大河ドラマ『どうする家康』第5回「瀬名奪還作戦」
今回は、松平元康(徳川家康)による駿府からの妻子奪還が中心に描かれました。ただ、近年の研究では、桶狭間の戦いの後に家康が岡崎城に入り、今川から明確に離反する1561年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)4月の前までに、瀬名(築山殿)は岡崎城に移っていた、との見解が有力なようです(関連記事)。なお、家康の長男の竹千代(松平信康)は、そのまま駿府にいて殺害されなかったわけですが、これについては、今川御一家衆である信康を家康に替わる松平家当主として擁立する可能性も今川方は考えていたのではないか、と推測されています。これは後の信康事件の遠因にもなったのでしょうか。瀬名の父である関口氏純は、1566年9月までは動向が確認されているそうで、少なくともその頃までは存命だったことになります。
今回は、家康が妻子奪還のため、家臣の進言により機密作戦を実行するわけですが、その提案者である本多正信と実行責任者である服部半蔵は初登場となります。本多正信は最終回まで登場するのでしょうが、本作では三河一向一揆の前から描かれることになり、家臣の中でもかなり重要な人物との位置づけのようです。本作と同じく家康を主人公とする1983年放送の大河ドラマ『徳川家康』では、本多正信はさほど目立たなかったように記憶していますが、本作では癖の強い胡散臭い人物として描かれるようで、今後の活躍が期待されます。ただ、三河一向一揆の後はしばらく出番がないかもしれませんが。
今回は、家康が妻子奪還のため、家臣の進言により機密作戦を実行するわけですが、その提案者である本多正信と実行責任者である服部半蔵は初登場となります。本多正信は最終回まで登場するのでしょうが、本作では三河一向一揆の前から描かれることになり、家臣の中でもかなり重要な人物との位置づけのようです。本作と同じく家康を主人公とする1983年放送の大河ドラマ『徳川家康』では、本多正信はさほど目立たなかったように記憶していますが、本作では癖の強い胡散臭い人物として描かれるようで、今後の活躍が期待されます。ただ、三河一向一揆の後はしばらく出番がないかもしれませんが。
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