過去5100年間のチベット高原の人口史

 チベット高原で発見された過去5100年間の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Wang et al., 2023)が公表されました。チベット高原の人類史(関連記事)は、その高地適応や、現生人類(Homo sapiens)だけではなく種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の存在も確認されていることや、日本列島やアンダマン諸島などとともに現代では珍しくY染色体ハプログループ(YHg) Dが高頻度であることなど(チベット人で多いのはYHg-D1a1)から、関心が高いように思います。本論文は、チベット高原の5100~100年前頃となる89個体のゲノム規模データを報告し、現在チベット人の形成過程と地域差をより詳しく解明しており、たいへん注目されます。


●要約

 チベット高原全域の29ヶ所の遺跡の5100~100年前頃と年代測定された古代人89個体のゲノム規模データを用いて、チベット高原の人口集団全体にわたる高原特有の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、2500年前頃以前の高度な分化を示唆する実質的な遺伝的構造とともに見つかりました。チベット高原北東部の人口集団は、共和(Gonghe)盆地において4700年前頃までに雑穀農耕民と関連する混合を急速に示しました。チベット高原南部および南西部での高い遺伝的類似性は、3400年前頃以降のヤルンツァンポ(Yarlung Tsangpo)川沿いの人口拡大を示しました。

 チベット高原中央部および南東部の人口集団は、歴史的にチベット高原内における広範な遺伝的混合を明らかにし、チベット高原南部および南西部の人口集団で見られる祖先系統と関連するかなりの祖先系統が伴います。過去700年間に、低地アジア東部からのかなりの遺伝子流動が、現在のチベット高原の人口集団の遺伝的景観をさらに形成しました。高地適応的なEPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)アレル(対立遺伝子)が早くも5100年前頃の1個体でチベット高原の人口集団に見られ、過去2800年間の急激な増加を示しました。


●研究史

 標高が海抜(above sea level、略してasl)4000m(4000masl)を超えることが多いチベット高原は、ヒトがこれまでに暮らした最も住みにくい場所の一つです。デニソワ人として知られる古代型のヒトが、少なくとも16万年前頃までにチベット高原の北東地域に存在しており(関連記事)、初期現生人類は少なくとも4万~3万年前頃にはチベット高原中央部に出現しました(関連記事)。しかし、チベット高原における現生人類の永続的定住(関連記事1および関連記事2)、およびチベット高原の初期の居住者と現在のチベット人との関係について、多くの議論があります。

 現在のチベット人の起源はひじょうに興味深く、過去10年間における現在のチベット人の遺伝学的研究は、低地アジア東部人との密接な遺伝的関係を明らかにしてきました。しかし、これらの研究の一部では、より深く分岐した人口集団も現在のチベット人の祖先の遺伝子プールに寄与した可能性が高い、と示唆されています(関連記事)。チベット高原南西部のヒマラヤ弧に暮らしていた過去のヒトの古代DNAから、3400年前頃にさかのぼるこの地域のヒトは現在のチベット人と独特な祖先系統を共有している、と示されてきました。ヒマラヤ弧の古代の人口集団と全ての現在のチベットの人口集団は、黄河およびアムール川流域地帯で見られるアジア東部北方祖先系統の古代の人口集団と密接に関連しており、その全てはまだ直接的に標本抽出されていない深く分岐した祖先系統を少量示します(関連記事1および関連記事2)。

 これらの研究では、共有された祖先系統がネパールのチベット高原のヒマラヤ弧において早ければ3400年前頃にさかのぼる広範な人口集団にたどれる、と明らかにしてきましたが、多くの重要な問題が残っています。第一に、3400年前頃より古い古代の現生人類は遺伝的に標本抽出されておらず、この共有された祖先系統がいつ最初にチベット高原の人口集団に入ったのか、不明確になります。第二に、この共有された祖先系統がチベット高原の他地域の古代の人口集団においてどの程度表されているのか、不明です。さらなる空間的解像度なしには、ヒマラヤ弧における古代の人口集団と広範な現在のチベット高原の人口集団が類似の祖先系統を共有している理由の解決は困難です。歴史的記録から、チベット高原における最初の複雑な社会、つまりシャンシュン(Zhang Zhung、象雄)王国は2500年前頃に始まった可能性が高く、シャンシュン王国は1300~1100年前頃(629~842年)に存続したチベット帝国、つまりトゥプト(Tubo、吐蕃)に征服された、と示唆されています。これらの政治的変化がチベット高原におけるヒトの移住と相互作用にどのように影響を及ぼしたのか、不明です。

 これらの問題に対処するため、チベット高原にかつて居住していた古代人からDNAが標本抽出され、中華人民共和国のチベット自治区と青海省全体の広い時空間的範囲にわたって調べられました。注目すべきことに、これにはチベット高原北東端の5100~3900年前頃の21個体が含まれており、チベット高原のヒトの遺伝的歴史をさらに1700年さかのぼって調査する能力が拡張されます。


●標本

 海抜2776m~海抜5000mの範囲のチベット高原全体の30ヶ所の遺跡で発見された古代人97標本について、120万ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)でゲノム規模データが生成されました(図1B)。62個体の直接的な放射性炭素年代測定から、その生存は較正年代【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】で5260~27年前頃(紀元後1950年が基準)だった、と示されます(図1A)。汚染されて少数(1万未満)のSNPについて標本を除去後に、29ヶ所の遺跡から発見された89個体が、3.50%未満の汚染水準で保持されました。89個体全体で、120万SNPでの配列決定深度の範囲は0.01~9.81倍で、SNPの数は少なくとも1回の読み取りで14552~1120464を網羅しました。以下は本論文の図1です。
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 標本抽出された個体が相互に関連しているのかどうか決定するため、親族関係分析が実行されました。89個体のうち、14の家族集団(1親等および2親等)が見つかりました。各家族集団では、最大数のSNPのある個体が保持され、集団遺伝学的分析については無関係な75個体が得られました。本論文の対象に、3440~1250年前頃となるネパールのチベット高原南縁のヒマラヤ弧で発見された刊行されている33個体(関連記事1および関連記事2)が追加されました。これら古代のチベット高原個体群が、チベット高原との近さのため、チベット高原周辺地域、とくにアジア東部とアジア中央部とシベリアの以前に刊行された現在および古代のヒトと比較されました。


●少なくとも5100年前頃にさかのぼるチベット人祖先系統の形成

 標本抽出された個体群と現在のアジアの人口集団との間の遺伝的関係に取り組むため、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行されました。古代のチベット高原個体群を、現在のアジアの人口集団もしくは現在のアジア東部あるいはアジア南東部人のみで構築された最初の2主成分に投影した後で(図1D・E・F)、古代のチベット高原の個体群は一貫して、現在チベット高原もしくはその近くに居住しているチアン人(Qiang)とチベット人とシェルパ人(Sherpa)と重なるか、その近くに位置する、と分かりました。これら現在の人口集団も、外群f3分析では古代のチベット高原個体群とアレルを最も多く共有します。まとめると、これらの結果から、チベット高原の北東部から南部の地域にまたがる5100~300年前頃の古代の個体は全員、現在チベット高原もしくはその近くに居住する人口集団と最も密接な関係を共有する、と示唆されます。

 チベット高原人口集団の遺伝的起源を評価するため、次にこれまでに標本抽出された最古のチベット高原個体群(5100~2500年前頃、「初期古代チベット人」と呼ばれます)に焦点が当てられます。これらの個体の位置は西方のヒマラヤ弧から北東のチベット高原の全範囲に及びます(図1B・D)。アジア全域の時空間的に多様な人口集団との関係を決定するため、チベット高原の古代の個体群をアジア全域の45000~3000年前頃の個体群と比較する最尤系統発生が推定され、全ての初期古代チベット人はチベット高原の東側の低標高地域の19000~4500年前頃のアジア東部人とクラスタ化する(まとまる)、と分かりました(図2A)。しかし、初期古代チベット人は、沿岸部中国南部の12000~8000年前頃のアジア東部南方人とよりも、黄河地域の9500~4000年前頃のアジア東部北方人の方とより密接に関連しています(図2A)。

 f4分析(アジア東部北方古代人、アジア東部南方古代人;初期古代チベット人、ムブティ人)では、チベット高原の北部と南部と中央部の初期古代チベット人は、沿岸部中国南部のアジア東部南方古代こととよりも、アジア東部北方古代人の方と多くのアレルを共有しています。多様な低地の古代アジア個体と比較する外群f3分析では、標本抽出された最古のチベット高原個体、つまりゾングリ(Zongri)遺跡の5100年前頃の個体は、チベット高原の他の古代の個体群と最高の遺伝的浮動を共有しており、それに続くのがアジア東部北方古代人でした。これらのパターンから、5100~2500年前頃のチベット高原の初期のヒトはアジア東部北方古代人と密接に関連している、と裏づけられます。以下は本論文の図2です。
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 チベット高原で見られる独特な祖先系統の遺伝的形成に取り組むため、qpAdm分析が実行されました。qpAdm分析は、遠位供給源を有する初期古代チベット人について、標的人口集団が事前に定義された供給源人口集団と関連する祖先系統の混合として記述できるのかどうか、検証します。その結果、初期古代チベット人における主要な祖先供給源は1人もしくは複数のアジア東部北方古代人と関連している(74%超のアジア東部北方古代人祖先系統)、と確証されました。

 残りの祖先系統(7~26%)は、これまでに標本抽出されたアジア祖先系統から深く分岐した祖先系統に起因し、以下の1もしくは複数の供給源と関連しています。それは、シベリアのシベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性1個体か、中国北部に位置する北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体か、現在のアンダマン諸島人(オンゲ人)です。この祖先系統は古代型のヒト【非現生人類ホモ属】と関連している可能性は低そうで、それは、初期古代チベット人において古代型【非現生人類ホモ属型】関連祖先系統の増加が検出されないからです。

 類似のパターンは、ヒマラヤ弧の現在(関連記事)および古代(関連記事1および関連記事2および関連記事3)のチベット高原人口集団に関する他の研究でも見られました。類似の混合割合パターンから、チベット高原人口集団全体の祖先系統は単一の共通起源に由来する、と示唆されます。推定された最尤系統発生は、古代のチベット高原人口集団間の単一の共有された祖先系統について、一見すると強い裏づけを示しませんが、低い裏づけは、おもに時折1人もしくは複数の低地アジア東部古代人よりも深く分岐していると位置づけられる一部の初期古代チベット人に起因します。

 数人の古代チベット高原個体をチベット高原関連クレード(単系統群)から外すと、分岐点はかなりの増加を裏づけます。qpGraph分析は、黄河地域の9500年前頃の1個体と関連する単一の供給源に由来する地理的に多様な初期古代チベット人全体で共有される祖先系統(68~90%)を示しますが(図2E)、同様に起源の頃に全てのチベット高原の人口集団に寄与したとして深く分岐した祖先系統をモデル化する試みは適合しません。両方の事例では、古代チベット高原人口集団における深く分岐した祖先系統を表す古代の個体群の欠如が、この祖先系統がまず初期チベット高原人口集団にどのように入ってきたのか、適切にモデル化にすることを困難にしています。

 ほとんどのf4分析(初期古代チベット人、奇和洞3号/ AR19Kアムール川流域の19000年前頃の個体;初期古代チベット人、ムブティ人)は、系統発生分析およびqpAdmモデル化を困難にする深く分岐した祖先系統にも変わらず、19000~12000年前頃のアジア東部北方および南方古代人とよりも、初期古代チベット人の間の方での密接な遺伝的関係へのかなりの裏づけがあることを確証するのに役立ちます【奇和洞3号とは福建省の奇和洞(Qihe Cave)遺跡の前期新石器時代個体で、AR19Kとはアムール川流域の19000年前頃の個体】。

 全体的に、チベット高原祖先系統はおそらく、アジア東部北方古代人と関連する主要な供給源と、まだ標本抽出されていない「亡霊(ゴースト)人口集団からの少数派の供給源の混合を通じて形成された、と分かりました。古代チベット高原個体群におけるこのパターンの発見から、この混合祖先系統はチベット高原の先史時代の人口集団に広がっており、5100年前頃までさかのぼっていて、チベット高原へのコムギとオオムギの導入(関連記事)に先行する、と示されます。

 黄河上流域に暮らしていた青海省の喇家(Lajia)遺跡の4200年前頃の個体群はチベット高原北東部地域の近い隣人で、喇家遺跡人口集団はチベット高原関連祖先系統の形成に重要と考えられました(関連記事)。本論文の系統発生分析では、4200年前頃の喇家遺跡個体群は初期古代チベット人とまとまらず、代わりにアジア東部北方古代人とまとまる、と示されます(図2A)。喇家遺跡個体群をアジア東部北方古代人の広範な標本と比較するf4分析では、喇家遺跡個体群と中華人民共和国内モンゴル自治区および黄河流域のアジア東部北方古代人はほとんどの初期古代チベット人と同様に関連しており、喇家遺跡個体群は初期古代チベット人と比較して、黄河沿いの他の同時代の人口集団、つまり内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡および陝西省の石峁(Shimao)遺跡の個体群(廟子溝_中期新石器時代および石峁_後期新石器時代)とともにクレードを形成する、と分かりました。

 さらに、喇家遺跡人口集団、以前に刊行された3400年前頃となるチベット高原南部地域のルブラク(Lubrak)遺跡個体群、5100年前頃のゾングリ遺跡の1個体、多様なアジア東部北方古代人など可能性のある供給源を認める交替qpAdm分析では、ほとんどの初期古代チベット人はルブラク遺跡もしくはゾングリ遺跡の個体のみ若しくはそれらとおもに関連する祖先系統として記述でき、ほとんどの場合、喇家遺跡の4000年前頃の個体群は可能性のある供給源として却下される、と分かりました。これらのパターンから、初期古代チベット人は黄河上流域の人口集団で観察された祖先系統とは異なる独特な祖先系統を有している、と示されます。本論文はこれをチベット人祖先系統と表示します。


●チベット高原の人口構造は2500年前頃の3つの在来祖先系統を明らかにします

 現在チベット高原に暮らしているほとんどのチベットの人口集団は密接な遺伝的関係を共有しており(関連記事)、ネパールの3400~1200年前頃の個体群を現在のチベット人と比較した研究は、高い遺伝的連続性を明らかにしています(関連記事1および関連記事2)。次に、空間的に多様な標本抽出で古代チベットの人口集団内の人口構造が調べられました。FST(遺伝的距離)分析を用いて、初期古代チベット人内の遺伝的分化の水準が、現在のチベット人の内部における水準と比較され、現在のチベット人の間(図2C、FST=0~0.005)よりも、さまざまな地域にわたる初期古代チベット人の間(図2D、FST=0.01~0.037)でずっと高い分化がある、と分かりました。

 外群f3分析を用いて、初期古代チベット人の内部における遺伝的クラスタ化が調べられ、対での共有される遺伝的浮動に基づいて、初期古代チベット人は少なくとも3つの遺伝的クラスタに分離できる、と分かりました(図2B)。ました。これら3クラスタは地理的パターンに従い、以下の通りです。第一は、青海省の玉樹(Yushu)県および海南(Hainan)県のゾングリ遺跡の5100~2800年前頃となる「北東部」クラスタです。第二は、チャムド(Chamdo)およびナクチュ(Nagqu)県の2800~2500年前頃となる「南東部~中央部」クラスタです。第三は、チベット自治区の山南(Shannan)およびシガツェ(Shigatse)県の3400~2600年前頃となる「南部~南西部」クラスタで、以前に刊行されたヒマラヤ弧の古代の個体群も含みます(図2B)。

 各クラスタの初期古代チベット人は相互と最も密接にまとまり、ブートストラップの裏づけは、南部~南西部クラスタでは100%、北東部クラスタでは92%、南東部~中央部クラスタでは61.8%で(図2A)、f4統計および外群f3統計と一致し、北東部および南部クラスタについてはより強いクレード性の裏づけにつながりますが、南東部~中央部クラスタは2クラスタ間の中間的パターンを示します。さまざまなクラスタの古代チベット高原人口集団間のf4分析から得られた遺伝的関係は、低地アジア東部北方古代人と比較して堅牢ではなく、人口構造は他のアジア東部北方人との分離後すぐに起きた、と示唆されます。

 現在のチベット人では観察された、初期古代チベット人における経度と低地アジア東部人との遺伝的関係の間の有意な相関は観察されませんでした。初期古代チベット人の内部におけるこのパターンは、独特なチベット人祖先系統が深く分岐しており、2500年前頃以前に3つの異なる祖先パターンが生まれたことを裏づけます。それは、北東部クラスタと関連するチベット高原北東部祖先系統、南部~南西部クラスタと関連するチベット高原南部祖先系統、南東部~中央部クラスタと関連するチベット高原南東部祖先系統です。


●4700年前頃以降のチベット高原北東部のより低い高度の地域における遺伝子流動

 チベット高原の北東部地域は、新石器時代におけるさまざまな人口集団にとっての主要な相互作用地帯と考えられてきました。それは、土器様式と食性と埋葬パターンの変化が、この地域と関連する在来の採食民とさらに東方からの雑穀農耕民との間の文化的接触を示唆しているからです。初期古代チベット人の北東部クラスタは、5100年前頃となるチベット高原で標本抽出された最古のヒトを含んでおり、2ヶ所の遺跡のヒトにより表されています。それは、ともに青海省の、共和盆地のゾングリ遺跡の5100~3900年前頃と年代測定された血縁関係のない12個体と、玉樹県の普卡貢瑪(Pukagongma)遺跡の2800年前頃の血縁のない5個体です(図1A・B)。これらの個体群を用いて、ヒトの移住と混合も以前に観察された文化的相互作用および変化に役割を果たしたのか、調べられました。

 まずゾングリ遺跡に焦点が当てられ、5100年前頃の1個体はより新しい個体とは異なる遺伝的パターンを示した、と分かりました。ADMIXTURE分析では、4700~3900年前頃のゾングリ遺跡個体群は、アジア東部南方現代人で最大化される祖先構成要素を有していますが、5100年前頃の1個体(ゾングリ5100年前/ C4783_C202)はこの構成要素を示しません(図1C)。f4分析では、4700~4100年前頃のゾングリ遺跡個体群は、5100年前頃の1個体よりも黄河地域からの新石器時代人口集団と有意に多くのアレルを共有しています(図3A・B)。

 qpAdmを用いて遺伝子流動の可能性のある供給源がさらに調べられ、より新しいゾングリ遺跡個体群は、5100年前頃のゾングリ遺跡1個体(40~73%)、内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡の前期および中期新石器時代人口集団、黄河_中期新石器時代(MN)および山東省_前期新石器時代(EN)で表される黄河地域と関連する祖先系統の混合として最適に記述できる、と分かりました(図3C)。まとめると、これらのパターンから、追加のアジア東部北方祖先系統が4700年前頃にゾングリ遺跡の人口集団に影響を及ぼした、と示され、遺伝子流動がこの地域で起きた文化的相互作用に伴っていたことを裏づけます。以下は本論文の図3です。
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 北東部クラスタの他の個体は、チベット高原の玉樹県のより高い標高の地域にあり、ゾングリ遺跡の西方300kmに位置する普卡貢瑪遺跡に由来します。ゾングリ遺跡のより新しい個体群(4700~3900年前頃)とは異なり、2800年前頃となる玉樹県の普卡貢瑪遺跡の個体群は、f4統計(玉樹2800年前、ゾングリ5100年前;新石器時代アジア東部北方人、ムブティ人)では、新石器時代アジア東部北方人と類似の数のアレルを共有します(図3A・B)。qpAdm分析では、2800年前頃となる普卡貢瑪遺跡個体群は、5100年前頃のゾングリ遺跡1個体と同じ祖先人口集団に由来するものとして記述できます。これらのパターンから、非在来の人口集団からの移住は、ゾングリ遺跡など共和盆地に居住していた人口集団に大きく影響を及ぼした一方で、これら外部の影響は、近隣となる、玉樹県におけるチベット高原のより高い標高の地域には2800年前頃までには到達しなかった、と示唆されます。


●3400年前頃以前のヤルンツァンポ川沿いのチベット高原南部祖先系統の始まり

 ヤルンツァンポ川はチベット高原で最大の川であり、チベット高原西部地域のガリ(Ngari)地区に源流があります。ヤルンツァンポ川はチベット高原南部全体にまたがり、西部から東部へと、チベット高原南西部および南部のガリ地区からシガツェ県と山南県とラサ市を通って流れ、チベット高原南東部のニンチ(Nyingchi)県を通って出ます。ヤルンツァンポ川渓谷は戦士時代のヒトがチベット高原で見つかる場所の一つで、この渓谷は現在チベット高原の最も人口の多い地域でもあります(図1B)。

 山南県やシガツェ県やヒマラヤ弧の3400~2600年前頃の個体群(図1B)など、ヤルンツァンポ川渓谷沿いにチベット高原南西部および南部に広がる初期古代チベット人は、系統発生分析では堅牢なクレードを形成します(図2A)。これら初期古代チベット人は、他のクラスタの初期古代チベット人とよりも、相互の方と多くのアレルを共有しています。さまざまなチベット高原祖先系統を区別する能力のある参照人口集団を用いてのqpWave分析ではさらに、これら初期古代チベット人を祖先系統の同じ流れに由来するものとして記述できる、と示されます。これらの結果から、こうした初期古代チベット人は全て均質なチベット高原南部祖先系統を有しており、この祖先系統はおそらく、3400年前頃以前にヤルンツァンポ川渓谷沿いに東方から西方への上流を移動した南部祖先系統を有する祖先人口集団の拡大により確証される、と示されます。

 チベット高原南部祖先系統の地理的拡大をさらに記載するため、チベット高原のヤルンツァンポ川の始点と終点(つまりチベット高原の南東部および西部)祖先系統における、これまでに標本抽出された最古級の個体群も調べられました。チベット高原西部のガリ地区では、最古の個体群の年代は2300年前頃で、ピヤングジウェング(Piyangjiweng)遺跡で発掘されました。系統発生分析では、これら2300年前頃の個体群は南部~南西部クラスタに属する個体群とクレードを形成します(図2A)。混合モデルでは、これら2300年前頃となるガリ地区の個体群は32~86%のチベット高原南部祖先系統を有している、と示されます(図4A)。

 チベット高原南東部については、ニンチ県のアガングロング(Agangrong)遺跡の最初期(2000年前頃)の個体群が分析されました。外群f3分析では、これら3個体は山南およびシガツェの2600~2200年前頃の個体群と最高の遺伝的類似性を共有していました。近位qpAdm分析では、これら3個体はチベット高原南部(37~47%)と南東部(53~63%)の祖先系統の混合です。したがって、本論文の分析から、チベット高原南部祖先系統は3400年前頃までにチベット高原の南部および南西部人口集団を形成しており、2000年前頃までにヤルンツァンポ川渓谷沿いに広がっていた、と示されます。チベット高原南部祖先系統の広範囲は、先史時代のヒトの移住が川をさかのぼったことと関連している可能性が高そうで、おそらくはヤルンツァンポ川渓谷沿いのヒトにとっての好適な環境条件により促進されました。


●3400年前頃以降のチベット高原南部および南西部における遺伝的連続性と変動

 チベット高原南部および南西部(図1B)は、チベット高原の文化的中心地です。この地域の人口動態をさらに追跡するため、ラサ市と山南県とシガツェ県の2200~700年前頃に及ぶ追加の31個体が分析されました。外群f3分析では、山南県とシガツェ県の2200~1900年前頃の個体群はチベット高原南部~南西部クラスタの3400年前頃以降の初期古代チベットと最高の遺伝的類似性を示し、山南県とシガツェ県の2200~1900年前頃の個体群が在来の初期古代チベット人とクレードを形成することを裏づける系統発生分析と一致します(図2A)。

 山南県の2200年前頃の1個体を除いて、3000~1900年前頃の山南およびシガツェ両県の個体群はqpWave分析では、同じ祖先系統を共有するものとして記述できます。近位qpWave分析では、3000~1900年前頃の山南およびシガツェ両県の個体群はルブラク遺跡個体と関連するチベット高原南部祖先系統を55~100%有しています(図4A)。これらの結果は、3400~1900年前頃のチベット高原南部および南西部における遺伝的連続性の連続性を示します。以下は本論文の図4です。
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 1500~700年前頃にかけて、外れ値1集団(シガツェ1500年前_1)を除いて全ての集団はこの地域の先行する人口集団と最高の遺伝的浮動を共有しており、人口連続性が示唆されます。しかし、より詳しく調べると、遺伝的祖先系統における変動がこの期間に起きていた、と示されます。まず、チベット高原南部では、f4統計(1300~1200年前頃の集団、1100~700年前頃の集団;2200~2100年前頃の集団、ムブティ人)において(図4B)、2200~2100年前頃の個体群は1100~700年前頃の個体群とよりも1300~1200年前頃の個体群の方と多くのアレルを共有しており、1100~700年前頃の人口集団がチベット高原南部~南西部クラスタと無関係な祖先系統に影響を受けたかもしれない、と示唆されます。qpAdm分析では、1300~1200年前頃の個体群は追加の混合を示しませんが、1100~700年前頃の個体群は他地域の2800~2000年前頃の個体群はと関連する祖先系統を示しており(図4D)、地域間の人口集団の混合がこの期間に起きたことを示唆します。

 山南県とシガツェ県とラサ市の現在のチベット人はf4統計(2200~2100年前頃の集団、1100~700年前頃の集団;現在のチベット人、ムブティ人)では、チベット高原南部および南西部1100~700年前頃の個体群と共有しているよりも多くのアレルを、2200~1100年前頃の個体群と共有しています(図4C)。これらのパターンから、チベット高原南部および南西部では、チベット高原の他地域からの人口集団との混合が1100~700年前頃の祖先系統変動をもたらした、と示唆されます。しかし、その影響はこの地域の現在の人口集団には維持されませんでした。現在のチベットの人口集団は近位qpAdmモデルで見られるように、低地アジア東部人と関連する祖先系統も高い割合で有しており、チベット高原東部のほとんどの人口集団の祖先系統は、黄河上流の1900年前頃の低地の1人口集団、つまり雲南省の大槽子(Dacaozi)遺跡の1900年前頃の個体群と関連する1供給源により説明できます(図4D・E)。

 これらのパターンは1100~700年前頃の個体群では見られず、過去700年間にわたる低地アジア東部人からの広範な遺伝子流動が示唆されます。チベット高原の現在の人口集団は、低地アジア東部人とのより高い遺伝的類似性を示す東部人口集団との経度勾配により特徴づけられます。しかし、このパターンは3000~700年前頃のさまざまな時間横断区では観察されず、この経度勾配が最近起きており、おそらくは低地アジア東部人からの広範な最近の遺伝子流動と関連していることを示唆します。


●チベット高原中央部および南東部における遺伝的変化と持続

 ナクチュ県のチベット高原中央部は過酷な生活条件で知られており、平均海抜は4500mです(図1B)。この地域の2500年前頃以前の古代の個体群は、チベット高原南東部のチャムド県の人口集団と南東部~中央部クラスタを形成します(図2A・B)。qpWaveでは、そのチベット高原南東部祖先系統はヤルンツァンポ川沿いの地域で見られるチベット高原南部祖先系統とは異なっていた、と示されます。しかし、1600年前頃以後、ナクチュ1600年前(1個体)とナクチュ1400年前(3個体)とナクチュ1100年前(1個体)を含めてナクチュ県の全ての古代の個体は、おもにチベット高原南部祖先系統を有するチベット高原南部~南西部クラスタの古代の個体群と最高の遺伝的浮動を共有します。f4分析(3000~2000年前のチベット高原南部/南西部集団、2700~2500年前のナクチュ個体群;1600年前以降のナクチュ個体群、ムブティ人)では、ナクチュ県の1600~1400年前頃の個体群は、チベット高原南東部~中央部クラスタの個体群とよりもチベット高原南部~南西部クラスタの古代の個体群の方と多くのアレルを共有します。

 系統発生およびf4分析では、これらの個体はチベット高原南部~南西部クラスタの初期古代チベット人の多様性の範囲内に完全に収まりますが(図4D)、ナクチュ県の2500年前頃の個体群は、チベット高原南東部~中央部クラスタもしくは北東部クラスタとの祖先系統共有として最適に記述されます。とくに、1600年前頃のナクチュ県の個体群は、チベット高原南西部の西シガツェ県の1900年前頃の個体群とより関連していますが、ナクチュ県の1400~1100年前頃の個体群はチベット高原南部のシガツェ県と山南県の2200~2100年前頃の個体群とより関連しています(図3A)。これらの観察から、2500~1600年前頃に、チベット高原中央部では顕著な人口変化があったので、1600年前頃までの人口集団はチベット高原南部~南西部クラスタと関連する祖先系統をおもに有しており、微妙な変化がナクチュ県の1600年前頃の個体群と1400~1100年前頃の個体群との間でさらに観察された、示唆されます。

 チベット高原における南部祖先系統の広範な遺伝的影響のため、チベット高原南東部祖先系統が現在にまでどの程度持続しているのか、次に調べられました。チベット高原南東部のニンチ県では、カンギュ(Kangyu)遺跡の800年前頃の1個体が、チベット高原南東部~中央部クラスタと関連する祖先系統を有しており(図4D)、代わりにチベット高原南部祖先系統を有する2000年前頃のニンチ県個体群―とは異なるパターンです。チベット高原北東部では、玉樹県の500年前頃の1個体も、チベット高原南東部祖先系統を有しています(図4D)。

 これらの結果から、チベット高原南東部祖先系統はニンチ県と玉樹県に、それぞれ少なくとも800年前頃と500年前頃には広がっていたかもしれない、と示されます。さらに、チベット高原南東部祖先系統は現在、依然としてチベット高原南東部で見ることができます。現在のナシ人(Naxi)集団は、チベット高原南東部祖先系統39%と、低地アジア東部人と関連する祖先系統61%の混合としてモデル化されました(図4E)。本論文の分析から、チベット高原南東部祖先系統は現在までチベット高原の東半分全体で部分的な量で持続している、と示されます。


●チベット高原におけるアジア中央部祖先系統と関連する遺伝的不均一

 いくつかの外れ値遺跡および個体から、アジア中央部祖先系統がチベット高原の多くのさまざまな地域で役割を果たしており、チベット高原の人口集団に遺伝的不均一性を追加した、と明らかになります。チベット高原西部では、ピヤングジウェング遺跡の2300年前頃の個体群がチベット高原南部祖先系統を有していますが、アジア中央部のゴヌル(Gonur)遺跡の青銅器時代(BA)個体群(関連記事)とも祖先系統を共有しています(図4A)。f4分析(初期古代チベット人、ガリ2300年前;BAアジア中央部人、ムブティ人)では、イランとトルクメニスタンの古代BA人口集団は、ガリ地区の2300年前頃の個体群の方と、他のチベット高原の古代の個体群とよりも多くのアレルを共有しています。

 ADMIXTURE分析と混合f3分析では、ピヤングジウェング遺跡個体群は古代のチベット高原の人口集団およびBAアジア中央部人と関連する祖先系統の混合として記述でき(図1C)、PCAでは、ピヤングジウェング遺跡個体群はアジア中央部勾配のより近くに位置します(図1E)。qpAdm分析では、混合モデルから、2300年前頃のガリ地区個体群は6~14%のアジア中央部関連祖先系統を有している、と推定されます(図4A)。さらに、ガリ地区のゲリタング(Gelintang)遺跡の262~27年前頃と年代測定された1個体もアジア中央部関連祖先系統(14%)を有しており、2300年前頃の個体群よりも大きな過剰となっています。これらのパターンから、アジア中央部関連祖先系統は早くも2300年前頃にはチベット高原西部に影響を及ぼし、最近の歴史時代まで維持されてきた、と示されます。

 アジア中央部関連祖先系統は、チベット高原南部および南西部でも観察できます。ザングクン(Zhangcun)遺跡の1520~1363年前頃の1個体(シガツェ1500年前_1)は、この地域で標本抽出された2200~700年前頃の他の個体とは異なる遺伝的パターンを示します。PCAでは、この男性1個体はインドの人口勾配の方へと動いており(図1F)、ADMIXTURE分析では、この1個体は新石器時代イラン農耕民で最大化される構成要素を有していて、シガツェ1500年前_1がアジア中央部関連祖先系統を有している、と示唆されます。これらのパターンは、同じ地域の他の1個体(シガツェ1500年前_2)では観察されず、その祖先系統はチベット高原の人口集団と関連する供給源で完全に説明できます(図4D)。

 さらにf4分析(シガツェ1000年前/ラサ700年前/シガツェ900年前、ラサ1000年前/ラサ700年前/シガツェ700年前;アジア中央部古代人、ムブティ人)では、チベット高原南部のロングサングクデュオ(Longsangquduo)遺跡の900年前頃となる個体群、つまりシャール1・ソクタ(Shahr I Sokhta)遺跡とゴヌル遺跡の個体群(シャール_1_・ソクタ_BA1とゴヌル1_BA)は、他の近隣の同時代のチベット高原個体群とよりもアジア中央部のBA個体群の方と多くのアレルを共有しています。

 これらの観察から、ロングサングクデュオ遺跡の900年前頃の個体群はアジア中央部古代人で見られる祖先系統も有している、と示唆されます。現在、チベット高原南西部のシェルパ人(Sherpa)は現在のチベット人よりも多くのアジア中央部関連祖先系統を有しており、f4分析(シェルパ_シガツェ、現代チベット人;シャール_1_・ソクタ_BA1/ゴヌル1_BA、ムブティ人)では、BAアジア中央部人ともより多くのアレルを共有する傾向にあります。これらのパターンから、アジア中央部関連祖先系統を有している人口集団も、早くも1500年前頃にはチベット高原南部および南西部地域のヒトに寄与した、と示されます。


●EPAS1のハプロタイプ頻度

 現在のチベット人は、内皮PASドメインタンパク質1(Endothelial PAS Domain Protein 1)遺伝子(EPAS1)の独特なハプロタイプを有しており、これはデニソワ人として知られる古代型のヒトから現生人類へと遺伝子移入された、と知られています(関連記事1および関連記事2)。この独特なハプロタイプは現在のチベット人において正の選択の強い痕跡を示しており、高地への適応を促進した可能性が高そうです。しかし、このハプロタイプについて、正の選択と人口統計学的変化が人口集団におけるEPAS1ハプロタイプ頻度の形成にどのような役割を果たしてきたのか、曖昧なままです。

 本論文は、チベット高原の5100~700年前頃の個体群におけるEPAS1ハプロタイプの存在の調査により、現在のチベット人で見られる適応的なEPAS1多様体の軌跡を経時的に追跡しました。チベット高原北東部のゾングリ遺跡の5100年前頃となる1個体は適応的ハプロタイプの2コピーを有しており、チベット高原で既知の最古の【ゲノム解析された】現生人類はEPAS1の適応的ハプロタイプが同型接合である、と示唆されます。この適応的ハプロタイプはゾングリ遺跡の17個体(4800~3900年前頃)のうち11個体で検出され、それぞれ適応的ハプロタイプを1コピー有しており、この適応的ハプロタイプがチベット高原北東部の初期のヒト居住期間においてかなり高頻度だったことを示します。

 チベット高原中央部と南東部と南部と西部にまたがる広範な地域では、適応的ハプロタイプの1コピーが3500~2500年前頃の16個体のうち11個体で検出されます(図5)。チベット高原の古代の個体群における適応的ハプロタイプの推定割合は、2500年以上前では0.36(95%信頼区間で0.21~0.52、19個体)、2400~1900年前頃では0.59(95%信頼区間で0.33~0.61、24個体)、より最近の1600~700年前頃の個体群では0.59(95%信頼区間で0.47~0.71、37個体)で、3000~700年前頃にかけての増加傾向を示します。以下は本論文の図5です。
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 それにも関わらず、これら推定された割合の全ては、同じ広範な地域の現在のチベット人で観察される割合(0.86、33個体)よりもずっと低く、過去3000年間のEPAS1ハプロタイプ頻度のかなりの増加と、過去700年間の急激な増加を示します。このパターンは、チベット高原における人口変化との関係を示しません。チベット高原では、内部での局所的変化と高原外からの影響にも関わらず、現在への高い遺伝的連続性があります。ゲノム全体での無作為選択されたSNPとの比較では、適応的ハプロタイプの頻度は有意に増加しており、この適応的ハプロタイプが人口統計学的事象ではなく、この遺伝子座での正の選択により駆動された、と示唆されます。


●考察

 この研究では、現在のチベット高原の人口集団における独特な祖先系統を、チベット高原全域の古代の個体群で見つけることができ、それは5100年前頃にまでさかのぼる、と示されます。このチベット高原祖先系統は、深く分岐した人口集団からのわずかな供給源と、アジア東部北方古代人と関連する主要な供給源の混合を通じて形成された、と分かり、ネパールのヒマラヤ弧の3400~1200年前頃の個体群での以前の観察と一致します。わずかな供給源は、利用可能なアジア系統と深く分岐している亡霊(ゴースト)人口集団に起因します。この深く分岐した供給源がチベット高原の旧石器時代人口集団と関連しているのかどうかは、将来の古代DNA研究により判断されるでしょう。この混合が5100年前頃以前に起きたに違いないことにも要注意です。それは、チベット高原で標本抽出された最古の個体が、同様にこの独特な祖先パターンを示すからです。

 チベット高原祖先系統に寄与した主要な供給源は、黄河地域と内モンゴル自治区にまたがるアジア東部北方の多様な9500~4000年前頃の人口集団と関連しています。この期間は、かなりの人口増加により特徴づけられる中国北部における前期新石器時代(EN)から中期新石器時代(MN)と重なります。全ての古代および現在の人口集団で観察される混合した祖先系統の形成がいつ起きたのか、まだ知られていませんが、アジア東部北方における人口移動および拡大と関連しているようです。

 これまでに標本抽出されたチベット高原祖先系統の最古の事例が、チベット高原北東部の共和盆地に位置するゾングリ遺跡の5100年前頃の1個体から記録されました。ゾングリ遺跡の5100~3900年前頃の個体群における遺伝的パターンの調査から、ゾングリ遺跡の人口集団は黄河地域のアジア東部北方古代人と4700年前頃までに遺伝的混合を経た、と示唆され(関連記事1および関連記事2)、これは玉樹県の近隣に位置するより高い標高の普卡貢瑪遺跡では観察されないパターンです。

 この期間における混合と関連するアジア東部北方祖先系統は、6000~4000年前頃にチベット高原の東縁で黄河上流域へと拡大した雑穀農耕民と関連している可能性が高そうです。ゾングリ遺跡の最初の住民の年代は5500~4000年前頃で、黄河上流域の雑穀農耕民と交易していた可能性がたかいおもに採食民だった、と示されました。本論文の調査結果から、チベット高原東縁における文化的相互作用は規約も4700年前頃に遺伝的相互作用と結びついた、と示されます。少なくともチベット高原の東縁では、文化的および遺伝的交流の両方が、この地域におけるヒトの相互作用形成にとって基本的でした。

 全ての初期古代チベット人は類似の遺伝的構成、つまり混合したチベット人祖先系統を共有していますが、チベット高原全域にわたる5100~2500年前頃の個体間の分化は、3つの主要な遺伝的クラスタを識別できるのに充分なほど深く、それは、青海省の玉樹県と共和盆地にまたがる北東部クラスタ(チベット高原北東部祖先系統)、チベット自治区のナクチュ県およびチャムド県にまたがる南東部~中央部クラスタ(チベット高原南東部祖先系統)、チベット自治区のシガツェ県と山南県とラサ市およびネパールのヒマラヤ弧にまたがる南部~南西部クラスタ(チベット高原南部祖先系統)です。このパターンから、チベット人祖先系統はひじょうに構造化されており、5100~2500年前頃にまたがる古代チベット高原個体間の区別に充分な遺伝的分化がある、と示されます。これは、こうしたさまざまな各クラスタと関連する異なる歴史を示唆します。とくに、チベット高原南部祖先系統はヤルンツァンポ川沿いに驚くほど広大な地理的範囲があり、ヤルンツァンポ川がチベット高原における先史時代のヒトの移住にとって重要な回廊だったことを示唆します。

 過去3000年間において、チベット高原はいくつかの強力な政治形態の故地でした。考古学と歴史学の研究から、象雄と呼ばれる初期の複雑な社会が現在のガリ地区において2500年前頃に形成された可能性が高そうで、続いて1300年前頃には現在の山南県に起源があるチベット帝国(トゥプト)が続いた、と示唆されます。チベット高原中央部のナクチュ県では、それ以前のチベット高原南東部祖先系統を置換するチベット高原南部祖先系統の拡大があった、と分かりました。この置換は1600年前頃以前に起きており、チベット帝国(トゥプト)によるナクチュ地域の征服に先行します。1600年前頃のナクチュ県の1個体(ナクチュ1600年前)は、象雄の推定される首都の近くに位置する遺跡である頂瓊(Sding Chung)の1900年前頃の1個体(シガツェ1900年前)と最も密接な関係を示しますが、象雄と関連するナクチュ県における人口変化を明らかにするには、もっと多くの遺伝的データが必要です。

 ナクチュ県の1400~1100年前頃の個体群が、チベット帝国が勃興した山南県の2200~2100年前頃の個体群とより密接な遺伝的関係を示すことも観察されました。これは、1300年前頃のチベット帝国によるチベット高原中央部の征服と相関しており、チベット帝国の拡大がナクチュ県の人口集団に遺伝的痕跡も残した、と示唆されます。チベット高原南部では、在来の祖先系統の変化が1100年前頃にも観察でき、これはチベット帝国の崩壊と一致する期間です。2500~1100年前頃の遺伝的パターンは、チベット高原中央部における人口集団の高い相互作用と多様性を示し、チベット高原において歴史的に影響力があると知られている期間です。2500年前頃以前にチベット高原中央部で観察されなかった、チベット高原中央部地域におけるチベット高原南部祖先系統の把握から、この期間における局所的な人口集団の変化、増加する人口集団の均一性、および/もしくは増加する人口集団の接続性と移住と関連する動態が示されます。

 これら3つの拡大のどれがより代表的なのか解決するのは、この地域におけるさらなる標本抽出なしには困難です。チベット高原中央部からのより密な標本抽出が、この興味深い期間における地域史の完全な構築に必要です。地域間の相互作用もチベット高原南東部と北東部で観察され、過去1000年間におけるニンチ県と玉樹県のチベット高原南東部祖先系統の部分的な量の持続を伴います。これらのパターンから、こうした国家水準の社会はチベット高原のさまざまな地域の人口集団間の遺伝子流動促進に重要な役割を果たした、と示唆されます。現在のチベット人とシェルパ人はこれらの歴史的変化を反映しており、ほぼ全ての現在のチベット人はチベット高原南部祖先系統を示しており、高い遺伝的類似性の共有につながりますが、チベット高原南東部祖先系統の部分的な量の記録は、チベット高原の東半分の一部の現在の人口集団で存続しています。

 5100年前頃から現在までの優勢な祖先系統は共有されたチベット高原祖先系統ですが、チベット高原のさまざまな地域のいくつかの外れ値から、アジア全域の多様な祖先系統一式に影響を受けた一連の人口集団を伴うチベット高原での相互作用があった、と示されます。チベット高原南東部のチャムド県とニンチ県では、2800~2000年前頃の個体群から、祖先系統へのつながりはアジア東部南方の古代の個体群でも見られる、と示されます。チベット高原南西部のシガツェ県では、1500年前頃と900年前頃の個体が両方、現在のシェルパ人と同様に、アジア中央部の古代の個体群とのつながりを示します。

 チベット高原西部のガリ地区では、類似のパターンが標本抽出された全個体に存在し、アジア中央部関連の影響がこの地域ではより大きな影響を及ぼした、と示唆されます。チベット高原への低地アジアからのより大きな影響が現在のチベット人で観察でき、低地漢人集団へと動く現在のチベット人集団における西方から東方への人口集団の遺伝的勾配は、おもにひじょうに最近のヒトの移住の産物である、と示唆されます。まとめると、これのパターンは、チベット高原の人口集団がチベット高原の近くの低い標高の地域の隣人と有していた可能性が高そうな、動的相互作用を浮き彫りにします。

 デニソワ人と関連する適応的EPAS1ハプロタイプが古代のチベット高原人口集団において比較的高頻度で見つかるものの、その最高頻度は現在のチベット人集団で観察されることも分かり、これは以前(関連記事)には観察されなかったパターンです。この研究における密な時間的標本抽出により、経時的な適応的ハプロタイプの頻度増加が観察され、このハプロタイプの、過去3000年間における着実な増加と、過去700年間における急激な増加が示されます。とくに、チベット高原においてこれまでに標本抽出された最古の個体となる、5100年前頃のゾングリ遺跡の1個体はこの適応的ハプロタイプの2コピーを有しており、この適応的ハプロタイプには独特なハプロタイプと関連する古代チベット高原の人口集団においてかなり長い進化史がある、と示唆されます。この適応的ハプロタイプがどのように最初に古代のチベット高原の人口集団に入ったのか、まだ分かりませんが、5100年前頃のゾングリ遺跡の1個体がこの適応的ハプロタイプでは同型接合だった、という本論文の調査結果は、その起源が現在標本抽出されている全てのチベット高原の人口集団に寄与した祖先的人口集団にさかのぼることを示唆します。

 チベット高原の広い時空間的範囲での現生人類の標本抽出を通じて、少なくとも、チベット高原の北部では5100年前頃、中央部と南部では3400年前頃にさかのぼるチベット高原に固有の遺伝的歴史が強調され、少なくとも2500年前頃までの強い地域的な分化が伴います。近隣地域からの多様な祖先系統を伴う相互作用がチベット高原の人口集団に影響を及ぼしましたが、最大の遺伝的変化は、チベット高原のさまざまな地域の人口集団の混合により起き、歴史時代における大きな国家水準の社会の拡大および崩壊と関わる大規模な政治的変化と関連しているかもしれません。チベット高原およびその近隣の古代人ゲノムの追加の配列蹴ってが、これらチベット高原人口集団の祖先が、他のアジア東部北方祖先系統を有する人口集団と最初に分岐時期と、全てのチベット高原の人口集団で見られる【遺伝学的に標本抽出されていない】未知の祖先系統を決定するのに、依然として必要です。しかし、以前よりもさらに1700年さかのぼった複数のヒトの標本抽出と、チベット高原全体へと利用可能な古代人のゲノム範囲の拡大により、チベット高原内の人口集団全体および近隣地域の人口集団両方の人口移動と相互作用より示される、動的な人口史が特徴づけられました。


参考文献:
Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.
https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582

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