新石器時代から鉄器時代のエーゲ海地域の混合史と族内婚
新石器時代から鉄器時代のエーゲ海地域の古代人のゲノムデータを報告した研究(Skourtanioti et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。新石器時代と青銅器時代はヨーロッパの遺伝的歴史にとって大きな転換期でしたが、ヨーロッパの先史時代にとって重要な地域であるエーゲ海にとっては、文化的移行の生物学的側面はこれまで限定的にしか明らかにされてきませんでした。この研究は、新石器時代から鉄器時代にまたがるクレタ島とギリシア本土とエーゲ海諸島の古代人102個体から新たに生成したゲノム規模データを分析しました。
その結果、クレタ島の初期農耕民は他の同時代の新石器時代のエーゲ海の人々と同じ祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を共有していた、と分かりました。対照的に、新石器時代末とその後の前期青銅器時代は「東方」からの遺伝子流動により特徴づけられ、それはクレタ島ではおもにアナトリア半島起源でした。中期青銅器時代までのギリシア本土における追加のヨーロッパ中央部/東部祖先系統についての以前の調査結果が確証され、そうした遺伝的痕跡はクレタ島で紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけてじょじょに現れ、この期間には島嶼部に対する本土の影響が強化された、とさらに示されます。エーゲ海地域内の生物学的および文化的つながりも、世界規模の古代DNA記録では前例のない高頻度で行なわれていた族内婚の発見により裏づけられます。この結果は、遺伝的混合や結婚やその他の文化的慣行の相互作用の解明について、エーゲ海における考古遺伝学的手法の可能性を浮き彫りにします。
●研究史
エーゲ海は、ヨーロッパと近東との間の地域を超えた社会的変容の理解にとってひじょうに重要な地域として、長く認識されてきました。すでに紀元前七千年紀には、最初の農耕共同体がエーゲ海地域に出現し、それにより最初の証拠がクレタ島で発掘されました。つまり、クノッソス(Knossos)のその後の宮殿の下に位置する最古の居住層ですが、これらの人口集団の起源は曖昧なままです。エーゲ海地域の先史時代における次の大きな変容は、前期青銅器時代(EBA、紀元前3100~紀元前2000年頃)に起きました。複雑な社会が出現し、それは洗練された建築や冶金や印章体系や青銅器時代地中海東部交流網におけるエーゲ海地域の統合により特徴づけられます。紀元前三千年紀後半には、ギリシア本土では深刻な社会的崩壊があり(前期ヘラディック2期末)、その影響は後の紀元前二千年紀初期となる中期ヘラディック期まで続きました。この混乱の原因はさまざまで、劇的な気候変化や新たな集団の到来などです。クレタ島では、こりに匹敵する衰退期はなかったようです。中期ミノア期となる紀元前19世紀における最初の宮殿の出現とともに、クレタ島の社会は芸術や建築や社会的慣行におけるこれまで知られていなかった洗練へと変容しました。
わずか数世紀後、中期青銅器時代(MBA)後期(ギリシア本土では中期ヘラディック期)には、地元エリートの最初の豊かな竪穴墓(shaft graves)がギリシア本土南部に出現し、ミノアの影響を示すことが多くありました。竪穴墓期における台頭するエリート間の競争は地域紛争につながり、ギリシア本土における多くの局所的支配圏の衰退と、おそらくは紀元前15世紀におけるクレタ島への最初のギリシア本土からの軍事遠征において頂点に達しました。この紛争の末に、宮殿期(後期ヘラディック3A~B)が、ミケーネやティリンスやピュロスやアテネやラコニアのヴァシレイオスやテーベやオルコメノスやディミニを中心とするいくつかの著名な政体で始まりました。この間に、ギリシア本土の中心地によるクレタ島への影響は強まり、クノッソスやハギア・トリアダ(Hagia Triada)やハニア(Chania)といった重要な宮殿の中心地や都市をクレタ島の大半の管理のための前哨地点へと変えることで、クレタ島の資源は組織的に利用されました。これまで、エーゲ海地域における過去のヒトの移住は、考古学および文献の証拠に基づいておもに再構築されましたが、生物考古学的研究は、最近の議論において新たな情報を追加してきました。
古代DNAに基づく生体分子手法は、過去10年間に先史時代エーゲ海研究で導入されてきました。最初の古代DNA研究はミトコンドリアゲノムを分析し、クレタ島の外からの移住ではなく、在来の発展を強調しました。その後の研究は核DNAデータを生成し、エーゲ海新石器時代人口集団の共通の遺伝子プールを示し、ギリシア本土の南部は北部とは、イラン/コーカサスの初期完新世人口集団とのより高い遺伝的類似性において異なっていた、と示唆しました。他の研究では、青銅器時代(BA)クレタ島(ミノア)とギリシア本土南部(ミケーネ)両方の人口集団における、この「東方(イラン/コーカサス)」の存在が報告されました(関連記事)。しかし、最後となる「東方」の遺伝的構成要素には、ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WES)もしくはアルメニアと関連する追加の祖先系統がありました。最近の研究はBAエーゲ海の標本抽出範囲をギリシア本土北部とエーゲ海諸島に拡大し、以前の調査結果を確証し、ギリシア北部のMBA個体群におけるより高いWES関連祖先系統も報告しました(関連記事)。
エーゲ海以外の最近の考古遺伝学的研究は、過去の社会的組織および構造の要素としての生物学的情報の統合に取り組んでおり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、それにより、関連する自己認識は生物学的親族関係だけで決定されるわけではない、と認識する必要があります。エーゲ海地域における過去の親族関係に対するほとんどの手法は、形態計測および非計量分析に基づいており、最初のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に基づく研究は不成功でした。しかし、エーゲ海BAから得られたこの一連の証拠の可能性は際立っており、それは、局所的な共同体内の社会的帰属の表現および構成としての集団埋葬の豊富さのためです。
●考古遺伝学的データセット
この研究は、エーゲ海地域の新石器時代(6個体)と青銅器時代(95個体)と鉄器時代(1個体)の先史時代102個体の新たなゲノム規模データを生成し(図1)、それにより、以前に刊行されてデータセットから標本規模で4倍に達しました。この標本は、地理的および時間的分布のため、たとえば結婚慣行など、これら先史時代の社会へと織り交ぜられた混合史と他の生物学的側面の複雑な特徴に取り組めます。以下は本論文の図1です。
エヴィア(Euboea)島のネア・スティラ(Nea Styra)やエギナ(Aegina)島のラザリデス(Lazarides)は新石器時代後の遺跡で、紀元前2200年頃の議論されている崩壊の前の期間(ギリシア本土の前期ヘラディック2期末)が含まれます。ギリシア本土とエーゲ諸島の残りの個体は、後期青銅器時代(LBA)のミケーネ文化に分類され、アイドニア(Aidonia)やグリカ・ネラ(Glyka Nera)やラザリデスやコウコウナリス(Koukounaries)やミグダリア(Mygdalia)やティリンスといった遺跡から得られました。
データのほとんどはクレタ島に由来し(102個体のうち62個体)、その時間横断区は、アポセレミス(Aposelemis)遺跡の紀元前七千年紀後期~紀元前六千年紀初期となる新石器時代初期段階と、ハギオス・チャラランボス(Hagios Charalambos)遺跡の前期~中期ミノア期と、ハニア(Chania)遺跡とアポセレミス遺跡とクロウソナズ(Krousonas)遺跡の後期ミノア期を含む青銅器時代(BA)を網羅しています。アポセレミス遺跡とハニア遺跡のXAN035(紀元前1700~紀元前1450年頃)を除いて、他の後期ミノア期個体は全て、年代が紀元前1400~紀元前1100年頃(後期ミノア期2~3期)です。ネア・スティラ遺跡とミグダリア遺跡とBAのアポセレミス遺跡とクロウソナズ遺跡とアイドニア遺跡とハギオス・チャラランボス遺跡の分析された骨格遺骸は全て、同じ遺跡内の集団埋葬状況に属し、後者については、ペスト菌(Yersinia pestis)とサルモネラ菌(Salmonella enterica)も最近検出されました。
抽出された古代DNAはゲノムライブラリへと形質転換(不死化)され、その一部は祖先系統の情報をもたらす1233013の一塩基多型(SNP)で濃縮され(124万SNP)、配列決定データは古代DNAの保存と汚染について評価されました。エーゲ海地域個体群の推測では、ゲノム規模データの得られた全ての以前に刊行された同時代の個体群が再評価されました。ゲノム規模データの得られた骨格遺骸のうち43点の放射性炭素年代測定も行なわれました。
●エーゲ海人口集団の地域横断的な遺伝的絡み合い
祖先系統の差異を視覚化するため、まず現代のユーラシア西部人口集団で主成分分析(PCA)が実行され、最初の2主成分(PC)にエーゲ海およびその近隣地域の古代の個体群が投影されました(図2)。新石器時代のアポセレミス遺跡の6個体は他の初期ヨーロッパおよびアナトリア半島/エーゲ海農耕民とクラスタ化し(まとまり)、新石器時代クレタ島の遺伝子プールはその期間におけるより広範なエーゲ海地域と関連している、と示唆されます。その約2000年後、EBAとMBAの個体群はPC座標でかなりの変化を示し、PC2に沿って前期完新世イラン/コーカサスおよびその子孫である銅器時代とBAのアナトリア半島人/BAコーカサス人へと動きます。この変化は一様ではないようで、それは、同じ竪穴墓に埋葬されたネア・スティラ遺跡の5個体が、かなりの遺伝的差異を示すからです。最後に、LBA個体群はそれ以前のBA個体群から逸れ、BAヨーロッパ中央部および東部の方へと動いており、新石器時代以降のエーゲ海地域における多段階の遺伝的変化が示唆されます。以下は本論文の図2です。
PCAから得られた観察が通時的な遺伝子流動事象と一致するのかどうか形式的に検証するため、f4形式(ムブティ人、検証対象;アナトリア農耕民、エーゲ海集団)のf4統計が用いられ、さまざまなエーゲ海地域集団がエーゲ海の東方のアナトリア半島農耕民と対比されました。新石器時代イランのようにずっと東方の集団との類似性は、新石器時代アポセレミス遺跡個体(もしくはAPO004)でたどれるものの、有意な水準に達するのはネア・スティラ遺跡のEBA集団だけで、その後は、後のエーゲ海BA集団のほとんどで東方の集団との類似性は優勢になります。しかし、LBA個体群はさらに、同時代もしくはそれ以前(中石器時代)のヨーロッパ中央部および東部の人口集団とアレル(対立遺伝子)を共有しており、たとえば、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ドイツの「縄目文土器(Corded Ware)」文化集団(縄目文_土器)、ロシアのサマラ(Samara)遺跡のEBAのヤムナヤ(Yamnaya)文化集団(ロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤ)、コーカサス北部集団(ロシア_北部_コーカサス)です。さらに、これらの集団から得られた混合の証拠は、混合f3検定で確証されました。
●新石器時代から前期・中期青銅器時代
f統計から情報を得て、ソフトウェアqpAdmを用いて形式的な混合モデルが調べられました。まず、各個体を新石器時代(N)アナトリア半島西部の姉妹集団(アナトリア_N)として扱った非混合モデルが、次に新石器時代イラン(イラン_N)とEEHGを順次追加するモデルが検証されました(図3)。かなりのEEHG率がギリシア本土北部のLBAおよびMBA2個体について約5%~25%で適合し、そのうちの一部についてより単純なアナトリア_Nとイラン西部_Nのモデルも適切だった理由を説明します。とくに、イラン/コーカサス関連の遺伝子流入は、ギリシア本土の、それ以前新石器時代の刊行されている個体群(紀元前五千年紀頃となるペロポネソス半島のI2318とI709とI3920)と、その後ではあるものの、エヴィアとエギナとコウフォンシア(Koufonisia)のEBA個体群のほとんどでも推測されています。
全体的に、後期新石器時代(LN)からEBAにかけての遺伝的異質性は時間とだけ相関しているわけではなく、それは、ネア・スティラ遺跡の墓の男性個体群には、ひじょうにさまざまな割合のイラン関連祖先系統があるからです。ギリシア本土と島嶼部のLNとEBAの個体群にDATESを適用することにより、紀元前4300±250年頃となる平均混合年代が得られ、ネア・スティラ遺跡個体群のみから推測すると、わずかに新しくなります(紀元前3900±460年頃)。混合年代におけるこの相違も、最初の新石器時代エーゲ海共同体の確立に続いての、エーゲ海地域東方からの侵入してくる個体群との継続的な生物学的混合も裏づけます。以下は本論文の図3です。
qpWaveを用いてのクレード(単系統群)性検定で、さらに遺伝的異質性が評価されました。この結果から、EBAのエヴィア遺跡とエギナ遺跡とコウフォンシア遺跡の個体群内でのさまざまな組み合わせは、参照人口集団一式の観点で相互にクレード的と確証され、同年代の集団間でかなりの遺伝的差異を浮き彫りにします。完全に対照的に、前期~中期青銅器時代(EMBA)クレタ島では、非クレード的な組み合わせの割合(741組のうち25組)は、P値の均一な分布を考えると、切断5%で却下されるクレード的な組み合わせの真のモデルで予測されるものです。
混合推測の解像度を高めるため、先行研究において説明された「競合」手法に続いて、クレタ_アポセレミス_N(6個体)とギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBA(13個体)とクレタ_EMBA(29個体)個体群のまとまりで、qpAdmが繰り返されました。アポセレミス遺跡個体については、アナトリア半島中央部のボンクル(Boncuklu)遺跡の無土器農耕民が参照人口集団に含まれると、アナトリア西部_Nからの1方向モデルが適切でしたが、供給源としてアナトリア半島中央部農耕民での1方向モデルは、アナトリア西部_Nを参照に追加しない場合でさえ失敗しました。
続いて、より古いエーゲ海農耕民からの2つの子孫となるギリシア本土南部_LN-EBAおよびクレタ_EBA集団の違いが、これら在来の農耕民とさまざまなアジア南西部人口集団の2方向モデルでモデル化されました。アポセレミス_Nを含む2方向モデルのほとんどは却下されませんでしたが、低いSNP網羅率とアポセレミス_Nの小さな集団規模に起因する解像度減少が示唆されました。対照的に、在来の供給源と代わりにアナトリア西部_Nがモデルに含められると、コーカサス南部_銅器時代(En)/BAからの追加の28%の寄与が、ギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBAでは適していました(図3b)。したがって、クレタ_EMBAについては、追加の祖先系統はアナトリア_後期銅器時代/前期青銅器時代(LC-EBA)でより適切にモデル化されました。しかし、このモデルはイラン西部_Nからの追加の最小限の構成要素(5%)での3方向としてのみ適切になりました。
●中期~後期青銅器時代のエーゲ海地域における移動性
LBA集団と鉄器時代(IA)個体群について、対応する子孫集団(ギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBAとクレタ_EMBA)と、紀元前3500~紀元前1000年頃となるいくつかのヨーロッパの人口集団から混合モデルが調べられました。以前の分析から情報を得て、あり得る第二の供給源は、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のEBA牧畜民(本論文では、ユーラシア西部草原地帯_ En-BAとしてまとめられ、通常はWESと表されます)などの人口集団、およびそれらと密接な遺伝的類似性を共有すると示される人口集団に限定されます。
これらのモデルがまず、クレード性検定(qpWave)が均質なクラスタとしての分類と一致する場合のみ、「遺跡_期間」集団で検証されました。ハニア遺跡のより大きな集団内では、クレード性からの逸脱はより高頻度(10%程度)で、PCAにおけるEBA~LBA勾配の両端に位置する特定の個体群におもに起因しました。これらが混合モデル化において有意な違いをどのように反映しているのか調べるため、ハニア遺跡集団が以下の3下位集団で分析されました。それは、ハニア_LBA(XAN030)、ハニア_LBA_ a’(XAN014とXAN028とXAN034)、ハニアLBA_ b’(他の全ての個体)です。
LBAエーゲ海集団のほとんどのモデルに適切に一致する、ヨーロッパの東部から中央部と南部にまたがるさまざまな供給源が見つかりました。BAブルガリアもしくはBAシチリア島個体群のより小さく均質な標本は、適合しませんでした。セルビア(EBA)とクロアチア(MBA)とイタリア(EMBA)の個体群とのモデルはほとんどの期間で適切でしたが、ユーラシア西部草原地帯_ En-BA、もしくは一部のヨーロッパ中央部供給源(たとえば、ドイツ_LN-EBA_縄目文土器)とのモデルは、P値≥0.01切断において全ての集団で適切でした。したがって現時点では、この遺伝的類似性の由来する地域をより厳密に特定することはできません。
ギリシア本土南部の集団間では、WES(ユーラシア西部草原地帯牧畜民)関連祖先系統の推定率は重複しており、平均22.3%ですが(図4a)、ギリシア本土北部のログカス(Logkas)遺跡個体(43~55±4%)よりもかなり低くなっていました。IAティリンス遺跡個体については、有意な違いは認められず、限定的な証拠ですが、少なくともティリンス遺跡については、BA末の後の遺伝的連続性が示唆されます。ギリシア本土南部と類似の率の範囲は、近隣の島々やキクラデス諸島で観察されますが、サラミス島の1個体についてのモデルは、WES関連祖先系統を示しません。
ひじょうに対照的に、クレタ島では、WES関連の率は0~約40%までさまざまで、有意に異なる率の3集団でクラスタ化されます。最小限もしくは全くないWES祖先系統の個体群で、最古となるのは紀元前17世紀もしくは紀元前16世紀ですが、紀元前12世紀のクロウソナズ遺跡とアルメノイ(Armenoi)遺跡の最新となる個体群は、最高量の一部を有しています。しかし、ハニアの古代都市内では、約3世紀の短い期間にまたがる個体群は全範囲を示しており、分岐した人口集団間の混合の初期段階と一致するパターンです。以下は本論文の図4です。
クレタ_LBAにおけるこれら顕著な祖先系統パターンをより深く理解するため、図4aの第三区画の全ての個体(ギリシア本土の南北両方)で構成される「ギリシア本土_MLBA」に含められる第二供給源候補の置換により、競合混合モデルが検証されました。比較のため、分類された標的「島嶼部_LBA(エヴィア島とエギナ島とサラミス島とキクラデス諸島)」、ギリシア本土南部、ギリシア本土北部で、同じモデルも検証されました。ただ、そうした地理の人為的細分化が、過去の分類を反映していない可能性に要注意です。結果は図4bにまとめられています。供給源の置換により、一部の以前に適切だった供給源(たとえば、島嶼部_LBAにとってのイタリア_BA)が却下されました。
全体的に、セルビア_EBAやクロアチア_MBAやイタリア_BAのような近位供給源は、ギリシア本土と島嶼部両方の集団のモデル化に失敗しましたが、ヨーロッパ中央部もしくは東部供給源でのモデルは適切なままでした。しかし、上述の供給源すべてと「ギリシア本土_MLBA」での2方向モデルは、クレタ島の全てのLBA個体群(クレタ_LBA)のアレル頻度と適合します。これは、クレタ_LBAの2クラスタが別々にモデル化しても適合しましたが(図4a)、高いWES祖先系統を有するクレタ_LBA(個体XAN030とKRO008とKRO009、および刊行されているアルメノイ遺跡個体)では適合せず、「ギリシア本土_MLBA」の1供給源のみが適切になりました。
●性別の偏りと生物学的親族関係と結婚慣行への洞察
先行研究では、イベリア半島や中央部やブリテン島のようなヨーロッパの一部地域において、BAにおけるユーラシア草原地帯と関連する大規模な遺伝子流動が、Y染色体ハプログループ(YHg)R1a・R1bの優勢、もしくは男性に偏った混合さえもたらした、と示されてきました(関連記事)。エーゲ海地域については、常染色体のほとんどと比較しての、男性のX染色体上の有意により低いWES関連祖先系統の割合も推定され、これは男性に偏った混合と一致します。
しかし、紀元前16世紀以後(LBAおよびIA)の男性30個体のうち4個体のみが、YHg-R1b1a1bでした。残りの個体は、EBA/MBA個体群と同様に、YHg-J・G/G2の高い割合を証明します(59個体のうち、それぞれ39個体と10個体)。これはすでに、前期完新世イラン/コーカサスとアナトリア半島およびヨーロッパの農耕民に存在しており、銅器時代のアナトリア半島とレヴァントでも同様にひじょうに一般的で(関連記事)、前期新石器時代以来のエーゲ海地域とアジア南西部の人口集団間の接触の重要性を浮き彫りにします。
先史時代の集団埋葬における生物学的近縁性とその表現は、エーゲ海地域ではさほど理解されていません。本論文では、LBAと年代測定された集合建物内乳児墓から得られた、生物学的に親族の集団の表現について最初の証拠が提示されますこれは、エーゲ海地域において新石器時代の以来存在しましたが、MBA以降により一般的になりました。ミグダリアにおけるミケーネ期(LBA)集落内に位置する小さな石棺墓は、集落の家屋の下の、周産期乳児の少なくとも8個体と、子供6個体の主要な土葬でした。これら乳児の7個体での近縁性の程度の推定と、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)ハプログループの分類により、乳児の親族関係を単一の拡張家族系図で解決でき、乳児6個体は子供で、1組の夫婦の孫でした(図5)。7番目の個体(MYG004)はこの家族の直接的な子孫ではありませんでしたが、母系を通じて3親等でMYG005と関連しており、おそらくはMYG005のイトコでした。以下は本論文の図5です。
生物学的近縁性の追加の証拠はアイドニア遺跡に由来し、1親等~3親等の親族の組み合わせが、ラシティ(Lasithi)平原のハギオス・チャラランボス遺跡の岩室墓(chamber tomb)3基と骨壺内に埋葬されている個体群で決定されました。ハギオス・チャラランボス遺跡で調べられた個体群は、混合した骨格の二次堆積を表していますが、洞窟の特定の区画からすべて発掘されました。密接な親族(1親等~2親等)のいくつかの組み合わせの他に、多くの組み合わせが遠い親族を表しています。
遠い遺伝的近縁性のこの高頻度に加えて、遺伝子型決定データでのhapROHの実行により同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)から推定された(関連記事)、異常に高水準の親族関係(27個体のうち約50%)も報告されます(図6a)。個々のROH柱状図は、イトコや半キョウダイ(両親の一方のみを同じくするキョウダイ)やオバ/オジとオイ/メイ程度の近縁パターンの両親についての関連予測とより一致します。しかし、遺伝的組換えと古代人標本でしばしば損なわれる網羅率の確率論的性質を考えると、1個体のゲノムは予測と派手に一致するだけかもしれません。したがって、あり得るイトコ同士の結婚の事例と累積柱状図を組み合わせると、他のシナリオよりもイトコ同士という両親の親族関係が有利です。頻繁な遠い親族とイトコ同士の結婚についての証拠を組み合わせると、そうした個体群は通常イトコ同士の近親結婚が行なわれていた小さな族内婚共同体を形成していた、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
興味深いことに、族内婚はハギオス・チャラランボス遺跡に固有の特徴ではありません。推奨されるSNP網羅率閾値を満たす全ての期間のエーゲ海地域の他の61個体にこの手法が適用されました。合計で、個体の30%程度は最長のROHの塊におけるROHのほとんどを有しており、イトコもしくはマタイトコと同等の程度で近縁の両親の子供であることと一致する、と分かりました(図6a)。密接な親族結婚により生まれた子供は、新石器時代からLBAを通じて特定されましたが、不均一な標本抽出のため、時間的傾向に関する結論を引き出せません。族内婚はサラミスやラザリデスやコウコウナリスやコウフォンシアといったより小さな島々においてもより高頻度で存在しましたが(50%)、全体的にはエーゲ海地域で一般的だったようです。族内婚の観察された高頻度は、世界規模のDNA記録の他地域(関連記事)ではこれまで証明されていないような、先史時代エーゲ海地域におけるかなり一般的な社会的慣行を通時的に示します。
最後に、新石器時代のアポセレミス遺跡個体群では、標本の組み合わせ間の不適正塩基対のアレルかなり減少した割合により測定された、遺伝的多様性の低下が観察されました。この兆候はいくつかの理由による可能性があります。第一に、より低いP0はアポセレミス遺跡個体群が小さな族内婚共同体だったことと一致するでしょう。しかし、長いROHの推測に充分な網羅率の唯一の個体である個体APO004における長いROHの欠如は、この仮説を裏づけません。第二に、対での多様性低下は、2親等程度の親族の複数の組み合わせを表しているかもしれません。しかし、すべての組み合わせを単一の一貫した系図に適合させるには、個体APO004とAPO028の組み合わせである全キョウダイ【両親が同じキョウダイ】唯一の組み合わせを除いて、6個体すべてが母方もしくは父方の半キョウダイでなければなりません。全個体における低いSNP網羅率のため、片親性遺伝標識はそうした系図を除外も確証もできませんが、その高い特殊性により、それは可能性の低いシナリオと考えられます。
最後に、人口規模の長期的減少、つまりボトルネック(瓶首効果)はより低い人口集団異型接合性をもたらす可能性があり、そうした兆候は以前に、狩猟採集民とカルディウム(Cardial)新石器時代イベリア半島人で報告されました(関連記事)。そうした浮動的人口集団の個体群は、4~8cM(センチモルガン)とより短いROHを示すと予測され、現時点では、APO004など低網羅率の個体群では検出できません。このシナリオをさらに裏づけるように、アポセレミス遺跡個体群内の推測される異型接合性(h)も減少しており(h≈0.1)、平均的な対での多様性(P0≈0.2)が人口集団の多様性を表しており、密接な親族の組み合わせを表していない、と仮定すると、予測に近くなっています。要するに、現時点での証拠は、アポセレミス遺跡の初期農耕民が小規模な人口集団の子孫だった、とするシナリオと最も一致します。
●考察
本論文の大規模な考古遺伝学的手法は、エーゲ海地域先史時代におけるヒトの移動性の役割に関する新たな証拠を提供します。近親婚の高頻度の前例のない発見は、考古学的記録では証明されていない文化的慣行を明らかにします。
まず、クノッソス遺跡における最初の層に約1000年選好するアポセレミス遺跡の新石器時代墓地に関する分析は、最初の新石器時代移住者のアナトリア半島起源を示唆しており、建築・古植物学・石器の証拠と、それら最初期の層における畜産も示唆する野生および家畜化された動物相の最近の評価と一致します類似の遺伝的つながりが同時代のギリシア本土人口集団で観察される一方で、他のエーゲ海諸島の中石器時代と新石器時代の人口集団の遺伝的影響は不明なままですが、航海伝統の新石器時代の前の島嶼部発生段階の証拠から、将来の研究において新石器時代生計慣行の取り込みにおける狩猟採集民の役割をさらに解明する必要があります。したがって、アポセレミス遺跡人口集団の減少した異型接合性は、紀元前七千年紀前半にクレタ島に植民し、一定期間生物学的に孤立したままだったか、すぐ近くの島々もしくはから到来した遊動的な小規模人口集団のままだったか、あるいは両者の組み合わせだった、アナトリア半島農耕民の小さな人口の合着(合祖)としてとして解釈できるかもしれません。
続いて、本論文の調査結果から、クレタ島の遺伝的景観は紀元前六千年紀前半以降にかなり変わり、本論文のqpAdmモデル化および混合年代測定で推定されるアナトリア半島人口集団の流入により特徴づけられる、と示唆されます。興味深いことに、東方からの遺伝子流動はLN以降にギリシアの他地域(エヴィア島やエギナ島やキクラデス諸島)でも明らかですが、より一時的で、コーカサスの人口集団に向かっているようです。さらに、YHgは未解決ですが、男性の族外婚が、近隣の遺跡の生物距離からの証拠と一致する、ネア・スティラ遺跡の男性個体群における不均質な遺伝的特性への妥当な寄与要因として議論されるべきです。全体的に、より均一な標本抽出が重要ですが、現在のデータは、東方からの遺伝子流動がエーゲ海地域全体で対称的ではなかったことを裏づけているようです。
紀元前三千年紀後半において集落転移を介してエーゲ海地域とバルカン半島で明らかな生活の混乱は、社会構造の崩壊および/もしくは気候面の課題と関連しているかもしれません。ギリシア本土のMBAおよびLBA人口集団における「北方」祖先系統の発見は、大規模な人口置換を裏づけるものの、南北の勾配はこの移住と人口混合の方向性を示唆します。「セルビア_EBA」もしくは「ブルガリア_BA」のようないくつかの推定される近位供給源は、多くの集団においてこの「侵入してくる」祖先系統のモデル化に失敗し、YHg-R1bはLBAエーゲ海地域集団ではむしろ稀で、その全ては、ヨーロッパ中央部および西部の他地域と比較して、BAバルカン半島およびギリシアにおける異なる移住動態を示します。
LBAクレタ島およびギリシア本土の人口集団に関して、より直接的な人口統計学的つながりを提案できます。クレタ島における宮殿中心地とエリートの象徴を標的とする破壊の層位(後期ミノア期1B)に続いて、物質文化と葬儀建築と埋葬慣行は、伝統的にミケーネ文化に分類されてきた特徴がある革新を表現している、と考えられています。これらの理由に基づいて、ギリシア本土からの人々によるクレタ島への侵略(紀元前15世紀頃)が提案されてきたものの、依然として激しく議論されています。この論争を決定的に解決することはできませんが、遺伝学的分析から、より大きな港湾都市におけるクレタ島の人口集団は、数世紀の間にクレタ島へと到来した人口集団と生物学的に混合した、と論証されます。LBAエーゲ海地域内で最高の割合のWES関連祖先系統の一部を有する個体群の存在(クレタ_LBA_集団C)は、ギリシア本土がクレタ島へ侵入してきた人々の唯一の供給源だった、というシナリオと一致するにも関わらず、より遠い地域(たとえばイタリア)からの人口集団がクレタ島のLBA移行に寄与した、とも提案でき、それは同様に物質文化において支持される可能性です。
本論文で提案された全ての異なる移住(新石器時代とEBAにおけるクレタ島への移住、LBAの前におけるギリシア本土への移住、LBAにおけるギリシア本土からクレタ島への移住)は、その生物考古学的証拠で異なっているので、そうした証拠は、考古学的仮説単純な証明としてではなく、過去の移動性の複雑さの解明を可能とする追加の視点として見られねばなりません。
最後に、近親婚の証拠は、ヒトの移動性と社会的慣行に関して別の層を追加します。1949年の基礎的な研究以来、交叉イトコ婚の減少は人類学で大いに議論されてきており、その議論では、現在の社会において、交叉イトコ婚の証拠は、寛容による一般的な慣行から近視まで多様です。さまざまな社会的・経済的。生態学的主張が、その根底にある理由として提起されてきており、たとえば、地理的孤立や地方特有の病原体の圧力や継承された土地の保全性などです。生計に特有の必要性(たとえば、局所的恒久性を強制するオリーブの栽培)と組み合わされたいくつかの要因の組み合わせが、エーゲ海地域においてこの慣行強制したかもしれません。しかし、小さな人口規模はおそらく、エーゲ海地域における要因ではなく、それは、本論文の分析で示された短い範囲のROHの減少が、より大きな人口規模と一致するからです。
さらに、交叉イトコ婚は、さまざまな大きさの島々やギリシア本土などさまざまな地理的状況で行なわれ、紀元前二千年紀のいくつかの場所(たとえば、ハニア遺跡)では明らかではありません。将来の研究は、結婚慣行の出現と連続性と消滅の原因となった要因をさらに解明する必要があります。これまで、先史時代エーゲ海地域における交叉イトコ婚の重要性は、めったに証明されない(関連記事1および関連記事2)先史時代の族内婚について、現時点で利用可能なデータでは独特です。これは、農村社会対都市社会の結婚慣行に関してのさまざまな観点、および/もしくは、結婚慣行が文化的影響を受けやすく、経時的に変化したことを示唆しているかもしれません。統合的な生物考古学的観点からの、結婚もしくは居住規則を含めての過去の葬儀慣行と社会構造との間の相互作用の研究が可能になったばかりで、将来の研究は過去の社会的帰属の理解を洗練するのに役立つでしょう。
参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2023): Ancient DNA reveals admixture history and endogamy in the prehistoric Aegean. Nature Ecology & Evolution, 7, 2, 290–303.
https://doi.org/10.1038/s41559-022-01952-3
その結果、クレタ島の初期農耕民は他の同時代の新石器時代のエーゲ海の人々と同じ祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を共有していた、と分かりました。対照的に、新石器時代末とその後の前期青銅器時代は「東方」からの遺伝子流動により特徴づけられ、それはクレタ島ではおもにアナトリア半島起源でした。中期青銅器時代までのギリシア本土における追加のヨーロッパ中央部/東部祖先系統についての以前の調査結果が確証され、そうした遺伝的痕跡はクレタ島で紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけてじょじょに現れ、この期間には島嶼部に対する本土の影響が強化された、とさらに示されます。エーゲ海地域内の生物学的および文化的つながりも、世界規模の古代DNA記録では前例のない高頻度で行なわれていた族内婚の発見により裏づけられます。この結果は、遺伝的混合や結婚やその他の文化的慣行の相互作用の解明について、エーゲ海における考古遺伝学的手法の可能性を浮き彫りにします。
●研究史
エーゲ海は、ヨーロッパと近東との間の地域を超えた社会的変容の理解にとってひじょうに重要な地域として、長く認識されてきました。すでに紀元前七千年紀には、最初の農耕共同体がエーゲ海地域に出現し、それにより最初の証拠がクレタ島で発掘されました。つまり、クノッソス(Knossos)のその後の宮殿の下に位置する最古の居住層ですが、これらの人口集団の起源は曖昧なままです。エーゲ海地域の先史時代における次の大きな変容は、前期青銅器時代(EBA、紀元前3100~紀元前2000年頃)に起きました。複雑な社会が出現し、それは洗練された建築や冶金や印章体系や青銅器時代地中海東部交流網におけるエーゲ海地域の統合により特徴づけられます。紀元前三千年紀後半には、ギリシア本土では深刻な社会的崩壊があり(前期ヘラディック2期末)、その影響は後の紀元前二千年紀初期となる中期ヘラディック期まで続きました。この混乱の原因はさまざまで、劇的な気候変化や新たな集団の到来などです。クレタ島では、こりに匹敵する衰退期はなかったようです。中期ミノア期となる紀元前19世紀における最初の宮殿の出現とともに、クレタ島の社会は芸術や建築や社会的慣行におけるこれまで知られていなかった洗練へと変容しました。
わずか数世紀後、中期青銅器時代(MBA)後期(ギリシア本土では中期ヘラディック期)には、地元エリートの最初の豊かな竪穴墓(shaft graves)がギリシア本土南部に出現し、ミノアの影響を示すことが多くありました。竪穴墓期における台頭するエリート間の競争は地域紛争につながり、ギリシア本土における多くの局所的支配圏の衰退と、おそらくは紀元前15世紀におけるクレタ島への最初のギリシア本土からの軍事遠征において頂点に達しました。この紛争の末に、宮殿期(後期ヘラディック3A~B)が、ミケーネやティリンスやピュロスやアテネやラコニアのヴァシレイオスやテーベやオルコメノスやディミニを中心とするいくつかの著名な政体で始まりました。この間に、ギリシア本土の中心地によるクレタ島への影響は強まり、クノッソスやハギア・トリアダ(Hagia Triada)やハニア(Chania)といった重要な宮殿の中心地や都市をクレタ島の大半の管理のための前哨地点へと変えることで、クレタ島の資源は組織的に利用されました。これまで、エーゲ海地域における過去のヒトの移住は、考古学および文献の証拠に基づいておもに再構築されましたが、生物考古学的研究は、最近の議論において新たな情報を追加してきました。
古代DNAに基づく生体分子手法は、過去10年間に先史時代エーゲ海研究で導入されてきました。最初の古代DNA研究はミトコンドリアゲノムを分析し、クレタ島の外からの移住ではなく、在来の発展を強調しました。その後の研究は核DNAデータを生成し、エーゲ海新石器時代人口集団の共通の遺伝子プールを示し、ギリシア本土の南部は北部とは、イラン/コーカサスの初期完新世人口集団とのより高い遺伝的類似性において異なっていた、と示唆しました。他の研究では、青銅器時代(BA)クレタ島(ミノア)とギリシア本土南部(ミケーネ)両方の人口集団における、この「東方(イラン/コーカサス)」の存在が報告されました(関連記事)。しかし、最後となる「東方」の遺伝的構成要素には、ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WES)もしくはアルメニアと関連する追加の祖先系統がありました。最近の研究はBAエーゲ海の標本抽出範囲をギリシア本土北部とエーゲ海諸島に拡大し、以前の調査結果を確証し、ギリシア北部のMBA個体群におけるより高いWES関連祖先系統も報告しました(関連記事)。
エーゲ海以外の最近の考古遺伝学的研究は、過去の社会的組織および構造の要素としての生物学的情報の統合に取り組んでおり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、それにより、関連する自己認識は生物学的親族関係だけで決定されるわけではない、と認識する必要があります。エーゲ海地域における過去の親族関係に対するほとんどの手法は、形態計測および非計量分析に基づいており、最初のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に基づく研究は不成功でした。しかし、エーゲ海BAから得られたこの一連の証拠の可能性は際立っており、それは、局所的な共同体内の社会的帰属の表現および構成としての集団埋葬の豊富さのためです。
●考古遺伝学的データセット
この研究は、エーゲ海地域の新石器時代(6個体)と青銅器時代(95個体)と鉄器時代(1個体)の先史時代102個体の新たなゲノム規模データを生成し(図1)、それにより、以前に刊行されてデータセットから標本規模で4倍に達しました。この標本は、地理的および時間的分布のため、たとえば結婚慣行など、これら先史時代の社会へと織り交ぜられた混合史と他の生物学的側面の複雑な特徴に取り組めます。以下は本論文の図1です。
エヴィア(Euboea)島のネア・スティラ(Nea Styra)やエギナ(Aegina)島のラザリデス(Lazarides)は新石器時代後の遺跡で、紀元前2200年頃の議論されている崩壊の前の期間(ギリシア本土の前期ヘラディック2期末)が含まれます。ギリシア本土とエーゲ諸島の残りの個体は、後期青銅器時代(LBA)のミケーネ文化に分類され、アイドニア(Aidonia)やグリカ・ネラ(Glyka Nera)やラザリデスやコウコウナリス(Koukounaries)やミグダリア(Mygdalia)やティリンスといった遺跡から得られました。
データのほとんどはクレタ島に由来し(102個体のうち62個体)、その時間横断区は、アポセレミス(Aposelemis)遺跡の紀元前七千年紀後期~紀元前六千年紀初期となる新石器時代初期段階と、ハギオス・チャラランボス(Hagios Charalambos)遺跡の前期~中期ミノア期と、ハニア(Chania)遺跡とアポセレミス遺跡とクロウソナズ(Krousonas)遺跡の後期ミノア期を含む青銅器時代(BA)を網羅しています。アポセレミス遺跡とハニア遺跡のXAN035(紀元前1700~紀元前1450年頃)を除いて、他の後期ミノア期個体は全て、年代が紀元前1400~紀元前1100年頃(後期ミノア期2~3期)です。ネア・スティラ遺跡とミグダリア遺跡とBAのアポセレミス遺跡とクロウソナズ遺跡とアイドニア遺跡とハギオス・チャラランボス遺跡の分析された骨格遺骸は全て、同じ遺跡内の集団埋葬状況に属し、後者については、ペスト菌(Yersinia pestis)とサルモネラ菌(Salmonella enterica)も最近検出されました。
抽出された古代DNAはゲノムライブラリへと形質転換(不死化)され、その一部は祖先系統の情報をもたらす1233013の一塩基多型(SNP)で濃縮され(124万SNP)、配列決定データは古代DNAの保存と汚染について評価されました。エーゲ海地域個体群の推測では、ゲノム規模データの得られた全ての以前に刊行された同時代の個体群が再評価されました。ゲノム規模データの得られた骨格遺骸のうち43点の放射性炭素年代測定も行なわれました。
●エーゲ海人口集団の地域横断的な遺伝的絡み合い
祖先系統の差異を視覚化するため、まず現代のユーラシア西部人口集団で主成分分析(PCA)が実行され、最初の2主成分(PC)にエーゲ海およびその近隣地域の古代の個体群が投影されました(図2)。新石器時代のアポセレミス遺跡の6個体は他の初期ヨーロッパおよびアナトリア半島/エーゲ海農耕民とクラスタ化し(まとまり)、新石器時代クレタ島の遺伝子プールはその期間におけるより広範なエーゲ海地域と関連している、と示唆されます。その約2000年後、EBAとMBAの個体群はPC座標でかなりの変化を示し、PC2に沿って前期完新世イラン/コーカサスおよびその子孫である銅器時代とBAのアナトリア半島人/BAコーカサス人へと動きます。この変化は一様ではないようで、それは、同じ竪穴墓に埋葬されたネア・スティラ遺跡の5個体が、かなりの遺伝的差異を示すからです。最後に、LBA個体群はそれ以前のBA個体群から逸れ、BAヨーロッパ中央部および東部の方へと動いており、新石器時代以降のエーゲ海地域における多段階の遺伝的変化が示唆されます。以下は本論文の図2です。
PCAから得られた観察が通時的な遺伝子流動事象と一致するのかどうか形式的に検証するため、f4形式(ムブティ人、検証対象;アナトリア農耕民、エーゲ海集団)のf4統計が用いられ、さまざまなエーゲ海地域集団がエーゲ海の東方のアナトリア半島農耕民と対比されました。新石器時代イランのようにずっと東方の集団との類似性は、新石器時代アポセレミス遺跡個体(もしくはAPO004)でたどれるものの、有意な水準に達するのはネア・スティラ遺跡のEBA集団だけで、その後は、後のエーゲ海BA集団のほとんどで東方の集団との類似性は優勢になります。しかし、LBA個体群はさらに、同時代もしくはそれ以前(中石器時代)のヨーロッパ中央部および東部の人口集団とアレル(対立遺伝子)を共有しており、たとえば、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ドイツの「縄目文土器(Corded Ware)」文化集団(縄目文_土器)、ロシアのサマラ(Samara)遺跡のEBAのヤムナヤ(Yamnaya)文化集団(ロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤ)、コーカサス北部集団(ロシア_北部_コーカサス)です。さらに、これらの集団から得られた混合の証拠は、混合f3検定で確証されました。
●新石器時代から前期・中期青銅器時代
f統計から情報を得て、ソフトウェアqpAdmを用いて形式的な混合モデルが調べられました。まず、各個体を新石器時代(N)アナトリア半島西部の姉妹集団(アナトリア_N)として扱った非混合モデルが、次に新石器時代イラン(イラン_N)とEEHGを順次追加するモデルが検証されました(図3)。かなりのEEHG率がギリシア本土北部のLBAおよびMBA2個体について約5%~25%で適合し、そのうちの一部についてより単純なアナトリア_Nとイラン西部_Nのモデルも適切だった理由を説明します。とくに、イラン/コーカサス関連の遺伝子流入は、ギリシア本土の、それ以前新石器時代の刊行されている個体群(紀元前五千年紀頃となるペロポネソス半島のI2318とI709とI3920)と、その後ではあるものの、エヴィアとエギナとコウフォンシア(Koufonisia)のEBA個体群のほとんどでも推測されています。
全体的に、後期新石器時代(LN)からEBAにかけての遺伝的異質性は時間とだけ相関しているわけではなく、それは、ネア・スティラ遺跡の墓の男性個体群には、ひじょうにさまざまな割合のイラン関連祖先系統があるからです。ギリシア本土と島嶼部のLNとEBAの個体群にDATESを適用することにより、紀元前4300±250年頃となる平均混合年代が得られ、ネア・スティラ遺跡個体群のみから推測すると、わずかに新しくなります(紀元前3900±460年頃)。混合年代におけるこの相違も、最初の新石器時代エーゲ海共同体の確立に続いての、エーゲ海地域東方からの侵入してくる個体群との継続的な生物学的混合も裏づけます。以下は本論文の図3です。
qpWaveを用いてのクレード(単系統群)性検定で、さらに遺伝的異質性が評価されました。この結果から、EBAのエヴィア遺跡とエギナ遺跡とコウフォンシア遺跡の個体群内でのさまざまな組み合わせは、参照人口集団一式の観点で相互にクレード的と確証され、同年代の集団間でかなりの遺伝的差異を浮き彫りにします。完全に対照的に、前期~中期青銅器時代(EMBA)クレタ島では、非クレード的な組み合わせの割合(741組のうち25組)は、P値の均一な分布を考えると、切断5%で却下されるクレード的な組み合わせの真のモデルで予測されるものです。
混合推測の解像度を高めるため、先行研究において説明された「競合」手法に続いて、クレタ_アポセレミス_N(6個体)とギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBA(13個体)とクレタ_EMBA(29個体)個体群のまとまりで、qpAdmが繰り返されました。アポセレミス遺跡個体については、アナトリア半島中央部のボンクル(Boncuklu)遺跡の無土器農耕民が参照人口集団に含まれると、アナトリア西部_Nからの1方向モデルが適切でしたが、供給源としてアナトリア半島中央部農耕民での1方向モデルは、アナトリア西部_Nを参照に追加しない場合でさえ失敗しました。
続いて、より古いエーゲ海農耕民からの2つの子孫となるギリシア本土南部_LN-EBAおよびクレタ_EBA集団の違いが、これら在来の農耕民とさまざまなアジア南西部人口集団の2方向モデルでモデル化されました。アポセレミス_Nを含む2方向モデルのほとんどは却下されませんでしたが、低いSNP網羅率とアポセレミス_Nの小さな集団規模に起因する解像度減少が示唆されました。対照的に、在来の供給源と代わりにアナトリア西部_Nがモデルに含められると、コーカサス南部_銅器時代(En)/BAからの追加の28%の寄与が、ギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBAでは適していました(図3b)。したがって、クレタ_EMBAについては、追加の祖先系統はアナトリア_後期銅器時代/前期青銅器時代(LC-EBA)でより適切にモデル化されました。しかし、このモデルはイラン西部_Nからの追加の最小限の構成要素(5%)での3方向としてのみ適切になりました。
●中期~後期青銅器時代のエーゲ海地域における移動性
LBA集団と鉄器時代(IA)個体群について、対応する子孫集団(ギリシア本土南部・島嶼部_LN-EBAとクレタ_EMBA)と、紀元前3500~紀元前1000年頃となるいくつかのヨーロッパの人口集団から混合モデルが調べられました。以前の分析から情報を得て、あり得る第二の供給源は、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のEBA牧畜民(本論文では、ユーラシア西部草原地帯_ En-BAとしてまとめられ、通常はWESと表されます)などの人口集団、およびそれらと密接な遺伝的類似性を共有すると示される人口集団に限定されます。
これらのモデルがまず、クレード性検定(qpWave)が均質なクラスタとしての分類と一致する場合のみ、「遺跡_期間」集団で検証されました。ハニア遺跡のより大きな集団内では、クレード性からの逸脱はより高頻度(10%程度)で、PCAにおけるEBA~LBA勾配の両端に位置する特定の個体群におもに起因しました。これらが混合モデル化において有意な違いをどのように反映しているのか調べるため、ハニア遺跡集団が以下の3下位集団で分析されました。それは、ハニア_LBA(XAN030)、ハニア_LBA_ a’(XAN014とXAN028とXAN034)、ハニアLBA_ b’(他の全ての個体)です。
LBAエーゲ海集団のほとんどのモデルに適切に一致する、ヨーロッパの東部から中央部と南部にまたがるさまざまな供給源が見つかりました。BAブルガリアもしくはBAシチリア島個体群のより小さく均質な標本は、適合しませんでした。セルビア(EBA)とクロアチア(MBA)とイタリア(EMBA)の個体群とのモデルはほとんどの期間で適切でしたが、ユーラシア西部草原地帯_ En-BA、もしくは一部のヨーロッパ中央部供給源(たとえば、ドイツ_LN-EBA_縄目文土器)とのモデルは、P値≥0.01切断において全ての集団で適切でした。したがって現時点では、この遺伝的類似性の由来する地域をより厳密に特定することはできません。
ギリシア本土南部の集団間では、WES(ユーラシア西部草原地帯牧畜民)関連祖先系統の推定率は重複しており、平均22.3%ですが(図4a)、ギリシア本土北部のログカス(Logkas)遺跡個体(43~55±4%)よりもかなり低くなっていました。IAティリンス遺跡個体については、有意な違いは認められず、限定的な証拠ですが、少なくともティリンス遺跡については、BA末の後の遺伝的連続性が示唆されます。ギリシア本土南部と類似の率の範囲は、近隣の島々やキクラデス諸島で観察されますが、サラミス島の1個体についてのモデルは、WES関連祖先系統を示しません。
ひじょうに対照的に、クレタ島では、WES関連の率は0~約40%までさまざまで、有意に異なる率の3集団でクラスタ化されます。最小限もしくは全くないWES祖先系統の個体群で、最古となるのは紀元前17世紀もしくは紀元前16世紀ですが、紀元前12世紀のクロウソナズ遺跡とアルメノイ(Armenoi)遺跡の最新となる個体群は、最高量の一部を有しています。しかし、ハニアの古代都市内では、約3世紀の短い期間にまたがる個体群は全範囲を示しており、分岐した人口集団間の混合の初期段階と一致するパターンです。以下は本論文の図4です。
クレタ_LBAにおけるこれら顕著な祖先系統パターンをより深く理解するため、図4aの第三区画の全ての個体(ギリシア本土の南北両方)で構成される「ギリシア本土_MLBA」に含められる第二供給源候補の置換により、競合混合モデルが検証されました。比較のため、分類された標的「島嶼部_LBA(エヴィア島とエギナ島とサラミス島とキクラデス諸島)」、ギリシア本土南部、ギリシア本土北部で、同じモデルも検証されました。ただ、そうした地理の人為的細分化が、過去の分類を反映していない可能性に要注意です。結果は図4bにまとめられています。供給源の置換により、一部の以前に適切だった供給源(たとえば、島嶼部_LBAにとってのイタリア_BA)が却下されました。
全体的に、セルビア_EBAやクロアチア_MBAやイタリア_BAのような近位供給源は、ギリシア本土と島嶼部両方の集団のモデル化に失敗しましたが、ヨーロッパ中央部もしくは東部供給源でのモデルは適切なままでした。しかし、上述の供給源すべてと「ギリシア本土_MLBA」での2方向モデルは、クレタ島の全てのLBA個体群(クレタ_LBA)のアレル頻度と適合します。これは、クレタ_LBAの2クラスタが別々にモデル化しても適合しましたが(図4a)、高いWES祖先系統を有するクレタ_LBA(個体XAN030とKRO008とKRO009、および刊行されているアルメノイ遺跡個体)では適合せず、「ギリシア本土_MLBA」の1供給源のみが適切になりました。
●性別の偏りと生物学的親族関係と結婚慣行への洞察
先行研究では、イベリア半島や中央部やブリテン島のようなヨーロッパの一部地域において、BAにおけるユーラシア草原地帯と関連する大規模な遺伝子流動が、Y染色体ハプログループ(YHg)R1a・R1bの優勢、もしくは男性に偏った混合さえもたらした、と示されてきました(関連記事)。エーゲ海地域については、常染色体のほとんどと比較しての、男性のX染色体上の有意により低いWES関連祖先系統の割合も推定され、これは男性に偏った混合と一致します。
しかし、紀元前16世紀以後(LBAおよびIA)の男性30個体のうち4個体のみが、YHg-R1b1a1bでした。残りの個体は、EBA/MBA個体群と同様に、YHg-J・G/G2の高い割合を証明します(59個体のうち、それぞれ39個体と10個体)。これはすでに、前期完新世イラン/コーカサスとアナトリア半島およびヨーロッパの農耕民に存在しており、銅器時代のアナトリア半島とレヴァントでも同様にひじょうに一般的で(関連記事)、前期新石器時代以来のエーゲ海地域とアジア南西部の人口集団間の接触の重要性を浮き彫りにします。
先史時代の集団埋葬における生物学的近縁性とその表現は、エーゲ海地域ではさほど理解されていません。本論文では、LBAと年代測定された集合建物内乳児墓から得られた、生物学的に親族の集団の表現について最初の証拠が提示されますこれは、エーゲ海地域において新石器時代の以来存在しましたが、MBA以降により一般的になりました。ミグダリアにおけるミケーネ期(LBA)集落内に位置する小さな石棺墓は、集落の家屋の下の、周産期乳児の少なくとも8個体と、子供6個体の主要な土葬でした。これら乳児の7個体での近縁性の程度の推定と、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)ハプログループの分類により、乳児の親族関係を単一の拡張家族系図で解決でき、乳児6個体は子供で、1組の夫婦の孫でした(図5)。7番目の個体(MYG004)はこの家族の直接的な子孫ではありませんでしたが、母系を通じて3親等でMYG005と関連しており、おそらくはMYG005のイトコでした。以下は本論文の図5です。
生物学的近縁性の追加の証拠はアイドニア遺跡に由来し、1親等~3親等の親族の組み合わせが、ラシティ(Lasithi)平原のハギオス・チャラランボス遺跡の岩室墓(chamber tomb)3基と骨壺内に埋葬されている個体群で決定されました。ハギオス・チャラランボス遺跡で調べられた個体群は、混合した骨格の二次堆積を表していますが、洞窟の特定の区画からすべて発掘されました。密接な親族(1親等~2親等)のいくつかの組み合わせの他に、多くの組み合わせが遠い親族を表しています。
遠い遺伝的近縁性のこの高頻度に加えて、遺伝子型決定データでのhapROHの実行により同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)から推定された(関連記事)、異常に高水準の親族関係(27個体のうち約50%)も報告されます(図6a)。個々のROH柱状図は、イトコや半キョウダイ(両親の一方のみを同じくするキョウダイ)やオバ/オジとオイ/メイ程度の近縁パターンの両親についての関連予測とより一致します。しかし、遺伝的組換えと古代人標本でしばしば損なわれる網羅率の確率論的性質を考えると、1個体のゲノムは予測と派手に一致するだけかもしれません。したがって、あり得るイトコ同士の結婚の事例と累積柱状図を組み合わせると、他のシナリオよりもイトコ同士という両親の親族関係が有利です。頻繁な遠い親族とイトコ同士の結婚についての証拠を組み合わせると、そうした個体群は通常イトコ同士の近親結婚が行なわれていた小さな族内婚共同体を形成していた、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
興味深いことに、族内婚はハギオス・チャラランボス遺跡に固有の特徴ではありません。推奨されるSNP網羅率閾値を満たす全ての期間のエーゲ海地域の他の61個体にこの手法が適用されました。合計で、個体の30%程度は最長のROHの塊におけるROHのほとんどを有しており、イトコもしくはマタイトコと同等の程度で近縁の両親の子供であることと一致する、と分かりました(図6a)。密接な親族結婚により生まれた子供は、新石器時代からLBAを通じて特定されましたが、不均一な標本抽出のため、時間的傾向に関する結論を引き出せません。族内婚はサラミスやラザリデスやコウコウナリスやコウフォンシアといったより小さな島々においてもより高頻度で存在しましたが(50%)、全体的にはエーゲ海地域で一般的だったようです。族内婚の観察された高頻度は、世界規模のDNA記録の他地域(関連記事)ではこれまで証明されていないような、先史時代エーゲ海地域におけるかなり一般的な社会的慣行を通時的に示します。
最後に、新石器時代のアポセレミス遺跡個体群では、標本の組み合わせ間の不適正塩基対のアレルかなり減少した割合により測定された、遺伝的多様性の低下が観察されました。この兆候はいくつかの理由による可能性があります。第一に、より低いP0はアポセレミス遺跡個体群が小さな族内婚共同体だったことと一致するでしょう。しかし、長いROHの推測に充分な網羅率の唯一の個体である個体APO004における長いROHの欠如は、この仮説を裏づけません。第二に、対での多様性低下は、2親等程度の親族の複数の組み合わせを表しているかもしれません。しかし、すべての組み合わせを単一の一貫した系図に適合させるには、個体APO004とAPO028の組み合わせである全キョウダイ【両親が同じキョウダイ】唯一の組み合わせを除いて、6個体すべてが母方もしくは父方の半キョウダイでなければなりません。全個体における低いSNP網羅率のため、片親性遺伝標識はそうした系図を除外も確証もできませんが、その高い特殊性により、それは可能性の低いシナリオと考えられます。
最後に、人口規模の長期的減少、つまりボトルネック(瓶首効果)はより低い人口集団異型接合性をもたらす可能性があり、そうした兆候は以前に、狩猟採集民とカルディウム(Cardial)新石器時代イベリア半島人で報告されました(関連記事)。そうした浮動的人口集団の個体群は、4~8cM(センチモルガン)とより短いROHを示すと予測され、現時点では、APO004など低網羅率の個体群では検出できません。このシナリオをさらに裏づけるように、アポセレミス遺跡個体群内の推測される異型接合性(h)も減少しており(h≈0.1)、平均的な対での多様性(P0≈0.2)が人口集団の多様性を表しており、密接な親族の組み合わせを表していない、と仮定すると、予測に近くなっています。要するに、現時点での証拠は、アポセレミス遺跡の初期農耕民が小規模な人口集団の子孫だった、とするシナリオと最も一致します。
●考察
本論文の大規模な考古遺伝学的手法は、エーゲ海地域先史時代におけるヒトの移動性の役割に関する新たな証拠を提供します。近親婚の高頻度の前例のない発見は、考古学的記録では証明されていない文化的慣行を明らかにします。
まず、クノッソス遺跡における最初の層に約1000年選好するアポセレミス遺跡の新石器時代墓地に関する分析は、最初の新石器時代移住者のアナトリア半島起源を示唆しており、建築・古植物学・石器の証拠と、それら最初期の層における畜産も示唆する野生および家畜化された動物相の最近の評価と一致します類似の遺伝的つながりが同時代のギリシア本土人口集団で観察される一方で、他のエーゲ海諸島の中石器時代と新石器時代の人口集団の遺伝的影響は不明なままですが、航海伝統の新石器時代の前の島嶼部発生段階の証拠から、将来の研究において新石器時代生計慣行の取り込みにおける狩猟採集民の役割をさらに解明する必要があります。したがって、アポセレミス遺跡人口集団の減少した異型接合性は、紀元前七千年紀前半にクレタ島に植民し、一定期間生物学的に孤立したままだったか、すぐ近くの島々もしくはから到来した遊動的な小規模人口集団のままだったか、あるいは両者の組み合わせだった、アナトリア半島農耕民の小さな人口の合着(合祖)としてとして解釈できるかもしれません。
続いて、本論文の調査結果から、クレタ島の遺伝的景観は紀元前六千年紀前半以降にかなり変わり、本論文のqpAdmモデル化および混合年代測定で推定されるアナトリア半島人口集団の流入により特徴づけられる、と示唆されます。興味深いことに、東方からの遺伝子流動はLN以降にギリシアの他地域(エヴィア島やエギナ島やキクラデス諸島)でも明らかですが、より一時的で、コーカサスの人口集団に向かっているようです。さらに、YHgは未解決ですが、男性の族外婚が、近隣の遺跡の生物距離からの証拠と一致する、ネア・スティラ遺跡の男性個体群における不均質な遺伝的特性への妥当な寄与要因として議論されるべきです。全体的に、より均一な標本抽出が重要ですが、現在のデータは、東方からの遺伝子流動がエーゲ海地域全体で対称的ではなかったことを裏づけているようです。
紀元前三千年紀後半において集落転移を介してエーゲ海地域とバルカン半島で明らかな生活の混乱は、社会構造の崩壊および/もしくは気候面の課題と関連しているかもしれません。ギリシア本土のMBAおよびLBA人口集団における「北方」祖先系統の発見は、大規模な人口置換を裏づけるものの、南北の勾配はこの移住と人口混合の方向性を示唆します。「セルビア_EBA」もしくは「ブルガリア_BA」のようないくつかの推定される近位供給源は、多くの集団においてこの「侵入してくる」祖先系統のモデル化に失敗し、YHg-R1bはLBAエーゲ海地域集団ではむしろ稀で、その全ては、ヨーロッパ中央部および西部の他地域と比較して、BAバルカン半島およびギリシアにおける異なる移住動態を示します。
LBAクレタ島およびギリシア本土の人口集団に関して、より直接的な人口統計学的つながりを提案できます。クレタ島における宮殿中心地とエリートの象徴を標的とする破壊の層位(後期ミノア期1B)に続いて、物質文化と葬儀建築と埋葬慣行は、伝統的にミケーネ文化に分類されてきた特徴がある革新を表現している、と考えられています。これらの理由に基づいて、ギリシア本土からの人々によるクレタ島への侵略(紀元前15世紀頃)が提案されてきたものの、依然として激しく議論されています。この論争を決定的に解決することはできませんが、遺伝学的分析から、より大きな港湾都市におけるクレタ島の人口集団は、数世紀の間にクレタ島へと到来した人口集団と生物学的に混合した、と論証されます。LBAエーゲ海地域内で最高の割合のWES関連祖先系統の一部を有する個体群の存在(クレタ_LBA_集団C)は、ギリシア本土がクレタ島へ侵入してきた人々の唯一の供給源だった、というシナリオと一致するにも関わらず、より遠い地域(たとえばイタリア)からの人口集団がクレタ島のLBA移行に寄与した、とも提案でき、それは同様に物質文化において支持される可能性です。
本論文で提案された全ての異なる移住(新石器時代とEBAにおけるクレタ島への移住、LBAの前におけるギリシア本土への移住、LBAにおけるギリシア本土からクレタ島への移住)は、その生物考古学的証拠で異なっているので、そうした証拠は、考古学的仮説単純な証明としてではなく、過去の移動性の複雑さの解明を可能とする追加の視点として見られねばなりません。
最後に、近親婚の証拠は、ヒトの移動性と社会的慣行に関して別の層を追加します。1949年の基礎的な研究以来、交叉イトコ婚の減少は人類学で大いに議論されてきており、その議論では、現在の社会において、交叉イトコ婚の証拠は、寛容による一般的な慣行から近視まで多様です。さまざまな社会的・経済的。生態学的主張が、その根底にある理由として提起されてきており、たとえば、地理的孤立や地方特有の病原体の圧力や継承された土地の保全性などです。生計に特有の必要性(たとえば、局所的恒久性を強制するオリーブの栽培)と組み合わされたいくつかの要因の組み合わせが、エーゲ海地域においてこの慣行強制したかもしれません。しかし、小さな人口規模はおそらく、エーゲ海地域における要因ではなく、それは、本論文の分析で示された短い範囲のROHの減少が、より大きな人口規模と一致するからです。
さらに、交叉イトコ婚は、さまざまな大きさの島々やギリシア本土などさまざまな地理的状況で行なわれ、紀元前二千年紀のいくつかの場所(たとえば、ハニア遺跡)では明らかではありません。将来の研究は、結婚慣行の出現と連続性と消滅の原因となった要因をさらに解明する必要があります。これまで、先史時代エーゲ海地域における交叉イトコ婚の重要性は、めったに証明されない(関連記事1および関連記事2)先史時代の族内婚について、現時点で利用可能なデータでは独特です。これは、農村社会対都市社会の結婚慣行に関してのさまざまな観点、および/もしくは、結婚慣行が文化的影響を受けやすく、経時的に変化したことを示唆しているかもしれません。統合的な生物考古学的観点からの、結婚もしくは居住規則を含めての過去の葬儀慣行と社会構造との間の相互作用の研究が可能になったばかりで、将来の研究は過去の社会的帰属の理解を洗練するのに役立つでしょう。
参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2023): Ancient DNA reveals admixture history and endogamy in the prehistoric Aegean. Nature Ecology & Evolution, 7, 2, 290–303.
https://doi.org/10.1038/s41559-022-01952-3
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