中井謙太『新しいゲノムの教科書 DNAから探る最新・生命科学入門』

 講談社ブルーバックスの一冊として、講談社から2023年1月に刊行されました。進展著しいこの分野の最新の成果に少しでも追いつき、当ブログでよく取り上げている古代ゲノム研究をさらに理解し、理解の曖昧なところを解消するために読みました。新たな知見を得るとともに復習もしよう、というわけです。本書は細胞から説明を始め、復習という観点でも親切な構成になっており、網羅的かつ体系的なので、教科書としても適していると思います。本書の冒頭で、現在一部の大学では文系理系を問わずに全ての学生に生物学を履修させる試みが行なわれている、と紹介されており、生物学は人間理解の基礎となる学問だと考えているので、そうした試みは重要だと思います。

 本書は、基本的な知識とともに研究背景についての解説も興味深く、ヒトゲノム計画について、古典的な分子生物学の研究は、数人の研究者により設計された実験により独自の仮説を証明する形式が典型的だったので(仮説駆動型研究)、内容についての検討はとりあえず後回しでまずは巨大なデータを得る、というデータ駆動型研究に対する拒絶反応も研究者には見られ、若い研究者は使い捨てにされることを、年配の研究者はヒトゲノム計画に研究予算が取られることを恐れた、と指摘しています。一般向けの新聞や雑誌の解説記事に当時そうしたことが書かれていたのかもしれませんが、見落としていたか忘れていたので、興味深い話でした。

 ヒト遺伝子数については、まだ確定しておらず、そもそも遺伝子の定義自体が問題となるわけですが、タンパク質コード遺伝子は約2万個、非コードRNA遺伝子は約4万個と推定されているそうです。なお、現時点で既知の最小の遺伝子数の生物は、昆虫に細胞小器官のように共生するナスイアという真正細菌で、遺伝子数は137個です。寄生なしに生存する独立栄養細菌で最小の遺伝子数の生物はメタノテルムスという古細菌で、1311個程度のORF(開いた読み枠)遺伝子を有しているそうです。

 近年のコロナウイルス禍でウイルスへの注目が高まっており、本書ではウイルスはどう扱われるのか、注目していましたが、生物と非生物の間に位置する存在とも言われ、生物と同様に定義が難しい、と指摘されています。本書はとりあえず、独自の核酸ゲノムとそれを覆うタンパク質の殻を有しており、宿主の細胞中でしか増殖できない感染体(病原体)と定義しています。ウイルスは一般的に光学顕微鏡の検出限界以下の大きさとされていますが、近年では真正細菌と同程度の大きさの巨大ウイルスが発見されています(ただ、こうした巨大ウイルスを通常のウイルスと区別して、独自の生命体とする提案もあるそうです)。

 ゲノムの多様性には、一塩基の違いや挿入・欠失や逆位や重複や転座があり、個体差があることから、ヒトについて個人間の違いや、さらに多数の個体のそうしたゲノムの違いを用いた、集団遺伝学も盛んです。2010年以降は古代人のゲノムの解読も盛んになり(古代ゲノム研究)、人類史の再構築に用いられています。本書では、現時点での大まかな推定によると、近縁関係にない他人同士のゲノムは平均して0.6%程度異なり、親子間では60ヶ所程度で新たな変動が見られるそうです。別の推定では、個人あたりの一塩基置換数の平均は400万ヶ所で、インデル(幅広い塩基対の挿入・欠失)は7万ヶ所、SV(構造変動、構造多型、50塩基対長以上にわたる多様性)は1万~2万ヶ所あるそうです。

 近年注目されているエピジェネティクスについては、ラマルク説の原理をある程度指し示すことになった、と評価する近年刊行された人類学の本もあり、疑問に思っていましたが(関連記事)、本書では、エピジェネティック情報は、例外もあるものの、生殖細胞において消去(初期化)されて基本的に子孫には受け継がれず、ラマルク的進化の考えを支持するわけではない、と指摘されています。この生殖細胞における初期化は、受精卵における全体的な脱メチル化によるもので、受精卵はこれにより全能性を獲得します(ゲノムの初期化)。

 DNA解析と遺伝子組換え技術とゲノム編集技術については、学説史とともにかなり詳しく解説されています。古代ゲノム研究もまずDNA解析から始まるわけで、ここはひじょうに参考になりました。古代ゲノム研究の一般向け書籍の多くもDNA解析技術を解説していますが(関連記事)、本書は日本語の一般向け書籍としてはとくに詳しいように思いますし、一読して深く理解できたわけではないので、今後も何度か再読しなければなりません。DNA解析に限らず本書は図を多用しており、この点は一般向け書籍として配慮されていると思います。


参考文献:
中井謙太(2023)『新しいゲノムの教科書 DNAから探る最新・生命科学入門』(講談社)

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