吉川忠夫『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』
志学社選書の一冊として、志学社から2019年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書の親本『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』は、中公新書の一冊として中央公論社より1974年4月に刊行されました。本書は、この親本に「史家范曄の謀反」が補篇として加えられています。本書は、侯景の乱の経緯と、その背景となる南朝貴族社会を叙述するとともに、侯景の乱を広く南北朝時代の中に位置づけており、侯景と武帝だけではなく関わりのある人物を複数詳しく描き出すことによって、南北朝時代後半の通史にもなっています。
侯景は東魏で武将として台頭しますが、東魏の武将は、関中に家族を残している者が多いため、西魏の実力者である宇文泰からの引き抜きに応じる可能性が高く、さらに文臣は南朝の梁を正統と考えている者も多いため、その内情は危ういものでした。これは、東魏が「胡漢」の混合社会であることの反映でもありました。東魏の文臣の梁への憧憬は、当時の梁が安定していたからですが、それは北朝の動揺と混乱のためでもありました。もっとも、それだけではなく、梁の創始者にして南北朝時代では異例の50年弱に及ぶ皇帝在位となった武帝が、少なくとも当初は名君として梁を統制したからでした。
梁は南朝貴族社会の延長に成立しましたが、その貴族は後漢以来の長い歴史に基づく門閥でした。しかし梁の頃ともなると、貴族から卑賤視された寒門(下級士族)や寒人(庶民)が力を蓄えつつあり、武帝の治世では低い門地でも貴族的教養を取得した人物が登用されていきました。さらに、武帝は政治改革者としてだけではなく、文人・学者としても優秀で、それも武帝の名声を高めました。武帝は典型的な六朝士大夫の出身で、儒教だけではなく仏教と道教、さらには文学と史学を兼習しましたが、とくに仏教に深入りしました。これには、後世の廃仏論者である韓愈などだけではなく、仏教側からの批判もありました。
こうした武帝の治世下にある梁へ、侯景は548年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に東魏から亡命します。東魏の実力者である高歓が547年に死亡し、その跡を若い息子の高澄が継承することに反対した侯景は、高澄が自分を排除しようと考えていると見抜いて決起しますが、高澄は父の高歓から対処策を授かっており、侯景は窮状に陥ります。ここで侯景は西魏と梁に帰順を申し出て、つまりは二股をかけたわけですが、西魏はそれをあっさりと受け入れます。一方、梁では重臣が友好国の東魏の叛将である侯景の受け入れに反対しますが、武帝は受け入れたいと思いつつも判断に迷います。この時、寒門出身ながら武帝にその才を認められ抜擢された朱异が、侯景を受け入れよう進言したことで、侯景の梁への帰順が認められました。朱异は『平家物語』の冒頭で異朝の奸臣の一人として言及されており(残りは秦の趙高と漢の王莽と唐の安禄山)、前近代の日本社会においてもかなりの知名度があったのではないか、と考えられます。
東魏に攻められた侯景は、すでに梁から帰順を認められていながら、当面の危機から脱するため西魏の宇文泰に援軍の派遣を要請します。侯景の釈明を武帝は咎めませんでしたが、宇文泰は二股をかけた侯景を見限ります。それでも、梁を後ろ盾とする侯景は東魏にとって脅威となります。高澄は侯景を懐柔しようとしますが、侯景の側近である王偉はこれを受け入れないよう、高澄に伝えます。武帝はこの機に東魏との十数年に及ぶ友好関係を破棄し、侯景に援軍を派遣しますが、東魏軍に大敗し、武帝の甥である蕭淵明は捕虜となり、侯景は548年に梁の寿春へと落ち延びます。武帝は侯景に対して敗戦を責めないばかりか、南予州刺史に任命し、これには梁の家臣も驚きます。
一方、高澄は停戦と国交回復を梁へと提案し、武帝と朱异も含めて梁の家臣はほとんどこれに賛成しますが、傅岐だけは、この和平には侯景と蕭淵明の身柄交換が意図されており、猜疑心から侯景が決起することを東魏は狙っているのではないか、と考えて反対します。しかし、家臣一人だけの反対意見が通るはずもなく、梁は東魏との停戦を決定します。梁から東魏への使者を寿春で捕らえた侯景は、自分が東魏に送還されると疑心暗鬼になり、武帝にたびたび書状を送り、翻心するよう、訴えます。しかし、和議の条件として侯景と蕭淵明の交換を提案する偽文書を梁の都である建康に届けると、武帝の返書がそれを認めるものだったため、侯景は謀叛を決意し、武帝の甥である蕭正徳と通じるなど、密かに決起の準備を進めます。
寿春にいる侯景の怪しい動きは建康の朝廷にも伝えられていましたが、朱异は黙殺し、ついに548年8月10日、侯景は決起します。侯景は早くも同年10月には建康に迫り、武帝には朱异など佞臣の排除を目的としている、と訴えますが、戦局は膠着状態に陥り、焦った。この状況に地方から援軍が到来しますが、混成軍のため統率がとれず、反乱軍と同様に軍紀も乱れていたため、建康の住民の支持を得られませんでした。戦闘の長期化につれて、建康では食料不足が深刻化し、それは反乱軍も同様だったため、侯景は偽りの和議でひとまず窮地を切り抜けようとします。これに対して、武帝は強硬に反対したものの、皇太子の蕭綱(簡文帝)は和議を強く主張し、武帝も老いて気力が衰えていたのか、和議を認めます。しかし、和議の条件が実行されても反乱軍の包囲は続き、侯景は和議を破棄して攻め込み、建康を制圧しますが、武帝との会見では武帝にかなり気後れしていたようです。侯景にとって武帝は煙たい存在となり、食事の量を減らして殺すことにし、武帝は549年5月2日に没します。
侯景は皇太子の蕭綱を直ちに即位させますが、その統治範囲は建康とその周囲に留まり、梁の各方鎮の軍も多くが健在でした。その中で最有力の王族である武帝の息子の蕭繹(元帝)は荊州軍を率いており、551年5月、荊州軍は侯景軍に大勝します。焦った侯景は同年8月に簡文帝を廃位とし、武帝の最初の皇太子(昭明太子)の孫(蕭棟)を即位させて3ヶ月後の11月に廃位として、漢を国号としてついに自ら即位します。しかし、すぐに荊州軍が攻め込み、侯景は552年2月に建康を放棄し、山東を目指して海上に出ますが、552年4月18日、配下に裏切られて殺害されました。
こうして侯景の乱は収束し、蕭繹は552年11月に即位しますが、侯景の乱で建康が荒廃してしまったため、江陵を都と定めます。これには、漢水沿いに南下する西魏を食い止めるためでもありました。しかし、554年12月、梁は西魏に敗れ、その後には後梁王朝とよばれる傀儡政権が樹立されます。本書は、西魏が民間に根強く存在する貴種崇拝の感情を利用して、傀儡政権を立てたのではないか、と推測しています。ただ、後梁は政治的には弱小でしたが、文化史上に占める位置は小さくなく、江南の文化を北朝もしくは次代に継承する役割を果たした、と本書は評価します。東魏を簒奪した北斉は、かつて東魏の捕虜となった蕭淵明を江南に送り込んで傀儡政権樹立を企図しますが、これに反対した陳覇先が陳王朝を樹立します。陳は貴族層ではなく土豪将帥層に基盤を置き、それまでの南朝諸政権とはむしろ断絶面が大きかった、と本書は指摘します。北斉は、西魏を簒奪した北周に併合され、北周を簒奪した隋が589年に陳を滅ぼし、南北朝時代は終焉します。
本書は范曄の謀叛についても1章を割いていますが、恥ずかしながら、范曄が謀叛の罪で、しかも讒言ではなく、首謀者ではないとはいえ、(まず間違いなく)本気で反乱を計画して処刑されたとは知りませんでした(以前に概説などで読んだのを完全に忘れてしまっただけかもしれませんが)。南朝の宋の重臣というよりも、『後漢書』の編者と有名な范曄が処刑されたのは445年で、南朝においては梁の武帝とともに珍しく治世が長期にわたって安定した文帝の時代となります。范曄の謀叛は、文帝とその弟である劉義康との間の確執に起因しており、皇室の兄弟間の関係の難しさを改めて知らされます。
侯景は東魏で武将として台頭しますが、東魏の武将は、関中に家族を残している者が多いため、西魏の実力者である宇文泰からの引き抜きに応じる可能性が高く、さらに文臣は南朝の梁を正統と考えている者も多いため、その内情は危ういものでした。これは、東魏が「胡漢」の混合社会であることの反映でもありました。東魏の文臣の梁への憧憬は、当時の梁が安定していたからですが、それは北朝の動揺と混乱のためでもありました。もっとも、それだけではなく、梁の創始者にして南北朝時代では異例の50年弱に及ぶ皇帝在位となった武帝が、少なくとも当初は名君として梁を統制したからでした。
梁は南朝貴族社会の延長に成立しましたが、その貴族は後漢以来の長い歴史に基づく門閥でした。しかし梁の頃ともなると、貴族から卑賤視された寒門(下級士族)や寒人(庶民)が力を蓄えつつあり、武帝の治世では低い門地でも貴族的教養を取得した人物が登用されていきました。さらに、武帝は政治改革者としてだけではなく、文人・学者としても優秀で、それも武帝の名声を高めました。武帝は典型的な六朝士大夫の出身で、儒教だけではなく仏教と道教、さらには文学と史学を兼習しましたが、とくに仏教に深入りしました。これには、後世の廃仏論者である韓愈などだけではなく、仏教側からの批判もありました。
こうした武帝の治世下にある梁へ、侯景は548年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に東魏から亡命します。東魏の実力者である高歓が547年に死亡し、その跡を若い息子の高澄が継承することに反対した侯景は、高澄が自分を排除しようと考えていると見抜いて決起しますが、高澄は父の高歓から対処策を授かっており、侯景は窮状に陥ります。ここで侯景は西魏と梁に帰順を申し出て、つまりは二股をかけたわけですが、西魏はそれをあっさりと受け入れます。一方、梁では重臣が友好国の東魏の叛将である侯景の受け入れに反対しますが、武帝は受け入れたいと思いつつも判断に迷います。この時、寒門出身ながら武帝にその才を認められ抜擢された朱异が、侯景を受け入れよう進言したことで、侯景の梁への帰順が認められました。朱异は『平家物語』の冒頭で異朝の奸臣の一人として言及されており(残りは秦の趙高と漢の王莽と唐の安禄山)、前近代の日本社会においてもかなりの知名度があったのではないか、と考えられます。
東魏に攻められた侯景は、すでに梁から帰順を認められていながら、当面の危機から脱するため西魏の宇文泰に援軍の派遣を要請します。侯景の釈明を武帝は咎めませんでしたが、宇文泰は二股をかけた侯景を見限ります。それでも、梁を後ろ盾とする侯景は東魏にとって脅威となります。高澄は侯景を懐柔しようとしますが、侯景の側近である王偉はこれを受け入れないよう、高澄に伝えます。武帝はこの機に東魏との十数年に及ぶ友好関係を破棄し、侯景に援軍を派遣しますが、東魏軍に大敗し、武帝の甥である蕭淵明は捕虜となり、侯景は548年に梁の寿春へと落ち延びます。武帝は侯景に対して敗戦を責めないばかりか、南予州刺史に任命し、これには梁の家臣も驚きます。
一方、高澄は停戦と国交回復を梁へと提案し、武帝と朱异も含めて梁の家臣はほとんどこれに賛成しますが、傅岐だけは、この和平には侯景と蕭淵明の身柄交換が意図されており、猜疑心から侯景が決起することを東魏は狙っているのではないか、と考えて反対します。しかし、家臣一人だけの反対意見が通るはずもなく、梁は東魏との停戦を決定します。梁から東魏への使者を寿春で捕らえた侯景は、自分が東魏に送還されると疑心暗鬼になり、武帝にたびたび書状を送り、翻心するよう、訴えます。しかし、和議の条件として侯景と蕭淵明の交換を提案する偽文書を梁の都である建康に届けると、武帝の返書がそれを認めるものだったため、侯景は謀叛を決意し、武帝の甥である蕭正徳と通じるなど、密かに決起の準備を進めます。
寿春にいる侯景の怪しい動きは建康の朝廷にも伝えられていましたが、朱异は黙殺し、ついに548年8月10日、侯景は決起します。侯景は早くも同年10月には建康に迫り、武帝には朱异など佞臣の排除を目的としている、と訴えますが、戦局は膠着状態に陥り、焦った。この状況に地方から援軍が到来しますが、混成軍のため統率がとれず、反乱軍と同様に軍紀も乱れていたため、建康の住民の支持を得られませんでした。戦闘の長期化につれて、建康では食料不足が深刻化し、それは反乱軍も同様だったため、侯景は偽りの和議でひとまず窮地を切り抜けようとします。これに対して、武帝は強硬に反対したものの、皇太子の蕭綱(簡文帝)は和議を強く主張し、武帝も老いて気力が衰えていたのか、和議を認めます。しかし、和議の条件が実行されても反乱軍の包囲は続き、侯景は和議を破棄して攻め込み、建康を制圧しますが、武帝との会見では武帝にかなり気後れしていたようです。侯景にとって武帝は煙たい存在となり、食事の量を減らして殺すことにし、武帝は549年5月2日に没します。
侯景は皇太子の蕭綱を直ちに即位させますが、その統治範囲は建康とその周囲に留まり、梁の各方鎮の軍も多くが健在でした。その中で最有力の王族である武帝の息子の蕭繹(元帝)は荊州軍を率いており、551年5月、荊州軍は侯景軍に大勝します。焦った侯景は同年8月に簡文帝を廃位とし、武帝の最初の皇太子(昭明太子)の孫(蕭棟)を即位させて3ヶ月後の11月に廃位として、漢を国号としてついに自ら即位します。しかし、すぐに荊州軍が攻め込み、侯景は552年2月に建康を放棄し、山東を目指して海上に出ますが、552年4月18日、配下に裏切られて殺害されました。
こうして侯景の乱は収束し、蕭繹は552年11月に即位しますが、侯景の乱で建康が荒廃してしまったため、江陵を都と定めます。これには、漢水沿いに南下する西魏を食い止めるためでもありました。しかし、554年12月、梁は西魏に敗れ、その後には後梁王朝とよばれる傀儡政権が樹立されます。本書は、西魏が民間に根強く存在する貴種崇拝の感情を利用して、傀儡政権を立てたのではないか、と推測しています。ただ、後梁は政治的には弱小でしたが、文化史上に占める位置は小さくなく、江南の文化を北朝もしくは次代に継承する役割を果たした、と本書は評価します。東魏を簒奪した北斉は、かつて東魏の捕虜となった蕭淵明を江南に送り込んで傀儡政権樹立を企図しますが、これに反対した陳覇先が陳王朝を樹立します。陳は貴族層ではなく土豪将帥層に基盤を置き、それまでの南朝諸政権とはむしろ断絶面が大きかった、と本書は指摘します。北斉は、西魏を簒奪した北周に併合され、北周を簒奪した隋が589年に陳を滅ぼし、南北朝時代は終焉します。
本書は范曄の謀叛についても1章を割いていますが、恥ずかしながら、范曄が謀叛の罪で、しかも讒言ではなく、首謀者ではないとはいえ、(まず間違いなく)本気で反乱を計画して処刑されたとは知りませんでした(以前に概説などで読んだのを完全に忘れてしまっただけかもしれませんが)。南朝の宋の重臣というよりも、『後漢書』の編者と有名な范曄が処刑されたのは445年で、南朝においては梁の武帝とともに珍しく治世が長期にわたって安定した文帝の時代となります。范曄の謀叛は、文帝とその弟である劉義康との間の確執に起因しており、皇室の兄弟間の関係の難しさを改めて知らされます。
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