山本健『ヨーロッパ冷戦史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、より広範な地域を対象とした冷戦史研究が進展した結果、冷戦史研究において冷戦の「主戦場」でもあったヨーロッパの相対的地位が低下し、蓄積されたヨーロッパに関する冷戦史研究の成果の多くが充分には活かされていない、との認識から、冷戦下のヨーロッパに焦点を当て、その全体像を描き出そうとします。また本書は、冷戦下のヨーロッパを国単位ではなく、「陣営(ブロック)」単位で把握し、軍事的および政治的な関係だけではなく、経済関係にも焦点を当てます。「陣営」は(一定以上)価値観を共有し、相手「陣営」を敵および脅威と認識し、この対抗関係はゼロサム的だった、と本書は評価します。当然、両「陣営」ともに内部では対立や利害関係の衝突はあるわけですが、両「陣営」の軍拡や諜報活動や宣伝合戦などが、相手「陣営」は敵との認識を再生産させた、と本書は指摘します。

 本書はまず、第二次世界大戦の直後において、ヨーロッパの東西分断は既定路線ではなかった、と指摘します。スターリンはソ連軍の支配圏において、敵対的な政権の樹立を容認するつもりはなかったものの、共産党による独裁政権を直ちに築くつもりもなく、米英と協調しての、ファシズムに対抗する国民解放戦線の組織化を目的としていました。チャーチルは、第二次世界大戦当初にフランスがドイツにあっさりと敗北し、独ソ戦と太平洋戦争の開始までイギリスが孤立したことから、米ソとの協調維持を最優先していました。しかし、ソ連がロンドンのポーランド亡命政府と第二次世界大戦中の1943年に断交していたので、まずポーランド問題が英ソの最初の対立点となります。第二次世界大戦後、ポーランドの領土は、東部がソ連に奪われ、西部がドイツ領を奪うことになり、この点で西ドイツは強く反発し、ヨーロッパにおける冷戦形成の一要因となりました。ソ連はドイツの分断ではなく統一とソ連の影響力の維持を当面の目標としていましたが、イギリスは占領費用軽減のためドイツの分断へと傾き、ドイツの賠償能力維持のため、ドイツに過酷な賠償を課そうとするソ連や、ドイツの産業を発展させまいとするフランスの方針と対立します。

 米国は勢力圏の分割という英ソの発想を嫌っており、東欧を実行支配するソ連の勢力圏を実質的に受け入れないわけにはいかないものの、自由選挙の導入により一定の制約を課そうとしました。第二次世界大戦の終結直前(1945年4月12日)に米国のローズヴェルト大統領が死亡し、副大統領から大統領に昇格したトルーマンはソ連の非妥協的態度を知らされ、ソ連に対して強硬路線を示すようになります。また、日本の降伏直前の選挙でイギリスではチャーチルに代わって労働党政権が誕生し、その社会主義的性格と植民地維持への強い執念を米国は嫌い、米英関係は良好ではありませんでした。英国では、米ソに与さない第三の路線も検討されました。英国の植民地維持方針はソ連との対立を深めることになり、米ソ関係に先立って英ソ関係の悪化が進行しました。米国もドイツ問題などでソ連への不信感を強めていき、米英はドイツ分断の現実的可能性を考えるようになります。

 冷戦の始まりについて1947年とする見解が有力なようで、同年3月のトルーマンの演説が注目されてきましたが、スターリンはこのトルーマン・ドクトリンはさほど重視しておらず、西欧において各国政府から共産党が追放されたことの方を深刻に受け止めていたそうです。上述のように、スターリンは当初、共産党による独裁政権を直ちに築くつもりはなく、ファシズムに対抗する国民解放戦線の組織化を構想していましたが、それが破綻したことを意味するわけです。1947年には、米国側のマーシャル・プランによるヨーロッパ復興計画が提示され、そのための欧州経済協力委員会(CEEC)が発足した一方で、マーシャル・プランによるヨーロッパ復興計画をとても受け入れられないと判断したソ連が東欧諸国に圧力をかけ、マーシャル・プランへの参加を断念させ、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が設立されたことで、世界が二分されている、との認識が米ソ双方で公然と語られるようになります。ドイツは、米英仏の占領地域での通貨改革と、それに対抗してのソ連のベルリン封鎖によって、ドイツの分断は決定的になり、1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立します。本書は、スターリンによるベルリン封鎖は、ドイツの西側を米国陣営に完全に立たせた点で大失策だった、と評価します。

 こうして1949年までにはヨーロッパが東西の陣営に分断されることになり、1949年には北大西洋条約が締結されて機構化されました(NATO)。一方ソ連はスターリン政権期には、多国間軍事同盟ではなく、ソ連と東欧各国との二国間相互援助条約網で対処しようとしました。軍事面では、1950年の朝鮮戦争勃発により、否定的な感情が強かったドイツの再軍備も進展します。冷戦はヨーロッパを経済的にも分断し、東欧諸国の貿易は、戦間期には75%が西欧で占められており、東欧諸国間の貿易は15%だったのに対して、戦後には東側陣営内の割合が60%以上に増加します。これは、東欧諸国がソ連型経済体制を導入し、冷戦下で自給自足的傾向を強めたからでした。ヨーロッパでは、冷戦下において西側陣営で統合の動きも進みました。それが具体的に始まったのは1950年で、フランスが主導しました。1951年には欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が成立し、現在の欧州連合(EU)の前身となります。こうして西側陣営が経済協力を進め、経済が成長していったのに対して、東側陣営の経済協力は西側ほど進まず、経済成長も頭打ちになった、と本書は指摘します。

 1953年3月のスターリンの死は、ヨーロッパにデタント(緊張緩和)をある程度もたらし、たとえば、ココム(対共産圏輸出統制委員会)の禁輸綱目が削減されました。ただ本書は、すでに冷戦構造が長期化すると想定されるようになり、その枠内でのデタントの模索だった、と指摘します。上述のように、スターリン政権期のソ連は多国間軍事同盟に消極的でしたが、スターリン没後に多国間軍事同盟としてワルシャワ条約機構を創設します。ただ、ワルシャワ条約機構は当初、軍事同盟としては張子の虎で、軍事同盟としての実態を有するのは1960年代末になってからであり、政治的意味合いの方が強かった、と本書は指摘します。

 上述のように、当然のことながら東西両陣営ともに内部には対立や利害関係の衝突はあり、1956年3月のフルシチョフによるスターリン批判を契機として、ポーランドとハンガリーでは同年に国民の蜂起がありましたが、ポーランドでは新指導者のゴムウカの手腕もあって割と穏便に事態が収拾されました。一方ハンガリーでは、ソ連軍の武力介入を招いてしまいました。西側陣営も、1956年に勃発したスエズ動乱(第二次中東戦争)での対応などに起因する米国への不信感から、西独がヨーロッパ独自の核武装を模索するなど、一枚岩ではありませんでした。

 スターリン死後にデタント傾向が継続的に強くなっていったわけではなく、いわゆるベルリンの壁の建築へと至ります。当時、経済、とくに消費文化では西ベルリンが東ベルリンを圧倒しており(これは西独と東独の国家間の違いも反映していたわけですが)、ベルリンが東独から西独への亡命の拠点になっており、東独、さらには東側陣営にとって大きな問題になっていました。ベルリンの壁をめぐるやり取りから、米国が西側陣営の諸国を最後まで守り通すのか、疑問を抱いたフランスと西独は、独自路線を模索するとともに、提携を図ります。とくにフランスは、自国の偉大さの維持(あるいは復権)に固執するドゴール大統領が、核兵器の開発などで米国に依存せずにすむような体制を構築しようとします。米英と仏独で、西側陣営分裂の可能性も見えてきたわけです。一方、東側陣営でも、中ソ対立が顕在化し、ヨーロッパでも、ルーマニアがソ連主導による東側陣営の経済統合路線に強く異を唱え、独自路線を模索し始めます。

 このように東西両陣営は、相互に対立しつつ、内部にも対立関係を抱えて一枚岩ではなく、各国が独自の外交を模索し、それは二国間や多国間のデタントとして、1960年代以降に活発になります。フランスはドゴール政権で米国への不信感から独自のデタント政策を進め、1966年にはNATOからの脱退を表明します。1960年代のヨーロッパにおけるデタント傾向は経済にも反映され、1960年の東西貿易の総額は60億ドル程度でしたが、1960年代末には160億ドル程度にまで増加します。一方で、とくに東側陣営では軍拡が顕著で、1964年のフルシチョフ失脚後に政権を担ったブレジネフは、ソ連の核弾頭数を急増させ、フルシチョフ政権期には米国に対して圧倒的劣勢だった核戦力を、1972年までには同程度にまで引き上げました。これに対して西側陣営もNATO軍の核戦力を大きく増強します。ただ、1968年にいわゆるプラハの春をソ連軍が武力鎮圧したさいも、NATO諸国の反応が抑制的だったように、東西の陣営間の直接的な武力紛争には至りませんでした。ヨーロッパはまさに「冷戦」だったわけで、ここはアジアと大きく異なるところだと思います。

 1960年代のデタント傾向をさらに促進する重要な契機は、西独におけるブラント政権の成立でした。西独はずっと東独を認めず、東独を承認している国家とは国交を締結せず、すでに国交がある国でも東独と国交を締結したら国交断絶したくらいで、これがヨーロッパにおけるとくに多国間のデタントを妨げていた側面も多分にありましたが、ブラント政権の東方政策では、東側陣営との関係改善が図られ、事実上「二つのドイツ」を認めることになります。これによりヨーロッパにおける多国間デタントへの道が開かれます。これが、欧州安全保障協力会議(CSCE)の開催と1975年8月のCSCE首脳会議におけるヘルシンキ宣言へとつながります。このヘルシンキ宣言により、第二次世界大戦後のヨーロッパの現状が承認され、これは第二次世界大戦後に国境を西側に拡張したソ連にとって勝利とも言えました。一方で、ヘルシンキ宣言では人権と基本的自由の尊重と経済および文化における協力が謳われ、これが東側諸国を動揺させていくことになります。

 こうしてデタントには一定の成果が見られましたが、1970年代には、石油危機により西側の経済成長が鈍化し、東西貿易は停滞し、東欧諸国も経済が悪化し、累積債務が膨らんでいきます。これが、東側陣営解体の一因となりました。こうした状況で、1970年代後半以降、デタントが継続した側面を否定はできないものの、大きく進展したとはとても言えず、軍事技術の発展による軍拡も進みます。東欧諸国の経済状況が悪化する中で、ポーランドでは自主管理労組「連帯」が急速に勢力を拡大し、NATO諸国はソ連の介入を警戒します。しかし本書は、経済的に苦境にあったソ連は、早々にポーランドへの軍事不介入を決めており、「連帯」が政権を掌握した場合、その政権との協力さえ考えていた、と指摘します。つまり、ソ連は事実上ブレジネフ・ドクトリンを放棄していた、というわけです。ポーランド政府は戒厳令を施行し、「連帯」は弾圧されますが、これをめぐって、レーガン政権下で強硬路線の米国と、融和的な西欧諸国との間で対立が生じます。

 1985年、ソ連でゴルバチョフ政権が成立し、国内経済の立て直しを最優先し、対外的には緊張緩和と軍縮および西側との経済協力を進めていきます。これが1989年の東欧革命へとつながり、東側陣営は崩壊します。ゴルバチョフ自身は、社会主義体制を崩壊させようとしたわけではなく、コメコンの統合も進めようとしましたが、もはやそれだけの余力はソ連にはなく、東側陣営は疲弊しており、西側陣営と比較して経済力と技術力が明らかに遅れていました。ソ連の経済不振に追い打ちをかけたのが、1986年の石油価格暴落でした。ソ連は東欧を重荷と考えるようになり、コメコンで東欧諸国を縛ることはなくなります。こうして、1989年の東欧革命の舞台は整い、1990年10月、ヨーロッパにおける冷戦の主要な舞台であり続けた東西ドイツは、実質的に西独による東独の吸収という形で統一し、1991年にはワルシャワ条約機構が軍事同盟としての役割を終え、コメコンが正式に解散し、年末にはソ連が解体となり、ヨーロッパにおける冷戦は終結します。

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