チベット高原のトゥプト時代の古代ゲノムデータ
チベット高原のトゥプト(Tubo、吐蕃)時代の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Zhu et al., 2022)が公表されました。チベット高原(TP)文明の頂点である広大なトゥプト帝国(618~842年)は、古代中国西部全体に大きな影響力を振るいました。しかし、トゥプトの拡大が文化的だったのか人口的なものだったのかは、古代DNAの標本抽出が少ないため、不明なままです。本論文は、1308~1130年前頃となる典型的なトゥプト考古学的文化のある都蘭(Dulan)遺跡の網羅率0.017~0.867倍の古代人10個体のゲノムを報告しました。
3つの異なる墓の様式で出土した9個体は、以前に報告されたヒマラヤ南西部の古代高地人および現代の中核チベット人口集団と密接な関係を有しています。都蘭関連のトゥプト祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は、現代チベット人の形成に圧倒的に(95~100%)寄与しました。優勢なユーラシア草原地帯関連祖先系統を有する遺伝的外れ値は、アジア中央部からトゥプト支配領域への人口移動の可能性を示唆します。埋葬様式および習慣から得られた考古学的証拠と合わせると、この研究は、文化と人口両方の拡散を含む、チベット高原の北東端へのトゥプト帝国の影響を示唆しました。
●研究史
ヒトにより征服された最後の主要地域の一つになる要因となった極限環境である、世界で最も大きくて高い高原として、チベット高原(TP)は、ヒトの定着の歴史の解明を目的とする、多くのしばしば学際的な研究の焦点となってきました。学際的証拠から、TP人口集団の先史時代について新たな手がかりが得られてきました。第一は、「TPにおけるヒトの最初の到来」シナリオです。TP北東端の海抜3280m(3280 masl)に位置する中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)的な下顎は最古の古代型ヒト遺骸で、早くも16万年前頃となるTPにおけるデニソワ人的人口集団の存在を示唆します(関連記事1および関連記事2)。チベット高原中央部の尼阿底(Nywa Devu、Nwya Devu)遺跡(海抜4600m)は、TPにおける解剖学的現代人(現生人類、Homo sapiens)の最初の存在を表しており、下限年代は3万年前頃までたどれます(関連記事)。
「TPにおけるヒトの恒久的居住」シナリオに続いて、TPにおいてヒトが永続的な本拠地を築けるようにしただろう一つの要因は、充分な生存物資を得る能力でした。移動費用モデル化をチュサン(Chusang)村(海抜4270m)遺跡の考古学的データと組み合わせて、チュサン遺跡は現時点でTPにおける現生人類の恒久的居住の既知の最古(遅くとも7400年前頃)となる証拠を表している、と提案されました(関連記事)。一方、別の研究では、3600年前頃以後の新たな農耕牧畜経済が恒久的で永続的なTPにおける現生人類の居住を促進した、と主張されました(関連記事)。
TPにおける居住成功の別の重要な要因は、低酸素環境への適応でした。先行研究では、チベット人は低酸素症への適応と関連する独特なEPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)およびEGLN1(HIF-1α prolyl hydroxylase1、HIF-1αププロリル水酸化酵素1)ハプロタイプを有している、と示されてきました(関連記事)。これら独特なハプロタイプはデニソワ人的人口集団から現代チベット人へと遺伝子移入された、と考えられており、TPの上部旧石器時代住民と黄河上流農耕人口集団との間の別々の混合事象を示します(関連記事)。この仮説は片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のいくつかの研究と、ゲノム規模データの分析により裏づけられています。
先史時代TP人口集団に関する研究と比較すると、歴史時代のTPの人口史は比較的限られています。トゥプト帝国は、とくに興味深い期間として際立っています。一方では、トゥプト帝国はTPにおける最初で唯一の帝国政権でした。7世紀半ばに、10以上のチベット人部族がTP南部に位置するヤルン(Yarlung)川流域のウォ(Bod)族の下に結束しました。トゥプト帝国はすぐに、ラサ(Luosuo、現在のLhasa)を首都として成立し、そこから200年以上にわたって統治しました。トゥプトの領域は8世紀末~9世紀にかけて最大範囲に達し、西方はアッバース朝との境となる葱嶺(Congling)高原(パミール高原)、東方は甘粛省の現在の龍山(Longshan)および四川盆地西端、北方は居延海(Juyan Lake Basin)、南方は天竺(Shindh、インド亜大陸)との境まで広がっていました。
トゥプトは現代チベットの文化および独自性の形成にとっても重要で、とくにTPおよび周辺地域の現代の人口集団の民族言語学的分布に影響を及ぼしました。チベット語の方言として分類されているアムド(Amdo)チベット語の事例では、その形成は一連のトゥプトの軍事的征服に続いて、アムド地域(甘粛省と青海省とチベット北部の牧畜地域)における大規模な人口移住により促進されたようです。トゥプトの人々は在来の民族集団と統合し、しだいにアムド地域チベットの独自性と言語を形成しました。
トゥプトの台頭と拡大はユーラシア東部全体の歴史の流れに影響を及ぼしましたが、その文化および軍事的拡大の遺伝的影響はよく理解されていません。TP南西端では、2つの研究がネパールのムスタン(Mustang)郡およびマナン(Manang)郡におけるヒマラヤ山脈の遺跡の個体群を報告しており、遅くとも紀元前1317年頃となるTP人口集団の最初の遺伝的特性を提供しています(関連記事1および関連記事2)。この2つの研究は、古代ヒマラヤ人口集団と現代チベット人との間の密接な遺伝的つながりを明らかにしました。パキスタンとタジキスタンの現代の4人口集団について60個体のゲノムを分析した別の研究では、バルティスタン(Baltistan)におけるトゥプト帝国の影響は優勢な文化的拡散と少ない人口拡散を含んでいた、と示唆されました。
中華人民共和国青海省海西モンゴル族チベット族自治州都蘭(Dulan)県は、古代のシルクロード(絹の道)に沿った青海経路の主要な接続地でした。数的調査は、都蘭県における何千ものトゥプト様式墓の存在を主張し、これはTP北部におけるトゥプト関連埋葬の最も集中した地域になっています。最近の研究は、都蘭の7個体の遺伝的データを報告しましたが、3個体のみがゲノム分析の実行に用いられた一方で、他の個体は高い汚染か不充分なデータのため除外されました。しかし、その使用された3個体の網羅率はひじょうに低くて、124万データセットでの重複は85000ヶ所未満の一塩基多型(SNP)しかなく、都蘭人口集団の綿密な検査を妨げました。この研究では、都蘭県の熱水(Reshui)町のザマリ(Zamari)村の南東約2kmに位置する、海抜3180mの都蘭化隆(Dulan Wayan)貯水池遺跡(以下、都蘭遺跡と呼ばれます)の古代人10個体が標本抽出されました(図1)。以下は本論文の図1です。
墓は識別可能な類型に従って4群に分類できます。それは、石室墓と木造外棺墓と土坑墓と煉瓦室墓です。全体的に、台形の床面のある最も一般的な石室墓や、チベットにおける墨で書かれた文字のある出土品や、細長い形状の生贄用の穴などの埋葬様式と慣習に基づくと、都蘭遺跡は典型的なトゥプト様式埋葬の特徴を示します。さらに、放射性炭素年代測定法が用いられ、全ての標本で年代測定されました(表1)。1308年前頃となる外れ値の1個体(BB2011)を除いて、残りの標本は1232~1130年前頃の範囲に収まります。つまり、中国北東部の遊牧・牧畜の鮮卑(Xianbei)の人々により設立された政体である吐谷渾(Tuyuhun)が663年(つまり1950年基準で1287年前)にトゥプトに負けて併合された直後の時期です。考古学的文化と放射性炭素年代測定の両方は、都蘭遺跡のトゥプトへの帰属を裏づけ、発掘された遺骸が、TP北東端のトゥプト帝国の拡大の研究に絶好機を提示した、ということを意味します。
●都蘭遺跡の古代人のゲノム規模データ
この研究では、都蘭遺跡の10点の古代人標本からゲノム規模データが生成され、網羅率は0.017~0.867倍です(表1)。これらの標本は、トゥプト帝国期と年代測定された甘青(GanQing)地域の古代人のゲノム規模データを表しています。標本はいくつかの予備的段階で選別されました。第一に、古代DNAの特徴的な死後パターンの存在の特定により、ゲノム規模データの信頼性が確認されました。第二に、lcMLkin(関連記事)を用いて標本間の親族関係の程度が推定され、密接な関係は検出されませんでした。第三に、ミトコンドリアと常染色体に基づく手法を用いて現代人の汚染が評価されました。証拠は、全標本についてミトコンドリアDNA(mtDNA)で3%未満、angsd(Analysis of Next Generation Sequencing Data、次世代配列決定データ分析)で200以上のSNP数の全男性について核DNAの汚染で3%未満と、低水準の現代人の汚染を示しました。
次に、読み取りの両端4塩基対の切り取り後に、124万パネルを用いて、各標本について疑似半数体遺伝子型が生成されました。結果として、124万パネルで21411~682505ヶ所のSNPを網羅する10個体の遺伝子型決定データが生成されました。5万ヶ所未満のSNPの網羅率の1標本(BB2012)は「都蘭_低網羅率」と分類され、主成分分析(PCA)とADMIXTUREを含めて、個体に基づく分析でのみ使用されました。まず対でのqpWaveが実行され、本論文の標本が単一の均質な集団に属するのかどうか、検出されました。1個体(BB2013)は他の個体と顕著に異なっており、以後の分析では「都蘭_ o」と分類されましたが、他の標本は現在の解像度では均質な集団を形成し、まとめて「都蘭」と分類されました。次に、この新たなデータが刊行されている124万およびヒト起源データセットと統合されました。ヒト起源データセットは、現代の人口集団を含む分析で用いられましたが、124万データセットは他の全ての分析で用いられました。
●全体的な定性的ゲノム構造は他の高地アジア東部人と都蘭の密接な関係を示します
全体的な人口構造が、まずPCAを通じて調べられました(図2)。PCAの結果は、アジア北東部(NEA)関連とアジア南東部(SEA)関連とチベット関連の現代の人口集団で3頂点となる三角形を形成しました。アジア南東部の沿岸部と内陸部の古代の個体群はクラスタ化し(まとまり)、SEA関連のアミ人(Ami)およびタイヤル人(Atayal)に近接して投影されました。ユーラシア草原地帯の古代の個体群は、NEA関連のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団により形成される勾配の近くに投影されました。以下は本論文の図2です。
ネパールのムスタン郡およびマナン郡(MMD地域)の古代の個体群(関連記事)は、先行研究(関連記事)により報告されたチベット関連人口集団の近くに投影されました。その先行研究では、現代のチベット人口集団は3つの遺伝的クラスタ(まとまり)に分類できる、と観察されました。それは、中核チベット集団、中核チベット集団とユーラシア西部集団の混合を示すチベット北部集団、より大きなアジア南東部構成要素を有する回廊チベット集団です。
都蘭の全個体は古代MMDと重複する、と分かりました。都蘭と古代MMDは、現代の中核チベット人口集団と、黄河上流_LN(後期新石器時代)および石峁(Shimao)遺跡の個体群(石峁_LN)で表される黄河上流地域の古代の個体群(関連記事)により形成される勾配間に投影されましたが、チベット関連側とのより近い関係を示します。都蘭標本群とは異なり、外れ値個体となる都蘭_ oは現代のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団の近くに投影され、最も近いのは、先行研究で報告されたように、古代のキルギスタンのテュルク人とカザフスタンのキプチャク2(Kipchak2)遺跡個体でした。
次に、モデルに基づくADMIXTURE分析が実行されました(補足データの補足図3)。最小交差検証誤差はK(系統構成要素数)=4で観察され、SEA関連人口集団で最大化される橙色の構成要素、テュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団で最大化される黄色の構成要素、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化される桃色の構成要素、古代MMDで最大化される青色の構成要素が観察されました。都蘭集団の祖先的構成要素が、現代の中核チベット人口集団および斉家(Qijia)文化の金蝉口(Jinchankou)遺跡と喇家(Lajia)遺跡の古代黄河上流農耕民(黄河上流_LN)と最も近いことも要注意です。
都蘭は他の非古代MMD人口集団よりも青色の構成要素を多く有しており、都蘭と古代MMDとの間の密接な関係が示唆されます。類似のパターンは、対でのqpWaveおよび外群f3分析で観察できました。対でのqpWave分析における古代MMDとのさまざまな人口集団間の均質性を評価すると、現代チベットと現代ネパールと都蘭のみが、ランク0でp>0.05の結果を提供できますが、都蘭は常に、シェルパ人(Sherpa)を除いて他の人口集団よりも大きなp値を有しています。XとYとの間の共有遺伝的浮動が計算される、f3形式(X、Y;ムブティ人)形式の外群f3統計でも、現代の中核チベット人口集団と都蘭と古代MMDは、他の人口集団とよりも相互に密接に関連していました。
一般的に、都蘭と古代MMDとの間の密接な関係が分かり、TPとヒマラヤ山脈における高地人口集団と関連する共有された遺伝的特性が明らかになります。この種の祖先系統は、先行研究(関連記事)では「チベット」系統と呼ばれており、本論文の標本でも適切なままでした。ユーラシア草原地帯の古代の個体群と現代のテュルク語族およびモンゴル語族話者集団との外れ値(都蘭_ o)クラスタの発見(図2)は、トゥプト期における都蘭と草原地帯遊牧人口集団との間の関連の可能性を示唆しました。
●都蘭と高地アジア東部人口集団内のゲノム特性の詳細な調査
都蘭と他の高地アジア東部人口集団との間のゲノムの違いを定量化するため、f4形式(ムブティ人、参照;古代MMD、都蘭)のf4統計が実行されました。これにより、さまざまな場所の89人口集団を含む「参照」一式を用いて、古代MMDと都蘭の遺伝的特性を直接的に比較できます(図3A)。都蘭は古代北ユーラシア人(ANE)やユーラシア草原地帯やアジア南部の集団と有意により多くのアレル(対立遺伝子)を共有していなかったものの、古代MMDと比較すると、古代アジア北部(ANA)集団と過剰な遺伝的類似性を共有していた、と示されました。興味深いことに、都蘭は古代MMDの他の人口集団と比較してルブラク(Lubrak)遺跡個体と最も強い遺伝的類似性を示しました。つまり、f4形式(ムブティ人、参照;ルブラク遺跡個体、都蘭)のZ得点の範囲が−1.89<Z<2.91でした。以下は本論文の図3です。
先行研究(関連記事)では、ルブラク遺跡個体は「チベット」系統の最初期の既知の代表的人口集団と考えられました。次に、f4形式(ムブティ人、参照;チベット人、都蘭)のf4統計が実行され、都蘭と現代チベットの人口集団との間の関係が調べられました。ここでは、さまざまな場所の103人口集団の「参照」一式と、11の現代のチベットの人口集団を含む「チベット」集団が用いられました(図3B)。その結果、先行研究(関連記事)で報告された現代チベットの人口集団における3集団の下部構造を確証できました。さらに、都蘭は現代の中核チベット人口集団と最も密接な遺伝的特性を有している、と分かりました。
具体的には、現代の中核チベット人口集団と比較すると、都蘭はさまざまな参照人口集団と有意な遺伝的類似性を共有していませんでした。つまり、f4形式(ムブティ人、参照;中核チベット人、都蘭)のZ得点の範囲が−2.16<Z<1.73で、ここでは中核チベット人がナクチュ(Nagqu)チベット人で表されます。現代の回廊チベット人集団は都蘭と比較してSEA集団と過剰な類似性を共有しており、f4形式(ムブティ人、SEA;回廊チベット人、都蘭)のZ得点の範囲は−4.276<Z<−8.884で、SEA集団はアミ人により表されます。現代のチベット北部集団はユーラシア西部草原地帯(WES)集団と過剰な類似性を共有しており、f4形式(ムブティ人、WES;チベット北部人、都蘭)のZ得点の範囲は−2.686<Z<−3.331で、WES集団は前期青銅器時代(EBA)_ヤムナヤ_サマラ(Yamnaya_Samara)により表されます。結論として、遺伝的関係は都蘭と代表的なチベット関連人口集団との間で最も近かった、と観察されました。
チベット人口集団の起源は、黄河上流地域から高地の高原にかけての中期/後期新石器時代農耕集団およびシナ・チベット語族の拡大と関連している、と長く主張されてきました(関連記事1および関連記事2)。都蘭と他の高地アジア東部人および中期/後期新石器時代農耕民との系統発生的関係を包括的に要約し、都蘭の人口史を再構築するため次に、図に基づくqpGraph分析が実行されました。先行研究は、仰韶(Yangshao)文化と関連する小呉(Xiaowu)遺跡と汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代黄河人口集団(黄河_MN)を用いての、古代MMDと現代のチベット/シェルパ人口集団のモデル化に失敗してきており、それはおもに、悪魔の門(DevilsCave)_N(新石器時代)により表されるNA関連祖先系統の欠如に起因します(関連記事)。
したがって、さらなる分析のため、黄河関連供給源として黄河上流_LNが用いられました。全ての古代MMDと都蘭のデータは本論文の基本モデルに適合し(最低のZ得点として絶対値3未満が許容可能なモデルを示唆しました)、黄河上流_LNと関連する系統からその祖先系統の81~91%が由来します(図4)。予測されたように、都蘭とルブラクは黄河上流_LNと関連する祖先系統の割合が最も近くなっています。補完的な分析ではf4比検定が活用され、qpGraphで観察された結果が裏づけられました。現代のチベット人口集団は、同じ図でモデル化されました。現代の中核チベット人口集団と雲南(Yunnan)の現代回廊チベット人(チベット_雲南)のみがこのモデルに適合しましたが、現代のチベット北部もしくは回廊チベット集団は、最低のZ得点では絶対値3超を提供し、WESもしくはSEA関連人口集団からの追加の遺伝子流動の必要の可能性が示唆されます。以下は本論文の図4です。
次に、全ての現代のチベット集団が都蘭の基本モデルに追加されました。これらの個体群はSEAもしくはWES関連系統からの追加の遺伝子流動を受け取っており、その場合には、全ての現代チベット人集団は甘南(Gannan)のチベット北部人(チベット_甘南)を除いて、許容できるモデルを提供可能だった、と確証されました。興味深いことに、山南(Shannan)とシガツェ(Shigatse)の現代の中核チベット人口集団(それぞれ、チベット_山南とチベット_シガツェ)は、WES関連系統からの追加の遺伝子流動(1~2%)を受け取ると、より好ましいモデルを提供でき、WES関連系統からTP中央部の現代の中核チベット人口集団への遺伝子流動があったかもしれないものの、その関係は統計的に有意ではなかった、と示唆されました。
EPAS1は、低酸素環境におけるチベット人の定住成功の重要な要因と示唆されています。この独特なチベット人のEPAS1ハプロタイプは低地人口集団には存在せず、遠い過去のある時点におけるデニソワ人的人口集団からの遺伝子移入を通じてもたらされたかもしれません(関連記事)。都蘭標本群では、ひじょうに分化したEPAS1の5つのSNP配列(AGGAA、rs73926263とrs73926264とrs73926265とrs55981512)が調べられました。
これの領域全体の網羅率は浅かったものの、5つのSNP配列については、祖先的SNPと派生的SNPの数はそれぞれ4と8で、黄河上流_LNでは32と0、黄河上流_IA(鉄器時代)では24と0、古代MMDのうち、スイラ(Suila)遺跡個体では17と1、ルブラク遺跡個体では5と4、チョクホパニ(Chokhopani)遺跡個体では19と1、ルヒルヒ(Rhirhi)遺跡個体では38と35、キャング(Kyang)遺跡個体では122と182、メブラク(Mebrak)遺跡個体では131と50、サムヅォング(Samdzong)遺跡個体では94と84でした。f統計と合わせると、これらの結果は、トゥプト関連の都蘭人口集団の中核チベット人起源という仮説を裏づけ、TPにおける派生的EPAS1アレルの広範な分布を確証しました。
●都蘭の外れ値はトゥプト帝国期における都蘭とユーラシア西部草原地帯人口集団との間の関連の可能性を示唆します
都蘭の外れ値(都蘭_ o)の起源を調べるため、f4形式(ムブティ人、137参照人口集団;X、都蘭_ o)のf4統計が実行され、Xとして以前に報告されたユーラシア草原地帯人口集団が選択され、さまざまな場所の137人口集団が参照人口集団として選択されました(図3C)。全ての草原地帯人口集団のうち、テュルク関連の3人口集団で最低のZ得点が見つかり、f4形式(ムブティ人、SEA;回廊チベット人、都蘭)のZ得点の範囲は、Xとしてキルギスタン_テュルク(489年頃)とカザフスタン_キプチャク2(1100年頃)とカラカバ(Karakaba)遺跡(7~8世紀)のカザフスタン_テュルク_カラカバを用いると、それぞれ、−1.32<Z<2.07、−1.82<Z<2.15、−2.39<Z<2.36でした。
次に、対でのqpWave分析が実行されました。しかし、対でのqpWaveの結果は、都蘭_ oとこれら草原地帯人口集団のうちどれかとの間の均質性との主張を破棄できませんでした。次に、ロシアのアフォントヴァ・ゴラ(Afontova Gora)遺跡個体(ロシア_アフォントヴァ・ゴラ3)により表されるANE、悪魔の門_Nにより表されるANA、ウズベキスタンの青銅器時代のブスタン(Bustan)遺跡個体(ウズベキスタン_青銅器時代_ブスタン)により表されるバクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)と関連する可能性がある4供給源を用いて、これら4人口集団の混合割合を直接的に比較するため、qpAdm分析が行なわれました(図4C)。
その結果、キルギスタン_テュルクは都蘭_ oとほぼ同一の祖先系統割合を示した、と分かりました。カザフスタン_テュルク_カラカバが、都蘭_ o もしくはキルギスタン_テュルクと比較すると、WES関連祖先系統の増加とANA関連祖先系統の減少を示したのに対して、カザフスタン_キプチャク2はこれら可能性のある4供給源とモデル化できませんでした。Y染色体ハプログループ(YHg)R1a1a1b2a(F3568)への分類は、ユーラシア西部草原地帯からの都蘭_ oの起源について追加の裏づけを提供しました。要するに、さらなる分析は、現在の解像度では都蘭_ oとキルギスタン_テュルクを例外なく区別できませんでした。したがって、YHg分類の証拠と合わせると、都蘭_ oと同時代のアジア中央部人口集団との間の一定程度の関係があると思われます。
●考察
中国史は、現代の甘青地域(現在のアムド・チベット人の主要な分布地域)が、トゥプト軍による征服の前となる313~663年頃から吐谷渾にどのように支配されていたのか、語ります。その後の紛争により、トゥプトは7世紀後半以降継続して、領域統治と支配を強化するために、大規模な人口を甘青地域へと移住させました。トゥプトおよび唐(Tang)帝国は、甘青地域の支配をめぐって争い、シルクロードのこの東側に沿った交易網に影響を及ぼしました。都蘭遺跡で発掘された個体群の年代測定は、トゥプトが吐谷渾を打ち負かし、甘青地域の支配に努めていた後に続く重要な転機と一致していました。
都蘭では4つの埋葬様式が発見され、最も多いのは石室墓(19点)でした。この様式の墓は通常台形の床面で、トゥプト期のTPにおいてよく見られ、典型的なトゥプト様式の墓として理解されていました。たとえば埋葬M17は、都蘭では最大の石室墓で、1999年に発掘された隣接するトゥプト墓(第99DRNM2号)と類似した塚と埋葬坑と埋葬室で構成されています。これら木製の外棺墓も、都蘭では発見されました。埋葬M16では、ミイラ化したヒト遺骸が、埋葬の広範なトゥプト形式を表しています。一部の発掘されたモノには、M23の神託の骨や、M16の立方体の木塊などチベット語の墨の模様があり、トゥプトの影響の直接的影響を示します。単一の煉瓦製玄室墓は、中原地域に起源がある漢(Han)文化の影響を反映しています。都蘭にも同じ埋葬に生贄のウマを備えた土製立坑墓が含まれており、この埋葬様式はおもに、初期テュルクなどアルタイおよびアジア中央部地域全体のテュルク関連集団で見つかり、甘青地域では予期せず見つかりました。埋葬M20は、西方の伝統における円形の石塚と土葬室で構成されます。この埋葬では、散在したウマの骨も発見されました。
土坑墓を除いて、他の3様式の墓の9個体は、現代の中核チベット人口集団と区別できない均質な遺伝的集団に属していました。並行して行なわれた別の研究は、古代都蘭の人々とアジア北東部の鮮卑(Xianbei)の古代部族との間の遺伝的連続性を報告しましたが、その浅い配列決定データに起因する過剰解釈の兆候と疑われます。本論文の分析は第一に、都蘭の人々と黄河上流農耕人口集団との間の密接な関係を観察し、それはTP高地人のアジア東部北方人起源を確証しました(関連記事)。
qpGraphは都蘭人口集団を、その祖先系統の90%が黄河上流農耕民に、残りは標本抽出されていない系統に由来する、とモデル化し、複数の波の植民仮説を裏づけます。派生的なEPAS1アレルは都蘭と古代MMD人口集団で一般的に見られますが、黄河関連人口集団では観察されず、これらのアレルは黄河農耕民ではなく、より深い標本抽出されていない系統に由来する可能性が最も高い、と示唆されます。対称f4統計を通じての都蘭と古代MMDの遺伝的特性の比較により、都蘭とルブラクとの間の類似の遺伝的組成が観察され、TPにおけるチベット祖先系統の広範な分布が示されます。
第二に、現代チベット人の形成における都蘭関連のトゥプト集団の影響が調べられました。対称f4統計とqpGraphモデル化を通じて、都蘭と現代の中核チベット人集団との間の密接な関係が観察されました。具体的には、全ての中核チベット人口集団と都蘭が、黄河上流農耕人口集団(黄河上流_LN)から84~89%、残りは標本抽出されていない深い系統に由来する、2方向混合でモデル化できた一方で、現代のチベット北部人口集団は、都蘭から95~97%、残りがWES関連祖先系統に由来する、とモデル化でき、現代の中核チベット人口集団は、都蘭から98~100%、残りがSEA関連祖先系統に由来する、とモデル化できます。これらの結果は、現代チベット人におけるトゥプトの人々の顕著な影響と、TP高地人の遺伝的連続性を示唆しました。
土坑墓様式と一致して、その被葬者である遺伝的外れ値も、アジア中央部草原地帯人口集団、とくにテュルク関連人口集団とも関連している、と推定されました。トゥプト期TPのアジア中央部遊牧民の出現が特定され、アジア中央部からトゥプトの影響下のTP北東端への人口移動の可能性が示唆されます。この主張は、歴史的記録によりさらに裏づけられます。トゥプト帝国は、7~8世紀にテュルク系の人々と戦略的同盟を結びました。734年に、トゥプトの皇女(Zhuomagi)が古代テュルク系民族集団である突騎施(Turgesh)のハーン(Sulu)と結婚しました。トゥプトとアジア中央部民族集団との間の接触は頻繁に起き、その中にテュルク人とソグド人がいました。トゥプト帝国による甘青地域の占拠は、西方地域と唐王朝との間のつながりを切断するだけではなく、トゥプトが東西交易網の支配圏も得ることになりました。宝飾品や地元の製品の他に、トゥプトの人々はアジア中央部に多くの商品を売りました。これらの中には、麝香や金や銀や薬や塩やウマが含まれていました。アジア中央部草原地帯の遊牧民である反対方向からの交易商人は、武器や織物やキリスト教およびイスラム教の知識を携えてきました。以下は本論文の要約図です。
TPにおける人口動態のこの全体像は、疎らな古代DNA標本抽出により大半が不明瞭でした。本論文の新たに生成されたデータは、トゥプト人口集団の構成により多くの光を当て、チベット高地人とアジア中央部草原地帯との間の交流の直接的証拠を提供します。標本規模と発掘の将来の拡大は、TP人口史へのさらなる洞察を確実に提供するでしょう。都蘭遺跡の近くの蘭県(Xuewei)墓1号(2018DRXM1)にある吐谷渾期埋葬は、吐谷渾の王(Mohetuhun Khan)の最期の休息地と推定とされ、都蘭遺跡はTPの歴史的な墓様式をさらにさかのぼらせる可能性があります。とくに、後期青銅器時代には、都蘭県には諾木洪(Nuomuhong)文化に属する古代の人口集団が居住していました。その後、西晋(Western Jin)王朝後期以来、この地域は吐谷渾の中心地で、その後でトゥプトに併合されました。したがって、TP北東端全域、とくに局所的な諾木洪文化関連および吐谷渾関連標本の古代人ゲノムの将来の研究は、TP北部の人口史の理解に疑いなく役立つでしょう。
●この研究の限界
都蘭県にはさまざまな埋葬様式と規模の墓が多数あります。都蘭遺跡におけるより多くの標本抽出が、都蘭人口集団の遺伝的特性の包括的解明に必要です。同時代の中核チベット人集団の古代標本の欠如により、都蘭人口集団の遺伝的特性をトゥプト帝国の古代の個体群と直接的には比較できません。中核チベット地域におけるさらなる標本抽出は、TP人口史へのさらなる洞察を確実に提供するでしょう。
参考文献:
Zhu K. et al.(2022): Cultural and demic co-diffusion of Tubo Empire on Tibetan Plateau. iScience, 25, 12, 105636.
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