯クラスタに向かって動く、と示されます。ADMIXTURE分析では、アルメニアの全ての青銅器時代個体は、新石器時代メンテシュ・テペ遺跡個体群には存在しないものの、草原地帯人口集団で最大化され、CHG個体群にも存在する、赤色の構成要素を示します。興味深いことに、アレニ1洞窟(Areni-1 Cave)の個体群(そのうち4個体は直接的に放射性炭素年代測定されました)に代表される銅器時代アルメニアの個体群がこの草原地帯/CHG構成要素を有しているのに対して、アゼルバイジャンのアルハンテペ遺跡の銅器時代1個体はこの構成要素を有していません。
D形式(ムブティ人、草原地帯銅器時代;メンテシュ・テペ集団、コーカサス南部_BA)のD統計はほぼ全て有意に正で、草原地帯もしくは新石器時代の後にCHGと関連する人口集団からコーカサス南部への遺伝子流動が浮き彫りになります。この結果は、2つの異なる仮説で解釈できます。つまり、草原地帯/CHG祖先系統を少ない割合で有するコーカサス北部の新石器時代人口集団もしくはコーカサス南部の祖先人口集団がコーカサス南部において在来のメンテシュ・テペ遺跡個体群的な新石器時代人口集団を置換したか、コーカサスの北側の草原地帯の人口集団が南方へ移住し、在来の人口集団と混合しました。
これらの仮説を検証するため、回転法でqpAdmが用いられ、アルメニアで見つかった銅器時代および青銅器時代の人口集団がモデル化されました。アレニ1洞窟個体(アルメニアの銅器時代)について唯一適合するモデルは、草原地帯25%とメンテシュ・テペ集団75%との間の混合です。青銅器時代には、前期青銅器時代のクラ・アラクセス個体群(0~10%の草原地帯からの寄与)から中期および後期青銅器時代個体群(約40%の草原地帯からの寄与)への草原地帯の寄与の増加が観察されます。この増加は、青銅器時代における北方からの移住の波か、草原地帯とコーカサス南部の人口集団間の、恐らくはコーカサス北部集団を通じての継続的混合と関連しているかもしれません。それは、コーカサス北部集団が、マイコープ(Maikop)文化期/青銅器時代のコーカサス南部人口集団と遺伝的に密接だからです。
アルメニアの前期青銅器時代人口集団については、最適なモデルが草原地帯人口集団の代わりにCHGを含むことにも要注意です。これは、クラ・アラクセス文化祖先系統の基礎での混合が、CHGとより類似した特性を有するコーカサスの標本抽出されていない人口集団と、後期銅器時代のメンテシュ・テペ集団的人口集団との間で起きたことを示唆します。したがって、クラ・アラクセス文化人口集団がこの期間に草原地帯から顕著な遺伝子流動を受けた可能性は低そうです。
これまでに利用可能なコーカサス北部のウナコゾイスカヤ(Unakozovskaya)洞窟の中期銅器時代1個体のみを含むモデルは、適合するものの、他のモデルほどではありませんでした。クラ・アラクセス文化についてはコーカサス北部個体群を含むモデルがLBA人口集団についてよりも成功しましたが、コーカサス北部新石器時代集団100%を含む入れ子モデルは検出されませんでした。換言すると、アルメニアで見つかった青銅器時代もしくは銅器時代個体群は、コーカサス北部新石器時代集団100%としてモデル化できません。この結果から、これまで配列決定された個体群を考えると、混合シナリオの方が移住シナリオよりも可能性は高い、と示唆されます。
●親族関係
メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代の配列決定された4個体の親族関係構造と社会組織を確証するため、まず片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)が調べられました。3系統の異なるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が検出され、それはU7とK1とU1a1です。個体MT23とMT26は両方とも同じmtHg-U1a1とYHg-J2bを共有しています。
次に、メンテシュ・テペ遺跡の構造342の個体群内の密接な可能性のある家族関係をさらに調べるため、遺伝的近縁性分析が実行されました。この目的のため、本論文の標本が低網羅率であることを考慮して、READを用いて親族関係分析が実行されました。READはきょくたんに低い網羅率のデータから近縁性を推測できますが、この手法の限界は、入力個体のコホートを一般的に必要とすることです。READは、対象の人口集団内で見られる遺伝的多様性の適切な推定を計算するために、個体のほとんどが遺伝的に近縁ではない、という仮定に基づいています。これは、対象集団に見られる遺伝的多様性を正しく推定するために、そのほとんどが遺伝的に無関係であるという仮定に基づいています。
この問題を克服するため、以前に刊行された後期銅器時代/前期青銅器時代のアルスランテペ遺跡のアナトリア半島、および新石器時代と前期銅器時代両方のテル・クルドゥ遺跡の個体群(図2a)洞窟とともに、新石器時代の個体MTT001の遺伝子型が抽出されました。ここでの意図は、代理人口集団としてこれらの個体を用いて、個体間の平均的な対での距離の中央値を計算することですが、埋葬342の内部で見られる遺伝的多様性と、本論文の代理人口集団の遺伝的多様性との間の不均衡から生じる偏りがもたらされる危険性が最小化されます。
この手法を用いて、個体MT23とMT26間の遺伝的近縁性の水準増加が検出され、P0の正規化されていない平均的な対でのSNP不均衡比は0.239でした。この値は、アルスランテペ遺跡個体群の中央値で正規化された場合、P̅0が0.734±0.024と等しく、これは確実に1親等の個体と翻訳でき(図3)、17864と多数のSNPが重複し、これはREADの申し分のないSNPが約1500という閾値をはるかに超えています。これらの結果は、TKGWV2を用いてその後で確証されました。TKGWV2は代替的な親族関係推定手法で、同じ調査結果が得られました。以下は本論文の図3です。
しかし、MT7とMTT001を含む他の組み合わせに関しては、密接な遺伝的つながりは検出できませんでした。MT23とMT7およびMT26とMT7の組み合わせはともに、アルスランテペ遺跡個体群の観察された中央値(P̅0がそれぞれ、0.952±0.037と0.963±0.045)に隣接する正規化された値で推定されました。しかし、関連する信頼区間の振幅の大きさにより論証され、これらの個体群とMT7との間の重複する少ないSNP数(MT23とMT7では8674、MT26とMT7では5561)を考えると、READは2親等より遠い親族関係の順序を検出できないことと、これら後者の結果における不確実性の高さは、その解釈のさいに考慮されるべきです。
●考察
MT23とMT26の組み合わせに関する本論文の遺伝学的な親族関係分析から、これら2個体は1親等の近縁性を共有している、と明らかに示唆されます。この観察は、近い死亡年齢、共有されたmtHg、これら2個体の遺骸が構造342内で回収された状況と組み合わせて、この2個体が実際に兄弟だった、との仮説と強く一致します。この組み合わせについて推定された関係の程度は、テル・クルドゥ遺跡の後期新石器時代個体群など、さまざまな代理人口集団を含むその後の試みを通じて一貫し続けたことに注意すべきです。
MT26はMT23の兄弟なのでMT26を除去した後でさえ、MT23やMTT001やMT7といった他の標本は、MTT001とMT23およびMT7との間の異なる配列決定手法にも関わらず、強い遺伝的均質性を示します。しかし、核もしくはミトコンドリアの遺伝的関係は、これら3個体間では観察されませんでした。これは、メンテシュ・テペ遺跡個体群が、ひじょうに均質な人口集団もしくは3親等かそれ以上の近縁性の人々を結びつける拡大家族を表している、と示唆します。この観察は、墓の構造における個体数の多さと、これらの個体が全共同体を表しているわけではない、という事実を考慮すると、驚くべきではありません。じっさい、成人男性は少なく、遺体は人々の間で家族関係と認識していた人々により埋葬されました(MT23とMT26の配置により例証されるように)。
地域規模では、ある程度の均質性が観察されます。ポルテペ遺跡集団は、さまざまな新石器時代文化に分類されますが、SSCの異形であるアナシェン文化に分類されるマシス・ブルール遺跡新石器時代集団のように、メンテシュ・テペ遺跡集団とひじょうに類似しています。アナシェン遺跡の1個体は他のコーカサス南部の新石器時代個体群よりもコーカサス的であるものの、これは有意な違いを構成せず、一貫した文化が小さな遺伝的異質性を表している、と示しています。さらに、この期間は、古遺伝学的研究ではまだ調査されていない、キュルテペやカミルテペなどいくつかの他の文化により特徴づけられます。SSC個体群はすでに完全に均質ではないので、これらの文化と関連する人口集団が遺伝的に異なることは、驚くべきではないでしょう。さらに、ポルテペ遺跡考古学的背景の欠如により、関連する文化についての結論を引き出すことが妨げられます。しかし本論文では、アナシェン文化はSSC個体群とかなりの遺伝的均質性を提示するものの、考古学者の見てきたアラタシェン・ショムテペ・シュラヴェリ文化の全体的な均質性と完全には一致していない、と示されます。
メンテシュ・テペ遺跡標本で実行された遺伝学的分析は、この地域における新石器時代拡散のより深い理解を可能とします。物質文化に基づいて、2つのモデルが検討されました。土器文化のひじょうに短い移行段階の後で、新石器時代の一括がSSCとともに現れたか、アジア西部からの文化変容もしくはヒト集団の移住です。メンテシュ・テペ遺跡個体群の遺伝的データから、このSSC遺跡個体群はおそらく中石器時代CHG(もしくは新石器時代イラン農耕民)と初期アナトリア半島農耕民とメソポタミア北東部の個体群から1つの祖先系統を継承した、と示されます。
南方の人口集団との遺伝的近縁性は、すでに物質文化を通じて同定されたように、SSCの形成に果たしたハラフ(Halaf)遺跡およびハッスナ(Hassuna)遺跡の共同体の役割を示唆しているかもしれません。DNAの保存状態が悪いため、メソポタミア中核地域からの遺伝的データは依然として少なく、ハラフ遺跡集団の遺伝的類似性は、アナトリア半島南東部とメソポタミア北東部の近縁性によってのみ決定できます。興味深いことに、ハラフ文化(ハラフィアン)への強い影響が知られているテル・クルドゥ遺跡の個体は、qpAdm分析ではメンテシュ・テペ遺跡個体群の祖先の最適な代理として現れます。
メンテシュ・テペ遺跡個体群の祖先系統の他の部分は、ガンジュ・ダレー遺跡のイラン新石器時代集団により最適にモデル化されます。この遺伝的構成要素は、コーカサスとイランの狩猟採集民とも共有されており、大規模な人口集団が新石器時代の末にコーカサス山脈の南端とカスピ海沿岸に居住していた、と示唆されます。現時点で利用可能なデータは、この祖先系統が、たとえばチョク(Chokh)遺跡やクムロ2岩陰遺跡やダムジリ洞窟遺跡の個体で証明されている前期新石器時代集団など在来だったのか、イラン農耕民に由来する、つまりより多くの古代人集団の置換につながったのか、区別できませんでした。
先行研究(関連記事)が、多様な背景と年代とおそらくは遺伝的起源の2ヶ所の異なる遺跡の2個体を用いたのに対して、本論文が均質な人口集団に焦点を当てて分析したとしても、混合事象を紀元前6500年頃と年代測定した先行研究の分析のように、本論文において混合事象は紀元前七千年紀半ばとの結果が得られました。しかし、混合の年代計算に用いられた人口集団における欠落したデータの多さのため、適合は完全ではありません。メンテシュ・テペは、アナトリア半島農耕民およびメソポタミア北東部人口集団の移住、およびコーカサス南部のそれ以前の狩猟採集民の子孫との混合の過程を密接にたどった遺跡として現れ、それはSSCの確立とほぼ同時期で、メンテシュ・テペ遺跡で得られた古代の年代と一致しています。
コーカサス南部の青銅器時代を調べた先行研究(関連記事)がコーカサス北部の銅器時代個体群のゲノム規模データしか入手できなかったので、メンテシュ・テペ遺跡個体群の遺伝的データは利用可能その後の期間の理解を深めるのにも役立ちます。じっさい本論文では、銅器時代と新石器時代のコーカサス集団の代理として以前に用いられた(関連記事)コーカサス北部の銅器時代1個体が、メンテシュ・テペ遺跡個体群とは異なる遺伝的特性を示し、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)に由来する遼河わずかにあり、近隣の草原地帯からの遺伝子流動に起因する可能性が高い、と分かりました。この比較は大コーカサス山脈の南斜面からの新石器時代のデータの欠如のため、先行研究において実行できませんでした。これは、時間と空間の両方で、古代DNA研究において徹底的な標本抽出が必要であることを浮き彫りにします。
参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2023): Genome-wide analysis of a collective grave from Mentesh Tepe provides insight into the population structure of early neolithic population in the South Caucasus. Communications Biology, 6, 319.
https://doi.org/10.1038/s42003-023-04681-w
●要約
コーカサス南部は肥沃な三日月地帯の外れに位置するにも関わらず、新石器化の過程は、まだ起源が不明のSSCとともに紀元前六千年紀の開始期にやっと始まりました。本論文は、ショムテペ・シュラヴェリ文化の開始期にまでさかのぼる、アゼルバイジャンのメンテシュ・テペ(Mentesh Tepe)遺跡の新たな3個体のゲノムデータを提示します。本論文は、抱き合っている学童期(juvenile)の2個体が兄弟だった、と証明します。メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代人口集団は、アナトリア半島農耕民関連人口集団とコーカサス/イラン人口集団との間の近い過去の遺伝子流動の産物である、と本論文は示し、人口集団の混合がコーカサス南部において農耕発展の中核にあった、と論証します。
コーカサス南部の青銅器時代個体群を、メンテシュ・テペ遺跡など同地域のコーカサス南部の個体群と比較すると、ポントス草原地帯(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)人口集団とメンテシュ・テペ遺跡関連集団との間の遺伝子流動が、後期青銅器時代および現代のコーカサスの人口集団の構成に寄与した、と証明されます。この結果から、コーカサス南部の新石器時代における高い文化的多様性は、詳細な遺伝学的分析の価値がある、と示されます。
●研究史
近東では、新石器時代の生活様式が紀元前9000年頃から紀元前7000年頃の間に出現しました。レヴァントや中国南部など新石器化のいくつかの中心地が特定されてきており、そこから他の大気の農牧生活様式が拡散しました。この拡散の機序は、過去数十年間に多大な注目を集めてきました。一部の場所(たとえば、アナトリア半島やイラン)では、新石器時代は在来の狩猟採集民の文化変容を通じて確立しましたが(関連記事)、ほとんどの地域(ヨーロッパやアジア南東部)では、農耕民人口集団が拡大し、ある程度の混合で同化過程が起きました。
大コーカサス山脈の南側の黒海とカスピ海の間に位置するコーカサス南部での新石器化の機序は、よく分からないままです。中石器時代の遺跡は、アゼルバイジャン西部のダムジリ洞窟(Damjili Cave)のユニット5、アルメニア西部のクムロ2岩陰(Kmlo-2 Rock Shelter)、ジョージア(グルジア)西部のコティアス・クルデ洞窟(Kotias Klde Cave)で知られています。コティアス・クルデ洞窟から発掘された人骨の古遺伝学的分析は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後となるそれ以前の上部旧石器時代遺跡との遺伝的連続性を示しましたが(関連記事)、LGM前の個体群との不連続性を示しました(関連記事)。その遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)はある程度、古代イランの人口集団と共通の起源を有していて(関連記事)、アナトリア半島およびレヴァントの狩猟採集民の遺伝的祖先系統とは異なっており(関連記事)、この期間の地理的に近い人口集団間の高い遺伝的分化が論証されます(関連記事)。
前期新石器時代に分類される最初の集落は土器文化に属しており、ナガタニ(Nagutni)遺跡などジョージア中央部、パルリ(Paluri)遺跡遺跡などジョージア西部、ダムジリ洞窟のユニット4などアゼルバイジャン西部において、いくつかの場所で証明されています。しかし、農耕と牧畜の証拠は乏しいままで、これらの遺跡は中石器時代と新石器時代との間の移行期的段階を表している、と示唆されます。
この文脈では、SSCは完全な新石器時代一括を有する最古のコーカサスの文化です。小コーカサス山脈の北側山麓の集落のいくつかのまとまりで見られるSSCは、円形の日干し煉瓦の家屋、家畜動物と栽培穀物、時には切り込みや浮き彫りの装飾がある手作りの土器、黒曜石と骨のインダストリー(関連記事)により特徴づけられます。アラタシェン(Aratashen)/アナシェン(Aknashen)文化(アララト平原)およびナヒチェヴァン(Nakhchivan)地域のキュルテペ(Kültepe)文化などの異形的文化は、コーカサス南部でも見られます。そのわずかに後となるカミルテペ(Kamiltepe)文化(ミル草原地帯文化)は、おそらくポルテペ(Polutepe)遺跡を含んでおり、建築、黒曜石の代わりに燧石の道具を使用していること、むしろイラン北部やザグロス地域と関連している土器に描かれたパターンにより、異なります。
SSCの起源は依然として議論されています。土器段階からSSCへの急速な移行のため、新石器化の過程における人口連続性があり得ます。しかし、いくつかの文化的および生物学的特徴は在来ではありません。ウシ(関連記事)やブタやヤギなどの家畜化された動物は、アナトリア半島東部とザグロス山脈に起源があります。同様に、SSC遺跡群で回収された苞穎コムギとオオムギは、タルホコムギ(Aegilops tauschii)の祖先がコーカサスで見つかり、在来だったかもしれないとしても、中東の他の場所で栽培化されました。物質文化と建築は、アナトリア半島南部や、メソポタミア北部およびザグロス地域の先ハラフィアン(Halafian)およびハラフィアン文化など、近隣地域との技術的移転を証明しています。
まとめると、これらのデータは強い文化的つながりと、恐らくは肥沃な三日月地帯からの他の集団とのある程度の混合を示唆しています。じっさい、本論文で分析された標本であるメンテシュ・テペ遺跡の小さな集葬墓に由来する1個体と、ムガーン(Mughan)草原地帯のポルテペ遺跡もしくはアルメニアのアナシェンおよびマシス・ブルール(Masis Blur)の他の個体群(関連記事)により確証されたゲノム規模データではすでに、コーカサス南部集団がアナトリア半島東部とザグロス地域の人口集団をつなぎ、紀元前6500年頃に始まった遺伝子流動(関連記事)を証明した、勾配の一部だったことを示しました。
SSCの最古級の遺跡の一つであるメンテシュ・テペは、アゼルバイジャン西部のトヴズ(Tovuz)県に位置し、2007~2015年に発掘されました(図1a)。いくつかの居住が明らかになり、その最古の痕跡は新石器時代のSSC期にさかのぼります。この時点で、植物群は穀物、とくにオオムギやタルホコムギやエンマーコムギが優先しており、これはコーカサス南部の新石器時代において一般的な関連です。動物遺骸はおもに家畜で構成され(ヤギやヒツジやウシやブタやイヌ)、野生動物は稀です。メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代個体群の食性は、コムギやオオムギやレンズマメなどおもにC3蜀部に依存しており、淡水魚の証拠も一部あり、動物性タンパク質の消費は個体差があります。土器は古典的なSSC遺跡とは植物で捏ねていることによって異なり、これはカミルテペ遺跡もしくはキュルテペ文化のナヒチェヴァン遺跡の最初の居住と共有されている特徴です。多くのSSC遺跡で観察されるように、家屋は円形であり、日干し煉瓦で作られており、藁や他の有機物の追加は、ある場合とない場合があります。SSC占拠の2段階が表されており、灰の厚い層によりいくつかの段階に分かれています。以下は本論文の図1です。
新石器時代の埋葬が稀な状況において、メンテシュ・テペ遺跡は約30個体を含む集団埋葬の発見という点で例外であり(図1b)、これは遺跡の頻繁な仕様の第一段階の末と関連しています。考古人類学的分析では、この集団埋葬はほぼ同時の堆積である複合葬儀行動で、対照的に、一部の連続した堆積物は完全に分解されていない遺体の処置を可能とする、と示されてきました。埋葬の個体数は、性別や年齢の偏りと同様に、伝染病や飢饉や突発的事態などの劇的な事象を示唆しますが、暴力の証拠は骨では証明されませんでした。
死体の特定の向きや位置はありませんが、いくつかの意図的な配置が見られます。最も目立つものは、抱き合っている学童期(juvenile)2個体により形成されています(図1c)。そうした配置は稀ですが、他の事例は、トルコのディヤルバクル(Diyarbakir)遺跡(紀元前6100年頃)やイタリアのヴァルダロ(Valdaro)遺跡(紀元前3000年頃)など、新石器時代と原史時代に見つかっています。二重埋葬は恋人の抱擁とみなされることが多いものの、この説明の主張は分かりにくいことが多くなっています。
SSC人口集団の起源と、この共同体の構造化をより深く理解するため、集団埋葬で見つかった個体の一部の古遺伝学的調査が実行されました。遺伝的データが得られ、次に、すでに刊行された構造から得られた他の個体、および同時代のアジア南西部人のゲノムと比較されました。
●DNAの分離と配列決定
メンテシュ・テペ遺跡の構造342の30個体から、23個体の錐体骨が標本抽出されましたが、女性1個体(MT7)と男性2個体(MT23とMT26)でのみゲノム規模データが得られ、その網羅率の範囲は0.1~0.3倍で、124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)では61151~205055が得られ、古代DNA損傷も見られました。他の4個体については、配列決定が浅く、生物学的性別の決定のみ可能で、男女2個体ずつでした。成人の骨盤測定から推測されたすでに刊行された性別決定と比較して矛盾はないものの、遺伝的データにより一部の学童期個体の性別をより堅牢に決定できました。
●新石器時代コーカサス南部の遺伝的構造
本論文のゲノム規模データはヒト起源データセット(Human Origins dataset、略してHOデータセット)や、親族関係にない以前に刊行された古代人3529個体のゲノムと統合されました。新たなメンテシュ・テペ遺跡の3個体と、コーカサスやアナトリア半島や近東や中東の他の古代の人口集団との間の遺伝的関係を解読するため、(1)古代人のゲノムが投影された現代人のデータセットでの主成分分析(principal component analysi、略してPCA)と、(2)HOおよび古代人のデータセットでの教師なしADMIXTURE分析が実行されました(図2a・b)。
PCAでは、メンテシュ・テペ遺跡個体群が以前に刊行された一部の他のコーカサス南部の新石器時代もしくは銅器時代個体(関連記事1および関連記事2)と重なるものの、アナシェン遺跡の1個体は主要な新石器時代クラスタ(まとまり)とよりもコーカサス狩猟採集民(CHG)の方にわずかに近く(図2a)、イラン新石器時代(N)クラスタと新石器時代アナトリア半島農耕民集団との中間に収まる、と示されます。
ADMIXTURE分析からは、メンテシュ・テペ遺跡個体群は主要な3構成要素を有している、と示唆されます。それは、30%のイラン新石器時代(イラン_N、緑色)構成要素、15%のレヴァント新石器時代(淡紅色)、つまり先土器新石器時代(PPN)構成要素、アナトリア半島もしくはヨーロッパ新石器時代人口集団と共有される55%の青色と桃色の構成要素です(図2b)。
両方の分析から、新たなメンテシュ・テペ遺跡個体群は、すでに刊行されていた個体MTT001(異なる配列決定戦略にも関わらず)、およびコーカサス南部の他の新石器時代(アゼルバイジャンのポルテペ遺跡、アルメニアのマシス・ブルールおよびアナシェン遺跡)もしくはアゼルバイジャンのアルハンテペ(Alkhantepe)遺跡に代表される銅器時代の個体群と類似した特性を示し、アナシェン遺跡の1個体が最高のイラン_N/CHGの割合を有しているとしても、百分率における真の有意な差異はない、と示されます。
メンテシュ・テペ遺跡個体群は、アルスランテペ(Arslantepe)遺跡の青銅器時代(BA)人口集団や、他の銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島人口集団ともひじょうに類似していますが、後期新石器時代(LN)アナトリア半島のテル・クルドゥ(Tell Kurdu)遺跡個体群(本論文ではテル・クルドゥ_LNと呼ばれます)とはかなり遠く、テル・クルドゥ_LNは代わりに新石器時代アナトリア半島人口集団とクラスタ化します(まとまります)。
メソポタミア南東部のゲノムデータが欠如しているため、PPNと後期青銅器時代(LBA)においてメソポタミア北東部に居住していた集団の祖先系統のみを検討できます。その結果、コーカサス南部の人口集団はPPNメソポタミア人とは異なる特性を示し、それはコーカサス南部人口集団がアナトリア半島集団との類似性をより多く有しているものの、メソポタミア北東部のネムリック9(Nemrik 9)遺跡のLBA個体(ネムリック9_LBA)と類似した特性を示すからです。と観察されます。以下は本論文の図2です。
本論文の標本においてPCAで観察されたユーラシア西部のより古い人口集団との遺伝的類似性について形式的に検証するため、D形式(ムブティ人、Y;Z、MT)のD統計が実行されました。アナトリア半島/コーカサス/メソポタミアの集団(Z)とメンテシュ・テペ遺跡(MT)個体群の組み合わせがヨーロッパ西部人口集団と同じ遺伝的関係を有さない場合、統計量はゼロから有意に逸れます。D形式(ムブティ人、Z;MTT001、MT23/MT7/MT26)のD統計は0から有意に逸れないので、メンテシュ・テペ遺跡標本はMTT001とひじょうに類似している、と確証されます。
単一のメンテシュ・テペ遺跡集団内で(ただ、以下で言及されるように、男性個体MT26はMT23と親族関係にあるので除外されます)再結合されたMT7・MT23・MTT001との同じD統計(図2c)を実行すると、メンテシュ・テペ遺跡集団は、サツルブリア(Satsurblia)遺跡およびコティアス・クルデ洞窟のCHGとよりも、初期ヨーロッパ農耕民(ギリシア_N、セルビア_EN)、アナトリア半島農耕民、アナトリア半島の続旧石器時代(EP)個体(アナトリア_EP)、新石器時代レヴァント(PPN)の方と多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と観察されます。
メンテシュ・テペ遺跡集団は、CHGおよびザグロス山脈のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡個体に代表されるイラン_Nとより多くのアレルを共有しているものの、ヨーロッパ西部狩猟採集民(HG)、つまりイベリア半島_HG、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbourg)遺跡個体、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の個体(ゴイエ_Q2)、ラトビア_HGや、ヨーロッパ初期農耕民や、アナトリア_EPや新石器時代レヴァントとのアレル共有はより少ないことにより、新石器時代アナトリア半島人口集団、つまり北部のバルシン(Barcın)遺跡、南東部のテル・クルドゥ遺跡、中央部のテペシク・シフトリク(Tepecik Çiftlik)遺跡の個体群からも逸れています。
メンテシュ・テペ遺跡集団はポルテペ遺跡の新石器時代個体群およびアルハンテペ遺跡の後期銅器時代1個体と異なっており、両遺跡はアゼルバイジャンのムガーン平原のさらに東方に位置します。メンテシュ・テペ遺跡集団は、新石器時代アルメニア集団(アナシェンおよびマシス・ブルール遺跡)とも分岐していません。最後に、ユーラシア人の多様性に関して、メンテシュ・テペ遺跡集団は全員均質なクラスタを形成し、このクラスタはコーカサス南部の新石器時代祖先系統を表しており、この祖先系統は東方から西方にかけて、アナトリア半島南東部で見られる新石器時代集団と近い過去の祖先系統を共有しています。
qpAdmを用いて、メンテシュ・テペ遺跡集団と各個体を、アナトリア半島南東部祖先系統を表すテル・クルドゥ_LNと、イラン_N(37%)の2方向混合としてモデル化できました(図2d)。テル・クルドゥ_LNをバルシン_Nに、イラン_NをCHGに置換しても、メンテシュ・テペ遺跡集団について許容可能なモデルが提供されますが、個々にモデル化すると、全ての標本で常に提供されるわけではありません。メンテシュ・テペ遺跡集団は、新石器時代アナトリア半島集団(テル・クルドゥ遺跡もしくはバルシン遺跡)とメソポタミア北部(ネムリック9もしくはマルディン遺跡)との間の混合としてもモデル化されました。
最終的に3人口集団モデルが検証され、メンテシュ・テペ遺跡集団について、CHG(15~25%)、アナトリア半島人口集団(バルシン遺跡個体40%もしくはテル・クルドゥ遺跡45%)、新石器時代メソポタミア北東部人口集団(ネムリック9遺跡個体29~45%)を含む、許容可能なモデルが得られました。他の新石器時代コーカサス南部集団(ポルテペ遺跡とアナシェン遺跡とマシス・ブルール遺跡)で同じ分析が実行され、メンテシュ・テペ遺跡集団と同じ種類の組み合わせを含む、p>0.05のモデルが得られました。これら3人口集団におけるアナトリア祖先系統の量は、アナシェン遺跡1個体が最高のCHGの割合を示すとしても、メンテシュ・テペ遺跡集団よりも有意に異なるわけではありません。
最後に、DATESを用いて混合事象の年代が推定されました。イランの新石器時代のガンジュ・ダレー遺跡を表す個体群の少なさと、網羅率の低さを考慮して、イランの新石器時代遺跡、つまりセー・ガビ(Seh Gabi)遺跡とテペ・アブドゥル・ホッセイン(Tepe Abdul Hossein)遺跡とウェズメー洞窟(Wezmeh Cave)遺跡から、他の個体が追加されました。その結果、アナトリア半島騎亜とイラン供給源との間の混合はメンテシュ・テペ遺跡の居住のわずか15±5世代前に起きた、と分かりました。1世代28年とすると、この混合事象の年代は紀元前6300年頃です(第一段階の居住は紀元前5880年頃)。しかし、メンテシュ・テペ遺跡集団についてDATESにより推定された祖先系統共分散の減少は、データとあまり適合しません。
●青銅器時代への遺伝的移行
新石器時代コーカサス南部集団の一般的な特性を確立し、コーカサス南部の青銅器時代人口集団の遺伝的構造の意向が調べられ、この中には、アルメニアのカラヴァン1(Kalavan-1)遺跡およびカプス(Kaps)のタリン(Talin)遺跡のネクロポリス(大規模共同墓地)と墓のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化個体群(関連記事)や、最近刊行された古代の個体群(関連記事)が含まれます。残念ながら、メンテシュ・テペ遺跡の銅器時代の層から古代DNAは回収できていません。D形式(ムブティ人、メンテシュ・テペ集団;コーカサス_BA、アナトリア_BA/コーカサス_BA)のほぼ全てのD統計がゼロで、メンテシュ・テペ遺跡集団からコーカサス南部もしくはアナトリア半島の青銅器時代の1人口集団への優先的な遺伝子流動は見られません。
PCAでは、アルメニアの全ての青銅器時代個体はともに図示され、草原地帯クラスタに向かって動く、と示されます。ADMIXTURE分析では、アルメニアの全ての青銅器時代個体は、新石器時代メンテシュ・テペ遺跡個体群には存在しないものの、草原地帯人口集団で最大化され、CHG個体群にも存在する、赤色の構成要素を示します。興味深いことに、アレニ1洞窟(Areni-1 Cave)の個体群(そのうち4個体は直接的に放射性炭素年代測定されました)に代表される銅器時代アルメニアの個体群がこの草原地帯/CHG構成要素を有しているのに対して、アゼルバイジャンのアルハンテペ遺跡の銅器時代1個体はこの構成要素を有していません。
D形式(ムブティ人、草原地帯銅器時代;メンテシュ・テペ集団、コーカサス南部_BA)のD統計はほぼ全て有意に正で、草原地帯もしくは新石器時代の後にCHGと関連する人口集団からコーカサス南部への遺伝子流動が浮き彫りになります。この結果は、2つの異なる仮説で解釈できます。つまり、草原地帯/CHG祖先系統を少ない割合で有するコーカサス北部の新石器時代人口集団もしくはコーカサス南部の祖先人口集団がコーカサス南部において在来のメンテシュ・テペ遺跡個体群的な新石器時代人口集団を置換したか、コーカサスの北側の草原地帯の人口集団が南方へ移住し、在来の人口集団と混合しました。
これらの仮説を検証するため、回転法でqpAdmが用いられ、アルメニアで見つかった銅器時代および青銅器時代の人口集団がモデル化されました。アレニ1洞窟個体(アルメニアの銅器時代)について唯一適合するモデルは、草原地帯25%とメンテシュ・テペ集団75%との間の混合です。青銅器時代には、前期青銅器時代のクラ・アラクセス個体群(0~10%の草原地帯からの寄与)から中期および後期青銅器時代個体群(約40%の草原地帯からの寄与)への草原地帯の寄与の増加が観察されます。この増加は、青銅器時代における北方からの移住の波か、草原地帯とコーカサス南部の人口集団間の、恐らくはコーカサス北部集団を通じての継続的混合と関連しているかもしれません。それは、コーカサス北部集団が、マイコープ(Maikop)文化期/青銅器時代のコーカサス南部人口集団と遺伝的に密接だからです。
アルメニアの前期青銅器時代人口集団については、最適なモデルが草原地帯人口集団の代わりにCHGを含むことにも要注意です。これは、クラ・アラクセス文化祖先系統の基礎での混合が、CHGとより類似した特性を有するコーカサスの標本抽出されていない人口集団と、後期銅器時代のメンテシュ・テペ集団的人口集団との間で起きたことを示唆します。したがって、クラ・アラクセス文化人口集団がこの期間に草原地帯から顕著な遺伝子流動を受けた可能性は低そうです。
これまでに利用可能なコーカサス北部のウナコゾイスカヤ(Unakozovskaya)洞窟の中期銅器時代1個体のみを含むモデルは、適合するものの、他のモデルほどではありませんでした。クラ・アラクセス文化についてはコーカサス北部個体群を含むモデルがLBA人口集団についてよりも成功しましたが、コーカサス北部新石器時代集団100%を含む入れ子モデルは検出されませんでした。換言すると、アルメニアで見つかった青銅器時代もしくは銅器時代個体群は、コーカサス北部新石器時代集団100%としてモデル化できません。この結果から、これまで配列決定された個体群を考えると、混合シナリオの方が移住シナリオよりも可能性は高い、と示唆されます。
●親族関係
メンテシュ・テペ遺跡の新石器時代の配列決定された4個体の親族関係構造と社会組織を確証するため、まず片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)が調べられました。3系統の異なるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が検出され、それはU7とK1とU1a1です。個体MT23とMT26は両方とも同じmtHg-U1a1とYHg-J2bを共有しています。
次に、メンテシュ・テペ遺跡の構造342の個体群内の密接な可能性のある家族関係をさらに調べるため、遺伝的近縁性分析が実行されました。この目的のため、本論文の標本が低網羅率であることを考慮して、READを用いて親族関係分析が実行されました。READはきょくたんに低い網羅率のデータから近縁性を推測できますが、この手法の限界は、入力個体のコホートを一般的に必要とすることです。READは、対象の人口集団内で見られる遺伝的多様性の適切な推定を計算するために、個体のほとんどが遺伝的に近縁ではない、という仮定に基づいています。これは、対象集団に見られる遺伝的多様性を正しく推定するために、そのほとんどが遺伝的に無関係であるという仮定に基づいています。
この問題を克服するため、以前に刊行された後期銅器時代/前期青銅器時代のアルスランテペ遺跡のアナトリア半島、および新石器時代と前期銅器時代両方のテル・クルドゥ遺跡の個体群(図2a)洞窟とともに、新石器時代の個体MTT001の遺伝子型が抽出されました。ここでの意図は、代理人口集団としてこれらの個体を用いて、個体間の平均的な対での距離の中央値を計算することですが、埋葬342の内部で見られる遺伝的多様性と、本論文の代理人口集団の遺伝的多様性との間の不均衡から生じる偏りがもたらされる危険性が最小化されます。
この手法を用いて、個体MT23とMT26間の遺伝的近縁性の水準増加が検出され、P0の正規化されていない平均的な対でのSNP不均衡比は0.239でした。この値は、アルスランテペ遺跡個体群の中央値で正規化された場合、P̅0が0.734±0.024と等しく、これは確実に1親等の個体と翻訳でき(図3)、17864と多数のSNPが重複し、これはREADの申し分のないSNPが約1500という閾値をはるかに超えています。これらの結果は、TKGWV2を用いてその後で確証されました。TKGWV2は代替的な親族関係推定手法で、同じ調査結果が得られました。以下は本論文の図3です。
しかし、MT7とMTT001を含む他の組み合わせに関しては、密接な遺伝的つながりは検出できませんでした。MT23とMT7およびMT26とMT7の組み合わせはともに、アルスランテペ遺跡個体群の観察された中央値(P̅0がそれぞれ、0.952±0.037と0.963±0.045)に隣接する正規化された値で推定されました。しかし、関連する信頼区間の振幅の大きさにより論証され、これらの個体群とMT7との間の重複する少ないSNP数(MT23とMT7では8674、MT26とMT7では5561)を考えると、READは2親等より遠い親族関係の順序を検出できないことと、これら後者の結果における不確実性の高さは、その解釈のさいに考慮されるべきです。
●考察
MT23とMT26の組み合わせに関する本論文の遺伝学的な親族関係分析から、これら2個体は1親等の近縁性を共有している、と明らかに示唆されます。この観察は、近い死亡年齢、共有されたmtHg、これら2個体の遺骸が構造342内で回収された状況と組み合わせて、この2個体が実際に兄弟だった、との仮説と強く一致します。この組み合わせについて推定された関係の程度は、テル・クルドゥ遺跡の後期新石器時代個体群など、さまざまな代理人口集団を含むその後の試みを通じて一貫し続けたことに注意すべきです。
MT26はMT23の兄弟なのでMT26を除去した後でさえ、MT23やMTT001やMT7といった他の標本は、MTT001とMT23およびMT7との間の異なる配列決定手法にも関わらず、強い遺伝的均質性を示します。しかし、核もしくはミトコンドリアの遺伝的関係は、これら3個体間では観察されませんでした。これは、メンテシュ・テペ遺跡個体群が、ひじょうに均質な人口集団もしくは3親等かそれ以上の近縁性の人々を結びつける拡大家族を表している、と示唆します。この観察は、墓の構造における個体数の多さと、これらの個体が全共同体を表しているわけではない、という事実を考慮すると、驚くべきではありません。じっさい、成人男性は少なく、遺体は人々の間で家族関係と認識していた人々により埋葬されました(MT23とMT26の配置により例証されるように)。
地域規模では、ある程度の均質性が観察されます。ポルテペ遺跡集団は、さまざまな新石器時代文化に分類されますが、SSCの異形であるアナシェン文化に分類されるマシス・ブルール遺跡新石器時代集団のように、メンテシュ・テペ遺跡集団とひじょうに類似しています。アナシェン遺跡の1個体は他のコーカサス南部の新石器時代個体群よりもコーカサス的であるものの、これは有意な違いを構成せず、一貫した文化が小さな遺伝的異質性を表している、と示しています。さらに、この期間は、古遺伝学的研究ではまだ調査されていない、キュルテペやカミルテペなどいくつかの他の文化により特徴づけられます。SSC個体群はすでに完全に均質ではないので、これらの文化と関連する人口集団が遺伝的に異なることは、驚くべきではないでしょう。さらに、ポルテペ遺跡考古学的背景の欠如により、関連する文化についての結論を引き出すことが妨げられます。しかし本論文では、アナシェン文化はSSC個体群とかなりの遺伝的均質性を提示するものの、考古学者の見てきたアラタシェン・ショムテペ・シュラヴェリ文化の全体的な均質性と完全には一致していない、と示されます。
メンテシュ・テペ遺跡標本で実行された遺伝学的分析は、この地域における新石器時代拡散のより深い理解を可能とします。物質文化に基づいて、2つのモデルが検討されました。土器文化のひじょうに短い移行段階の後で、新石器時代の一括がSSCとともに現れたか、アジア西部からの文化変容もしくはヒト集団の移住です。メンテシュ・テペ遺跡個体群の遺伝的データから、このSSC遺跡個体群はおそらく中石器時代CHG(もしくは新石器時代イラン農耕民)と初期アナトリア半島農耕民とメソポタミア北東部の個体群から1つの祖先系統を継承した、と示されます。
南方の人口集団との遺伝的近縁性は、すでに物質文化を通じて同定されたように、SSCの形成に果たしたハラフ(Halaf)遺跡およびハッスナ(Hassuna)遺跡の共同体の役割を示唆しているかもしれません。DNAの保存状態が悪いため、メソポタミア中核地域からの遺伝的データは依然として少なく、ハラフ遺跡集団の遺伝的類似性は、アナトリア半島南東部とメソポタミア北東部の近縁性によってのみ決定できます。興味深いことに、ハラフ文化(ハラフィアン)への強い影響が知られているテル・クルドゥ遺跡の個体は、qpAdm分析ではメンテシュ・テペ遺跡個体群の祖先の最適な代理として現れます。
メンテシュ・テペ遺跡個体群の祖先系統の他の部分は、ガンジュ・ダレー遺跡のイラン新石器時代集団により最適にモデル化されます。この遺伝的構成要素は、コーカサスとイランの狩猟採集民とも共有されており、大規模な人口集団が新石器時代の末にコーカサス山脈の南端とカスピ海沿岸に居住していた、と示唆されます。現時点で利用可能なデータは、この祖先系統が、たとえばチョク(Chokh)遺跡やクムロ2岩陰遺跡やダムジリ洞窟遺跡の個体で証明されている前期新石器時代集団など在来だったのか、イラン農耕民に由来する、つまりより多くの古代人集団の置換につながったのか、区別できませんでした。
先行研究(関連記事)が、多様な背景と年代とおそらくは遺伝的起源の2ヶ所の異なる遺跡の2個体を用いたのに対して、本論文が均質な人口集団に焦点を当てて分析したとしても、混合事象を紀元前6500年頃と年代測定した先行研究の分析のように、本論文において混合事象は紀元前七千年紀半ばとの結果が得られました。しかし、混合の年代計算に用いられた人口集団における欠落したデータの多さのため、適合は完全ではありません。メンテシュ・テペは、アナトリア半島農耕民およびメソポタミア北東部人口集団の移住、およびコーカサス南部のそれ以前の狩猟採集民の子孫との混合の過程を密接にたどった遺跡として現れ、それはSSCの確立とほぼ同時期で、メンテシュ・テペ遺跡で得られた古代の年代と一致しています。
コーカサス南部の青銅器時代を調べた先行研究(関連記事)がコーカサス北部の銅器時代個体群のゲノム規模データしか入手できなかったので、メンテシュ・テペ遺跡個体群の遺伝的データは利用可能その後の期間の理解を深めるのにも役立ちます。じっさい本論文では、銅器時代と新石器時代のコーカサス集団の代理として以前に用いられた(関連記事)コーカサス北部の銅器時代1個体が、メンテシュ・テペ遺跡個体群とは異なる遺伝的特性を示し、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)に由来する遼河わずかにあり、近隣の草原地帯からの遺伝子流動に起因する可能性が高い、と分かりました。この比較は大コーカサス山脈の南斜面からの新石器時代のデータの欠如のため、先行研究において実行できませんでした。これは、時間と空間の両方で、古代DNA研究において徹底的な標本抽出が必要であることを浮き彫りにします。
参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2023): Genome-wide analysis of a collective grave from Mentesh Tepe provides insight into the population structure of early neolithic population in the South Caucasus. Communications Biology, 6, 319.
https://doi.org/10.1038/s42003-023-04681-w
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