MIS3におけるチベット高原への人類と石刃技術の拡散

 海洋酸素同位体ステージ(MIS)3におけるチベット高原への人類と石刃技術の拡散に関する概説(Zhang et al., 2023)が公表されました。チベット高原への人類の拡散は古く、本論文では最近の公表のため取り上げる時間的余裕がなかったためか、言及されていない研究では、中期更新世となる226000~169000年前頃の人類の手と足の痕跡が報告されています(関連記事)。これは恐らく現生人類(Homo sapiens)の痕跡ではなく、その点でもチベット高原の人類史は注目されます。


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 チベット高原に到達するのは、海抜が高く、周囲が山脈のため、悪名高いほどに困難です。低温や降水量の少なさや疎らな資源、とくに低酸素症などの環境圧力を考慮すると、この地域における継続的生存には生物学および行動両方の適応が必要です。これが恐らく、長期にわたってチベット高原がヒトにより居住された最後の地域の一つと考えられていた理由です。そうした過酷な環境への対応は、以前には現生人類(Homo sapiens)に特有の行動とみなされました。新たな発見はこれらの見解に異議を唱えており、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型人類【絶滅ホモ属、非現生人類ホモ属】が、早くも海洋酸素同位体ステージ(MIS)3にチベット高原に到来した、と示唆します(関連記事)。

 チベット高原奥地の観点では、尼阿底(Nwya Devu、略してND)遺跡が、後期MIS3までさかのぼるヒトの活動の証拠を提供します(関連記事)。この高地【チベット高原】の考古学的記録には、後期更新世から完新世にかけてのチベット高原における、古代型のヒト集団【絶滅ホモ属、非現生人類ホモ属】と現生人類による複数の居住事象が含まれます(関連記事)。しかし、初期のヒト居住の現在の証拠は、高地適応の時期と頻度と過程に関する問題に完全に対処するには、疎らで断片的なままです。

 考古学的観点からは、ヒトがその行動を高地の極限環境にどのように適応させたのか、理解するには全面的な発掘が重要です。高地における狩猟採集民の生計戦略や居住パターンや技術的発展などの問題を検討するには、高解像度の考古学的データが必要です。しかしこれまで、チベット高原におけるほとんどの更新世遺跡は、調査/試掘坑のみで知られています。尼阿底遺跡は数少ない例外の一つで、体系的に発掘されて年代測定された多数の石器群があります(関連記事)。

 尼阿底遺跡はチベット高原の奥地に位置し、かつては完新世においてずっと遅く担ってやっと起きた、と考えられていたチベット高原のヒト居住が早くも4万年前頃に始まり、海抜4600m(4600masl)の標高に達したことを反映しています。尼阿底遺跡のもう一つの独特な特徴は、MIS3において、アジア東部では稀にしか見られないものの、ユーラシア草原地帯ではよく記録されている石刃技術の出現です(図1)。結果として、尼阿底遺跡は、この期間のアジア東部における、ヒトの高地への適応の研究と、人口移動および石刃技術の拡大の調査において重要な役割を果たします。以下は本論文の図1です。
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 ヨーロッパとアジア西部では、現生人類の拡散はMIS3において考古学的記録で観察される一連の行動の変化と対応しています。定型的な骨の道具や個人的装飾品の広範な使用や芸術や社会経済的変化とともに、体系的な石刃/小石刃製作への技術的変化が、ユーラシアにおける現生人類の出現と関連する行動一括に加わります。アジア東部ではこれら全ての革新が起きるわけではありませんが、石器伝統は異なる発展経路をたどるようです。尼阿底遺跡や他の発掘された遺跡で石刃群が見つかりましたが、中国の寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou、略してSDG)遺跡のMIS3石器群は一般的に、「石核と剥片」のインダストリー(関連記事)として記載されており、定型的な再加工石器や真の石刃/小石刃製作が欠けています。

 したがって、在来起源の代わりに、尼阿底遺跡と水洞溝遺跡における石刃群は北方の草原地帯と関連しているかもしれず、北方の草原地帯では、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)インダストリーとして知られる特有の石刃群の集中と連続石刃技術が見られます。IUP石器群と同時代の現生人類遺骸は、アジア東部への現生人類拡散り初期内陸部北方経路の証拠と考えられています。尼阿底遺跡の石刃群は、その年代と位置を考えると、この拡散過程と一致しています。したがって、広い人類学的観点では、尼阿底遺跡石器群の分析は、チベット高原のヒトの居住史に光を当てることができのます。尼阿底遺跡石器群の分析は、アジア東部における、現生人類の拡大など大規模な人口移動の理解にも関連しています。
 
 本論文は、3堆積層で発掘された、剥片や石刃や小石刃や石核石器や断塊など、尼阿底遺跡の3683点の石器の標本規模を分析し、第3層の主要な堆積物は光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)年代測定によると4万~3まにさかのぼります(関連記事)。分析に基づくと、第1層における石器のより小さな平均規模を除いて、尼阿底遺跡の石器製作は層全体で比較的一貫していることに要注意です。

 第一に、尼阿底遺跡の石器は地元の近隣の細粒粘板岩で全て作られており、製作順序は二つの製作様式を反映しています。それは、ほぼ石刃(blade)とひじょうに小さな割合の小石刃(bladelet)で構成される石刃(laminar)製作と、剥片製作です【laminarとは長さが幅の2倍以上となる本格的な石刃で(関連記事)、以下ではラミナールと訳します】。前者が明確に優占しており、ラミナール縮小と関連する最大70%の石核を占めます。

 第二に、傷跡のパターンによると、単方向の除去がほとんど共通する原形縮小手法で、双方向で垂直で多方向の除去など、他のパターンの追加の観察があります。尼阿底遺跡には、自然に細長い石刃を製作するため、自然の尾根もしくは狭い形状の側面を利用する、石刃製作の割合があります。第三に、尼阿底遺跡における石器修正は約2.7%(99点)で、おもに横型削器と、少数の抉入石器と削器と鋸歯縁石器と彫器と再加工された破片が含まれます。これらの石器は全体的に、再加工の強度が低く、低角度の再加工跡を示します。さらに、石核管理は一般的ではありませんが、峰と石核辺縁石片除去と石核板をたまに使用することは、石刃の制御された製作を示唆しており、これは、上部旧石器の特徴を有する石刃製作の真の事例を表しています。

 尼阿底遺跡の発見は、最高で海抜4600mに達するチベット高原奥地の移住が後期MIS3にさかのぼり、以前に感がられていたよりもずっと古いことを明らかにします。尼阿底遺跡石器群の機能と技術的構成についてのさらなる少詳細な研究は、ヒト集団が過酷な高地条件にどのように対処したのか、という適応的過程のより深い理解に必要です。石刃は気候緩和中に狩猟採集民集団により高地に持ち込まれたようで、それは、後期MIS3は比較的温暖で湿潤な期間だった、と研究により示されているからです。これは、標高の高いチベット高原の内部地域に初期狩猟採集民が到達できた主要な理由の一つかもしれません。

 しかし、尼阿底遺跡はチベット高原で発掘された唯一の石刃遺跡で、他に同等の石器群がないので、高地内の石刃技術の「移行」もしくは在来起源を裏づける証拠がありません。石刃技術の在来の先例の欠如は、低地からの外来起源を示します。隣接する低地では、類似の年代の石刃群もひじょうに稀です。たとえば、アジア南東部とほとんどのアジア東部では、更新世における礫器インダストリーもしくは石核および剥片技術の持続があります。チベット高原の北方では、タクラマカン砂漠は更新世のヒトの活動の証拠が欠けています。したがって、尼阿底遺跡で記録された石刃技術は、高地において独特であるだけではなく、近隣の低地のほとんどでも稀なままです。

 地理的および技術的に、尼阿底遺跡の石刃技術に最も類似しているのは、中国北部の水洞溝遺跡の石器群です。水洞溝遺跡におけるそうした資料の例外的存在は、同時代の上部旧石器石刃遺跡が広く分布している、シベリア南部とモンゴルの草原地帯および針葉樹林地帯と山間で見られる石器群と関連しており、と一般的に受け入れられています。尼阿底遺跡における石刃縮小の主要な特徴は、水洞溝遺跡および草原地帯の石刃群のいくつかの重要な特徴と一致する、一般的な上部旧石器の特徴を示します。これにより、尼阿底遺跡と水洞溝遺跡とアジア北部の遺跡群のラミナール伝統間の技術的関連が浮き彫りになります。

 この関連にはいくつかの未解決の問題が依然としてあることも認められます。厳密な意味での水洞溝遺跡と草原地帯のIUPのつながりはまだ検証中で、これらの石器群は製作の一部詳細で異なっているかもしれません。IUPと記載するのに用いられる定義の不一致に関する懸念もあります。さまざまな縮小手法のあるラミナール伝統の連続が、較正年代で48000~30000万年前頃にはあります。したがって、いくつかの移動がこの期間にこれらの地域間で起きたかもしれません。本論文は石刃の地理的起源地を北方に絞り込むよう提案しますが、この点で正確な前進を結論づけるのは時期尚早のようです。

 本論文は、アジア北部における現時点で最初の容積的(volumetric)石刃製作である、よく記録されたIUP石器群に焦点を当てます。年代データの解像度はさまざまな手法や実験室の関与で粗いものの、シベリアのアルタイ地域およびモンゴル北部からアジア東部にかけての48000~30000年前頃と年代測定された石刃群についての、年代順傾向に要注意です。そのため、MIS3の比較的温暖で湿潤な間氷期において、早くも48000~45000年前頃となるアジア北部、41000年前頃となる中国北部、次に4万~3万年前頃となるチベット高原における石刃の出現を伴う、石刃技術の方向上の拡大があるようです。さらに、上部旧石器石刃技術は、現生人類拡散の考古学的代理と考えられており、それは、ユーラシアのMIS3における広範なヒトの行動一括において上部旧石器の石刃が果たした役割のためです。さらに、現代チベット人において強い正の選択の兆候を示すEPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)遺伝子は、アルタイ地域のデニソワ人のハプロタイプとのひじょうに類似している、と確認されており、48000年前頃に低地でアジア東部人の祖先へと伝わった、と示唆されています(関連記事)。

 総じて、複数の一連の証拠は、説得力があるものの仮定的なシナリオへと収束します。水洞溝遺跡と尼阿底遺跡の石刃群は、48000~30000年前頃に草原地帯からの拡大中に現生人類により製作され、持ち込まれた可能性があります。EPAS1遺伝子のハプロタイプも、その移動と共に初期アジア東部人へと伝わりました。草原地帯からチベット高原への方向上の拡散が、アジア東部における石刃群の出現に関して既存のデータを説明する最も節約的な方法である、と本論文は慎重に提案します。

 このシナリオでは、石刃技術は、侵入的要素として、チベット高原までの長い道のりによって、シベリアおよび/もしくはモンゴルからもたらされた可能性が高そうです。この遠い拡大とともに狩猟採集民は、高い標高やとくにチベット高原の山の尾根など、多様な景観と多くの物理的障壁を経ました。したがって、狩猟採集民が物理的な地理の制約をどのように克服したのか調べることは、海抜約4600mの高地の奥地に到達する過程の理解に不可欠です。ヒトがこれらの地理的景観をどのように移動したのか、ということについての研究は、この場合に基本的で重要です。

 したがって、最小対価経路(Least Cost Path、略してLCP)分析を用いて、チベット高原の近づきやすさとこれらの地域におけるヒトの移動の研究に情報をもたらす、これらの地域の地形と地理から得られた地形勾配に基づき、最小対価移住経路が得られました。水洞溝遺跡とシベリアのアルタイ地域とモンゴル北部の技術的順序に関する現在の研究を考えると、尼阿底遺跡の石刃技術の正確な技術的起源については不明です。LCP模擬実験が用いられ、可能性のある3地域から尼阿底遺跡への最適経路が生成されました。利用可能な1・8・16方向の条件下で、尼阿底遺跡からチベット高原を離れる経路も検証されました。それは、既知の起源遺跡がない場合の代替的経路の調査と、尼阿底遺跡に到達するそれらの経路との整合性の検証に有益だからです。

 石刃群の地理的分布とLCPの結果によると、水洞溝遺跡はチベット高原への経路における戦略上重要な位置にあることに要注意です。本論文のモデルでは、全てのあり得るLCPシナリオ下で、水洞溝遺跡は、ツァイダム盆地南部から黄河に沿っての経路により、尼阿底遺跡と石刃技術の2つの接続地でつながっています(図2)。さらに、この経路は一般的に、尼阿底遺跡からチベット高原を離れる最適経路と重なります。一方、ツァイダム盆地の北方からの経路はひじょうに可能性が高いままで、それは、現在の考古学的データによると、チベット高原北東部がチベット高原において最初で最も多く居住された地域だからです。

 より広い規模では、本論文のLCP模擬実験は、草原地帯のあり得る起源からの2つの最短経路を生成しました。一方はシベリアのアルタイ地域から始まり、ゴルニ・アルタイ山脈の南側を通り、中国北部、最終的にはチベット高原へと至ります。もう一方は、チベット高原と中国北部をモンゴル北のセレンガ川流域へとつなげます。どちらの経路も、地形だけを考慮したモデル下では、ゴビ砂漠を通過したでしょう(図2b)。しかし、ゴビ砂漠は水と食料と他の天然資源の不足のため、ひじょうに住みにくい環境なので、他の景観での移動よりも狩猟採集民にはより強い選択圧を意味します。

 2つのより短い経路は、温暖期における氷河の融解と一時的な湖の連続がある条件下では近づきやすかったかもしれず、これらの経路が特定の機関でのみ利用可能だった可能性を意味します。代わりに、遺跡の分布と先行研究(関連記事)によると(図1)、ゴビ砂漠の周辺を移動する他の選択は、より長い移動距離にも関わらず、大半の時間ではより魅力的で生きやすかったかもしれません。現時点で、後者はトランスバイカルやモンゴル北部やモンゴル東部でさえ、ゴビ砂漠よりも遺跡密度が高いことともより一致します。アジア中央部南方を中国北部へとタリム盆地の北部(天山山脈の南側)とつなげるかもしれない西方経路がありますが(関連記事)、これらの地域におけるIUPもしくは関連する技術の確証には、より多くの証拠が必要です。以下は本論文の図2です。
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 要するに、尼阿底遺跡はチベット高原における新規の技術を記録しており、早ければ4万年前頃となる真の上部旧石器石刃技術があります。尼阿底遺跡は石材供給源の近くに位置し、その石器群は調整と維持への投資が少なく、縮小度が低いことを示唆します。チベット高原とほとんどの近隣の低地内に尤もらしい前例がないことは、この技術の外来起源のシナリオを示します。チベット高原奥地の移住と技術の伝達は、MIS3の低地における現生人類集団の拡大と関連しているかもしれません。

 考古学的記録と年代学とLCP模擬実験に基づくと、尼阿底遺跡の石刃技術は、中国北部の水洞溝遺跡石器群およびシベリアのアルタイ地域とモンゴル北部で見られる類似のMIS3石刃群と密接に関連しています。より短い経路はゴビ砂漠を通過しますが、それは恐らく、温暖な気候期にのみ行きやすかったでしょう。一方、ゴビ砂漠を迂回する経路は、おもにゴビ砂漠の荒れ果てた環境を考えると、狩猟採集民に好まれていたでしょう。データが限られているため、上述のこれら提案された経路は全て現時点では仮定的で、その確証もしくは無効にするため、将来の考古学的研究と古気候復元の設計と発展に有益でしょう。この拡散は、石刃技術の正確な起源を特定するために、これらの地域の石刃群についての体系的で地域間の比較により検証される価値もあります。


参考文献:
Zhang P. et al.(2022): The peopling of the hinterland of the Tibetan Plateau during the late MIS 3. Science Bulletin, 67, 23, 2411-2415.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2022.11.008

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