『歴史読本』編集部『ここまで分かった! 「古代」謎の4世紀』
本書は2014年7月に刊行された新人物文庫の電子書籍化で、『歴史読本』2013年12月号の特集「ここまで分かった! 謎の4世紀」の加筆・修正による再編集です。今となってはやや古いと言えるかもしれませんが、古墳も含めて4世紀の日本列島について広範に取り上げられていますし、「謎の4世紀」という表現は10代の頃には馴染み深く懐かしさがあり、その頃の見解から情報を更新できていない分野も多そうなるので、読みました。以下、とくに興味深いと思った本書の指摘を述べていきます。
日本列島最大規模の古墳群が4世紀後葉に大和盆地東南部(大和・柳本古墳群)から河内平野(古市・百舌鳥古墳群)へと「移動」したことについては、埋葬施設構造や副葬品などの変化も伴っていた、と福永伸哉氏は指摘しています。福永氏はこれを、と大和盆地東南部勢力から河内勢力へと倭の盟主権が移動した、と解釈しています。また福永氏は、これがアジア東部世界における五胡十六国時代の混乱への対応で、朝鮮半島も同様だった、との視点を提示しています。ただ、こうした倭の盟主権の移動について福永氏は、古墳時代を通じて前方後円墳という支配層の埋葬様式自体に断絶が認められないことから、政治的主導権をめぐる非平和的確執が生じても、それにより畿外勢力の覇権獲得につながるような破滅的結果の招来は回避されただろう、とも指摘しています。
三角縁神獣鏡については、製作地や卑弥呼との関連などをめぐって長い論争史があります。三角縁神獣鏡は同時代の日本列島で製作された鏡(国産鏡)とは、大きさに違いがないことや、同じ文様の鏡(同笵鏡)が多数存在する点など、明らかに特徴が異なります。さらに、その文様は「中国」よりさらに西方の文化圏に起源があると考えられ、三角縁神獣鏡の製作地を日本列島とすることはやや難しい、と岩本崇氏は指摘します。三角縁神獣鏡の分布は、近畿地方に集中しながらも、日本列島の隅々に達しており、倭王権を中心とした広域的な関係性か構築されていた、と岩本氏は推測します。さらに岩本氏は、同じ時期の同じ地域の古墳でも、三角縁神獣鏡が副葬されている場合とそうでない場合があり、継続性が乏しいことから、三角縁神獣鏡の授受は地域単位ではなく造墓集団により個別的かつ直接的に行なわれただろう、と推測します。
日本列島における漢字の受容について馬場基氏は、弥生時代後期には対「中国」関係の必要性に迫られたひじょうに閉鎖的なもので、対中関係の要請が後退した4世紀には漢字文化も後退し、5世紀半ば以降に再度対中関係の必要性から漢字文化が発展して国内政治にも利用され、仏教と律令制の導入により漢字は社会全体に浸透して普遍性を獲得した、との見通しを提示しています。もちろん、日本列島における漢字文化の浸透度合いは、平安時代と江戸時代とで大きく違うのでしょうが、仏教と律令制の導入が画期になっていることは否定できないでしょう。
日本列島最大規模の古墳群が4世紀後葉に大和盆地東南部(大和・柳本古墳群)から河内平野(古市・百舌鳥古墳群)へと「移動」したことについては、埋葬施設構造や副葬品などの変化も伴っていた、と福永伸哉氏は指摘しています。福永氏はこれを、と大和盆地東南部勢力から河内勢力へと倭の盟主権が移動した、と解釈しています。また福永氏は、これがアジア東部世界における五胡十六国時代の混乱への対応で、朝鮮半島も同様だった、との視点を提示しています。ただ、こうした倭の盟主権の移動について福永氏は、古墳時代を通じて前方後円墳という支配層の埋葬様式自体に断絶が認められないことから、政治的主導権をめぐる非平和的確執が生じても、それにより畿外勢力の覇権獲得につながるような破滅的結果の招来は回避されただろう、とも指摘しています。
三角縁神獣鏡については、製作地や卑弥呼との関連などをめぐって長い論争史があります。三角縁神獣鏡は同時代の日本列島で製作された鏡(国産鏡)とは、大きさに違いがないことや、同じ文様の鏡(同笵鏡)が多数存在する点など、明らかに特徴が異なります。さらに、その文様は「中国」よりさらに西方の文化圏に起源があると考えられ、三角縁神獣鏡の製作地を日本列島とすることはやや難しい、と岩本崇氏は指摘します。三角縁神獣鏡の分布は、近畿地方に集中しながらも、日本列島の隅々に達しており、倭王権を中心とした広域的な関係性か構築されていた、と岩本氏は推測します。さらに岩本氏は、同じ時期の同じ地域の古墳でも、三角縁神獣鏡が副葬されている場合とそうでない場合があり、継続性が乏しいことから、三角縁神獣鏡の授受は地域単位ではなく造墓集団により個別的かつ直接的に行なわれただろう、と推測します。
日本列島における漢字の受容について馬場基氏は、弥生時代後期には対「中国」関係の必要性に迫られたひじょうに閉鎖的なもので、対中関係の要請が後退した4世紀には漢字文化も後退し、5世紀半ば以降に再度対中関係の必要性から漢字文化が発展して国内政治にも利用され、仏教と律令制の導入により漢字は社会全体に浸透して普遍性を獲得した、との見通しを提示しています。もちろん、日本列島における漢字文化の浸透度合いは、平安時代と江戸時代とで大きく違うのでしょうが、仏教と律令制の導入が画期になっていることは否定できないでしょう。
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