現生人類の起源をめぐる学説史
現生人類(Homo sapiens)の起源をめぐる学説史についての概説(Stringer., 2022)が公表されました。現生人類の起源をめぐる学説史については、当ブログで何度か取り上げてきましたが(関連記事1および関連記事2)、一度体系的に学説史についての論文を読もうと考えていたので、現生人類アフリカ単一起源説の代表的な提唱者であるクリストファー・ストリンガー(Christopher Brian Stringer)氏によるこの概説を読みました。現生人類の起源をめぐる論争史の理解に、本論文はひじょうに有益だと思います。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。なお、以下の「私」は本論文の著者のストリンガー氏を指し、敬称は省略します。
●要約
この寄稿で私は、1970年代初頭に私が博士号を取得した時期に始まる、過去50年間にわたる我々の種【現生人類】の最近のアフリカ起源についての見解の発展を再調査します。私は、フランスのサン・セザール(St-Césaire)岩陰におけるシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)インダストリーと関連する部分的なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)骨格の1979年の発見に基づく有益でひじょうに異なる解釈を調査し、次に、1987年のいわゆる「ヒト革命」会議と、ピーター・アンドリュース(Peter Andrews)との1988年の『サイエンス』誌の共著論文「現生人類の起源についての遺伝学的および化石の証拠」を含む、1987~1989年の重要な時期に焦点を当てます。私は以下の歴史的な再調査に続いて、派生的なホモ・サピエンスの進化についての5つの提案されたモデルの現状を評価します。その5つのモデルとは、最近のアフリカ起源(RAO)、RAOおよび交雑(RAOH)、同化(AM)、多地域進化(MRE)、網状の流れ(BS)です。交雑を伴う最近のアフリカ起源モデル(RAOH)が化石と遺伝学の証拠から最良に裏づけられる、と私は結論づけます。
●前書き
過去20年間に古人類学の分野で研究してきた者は、最近のヒト進化の知識における、動的でさらには画期的な成長の期間の目撃に恵まれてきました。私は本論文で、私が博士号を取得した1970年代初頭に始まる、我々の種【現生人類】のアフリカ起源についての見解の展開の、さらに長期的に見ていくつもりです。その中では、1987年のいわゆる「ヒト革命」会議と、依然として私の最も頻繁に引用される文献であるピーター・アンドリュースとの1988年の『サイエンス』誌の共著論文「現生人類の起源についての遺伝学的および化石の証拠」(Stringer and Andrews 1988)を含む、1987~1989年の重要な時期に焦点を当てます。いわゆる「ヒト革命」を含む、1987~1989年の重要な期間に焦点が当てられます。
私は本論文で、我々【現代人】の起源の議論において最も厄介な問題の一つを回避します。それは、「古代型(archaic)」と「現代型(modern)」のヒトについての学術用語です。私はその代わりに、非公式な記述用語「基底的(basal)」と「派生的(derived)」を用いて、ホモ・サピエンスの両方、つまり基底的ホモ・サピエンス(bHs)および派生的ホモ・サピエンス(dHs)と、ネアンデルタール人の両方、つまり基底的ネアンデルタール人(bHn)と派生的ネアンデルタール人(dHn)の系統内の進化的変化を叙述します(Stringer and Crété 2022、関連記事)。
当然、これらの用語は主観的ですが、古代型(archaic)や解剖学的に現代的(anatomically modern)や行動的に現代的(behaviourally modern)のような分類表示とは確実に同等です。しかし私は、頭蓋内形態(たとえば、Neubauer et al., 2018、関連記事)や系統発生的位置(たとえば、Ni et al., 2021、関連記事)において、エチオピアのオモ・キビシュ2号(Omo Kibish 2)とモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡の化石といった基底的ホモ・サピエンス遺骸と、イスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡の化石といった派生的ホモ・サピエンス遺骸との間の対照のような区分を示す、形態や系統発生を示すことができます。
●派生的ホモ・サピエンスの進化モデル
私は以下にdHsの起源についての主要な最近のモデル(Stringer 2014から改変)のいくつかを要約し、現在使用が増えつつある5番目のモデル(網状の流れ)を追加します。私は、我々の種【ホモ・サピエンス】の起源についての以前の見解を再調査した後で、これらのモデルの議論に戻るつもりです。
(1)最近のアフリカ起源モデル(RAO)は、派生的ホモ・サピエンス(dHs)が過去50万年間にアフリカで進化し、アフリカから世界中に拡大した、と主張します。世界の他地域の先住人口集団は、拡散する【ホモ・サピエンス】集団により置換されたか、これら【ホモ・サピエンスとアフリカ外の先住人類】集団間の交雑は、あったとしてもごくわずかでした。
(2)RAOおよび交雑モデル(RAOH)はRAOと類似していますが、拡散する【ホモ・サピエンス】人口集団とアフリカ外の先住人口集団との間の交雑の範囲をより大きく許容します。
(3)同化モデル(AM)は、dHsのおもにアフリカ起源を受け入れますが、世界中のdHsの出現における主要な過程として置換もしくは人口拡散を否定する点で、上述のモデル【RAOおよびRAOH】とは異なります。代わりにこの同化モデルは、dHsが出現した地域における、人口拡散と混合と変化する選択圧と結果として生じる形態学的変化を強調します。
(4)多地域進化モデル(MRE)は、上述の(1)~(3)の3モデルとは、dHsの最近かつおもにアフリカの起源を否定する点で異なっています。MREは、dHsがアフリカだけてばなく世界のあらゆる人類の生息地域でも前期更新世の先祖から進化した、との主張において、経時的な遺伝的連続性と同時代の人口集団間の遺伝子流動の両方の役割を強調します。
(5)網状の波モデルモデル(BS)は、更新世に人類が生息していた世界全体でのヒトの進化は、分割して再結合する複数のより大きな若しくはより小さな水路波として表すことができ、紐のより糸と類似したパターンを形成する、と主張します。より小さな流れは、それぞれからの分離した人口集団か遺伝子プールを表します。やがて、そうした小さな流れは絶滅するか、世界的にdHsへとつながる共通の遺伝子プールに再統合されます。たとえば中国は、「ヒトの居住があった世界の全地域で流れる進化的変化の、絡み合った川の一つの流れを表す」地域として記述されてきました(Rosenberg and Wu 2013)。
●1970~1984年
この歴史的概観の執筆にさいして、我々全員を私が博士号を取得した時点に戻す必要があります。この頃、私はネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの間の関係に集中していましたが(Stringer 1994, 2014)、上記で要約したホモ・サピエンスの起源についての5つのモデルのどれも、まだ明確ではなく、命名されていませんでした。1970年において、古人類学の知的環境はその中心に単線的漸進主義があり、ホモ・サピエンスという用語は、フランスのクロマニヨン(Cro-Magnon)およびラ・フェラシー(La Ferrassie)やザンビアのカブウェ(Kabwe)やジャワ島のガンドン(Ngandong)で発見された化石と同じくらい形態学的に多様な化石を含んでいることが多くありました(Campbell 1963)。
化石記録に記録されている物質文化と形態は、解剖学的構造、たとえば脳や歯列の進化的変化に直接的に影響を及ぼす進化的変化の行動における革新が伴い、一致して進化した、と考えられていることが多くありました。さらに、その時点でほとんど認識されていなかった大きな制約がありました。火山堆積物が較正に利用可能な稀な事例を除いて、更新世の化石および考古学的記録への従来の放射性炭素年代測定の直接的もしくは間接的適用を超えて到達する有意義な方法がほとんどありませんでした。時間の必然的(ではあるものの認識されていなかった)圧縮によって、この限界は、とくにアフリカとアジアとオーストラリアにおいて、中期~後期更新世のヒト化石および考古学的記録への現実的な年代の提供を妨げました。
私は1970年代半ば~後半におけるイギリスの第四紀遺跡群についての私の研究(Stringer 2006)から、ヨーロッパ大陸の考古学的および子生物学的記録の大まかな順序を可能とする、ヨーロッパの氷期と間氷期の枠組みに精通していました。その枠組みを用いると、ヨーロッパはホモ・エレクトス(Homo erectus)後の年代が適度に延びた唯一の大陸で、その中にはドイツのマウエル(Mauer)やフランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l'Arago)やイギリスのスウォンズクーム(Swanscombe)のような化石が含まれ、それらの年代は50万~25万年前頃のようでした。
私は、自身とウィリアム・ハウエルズ(William Howells)の研究から、ヨーロッパにはネアンデルタール人とその祖先が含まれており、dHsの祖先は含まれていない、とかなり確信していました(Howells 1974、Stringer 1974, 1978)。しかし、フランスの不可解な初期上部旧石器時代のシャテルペロニアンインダストリーは、35000年前頃に在来の先行するアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)伝統ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)から発展したようで、ネアンデルタール人からdHsへの同じ場所での並行した進化的移行が起きたか(Brose and Wolpoff 1971)、未発見のdHsがシャテルペロニアンの担い手だったか(Bordes 1968)、私があり得ると考えたように(以下を参照)、ネアンデルタール人がじっさいにシャテルペロニアンの製作者だった可能性を開きました。
この問題を前進させるさいに最も重要な発見の一つは、1979年にフランスのサン・セザール(St-Césaire)遺跡のシャテルペロニアン層(初期上部旧石器時代)で発見された部分的なネアンデルタール人骨格です(Lévêque and Vandermeersch 1980)。この発見はアーサー・アプシモン(Arthur ApSimon)により注目され、アプシモンは翌年の『ネイチャー』誌にその意義について論評を執筆しました(pSimon 1980)。これは私の学位論文の結果の1974年の要約(Stringer 1974)で、リチャード・クライン(Richard Klein)の見解(Klein 1973a)を反映して、シャテルペロニアンはネアンデルタール人により作られたかもしれない、と私は仮定しましたが、この発見【サン・セザール遺跡のシャテルペロニアン層でのネアンデルタール人遺骸】に関するアプシモンの解釈は私とは逆のようで、それは、この発見がネアンデルタール人からdHsへの移行を複雑にし、人口連続性への裏づけを提供した、とアプシモンが主張しているようだったからです。
私は対照的に、上部旧石器と呼ばれるものの多系統的起源と、ネアンデルタール人と明らかに同時代のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)を製作したdHsとの間の明確な区分の論証により、この発見はヨーロッパにおける状況を明らかにした、と思いました。したがって、ロバート・クルジンスキー(Robert Kruszynski)およびロジャー・ジャコビー(Roger Jacobi)とともに、私はアプシモンの記事に批判的な応答を書き、これが刊行され、1981年には、ミルフォード・ウォルポフ(Milford Wolpoff)によるひじょうに異なった応答と、アプシモンの返答がありました(Wolpoff et al. 1981a)。
この発見は、ネアンデルタール人からdHsへの移行に関するヨーロッパにおける事象についての議論を促進しましたが、当初は私が予期していたようなものでは全くありませんでした。私はその意義について多くの他の研究者とやり取りし、ウォルポフ(この発見はネアンデルタール人集団からdHs集団への局所的な技術と形態の進化を裏づけた、と主張しました)および、後に書簡で私に、この骨格はシャテルペロニアンのホモ・サピエンスの製作者の犠牲を表しており、そのホモ・サピエンスはネアンデルタール人に思いやり深く埋葬を与えた、と主張したフランソワ・ボルド(François Bordes)の見解(Bordes 1981)とは異なる見解を交換しました(表1)。
この頃の考古学的論評を読むことは、ランドール・ホワイト(Randall White)により要約されているように(White 1982)、有益で、真剣にさせられます。つまり、「(中部旧石器と上部旧石器の)境界にわたって文化と生物学との間に関係があるならば、文化的発展は(中略)生物学的変化を促進するのであり、その逆ではない」というわけです。私にとって驚いたことに、次に、生物学的連続性の原理に挑むのではなく、シャテルペロニアンとのネアンデルタール人の関連はしばらく、技術的変化(もしくは恐らく社会的変化)がdHsへの進化的軌跡を促進しつつあった、とするローリング・ブレイス(Charles Loring Brace IV)のモデル(Brace., 1967)やデヴィッド・ブローズ(David S. Brose)とウォルポフのモデル(Brose, and Wolpoff., 1971)を代わりに強化しました。
私の応答は、自身がその少し前にエリック・トリンカウス(Erik Trinkaus)とともに完成させた、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟の頭蓋に関する分析、議論に対する自身の欲求不満の両方に影響を受けて、『Journal of Human Evolution』誌における論争的で分岐分類学に基づく論文の執筆でした(Stringer 1982)。これは、当時の状況に僅かしか若しくは全く影響を残さなかったようですが、少なくとも、私の研究の次の段階にネアンデルタール人についての自分の見解に集中するのに役立ちました。以下は本論文の表1です。
ネアンデルタール人とその関連する中部旧石器時代の道具からdHsとその関連する上部旧石器時代へのヨーロッパの移行は、動物相と炭の放射性炭素年代測定から35000年前頃に起きた、と考えられていました。しかし、年代測定の限界のため、これら分類学的単位と考古学的単位との間の進化もしくは重複の性質と範囲は、決定できませんでした。他の場所では、適した時間枠で情報をもたらす資料が不足しているようで、この問題について、アフリカもしくは他の場所のホモ・サピエンス現実的な代替的な祖先はほとんどありませんでした。
レヴァントでは、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの類似の移行期は、この35000年前頃の分水嶺をわずかに超えたところにある、と考えられていました。1985年になっても、私も含めてほとんどの研究者により、この地域【レヴァント】における人口変化は、わずかな時間差でヨーロッパに続いたか若しくは先行した、と考えられていました。したがって、タブン(Tabun)やアムッド(Amud)のようなイスラエルの遺跡群で発見されたネアンデルタール人は4万年前頃までに、スフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)の既知の人類化石のような初期dHsに進化したか、dHsに取って代わられました(Trinkaus 1984)。クラーク・ハウエル(Clark Howell)の見解に従った、一部の研究者にとって(Howell 1957、Jelinek 1982)、連結した技術的および生物学的変化があり、「一般化した」ネアンデルタール人からこの地域【レヴァント】のdHsの進化へとつながり、そのdHsがヨーロッパへと移住し、上部旧石器と関連する人口集団が生まれた、と仮定されました。
アフリカでは、下部旧石器時代は一般的に5万年前頃まで続いた、と考えられていましたが、中期石器時代(技術的には中部旧石器時代に相当)から後期石器時代(技術的には上部旧石器時代に相当)への局所的移行は、ほっぽうよりもさらに新しく、おそらくは12000年前頃という最近までさかのぼる、と一般的に考えられていました(Clark 1970)。したがって、アフリカの下部旧石器時代は恐らくヨーロッパの下部旧石器時代および中部旧石器時代の時間規模にまたがるものの、中期石器時代は時間的にヨーロッパの上部旧石器時代にほぼ相当しました(表2)。
したがって、アフリカの文化的および身体的進化は、ヨーロッパおよびアジア西部にかなり遅れていた、と考えられており、この見解は、南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)やモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡のような祖先形質のヒトがわずか5万~4万年前頃と年代測定され、さらに祖先形質のカブウェの頭蓋がわずか125000年前頃と年代測定された(Klein 1973b)、という(放射性炭素年代測定からの)確信により補強されました。したがって私は、少なくとも10万年前頃となるエチオピアのオモ・キビシュ遺跡の資料の年代の推定値(Leakey et al. 1969)は妥当だと考えていましたが、カブウェや南アフリカ共和国のホップフィールド(Hopfield)町近くのエランズフォンテイン(Elandsfontein)のような化石をオモ人骨と同じ年代に置いた一方で、上述のように、ジェベル・イルード1号は依然としてより新しいように見えました。以下は本論文の表2です。
アジア東部および南東部では、ヒト進化のパターンは1970年代にはさらに識別困難でした。周口店上洞(Zhoukoudian Lower Cave)のような一部のアジアの化石(およびその関連する石器インダストリー)は、ヨーロッパの氷期と間氷期の順序との相関により、40万年前頃まで年代測定されていましたが、中国の馬壩(Maba)やインドネシアのガンドンのような化石は、我々【ホモ・サピエンス】進化におけるネアンデルタール人段階を表している、とのローリング・ブレイスの影響力のある見解は、これらのアジアの化石も最終氷期に相当する年代であることが多く、一方でインドネシアのワジャク(Wajak)のような化石は「移行的」もしくは「ネアンデルタール人的」とみなされました(Brace 1967)。しかし、極東において明確なdHsの出現の前には、明らかに大きな間隙がありました。
1970年代におけるオーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)の資料の最初の放射性炭素年代測定まで、オーストラリアにおけるヒトの到来はひじょうに遅い事象で、おそらくは15000~10000年前頃にさかのぼる、と考えられていました(Howells 1967)。マンゴー湖資料の年代が3万年前頃にさかのぼる可能性が指摘され(Bowler and Thorne 1976)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)の資料が暫定的に4万年前頃と年代測定され(Harrisson 1970)、より祖先形質的な化石とdHsとの間の明らかな間隙は狭まりました。しかし、エチオピアのオモ・キビシュ1号を最古となる既知のdHsとして受け入れてさえ、私は1970年代には我々の種【ホモ・サピエンス】の進化について信頼できるモデルを構築できず、それは、混乱した大陸間の年代や、適切な時間枠におけるオモ・キビシュ人口集団の妥当なアフリカの祖先が欠如していたからです。
1984年まで、最近のヒト進化に関する優勢な見解は、ホモ・サピエンスの地理的に広範な出現があったか、その起源はアフリカ大陸外のある地域で起きた、というどちらかでした。しかし、1984年に事態は変わり始め、ヒト進化に関する二つの重要な本が刊行されました。この二つの刊行物は、ホモ・サピエンスの推定される祖先形態であるホモ・エレクトス(Andrews and Franzen 1984)と、ホモ・サピエンス自身の起源(Smith and Spencer 1984)に焦点を当てていました。この著者たちは、新規で時には挑戦的な方法で証拠と優勢な見解を見る準備ができていた、新世代の学生が含まれていました。Andrews and Franzen 1984はじっさい、ホモ・エレクトスに関する議論をよりもずっと広範に及んでおり、最近のヒト進化への分岐分類学の最初の適用の一部を含んでいたものの、ホモ・サピエンスのアフリカ起源の可能性に関するギュンター・ブロイアー(Günter Bräuer)による1章も含まれていました(Bräuer 1984a)。
Smith and Spencer 1984には、4つの大まかに定義された地理的領域を網羅する章が含まれており、それはヨーロッパとアフリカとアジア西部とアジア東部です。ヨーロッパは対照的な結論で西部と中央部に区分されており、ホモ・サピエンスのアフリカ起源の可能性とともにヨーロッパ西部について置換シナリオを提示したジャン=ジャック・ハブリン(Jean-Jacques Hublin)およびバーナード・ヴァンデルメールシュ(Bernard Vandermeersch)との私の論文(Stringer et al. 1984)に対して、フレッド・スミス(Fred H. Smith)はヨーロッパ東部における地域的連続性を主張し(Smith. 1984)、これはトリンカウスによりアジア西部についても主張されました(Trinkaus. 1984)。
アフリカについては、ブロイアーはそのアフロ・ヨーロッパのサピエンス仮説をさらに発展させましたが(Bräuer 1984b)、フィリップ・ライトマイア(G. Philip Rightmire)もアフリカにおけるサピエンスの初期出現を支持したものの(Rightmire 1984)、さらに広範な推定にはより慎重でした。ウォルポフと呉新智(Wu Xinzhi)とアラン・ソーン(Alan Thorne)は、他地域進化の最初の詳細な発表を提供し(Wolpoff et al., 1984)、アジア東部とオーストラリアの化石資料に焦点を当て、中国とジャワ島のホモ・エレクトスに分類される化石とそれらの地域の現在の人々との間の特有の解剖学的つながりを主張しました。
フレッド・スミスとフランク・スペンサー(Frank Spencer)の本への我々の寄稿は、イギリスのスウォンズクームやドイツのシュタインハイム(Steinheim)のような化石の進化的位置づけが検討されました。ヨーロッパの人類の順序に関する以前の議論は、ネアンデルタール人的な形態と現生人類的な形態の並行進化(Boule and Vallois, 1952のような研究者の「プレサピエンスモデル」)か、アレシュ・ヘリチカ(Aleš Hrdlička)の1930年の研究(Hrdlička 1930)に続いて、ネアンデルタール人段階からdHsへとつながる単線的な漸進主義を主張する傾向にありました(Brace 1967)。
スウォンズクームやシュタインハイムの化石がそれらのモデルの裏づけに採用された一方で、1970年代後半と1980年代には、それらの化石はネアンデルタール人を表しており、中期更新世におけるネアンデルタール人的特徴の付着的外見の一部としての現生人類の祖先を表しているわけではない、との認識が高まりました(たとえば、Stringer 1974,1978、Hublin 1983,1988)。しかし、ネアンデルタール人と中部旧石器時代の標本からdHsと上部旧石器時代の標本への一見すると並行的な移行は、進化的連続性のレンズもしくは人口置換を通じて解釈できます。
●1985~1989年
人脈形成の機会の提供を除けば、科学の進歩に会議はほとんど影響を及ぼさないように見えるかもしれません。これは間違いなく、おもに、とくに電子媒体を通じての新たなデータのますます急速な普及と比較して、会議の計画の長い導入時間のためです。しかし対照的に、1970~1990年の期間には、会議はしばしば新たなデータと分析の最初の発表の場であることが多くありました。化石資料自体は、1984年にニューヨークで行なわれた「祖先」会議と展示の主題で、会議の論文は翌年に刊行された影響力のある本の基礎を形成しました(Delson 1985)。この時以降、現生人類の出現は、真の進化的事象、おそらくは種分化事象してしだいに認識され、その過程におけるアフリカの重要性もしだいに認められました。しかし、1985年には、遺伝学的データは依然として、現生人類の起源の再構築にほとんど影響を及ぼしておらず、その後の3年間で劇的に変化することになりました。
私が出席したさらに二つの会議は、私の科学研究のその後の数年間に大きな影響を及ぼし、同様に他の参加者にも影響を与えた、と私は考えています。それは、1986年にエリック・トリンカウスにより主催されたアメリカ合衆国ニューメキシコ州サンタフェの研究集会「現生人類の適応の起源」と、その翌年に今は亡きポール・メラーズ(Paul Mellars)と私により主催された現生人類の起源と拡散のケンブリッジの会議です。前者の会議【現生人類の適応の起源】は、寄稿された論文とともに、最終的に1989年に刊行され(Trinkaus 1989)、ルイス・ビンフォード(Lewis Binford)やミルフォード・ウォルポフやオファー・バー=ヨセフ(Ofer Bar-Yosef)のような研究者を小さく閉鎖的な研究集会に集めて、論文は発表されたのではなく、提示前に回覧されました。したがって、議論の時間が最大化され、記録され複写された研究集会の議事録が、提出された論文の改定版とともに刊行される、と当初意図されていました。これは、最初のやり取りの一部の散漫で対立的な性質のために放棄された着想でした。それにも関わらず、私は3日間で、これまで長年扱ってきたよりも、旧石器時代の考古学者の思考へのずっと優れた(そして全体的に建設的な)洞察を得ました。
1年後の1987年、新たな時間計測技術(焼けた燧石に適用される熱ルミネッセンス)の最初の適用の一つが、放射性炭素の範囲を超えた古人類学的遺跡の較正へのいくつかの手法を予告しました。その最初の結果は、レヴァントにおける予測されたパターンを強化したように見え、ケバラ(Kebara)遺跡におけるその少し前に発見されたネアンデルタール人の埋葬が6万年前頃の予測された時間範囲内にあったことを示しました(Valladas et al. 1987)。しかし、その直後、その最初の適用がカフゼー遺跡の初期dHs資料に行なわれ(Valladas et al. 1988)、9万年前頃という驚くべき年代推定値が得られました。これは一般的に予測されていた数値の2倍以上でしたが、地質学(Farrand 1979)や生物年代学(Tchernov 1981)からの以前の示唆と一致しており、1981年の文献で引用されました(Bar-Yosef, and Vandermeersch., 1981)。
非放射性炭素年代測定手法のさらなる適用は、カフゼーおよびケバラ遺跡での年代推定値により示唆されたパターンを後に拡大しました(たとえば、Grün and Stringer 1991)。カフゼーおよびスフール両遺跡における初期dHsの埋葬は13万~9万年前頃の可能性が高いようですが、ケバラおよびアムッド遺跡のネアンデルタール人埋葬の年代はこれらの数値より新しく、6万~5万年前頃でした。この新たな年表は、レヴァントとヨーロッパ両方におけるネアンデルタール人からdHsへの単線的な進化が再評価され始めたことを意味しました。
私たちのうち一部は、スフールおよびカフゼー遺跡の人々について、イスラエルの上ガリラヤのズッティエ洞窟(Mugharet el-Zuttiyeh、「強盗の洞窟」という意味)のような在来の先行者に由来するのか、あるいはアフリカのさらに南方に由来するのか、代替的な起源を特定しようとする努力を強めました。レヴァントの初期dHsとネアンデルタール人との間の介在期間は、「間氷期」の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5から「氷期」のMIS4に近いまで、これも、ネアンデルタール人がレヴァントにさらに北方の氷河作用の開始後にのみ出現した、というシナリオの提案につながりました(Bar-Yosef 1998)。しかし、タブン洞窟C1標本の直接的な年代測定から今では、ネアンデルタール人の年代はMIS6~5の境界の頃になるかもしれない、と示唆されています(Grün and Stringer 2000)。
レヴァントのこれら重要な新しい年代の出現は、1987年のケンブリッジ会議と一致し、この会議はその前年のサンタフェの研究集会よりもずっと大きく公開された規模で、古人類学の著名人の多くが古生物学と考古学と遺伝学から急速に発展するデータと着想に取り組みました。この会議は、その後の15年間ほど支配的な議論となった、多地域進化(MRE)と最近のアフリカ起源(RAO)との間の高まりつつある論争に対して開かれました(Stringer 2002)。メラーズと私は、会議論文の第1巻の序文で、ヒト革命会議として知られるようになったものの困難な創案を説明しましたが、私は、この会議がその学術的目的を達成し、次の10年間の多くの研究課題を設定した、と考えています(たとえば、Lewin 1987)。
その後、そうした研究課題の多くには、ホモ・サピエンスの起源に関する遺伝学的データの検討が含まれることになります。古生物学的および考古学的発見は、ホモ・サピエンスについてRAOもしくはRAOHモデルの方向性での小さいものの増加する研究者の集団を推し進めましたが、良くも悪くも、『ネイチャー』誌の論文(Cann et al., 1987)により、一般的に人類の起源と同様に、とくにホモ・サピエンスの起源についてアフリカの中心的重要性が強化されました。それ以前の研究は、遺伝的標識の人口集団頻度、遺伝的暗号の生成物(たとえば、血液型やタンパク質)に取り組む必要があり、人口集団からのデータの組み合わせにより、ヒトの遺伝的歴史を再構築する試みが行なわれました(Cavalli-Sforza and Bodmer 1971、Nei and Roychoudhury 1982)。しかし、個々の分子配列データを明らかにした技術の出現により、系統樹もしくは特定の遺伝子あるいはDNA断片の系図を構築できるようになりました。
『ネイチャー』誌で1986年と1987年に刊行された2本の先駆的論文は、遺伝学的革命の到来を予告しました。一方の論文は人口集団頻度に基づいていましたが、もう一方の論文は、いわゆる制限断片長多型というDNA標識を使って、系統発生的手法を採用しました。1986年の論文(Wainscoat et al., 1986)では、βグロビン遺伝子に近い多型性が調べられ、遺伝的距離分析により、アフリカの人口集団は非アフリカ人口集団とは大きく異なっており、非アフリカ人口集団は互いに特徴を共有している、と示されました。Wainscoat et al., 1986では、「現生人類の進化はアフリカで起きたと主張されてきました。我々【Wainscoat et al., 1986】のデータはそうした考えと一致しており、創始者人口集団がアフリカから移住し、その後で全ての非アフリカ系人口集団が生まれた」と結論づけられました。
その1年後、Cann et al., 1987は、さまざまな地域の148人の制限地図に由来する134のミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様体の系図を作成しました。その系図は、次第に増える古代の仮定的祖先の再構築にM位置られ、最節約的にはアフリカに位置する1人の女性で頂点に達しました。Cann et al., 1987ではさらに、他の生物の研究から計算されたmtDNAの分岐率が用いられ、この仮定的な女性祖先は20万年前頃に生きていた、と推定されました。これらの結論はひじょうに物議を醸し、多くの媒体の誇大宣伝が伴い、すぐにさまざまな方向から異議を唱えられ、その中にはケンブリッジ会議での激しい議論も含まれます。私にはその会議に中心的に関わる特権があったので、その議論はピーター・アンドリュース(Peter Andrews)と私が同年に整理した『サイエンス』誌の論文(Stringer and Andrews 1988)の重要な枠組みを提供しました。
我々は「現生人類の起源に関する遺伝学と化石の証拠」と題した論文(Stringer and Andrews 1988)の冒頭の段落において「我々はホモ・サピエンスの起源の説明に提案された二つの対立するモデル(MREとRAO)を調べ、遺伝学および古生物学のデータの最近の再調査との適合性を比較します。これら二つのモデルだけが現在論争中ではありませんが、一方もしくは他方がホモ・サピエンスの進化の主要な様式を反映している可能性が高そうです。これら二つの極端なモデルの比較は、既存のデータからのモデルの最も明確な検証を可能にするはずで、この検証はいくつかの他の提案されたモデルでは実行できそうにありません」と述べました。これらの検証は同論文の表1に要約されており、以下の表3で再現されています。我々は、ヨーロッパとアジア南西部とアフリカの化石および考古学的データが、アジア東部とオーストラリアのより連続的な記録よりも明確な裏づけを提供した、と認識しながらも、我々の評価はどの側面でもMREに対してRAOを支持した、と主張しました。我々の見解では、増加している遺伝学的データもおもにMREに対してRAOを支持しているものの、それらのデータはこれまでに出現し続けている大きな氷山の一角にすぎず、今ではmtDNA解析だけから予測されるほど支持は絶対的なものではありません。以下は本論文の表3です。
我々の結論は、アジア西部の記録が物語にとって重要との認識により調節されました。「我々はホモ・サピエンスのアフリカ起源がひじょうに妥当だと感じていますが、起源の正確な時期と場所と様式はまだ決定できません。アフリカの南端とレヴァントの両方における後期更新世前半のホモ・サピエンス化石の存在は、早くも10万年前頃となるアフリカ南部起源の可能性が低そうなことを意味します。種の起源はもっと古いはずで、我々が見てきたように、妥当な先駆者人口集団の弧がアフリカ北部と東部と南部の遺跡群で標本抽出されています。カフゼー遺跡のホモ・サピエンス化石の最近決定され年代を考えると、レヴァントの近隣地域でさえ、ホモ・サピエンスにとってあり得る起源地域として除外できません。しかし、サハラ砂漠以南のアフリカの人口集団の遺伝学的分岐と多様性は今では、【ホモ・サピエンス】種の起源に適した年代を反映しており、それは恐らく、アフリカ北部とレヴァントの地域が、とくに歴史時代には、ユーラシア人口集団からの広範なその後の遺伝子流動に曝されてきたからです」。
アンドリュースと私は、我々がホモ・サピエンスの起源の全てのあり得るモデルを検証しなかった、と認識していたものの、ブロイアーのRAOHモデルは引用され、スミスとトリンカウスはAM(同化)モデルにつながる見解を展開しつつありました(Trinkaus 1984、Smith, 1984)。しかし、スミスは1988年の論文(Wolpoff et al. 1988)に対するひじょうに批判的な返信に署名しており、この論文は「現生人類の起源についてのストリンガーとアンドリュースによる最近の論文は、問題を明確にするのではなく、混乱させました(中略)その論文は矛盾と不正確な説明と省略を含んでおり、”相対的に無視されていた期間”以外の何物ではなかった間に達成された進歩からの一歩後退です」と主張しました。その二分法の価値は、彼らが、現生人類の起源は”事象”であり、現生人類はホモ・サピエンスのそれ以前の”古代型”人口集団とは異なる新種である、という最初の論争を通じて、次に検証のため設定された仮説を想定した時に、発見に役立つ工夫としてさえ損なわれます」と述べました。我々は、「我々は、多地域進化モデルの支持者からの我々の論文への反応が、モデルを検証するためのさらなるデータの提示に基づくよう、と期待しました。我々はWolpoff et al. 1988によるレター論文に署名した人々からのそうした建設的な応答を期待します」と返信しました。残念ながら、その後の数年間、この論争における二つの派閥間の建設的な関わりはなく、この状況は20年以上続きました(Gibbons., 2011、関連記事)。
●モデルの再考
この寄稿論文の冒頭で要約された5モデルの現在の状況に関して、1980年代後半と1990年代に提示された厳密なRAOおよびMREの両方が論破された、と私は考えています(Stringer., 2014)。現存人口集団がそのゲノムの90%以上はRAOに由来すると記載できますが、その数値はアフリカ外の非ホモ・サピエンス系統の完全な置換から予測される100%に近いわけではない、と示す充分な遺伝学的データがあります。同様に、著名な多地域進化主義者により主張された(Wolpoff et al. 1984)ようにオーストラリア先住民が「ジャワ島古代人の痕跡」を示す、と古人類学者が今でも主張していることはなさそうだ、と私は強く思っており、多地域進化主義者はもう、ジャワ島のサンギラン(Sangiran)遺跡のホモ・エレクトス頭蓋(サンギラン17号)がじっさいに「ひじょうに大きく超頑丈なオーストラリア先住民」だった(Shreeve 1995, p.102に引用されたウォルポフの発言、日本語版ではP126)、とは主張していない、と願っています。
しかし、中国では地域的連続性との見解が強く残ってきました(Cheng 2019)。たとえば、Rosenberg, and Wu., 2013は、「中国における現存するヒト化石記録が、アジア東部における現代性への急激ではなく漸進的な傾向を示唆する、頭蓋と歯列と時にはより低頻度で表される頭蓋後方【首から下】におけるアジア東部的特徴として説明されるものの連続性の証拠を示す、ということが我々の主張です(中略)これらの特徴は全てが一度に”現代性の一括”としてではなく、経時的に人口集団の漸進的な移行と一致し、外部の人口集団による置換と一致しない進化的斑状として現れます」と述べています。
より最近の論文(Wu et al., 2021)では、中華人民共和国安徽省池州市東至県の華龍洞(Hualongdong)遺跡の頭蓋(華龍洞6号)は、中国自体がdHsの起源地だったことを示唆する、との主張へとさらに進められてさえいます。その主張は、「華龍洞6号における多くのその現代的な顔面の特徴と顕著な表現は両方、現在中国で知られている他の全ての中期更新世後期の人類頭蓋を上回っています。これは、アジア東部における古代型から現代型の形態への移行が、現在の有力説よりも早く、おそらく30万年前頃に起きたことを示唆します。さらに、華龍洞6号の部分的頭蓋は、複数の派生的で現代的な顔面の特徴を有しており、その人口集団にはこの地域【アジア東部】における形態学的に古代型のヒトと初期現生人類をつなぐ最初の移行的構成員が含まれることだけではなく、現代性への最初の移行が、より古代的な人類が同時代に他地域で居住しながら、中国の一部の孤立した地域で起きたことも示唆しています」というものです。
そうした見解には、いわゆる「現代的な」顔面の系統発生の適切な検討が欠けており、そうした多くの特徴がじっさいには祖先形質ですが(Lacruz et al. 2019)、他の特徴はdHsと、陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡や華龍洞遺跡やハルビン遺跡(Ni et al., 2021、関連記事)の化石を含む中国の系統との間の同形形質かもしれません(つまり、共通の祖先においてではなく、独立してその後に進化しました)。そうした見解は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と関連しているかもしれない古代中国の人口集団を除いて、これまで古代と現在の中国の人口集団間の深いつながりを示唆していない、現在の広範な関連する遺伝学的文献(たとえば、Bergström et al., 2021、関連記事、Liu et al., 2021、関連記事、Mao et al., 2021、関連記事)との有意義な関わりも欠いています。
●まとめ
私の見解では、1970~1990年までの期間には、20世紀の他の20年間よりもdHsの起源についての古人類学的思索が進展したものの、私にできる以上に客観的な意見を提供するには、科学史家が必要になるでしょう。この期間には、ヒト進化の最も新しい段階を較正する能力においてかなりの進歩がありました。後期ネアンデルタール人など一部の標本には、広く確証された推定年代があったものの、スフールおよびカフゼー遺跡の初期dHs遺骸など他の標本は、一般的に感がられていたよりもずっと古い、と示されました。考古学界では、少なくとも一部のアフリカの中期石器時代遺跡と、ヒト化石のある一部の事例は、考えられていたよりもずっと古い、と次第に明確になりました(表2)。
イスラエルのケバラ洞窟の部分的なネアンデルタール人骨格(Rak et al. 1983)やクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡(Wolpoff et al. 1981b)およびフランスのサン・セザール遺跡(Lévêque and Vandermeersch 1980)の後期ネアンデルタール人など、くの重要な新しい化石の発見がありました。ケバラ遺跡とヴィンディヤ遺跡のネアンデルタール人遺骸はネアンデルタール人の差異に関する重要な情報を提供しましたが、サン・セザール遺跡のネアンデルタール人遺骸は、シャテルペロニアンの製作者の永続的な謎について少なくとも確実なデータでの対処を可能としました(表1)。
さらなる発見と改善された時系列の制御は、オーストラレーシア【オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域】へのdHsの拡散についての新たなデータを提供し始め、ヨーロッパでの記録と同等な時間規模での到来を示しますが、全てのそうした発展は、議論されている期間の末近くの新たな遺伝学的データにより、劇的に影響を受けました。考古学および古生物学的科学は、「ミトコンドリア・イヴ」なしにアフリカ起源のシナリオを構築し続けるでしょうが、もちろん、議論を促進した補完的な遺伝学的データがなければ、RAO/RAOHシナリオのより広範な受容の達成にはもっと長い時間がかかったでしょう。
dHsの起源についてのモデルの現状に関しては、新たな化石および年代的証拠と同様に遺伝学的データの増加が、化石記録にどのように適合したのか、修正してきており、アフリカにおけるdHsの特徴の出現は、1988年の論文(Stringer and Andrews 1988)で想像されていたよりも、時間がずっとさかのぼってきました。網状の流れという、考慮すべき別のモデルの最近の追加もあります。個人的には、私はMREモデルとBSモデルとの間の区別は困難と見ており、それは、両者が更新世のヒトの大半にわたる地域的連続性と網状を特徴としているようであり、MREと同様に、そうしたモデルの中国の化石記録への適用(たとえば、Rosenberg and Wu 2013、Wu et al. 2021)には、dHsのゲノムおよび形態学的起源におけるアフリカの圧倒的優勢を認める必要があるからです。確かに、デニソワ人系統は6万年前頃以後に現存するアジア東部人の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)へと少量のDNAを伝えましたが、MREおよびBSモデルから予測されるより古いアジアの化石とのより広くて深い形態学的および遺伝学的つながりは、これまで検出されてきませんでした(たとえば、Ni et al. 2021、Mao et al. 2021)。ホモ・サピエンスの進化に関する中国の記録を「川が流れる」ならば(Rosenberg and Wu 2013)、確実にアフリカ起源の川のようなので、恐らくはアフリカからの網状の流れ(BSFA)の方が適切かもしれません?
AM(同化)モデルは、ホモ・サピエンスの進化過程におけるアフリカの優勢を認識していますが、dHsの主要な拡散檀家は、遺伝子流動の影響下におけるアフリカ外の漸進的な地域的形態の変化を示さないようだ、と私は主張します。関連する遺伝学的データは、(RAOHモデルから予測されるように)非Hs人口集団からdHsへの遺伝子流動を示唆しますが、AMから予測されるdHsからアフリカ外の先住人口集団への逆の人口拡散は(これまで)ありません(Stringer and Crété 2022)。2018年の論文(Galway-Witham, and Stringer., 2018、関連記事)で述べられているように、AM下では「遺伝子がこれら地域的人口集団間でじょじょに流れ、遺伝学的および解剖学的変化を促進し、現代的特徴へとつながります。対照的に、RAOHモデルはホモ・サピエンスの遺伝子をアフリカ起源の拡散するヒトの一群内でユーラシアに入り横断するものとして予想します。その途中で、先住人口集団との成功した交雑事象がありましたが、dHsと先住人口集団が重複する比較的急速な置換過程で、先住民の断片化した人口集団が効率的に吸収されました」。
私は、我々【ホモ・サピエンス】の起源についての50年以上の議論に関するこの再調査を、データがホモ・サピエンスの遺伝学的および形態学的祖先系統は90%以上アフリカで、次に私の見解では、RAOHモデルが我々の種【ホモ・サピエンス】の確立について全体的な過程を最良に説明する、と述べることにより終わらせます。私が本論文で採用したモデルの名称の使用を好まない人々には、我々は「ほぼアフリカに由来する」、というスヴァンテ・ペーボ(Svante Pääbo)の適切な要約で充分でしょう。
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●要約
この寄稿で私は、1970年代初頭に私が博士号を取得した時期に始まる、過去50年間にわたる我々の種【現生人類】の最近のアフリカ起源についての見解の発展を再調査します。私は、フランスのサン・セザール(St-Césaire)岩陰におけるシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)インダストリーと関連する部分的なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)骨格の1979年の発見に基づく有益でひじょうに異なる解釈を調査し、次に、1987年のいわゆる「ヒト革命」会議と、ピーター・アンドリュース(Peter Andrews)との1988年の『サイエンス』誌の共著論文「現生人類の起源についての遺伝学的および化石の証拠」を含む、1987~1989年の重要な時期に焦点を当てます。私は以下の歴史的な再調査に続いて、派生的なホモ・サピエンスの進化についての5つの提案されたモデルの現状を評価します。その5つのモデルとは、最近のアフリカ起源(RAO)、RAOおよび交雑(RAOH)、同化(AM)、多地域進化(MRE)、網状の流れ(BS)です。交雑を伴う最近のアフリカ起源モデル(RAOH)が化石と遺伝学の証拠から最良に裏づけられる、と私は結論づけます。
●前書き
過去20年間に古人類学の分野で研究してきた者は、最近のヒト進化の知識における、動的でさらには画期的な成長の期間の目撃に恵まれてきました。私は本論文で、私が博士号を取得した1970年代初頭に始まる、我々の種【現生人類】のアフリカ起源についての見解の展開の、さらに長期的に見ていくつもりです。その中では、1987年のいわゆる「ヒト革命」会議と、依然として私の最も頻繁に引用される文献であるピーター・アンドリュースとの1988年の『サイエンス』誌の共著論文「現生人類の起源についての遺伝学的および化石の証拠」(Stringer and Andrews 1988)を含む、1987~1989年の重要な時期に焦点を当てます。いわゆる「ヒト革命」を含む、1987~1989年の重要な期間に焦点が当てられます。
私は本論文で、我々【現代人】の起源の議論において最も厄介な問題の一つを回避します。それは、「古代型(archaic)」と「現代型(modern)」のヒトについての学術用語です。私はその代わりに、非公式な記述用語「基底的(basal)」と「派生的(derived)」を用いて、ホモ・サピエンスの両方、つまり基底的ホモ・サピエンス(bHs)および派生的ホモ・サピエンス(dHs)と、ネアンデルタール人の両方、つまり基底的ネアンデルタール人(bHn)と派生的ネアンデルタール人(dHn)の系統内の進化的変化を叙述します(Stringer and Crété 2022、関連記事)。
当然、これらの用語は主観的ですが、古代型(archaic)や解剖学的に現代的(anatomically modern)や行動的に現代的(behaviourally modern)のような分類表示とは確実に同等です。しかし私は、頭蓋内形態(たとえば、Neubauer et al., 2018、関連記事)や系統発生的位置(たとえば、Ni et al., 2021、関連記事)において、エチオピアのオモ・キビシュ2号(Omo Kibish 2)とモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡の化石といった基底的ホモ・サピエンス遺骸と、イスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡の化石といった派生的ホモ・サピエンス遺骸との間の対照のような区分を示す、形態や系統発生を示すことができます。
●派生的ホモ・サピエンスの進化モデル
私は以下にdHsの起源についての主要な最近のモデル(Stringer 2014から改変)のいくつかを要約し、現在使用が増えつつある5番目のモデル(網状の流れ)を追加します。私は、我々の種【ホモ・サピエンス】の起源についての以前の見解を再調査した後で、これらのモデルの議論に戻るつもりです。
(1)最近のアフリカ起源モデル(RAO)は、派生的ホモ・サピエンス(dHs)が過去50万年間にアフリカで進化し、アフリカから世界中に拡大した、と主張します。世界の他地域の先住人口集団は、拡散する【ホモ・サピエンス】集団により置換されたか、これら【ホモ・サピエンスとアフリカ外の先住人類】集団間の交雑は、あったとしてもごくわずかでした。
(2)RAOおよび交雑モデル(RAOH)はRAOと類似していますが、拡散する【ホモ・サピエンス】人口集団とアフリカ外の先住人口集団との間の交雑の範囲をより大きく許容します。
(3)同化モデル(AM)は、dHsのおもにアフリカ起源を受け入れますが、世界中のdHsの出現における主要な過程として置換もしくは人口拡散を否定する点で、上述のモデル【RAOおよびRAOH】とは異なります。代わりにこの同化モデルは、dHsが出現した地域における、人口拡散と混合と変化する選択圧と結果として生じる形態学的変化を強調します。
(4)多地域進化モデル(MRE)は、上述の(1)~(3)の3モデルとは、dHsの最近かつおもにアフリカの起源を否定する点で異なっています。MREは、dHsがアフリカだけてばなく世界のあらゆる人類の生息地域でも前期更新世の先祖から進化した、との主張において、経時的な遺伝的連続性と同時代の人口集団間の遺伝子流動の両方の役割を強調します。
(5)網状の波モデルモデル(BS)は、更新世に人類が生息していた世界全体でのヒトの進化は、分割して再結合する複数のより大きな若しくはより小さな水路波として表すことができ、紐のより糸と類似したパターンを形成する、と主張します。より小さな流れは、それぞれからの分離した人口集団か遺伝子プールを表します。やがて、そうした小さな流れは絶滅するか、世界的にdHsへとつながる共通の遺伝子プールに再統合されます。たとえば中国は、「ヒトの居住があった世界の全地域で流れる進化的変化の、絡み合った川の一つの流れを表す」地域として記述されてきました(Rosenberg and Wu 2013)。
●1970~1984年
この歴史的概観の執筆にさいして、我々全員を私が博士号を取得した時点に戻す必要があります。この頃、私はネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの間の関係に集中していましたが(Stringer 1994, 2014)、上記で要約したホモ・サピエンスの起源についての5つのモデルのどれも、まだ明確ではなく、命名されていませんでした。1970年において、古人類学の知的環境はその中心に単線的漸進主義があり、ホモ・サピエンスという用語は、フランスのクロマニヨン(Cro-Magnon)およびラ・フェラシー(La Ferrassie)やザンビアのカブウェ(Kabwe)やジャワ島のガンドン(Ngandong)で発見された化石と同じくらい形態学的に多様な化石を含んでいることが多くありました(Campbell 1963)。
化石記録に記録されている物質文化と形態は、解剖学的構造、たとえば脳や歯列の進化的変化に直接的に影響を及ぼす進化的変化の行動における革新が伴い、一致して進化した、と考えられていることが多くありました。さらに、その時点でほとんど認識されていなかった大きな制約がありました。火山堆積物が較正に利用可能な稀な事例を除いて、更新世の化石および考古学的記録への従来の放射性炭素年代測定の直接的もしくは間接的適用を超えて到達する有意義な方法がほとんどありませんでした。時間の必然的(ではあるものの認識されていなかった)圧縮によって、この限界は、とくにアフリカとアジアとオーストラリアにおいて、中期~後期更新世のヒト化石および考古学的記録への現実的な年代の提供を妨げました。
私は1970年代半ば~後半におけるイギリスの第四紀遺跡群についての私の研究(Stringer 2006)から、ヨーロッパ大陸の考古学的および子生物学的記録の大まかな順序を可能とする、ヨーロッパの氷期と間氷期の枠組みに精通していました。その枠組みを用いると、ヨーロッパはホモ・エレクトス(Homo erectus)後の年代が適度に延びた唯一の大陸で、その中にはドイツのマウエル(Mauer)やフランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l'Arago)やイギリスのスウォンズクーム(Swanscombe)のような化石が含まれ、それらの年代は50万~25万年前頃のようでした。
私は、自身とウィリアム・ハウエルズ(William Howells)の研究から、ヨーロッパにはネアンデルタール人とその祖先が含まれており、dHsの祖先は含まれていない、とかなり確信していました(Howells 1974、Stringer 1974, 1978)。しかし、フランスの不可解な初期上部旧石器時代のシャテルペロニアンインダストリーは、35000年前頃に在来の先行するアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)伝統ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)から発展したようで、ネアンデルタール人からdHsへの同じ場所での並行した進化的移行が起きたか(Brose and Wolpoff 1971)、未発見のdHsがシャテルペロニアンの担い手だったか(Bordes 1968)、私があり得ると考えたように(以下を参照)、ネアンデルタール人がじっさいにシャテルペロニアンの製作者だった可能性を開きました。
この問題を前進させるさいに最も重要な発見の一つは、1979年にフランスのサン・セザール(St-Césaire)遺跡のシャテルペロニアン層(初期上部旧石器時代)で発見された部分的なネアンデルタール人骨格です(Lévêque and Vandermeersch 1980)。この発見はアーサー・アプシモン(Arthur ApSimon)により注目され、アプシモンは翌年の『ネイチャー』誌にその意義について論評を執筆しました(pSimon 1980)。これは私の学位論文の結果の1974年の要約(Stringer 1974)で、リチャード・クライン(Richard Klein)の見解(Klein 1973a)を反映して、シャテルペロニアンはネアンデルタール人により作られたかもしれない、と私は仮定しましたが、この発見【サン・セザール遺跡のシャテルペロニアン層でのネアンデルタール人遺骸】に関するアプシモンの解釈は私とは逆のようで、それは、この発見がネアンデルタール人からdHsへの移行を複雑にし、人口連続性への裏づけを提供した、とアプシモンが主張しているようだったからです。
私は対照的に、上部旧石器と呼ばれるものの多系統的起源と、ネアンデルタール人と明らかに同時代のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)を製作したdHsとの間の明確な区分の論証により、この発見はヨーロッパにおける状況を明らかにした、と思いました。したがって、ロバート・クルジンスキー(Robert Kruszynski)およびロジャー・ジャコビー(Roger Jacobi)とともに、私はアプシモンの記事に批判的な応答を書き、これが刊行され、1981年には、ミルフォード・ウォルポフ(Milford Wolpoff)によるひじょうに異なった応答と、アプシモンの返答がありました(Wolpoff et al. 1981a)。
この発見は、ネアンデルタール人からdHsへの移行に関するヨーロッパにおける事象についての議論を促進しましたが、当初は私が予期していたようなものでは全くありませんでした。私はその意義について多くの他の研究者とやり取りし、ウォルポフ(この発見はネアンデルタール人集団からdHs集団への局所的な技術と形態の進化を裏づけた、と主張しました)および、後に書簡で私に、この骨格はシャテルペロニアンのホモ・サピエンスの製作者の犠牲を表しており、そのホモ・サピエンスはネアンデルタール人に思いやり深く埋葬を与えた、と主張したフランソワ・ボルド(François Bordes)の見解(Bordes 1981)とは異なる見解を交換しました(表1)。
この頃の考古学的論評を読むことは、ランドール・ホワイト(Randall White)により要約されているように(White 1982)、有益で、真剣にさせられます。つまり、「(中部旧石器と上部旧石器の)境界にわたって文化と生物学との間に関係があるならば、文化的発展は(中略)生物学的変化を促進するのであり、その逆ではない」というわけです。私にとって驚いたことに、次に、生物学的連続性の原理に挑むのではなく、シャテルペロニアンとのネアンデルタール人の関連はしばらく、技術的変化(もしくは恐らく社会的変化)がdHsへの進化的軌跡を促進しつつあった、とするローリング・ブレイス(Charles Loring Brace IV)のモデル(Brace., 1967)やデヴィッド・ブローズ(David S. Brose)とウォルポフのモデル(Brose, and Wolpoff., 1971)を代わりに強化しました。
私の応答は、自身がその少し前にエリック・トリンカウス(Erik Trinkaus)とともに完成させた、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟の頭蓋に関する分析、議論に対する自身の欲求不満の両方に影響を受けて、『Journal of Human Evolution』誌における論争的で分岐分類学に基づく論文の執筆でした(Stringer 1982)。これは、当時の状況に僅かしか若しくは全く影響を残さなかったようですが、少なくとも、私の研究の次の段階にネアンデルタール人についての自分の見解に集中するのに役立ちました。以下は本論文の表1です。
ネアンデルタール人とその関連する中部旧石器時代の道具からdHsとその関連する上部旧石器時代へのヨーロッパの移行は、動物相と炭の放射性炭素年代測定から35000年前頃に起きた、と考えられていました。しかし、年代測定の限界のため、これら分類学的単位と考古学的単位との間の進化もしくは重複の性質と範囲は、決定できませんでした。他の場所では、適した時間枠で情報をもたらす資料が不足しているようで、この問題について、アフリカもしくは他の場所のホモ・サピエンス現実的な代替的な祖先はほとんどありませんでした。
レヴァントでは、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの類似の移行期は、この35000年前頃の分水嶺をわずかに超えたところにある、と考えられていました。1985年になっても、私も含めてほとんどの研究者により、この地域【レヴァント】における人口変化は、わずかな時間差でヨーロッパに続いたか若しくは先行した、と考えられていました。したがって、タブン(Tabun)やアムッド(Amud)のようなイスラエルの遺跡群で発見されたネアンデルタール人は4万年前頃までに、スフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)の既知の人類化石のような初期dHsに進化したか、dHsに取って代わられました(Trinkaus 1984)。クラーク・ハウエル(Clark Howell)の見解に従った、一部の研究者にとって(Howell 1957、Jelinek 1982)、連結した技術的および生物学的変化があり、「一般化した」ネアンデルタール人からこの地域【レヴァント】のdHsの進化へとつながり、そのdHsがヨーロッパへと移住し、上部旧石器と関連する人口集団が生まれた、と仮定されました。
アフリカでは、下部旧石器時代は一般的に5万年前頃まで続いた、と考えられていましたが、中期石器時代(技術的には中部旧石器時代に相当)から後期石器時代(技術的には上部旧石器時代に相当)への局所的移行は、ほっぽうよりもさらに新しく、おそらくは12000年前頃という最近までさかのぼる、と一般的に考えられていました(Clark 1970)。したがって、アフリカの下部旧石器時代は恐らくヨーロッパの下部旧石器時代および中部旧石器時代の時間規模にまたがるものの、中期石器時代は時間的にヨーロッパの上部旧石器時代にほぼ相当しました(表2)。
したがって、アフリカの文化的および身体的進化は、ヨーロッパおよびアジア西部にかなり遅れていた、と考えられており、この見解は、南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)やモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡のような祖先形質のヒトがわずか5万~4万年前頃と年代測定され、さらに祖先形質のカブウェの頭蓋がわずか125000年前頃と年代測定された(Klein 1973b)、という(放射性炭素年代測定からの)確信により補強されました。したがって私は、少なくとも10万年前頃となるエチオピアのオモ・キビシュ遺跡の資料の年代の推定値(Leakey et al. 1969)は妥当だと考えていましたが、カブウェや南アフリカ共和国のホップフィールド(Hopfield)町近くのエランズフォンテイン(Elandsfontein)のような化石をオモ人骨と同じ年代に置いた一方で、上述のように、ジェベル・イルード1号は依然としてより新しいように見えました。以下は本論文の表2です。
アジア東部および南東部では、ヒト進化のパターンは1970年代にはさらに識別困難でした。周口店上洞(Zhoukoudian Lower Cave)のような一部のアジアの化石(およびその関連する石器インダストリー)は、ヨーロッパの氷期と間氷期の順序との相関により、40万年前頃まで年代測定されていましたが、中国の馬壩(Maba)やインドネシアのガンドンのような化石は、我々【ホモ・サピエンス】進化におけるネアンデルタール人段階を表している、とのローリング・ブレイスの影響力のある見解は、これらのアジアの化石も最終氷期に相当する年代であることが多く、一方でインドネシアのワジャク(Wajak)のような化石は「移行的」もしくは「ネアンデルタール人的」とみなされました(Brace 1967)。しかし、極東において明確なdHsの出現の前には、明らかに大きな間隙がありました。
1970年代におけるオーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)の資料の最初の放射性炭素年代測定まで、オーストラリアにおけるヒトの到来はひじょうに遅い事象で、おそらくは15000~10000年前頃にさかのぼる、と考えられていました(Howells 1967)。マンゴー湖資料の年代が3万年前頃にさかのぼる可能性が指摘され(Bowler and Thorne 1976)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)の資料が暫定的に4万年前頃と年代測定され(Harrisson 1970)、より祖先形質的な化石とdHsとの間の明らかな間隙は狭まりました。しかし、エチオピアのオモ・キビシュ1号を最古となる既知のdHsとして受け入れてさえ、私は1970年代には我々の種【ホモ・サピエンス】の進化について信頼できるモデルを構築できず、それは、混乱した大陸間の年代や、適切な時間枠におけるオモ・キビシュ人口集団の妥当なアフリカの祖先が欠如していたからです。
1984年まで、最近のヒト進化に関する優勢な見解は、ホモ・サピエンスの地理的に広範な出現があったか、その起源はアフリカ大陸外のある地域で起きた、というどちらかでした。しかし、1984年に事態は変わり始め、ヒト進化に関する二つの重要な本が刊行されました。この二つの刊行物は、ホモ・サピエンスの推定される祖先形態であるホモ・エレクトス(Andrews and Franzen 1984)と、ホモ・サピエンス自身の起源(Smith and Spencer 1984)に焦点を当てていました。この著者たちは、新規で時には挑戦的な方法で証拠と優勢な見解を見る準備ができていた、新世代の学生が含まれていました。Andrews and Franzen 1984はじっさい、ホモ・エレクトスに関する議論をよりもずっと広範に及んでおり、最近のヒト進化への分岐分類学の最初の適用の一部を含んでいたものの、ホモ・サピエンスのアフリカ起源の可能性に関するギュンター・ブロイアー(Günter Bräuer)による1章も含まれていました(Bräuer 1984a)。
Smith and Spencer 1984には、4つの大まかに定義された地理的領域を網羅する章が含まれており、それはヨーロッパとアフリカとアジア西部とアジア東部です。ヨーロッパは対照的な結論で西部と中央部に区分されており、ホモ・サピエンスのアフリカ起源の可能性とともにヨーロッパ西部について置換シナリオを提示したジャン=ジャック・ハブリン(Jean-Jacques Hublin)およびバーナード・ヴァンデルメールシュ(Bernard Vandermeersch)との私の論文(Stringer et al. 1984)に対して、フレッド・スミス(Fred H. Smith)はヨーロッパ東部における地域的連続性を主張し(Smith. 1984)、これはトリンカウスによりアジア西部についても主張されました(Trinkaus. 1984)。
アフリカについては、ブロイアーはそのアフロ・ヨーロッパのサピエンス仮説をさらに発展させましたが(Bräuer 1984b)、フィリップ・ライトマイア(G. Philip Rightmire)もアフリカにおけるサピエンスの初期出現を支持したものの(Rightmire 1984)、さらに広範な推定にはより慎重でした。ウォルポフと呉新智(Wu Xinzhi)とアラン・ソーン(Alan Thorne)は、他地域進化の最初の詳細な発表を提供し(Wolpoff et al., 1984)、アジア東部とオーストラリアの化石資料に焦点を当て、中国とジャワ島のホモ・エレクトスに分類される化石とそれらの地域の現在の人々との間の特有の解剖学的つながりを主張しました。
フレッド・スミスとフランク・スペンサー(Frank Spencer)の本への我々の寄稿は、イギリスのスウォンズクームやドイツのシュタインハイム(Steinheim)のような化石の進化的位置づけが検討されました。ヨーロッパの人類の順序に関する以前の議論は、ネアンデルタール人的な形態と現生人類的な形態の並行進化(Boule and Vallois, 1952のような研究者の「プレサピエンスモデル」)か、アレシュ・ヘリチカ(Aleš Hrdlička)の1930年の研究(Hrdlička 1930)に続いて、ネアンデルタール人段階からdHsへとつながる単線的な漸進主義を主張する傾向にありました(Brace 1967)。
スウォンズクームやシュタインハイムの化石がそれらのモデルの裏づけに採用された一方で、1970年代後半と1980年代には、それらの化石はネアンデルタール人を表しており、中期更新世におけるネアンデルタール人的特徴の付着的外見の一部としての現生人類の祖先を表しているわけではない、との認識が高まりました(たとえば、Stringer 1974,1978、Hublin 1983,1988)。しかし、ネアンデルタール人と中部旧石器時代の標本からdHsと上部旧石器時代の標本への一見すると並行的な移行は、進化的連続性のレンズもしくは人口置換を通じて解釈できます。
●1985~1989年
人脈形成の機会の提供を除けば、科学の進歩に会議はほとんど影響を及ぼさないように見えるかもしれません。これは間違いなく、おもに、とくに電子媒体を通じての新たなデータのますます急速な普及と比較して、会議の計画の長い導入時間のためです。しかし対照的に、1970~1990年の期間には、会議はしばしば新たなデータと分析の最初の発表の場であることが多くありました。化石資料自体は、1984年にニューヨークで行なわれた「祖先」会議と展示の主題で、会議の論文は翌年に刊行された影響力のある本の基礎を形成しました(Delson 1985)。この時以降、現生人類の出現は、真の進化的事象、おそらくは種分化事象してしだいに認識され、その過程におけるアフリカの重要性もしだいに認められました。しかし、1985年には、遺伝学的データは依然として、現生人類の起源の再構築にほとんど影響を及ぼしておらず、その後の3年間で劇的に変化することになりました。
私が出席したさらに二つの会議は、私の科学研究のその後の数年間に大きな影響を及ぼし、同様に他の参加者にも影響を与えた、と私は考えています。それは、1986年にエリック・トリンカウスにより主催されたアメリカ合衆国ニューメキシコ州サンタフェの研究集会「現生人類の適応の起源」と、その翌年に今は亡きポール・メラーズ(Paul Mellars)と私により主催された現生人類の起源と拡散のケンブリッジの会議です。前者の会議【現生人類の適応の起源】は、寄稿された論文とともに、最終的に1989年に刊行され(Trinkaus 1989)、ルイス・ビンフォード(Lewis Binford)やミルフォード・ウォルポフやオファー・バー=ヨセフ(Ofer Bar-Yosef)のような研究者を小さく閉鎖的な研究集会に集めて、論文は発表されたのではなく、提示前に回覧されました。したがって、議論の時間が最大化され、記録され複写された研究集会の議事録が、提出された論文の改定版とともに刊行される、と当初意図されていました。これは、最初のやり取りの一部の散漫で対立的な性質のために放棄された着想でした。それにも関わらず、私は3日間で、これまで長年扱ってきたよりも、旧石器時代の考古学者の思考へのずっと優れた(そして全体的に建設的な)洞察を得ました。
1年後の1987年、新たな時間計測技術(焼けた燧石に適用される熱ルミネッセンス)の最初の適用の一つが、放射性炭素の範囲を超えた古人類学的遺跡の較正へのいくつかの手法を予告しました。その最初の結果は、レヴァントにおける予測されたパターンを強化したように見え、ケバラ(Kebara)遺跡におけるその少し前に発見されたネアンデルタール人の埋葬が6万年前頃の予測された時間範囲内にあったことを示しました(Valladas et al. 1987)。しかし、その直後、その最初の適用がカフゼー遺跡の初期dHs資料に行なわれ(Valladas et al. 1988)、9万年前頃という驚くべき年代推定値が得られました。これは一般的に予測されていた数値の2倍以上でしたが、地質学(Farrand 1979)や生物年代学(Tchernov 1981)からの以前の示唆と一致しており、1981年の文献で引用されました(Bar-Yosef, and Vandermeersch., 1981)。
非放射性炭素年代測定手法のさらなる適用は、カフゼーおよびケバラ遺跡での年代推定値により示唆されたパターンを後に拡大しました(たとえば、Grün and Stringer 1991)。カフゼーおよびスフール両遺跡における初期dHsの埋葬は13万~9万年前頃の可能性が高いようですが、ケバラおよびアムッド遺跡のネアンデルタール人埋葬の年代はこれらの数値より新しく、6万~5万年前頃でした。この新たな年表は、レヴァントとヨーロッパ両方におけるネアンデルタール人からdHsへの単線的な進化が再評価され始めたことを意味しました。
私たちのうち一部は、スフールおよびカフゼー遺跡の人々について、イスラエルの上ガリラヤのズッティエ洞窟(Mugharet el-Zuttiyeh、「強盗の洞窟」という意味)のような在来の先行者に由来するのか、あるいはアフリカのさらに南方に由来するのか、代替的な起源を特定しようとする努力を強めました。レヴァントの初期dHsとネアンデルタール人との間の介在期間は、「間氷期」の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5から「氷期」のMIS4に近いまで、これも、ネアンデルタール人がレヴァントにさらに北方の氷河作用の開始後にのみ出現した、というシナリオの提案につながりました(Bar-Yosef 1998)。しかし、タブン洞窟C1標本の直接的な年代測定から今では、ネアンデルタール人の年代はMIS6~5の境界の頃になるかもしれない、と示唆されています(Grün and Stringer 2000)。
レヴァントのこれら重要な新しい年代の出現は、1987年のケンブリッジ会議と一致し、この会議はその前年のサンタフェの研究集会よりもずっと大きく公開された規模で、古人類学の著名人の多くが古生物学と考古学と遺伝学から急速に発展するデータと着想に取り組みました。この会議は、その後の15年間ほど支配的な議論となった、多地域進化(MRE)と最近のアフリカ起源(RAO)との間の高まりつつある論争に対して開かれました(Stringer 2002)。メラーズと私は、会議論文の第1巻の序文で、ヒト革命会議として知られるようになったものの困難な創案を説明しましたが、私は、この会議がその学術的目的を達成し、次の10年間の多くの研究課題を設定した、と考えています(たとえば、Lewin 1987)。
その後、そうした研究課題の多くには、ホモ・サピエンスの起源に関する遺伝学的データの検討が含まれることになります。古生物学的および考古学的発見は、ホモ・サピエンスについてRAOもしくはRAOHモデルの方向性での小さいものの増加する研究者の集団を推し進めましたが、良くも悪くも、『ネイチャー』誌の論文(Cann et al., 1987)により、一般的に人類の起源と同様に、とくにホモ・サピエンスの起源についてアフリカの中心的重要性が強化されました。それ以前の研究は、遺伝的標識の人口集団頻度、遺伝的暗号の生成物(たとえば、血液型やタンパク質)に取り組む必要があり、人口集団からのデータの組み合わせにより、ヒトの遺伝的歴史を再構築する試みが行なわれました(Cavalli-Sforza and Bodmer 1971、Nei and Roychoudhury 1982)。しかし、個々の分子配列データを明らかにした技術の出現により、系統樹もしくは特定の遺伝子あるいはDNA断片の系図を構築できるようになりました。
『ネイチャー』誌で1986年と1987年に刊行された2本の先駆的論文は、遺伝学的革命の到来を予告しました。一方の論文は人口集団頻度に基づいていましたが、もう一方の論文は、いわゆる制限断片長多型というDNA標識を使って、系統発生的手法を採用しました。1986年の論文(Wainscoat et al., 1986)では、βグロビン遺伝子に近い多型性が調べられ、遺伝的距離分析により、アフリカの人口集団は非アフリカ人口集団とは大きく異なっており、非アフリカ人口集団は互いに特徴を共有している、と示されました。Wainscoat et al., 1986では、「現生人類の進化はアフリカで起きたと主張されてきました。我々【Wainscoat et al., 1986】のデータはそうした考えと一致しており、創始者人口集団がアフリカから移住し、その後で全ての非アフリカ系人口集団が生まれた」と結論づけられました。
その1年後、Cann et al., 1987は、さまざまな地域の148人の制限地図に由来する134のミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様体の系図を作成しました。その系図は、次第に増える古代の仮定的祖先の再構築にM位置られ、最節約的にはアフリカに位置する1人の女性で頂点に達しました。Cann et al., 1987ではさらに、他の生物の研究から計算されたmtDNAの分岐率が用いられ、この仮定的な女性祖先は20万年前頃に生きていた、と推定されました。これらの結論はひじょうに物議を醸し、多くの媒体の誇大宣伝が伴い、すぐにさまざまな方向から異議を唱えられ、その中にはケンブリッジ会議での激しい議論も含まれます。私にはその会議に中心的に関わる特権があったので、その議論はピーター・アンドリュース(Peter Andrews)と私が同年に整理した『サイエンス』誌の論文(Stringer and Andrews 1988)の重要な枠組みを提供しました。
我々は「現生人類の起源に関する遺伝学と化石の証拠」と題した論文(Stringer and Andrews 1988)の冒頭の段落において「我々はホモ・サピエンスの起源の説明に提案された二つの対立するモデル(MREとRAO)を調べ、遺伝学および古生物学のデータの最近の再調査との適合性を比較します。これら二つのモデルだけが現在論争中ではありませんが、一方もしくは他方がホモ・サピエンスの進化の主要な様式を反映している可能性が高そうです。これら二つの極端なモデルの比較は、既存のデータからのモデルの最も明確な検証を可能にするはずで、この検証はいくつかの他の提案されたモデルでは実行できそうにありません」と述べました。これらの検証は同論文の表1に要約されており、以下の表3で再現されています。我々は、ヨーロッパとアジア南西部とアフリカの化石および考古学的データが、アジア東部とオーストラリアのより連続的な記録よりも明確な裏づけを提供した、と認識しながらも、我々の評価はどの側面でもMREに対してRAOを支持した、と主張しました。我々の見解では、増加している遺伝学的データもおもにMREに対してRAOを支持しているものの、それらのデータはこれまでに出現し続けている大きな氷山の一角にすぎず、今ではmtDNA解析だけから予測されるほど支持は絶対的なものではありません。以下は本論文の表3です。
我々の結論は、アジア西部の記録が物語にとって重要との認識により調節されました。「我々はホモ・サピエンスのアフリカ起源がひじょうに妥当だと感じていますが、起源の正確な時期と場所と様式はまだ決定できません。アフリカの南端とレヴァントの両方における後期更新世前半のホモ・サピエンス化石の存在は、早くも10万年前頃となるアフリカ南部起源の可能性が低そうなことを意味します。種の起源はもっと古いはずで、我々が見てきたように、妥当な先駆者人口集団の弧がアフリカ北部と東部と南部の遺跡群で標本抽出されています。カフゼー遺跡のホモ・サピエンス化石の最近決定され年代を考えると、レヴァントの近隣地域でさえ、ホモ・サピエンスにとってあり得る起源地域として除外できません。しかし、サハラ砂漠以南のアフリカの人口集団の遺伝学的分岐と多様性は今では、【ホモ・サピエンス】種の起源に適した年代を反映しており、それは恐らく、アフリカ北部とレヴァントの地域が、とくに歴史時代には、ユーラシア人口集団からの広範なその後の遺伝子流動に曝されてきたからです」。
アンドリュースと私は、我々がホモ・サピエンスの起源の全てのあり得るモデルを検証しなかった、と認識していたものの、ブロイアーのRAOHモデルは引用され、スミスとトリンカウスはAM(同化)モデルにつながる見解を展開しつつありました(Trinkaus 1984、Smith, 1984)。しかし、スミスは1988年の論文(Wolpoff et al. 1988)に対するひじょうに批判的な返信に署名しており、この論文は「現生人類の起源についてのストリンガーとアンドリュースによる最近の論文は、問題を明確にするのではなく、混乱させました(中略)その論文は矛盾と不正確な説明と省略を含んでおり、”相対的に無視されていた期間”以外の何物ではなかった間に達成された進歩からの一歩後退です」と主張しました。その二分法の価値は、彼らが、現生人類の起源は”事象”であり、現生人類はホモ・サピエンスのそれ以前の”古代型”人口集団とは異なる新種である、という最初の論争を通じて、次に検証のため設定された仮説を想定した時に、発見に役立つ工夫としてさえ損なわれます」と述べました。我々は、「我々は、多地域進化モデルの支持者からの我々の論文への反応が、モデルを検証するためのさらなるデータの提示に基づくよう、と期待しました。我々はWolpoff et al. 1988によるレター論文に署名した人々からのそうした建設的な応答を期待します」と返信しました。残念ながら、その後の数年間、この論争における二つの派閥間の建設的な関わりはなく、この状況は20年以上続きました(Gibbons., 2011、関連記事)。
●モデルの再考
この寄稿論文の冒頭で要約された5モデルの現在の状況に関して、1980年代後半と1990年代に提示された厳密なRAOおよびMREの両方が論破された、と私は考えています(Stringer., 2014)。現存人口集団がそのゲノムの90%以上はRAOに由来すると記載できますが、その数値はアフリカ外の非ホモ・サピエンス系統の完全な置換から予測される100%に近いわけではない、と示す充分な遺伝学的データがあります。同様に、著名な多地域進化主義者により主張された(Wolpoff et al. 1984)ようにオーストラリア先住民が「ジャワ島古代人の痕跡」を示す、と古人類学者が今でも主張していることはなさそうだ、と私は強く思っており、多地域進化主義者はもう、ジャワ島のサンギラン(Sangiran)遺跡のホモ・エレクトス頭蓋(サンギラン17号)がじっさいに「ひじょうに大きく超頑丈なオーストラリア先住民」だった(Shreeve 1995, p.102に引用されたウォルポフの発言、日本語版ではP126)、とは主張していない、と願っています。
しかし、中国では地域的連続性との見解が強く残ってきました(Cheng 2019)。たとえば、Rosenberg, and Wu., 2013は、「中国における現存するヒト化石記録が、アジア東部における現代性への急激ではなく漸進的な傾向を示唆する、頭蓋と歯列と時にはより低頻度で表される頭蓋後方【首から下】におけるアジア東部的特徴として説明されるものの連続性の証拠を示す、ということが我々の主張です(中略)これらの特徴は全てが一度に”現代性の一括”としてではなく、経時的に人口集団の漸進的な移行と一致し、外部の人口集団による置換と一致しない進化的斑状として現れます」と述べています。
より最近の論文(Wu et al., 2021)では、中華人民共和国安徽省池州市東至県の華龍洞(Hualongdong)遺跡の頭蓋(華龍洞6号)は、中国自体がdHsの起源地だったことを示唆する、との主張へとさらに進められてさえいます。その主張は、「華龍洞6号における多くのその現代的な顔面の特徴と顕著な表現は両方、現在中国で知られている他の全ての中期更新世後期の人類頭蓋を上回っています。これは、アジア東部における古代型から現代型の形態への移行が、現在の有力説よりも早く、おそらく30万年前頃に起きたことを示唆します。さらに、華龍洞6号の部分的頭蓋は、複数の派生的で現代的な顔面の特徴を有しており、その人口集団にはこの地域【アジア東部】における形態学的に古代型のヒトと初期現生人類をつなぐ最初の移行的構成員が含まれることだけではなく、現代性への最初の移行が、より古代的な人類が同時代に他地域で居住しながら、中国の一部の孤立した地域で起きたことも示唆しています」というものです。
そうした見解には、いわゆる「現代的な」顔面の系統発生の適切な検討が欠けており、そうした多くの特徴がじっさいには祖先形質ですが(Lacruz et al. 2019)、他の特徴はdHsと、陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡や華龍洞遺跡やハルビン遺跡(Ni et al., 2021、関連記事)の化石を含む中国の系統との間の同形形質かもしれません(つまり、共通の祖先においてではなく、独立してその後に進化しました)。そうした見解は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と関連しているかもしれない古代中国の人口集団を除いて、これまで古代と現在の中国の人口集団間の深いつながりを示唆していない、現在の広範な関連する遺伝学的文献(たとえば、Bergström et al., 2021、関連記事、Liu et al., 2021、関連記事、Mao et al., 2021、関連記事)との有意義な関わりも欠いています。
●まとめ
私の見解では、1970~1990年までの期間には、20世紀の他の20年間よりもdHsの起源についての古人類学的思索が進展したものの、私にできる以上に客観的な意見を提供するには、科学史家が必要になるでしょう。この期間には、ヒト進化の最も新しい段階を較正する能力においてかなりの進歩がありました。後期ネアンデルタール人など一部の標本には、広く確証された推定年代があったものの、スフールおよびカフゼー遺跡の初期dHs遺骸など他の標本は、一般的に感がられていたよりもずっと古い、と示されました。考古学界では、少なくとも一部のアフリカの中期石器時代遺跡と、ヒト化石のある一部の事例は、考えられていたよりもずっと古い、と次第に明確になりました(表2)。
イスラエルのケバラ洞窟の部分的なネアンデルタール人骨格(Rak et al. 1983)やクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡(Wolpoff et al. 1981b)およびフランスのサン・セザール遺跡(Lévêque and Vandermeersch 1980)の後期ネアンデルタール人など、くの重要な新しい化石の発見がありました。ケバラ遺跡とヴィンディヤ遺跡のネアンデルタール人遺骸はネアンデルタール人の差異に関する重要な情報を提供しましたが、サン・セザール遺跡のネアンデルタール人遺骸は、シャテルペロニアンの製作者の永続的な謎について少なくとも確実なデータでの対処を可能としました(表1)。
さらなる発見と改善された時系列の制御は、オーストラレーシア【オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域】へのdHsの拡散についての新たなデータを提供し始め、ヨーロッパでの記録と同等な時間規模での到来を示しますが、全てのそうした発展は、議論されている期間の末近くの新たな遺伝学的データにより、劇的に影響を受けました。考古学および古生物学的科学は、「ミトコンドリア・イヴ」なしにアフリカ起源のシナリオを構築し続けるでしょうが、もちろん、議論を促進した補完的な遺伝学的データがなければ、RAO/RAOHシナリオのより広範な受容の達成にはもっと長い時間がかかったでしょう。
dHsの起源についてのモデルの現状に関しては、新たな化石および年代的証拠と同様に遺伝学的データの増加が、化石記録にどのように適合したのか、修正してきており、アフリカにおけるdHsの特徴の出現は、1988年の論文(Stringer and Andrews 1988)で想像されていたよりも、時間がずっとさかのぼってきました。網状の流れという、考慮すべき別のモデルの最近の追加もあります。個人的には、私はMREモデルとBSモデルとの間の区別は困難と見ており、それは、両者が更新世のヒトの大半にわたる地域的連続性と網状を特徴としているようであり、MREと同様に、そうしたモデルの中国の化石記録への適用(たとえば、Rosenberg and Wu 2013、Wu et al. 2021)には、dHsのゲノムおよび形態学的起源におけるアフリカの圧倒的優勢を認める必要があるからです。確かに、デニソワ人系統は6万年前頃以後に現存するアジア東部人の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)へと少量のDNAを伝えましたが、MREおよびBSモデルから予測されるより古いアジアの化石とのより広くて深い形態学的および遺伝学的つながりは、これまで検出されてきませんでした(たとえば、Ni et al. 2021、Mao et al. 2021)。ホモ・サピエンスの進化に関する中国の記録を「川が流れる」ならば(Rosenberg and Wu 2013)、確実にアフリカ起源の川のようなので、恐らくはアフリカからの網状の流れ(BSFA)の方が適切かもしれません?
AM(同化)モデルは、ホモ・サピエンスの進化過程におけるアフリカの優勢を認識していますが、dHsの主要な拡散檀家は、遺伝子流動の影響下におけるアフリカ外の漸進的な地域的形態の変化を示さないようだ、と私は主張します。関連する遺伝学的データは、(RAOHモデルから予測されるように)非Hs人口集団からdHsへの遺伝子流動を示唆しますが、AMから予測されるdHsからアフリカ外の先住人口集団への逆の人口拡散は(これまで)ありません(Stringer and Crété 2022)。2018年の論文(Galway-Witham, and Stringer., 2018、関連記事)で述べられているように、AM下では「遺伝子がこれら地域的人口集団間でじょじょに流れ、遺伝学的および解剖学的変化を促進し、現代的特徴へとつながります。対照的に、RAOHモデルはホモ・サピエンスの遺伝子をアフリカ起源の拡散するヒトの一群内でユーラシアに入り横断するものとして予想します。その途中で、先住人口集団との成功した交雑事象がありましたが、dHsと先住人口集団が重複する比較的急速な置換過程で、先住民の断片化した人口集団が効率的に吸収されました」。
私は、我々【ホモ・サピエンス】の起源についての50年以上の議論に関するこの再調査を、データがホモ・サピエンスの遺伝学的および形態学的祖先系統は90%以上アフリカで、次に私の見解では、RAOHモデルが我々の種【ホモ・サピエンス】の確立について全体的な過程を最良に説明する、と述べることにより終わらせます。私が本論文で採用したモデルの名称の使用を好まない人々には、我々は「ほぼアフリカに由来する」、というスヴァンテ・ペーボ(Svante Pääbo)の適切な要約で充分でしょう。
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