中国北西部の青銅器時代遺跡の学際的研究

 中国北西部の青銅器時代遺跡に関する学際的研究(Ren et al., 2023)が公表されました。本論文は、まだ予備的段階ですが、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州臨潭(Lintan)県磨溝(Mogou)遺跡の学際的研究の成果を報告しています。考古学や遺伝学などを統合した学際的研究は、古代DNA研究の進展したヨーロッパでとくに進んでいますが、ヨーロッパと比較して古代DNA研究が遅れていたアジア東部でも、最近では古代DNA研究が進み、たとえば、新疆ウイグル自治区(以下、新疆)の漢代遺跡に関する学際的研究(関連記事)があります。


●要約

 1700以上の埋葬と6000以上の個体が含まれる青銅器時代墓地である磨溝の発掘では、多様な範囲の複数の埋葬が明らかになりました。このデータセットに基づいて、磨溝学際的調査計画は、中国北西部における親族関係と埋葬空間と社会組織との間のつながりの調査を目的とします。


●研究史

 中国北西部は、紀元前二千年紀半ばにおけるユーラシアを横断する文化的拡散および人口移動において重要な役割を果たしました(図1)。コムギとオオムギが河西回廊(Hexi Corridor)沿いに広がり、地域的な冶金文化が変容しました。しかし、遺跡水準での社会組織およびさまざまな政治/経済的戦略に関する研究はほとんど行なわれておらず、この広範な地域全体およびそれを越えての文化的発展と相互作用の根底にある機序は不明確なままです。以下は本論文の図1です。
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 磨溝遺跡は中華人民共和国甘粛省南部の臨潭県に位置し、洮河(Tao River)沿いの台地に位置します。磨溝遺跡の範囲は30ヘクタールに及び、これまでに見つかった最大で最良の保存状態のとなる斉家(Qijia)文化(紀元前1750~紀元前1400年頃)墓地です(図2a)。2008~2012年にかけて、磨溝遺跡は甘粛省文化遺物および考古学研究所(the Gansu Provincial Institute of Cultural Relics and Archaeology、略してGPICRA)と北西大学文化遺産学部により実施された重要な発掘調査の一つでした。1700以上の埋葬が発見され、6000個体以上が含まれていました。ユーラシア草原地帯の東縁に位置し、在来および中原の影響とは別に、磨溝遺跡のわずかな墓にはアンドロノヴォ(Andronovo)文化様式の金の服飾品が含まれており、より広範な交流網内での磨溝遺跡の統合を浮き彫りにします。以下は本論文の図2です。
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●磨溝遺跡の社会と磨溝遺跡学際的調査計画

 放射性炭素年代測定から、磨溝遺跡は紀元前1750~紀元前1100年頃に居住されていた、と示唆されます。物質文化遺物はほぼ全て斉家文化に分類され、寺窪(Siwa)文化の100ヶ所以上の埋葬が伴います。墓は列状に配置され、稀に交差し、意図的な墓地の配置が示唆されます(図2b)。墓地は2つの埋葬様式を特徴としており、それは横穴墓(図3a・b)と竪穴墓(図3c)で、どちらにも明確な空間パターン化はありませんでした。ほとんどの磨溝遺跡の墓は複葬で、両性の2個体から20個体以上で全年齢が含まれます。墓は最初の埋葬の後、部分的に埋められていないことが多く、大きな石もしくは木製の板で覆われ、新たな埋葬が必要になるたびに再び開けられました。以下は本論文の図3です。
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 したがって磨溝は、紀元前二千年紀の中国北西部における埋葬慣行と社会組織と親族関係構造への洞察を提供できる、重要な遺跡です。過去10年間の研究では、古代DNAとストロンチウム同位体分析と放射性炭素年代測定が局所的視点を提供でき、継承規則、婚姻慣行、社会的地位が特定の父系/母系、あるいは特定の遺伝的構造と関連しているのかどうか、といった問題に光を当て、社会経済的過程およびヒトの行動への複合的な窓につながる、と示されてきました(関連記事)。

 磨溝遺跡学際的調査計画は、復旦大学の考古学科学研究所とGPICRAとの間の協力で、その目的は、この指導に従って、これらの手法を用いて、親族関係のあり得るつながりを、磨溝遺跡人口集団の政治的および経済的構造とともに分析することです。この学際的調査計画は、現在2つの主要な問題に取り組んでいます。それは、個々の埋葬空間/埋葬群の利用が墓地全体でどのように関連しているのか、また親族関係は磨溝遺跡において政治的および経済的戦略に影響を及ぼしているのか、ということです。

 考古学的資料の体系的調査が実行され、分析のため墓地内の3区域が選択されました。この標本収集には、さまざまな様式の人工遺物や、副葬品の有無に関わらず墓と、斉家文化および寺窪文化の2つの異なる埋葬形態など、合同埋葬および個別埋葬が含まれます。この計画は、人類学的観点から、中国の考古学への学際的手法の適用の可能性を浮き彫りにするでしょう。


●予備的な調査結果

 本論文では、二重壁龕玄室のある斉家文化のM80号墓に焦点が当てられます(図4b)。蓄積されたヒト遺骸と豊富な副葬品の量を考えると、M80号墓は恐らくかなりの期間使用されていました。M80号墓内では12個体が埋葬されており、4空間に分類されました。これらのうち第一の空間は、墓の通路の入口に位置する単一の残存する頭蓋骨により表されます。第二の空間は個体2号~5号で構成され、墓の通路の中央で奥深くに埋葬されました(A区域)。第三の空間は横穴上部に位置し(B区域)、6個体が含まれます。最後に、第四の空間は横穴下部(C区域)で表され、個体7号~12号が含まれます(表1)。個体8号および12号の較正年代はそれぞれ3456~3364年前頃と3569~3411年前頃(ともに95.4%信頼区間)で、斉家文化の機関と確証されます。以下は本論文の表1です。
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 個体1号と12号のDNA解析は、標本の品質が悪いため失敗しましたが、10点の有効なミトコンドリアゲノム配列が得られました。8系統の異なるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が10個体で特定され、被葬者間の高い母系的多様性が示唆されます(表1)。M80号墓はおもに、最も典型的なユーラシア東部mtHgの存在により特徴づけられます(B4、R9、M11)。個体4号と5号と7号のY染色体ハプログループ(YHg)はO2a2b1a1a1(F8)と特定されました。これは、YHg-O2a2b1a1a(F5)の下位系統で、ともにYHg-O2a2b1a1(M117)の下位系統です。YHg-O2a2b1a1は黄河流域新石器時代農耕民に由来すると考えられており、現在の中国の漢人の主要な創始者父系を表しており、16%以上がO2a2b1a1(M117)です。以下は本論文の図4です。
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 mtHgの空間分布の観点では、mtHg-M11a2を共有する女性個体8号および9号が、恐らくはmtHg-M11a2を共有している女性個体10号(mtHg-M11までしか識別できていません)の隣で横穴下部にともに埋葬されていました。男性個体5号は墓の通路に埋葬されており、女性個体8号および9号とmtHg-M11a2を共有し(図4c・d)、恐らくは母系での関係を示唆する同一のミトコンドリア変異の遺伝子座がありました。mtHgにおける類似性は、墓の通路および玄室の副葬品分布と組み合わされて、墓の通路は恐らく墓の使用末期には正当な埋葬空間と考えられていた、との推測を裏づけます。

 さらに、mtHgおよび個体11号の変異遺伝子座と一致する様式が、隣接するM90号墓で見つかり、これら2基の墓の個体間の母系の関係を示唆します。Y染色体とmtDNAのハプロタイプは、それぞれ父系と母系に関する情報しか有していません。その結果は、墓内の空間配置と埋葬の位置選択に影響を及ぼした、これらの埋葬における個体間の父系/母系のつながりの可能性を示唆します。この最初の調査結果は、ゲノム規模水準での複雑な親族関係分析により拡張されるでしょう。


●今後の展望

 磨溝遺跡学際的調査計画は、継承および移動の規則に関する解釈モデルの検証能力を強化し、最終的には中国北西部における青銅器時代の政治的および経済的戦略の理解を深めるでしょう。本論文の明示的で微細区分的な枠組みは、古代の個体群が常に文化的もしくは遺伝的に定義された分類内にはっきりと収まるとは限らない、と認識するのに役立つでしょう。さらに、この計画の統合された手法は、自生代の学際的な研究者を訓練し、人類学者と遺伝学者との間の協力の明らかに持続可能なモデルを確立するのに役立つだろう、と考えられます。


参考文献:
Ren X. et al.(2023): The Mogou Multidisciplinary Investigation Project: insights into the kinship and social organisation of a Bronze Age population in north-west China. Antiquity, 97, 391, e5.
https://doi.org/10.15184/aqy.2022.157

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