須田努『幕末社会』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2022年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、幕末社会の前提として、江戸時代の社会を通時的に概観します。本書は江戸時代の政治理念として、仁政(百姓に重い税を課す代償として、百姓の生命と家の相続の保障)と武威(武士は強大な武力を独占するも、民に直接的に行使せず、畏怖させて支配を貫徹する)を重視します。武威は17世紀末以降、浄瑠璃や歌舞伎といった娯楽を通じて民衆にも共有されていきました。一方で、百姓は暴力を封印し、訴え(訴願)により武士に要求を伝えます。暴力や放火や盗みを禁じる百姓一揆の作法が、18世紀後半には広域化していきます。一方で、こうした安定した社会には既得権益が形成され、そこに入り込めない人々の生活は貧しいものでした。

 本書は幕末の起点を天保期(1831年1月23日~1845年1月9日)に求めます。天保年間に仁政と武威が揺らぎ始め、幕藩領主がそれを自覚し始めます。在地社会では、江戸での消費拡大により特産物生産地とその販路圏が形成されましたが、その経済圏に含まれない地域では人口流出により村落の荒廃が進み、治安が悪化していきます。幕末の幕府や諸藩の政治改革は、そうした危機感によるものだった、というわけです。幕末の政治改革は軍備増強も重要な目的となり、それはアヘン戦争の結果を知った幕府や諸藩の要人が欧米列強の軍事的脅威を強く認識したことにより促進されたようです。

 一方で、在地社会の荒廃とともに、そうした荒廃の結果成長していったとも言え、幕府や諸藩からは取締の対象になった博徒は、祭りなどを通じて在地社会と結びついていき、広域的な博徒の交流網が形成されます。これが、幕末には広範な在地社会の結びつきとなり、幕末の政治動乱の背景になります。幕府はこうした博徒を取り締まろうとしますが、少ない人数での対応のため効果的に対処できず、役人と博徒との癒着も生じます。そうした博徒の中に、国定忠治もいました。国定忠治は伝説となり、窮民を救った、という伝説も生まれます。これは、幕藩領主よりも博徒の親分の方が頼りになる、という物語の創作は、幕藩領主が仁政の体現者ではなくなっていたことを示とており、天保年間の百姓一揆では18世紀後半に広域化した武力発動を抑える作法が崩壊していった、と本書は指摘します。これら武力抑制の作法を「逸脱」していった者は「悪党」と呼ばれます。一方で本書は、19世紀前半に博徒の横行した関東地方に対して、畿内では幕藩領主への信頼・恩顧が一定程度機能しており、天保年間の三方領地替え反対一揆ではそうした作法が遵守されていた、とも指摘します。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)のペリー艦隊の浦賀沖来航を契機に、幕末の政治情勢は大きく動きます。対外交渉に将軍後継者問題も絡んで政争が激化し、大老に就任した井伊直弼は強硬策で反対派を弾圧しますが(安政の大獄)、安政7年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変で殺害され、欧米列強に圧倒的な武力(海軍力)の差を見せつけられたこともあり、幕府の武威は失墜します。桜田門外の変の実行者は井伊直弼員を「天誅」により惨殺した、と斬奸状で述べ、「天誅」はこれ以降、幕末において殺害(未遂)事件(テロ)の常套句となります。

 民衆の間では、武力を誇示する欧米列強への反感が強まり、排他的な攘夷論が浸透するとともに、「日本」という枠組みで自己の生活空間を把握するようにもなります。欧米列強への反感は、安政の条約で欧米列強との貿易が始まり、養蚕・製糸業に関わる一部の者以外が物価高に苦しみ、疫病(コレラ)の流行が外国からもたらされたと考えられたため、民衆の間で強まっていきます。これが、在地社会における広範な尊王攘夷運動の背景となります。ただ本書は、その盛り上がりが短期間に終わり、在地社会における矛盾を解決する方便でもあったことを指摘します。

 禁門の変から2回の長州藩討伐を経て、大政奉還から王政復古戊辰戦争へと政治情勢はめまぐるしく変わり、ついに幕府は滅亡します。この間、慶応元年9月に孝明天皇が欧米列強との修好通商条約を勅許したことにより、攘夷の正統性は失われ、この時期以降、「異人斬り」は急速に減少していきます。一方、欧米列強との貿易開始による物価高騰は続き、世直し騒動のような暴動が相次ぎます。これに対して、武力を蓄えていた在地勢力が防衛のため、幕藩領主の力を借りずに、世直し騒動側の人々を攻撃することもありました。幕府の武威低下は、地域差はあるにしても、すでに在地社会において明らかでした。幕府の倒壊は巧妙な政治的陰謀ではなく、深い社会的背景があった、と言えるでしょう。

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