遺伝学とアフリカの過去
遺伝学とアフリカの過去に関する総説(Prendergast et al., 2022)が公表されました。アフリカには地球上で最大のヒトの遺伝的多様性があり、これはアフリカ大陸全体で見つかった人口構造と、遺伝的差異の観察されたパターンを形成した人口統計学的過程の広範な調査を促してきた事実です。1980年代以降、現代人のDNA研究が繰り返し、アフリカがヒト起源の発祥地で、化石および考古学的証拠と一致する、と論証してきました。最初の古代人のゲノムが2010年に刊行されて以降、古代DNAは人口史調査についてのさらなる可能性に寄与してきており、もはや存在しないかほとんど識別できない遺伝的系統への直接的な機会を提供します。現代人および古代人両方の遺伝的データは、利用可能な考古学と生物考古学と歴史言語学と文献もしくは口承の歴史的データと統合された場合、アフリカの遺伝的多様性の文脈化とそれを経時的に形成してきた生物学的および文化的過程の理解にとって重要な手法です。これまでのほとんどの研究はヒトに焦点を当ててきましたが、古代DNAは動植物の遺骸や堆積物や一部の人工物からも得ることができ、その全てはヒトの生活のより包括的な理解を可能にできます。
アフリカの過去に関する遺伝学的研究は、ヒトの起源と更新世の人口構造、および牧畜と農耕への完新世の移行に伴う人口統計学的変化の起源と方向性と速度に焦点を当てることが多くなっています。過去2000年間における国際都市や国家の台頭は、ひじょうに限定的な範囲の遺伝的証拠で調べられてきましたが、これは研究の豊かな鉱脈となる可能性があります。次第に、奴隷とされたアフリカ人の強制移住と離散の進展が、同様に遺伝学的研究の主題となりつつあります。しかしこれまで、アフリカは、ユーラシアなど世界の一部と比較して、古代人と現代人両方のDNAの観点で研究が大きく遅れています。これは、過去の研究だけではなく医療技術革新や公衆衛生も決定します。
刊行されたアフリカ人のゲノムの大半は現代人に由来しますが、アフリカ大陸の長くて複雑な人口史を考えると、過去の再構築にさいして、このデータのみに依拠することには問題があります。古代DNAは次第に、最近の人口統計学的変化に起因する20世紀と21世紀に生きている人々のゲノムではほぼ見えない過去について、新たな観点を提供しつつあります。2015年以降となるアフリカの古代DNA研究の急増は、現代人および死者両方の遺伝学的研究の倫理性に関する長年の議論も再燃させました。現在アフリカで働いている研究者は、利害関係者の関与、充分な情報を伝えたうえでの合意、生物学的標本とデータの管理を含む、倫理的問題を考慮しなければなりません。古代DNA研究においては、子孫の共同体、博物館の学芸員、生物考古学者、遺伝学者などが、これらの議論において重要な役割を担っています。
●古代DNAとその研究内容
デオキシリボ核酸(DNA)は全ての生物に見られる分子です。個体のDNAの大半は細胞の核に見られます。このDNAは核DNAと呼ばれ、両親から継承し、23組の染色体を含んでおり、その中には22組の常染色体(性染色体ではない性染色体)と1組の性染色体が含まれます。性染色体については、1組は男性も女性も母親からX性染色体を受け継ぎ、1組は父親から継承し、女性はX性染色体、男性はY染色体です。少量のDNAが細胞のミトコンドリアにも見られます。このDNAは「ミトコンドリアDNA(mtDNA)」と呼ばれ、母親から子供に受け継がれます(つまり母系沿いです)。
DNAは、ある世代から次世代へと特徴的で追跡可能かもしれない生物学的特徴について情報をもたらします。それは生物間の祖先関係や、人口集団水準における体系的な遺伝的差異です(人口構造として知られています)。DNAは生者および死者両方の生体組織から抽出できます。DNAが数十年前から数十万年前に死んだ生物から回収される場合、それは古代DNAとして知られています。古代DNAの研究は、生者から回収されたDNA(「現代DNA」と呼ばれることがあります)の研究とは大きく異なります。それは、死後にDNAが分解し始め、生存中の分枝の統合を維持していた酵素過程により修復されなくなるからです。ヒトの古代DNAは、骨や歯や歯石(石灰化した歯垢)など骨格組織から得られることが最も多いものの、毛髪やミイラ化した肉など軟組織からも回収できます。古代DNAはヒトの「痕跡」からも得ることができます。たとえば、堆積物における排泄物や分解した生体物質、あるいは人々に使われていた物質の残留物ですが、これは今までDNAの保存が最良である世界の一部においてのみ適用されてきました(関連記事1および関連記事2)。
古代DNAの保存は、温度や湿度や土壌pH(酸性度)など、無数の要因により異なります。古代DNA回収は、研究の対象である生物が寒冷で乾燥した環境と、安定した環境条件の洞窟などの場所に生息していた場合(つまり、温度が大きく変動せず、湿度も同様に変化が少ない場所)に、とくに成功してきました。さらに、古代DNAはさまざまな生体組織や他の基質で保存が異なります。古代DNA研究の進展と世界中の新たな条件への適用にとって重要となる発見は、側頭骨の錐体部の内側にある内耳骨が、同じ個体の他の骨よりも最大で数百倍以上のDNAを含む骨格要素である、ということでした。歯のセメント質は、耳小骨と同様に、古代DNAの保存にとってもう一つの最適な基質だと示されてきました。
標準的手法に従って生体組織もしくはヒトの痕跡がある物質からDNAが抽出されると、それが巧みに処理され、配列決定が準備されます。配列決定は、分子を構成する核酸、つまりアデニン(A)とチミン(T)とグアニン(G)とシトシン(C)の順番を「読む」技術です。生の配列決定データは次に、品質管理閾値を下回るデータの削除を含めて処理され、ヒト参照ゲノムに対してデータが整列され、重複分子が削除され、分離された古代DNAの信頼性が評価されます。
古代DNAデータは過去の遺伝的景観の再構築に用いられるので、研究者にとって重要なのは、配列決定され研究されるDNAが本物の内在性古代DNAである、と確証することです。本物の内在性DNAとは、DNAが対象の個体に由来し、外因性の汚染DNA(つまり、対象の生物に由来せず、その大半は環境もしくは研究者自身など現代の起源であるDNAです)ではないことです。汚染は古代DNA研究においてとくに深刻な課題で、究極的には、DNAが抽出されるだろう生体物質が選択されたさいに、ヒト遺骸の発掘中に始まります(作業において古代DNA構成要素を含む計画を立てている考古学者には、指針が刊行されてきました)。陽圧体系を通じて無菌環境として維持され、紫外線(UV)光や化学洗浄で除染されて、DNAが増幅(標的DNAの多くの同一のコピーが生成される過程)後に研究される場所とは物理的に分離され、個人の防護装置を着けた訓練された技術者のみが立ち入りできる、特殊な施設である古代DNAの「無菌室」の使用は、汚染の危険性をさらに最小化します。汚染減少のため厳格な実施要綱に従っているにも関わらず、古代の個体から抽出されたDNAが配列されるさいに、少量の外因性DNAが存在する可能性は高い、と示されています。したがって研究者は、集団遺伝学的分析の実行前に、汚染の量を評価しなければなりません。
重要なことに、古代DNAは、古代の分子に特徴的な特定の種類の損傷の存在により、汚染された現代のDNAと区別できます。具体的には、「シトシンの脱アミノ化(シトシンのヌクレオチドがウラシルのヌクレオチドに変換され、その結果、チミンとして配列決定技術に読み取られる過程)」が、DNA分子の末端にクラスタ化する(集まる)ものの、分子の内部全体では欠けている、「CからT(つまり、シトシンからチミン)」の転移の高率として古代DNAに反映されています。古代DNAに特徴的なCからTの損傷率の定量化に加えて、信頼性の評価と汚染率評価のための別の手法があります。そうした手法には、mtDNA配列もしくは男性におけるX染色体配列の一貫性評価が含まれます。(X染色体を1コピーしか持たない)男性においての全てのX染色体配列と同様に、個体のmtDNA配列の全ては同一のはずなので【ミトコンドリア内で変異型が共存しているヘテロプラスミーの場合もあります】、これらの状況でのあらゆる「不適正塩基対(ミスマッチ)」は、汚染の定量化に使用できます。汚染を評価するさらなる手法には、ゲノム内での物理的近接性に起因する偶然により予測されるよりも頻繁な、連鎖不平衡の崩壊や特定のアレル(対立遺伝子)の関連(人々のかなりの割合が同じヌクレオチドを有していないものの、代わりにその位置で見つかるヌクレオチドの選択肢が2つかそれ以上あるゲノムの位置)の評価が含まれます。
常に損傷を受けていることに加えて、古代DNAは少量しか存在しないことがよくあります。そのため、古代DNA研究史の大半は、個体の母系の追跡に使用できる片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)であるmtDNAに焦点を当てることに費やされました。各細胞の核に単一のコピーしか存在しない核DNAとは異なり、mtDNA分子は全細胞でそれぞれ数百から数千もの複数のコピーで存在します。mtDNAは母親から子供に組換え(新たな配列を作る2つのDNA分子間の遺伝的物質の交換)なしで継承されるので、同一のコピーが変換されずに(新たな変異を除いて)世代から世代へと受け継がれます。mtDNAの急速な変異と地理的にパターン化された分布は、過去と現在の個体の「ハプロタイプ(片親からともに継承された変異群)」と「ハプログループ(共通の祖先を有する片親から継承されたハプロタイプ群で、mtDNAとY染色体の両系統の参照に用いられます)」分析を容易にしました。mtDNAを補完するY染色体は、男性個体の父系の追跡に使用できます。それは、Y染色体が男性から息子へと受け継がれ、Y染色体の大半(95%程度)を構成する非組換え部位(NRY)があるからです。これら片親性遺伝標識の両方は情報をもたらすことができますが、子孫の単一系統のみを解明し、1つの系統樹のみの再構築に使用できます。これが意味するのは、片親性遺伝標識だけの研究により得られる集団史についての情報量が限定的である、ということです。対照的に、ゲノム規模のDNAは、多くの独立したゲノム部位の研究が多くの系統樹を反映しており、統計的検出力の増加をもたらし、集団史のより包括的な説明を提供します。
分野として、考古遺伝学的研究は革命の真最中にある、と考えられます。ますます、方法論的および分析的手段の詳細や、2010年代以降の研究からの重要な発見や、考慮されねばならない倫理的検討を含めて、古代DNA分析の概要は非専門家にとって利用可能なものになりつつあります。これには、アフリカの状況からの古代DNAに関する具体的に焦点を当てた要約が含まれます。
●古代DNAはアフリカの過去について何を語れますか?
古代DNAはアフリカの考古学的状況から回収されることは稀で、それは部分的には、アフリカ大陸のほとんどの高温多湿に起因する、生体分子の分解率の高さのためです。代わりに、アフリカの遺伝的過去についての知られていることのほとんどは、20世紀後半と21世紀に生きている人々のDNAに由来します。これらのデータは医学遺伝学の枠組みで収集されることが多く、疾患の遺伝性や公衆衛生の問題に焦点が当てられていることが多いものの、過去と現在の人口構造についても情報をもたらします。さらにも現代人のDNAに関する多くの研究は、明らかに進化的もしくは考古学的問題を念頭に置いて実施されており、ますます、古代人と現代人のDNAを組み合わせて、人口史の強力で大規模な分析が可能となります(関連記事1および関連記事2)。
2015年以降の方法論的進歩により、破壊を最小限にしながらの最適ではない保存条件下での古代DNA抽出が可能となり、古代DNA研究はDNAの保存が乏しいと以前には思われていた状況に適用できるようになりました。アフリカでは、これらの発展は急速に過去の理解を進めました。アフリカにおける古代DNA研究の成長は、歴史学に重要な貢献をしています。それは、現代人のDNAだけからの人口構造の再構築は不可能な場合が多いからです。人々は祖先が暮らしていたのと正確に同じ場所に住んでいる可能性は低く、全面的な人口統計学的変化、たとえば、牧畜や農耕の拡大、国際的な都市国家の台頭、強制的な移住と奴隷化に伴うものは、20世紀と21世紀にアフリカで暮らしている人々のDNAが、過去に存在した遺伝的差異の景観を直接的に表しているわけではない、と意味しています。さらに、これらの人口統計学的変化には、混合を伴う場合が多く、したがって、その時には遺伝的に区別できる集団がDNAを結びつけ、古代の遺伝的系統が、たとえ現在の人々に存続しているとしても、混合していない形態ではもはや存在していない可能性を意味します。ヒトの古代DNAは、この、さもなくば不可視の遺伝的多様性の評価と、今では消滅した「亡霊(ゴースト)系統」からの寄与の解明に重要です。亡霊系統とは、記録されている現在の人々にはたどれないものの、DNAを寄与した個体群の分析を通じて特定できる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)です。
ヒトDNAに加えて、非ヒトDNAも豊富な情報源です。たとえば、現在のアフリカの家畜と作物の遺伝学的研究は、これらの家畜と栽培作物の起源と拡大について、それに伴う人為的選択と交雑の過程についてとともに、情報をもたらすことができます。考古学者はとくに、牧畜拡大のそうした研究の意味に関心を抱いてきました。現代の遺伝学的研究は、法定相続動産である家畜と作物の系統(20世紀と21世紀の品種「改良」努力と産業化された農業により脅威に晒されています)の理解を目標として行なわれることが多く、これらの系統は重要なアフリカの生物学的遺産で、文化的遺産および伝手投擲な生態系地域とともに保護の価値がある、と強調します。残念ながら、アフリカにおける非ヒト古代DNAの研究は現時点では稀です。これは少なくとも部分的には、料理の準備の一部として過熱された、動物もしくは植物遺骸のDNA破壊のためです。2021年時点で、古代DNAはわずかな遺跡の数点の家畜および共生動物の遺骸から配列決定されました。これらの研究は、アフリカのロバの起源、ニワトリやクマネズミやイエネコやブタなど非アフリカ系分類群の導入、形態学的に類似した野生ウシ属の家畜骨格遺骸の区別など、複数の問題に光を当てるのに役立ってきました。植物の古代DNA研究は、アフリカ北部に限られたままです。古代DNAの他の情報源には、病原体が含まれます。たとえば、真正細菌のリケッチア・フェリス(Rickettsia felis)や寄生性のトキソプラズマ(Toxoplasma gondii)は、ともに現在の南アフリカ共和国で2000年前頃に埋葬された少年の遺骸で特定され、これら病原体の牧畜前の歴史の再構築を可能としました。
とくに古代人の研究を行なう場合、遺伝学的研究は孤立して行なわれるのではなく、他の形式のデータを用いて、それとともに解釈されて文脈化されるよう、設計されることを考慮することが研究者にとって重要です。遺伝学者はその解釈において、など、生物考古学および骨格形態学、考古学、歴史言語学、口承史、文献記録(利用可能で関連する場合は)など、他の一連の証拠を検討せねばなりません。これら一連の証拠は、興味深く生産的な相関と、さまざまな一連の調査間の矛盾につながるかもしれません。たとえば、ある古代DNA研究は、人口史について遺伝学と言語学の独立した一連の証拠間の比較的強い相関を見つけましたが、明確な物質文化伝統が言語および祖先系統と関連しているかもしれない、という以前の議論を却下しました(関連記事)。古代DNA研究は、たとえば、年代の精緻化(新たな直接的放射性炭素年代が古代DNA研究に伴う場合は多くあります)、もしくは新たな考古学的焦点の場所になるかもしれない以前に忘れられていたおよび/もしくは刊行されていない遺跡の調査により、他の一連の調査の証拠も裏づけることができます。上手くやれば、そうした学際性はこの研究の強みの一つであり、考古遺伝学という用語(考古学的文脈からの古代DNAの全体論敵研究)に反映されています。
●アフリカにおける倫理的な考古遺伝学的研究の実施
倫理的配慮は、DNA標本が生きている人々か死者かヒトの創った文化的物体もしくは残留物から得られたかどうかに関わらず、全てのヒト遺伝学的研究にとって最重要です。いくつかの配慮は、動植物遺骸など非ヒト考古学的資料にも拡張されます。アフリカの研究状況では、二つの密接に相互に関係している問題が、あらゆる議論において大きく立ちはだかっています。それは、植民地主義の遺産と世界的な南北の不平等です。植民地期の遺産は、アフリカにおける科学研究の全ての側面に影響を及ぼしており、その範囲は、考古学的収集が精選されて蓄積された場所から、人々がヒトを対象とし秦生物学的研究に近づく方法にまで及びます。世界的な南北不平等は、研究のための資金と施設と訓練の機会のほとんどがアフリカ大陸外に位置することを意味しており、これはヘリコプター(もしくはパラシュート)研究の長年の問題を悪化させます。その研究により、非アフリカ人学者は、そうした標本が由来する国々の学者や機関やより広く国民一般にとっての長期的利益を産まずに、科学的分析のための標本を収集します。さらなる倫理的配慮は、先住民集団もしくはヒト遺骸の子孫もしくは保護者と確認されている他の人々など利害関係者の特定と関与、および遺伝学的研究に基づく歴史的物語の政治的動員の可能性に集中しています(関連記事)。
生きている人々からDNA標本を収集する遺伝学者にとって、確固たる世界的な生命倫理の文献があり、多くのアフリカの諸国はヒトを対処とした研究について確立した指針と手順を有していますが、倫理的問題は残っています。アフリカにおけるヒトの遺伝と健康(H3アフリカ)協会は、ゲノム研究や生物銀行(つまり、生物学的標本の収集と保管)アフリカの研究状況に固有の指針開発に重要な役割を果たしてきました。要するに、この枠組みは以下の4原則により導かれます。第一に、アフリカの価値と文化への感受性と尊重です。第二に、アフリカの人々にとっての利益です。第三に、アフリカの利害関係者の知的参加です。第四に、「尊重、公平、公正、互恵主義」です。これら中核的価値は次に、アフリカ人の知的指導、同意、能力構築、危害回避、国際協力などの問題を導きます。
ヘリコプター研究や能力構築の欠如のような問題は多くの研究領域にまたがっていますが、考古遺伝学的研究と関連するいくつかの具体的問題は、医学や現代人の集団遺伝学で遭遇するものとは異なっています。たとえば、生きている人々での研究のために設計された実施要綱は、古代人の組織の破壊、ヒトが作った文化的物体の扱い、古代DNA抽出とライブラリの長期精選、協議会の先住民集団もしくは子孫集団の特定、ヒト遺骸の本国送還に対して、適切に対処していません。古代DNA研究の倫理的原則は、世界的に、とくに北アメリカ大陸で急速に発展しつつあります。しかし、研究状況は大きく異なり、多くのアフリカ諸国では、世界の他地域と同様に、古代DNA研究の規則はあらゆる考古学的資料での破壊的研究の他の形態とは異なっており、ヒト遺骸を人工遺物として事実上扱っています。南アフリカ共和国は注目すべき例外で、古代DNA研究は南アフリカ共和国遺産資源局と精選機関を通じて厳密に規制されており、代表的な共同体集団との協議会を含んでいるので、同じ原則の多くを生きている人々の遺伝学的研究と同様に適用しています。
古代DNA研究を指導する統一された方針はなく、アフリカ研究者は、学芸員と考古学と遺伝学の共同体および特定できる子孫集団を含めて、利害関係者が同意できる最良の実践を呼びかけ始めました。これらの最良の実践は、標本抽出決定(つまり、どの骨が破壊的分析に選ばれるのか、ということです)からデータ保管および共有までの全てを網羅しています。最良の実践の実施は依然として可変的で、地元の研究機関や政府機関での理解の覚書を通じて行なわれますが、汎アフリカもしくは世界的な政府機関か専門家協会が役割を果たし始めるかもしれません。
●アフリカの過去に関する遺伝学的研究の状況
アフリカ人の遺伝的データは、とくに、アフリカ大陸における現在と過去の遺伝的多様性、救命公衆衛生の進歩につながる発見の可能性、ヒトの起源とアフリカおよびアフリカの移住史関連を考えると、驚くほど充分には研究されていません(関連記事)。データは、現代人のDNAと古代人のDNAの両方、とくに後者についてアフリカ大陸全体で空間的に斑状であり、古代DNAの事例では、多様な考古学的も宇内と期間の範囲は不均一なままです(図1)。このデータの不足は、他の世界的状況と比較するととくに顕著ですが、状況は劇的に変化する可能性も秘めています。以下は本論文の図1です。
アフリカの古代DNAの現在の不均一性を考えると、単一の古代の個体のゲノムには、過去について知られていることを劇的に変える可能性が依然としてあります。本論文は、とくに考古学者と言語学者と歴史学者による数十年の研究の結果との提携で検討すると、アフリカにおける現代人と古代人のDNA研究を通じて対処できる、いくつかの重要な問題を浮き彫りにします。新たな研究が現れるにつれて知識の状態は変わりますが、これまで遺伝学でどれだけ完全また不完全に対処されてきたかに関わらず、アフリカの過去の研究者にとって関心のある長年の問題が検討されます。以下、アフリカの過去に関する遺伝学的研究の具体例です。
●ホモ・サピエンスのアフリカ起源
ヒトの進化はアフリカの集団遺伝学の中心的議題となってきました。アフリカ人20個体を含む世界規模の現代人147個体のmtDNAに基づいた1987年の画期的研究は、多くの古人類学者と考古学者が長年議論してきたことをしっかりと確証しました。つまり、現生人類(Homo sapiens)はアフリカで過去20万年間に進化した、ということです。この遺伝的発見は、現在生きている人々からのDNAのその後の研究を通じて確証され、現生人類がユーラシアの多くの地域で出現した、というより早期のモデルの却下を促しました。21世紀の変わり目までに、化石と考古学のデータは、現生人類だけではなく、「現代的行動」のアフリカ起源についての合意も支持するようになりました。「現代的行動」とは、「現代的」とは何を意味するのか、という見直しにより、それ以降に問題視された概念です。2010年代には、複数の遺伝学的研究が、DNA標識の現在の分布に基づいて、現生人類が最初に出現した地理的領域の特定を試みましたが、最近の研究はこの手法を批判しました(関連記事)。
遺伝学と考古学器と化石の証拠が増え続け、現生人類のアフリカ起源を支持し続けていますが、古代DNA研究は状況をさらに複雑にしてきており(関連記事)、たとえば以下のような研究があります。(a)アフリカ外における現生人類とホモ属の他の構成員、つまりネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との間の混合が論証されました。(b)一部の現在のアフリカの人口集団における少量のネアンデルタール人祖先系統が明らかになり、これはアフリカへのユーラシア祖先系統の逆流を伴う人々の後の移動から生じました。(c)現生人類と早期に分岐した系統(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)と現生人類との間のアフリカ内における混合のより暫定的な可能性が提起され、これは一部のヒト化石で観察された「古代型(archaic)」の形態学的特徴の後期の存在についての説明に役立つかもしれません。最近のアフリカ起源のモデルはより洗練されつつあり、ヒトの根本的なアフリカ起源を認めるものの、同時に、現生人類の出現を表す、アフリカ内における単一の場所もしくは時間はないかもしれない、と認識しています(関連記事)。学問は、「現代的な」遺伝的祖先系統と骨格形態と行動が意味するものを解明し始めており、これらが単一の一括を形成する可能性は低い、と認識しています(関連記事)。
アフリカの後期更新世人口構造の完全な理解は、現時点では15000年以上前およびさまざまな場所からの古代DNAの欠如により制約されていますが【今年(2022年)の研究(関連記事)では、アフリカ東部で15000年以上前となる古代人のDNAが解析されています】、完新世個体の古代DNAにより、研究者は30万~20万年前頃にアフリカで分岐したヒト祖先系統の主要な系統を特定できました。たとえば、2017年の研究(関連記事)は、南アフリカ共和国のクワズール・ナタール(KwaZulu-Natal)州で2000年前頃に埋葬された古代の採食民3個体のゲノムが分析され、この3個体には牧畜民もしくは農耕民との遺伝子流動の証拠がありませんでした。
研究者は、バリット・ベイA(Ballito Bay A)と呼ばれる1個体の、高網羅率で混合していないゲノムを利用でき、最初の人口集団の分岐年代が35万~26万年前頃と再推定されました。これらの調査結果は、生きている人々からのDNAに基づく以前の推定値をさかのぼらせ、現生人類の最初の出現を315000年前頃と示唆する現在の化石証拠(関連記事)と一致します。カメルーンのシュム・ラカ(Shum Laka)岩陰遺跡で8000年前頃と3000年前頃に埋葬された子供4人の古代人ゲノムのその後の研究は、同じ頃のアフリカ内における4つの祖先的な系統をモデル化し、それは、現在のアフリカ中央部および南部の採食民につながる系統と、アフリカの内外の全ての現代人につながる系統と、第四の「亡霊」系統で、これは混合していない状態ではもはや存在していません(関連記事)。
アフリカに焦点を当てる将来の考古遺伝学的研究は、さらなる更新世の人口構造を明らかにする可能性が高く、初期現生人類の成功を可能とした特定の遺伝的適応をより適切に特定できるかもしれません。さらせに、古代型のホモ属化石から(ユーラシアの場合のように)か、あるいは非ヒト類人猿化石からの古代DNA配列決定の可能性があり、それは現生人類の進化に先行してアフリカ大陸に生息していたヒト科に光を当てるかもしれません。温暖なヨーロッパでは、最初の現生人類の古代DNAは45000年前頃で(関連記事)、さらに古い人類の古代DNAの年代は43万年前頃までさかのぼります(関連記事)。
対照的に、アフリカで配列決定された最古の古代DNAは、2021年時点でわずか15000年前頃であり【上述のように、今年の研究では15000年以上前までさかのぼりました】、それよりずっと古いヒト遺骸の配列の試みは、推定される後期更新世遺跡の少なくとも一部については最近の(500年ほど前)の起源を明らかにしました(関連記事)。温暖および熱帯環境で埋葬された骨格遺骸における古代DNAの保存の見込みは低いままですが、古代DNA手法の進歩により、時間枠がさらにさかのぼる可能性はあります。さらに、他の手法、たとえば、数百万年間も安定して残るタンパク質の研究(プロテオミクス)が、古代DNAでは不可能な時間尺度で問題に対処できるようになるかもしれません(関連記事)。
●古代アフリカの採食民
遺伝学的研究では、採食民(主要な生計形態として狩猟と採集および/もしくは漁撈をしている人々)とみなされている人々は、ハッザ人(Hadza)などアフリカ東部採食民や、サン人(Juǀ'hoansi)などアフリカ南部の採食民や、ムブティ人(Mbuti)などアフリカ中央部採食民を含めて、ひじょうに古く、深く分岐した系統を有する、と示されてきました。採食と関連した考古学的状況で見つかった個体群の古代DNAは、広範な牧畜と農耕の前に存在した人口構造の解明において、ますます重要な役割を果たしつつあります(関連記事)。これら考古遺伝学的データは、現在とは顕著に異なるアフリカ人の景観を明らかにしており、それはその後、後期更新世と完新世において大きな人口統計学的変化(たとえば、人口拡大やボトルネックや混合事象)により変わったので、過去に表されていた遺伝的差異の一部のみが、現在のDNAで検出可能です。
考古遺伝学的研究は、サハラ砂漠の南北に暮らす採食民について、さまざまな人口史を強調します。アフリカ北西部では、15000年前頃にモロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡の15000年前頃に埋葬されたイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の採食民が、この地域に暮らす人々とアジア南西部のナトゥーフ(Natufian)文化(ナトゥーフィアン)と関連する人々との間の新石器時代の前の遺伝的つながりを論証しており、これは考古遺伝学的パターンと関連するかもしれない発見です。その後の古代人と現代人のDNA研究は、この独特な旧石器時代祖先系統の現在にまで至る持続を論証しており、少量で、アフリカの北西部から北東部にかけて減少します。
サハラ砂漠以南のより多くの遺跡から調査された古代の個体数はさらに多く、後期更新世から完新世を通じてのアフリカ採食民の人口構造の大規模な全体像の発展に触媒作用を及ぼします。これらのデータは、アフリカ東部および南部の古代の採食民における関連性の連続体(もしくは生物学的勾配)の存在を明らかにし、これはアフリカの角から南アフリカ共和国のケープにまで伸びています。これらのデータから、アフリカの東部と南部と中央部の採食民につながる枝は20万年前頃に分岐した、とも論証されます(関連記事)。最後に、これらの研究から、いくつかの古代系統は、現在同じ地域に暮らす人々のゲノムにおいて、稀にしか検出されないか、まったく検出されない、と示され、完新世における大きな人口統計学的変化を証明します。
古代アフリカ採食民の人口構造と相互作用と遺伝的適応については、まだ学ぶべきことが多くあります。たとえば、20万年前頃以後に深く分岐したアフリカ東部と南部と中央部の系統の子孫である人々の間のつながりについて、問題が残っています。これが重要なのは、古環境の証拠が劇的な変化を証明しており、考古学的証拠が中期石器時代の発展および後期石器時代への移行と関連する技術と象徴表現と社会組織を証明している、後期更新世における人口統計学やアフリカ大陸全体の移動や環境への遺伝的適応について、ほとんど知られていないからです。考古学と化石と現代人の遺伝的証拠は、後期更新世における縮小と孤立と拡大の断続的期間を示しています(関連記事)。しかし、いつどこでどのように、これらの仮定が現代のアフリカ人の多様性を形成したのか判断するには、多様な時空間的状況におけるより高密度の古代DNAデータが必要です。そうしたデータは現在利用できず、それは部分的には、地理的に変わりやすい研究し、限定的な研究網、一部の場所における現在の政治的上昇および物流の課題に起因し、ヒト遺骸の保存に関する、骨格資料の利用可能性および環境条件の影響、とくに温度と湿度も反映しています。
●後期完新世の人口統計学的変容
アフリカの刊行された古代人ゲノムのほとんどは、年代が後期完新世で(図1B)、この期間は現在のアフリカの遺伝的景観を根本的に変えた人口統計学的事象により特徴づけられます。その結果、これらのデータは、食料生産出現および拡大と関連する変容、およびそれよりは小程度ではあるものの、国家の台頭と関連する観点で、おもに解釈されてきました。しかし、研究された古代の個体群は、古代の遺伝的多様性の小さな断片を表しており、多くの地域と期間は依然として古代DNAで調査されていません。本論文では、研究の状況と重要な問題、とくに過去5000年間について、地域ごとの概要が提供されますが、遺伝学的研究はこの動的期間に起こり得たことの表面を引っ掻き始めたばかりであることが多い、と要注意です。以下、具体的な地域事例です。
●アフリカ北西部とカナリア諸島
アフリカ北西部とカナリア諸島の遺伝的歴史は、アフリカ大陸の他地域と比較して相対的によく研究されていますが、ゲノム規模の古代DNA研究はほとんどありません。モロッコの2ヶ所の遺跡のゲノム規模古代DNAデータは、新石器化と関連する遺伝的変容を浮き彫りにしており、前期新石器時代と後期新石器時代との間の(7000~5000年前頃)ジブラルタル海峡を横断する人口移動に寄与したユーラシア祖先系統の流入を論証します(関連記事)。この調査結果は、モロッコで見つかったイベリア半島起源の土器や、イベリア半島で回収されたアフリカの象牙やダチョウの卵殻など、この時点でのジブラルタル海峡を超えたつながりの考古学的証拠に重みを加えます。
古代人と現代人のDNAデータを組み合わせると、この新石器時代の人口統計学的変容は、アラブ化などその後の過程よりも現在のアフリカ北部人に大きな遺伝的影響を有している、と示されました。遺伝学的研究は、これらジブラルタル海峡を越えたつながりが単方向ではなかったことも示します。3600年前頃までに、サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統は、スペイン南部のアンヘル洞窟(Cueva del Ángel)に埋葬された1個体で検出されていますが(関連記事)、ヨーロッパへのアフリカ祖先系統のこの拡大の時期と程度をより深く理解するには、より多くの研究が必要です。
アフリカ本土と先史時代カナリア諸島との間のつながりと、カナリア諸島のカスティーリャによる征服と関連した人口統計学的変容は、現代人と古代人両方のDNAを通じてよく証明されおり、遺伝的歴史の観点ではアフリカの最もよく研究された地域の一つになっています。在来のカナリア祖先系統を有する現代人のDNAは、先スペイン期埋葬からの片親性遺伝標識とゲノム規模古代DNAデータ両方と合わせると、2000年前頃となるカナリア諸島最初の入植者について明確なアフリカ北西部起源を示し(関連記事)、生物人類学的および考古学的証拠と一致します。まとめると、これらの研究は、モロッコにおける上述の研究とともに、このアフリカ北西部祖先系統はそれ自体複数供給源からの混合だった、とさらに示します。つまり、アフリカ北西部からのカナリア諸島への人々の到来の複数の波があり、個々の島には異なる人口史があって、遺伝的データはフェニキア・カルタゴ人のカナリア諸島の入植という論争的な仮説の却下に役立ちます。
15世紀以降の埋葬は、カナリア諸島の現代人のゲノムと同様に、征服と植民化、致命的暴力、奴隷化の遺伝的影響を論証し、島間の移動性増加を証明します。ヨーロッパ祖先系統の大規模な流入は、カナリア諸島の古代人と現代人で検出され、性別に偏っており、ヨーロッパ人男性による先住男性の置換を示し、女性系統のより長期の存続とは対照的です。しかし、遺伝学的研究は、在来のカナリア祖先系統が、歴史的および民族誌的資料に基づいて以前に評価されていたよりも多く現在の人口集団のDNAに寄与していたことも論証し、在来の人口集団はほぼ完全にヨーロッパ人に置換された、との意見に異議を唱えます。
アフリカ北部およびサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統がカナリア諸島現代人でよく記録されていますが、ヨーロッパ人の植民化の前後両方において、どのようにいつこれらの系統が現在の人口集団に寄与したのか、理解するには古代DNAが必要です。2ヶ所の歴史時代の埋葬地の古代DNA分析は、スペイン帝国主義の遺伝的遺産を証明します。一方は、サンタ・クルス(Santa Cruz)の18世紀の教会墓地で、この港町の多様な人口を反映しており、ヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸の祖先系統を有する個体がいました。もう一方は15~17世紀の墓地で、グラン・カナリア島のサトウキビ畑と関連しており、恐らくは奴隷とされた労働者のアフリカ北西部とセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)と在来のカナリアCラン系統を明らかにしました。この問題は、後述の「アフリカの離散」の項目でさらに検討されます。
●アフリカ北東部
アフリカ北東部(本論文では、現在のエジプトとスーダンと南スーダンとアフリカの角として定義されます)はアフリカ大陸とユーラシア大陸との中間に位置し、何千年にもわたって人口集団の相互作用の接点であり、昇進や文化や人々を含む交易と相互作用の領域の導管として機能しました。そのため、この地域の現在の人々が、アフリカと非アフリカ両方に起源がある祖先系統の構成要素を有することは、驚くべくではありません。世界の多くの他地域と同様に、アフリカ北東部の遺伝的多様性はまず、血液検査と他の古典的な遺伝的標識、および片親性遺伝標識のハプログループと他の遺伝的標識を用いて研究されました。
最近では、アフリカ北東部の遺伝的多様性は、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)など生理学的特徴の研究を含む、現代人におけるゲノム水準の差異の分析を通じてより高解像度で研究されました(関連記事)。この地域の古代の人口集団の理解は、現代人の遺伝的多様性(および歴史資料と考古学的データ)から導かれた推論におもに基づいていますが、サハラ砂漠以南のアフリカの奴隷貿易やイスラム教拡大など、劇的な人口統計学的変化につながった事象に先行する遺伝的多様性の景観は、古代DNAなしには充分には解決できません。
アフリカの最初に刊行されたゲノム規模の古代DNAは、現在のエチオピア南西部の高地のモタ洞窟(Mota Cave)で埋葬された、4500年前頃のアフリカ北東部で暮らしていた成人男性採食民でした(関連記事)。遺伝学者がこの個体を「モタ」と呼ぶ一方で、考古学的研究はこの個体を「ベイイラ(Bayira)」と呼んでおり、これはガモ語で「第一子」を意味します。この個体は、おそらくは何万年も前にアフリカ大陸からまず去った人々の子孫により、アフリカへの「逆移住」経由でもたらされた後に、アフリカ北東部全体で広く存在し、多くの現代人集団においてさまざまな割合で見られるユーラシア西部関連祖先系統を有していません。
「モタ関連」祖先系統(つまり、モタ洞窟の個体を特徴づける種類の祖先系統)は、4500年前頃と現在との間に生きていた古代人で特定されており、現代人において検出され続けています(関連記事)。2021年の研究は、現代人におけるモタ洞窟からの空間的距離とモタ関連遺伝的祖先系統との間の著しい相関を示し、4000年以上のエチオピアにおける人口構造の顕著な保存を示唆します。モタ洞窟個体からのゲノム水準の情報の配列決定がその後の古代DNA研究においてひじょうに有用と証明されたものの、まだ学ぶべきことは多くあります。たとえば、ある研究は、このモタ個体は、アフリカ西部から中央部の一部の現代人にも祖先系統をもたらしたものの、まだ直接的には配列決定されていない、「亡霊」供給源の部分的子孫である可能性が高い、と明らかにしました(関連記事)。
アフリカ北東部の他地域は、考古学者や現代人のDNAのいくつかの研究(たとえば、ナイル川流域の人口移動)ではかなり注目されているにも関わらず、古代DNA研究ではほぼ見過ごされており、それは暑い気候で生体分子の分解水準が増加することに起因する可能性が高そうです。とくに、エジプトとスーダンを二分するナイル川流域は、集団遺伝学的研究にとって重要な地域です。とくに古代エジプトは、エジプト人とユーラシア西部の人々、およびサハラ砂漠以南の集団との類似性と相互作用を調べようとする考古学者と歴史学者にとって魅惑の情報源です。
2017年に、ナイル川流域のエジプトのアブシール・エル・メレク(Abusir el-Meleq)遺跡からの最初のゲノム規模古代DNAデータが配列決定され、プトレマイオス期の前(新王国時代から末期)に暮らしていた2個体と、プトレマイオス期に暮らしていた1個体の祖先系統への新たな洞察を提供しました(関連記事)。1300年以上にわたる古代エジプト史で、古代DNAデータは古代エジプト人と近東の人々との間の密接な関係を示し、考古学および歴史的証拠と一致します。古代エジプト人は、遺伝的に現在のエジプト人とよりも近東の人々の方と類似していました。現在のエジプト人は約8%多くサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統を示しており、ローマ期以後のこの地域へのそうした祖先系統の流入を反映しています。この祖先系統の変化は、現在の人々の分析から以前に示唆されていました。
ナイル川を上流へと移動し、時間をさかのぼると、スーダン・ヌビアのクルブナルティ(Kulubnarti)のキリスト教期(650~1100年頃)となる66個体の古代DNA研究が、古代エジプトとヌビアとの間のとくに密接な関係を証明しました(関連記事)。レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の人々で見られる祖先系統と最も類似した祖先系統とは、クルブナルティの個体群の祖先系統の多く(57%程度)を構成しており、エジプトを通じてもたらされた可能性が最も高く、考古学的証拠と共鳴します。この祖先系統は女性と不釣り合いに関連しており、この地域における女性の移動性の影響について新たな問題を提起します。アフリカ北東部の古代DNAの新たな諸研究は、新たな地域と期間を含めて、この古代の遺伝的景観に独特な特徴をもたらした人口統計学的過程を明らかにし続けるでしょう。
●アフリカ西部と中央部
アフリカ西部および中央部は、アフリカ大陸の大半を表しており、とてつもない遺伝的および言語的多様性がありますが、これらの地域におけるDNAの標本抽出不均一で、利用可能な古代DNAも限定的です。これらの地域間の重要な考古学と言語学と祖先のつながりを考えて、本論文は、それらが現代人のDNA研究と組み合わされ、既知の完新世人口史の概要と、将来の古代DNA研究から学べる可能性があるものを提供します。研究は、バンツー語族話者拡大や、これらの集団と他の遺伝的に独特な集団との間の混合の証拠など、狩猟採集民の人口史を浮き彫りにします。アメリカ大陸におけるアフリカ人の子孫の人口集団で見つかる祖先系統のほとんどの供給源としてのこの地域の役割は、「アフリカの離散」の項目で検討されます。
アフリカ中央部熱帯雨林の狩猟採集民は、成人の小柄な身体の大きさやマラリアへの耐性など、人口史や熱帯雨林への適応についても含めて、広範な遺伝学的研究の焦点とされてきました。上述のように、この現代人のDNAデータは、カメルーンのシュム・ラカ遺跡で埋葬された8000年前頃と3000年前頃の子供4人の古代DNAとともに、30万~20万年前頃にヒト祖先系統の他の主要な枝から分かれた、深く分岐した系統を論証してきました(関連記事)。さらなる分岐は、熱帯雨林狩猟採集民とバンツー語族話者の祖先との間で6万年前頃に、アフリカ中央部の西部(コンゴ盆地)と東部(イトゥリ森林とヴィクトリア湖)に暮らす熱帯雨林狩猟採集民間では25000年前頃に起き、その後、互いに孤立したままでした。
まとめると、これらの調査結果は後期更新世と完新世へのアフリカ全体の複雑な人口構造の浮かび上がってくる全体像に寄与します。古代人のゲノムは、アフリカ中央部熱帯雨林が完新世において遺伝子流動の障壁として機能したのかどうか、明らかにするのに役立つでしょう。たとえば、ヴィクトリア湖近くで埋葬された中期完新世個体で見つかったアフリカ中央部採食民の祖先系統は、考古学的記録から示唆されるよりも広範かもしれない、接続水準を示唆します(関連記事)。
この地域における遺伝学的研究の第二の主要な焦点は、アフリカ史における最も定義された人口統計学的事象の一つである、バンツー語族話者の起源と拡大についてです。ニジェール・コンゴ語族のニジェール・コルドファン語族分枝内の一群であるバンツー語族は現在、アフリカ大陸の南半分の広範な地域で、アフリカ人の3人に1人が話しています。言語学者は、カメルーンとナイジェリアの国境地帯のグラスフィールド(Grassfields)地域に起源を示し、バンツー語族話者はそこから5000~4000年前頃に拡大し始めました。「バンツー語」を話す人はいませんが、本論文の「バンツー語族話者」は、この一群の言語を話す人々をまとめて呼ぶ略語として用いられます。
アフリカ東部と中央部と南部のバンツー語族話者は、最近の共通祖先を反映して、遺伝的にわずかに区別されます(関連記事)。これは、現在のバンツー語族話者の分布が人口拡散の結果だったことを論証します。つまり、考古学的証拠から、言語と農耕と新たな物質文化伝統が単一の一括として移動しなかった、と示唆されているとしても、言葉や着想とともに人々が移動したわけです。遺伝学者は、この言語学者により提唱された拡大についての、二つの仮説を批判的に調査しました。それは、初期分岐モデル(バンツー語族話者はアフリカの東部と南部に同時に拡大しました)と、後期分岐モデル(バンツー語族話者は、東部と南部の流動への分岐前に熱帯雨林を通って南部に移動しました)です。これらの研究は一貫して、後期分岐モデルの裏づけを見つけてきており、最近の言語学的研究と一致し、少なくともいくつかの考古学的データと矛盾します。
バンツー語族話者は熱帯雨林を通って南方へ移動するにつれて、特定の社会的動態を反映する方法で先住の人々と混合しました。たとえば、片親性遺伝標識の分析は、現代のバンツー語族話者人口集団における混合の性別固有のパターンを明らかにしました。具体的には、古代の女性狩猟採集民はバンツー語族話者の農耕民男性と子供を儲け、それはその逆よりもずっと多くありました。この採食民と農耕民の混合は、混合人口集団に有利な遺伝的変異も与え、熱帯雨林狩猟採集民の祖先から継承したマラリア耐性を有する、現在のアフリカ全域の多くのバンツー語族話者が生じました。
アフリカ中央部の熱帯雨林を越えて、バンツー語族話者は複数回の移住や混合事象など時空間的にさまざまな過程で、アフリカの東部と南部へと拡大しました。現代人のDNAと言語学とよく年代測定された遺跡のデータは拡大に次ぐ拡大のシナリオを示唆し、バンツー語族話者の最初の拡大は、紀元千年紀半ばの人口崩壊により切り捨てられ、新たな人口増加と拡大が続きました。現在アフリカの東部と南部で見られるアフリカ西部関連祖先系統は、熱帯雨林狩猟採集民、アフリカ南部のコイサン採食民、アフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族を話すアフリカ東部の牧畜民と、さまざまな割合で混合しています。
大規模な研究が、これらの遺伝子流動事象の経路と時期、およびアフリカ南部から中央部における将来の研究にとって重要な地域に、光を当て始めつつあります。古代DNAは、より高い時空間的解像度の提供により、上手くいけば助けになるでしょう。アフリカ西部関連祖先系統は、アフリカの東部と南部から中央部と南部において、過去1200年間にまたがる鉄器時代遺跡で埋葬された、12個体以上の古代人ゲノムで特定されてきましたが、他の個体では明確に存在しません(関連記事)。これらのパターンと、マラウイおよび南アフリカ共和国の古代DNAで示唆される人口置換の性質を理解するには、より高いデータ密度が必要です。
アフリカ西部におけるさらなる遺伝学的研究は、チャド盆地と、さらに広くサヘル全体における現在の言語学的および民族的に多様な集団を調べてきました。これらの研究は、アフリカのナイル川流域と大西洋沿岸との間、およびサハラ砂漠からサハラ砂漠以南のサバンナの人々をつなぐ、重要な東西と南北のつながりを論証しています。人口史は、たとえば、完新世の前期から中期における縮小する「緑のサハラ」を横断する移動性など、よく記録された古気候および考古学的データや、アフリカ東部とチャド盆地との間の、あまりよく知られていないつながりを結びつけることができ、考古学的研究にとって有益な道筋を示唆します。サヘルにおける研究は、フラニ人(Fulani)の人口史と、重要な食性適応であるラクターゼ活性持続をもたらしたアフリカ北部の混合の役割にも、焦点を当ててきました。
アフリカ西部および中央部における将来の一連の研究は、紀元千年紀から紀元二千年紀にニジェール川中流デルタやコンゴ盆地やウペンバ低地(Upemba Depression)やアフリカ大湖地域に出現した政治組織など、強力な政体の起源を調べることができるかもしれません。これらの地域から古代DNAは事実上利用できませんが、最近のある研究は、コンゴ民主共和国のカナンガ(Kananga)の住民の現代人のDNAを活用して、17世紀のクバ(Kuba)王国形成の遺伝的影響を明らかにし、現在クバと特定された人々は遺伝的にひじょうに多様で、他のクバ王国人々とよりも、クバ王国ではない近隣の人々の方と遺伝的に類似していた、と示しました。これは、クバ王国が多くの祖先の異なる集団を単一の帰属意識に包摂した、という証拠として解釈され、これは一般的に口述史と一致します。この研究は、アフリカ西部および中央部の先植民地期国家の遺伝的に導かれた人口史への道を開きます。
●アフリカ東部
アフリカ内で、東部はとくに多用途考えられており、現代人の遺伝的多様性は高水準で、民族言語学的不均一性と相関しています。これは、アフリカ東部がヒトのほとんどにとってアフリカ大陸の交差点であるからで、数百万年前までさかのぼって、アフリカ大陸の内外にわたる複数の人口移動の背景を提供しています。しかし、アフリカ東部がこの地域の現在の遺伝的景観に顕著な影響を及ぼしたのは、過去5000年間でした。アフリカ東部を通っての、およびアフリカ東部への、牧畜や農耕や製鉄の拡散、およびインド洋世界とのつながりの増加と関連する複数の人口移動は、並んで暮らすさまざまな文化と言語と遺伝子の背景の人々の斑状をもたらしました。
時空間全体にわたるこの斑状内の関係の解明が困難であるだけではなく、同時代のアフリカ東部集団の限定的なDNA標本抽出は、古代系統比較の点が少ないことを意味します。アフリカ東部は現在、古代DNA研究の観点ではアフリカで最良に標本抽出された地域ですが、これはまだわずか数十の配列決定された個体に留まっており、その全ての年代は過去数千年以内です【今年の研究(関連記事)では、アフリカ東部で後期更新世の人類遺骸のDNA解析結果が報告されています】。過去と現在両方のアフリカ東部の遺伝的多様性の完全な程度は不明なので、人口史の学者の理解は、より多くのゲノムが配列決定されるにつれて進展し続けるでしょう。
アフリカ東部の考古学で最もよく研究されている減少の一つは、5000年前頃にはじまるアフリカ東部への食料生産の拡大です。この多段階過程は、世界の他の多くの地域における新石器時代移行とは異なっていました。その理由は、(a)家畜化された動物や栽培化された植物や土器など重要な革新は、単一化された一括としての拡大とは逆に、さまざまな時期にさまざまな場所で出現しました。(b)移動性牧畜(家畜化された動物の牧畜を中心に組織化された生活様式)が、農耕に数千年先行します。(c)採食民生活様式が、多くの場所で牧畜および農耕とともに持続しました(現在も続いています)。牧畜の形態での食料生産の最古の証拠は、サハラ地域で8000年前頃に現れ、ウシやヒツジやヤギを伴っており、南方へと拡大し、アフリカ東部には5000年前頃に、アフリカ南部には2000年前頃までに到達しました。この全体的な軌跡の中で、家畜導入の時期、取られた経路、人々が動物とともに移動したのか、交易だったのか、という程度に関して、かなりの議論があります。これによりアフリカ東部は、古代DNA手法が考古学と歴史学の議論を進めるのに寄与できる重要な地域となります。
アフリカにおけるこれまでで最大の古代DNA研究は、ケニアとタンザニア全域の、牧畜新石器時代(PN、5000~1200年前頃)と牧畜鉄器時代(IA/PIA、1200年前頃~現在)の文脈の41個体を配列決定し、移民の牧畜民および農耕民と在来の採食民の集団間の混合を伴った、食料生産の多段階の拡大を示す結果が得られました(関連記事)。アフリカ東部への牧畜の最初の拡大は、少なくとも2段階の混合を含んでいました。一方は、アフリカ北東部で6000~5000年前頃に、スーダンの現在のディンカ人と関連する祖先系統を有する人々と、近東の古代の個体群と関連する祖先系統を有する人々(アフリカ北東部にも存在していたかもしれない)との間で起きた可能性が高そうです。IA/PIAは、これらの集団とPN牧畜民の子孫である後の個体群の祖先系統に反映されている、1200年前頃以後となるアフリカの北東部と西部からの人々の追加の移動が伴っていました。牧畜民と採食民との間の遺伝子流動は、牧畜拡大の初期段階では一般的ですが、PNにおける後のこれらの集団間の遺伝的孤立の証拠は、牧畜が確立するにつれて、社会的障壁の硬化を示唆します。
他の一連の考古学および骨格証拠と組み合わせると、古代DNAは、多様な人々がこの斑状内でどのように相互作用し、関係を形成したのか、という理解にとって強力な手法です。たとえば、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器時代として特徴づけられる異なる物質文化伝統と関連するPN牧畜民は、言語と祖先が異なる集団を表している、と以前には提案されていましたが、密接な遺伝的クラスタ(まとまり)を形成すると分かり、文化的区別は遺伝的に類似した隣人間で起きた、と示唆されます(関連記事)。
その後の研究は、ケニア南部のPN個体間の採食民およびディンカ人関連祖先系統の量における追加の差異を記録しており、PNへの、採食民と牧畜民との間の稀ではあるものの継続的な遺伝子流動の可能性を提起します(関連記事)。これは、約60%の採食民祖先系統を有するケニアのモロ洞窟(Molo Cave)の1500年前頃の2個体により最良に例証され、一部の場所における継続的なつながりのシナリオを裏づけ、考古学的証拠と一致します。古代DNAは、そうした関係のパターン化の地理的差異も明らかにしてきており、アフリカ中央部および南部とり以前には記録されていなかった地域間のつながりと同様に、湖と海岸近くの牧畜民と採食民の遺伝子流動の証拠は少なくなっています(関連記事)。
アフリカ東部における将来の考古学的研究にとっての有益な領域には、今では古代ゲノムを通じてのみ示唆される問題である、食料生産拡大前の人口構造と採食民集団間の相互作用、ラクターゼ活性持続など新たな適応の出現と拡大、鉄器時代と国家の台頭期における人口統計学的変化が含まれます。追加の研究は、現代人の遺伝的データがアフリカ南部へのバンツー語族話者拡散の時期と経路の推定に用いられてきた沿岸部共同体に焦点を当てることができるかもしれず、他の研究は、中世スワヒリ共同体におけるアフリカ西部関連のバンツー語族話者人口集団におけるアジア祖先系統を有する人々の遺伝的流入を検討します。海岸を越えて、コモロとマダガスカル島の入植と人口史は、現代人の集団遺伝学を通じて調べられてきましたが(関連記事)、これらの地域は古代DNAでは完全に調べられていません。広範囲の相互作用圏と、アジア南東部および南西部とアフリカ起源の人々の歴史的・考古学的・言語学的に記録された寄与におけるインド洋の役割を考えると、これは将来の研究にとって、とくに有益な鉱脈です。
●アフリカ南部と南部から中央部
アフリカ南部は、深く分岐した遺伝的祖先系統を有する集団にとって交差点で、とくに過去2000年間の複雑な人口動態に重ねられた深い人口史を反映しています。アフリカ南部における古代DNA研究の主要な焦点は、より深い歴史とヒトの起源に充てられてきました。これは、アフリカ南部の現在のコイサン集団が地球上で最多の独特な遺伝的多様体と最も深く分岐した系統を有しているからで、コイサン集団は現生人類の出現後すぐに他のヒト集団と分岐した、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。
しかし、より最近の過程が、遺伝的景観に顕著な影響を及ぼしてきました。たとえば、現代のコイサン人はその祖先系統の9~30%を、過去2000年間にこの地域に移住してきた集団との遺伝的混合にたどれます(関連記事)。アフリカ南部の現代人集団の一部の遺伝学的研究は、人口集団の連続性と孤立の程度を推測していますが、古代の採食集団の移動の可能性と、とくに過去約2000年間における遺伝的に独特な集団との混合は、古代DNAを、食料生産の拡大前のこの地域における人口構造の調査の唯一の手段とします(関連記事)。
「現生人類のアフリカ起源」と「採食民の過去と現在」の項目で述べられているように、古代のアフリカ南部採食民の研究は、深い時間の人口構造について新たな視点を明らかにしてきました。南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州のバリット・ベイ遺跡で埋葬された少年の、例外的に情報をもたらしたゲノムは、ヒトの起源の時期をさかのぼらせました。一方、ケープ西部のセントヘレナ湾で埋葬された他の個体の古代DNAは、アフリカの東部と南部との間に伸びる、古代の採食民と一部の現在の採食民との間の祖先系統の勾配を明らかにしました。これらの個体のゲノムは、食料生産の後の出現と関連する遺伝的変化を理解するための重要な文脈として機能します。
アフリカ東部の場合と同様に、アフリカ南部の古代DNA研究は、牧畜がどのように拡大したのか(人口拡散か文化伝播か)、ということと、アフリカの東部と南部の牧畜民間の推定されるつながりについての、何十年も続く議論の解決に役立てるかもしれません。南アフリカ共和国のカステールバーグ(Kasteelberg)遺跡の牧畜文脈で埋葬された1200年前頃の1個体は、タンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃となるPN期の1個体と密接に関連する、アフリカ東部もしくはユーラシア西部関連祖先系統構成要素があるアフリカ南部採食民関連祖先系統を有している、と示されました。
PN関連祖先系統は、ボツワナのオカヴァンゴ・デルタ(Okavango Delta)地域における1400~900年前頃に埋葬された3個体でも推測されており、アフリカ南部採食民とアフリカ東部牧畜民の祖先系統の混合が、オカヴァンゴ・デルタ地域でも特定されたバンツー語族話者と関連する祖先系統の出現に先行する、と示唆されます(関連記事)。これらの調査結果は、過去約2000年間以内のアフリカの東部と南部との間の遺伝子流動についての現代人のDNA証拠、アフリカの東部と南部の牧畜民をつなげる言語学的証拠、最初の家畜と土器はアフリカ南部において、バンツー語族話者と関連する混合した農耕牧畜の「鉄器時代一括」のずっと前に出現した、とする考古学的証拠と一致します。
まとめると、現在のDNAと古代DNAのデータは、家畜が、在来の採食民と子供を儲けたアフリカ東部からの移民によりアフリカ南部へともたらされた、というシナリオを裏づけ、現在のコイサン人で観察される9~30%の混合した祖先系統を説明します。しかし、直接的な地域間のつながりは、牧畜拡大の機序の理解に重要ですが、多様な人々が経済および社会的変化の最中に到来するにつれて、相互作用がどのように展開したのかについて、学ぶべきことは依然として多くあります。関連する人口移動の規模と、考古学的証拠に基づいて仮定されてきたように、複数回の侵入事象があったのかどうかについて、問題が残っています。最後に、遺伝学的調査結果は、在来の採食民が多くの状況で牧畜慣行を採用した、という可能性を除外しませんし、牧畜と採食の生活様式間の流動性について、情報をもたらすことができません。代わりに古代DNAは、牧畜拡大の複数の軌跡だった可能性が高いことの調査と、時空間にわたるこの事象の多様な遺伝的結果の調査にとって重要な手法を提示します。
古代DNAは、バンツー語族言語を話していた可能性が高い、アフリカ西部関連祖先系統を有する人々による、紀元千年紀におけるアフリカ南部への農耕および製鉄の導入と関連する、複雑な動態も解明しました。ある研究は、南アフリカ共和国の南東バンツー語族言語の現代人話者における約19%と比較して、南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州で埋葬された鉄器時代4個体における約16%の採食民祖先系統を見つけました。上述のように、オカヴァンゴ・デルタ地域の3個体は、古代の牧畜民(自身が古代採食民と混合しました)およびバンツー語族話者と関連する祖先系統を有している、採食民と牧畜民と農耕民の斑状内の遺伝子流動の変動的パターンを示唆します。興味深いことに、ボツワナのサロ(Xaro)遺跡の2個体と同じ祖先系統の混合を有するとモデル化できる現代人集団は存在せず、現在この地域に居住するバンツー語族話者集団によりそれ以降に置換された、人口集団への手段を提供します。
古代DNAデータは、アフリカ南部から中央部における人口置換も証明します。この地域では、現在の人々には、マラウイのホラ1(Hora 1)やフィンギラ(Fingira)やチェンチェレレ2(Chencherere II)といった岩陰遺跡の個体群で記録された、古代採食民祖先系統の痕跡がありません。代わりに、チェワ人(Chewa)やンゴニ人(Ngoni)やトゥンブカ人(Tumbuka)やヤオ人(Yao)などマラウイ集団のDNAデータは、100%のアフリカ西部関連祖先系統と一致し、最近では2500年前頃にはこの地域に存在していた採食民系統の完全な置換を示唆します。同時に、他の古代DNA研究は、200年前頃から高度の接触地域であるアフリカ南部の南端に暮らしてきたにも関わらず、バンツー語族話者ともヨーロッパ人植民者とも混合していない集団の存続を記録してきました。
アフリカ南部から中央部の比較的少数の個体が古代DNAのために標本抽出されており、現代人の標本抽出がコイサン人など特定の集団に偏っているように、そうした古代DNA配列はこの地域の歴史におけるひじょうに様々な期間の一断面を提供します。牧畜と農耕の拡大、バンツー語族言語とアフリカ西部関連祖先系統の拡大、最終的には、拡張した政治的影響力と長距離交易網を有するマプングブエ(Mapungubwe)やグレート・ジンバブエなど権力集中の台頭、といったことの根底にある人口統計学的過程の解明には、さらなる研究が必要です。
古代DNAは、長距離交易と関連する出現してきた階級に基づく社会内の、多く議論されてきた「母系地帯」と遊動性と親族関係起源など、鉄器時代における社会的複雑さと関連する地域的および局所的過程の調査には、とくに有益な手法かもしれません。遺伝的データは、ヨーロッパによる植民地化の産物としての現在のアフリカ南部社会の形成、強制的な移住と隔離の調査も可能とし、既知の歴史的過程とつなげることができる、混合パターンの多様なアフリカとアジアとヨーロッパの祖先系統を有する人々を結びつけます。
●アフリカ人の離散と大西洋世界の形成
新たなデータは、推定1200万人の奴隷とされたアフリカ人をアメリカ大陸とヨーロッパへと強制的に移動させた、大西洋間奴隷貿易(Trans-Atlantic Slave Trade、略してTAST)の遺伝的遺産を明らかにし始めています。これらのデータは、不完全ではあるものの、TASTと大西洋世界の形成についての豊富な歴史的および考古学的記録を補完します。規模はより小さいものの、研究はサハラ砂漠やインド洋を横断する奴隷貿易網の遺伝的影響も明らかにしつつあります。
集団遺伝学は、奴隷とされた人々や逃亡奴隷(マルーン)共同体やその子孫の、多様な地理的起源への洞察を提供します。それは、アメリカ大陸への、およびアメリカ大陸全体での強制移住の動態、TAST期およびその後における、他のアフリカ人やアメリカ大陸先住民やヨーロッパ人の祖先系統の人々との混合の時空間的に変動的で多くの場合性別に偏ったパターンです。この混合は、遺伝子流動への特定の政治的条件と法的および他の社会的障壁を反映しています。歴史学と考古学と生物考古学からの洞察と組み合わせると、遺伝学は、現在標本として不充分な集団の遺伝的データの生成による医療遺伝学の改善に加えて、アフリカ人の子孫の個体と集団の具体的歴史の理解に強力な手法を提供できます。この研究は、アフリカ系の子孫のヒト遺骸の扱いに関する議論、アフリカ人およびアフリカ人の子孫のDNA標本抽出の斑状で偏った性質への対処の呼びかけ、祖先系統の研究により引き起こされる社会的意味と専門家の責任の考慮も促進しています。
アフリカ人の離散(ディアスポラ)は集団遺伝学の主要な焦点ですが、古代人のゲノムは、片親性遺伝標識を用いた最初の研究に続いて、役割を果たし始めたばかりです。最近の研究は、奴隷化が多様な民族および言語背景の人々をともに連行した、と強調しています。たとえば、メキシコシティで16世紀の墓地に埋葬された奴隷とされたアフリカ人3個体はアフリカの地理的起源が明確で(関連記事)、これは17世紀にカリブ海のセント・マーチン(Saint Martin)島で埋葬された奴隷とされたアフリカ人3個体にも当てはまります。アメリカ合衆国東部の17~18世紀の墓地における生物考古学およびmtDNA分析は、ヨーロッパ人とアフリカ人の子孫の個体の階層化を示し、奴隷とされた個体の多様な起源と、ヨーロッパ系の子孫の個体間の関連性を対比させました。
大西洋世界のほとんどの古代DNA研究がアメリカ大陸に焦点を当ててきましたが、近世カナリア諸島とポルトガルにおける研究も、「アフリカ北西部とカナリア諸島」の項目で検討されたように、奴隷とされた可能性が高いアフリカ起源の人々についての情報に寄与してきました。イギリス海軍が19世紀半ばに奴隷船から捕らえたアフリカ人を残していった南大西洋のセントヘレナ島の古代人のゲノム研究は、これらの個体がおもにアフリカ西部から中央部の祖先系統を有している、と明らかにし、現代人のDNAおよび歴史学的研究と一致します。
将来の考古遺伝学敵研究は、大西洋が形成されるにつれての、アフリカ社会への影響をさらに解明できるようになるかもしれません。たとえば、大西洋に近いコンゴ西部で150年前頃に埋葬された1個体のゲノムは、バンツー語族話者と関連する祖先系統85%と、ポルトガル人の可能性が高いヨーロッパ人と関連する祖先系統15%を示します(関連記事)。古代DNAと生物考古学研究を組み合わせると、上述のメキシコシティの埋葬における病原体の特定など、健康への洞察も提供できます。最後に、古代DNAには、タバコのパイプを使った女性遺伝的鑑定を可能とし、子孫の共同体に関心のある情報を提供した、アメリカ合衆国の19世紀の奴隷宿舎で記録されたタバコのパイプ軸の事例のように、物質文化と遺伝的同一性を結びつける可能性があります。
●アフリカの考古遺伝学的研究の将来
この分野の状態を再調査するさいの課題は、アフリカの集団遺伝学、とくに古代DNA研究における急速な変化で、古代DNA研究では、新たに配列決定された各ゲノムは、以前の物語をひっくり返す可能性を秘めています。しかし、新たな研究が蓄積されても、一部は1980年代の最初の集団遺伝学的研究にさかのぼる長年の議論が続いています。以下の項目は、考古遺伝学的研究を問題化するいくつかの難問を概説します。その解決には、学際的な専門家の密接な意思伝達と、共通点を見つけたいという切望が必要です。
●古代DNAは何の役に立ちますか?
一部の考古学者と言語学者と歴史学者の間での共通意見は、考古遺伝学は他の一連の証拠からすでに知られていることを確証するだけである、というものです。このような場合もあり、その一例は、TASTにおけるアフリカ西部から中央部の役割についての歴史と遺伝学の記録との間の密接な一致ですが、古代DNAは、議論の解決にも役立つことができ、以前の研究と矛盾する予期せぬ結果を提供し、新たな問題を提起します。たとえば、遺伝学的研究は、考古学的記録におけるバンツー語族拡大の曖昧さにも関わらず、バンツー語族拡大の後期分岐モデルの支持へと形成を一変させます。アフリカ東部では、さまざまなPN考古学伝統の担い手の予期せぬ高い遺伝的均一性が、PNの担い手はこの地域における区別される地理的起源と到来年代を有する集団を表している、という仮説をひっくり返しました(関連記事)。
最後に、古代DNA研究の発見、およびそれに伴うことが多い直接的な放射性炭素年代は、新たな考古学的研究の路線を示しており、たとえば、アフリカの中央部と東部の採食民間の前期完新世のつながりについてです(関連記事)。古代DNAは過去を再構築するための1手法にすぎませんが、新たな情報を追加し、他の分野での数十年にわたる研究に基づいている可能性があります。しかし、古代DNAが堅牢な歴史的もしくは考古学的記録から知られているものを超えて多くの価値を追加できない、と研究者が分かる場合も時にあるかもしれず、この研究が単に自身のために「DNAを調べる」のではなく、問題駆動型を維持することが常用です。
●規模と観点と命名法の問題
遺伝学と言語学と考古学と歴史学における学者間の緊張の中心点は、過去について共有される関心への研究法の違いです。この一部は、さまざまな規模で問うことができる問題の規模と種類に関わっています。アフリカで研究している遺伝学者は、地域もしくは大陸規模でさえそうする傾向があります。この一部は、遺伝学者が関心を寄せる問題、たとえば、更新世の人口構造やバンツー語族の拡大と関係ありますが、現代人と古代人両方のDNA標本抽出の斑状の性質の反映でもあります。DNA標本抽出は、より精細な分析を妨げ、考古遺伝学者「大きな物語」のみに関心がある、という誤った印象につながります。この意味で、考古遺伝学はアフリカの考古学が20世紀半ばか後半に立った場所におり、その当時は、専門家が石器や土器や他の種類の物質文化を通じて、文化史定義の基礎的研究を行なっていました。同様に、ずっと早く、言語学的研究は大陸規模の変化を調べました。基本的枠組みが理解されて初めて、新たな疑問が理解しやすくなり、考古学者と言語学者の両方にとってより小さい規模での調査が可能となります。
より高いデータ密度で将来可能になるかもしれないことのモデルについて、他の事例研究を見ることができます。これはおもにヨーロッパにおいてのことで(ヨーロッパ外では、上述の、スーダンのヌビアにおけるキリスト教期墓地の事例があります)、同じ地域もしくは同じ墓地でさえ、多くの古代の個体が配列決定されました。この手法は、考古学と生物考古学の証拠と合わせて、地位の不平等や親族関係や結婚後の居住や健康など社会的問題のより詳細な調査を可能とします。さまざまな種類のデータセットの使用は、同じ問題について異なる視点につながるかもしれないので、生産的な張力をもたらす可能性がある別の論点です。古代DNAは、たとえば、大規模な移住が過去に起きたことなど、情報をもたらす可能性があり、統計的モデル化は、その移住の起源地と時期を示唆するのに役立つことができます。しかし、考古学と放射性炭素年代測定は、これらの推論によく年代測定された遺跡で正解を提供するのに重要です。考古学と生物考古学と言語学と民俗学は、そうした事象が起きた社会的条件の判断に役立つかもしれず、この観点は遺伝学では提供できません。
規模とデータセットが分野で異なるように、語彙も異なります。遺伝学者は祖先系統を研究しますが、祖先系統は、民族もしくは言語の同一性とは同じではなく、物質文化に基づいた分類とも異なりますが、これらの全ては命名法で役割を果たすようになるかもしれません。しかし、異なる種類の同一性を混同しないように注意すべきで、これは専門家により慎重に検討された問題です。たとえば、本論文では「バンツー祖先系統」ではなく、「バンツー語族話者と関連する祖先系統」という表現が用いられています。人々が個人や季節や他の原理に基づいて生計戦略間で動く柔軟性を考えると、同様の問題は遺伝的分類の略語として「農耕民」もしくは「牧畜民」を用いる場合にも生じます。最後に、物質文化伝統の定義についての何十年もの考古学的議論を考えると、考古学的文化に基づいた分類(たとえば、PN関連祖先系統)も課題です。とくに複数の古代人ゲノムの分析と比較の場合には、発表のさいには略語が好まれますが、遺伝学者が次第に刊行物で明示的に議論するようになってきた同一性の種類間の重要な区別を、略語は把握できません。
●生物考古学と考古遺伝学の統合
考古学的文脈におけるヒト遺骸の研究である生物考古学は、過去の生活に関して、異なるものの補完的な情報を遺伝学に提起します。古代DNAは個体の系統について情報を提供できますが、生物考古学的評価は、死者の生きた経験への洞察を得るのに適しています。多くの方法で、生物考古学的データ(放射性炭素年代測定など他の手法と組み合わせて)は、いつ、どこで、どのように、どれだけ長く個人が生き、骨格的に明らかな疾患もしくは外傷があるのかどうか、という文脈の提供により、古代DNA標本に「命を吹き込みます」。
古代DNA研究は、生物考古学的データを軽視するか充分に活用してこなかったものの、近年ではこれに関して顕著な変化が見られました。とくにアフリカ南部では、研究は「標本の背後の人々」に焦点を当てつつあり、これは、研究対象の個体について生活がどのようなものだったのかについて、より俯瞰的な全体像を描くために、遺伝学と骨格と考古学のデータの統合を含む過程です。そうした試みは、アフリカの古代DNA研究が大陸規模の調査から地域的および局所的過程の調査へと移行するにつれて、ますます重要になっていき、考古学的および生物考古学的研究では基礎づけられているかもしれない(ものの完全には答えられない)局所的もしくは遺跡水準の研究上の問題の調査が可能になるでしょう(関連記事)。生物考古学的データは、アフリカにおける新たな古代の疾患研究でも役割を果たしつつあり、それは影響を受けた個体の特定と病理学的研究の両方を通じてであり(たとえば、住血吸虫症を患っていた可能性が高い、上述のバリット・ベイ遺跡の少年です)、疾患耐性への遺伝的適応(たとえば、マラリアに対して保護をもたらすダッフィー・ヌルのアレルです)の文脈の解釈によってです。
さまざまな一連の研究がまず交差し始めた時によくある事例ですが、生物考古学と考古遺伝学の研究間にはより大きな相乗効果への充分な余地があります。とくに、古代DNA研究は破壊的な標本抽出を要求するので、生物考古学的評価が、どれだけ多くの個体が存在し、基本的な文脈データ(たとえば死亡時年齢、推定性別、文化的関連)を収集するのか、将来の研究を最小限傷つける要素を選択するのか、混合もしくは分離された収集の場合、同じ個体が2回標本抽出されないよう、判断するための第一段階の要求であるべきです。生物考古学者は、研究計画の作成と研究上の問題に依拠する調査について最良の個体を特定することに、積極的に関わるべきです。その場合の最良の個体とは、たとえば、結核など特定の疾患に感染した可能性があるか、形態学的証拠が人口統計学的変化を示唆する地域的文脈を表しているような場合です。生物考古学的なヒト遺骸に関する深い実用的知識のある学者として、生物考古学者は、古代DNAを用いて研究できないか、そうすべきではない個体と収集物洞察の提供や、古代DNA研究の可能な個体についての研究法の作成に役立っていますし、そうあり続けるでしょう。
●学際性の再考
集団遺伝学は、古典的遺伝標識の最初の研究から、ヒトゲノム計画を経て古代DNA革命まで、半世紀以上にわたってアフリカの歴史の研究に有益な混乱をもたらしてきました。本論文で調べられた課題は、ある意味で、新規性はありません。振り子がアフリカの歴史においてより大きな規模とより小さな規模の物語間を行き来するのと同様に、本論文で検討された分野も、経時的に多かれ少なかれ統合したり分岐したりします。遺伝学的研究の進む速度を考えると、専門家は協力の新たな方法を構築するために、語彙と観点と専門分野の訓練と学術文化における過去の違いに取り組まねばなりません。
これは、専門家が他の分野から既存の視点の検証を探す、「確証の枠組み」を超えての移動を意味します。この傾向は、学者が他の分野から研究をつまみ食い的および無批判に引用する、「最後の段落問題」と呼ばれてきたものにつながる可能性があります。幸いなことに、アフリカの過去の研究では、考古学者と言語学者と歴史学者と遺伝学者が、どうすればともによりよく研究できるのか、議論しているところです。重要な構成要素としてアフリカの機関における能力開発を含まねばならない、歴史科学における将来の訓練は、共通の基盤に向かって学者が努力し続けることを確実にするため、学生をこれらさまざまな領域専門知識と語彙に曝すべきです。
●文献の検討
アフリカのゲノミクス、とくに古ゲノミクスは新しい分野で、ほとんどの知見は2000年代初頭以来となります。しかし、半世紀以上にわたる研究は、アフリカにおける深いヒト起源や、さまざまな程度の強いで、言語学や考古学や歴史学の記録と関連しているかもしれない人口統計学的変容と関係する、人口構造の問題を調べてきました。広く一般化として、アフリカの人口史の研究は、1960年代から1980年代までの古典的な遺伝標識(たとえば、血液型やRh因子や免疫標識の研究)の研究から、1980年代から2000年代までの片親性遺伝標識(mtDNAとY染色体)へと移行し、最終的には、21世紀初頭のヒトゲノム計画の誕生でゲノム規模データへと進みました。2015年以来、この変化はゲノム規模の古代DNAデータの配列決定に向かい、その嚆矢はエチオピアのモタ洞窟の研究でした(関連記事)。アフリカの人口史に関する文献は、もはや現代人のDNAと古代人のDNAとの間に分かれておらず、むしろ、これら異なるデータ情報源はますます統合されています。
方法論の進歩と並行して、考古学者と言語学者と人類学者と歴史学者はますます、アフリカの過去の研究において遺伝学者の研究法と調査結果に関わるようになっています。マッカケン(Scott MacEachern)の画期的論文「遺伝子と部族とアフリカ史」は部分的には、カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)とその同僚の1994年の著作『ヒト遺伝子の歴史と地理』への応答として2000年に刊行され、遺伝学的研究における帰属意識に基づく分類の使用を問題視し、より広く、アフリカの過去についての考古学と歴史学と民族誌と言語学の研究に照らして、遺伝学的研究の価値と陥穽を調べました。この随筆だけが遺伝学の批判的評価を行なっているわけではありませんが、今日でも反響を呼び続けています。
2000年代初頭のゲノム革命は、考古学と歴史言語学と遺伝学の統合の追加の検討と、学際性の利点および危険性を引き起こしました。「古代DNA革命」は2015年以降アフリカで勢いを増しており、アフリカの研究におけるゲノム転換に関する配慮の見解の第三の波を引き起こしました。懸念の多くは、2000年にマッカケンにより提起されたものと同じです。他には、ヒト骨格遺骸の破壊的標本抽出や、有意義な共同体関与の必要性に焦点が当てられています。アフリカ主義の学者は、脱植民地化のレンズを通じて、および歴史科学をより公正なものとするためのより広範な呼びかけの一部として、ますますこれらの問題に気をつけるようになりつつありますが、アフリカにおける現代および古代のDNA研究の批判は、この分野の最初期から残っている未解決の問題を反映し続けています。
●一次資料
一次資料として文献に依拠する他の歴史科学とは異なり、ヒトDNA研究の一次資料は人々です。現代人のDNA研究の場合、これは遺伝的データだけではなく、民族的な自己の帰属意識や話している言語など、参加者が提供する情報も含まれます。古遺伝学的研究の場合、ヒトの古代DNA研究はおもに考古学的なヒト遺骸に依存します。古代DNA研究のさらなる資料は、動植物遺骸や、有機物があり、したがってDNAを保存しているかもしれない文化的物質を含みます。たとえば、植物素材の漆喰が付着した石器や、動物の皮から作った羊皮紙や、タバコのパイプ軸にヒト唾液の残留物です。考古学的収集物は一般的に、アフリカ大陸全域と、多くの場合ヨーロッパおよび北アメリカ大陸の両方で、博物館と大学で管理されています。植民地支配下では、多くのアフリカの考古学的収集物は、ヒト骨格遺骸を含めて、その由来の場所から持ち出され、ヨーロッパの博物館および大学か、ヨーロッパの支配地域内の別の場所に運ばれました。たとえば、複数のイギリスの旧植民地のアフリカの文化遺産とヒト遺骸は、現在では南アフリカ共和国で見られます。21世紀には本国送還がより公然と議論されていますが、ほとんどの場合実現からほど遠く、考古学的ヒト遺骸には(歴史時代のヒト遺骸とは対照的に)比較的少ない関心が寄せられてきました。
博物館は収集物のデータベースを維持していることが多く、それは時に公開されます。これらの収集物は正式には、関連する政府機関や学芸員や先住民共同体など他の利害関係者からの許可を得た場合にのみ利用できます。これらの利害関係者は各国の状況に特有で、遺跡の場所と時間枠によっても異なるので、本論文で網羅的に一覧化することはできません。適切な出発点は、国際博物館会議(International Council of Museums、略してICOM)により維持されている名鑑です。
考古学的遺物から標本抽出されると、派生的な分子生成物(DNA抽出物およびライブラリ)は通常、作業が行なわれ、温度と他の条件が最適な保存に管理されている実験室で、長期間保存されます。これは、効率的にこの情報を不滅化する不可欠な段階なので、考古学的遺骸のさらなる標本抽出なしに、他の遺伝学的研究で再調査して使用でき、保存機関に返却できます。最終的に、DNA抽出物とライブラリの保存も、標本が由来する国へと移るかもしれませんが、これはほとんどのアフリカ諸国にはまだ存在しない、専用の実験室施設が必要でしょう。
現代および古代のゲノム研究は、開かれた科学(オープンサイエンス)にとってモデルとして引用されてきました。慣行の条件として、古代と現代両方のDNA配列は公開され、他の研究者が独自に結果を確認し、これらのデータを自身の分析に組み込むことが可能になります(関連記事)。現在、3つの主要な保管所が活動し、相互にデータを共有しており、航海しています。それは、ヨーロッパヌクレオチド保管所と、遺伝子銀行と、日本のDNAデータ銀行です。多くの実験室も、研究により生成されたDNAデータを公開するウェブサイトを運営しており、関連する論文では多くの場合インターネット上のリンクが公開されています。開かれた科学を地元のデータ主権と調和させる必要性に関する進行中の議論は、いくつかの文脈で古代DNA研究と高度に関連しており、今後数年間で慣行の形成において大きな役割を果たす可能性が高そうです。
古遺伝学的研究の重要で時には過小評価されている側面は、補足情報がしばしば、過去の歴史学者や考古学者や歴史言語学者や他の学者が探していたかもしれない、詳細な一次データの多くを含んでいることです。DNA研究は、長大な原稿を許可しない科学誌で刊行されることが多いものの、補遺は、初めての場合が多い、遺跡や埋葬や放射性炭素年代や、研究でDNAを提供した現代人による民族の自己帰属意識や話している言語の、重要な詳細を刊行する場になってきました。
参考文献:
Prendergast ME, Sawchuk EA, and Sirak KA.(2022): Genetics and the African Past. African History.
https://doi.org/10.1093/acrefore/9780190277734.013.143
アフリカの過去に関する遺伝学的研究は、ヒトの起源と更新世の人口構造、および牧畜と農耕への完新世の移行に伴う人口統計学的変化の起源と方向性と速度に焦点を当てることが多くなっています。過去2000年間における国際都市や国家の台頭は、ひじょうに限定的な範囲の遺伝的証拠で調べられてきましたが、これは研究の豊かな鉱脈となる可能性があります。次第に、奴隷とされたアフリカ人の強制移住と離散の進展が、同様に遺伝学的研究の主題となりつつあります。しかしこれまで、アフリカは、ユーラシアなど世界の一部と比較して、古代人と現代人両方のDNAの観点で研究が大きく遅れています。これは、過去の研究だけではなく医療技術革新や公衆衛生も決定します。
刊行されたアフリカ人のゲノムの大半は現代人に由来しますが、アフリカ大陸の長くて複雑な人口史を考えると、過去の再構築にさいして、このデータのみに依拠することには問題があります。古代DNAは次第に、最近の人口統計学的変化に起因する20世紀と21世紀に生きている人々のゲノムではほぼ見えない過去について、新たな観点を提供しつつあります。2015年以降となるアフリカの古代DNA研究の急増は、現代人および死者両方の遺伝学的研究の倫理性に関する長年の議論も再燃させました。現在アフリカで働いている研究者は、利害関係者の関与、充分な情報を伝えたうえでの合意、生物学的標本とデータの管理を含む、倫理的問題を考慮しなければなりません。古代DNA研究においては、子孫の共同体、博物館の学芸員、生物考古学者、遺伝学者などが、これらの議論において重要な役割を担っています。
●古代DNAとその研究内容
デオキシリボ核酸(DNA)は全ての生物に見られる分子です。個体のDNAの大半は細胞の核に見られます。このDNAは核DNAと呼ばれ、両親から継承し、23組の染色体を含んでおり、その中には22組の常染色体(性染色体ではない性染色体)と1組の性染色体が含まれます。性染色体については、1組は男性も女性も母親からX性染色体を受け継ぎ、1組は父親から継承し、女性はX性染色体、男性はY染色体です。少量のDNAが細胞のミトコンドリアにも見られます。このDNAは「ミトコンドリアDNA(mtDNA)」と呼ばれ、母親から子供に受け継がれます(つまり母系沿いです)。
DNAは、ある世代から次世代へと特徴的で追跡可能かもしれない生物学的特徴について情報をもたらします。それは生物間の祖先関係や、人口集団水準における体系的な遺伝的差異です(人口構造として知られています)。DNAは生者および死者両方の生体組織から抽出できます。DNAが数十年前から数十万年前に死んだ生物から回収される場合、それは古代DNAとして知られています。古代DNAの研究は、生者から回収されたDNA(「現代DNA」と呼ばれることがあります)の研究とは大きく異なります。それは、死後にDNAが分解し始め、生存中の分枝の統合を維持していた酵素過程により修復されなくなるからです。ヒトの古代DNAは、骨や歯や歯石(石灰化した歯垢)など骨格組織から得られることが最も多いものの、毛髪やミイラ化した肉など軟組織からも回収できます。古代DNAはヒトの「痕跡」からも得ることができます。たとえば、堆積物における排泄物や分解した生体物質、あるいは人々に使われていた物質の残留物ですが、これは今までDNAの保存が最良である世界の一部においてのみ適用されてきました(関連記事1および関連記事2)。
古代DNAの保存は、温度や湿度や土壌pH(酸性度)など、無数の要因により異なります。古代DNA回収は、研究の対象である生物が寒冷で乾燥した環境と、安定した環境条件の洞窟などの場所に生息していた場合(つまり、温度が大きく変動せず、湿度も同様に変化が少ない場所)に、とくに成功してきました。さらに、古代DNAはさまざまな生体組織や他の基質で保存が異なります。古代DNA研究の進展と世界中の新たな条件への適用にとって重要となる発見は、側頭骨の錐体部の内側にある内耳骨が、同じ個体の他の骨よりも最大で数百倍以上のDNAを含む骨格要素である、ということでした。歯のセメント質は、耳小骨と同様に、古代DNAの保存にとってもう一つの最適な基質だと示されてきました。
標準的手法に従って生体組織もしくはヒトの痕跡がある物質からDNAが抽出されると、それが巧みに処理され、配列決定が準備されます。配列決定は、分子を構成する核酸、つまりアデニン(A)とチミン(T)とグアニン(G)とシトシン(C)の順番を「読む」技術です。生の配列決定データは次に、品質管理閾値を下回るデータの削除を含めて処理され、ヒト参照ゲノムに対してデータが整列され、重複分子が削除され、分離された古代DNAの信頼性が評価されます。
古代DNAデータは過去の遺伝的景観の再構築に用いられるので、研究者にとって重要なのは、配列決定され研究されるDNAが本物の内在性古代DNAである、と確証することです。本物の内在性DNAとは、DNAが対象の個体に由来し、外因性の汚染DNA(つまり、対象の生物に由来せず、その大半は環境もしくは研究者自身など現代の起源であるDNAです)ではないことです。汚染は古代DNA研究においてとくに深刻な課題で、究極的には、DNAが抽出されるだろう生体物質が選択されたさいに、ヒト遺骸の発掘中に始まります(作業において古代DNA構成要素を含む計画を立てている考古学者には、指針が刊行されてきました)。陽圧体系を通じて無菌環境として維持され、紫外線(UV)光や化学洗浄で除染されて、DNAが増幅(標的DNAの多くの同一のコピーが生成される過程)後に研究される場所とは物理的に分離され、個人の防護装置を着けた訓練された技術者のみが立ち入りできる、特殊な施設である古代DNAの「無菌室」の使用は、汚染の危険性をさらに最小化します。汚染減少のため厳格な実施要綱に従っているにも関わらず、古代の個体から抽出されたDNAが配列されるさいに、少量の外因性DNAが存在する可能性は高い、と示されています。したがって研究者は、集団遺伝学的分析の実行前に、汚染の量を評価しなければなりません。
重要なことに、古代DNAは、古代の分子に特徴的な特定の種類の損傷の存在により、汚染された現代のDNAと区別できます。具体的には、「シトシンの脱アミノ化(シトシンのヌクレオチドがウラシルのヌクレオチドに変換され、その結果、チミンとして配列決定技術に読み取られる過程)」が、DNA分子の末端にクラスタ化する(集まる)ものの、分子の内部全体では欠けている、「CからT(つまり、シトシンからチミン)」の転移の高率として古代DNAに反映されています。古代DNAに特徴的なCからTの損傷率の定量化に加えて、信頼性の評価と汚染率評価のための別の手法があります。そうした手法には、mtDNA配列もしくは男性におけるX染色体配列の一貫性評価が含まれます。(X染色体を1コピーしか持たない)男性においての全てのX染色体配列と同様に、個体のmtDNA配列の全ては同一のはずなので【ミトコンドリア内で変異型が共存しているヘテロプラスミーの場合もあります】、これらの状況でのあらゆる「不適正塩基対(ミスマッチ)」は、汚染の定量化に使用できます。汚染を評価するさらなる手法には、ゲノム内での物理的近接性に起因する偶然により予測されるよりも頻繁な、連鎖不平衡の崩壊や特定のアレル(対立遺伝子)の関連(人々のかなりの割合が同じヌクレオチドを有していないものの、代わりにその位置で見つかるヌクレオチドの選択肢が2つかそれ以上あるゲノムの位置)の評価が含まれます。
常に損傷を受けていることに加えて、古代DNAは少量しか存在しないことがよくあります。そのため、古代DNA研究史の大半は、個体の母系の追跡に使用できる片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)であるmtDNAに焦点を当てることに費やされました。各細胞の核に単一のコピーしか存在しない核DNAとは異なり、mtDNA分子は全細胞でそれぞれ数百から数千もの複数のコピーで存在します。mtDNAは母親から子供に組換え(新たな配列を作る2つのDNA分子間の遺伝的物質の交換)なしで継承されるので、同一のコピーが変換されずに(新たな変異を除いて)世代から世代へと受け継がれます。mtDNAの急速な変異と地理的にパターン化された分布は、過去と現在の個体の「ハプロタイプ(片親からともに継承された変異群)」と「ハプログループ(共通の祖先を有する片親から継承されたハプロタイプ群で、mtDNAとY染色体の両系統の参照に用いられます)」分析を容易にしました。mtDNAを補完するY染色体は、男性個体の父系の追跡に使用できます。それは、Y染色体が男性から息子へと受け継がれ、Y染色体の大半(95%程度)を構成する非組換え部位(NRY)があるからです。これら片親性遺伝標識の両方は情報をもたらすことができますが、子孫の単一系統のみを解明し、1つの系統樹のみの再構築に使用できます。これが意味するのは、片親性遺伝標識だけの研究により得られる集団史についての情報量が限定的である、ということです。対照的に、ゲノム規模のDNAは、多くの独立したゲノム部位の研究が多くの系統樹を反映しており、統計的検出力の増加をもたらし、集団史のより包括的な説明を提供します。
分野として、考古遺伝学的研究は革命の真最中にある、と考えられます。ますます、方法論的および分析的手段の詳細や、2010年代以降の研究からの重要な発見や、考慮されねばならない倫理的検討を含めて、古代DNA分析の概要は非専門家にとって利用可能なものになりつつあります。これには、アフリカの状況からの古代DNAに関する具体的に焦点を当てた要約が含まれます。
●古代DNAはアフリカの過去について何を語れますか?
古代DNAはアフリカの考古学的状況から回収されることは稀で、それは部分的には、アフリカ大陸のほとんどの高温多湿に起因する、生体分子の分解率の高さのためです。代わりに、アフリカの遺伝的過去についての知られていることのほとんどは、20世紀後半と21世紀に生きている人々のDNAに由来します。これらのデータは医学遺伝学の枠組みで収集されることが多く、疾患の遺伝性や公衆衛生の問題に焦点が当てられていることが多いものの、過去と現在の人口構造についても情報をもたらします。さらにも現代人のDNAに関する多くの研究は、明らかに進化的もしくは考古学的問題を念頭に置いて実施されており、ますます、古代人と現代人のDNAを組み合わせて、人口史の強力で大規模な分析が可能となります(関連記事1および関連記事2)。
2015年以降の方法論的進歩により、破壊を最小限にしながらの最適ではない保存条件下での古代DNA抽出が可能となり、古代DNA研究はDNAの保存が乏しいと以前には思われていた状況に適用できるようになりました。アフリカでは、これらの発展は急速に過去の理解を進めました。アフリカにおける古代DNA研究の成長は、歴史学に重要な貢献をしています。それは、現代人のDNAだけからの人口構造の再構築は不可能な場合が多いからです。人々は祖先が暮らしていたのと正確に同じ場所に住んでいる可能性は低く、全面的な人口統計学的変化、たとえば、牧畜や農耕の拡大、国際的な都市国家の台頭、強制的な移住と奴隷化に伴うものは、20世紀と21世紀にアフリカで暮らしている人々のDNAが、過去に存在した遺伝的差異の景観を直接的に表しているわけではない、と意味しています。さらに、これらの人口統計学的変化には、混合を伴う場合が多く、したがって、その時には遺伝的に区別できる集団がDNAを結びつけ、古代の遺伝的系統が、たとえ現在の人々に存続しているとしても、混合していない形態ではもはや存在していない可能性を意味します。ヒトの古代DNAは、この、さもなくば不可視の遺伝的多様性の評価と、今では消滅した「亡霊(ゴースト)系統」からの寄与の解明に重要です。亡霊系統とは、記録されている現在の人々にはたどれないものの、DNAを寄与した個体群の分析を通じて特定できる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)です。
ヒトDNAに加えて、非ヒトDNAも豊富な情報源です。たとえば、現在のアフリカの家畜と作物の遺伝学的研究は、これらの家畜と栽培作物の起源と拡大について、それに伴う人為的選択と交雑の過程についてとともに、情報をもたらすことができます。考古学者はとくに、牧畜拡大のそうした研究の意味に関心を抱いてきました。現代の遺伝学的研究は、法定相続動産である家畜と作物の系統(20世紀と21世紀の品種「改良」努力と産業化された農業により脅威に晒されています)の理解を目標として行なわれることが多く、これらの系統は重要なアフリカの生物学的遺産で、文化的遺産および伝手投擲な生態系地域とともに保護の価値がある、と強調します。残念ながら、アフリカにおける非ヒト古代DNAの研究は現時点では稀です。これは少なくとも部分的には、料理の準備の一部として過熱された、動物もしくは植物遺骸のDNA破壊のためです。2021年時点で、古代DNAはわずかな遺跡の数点の家畜および共生動物の遺骸から配列決定されました。これらの研究は、アフリカのロバの起源、ニワトリやクマネズミやイエネコやブタなど非アフリカ系分類群の導入、形態学的に類似した野生ウシ属の家畜骨格遺骸の区別など、複数の問題に光を当てるのに役立ってきました。植物の古代DNA研究は、アフリカ北部に限られたままです。古代DNAの他の情報源には、病原体が含まれます。たとえば、真正細菌のリケッチア・フェリス(Rickettsia felis)や寄生性のトキソプラズマ(Toxoplasma gondii)は、ともに現在の南アフリカ共和国で2000年前頃に埋葬された少年の遺骸で特定され、これら病原体の牧畜前の歴史の再構築を可能としました。
とくに古代人の研究を行なう場合、遺伝学的研究は孤立して行なわれるのではなく、他の形式のデータを用いて、それとともに解釈されて文脈化されるよう、設計されることを考慮することが研究者にとって重要です。遺伝学者はその解釈において、など、生物考古学および骨格形態学、考古学、歴史言語学、口承史、文献記録(利用可能で関連する場合は)など、他の一連の証拠を検討せねばなりません。これら一連の証拠は、興味深く生産的な相関と、さまざまな一連の調査間の矛盾につながるかもしれません。たとえば、ある古代DNA研究は、人口史について遺伝学と言語学の独立した一連の証拠間の比較的強い相関を見つけましたが、明確な物質文化伝統が言語および祖先系統と関連しているかもしれない、という以前の議論を却下しました(関連記事)。古代DNA研究は、たとえば、年代の精緻化(新たな直接的放射性炭素年代が古代DNA研究に伴う場合は多くあります)、もしくは新たな考古学的焦点の場所になるかもしれない以前に忘れられていたおよび/もしくは刊行されていない遺跡の調査により、他の一連の調査の証拠も裏づけることができます。上手くやれば、そうした学際性はこの研究の強みの一つであり、考古遺伝学という用語(考古学的文脈からの古代DNAの全体論敵研究)に反映されています。
●アフリカにおける倫理的な考古遺伝学的研究の実施
倫理的配慮は、DNA標本が生きている人々か死者かヒトの創った文化的物体もしくは残留物から得られたかどうかに関わらず、全てのヒト遺伝学的研究にとって最重要です。いくつかの配慮は、動植物遺骸など非ヒト考古学的資料にも拡張されます。アフリカの研究状況では、二つの密接に相互に関係している問題が、あらゆる議論において大きく立ちはだかっています。それは、植民地主義の遺産と世界的な南北の不平等です。植民地期の遺産は、アフリカにおける科学研究の全ての側面に影響を及ぼしており、その範囲は、考古学的収集が精選されて蓄積された場所から、人々がヒトを対象とし秦生物学的研究に近づく方法にまで及びます。世界的な南北不平等は、研究のための資金と施設と訓練の機会のほとんどがアフリカ大陸外に位置することを意味しており、これはヘリコプター(もしくはパラシュート)研究の長年の問題を悪化させます。その研究により、非アフリカ人学者は、そうした標本が由来する国々の学者や機関やより広く国民一般にとっての長期的利益を産まずに、科学的分析のための標本を収集します。さらなる倫理的配慮は、先住民集団もしくはヒト遺骸の子孫もしくは保護者と確認されている他の人々など利害関係者の特定と関与、および遺伝学的研究に基づく歴史的物語の政治的動員の可能性に集中しています(関連記事)。
生きている人々からDNA標本を収集する遺伝学者にとって、確固たる世界的な生命倫理の文献があり、多くのアフリカの諸国はヒトを対処とした研究について確立した指針と手順を有していますが、倫理的問題は残っています。アフリカにおけるヒトの遺伝と健康(H3アフリカ)協会は、ゲノム研究や生物銀行(つまり、生物学的標本の収集と保管)アフリカの研究状況に固有の指針開発に重要な役割を果たしてきました。要するに、この枠組みは以下の4原則により導かれます。第一に、アフリカの価値と文化への感受性と尊重です。第二に、アフリカの人々にとっての利益です。第三に、アフリカの利害関係者の知的参加です。第四に、「尊重、公平、公正、互恵主義」です。これら中核的価値は次に、アフリカ人の知的指導、同意、能力構築、危害回避、国際協力などの問題を導きます。
ヘリコプター研究や能力構築の欠如のような問題は多くの研究領域にまたがっていますが、考古遺伝学的研究と関連するいくつかの具体的問題は、医学や現代人の集団遺伝学で遭遇するものとは異なっています。たとえば、生きている人々での研究のために設計された実施要綱は、古代人の組織の破壊、ヒトが作った文化的物体の扱い、古代DNA抽出とライブラリの長期精選、協議会の先住民集団もしくは子孫集団の特定、ヒト遺骸の本国送還に対して、適切に対処していません。古代DNA研究の倫理的原則は、世界的に、とくに北アメリカ大陸で急速に発展しつつあります。しかし、研究状況は大きく異なり、多くのアフリカ諸国では、世界の他地域と同様に、古代DNA研究の規則はあらゆる考古学的資料での破壊的研究の他の形態とは異なっており、ヒト遺骸を人工遺物として事実上扱っています。南アフリカ共和国は注目すべき例外で、古代DNA研究は南アフリカ共和国遺産資源局と精選機関を通じて厳密に規制されており、代表的な共同体集団との協議会を含んでいるので、同じ原則の多くを生きている人々の遺伝学的研究と同様に適用しています。
古代DNA研究を指導する統一された方針はなく、アフリカ研究者は、学芸員と考古学と遺伝学の共同体および特定できる子孫集団を含めて、利害関係者が同意できる最良の実践を呼びかけ始めました。これらの最良の実践は、標本抽出決定(つまり、どの骨が破壊的分析に選ばれるのか、ということです)からデータ保管および共有までの全てを網羅しています。最良の実践の実施は依然として可変的で、地元の研究機関や政府機関での理解の覚書を通じて行なわれますが、汎アフリカもしくは世界的な政府機関か専門家協会が役割を果たし始めるかもしれません。
●アフリカの過去に関する遺伝学的研究の状況
アフリカ人の遺伝的データは、とくに、アフリカ大陸における現在と過去の遺伝的多様性、救命公衆衛生の進歩につながる発見の可能性、ヒトの起源とアフリカおよびアフリカの移住史関連を考えると、驚くほど充分には研究されていません(関連記事)。データは、現代人のDNAと古代人のDNAの両方、とくに後者についてアフリカ大陸全体で空間的に斑状であり、古代DNAの事例では、多様な考古学的も宇内と期間の範囲は不均一なままです(図1)。このデータの不足は、他の世界的状況と比較するととくに顕著ですが、状況は劇的に変化する可能性も秘めています。以下は本論文の図1です。
アフリカの古代DNAの現在の不均一性を考えると、単一の古代の個体のゲノムには、過去について知られていることを劇的に変える可能性が依然としてあります。本論文は、とくに考古学者と言語学者と歴史学者による数十年の研究の結果との提携で検討すると、アフリカにおける現代人と古代人のDNA研究を通じて対処できる、いくつかの重要な問題を浮き彫りにします。新たな研究が現れるにつれて知識の状態は変わりますが、これまで遺伝学でどれだけ完全また不完全に対処されてきたかに関わらず、アフリカの過去の研究者にとって関心のある長年の問題が検討されます。以下、アフリカの過去に関する遺伝学的研究の具体例です。
●ホモ・サピエンスのアフリカ起源
ヒトの進化はアフリカの集団遺伝学の中心的議題となってきました。アフリカ人20個体を含む世界規模の現代人147個体のmtDNAに基づいた1987年の画期的研究は、多くの古人類学者と考古学者が長年議論してきたことをしっかりと確証しました。つまり、現生人類(Homo sapiens)はアフリカで過去20万年間に進化した、ということです。この遺伝的発見は、現在生きている人々からのDNAのその後の研究を通じて確証され、現生人類がユーラシアの多くの地域で出現した、というより早期のモデルの却下を促しました。21世紀の変わり目までに、化石と考古学のデータは、現生人類だけではなく、「現代的行動」のアフリカ起源についての合意も支持するようになりました。「現代的行動」とは、「現代的」とは何を意味するのか、という見直しにより、それ以降に問題視された概念です。2010年代には、複数の遺伝学的研究が、DNA標識の現在の分布に基づいて、現生人類が最初に出現した地理的領域の特定を試みましたが、最近の研究はこの手法を批判しました(関連記事)。
遺伝学と考古学器と化石の証拠が増え続け、現生人類のアフリカ起源を支持し続けていますが、古代DNA研究は状況をさらに複雑にしてきており(関連記事)、たとえば以下のような研究があります。(a)アフリカ外における現生人類とホモ属の他の構成員、つまりネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との間の混合が論証されました。(b)一部の現在のアフリカの人口集団における少量のネアンデルタール人祖先系統が明らかになり、これはアフリカへのユーラシア祖先系統の逆流を伴う人々の後の移動から生じました。(c)現生人類と早期に分岐した系統(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)と現生人類との間のアフリカ内における混合のより暫定的な可能性が提起され、これは一部のヒト化石で観察された「古代型(archaic)」の形態学的特徴の後期の存在についての説明に役立つかもしれません。最近のアフリカ起源のモデルはより洗練されつつあり、ヒトの根本的なアフリカ起源を認めるものの、同時に、現生人類の出現を表す、アフリカ内における単一の場所もしくは時間はないかもしれない、と認識しています(関連記事)。学問は、「現代的な」遺伝的祖先系統と骨格形態と行動が意味するものを解明し始めており、これらが単一の一括を形成する可能性は低い、と認識しています(関連記事)。
アフリカの後期更新世人口構造の完全な理解は、現時点では15000年以上前およびさまざまな場所からの古代DNAの欠如により制約されていますが【今年(2022年)の研究(関連記事)では、アフリカ東部で15000年以上前となる古代人のDNAが解析されています】、完新世個体の古代DNAにより、研究者は30万~20万年前頃にアフリカで分岐したヒト祖先系統の主要な系統を特定できました。たとえば、2017年の研究(関連記事)は、南アフリカ共和国のクワズール・ナタール(KwaZulu-Natal)州で2000年前頃に埋葬された古代の採食民3個体のゲノムが分析され、この3個体には牧畜民もしくは農耕民との遺伝子流動の証拠がありませんでした。
研究者は、バリット・ベイA(Ballito Bay A)と呼ばれる1個体の、高網羅率で混合していないゲノムを利用でき、最初の人口集団の分岐年代が35万~26万年前頃と再推定されました。これらの調査結果は、生きている人々からのDNAに基づく以前の推定値をさかのぼらせ、現生人類の最初の出現を315000年前頃と示唆する現在の化石証拠(関連記事)と一致します。カメルーンのシュム・ラカ(Shum Laka)岩陰遺跡で8000年前頃と3000年前頃に埋葬された子供4人の古代人ゲノムのその後の研究は、同じ頃のアフリカ内における4つの祖先的な系統をモデル化し、それは、現在のアフリカ中央部および南部の採食民につながる系統と、アフリカの内外の全ての現代人につながる系統と、第四の「亡霊」系統で、これは混合していない状態ではもはや存在していません(関連記事)。
アフリカに焦点を当てる将来の考古遺伝学的研究は、さらなる更新世の人口構造を明らかにする可能性が高く、初期現生人類の成功を可能とした特定の遺伝的適応をより適切に特定できるかもしれません。さらせに、古代型のホモ属化石から(ユーラシアの場合のように)か、あるいは非ヒト類人猿化石からの古代DNA配列決定の可能性があり、それは現生人類の進化に先行してアフリカ大陸に生息していたヒト科に光を当てるかもしれません。温暖なヨーロッパでは、最初の現生人類の古代DNAは45000年前頃で(関連記事)、さらに古い人類の古代DNAの年代は43万年前頃までさかのぼります(関連記事)。
対照的に、アフリカで配列決定された最古の古代DNAは、2021年時点でわずか15000年前頃であり【上述のように、今年の研究では15000年以上前までさかのぼりました】、それよりずっと古いヒト遺骸の配列の試みは、推定される後期更新世遺跡の少なくとも一部については最近の(500年ほど前)の起源を明らかにしました(関連記事)。温暖および熱帯環境で埋葬された骨格遺骸における古代DNAの保存の見込みは低いままですが、古代DNA手法の進歩により、時間枠がさらにさかのぼる可能性はあります。さらに、他の手法、たとえば、数百万年間も安定して残るタンパク質の研究(プロテオミクス)が、古代DNAでは不可能な時間尺度で問題に対処できるようになるかもしれません(関連記事)。
●古代アフリカの採食民
遺伝学的研究では、採食民(主要な生計形態として狩猟と採集および/もしくは漁撈をしている人々)とみなされている人々は、ハッザ人(Hadza)などアフリカ東部採食民や、サン人(Juǀ'hoansi)などアフリカ南部の採食民や、ムブティ人(Mbuti)などアフリカ中央部採食民を含めて、ひじょうに古く、深く分岐した系統を有する、と示されてきました。採食と関連した考古学的状況で見つかった個体群の古代DNAは、広範な牧畜と農耕の前に存在した人口構造の解明において、ますます重要な役割を果たしつつあります(関連記事)。これら考古遺伝学的データは、現在とは顕著に異なるアフリカ人の景観を明らかにしており、それはその後、後期更新世と完新世において大きな人口統計学的変化(たとえば、人口拡大やボトルネックや混合事象)により変わったので、過去に表されていた遺伝的差異の一部のみが、現在のDNAで検出可能です。
考古遺伝学的研究は、サハラ砂漠の南北に暮らす採食民について、さまざまな人口史を強調します。アフリカ北西部では、15000年前頃にモロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡の15000年前頃に埋葬されたイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の採食民が、この地域に暮らす人々とアジア南西部のナトゥーフ(Natufian)文化(ナトゥーフィアン)と関連する人々との間の新石器時代の前の遺伝的つながりを論証しており、これは考古遺伝学的パターンと関連するかもしれない発見です。その後の古代人と現代人のDNA研究は、この独特な旧石器時代祖先系統の現在にまで至る持続を論証しており、少量で、アフリカの北西部から北東部にかけて減少します。
サハラ砂漠以南のより多くの遺跡から調査された古代の個体数はさらに多く、後期更新世から完新世を通じてのアフリカ採食民の人口構造の大規模な全体像の発展に触媒作用を及ぼします。これらのデータは、アフリカ東部および南部の古代の採食民における関連性の連続体(もしくは生物学的勾配)の存在を明らかにし、これはアフリカの角から南アフリカ共和国のケープにまで伸びています。これらのデータから、アフリカの東部と南部と中央部の採食民につながる枝は20万年前頃に分岐した、とも論証されます(関連記事)。最後に、これらの研究から、いくつかの古代系統は、現在同じ地域に暮らす人々のゲノムにおいて、稀にしか検出されないか、まったく検出されない、と示され、完新世における大きな人口統計学的変化を証明します。
古代アフリカ採食民の人口構造と相互作用と遺伝的適応については、まだ学ぶべきことが多くあります。たとえば、20万年前頃以後に深く分岐したアフリカ東部と南部と中央部の系統の子孫である人々の間のつながりについて、問題が残っています。これが重要なのは、古環境の証拠が劇的な変化を証明しており、考古学的証拠が中期石器時代の発展および後期石器時代への移行と関連する技術と象徴表現と社会組織を証明している、後期更新世における人口統計学やアフリカ大陸全体の移動や環境への遺伝的適応について、ほとんど知られていないからです。考古学と化石と現代人の遺伝的証拠は、後期更新世における縮小と孤立と拡大の断続的期間を示しています(関連記事)。しかし、いつどこでどのように、これらの仮定が現代のアフリカ人の多様性を形成したのか判断するには、多様な時空間的状況におけるより高密度の古代DNAデータが必要です。そうしたデータは現在利用できず、それは部分的には、地理的に変わりやすい研究し、限定的な研究網、一部の場所における現在の政治的上昇および物流の課題に起因し、ヒト遺骸の保存に関する、骨格資料の利用可能性および環境条件の影響、とくに温度と湿度も反映しています。
●後期完新世の人口統計学的変容
アフリカの刊行された古代人ゲノムのほとんどは、年代が後期完新世で(図1B)、この期間は現在のアフリカの遺伝的景観を根本的に変えた人口統計学的事象により特徴づけられます。その結果、これらのデータは、食料生産出現および拡大と関連する変容、およびそれよりは小程度ではあるものの、国家の台頭と関連する観点で、おもに解釈されてきました。しかし、研究された古代の個体群は、古代の遺伝的多様性の小さな断片を表しており、多くの地域と期間は依然として古代DNAで調査されていません。本論文では、研究の状況と重要な問題、とくに過去5000年間について、地域ごとの概要が提供されますが、遺伝学的研究はこの動的期間に起こり得たことの表面を引っ掻き始めたばかりであることが多い、と要注意です。以下、具体的な地域事例です。
●アフリカ北西部とカナリア諸島
アフリカ北西部とカナリア諸島の遺伝的歴史は、アフリカ大陸の他地域と比較して相対的によく研究されていますが、ゲノム規模の古代DNA研究はほとんどありません。モロッコの2ヶ所の遺跡のゲノム規模古代DNAデータは、新石器化と関連する遺伝的変容を浮き彫りにしており、前期新石器時代と後期新石器時代との間の(7000~5000年前頃)ジブラルタル海峡を横断する人口移動に寄与したユーラシア祖先系統の流入を論証します(関連記事)。この調査結果は、モロッコで見つかったイベリア半島起源の土器や、イベリア半島で回収されたアフリカの象牙やダチョウの卵殻など、この時点でのジブラルタル海峡を超えたつながりの考古学的証拠に重みを加えます。
古代人と現代人のDNAデータを組み合わせると、この新石器時代の人口統計学的変容は、アラブ化などその後の過程よりも現在のアフリカ北部人に大きな遺伝的影響を有している、と示されました。遺伝学的研究は、これらジブラルタル海峡を越えたつながりが単方向ではなかったことも示します。3600年前頃までに、サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統は、スペイン南部のアンヘル洞窟(Cueva del Ángel)に埋葬された1個体で検出されていますが(関連記事)、ヨーロッパへのアフリカ祖先系統のこの拡大の時期と程度をより深く理解するには、より多くの研究が必要です。
アフリカ本土と先史時代カナリア諸島との間のつながりと、カナリア諸島のカスティーリャによる征服と関連した人口統計学的変容は、現代人と古代人両方のDNAを通じてよく証明されおり、遺伝的歴史の観点ではアフリカの最もよく研究された地域の一つになっています。在来のカナリア祖先系統を有する現代人のDNAは、先スペイン期埋葬からの片親性遺伝標識とゲノム規模古代DNAデータ両方と合わせると、2000年前頃となるカナリア諸島最初の入植者について明確なアフリカ北西部起源を示し(関連記事)、生物人類学的および考古学的証拠と一致します。まとめると、これらの研究は、モロッコにおける上述の研究とともに、このアフリカ北西部祖先系統はそれ自体複数供給源からの混合だった、とさらに示します。つまり、アフリカ北西部からのカナリア諸島への人々の到来の複数の波があり、個々の島には異なる人口史があって、遺伝的データはフェニキア・カルタゴ人のカナリア諸島の入植という論争的な仮説の却下に役立ちます。
15世紀以降の埋葬は、カナリア諸島の現代人のゲノムと同様に、征服と植民化、致命的暴力、奴隷化の遺伝的影響を論証し、島間の移動性増加を証明します。ヨーロッパ祖先系統の大規模な流入は、カナリア諸島の古代人と現代人で検出され、性別に偏っており、ヨーロッパ人男性による先住男性の置換を示し、女性系統のより長期の存続とは対照的です。しかし、遺伝学的研究は、在来のカナリア祖先系統が、歴史的および民族誌的資料に基づいて以前に評価されていたよりも多く現在の人口集団のDNAに寄与していたことも論証し、在来の人口集団はほぼ完全にヨーロッパ人に置換された、との意見に異議を唱えます。
アフリカ北部およびサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統がカナリア諸島現代人でよく記録されていますが、ヨーロッパ人の植民化の前後両方において、どのようにいつこれらの系統が現在の人口集団に寄与したのか、理解するには古代DNAが必要です。2ヶ所の歴史時代の埋葬地の古代DNA分析は、スペイン帝国主義の遺伝的遺産を証明します。一方は、サンタ・クルス(Santa Cruz)の18世紀の教会墓地で、この港町の多様な人口を反映しており、ヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸の祖先系統を有する個体がいました。もう一方は15~17世紀の墓地で、グラン・カナリア島のサトウキビ畑と関連しており、恐らくは奴隷とされた労働者のアフリカ北西部とセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)と在来のカナリアCラン系統を明らかにしました。この問題は、後述の「アフリカの離散」の項目でさらに検討されます。
●アフリカ北東部
アフリカ北東部(本論文では、現在のエジプトとスーダンと南スーダンとアフリカの角として定義されます)はアフリカ大陸とユーラシア大陸との中間に位置し、何千年にもわたって人口集団の相互作用の接点であり、昇進や文化や人々を含む交易と相互作用の領域の導管として機能しました。そのため、この地域の現在の人々が、アフリカと非アフリカ両方に起源がある祖先系統の構成要素を有することは、驚くべくではありません。世界の多くの他地域と同様に、アフリカ北東部の遺伝的多様性はまず、血液検査と他の古典的な遺伝的標識、および片親性遺伝標識のハプログループと他の遺伝的標識を用いて研究されました。
最近では、アフリカ北東部の遺伝的多様性は、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)など生理学的特徴の研究を含む、現代人におけるゲノム水準の差異の分析を通じてより高解像度で研究されました(関連記事)。この地域の古代の人口集団の理解は、現代人の遺伝的多様性(および歴史資料と考古学的データ)から導かれた推論におもに基づいていますが、サハラ砂漠以南のアフリカの奴隷貿易やイスラム教拡大など、劇的な人口統計学的変化につながった事象に先行する遺伝的多様性の景観は、古代DNAなしには充分には解決できません。
アフリカの最初に刊行されたゲノム規模の古代DNAは、現在のエチオピア南西部の高地のモタ洞窟(Mota Cave)で埋葬された、4500年前頃のアフリカ北東部で暮らしていた成人男性採食民でした(関連記事)。遺伝学者がこの個体を「モタ」と呼ぶ一方で、考古学的研究はこの個体を「ベイイラ(Bayira)」と呼んでおり、これはガモ語で「第一子」を意味します。この個体は、おそらくは何万年も前にアフリカ大陸からまず去った人々の子孫により、アフリカへの「逆移住」経由でもたらされた後に、アフリカ北東部全体で広く存在し、多くの現代人集団においてさまざまな割合で見られるユーラシア西部関連祖先系統を有していません。
「モタ関連」祖先系統(つまり、モタ洞窟の個体を特徴づける種類の祖先系統)は、4500年前頃と現在との間に生きていた古代人で特定されており、現代人において検出され続けています(関連記事)。2021年の研究は、現代人におけるモタ洞窟からの空間的距離とモタ関連遺伝的祖先系統との間の著しい相関を示し、4000年以上のエチオピアにおける人口構造の顕著な保存を示唆します。モタ洞窟個体からのゲノム水準の情報の配列決定がその後の古代DNA研究においてひじょうに有用と証明されたものの、まだ学ぶべきことは多くあります。たとえば、ある研究は、このモタ個体は、アフリカ西部から中央部の一部の現代人にも祖先系統をもたらしたものの、まだ直接的には配列決定されていない、「亡霊」供給源の部分的子孫である可能性が高い、と明らかにしました(関連記事)。
アフリカ北東部の他地域は、考古学者や現代人のDNAのいくつかの研究(たとえば、ナイル川流域の人口移動)ではかなり注目されているにも関わらず、古代DNA研究ではほぼ見過ごされており、それは暑い気候で生体分子の分解水準が増加することに起因する可能性が高そうです。とくに、エジプトとスーダンを二分するナイル川流域は、集団遺伝学的研究にとって重要な地域です。とくに古代エジプトは、エジプト人とユーラシア西部の人々、およびサハラ砂漠以南の集団との類似性と相互作用を調べようとする考古学者と歴史学者にとって魅惑の情報源です。
2017年に、ナイル川流域のエジプトのアブシール・エル・メレク(Abusir el-Meleq)遺跡からの最初のゲノム規模古代DNAデータが配列決定され、プトレマイオス期の前(新王国時代から末期)に暮らしていた2個体と、プトレマイオス期に暮らしていた1個体の祖先系統への新たな洞察を提供しました(関連記事)。1300年以上にわたる古代エジプト史で、古代DNAデータは古代エジプト人と近東の人々との間の密接な関係を示し、考古学および歴史的証拠と一致します。古代エジプト人は、遺伝的に現在のエジプト人とよりも近東の人々の方と類似していました。現在のエジプト人は約8%多くサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統を示しており、ローマ期以後のこの地域へのそうした祖先系統の流入を反映しています。この祖先系統の変化は、現在の人々の分析から以前に示唆されていました。
ナイル川を上流へと移動し、時間をさかのぼると、スーダン・ヌビアのクルブナルティ(Kulubnarti)のキリスト教期(650~1100年頃)となる66個体の古代DNA研究が、古代エジプトとヌビアとの間のとくに密接な関係を証明しました(関連記事)。レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の人々で見られる祖先系統と最も類似した祖先系統とは、クルブナルティの個体群の祖先系統の多く(57%程度)を構成しており、エジプトを通じてもたらされた可能性が最も高く、考古学的証拠と共鳴します。この祖先系統は女性と不釣り合いに関連しており、この地域における女性の移動性の影響について新たな問題を提起します。アフリカ北東部の古代DNAの新たな諸研究は、新たな地域と期間を含めて、この古代の遺伝的景観に独特な特徴をもたらした人口統計学的過程を明らかにし続けるでしょう。
●アフリカ西部と中央部
アフリカ西部および中央部は、アフリカ大陸の大半を表しており、とてつもない遺伝的および言語的多様性がありますが、これらの地域におけるDNAの標本抽出不均一で、利用可能な古代DNAも限定的です。これらの地域間の重要な考古学と言語学と祖先のつながりを考えて、本論文は、それらが現代人のDNA研究と組み合わされ、既知の完新世人口史の概要と、将来の古代DNA研究から学べる可能性があるものを提供します。研究は、バンツー語族話者拡大や、これらの集団と他の遺伝的に独特な集団との間の混合の証拠など、狩猟採集民の人口史を浮き彫りにします。アメリカ大陸におけるアフリカ人の子孫の人口集団で見つかる祖先系統のほとんどの供給源としてのこの地域の役割は、「アフリカの離散」の項目で検討されます。
アフリカ中央部熱帯雨林の狩猟採集民は、成人の小柄な身体の大きさやマラリアへの耐性など、人口史や熱帯雨林への適応についても含めて、広範な遺伝学的研究の焦点とされてきました。上述のように、この現代人のDNAデータは、カメルーンのシュム・ラカ遺跡で埋葬された8000年前頃と3000年前頃の子供4人の古代DNAとともに、30万~20万年前頃にヒト祖先系統の他の主要な枝から分かれた、深く分岐した系統を論証してきました(関連記事)。さらなる分岐は、熱帯雨林狩猟採集民とバンツー語族話者の祖先との間で6万年前頃に、アフリカ中央部の西部(コンゴ盆地)と東部(イトゥリ森林とヴィクトリア湖)に暮らす熱帯雨林狩猟採集民間では25000年前頃に起き、その後、互いに孤立したままでした。
まとめると、これらの調査結果は後期更新世と完新世へのアフリカ全体の複雑な人口構造の浮かび上がってくる全体像に寄与します。古代人のゲノムは、アフリカ中央部熱帯雨林が完新世において遺伝子流動の障壁として機能したのかどうか、明らかにするのに役立つでしょう。たとえば、ヴィクトリア湖近くで埋葬された中期完新世個体で見つかったアフリカ中央部採食民の祖先系統は、考古学的記録から示唆されるよりも広範かもしれない、接続水準を示唆します(関連記事)。
この地域における遺伝学的研究の第二の主要な焦点は、アフリカ史における最も定義された人口統計学的事象の一つである、バンツー語族話者の起源と拡大についてです。ニジェール・コンゴ語族のニジェール・コルドファン語族分枝内の一群であるバンツー語族は現在、アフリカ大陸の南半分の広範な地域で、アフリカ人の3人に1人が話しています。言語学者は、カメルーンとナイジェリアの国境地帯のグラスフィールド(Grassfields)地域に起源を示し、バンツー語族話者はそこから5000~4000年前頃に拡大し始めました。「バンツー語」を話す人はいませんが、本論文の「バンツー語族話者」は、この一群の言語を話す人々をまとめて呼ぶ略語として用いられます。
アフリカ東部と中央部と南部のバンツー語族話者は、最近の共通祖先を反映して、遺伝的にわずかに区別されます(関連記事)。これは、現在のバンツー語族話者の分布が人口拡散の結果だったことを論証します。つまり、考古学的証拠から、言語と農耕と新たな物質文化伝統が単一の一括として移動しなかった、と示唆されているとしても、言葉や着想とともに人々が移動したわけです。遺伝学者は、この言語学者により提唱された拡大についての、二つの仮説を批判的に調査しました。それは、初期分岐モデル(バンツー語族話者はアフリカの東部と南部に同時に拡大しました)と、後期分岐モデル(バンツー語族話者は、東部と南部の流動への分岐前に熱帯雨林を通って南部に移動しました)です。これらの研究は一貫して、後期分岐モデルの裏づけを見つけてきており、最近の言語学的研究と一致し、少なくともいくつかの考古学的データと矛盾します。
バンツー語族話者は熱帯雨林を通って南方へ移動するにつれて、特定の社会的動態を反映する方法で先住の人々と混合しました。たとえば、片親性遺伝標識の分析は、現代のバンツー語族話者人口集団における混合の性別固有のパターンを明らかにしました。具体的には、古代の女性狩猟採集民はバンツー語族話者の農耕民男性と子供を儲け、それはその逆よりもずっと多くありました。この採食民と農耕民の混合は、混合人口集団に有利な遺伝的変異も与え、熱帯雨林狩猟採集民の祖先から継承したマラリア耐性を有する、現在のアフリカ全域の多くのバンツー語族話者が生じました。
アフリカ中央部の熱帯雨林を越えて、バンツー語族話者は複数回の移住や混合事象など時空間的にさまざまな過程で、アフリカの東部と南部へと拡大しました。現代人のDNAと言語学とよく年代測定された遺跡のデータは拡大に次ぐ拡大のシナリオを示唆し、バンツー語族話者の最初の拡大は、紀元千年紀半ばの人口崩壊により切り捨てられ、新たな人口増加と拡大が続きました。現在アフリカの東部と南部で見られるアフリカ西部関連祖先系統は、熱帯雨林狩猟採集民、アフリカ南部のコイサン採食民、アフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族を話すアフリカ東部の牧畜民と、さまざまな割合で混合しています。
大規模な研究が、これらの遺伝子流動事象の経路と時期、およびアフリカ南部から中央部における将来の研究にとって重要な地域に、光を当て始めつつあります。古代DNAは、より高い時空間的解像度の提供により、上手くいけば助けになるでしょう。アフリカ西部関連祖先系統は、アフリカの東部と南部から中央部と南部において、過去1200年間にまたがる鉄器時代遺跡で埋葬された、12個体以上の古代人ゲノムで特定されてきましたが、他の個体では明確に存在しません(関連記事)。これらのパターンと、マラウイおよび南アフリカ共和国の古代DNAで示唆される人口置換の性質を理解するには、より高いデータ密度が必要です。
アフリカ西部におけるさらなる遺伝学的研究は、チャド盆地と、さらに広くサヘル全体における現在の言語学的および民族的に多様な集団を調べてきました。これらの研究は、アフリカのナイル川流域と大西洋沿岸との間、およびサハラ砂漠からサハラ砂漠以南のサバンナの人々をつなぐ、重要な東西と南北のつながりを論証しています。人口史は、たとえば、完新世の前期から中期における縮小する「緑のサハラ」を横断する移動性など、よく記録された古気候および考古学的データや、アフリカ東部とチャド盆地との間の、あまりよく知られていないつながりを結びつけることができ、考古学的研究にとって有益な道筋を示唆します。サヘルにおける研究は、フラニ人(Fulani)の人口史と、重要な食性適応であるラクターゼ活性持続をもたらしたアフリカ北部の混合の役割にも、焦点を当ててきました。
アフリカ西部および中央部における将来の一連の研究は、紀元千年紀から紀元二千年紀にニジェール川中流デルタやコンゴ盆地やウペンバ低地(Upemba Depression)やアフリカ大湖地域に出現した政治組織など、強力な政体の起源を調べることができるかもしれません。これらの地域から古代DNAは事実上利用できませんが、最近のある研究は、コンゴ民主共和国のカナンガ(Kananga)の住民の現代人のDNAを活用して、17世紀のクバ(Kuba)王国形成の遺伝的影響を明らかにし、現在クバと特定された人々は遺伝的にひじょうに多様で、他のクバ王国人々とよりも、クバ王国ではない近隣の人々の方と遺伝的に類似していた、と示しました。これは、クバ王国が多くの祖先の異なる集団を単一の帰属意識に包摂した、という証拠として解釈され、これは一般的に口述史と一致します。この研究は、アフリカ西部および中央部の先植民地期国家の遺伝的に導かれた人口史への道を開きます。
●アフリカ東部
アフリカ内で、東部はとくに多用途考えられており、現代人の遺伝的多様性は高水準で、民族言語学的不均一性と相関しています。これは、アフリカ東部がヒトのほとんどにとってアフリカ大陸の交差点であるからで、数百万年前までさかのぼって、アフリカ大陸の内外にわたる複数の人口移動の背景を提供しています。しかし、アフリカ東部がこの地域の現在の遺伝的景観に顕著な影響を及ぼしたのは、過去5000年間でした。アフリカ東部を通っての、およびアフリカ東部への、牧畜や農耕や製鉄の拡散、およびインド洋世界とのつながりの増加と関連する複数の人口移動は、並んで暮らすさまざまな文化と言語と遺伝子の背景の人々の斑状をもたらしました。
時空間全体にわたるこの斑状内の関係の解明が困難であるだけではなく、同時代のアフリカ東部集団の限定的なDNA標本抽出は、古代系統比較の点が少ないことを意味します。アフリカ東部は現在、古代DNA研究の観点ではアフリカで最良に標本抽出された地域ですが、これはまだわずか数十の配列決定された個体に留まっており、その全ての年代は過去数千年以内です【今年の研究(関連記事)では、アフリカ東部で後期更新世の人類遺骸のDNA解析結果が報告されています】。過去と現在両方のアフリカ東部の遺伝的多様性の完全な程度は不明なので、人口史の学者の理解は、より多くのゲノムが配列決定されるにつれて進展し続けるでしょう。
アフリカ東部の考古学で最もよく研究されている減少の一つは、5000年前頃にはじまるアフリカ東部への食料生産の拡大です。この多段階過程は、世界の他の多くの地域における新石器時代移行とは異なっていました。その理由は、(a)家畜化された動物や栽培化された植物や土器など重要な革新は、単一化された一括としての拡大とは逆に、さまざまな時期にさまざまな場所で出現しました。(b)移動性牧畜(家畜化された動物の牧畜を中心に組織化された生活様式)が、農耕に数千年先行します。(c)採食民生活様式が、多くの場所で牧畜および農耕とともに持続しました(現在も続いています)。牧畜の形態での食料生産の最古の証拠は、サハラ地域で8000年前頃に現れ、ウシやヒツジやヤギを伴っており、南方へと拡大し、アフリカ東部には5000年前頃に、アフリカ南部には2000年前頃までに到達しました。この全体的な軌跡の中で、家畜導入の時期、取られた経路、人々が動物とともに移動したのか、交易だったのか、という程度に関して、かなりの議論があります。これによりアフリカ東部は、古代DNA手法が考古学と歴史学の議論を進めるのに寄与できる重要な地域となります。
アフリカにおけるこれまでで最大の古代DNA研究は、ケニアとタンザニア全域の、牧畜新石器時代(PN、5000~1200年前頃)と牧畜鉄器時代(IA/PIA、1200年前頃~現在)の文脈の41個体を配列決定し、移民の牧畜民および農耕民と在来の採食民の集団間の混合を伴った、食料生産の多段階の拡大を示す結果が得られました(関連記事)。アフリカ東部への牧畜の最初の拡大は、少なくとも2段階の混合を含んでいました。一方は、アフリカ北東部で6000~5000年前頃に、スーダンの現在のディンカ人と関連する祖先系統を有する人々と、近東の古代の個体群と関連する祖先系統を有する人々(アフリカ北東部にも存在していたかもしれない)との間で起きた可能性が高そうです。IA/PIAは、これらの集団とPN牧畜民の子孫である後の個体群の祖先系統に反映されている、1200年前頃以後となるアフリカの北東部と西部からの人々の追加の移動が伴っていました。牧畜民と採食民との間の遺伝子流動は、牧畜拡大の初期段階では一般的ですが、PNにおける後のこれらの集団間の遺伝的孤立の証拠は、牧畜が確立するにつれて、社会的障壁の硬化を示唆します。
他の一連の考古学および骨格証拠と組み合わせると、古代DNAは、多様な人々がこの斑状内でどのように相互作用し、関係を形成したのか、という理解にとって強力な手法です。たとえば、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器時代として特徴づけられる異なる物質文化伝統と関連するPN牧畜民は、言語と祖先が異なる集団を表している、と以前には提案されていましたが、密接な遺伝的クラスタ(まとまり)を形成すると分かり、文化的区別は遺伝的に類似した隣人間で起きた、と示唆されます(関連記事)。
その後の研究は、ケニア南部のPN個体間の採食民およびディンカ人関連祖先系統の量における追加の差異を記録しており、PNへの、採食民と牧畜民との間の稀ではあるものの継続的な遺伝子流動の可能性を提起します(関連記事)。これは、約60%の採食民祖先系統を有するケニアのモロ洞窟(Molo Cave)の1500年前頃の2個体により最良に例証され、一部の場所における継続的なつながりのシナリオを裏づけ、考古学的証拠と一致します。古代DNAは、そうした関係のパターン化の地理的差異も明らかにしてきており、アフリカ中央部および南部とり以前には記録されていなかった地域間のつながりと同様に、湖と海岸近くの牧畜民と採食民の遺伝子流動の証拠は少なくなっています(関連記事)。
アフリカ東部における将来の考古学的研究にとっての有益な領域には、今では古代ゲノムを通じてのみ示唆される問題である、食料生産拡大前の人口構造と採食民集団間の相互作用、ラクターゼ活性持続など新たな適応の出現と拡大、鉄器時代と国家の台頭期における人口統計学的変化が含まれます。追加の研究は、現代人の遺伝的データがアフリカ南部へのバンツー語族話者拡散の時期と経路の推定に用いられてきた沿岸部共同体に焦点を当てることができるかもしれず、他の研究は、中世スワヒリ共同体におけるアフリカ西部関連のバンツー語族話者人口集団におけるアジア祖先系統を有する人々の遺伝的流入を検討します。海岸を越えて、コモロとマダガスカル島の入植と人口史は、現代人の集団遺伝学を通じて調べられてきましたが(関連記事)、これらの地域は古代DNAでは完全に調べられていません。広範囲の相互作用圏と、アジア南東部および南西部とアフリカ起源の人々の歴史的・考古学的・言語学的に記録された寄与におけるインド洋の役割を考えると、これは将来の研究にとって、とくに有益な鉱脈です。
●アフリカ南部と南部から中央部
アフリカ南部は、深く分岐した遺伝的祖先系統を有する集団にとって交差点で、とくに過去2000年間の複雑な人口動態に重ねられた深い人口史を反映しています。アフリカ南部における古代DNA研究の主要な焦点は、より深い歴史とヒトの起源に充てられてきました。これは、アフリカ南部の現在のコイサン集団が地球上で最多の独特な遺伝的多様体と最も深く分岐した系統を有しているからで、コイサン集団は現生人類の出現後すぐに他のヒト集団と分岐した、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。
しかし、より最近の過程が、遺伝的景観に顕著な影響を及ぼしてきました。たとえば、現代のコイサン人はその祖先系統の9~30%を、過去2000年間にこの地域に移住してきた集団との遺伝的混合にたどれます(関連記事)。アフリカ南部の現代人集団の一部の遺伝学的研究は、人口集団の連続性と孤立の程度を推測していますが、古代の採食集団の移動の可能性と、とくに過去約2000年間における遺伝的に独特な集団との混合は、古代DNAを、食料生産の拡大前のこの地域における人口構造の調査の唯一の手段とします(関連記事)。
「現生人類のアフリカ起源」と「採食民の過去と現在」の項目で述べられているように、古代のアフリカ南部採食民の研究は、深い時間の人口構造について新たな視点を明らかにしてきました。南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州のバリット・ベイ遺跡で埋葬された少年の、例外的に情報をもたらしたゲノムは、ヒトの起源の時期をさかのぼらせました。一方、ケープ西部のセントヘレナ湾で埋葬された他の個体の古代DNAは、アフリカの東部と南部との間に伸びる、古代の採食民と一部の現在の採食民との間の祖先系統の勾配を明らかにしました。これらの個体のゲノムは、食料生産の後の出現と関連する遺伝的変化を理解するための重要な文脈として機能します。
アフリカ東部の場合と同様に、アフリカ南部の古代DNA研究は、牧畜がどのように拡大したのか(人口拡散か文化伝播か)、ということと、アフリカの東部と南部の牧畜民間の推定されるつながりについての、何十年も続く議論の解決に役立てるかもしれません。南アフリカ共和国のカステールバーグ(Kasteelberg)遺跡の牧畜文脈で埋葬された1200年前頃の1個体は、タンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃となるPN期の1個体と密接に関連する、アフリカ東部もしくはユーラシア西部関連祖先系統構成要素があるアフリカ南部採食民関連祖先系統を有している、と示されました。
PN関連祖先系統は、ボツワナのオカヴァンゴ・デルタ(Okavango Delta)地域における1400~900年前頃に埋葬された3個体でも推測されており、アフリカ南部採食民とアフリカ東部牧畜民の祖先系統の混合が、オカヴァンゴ・デルタ地域でも特定されたバンツー語族話者と関連する祖先系統の出現に先行する、と示唆されます(関連記事)。これらの調査結果は、過去約2000年間以内のアフリカの東部と南部との間の遺伝子流動についての現代人のDNA証拠、アフリカの東部と南部の牧畜民をつなげる言語学的証拠、最初の家畜と土器はアフリカ南部において、バンツー語族話者と関連する混合した農耕牧畜の「鉄器時代一括」のずっと前に出現した、とする考古学的証拠と一致します。
まとめると、現在のDNAと古代DNAのデータは、家畜が、在来の採食民と子供を儲けたアフリカ東部からの移民によりアフリカ南部へともたらされた、というシナリオを裏づけ、現在のコイサン人で観察される9~30%の混合した祖先系統を説明します。しかし、直接的な地域間のつながりは、牧畜拡大の機序の理解に重要ですが、多様な人々が経済および社会的変化の最中に到来するにつれて、相互作用がどのように展開したのかについて、学ぶべきことは依然として多くあります。関連する人口移動の規模と、考古学的証拠に基づいて仮定されてきたように、複数回の侵入事象があったのかどうかについて、問題が残っています。最後に、遺伝学的調査結果は、在来の採食民が多くの状況で牧畜慣行を採用した、という可能性を除外しませんし、牧畜と採食の生活様式間の流動性について、情報をもたらすことができません。代わりに古代DNAは、牧畜拡大の複数の軌跡だった可能性が高いことの調査と、時空間にわたるこの事象の多様な遺伝的結果の調査にとって重要な手法を提示します。
古代DNAは、バンツー語族言語を話していた可能性が高い、アフリカ西部関連祖先系統を有する人々による、紀元千年紀におけるアフリカ南部への農耕および製鉄の導入と関連する、複雑な動態も解明しました。ある研究は、南アフリカ共和国の南東バンツー語族言語の現代人話者における約19%と比較して、南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州で埋葬された鉄器時代4個体における約16%の採食民祖先系統を見つけました。上述のように、オカヴァンゴ・デルタ地域の3個体は、古代の牧畜民(自身が古代採食民と混合しました)およびバンツー語族話者と関連する祖先系統を有している、採食民と牧畜民と農耕民の斑状内の遺伝子流動の変動的パターンを示唆します。興味深いことに、ボツワナのサロ(Xaro)遺跡の2個体と同じ祖先系統の混合を有するとモデル化できる現代人集団は存在せず、現在この地域に居住するバンツー語族話者集団によりそれ以降に置換された、人口集団への手段を提供します。
古代DNAデータは、アフリカ南部から中央部における人口置換も証明します。この地域では、現在の人々には、マラウイのホラ1(Hora 1)やフィンギラ(Fingira)やチェンチェレレ2(Chencherere II)といった岩陰遺跡の個体群で記録された、古代採食民祖先系統の痕跡がありません。代わりに、チェワ人(Chewa)やンゴニ人(Ngoni)やトゥンブカ人(Tumbuka)やヤオ人(Yao)などマラウイ集団のDNAデータは、100%のアフリカ西部関連祖先系統と一致し、最近では2500年前頃にはこの地域に存在していた採食民系統の完全な置換を示唆します。同時に、他の古代DNA研究は、200年前頃から高度の接触地域であるアフリカ南部の南端に暮らしてきたにも関わらず、バンツー語族話者ともヨーロッパ人植民者とも混合していない集団の存続を記録してきました。
アフリカ南部から中央部の比較的少数の個体が古代DNAのために標本抽出されており、現代人の標本抽出がコイサン人など特定の集団に偏っているように、そうした古代DNA配列はこの地域の歴史におけるひじょうに様々な期間の一断面を提供します。牧畜と農耕の拡大、バンツー語族言語とアフリカ西部関連祖先系統の拡大、最終的には、拡張した政治的影響力と長距離交易網を有するマプングブエ(Mapungubwe)やグレート・ジンバブエなど権力集中の台頭、といったことの根底にある人口統計学的過程の解明には、さらなる研究が必要です。
古代DNAは、長距離交易と関連する出現してきた階級に基づく社会内の、多く議論されてきた「母系地帯」と遊動性と親族関係起源など、鉄器時代における社会的複雑さと関連する地域的および局所的過程の調査には、とくに有益な手法かもしれません。遺伝的データは、ヨーロッパによる植民地化の産物としての現在のアフリカ南部社会の形成、強制的な移住と隔離の調査も可能とし、既知の歴史的過程とつなげることができる、混合パターンの多様なアフリカとアジアとヨーロッパの祖先系統を有する人々を結びつけます。
●アフリカ人の離散と大西洋世界の形成
新たなデータは、推定1200万人の奴隷とされたアフリカ人をアメリカ大陸とヨーロッパへと強制的に移動させた、大西洋間奴隷貿易(Trans-Atlantic Slave Trade、略してTAST)の遺伝的遺産を明らかにし始めています。これらのデータは、不完全ではあるものの、TASTと大西洋世界の形成についての豊富な歴史的および考古学的記録を補完します。規模はより小さいものの、研究はサハラ砂漠やインド洋を横断する奴隷貿易網の遺伝的影響も明らかにしつつあります。
集団遺伝学は、奴隷とされた人々や逃亡奴隷(マルーン)共同体やその子孫の、多様な地理的起源への洞察を提供します。それは、アメリカ大陸への、およびアメリカ大陸全体での強制移住の動態、TAST期およびその後における、他のアフリカ人やアメリカ大陸先住民やヨーロッパ人の祖先系統の人々との混合の時空間的に変動的で多くの場合性別に偏ったパターンです。この混合は、遺伝子流動への特定の政治的条件と法的および他の社会的障壁を反映しています。歴史学と考古学と生物考古学からの洞察と組み合わせると、遺伝学は、現在標本として不充分な集団の遺伝的データの生成による医療遺伝学の改善に加えて、アフリカ人の子孫の個体と集団の具体的歴史の理解に強力な手法を提供できます。この研究は、アフリカ系の子孫のヒト遺骸の扱いに関する議論、アフリカ人およびアフリカ人の子孫のDNA標本抽出の斑状で偏った性質への対処の呼びかけ、祖先系統の研究により引き起こされる社会的意味と専門家の責任の考慮も促進しています。
アフリカ人の離散(ディアスポラ)は集団遺伝学の主要な焦点ですが、古代人のゲノムは、片親性遺伝標識を用いた最初の研究に続いて、役割を果たし始めたばかりです。最近の研究は、奴隷化が多様な民族および言語背景の人々をともに連行した、と強調しています。たとえば、メキシコシティで16世紀の墓地に埋葬された奴隷とされたアフリカ人3個体はアフリカの地理的起源が明確で(関連記事)、これは17世紀にカリブ海のセント・マーチン(Saint Martin)島で埋葬された奴隷とされたアフリカ人3個体にも当てはまります。アメリカ合衆国東部の17~18世紀の墓地における生物考古学およびmtDNA分析は、ヨーロッパ人とアフリカ人の子孫の個体の階層化を示し、奴隷とされた個体の多様な起源と、ヨーロッパ系の子孫の個体間の関連性を対比させました。
大西洋世界のほとんどの古代DNA研究がアメリカ大陸に焦点を当ててきましたが、近世カナリア諸島とポルトガルにおける研究も、「アフリカ北西部とカナリア諸島」の項目で検討されたように、奴隷とされた可能性が高いアフリカ起源の人々についての情報に寄与してきました。イギリス海軍が19世紀半ばに奴隷船から捕らえたアフリカ人を残していった南大西洋のセントヘレナ島の古代人のゲノム研究は、これらの個体がおもにアフリカ西部から中央部の祖先系統を有している、と明らかにし、現代人のDNAおよび歴史学的研究と一致します。
将来の考古遺伝学敵研究は、大西洋が形成されるにつれての、アフリカ社会への影響をさらに解明できるようになるかもしれません。たとえば、大西洋に近いコンゴ西部で150年前頃に埋葬された1個体のゲノムは、バンツー語族話者と関連する祖先系統85%と、ポルトガル人の可能性が高いヨーロッパ人と関連する祖先系統15%を示します(関連記事)。古代DNAと生物考古学研究を組み合わせると、上述のメキシコシティの埋葬における病原体の特定など、健康への洞察も提供できます。最後に、古代DNAには、タバコのパイプを使った女性遺伝的鑑定を可能とし、子孫の共同体に関心のある情報を提供した、アメリカ合衆国の19世紀の奴隷宿舎で記録されたタバコのパイプ軸の事例のように、物質文化と遺伝的同一性を結びつける可能性があります。
●アフリカの考古遺伝学的研究の将来
この分野の状態を再調査するさいの課題は、アフリカの集団遺伝学、とくに古代DNA研究における急速な変化で、古代DNA研究では、新たに配列決定された各ゲノムは、以前の物語をひっくり返す可能性を秘めています。しかし、新たな研究が蓄積されても、一部は1980年代の最初の集団遺伝学的研究にさかのぼる長年の議論が続いています。以下の項目は、考古遺伝学的研究を問題化するいくつかの難問を概説します。その解決には、学際的な専門家の密接な意思伝達と、共通点を見つけたいという切望が必要です。
●古代DNAは何の役に立ちますか?
一部の考古学者と言語学者と歴史学者の間での共通意見は、考古遺伝学は他の一連の証拠からすでに知られていることを確証するだけである、というものです。このような場合もあり、その一例は、TASTにおけるアフリカ西部から中央部の役割についての歴史と遺伝学の記録との間の密接な一致ですが、古代DNAは、議論の解決にも役立つことができ、以前の研究と矛盾する予期せぬ結果を提供し、新たな問題を提起します。たとえば、遺伝学的研究は、考古学的記録におけるバンツー語族拡大の曖昧さにも関わらず、バンツー語族拡大の後期分岐モデルの支持へと形成を一変させます。アフリカ東部では、さまざまなPN考古学伝統の担い手の予期せぬ高い遺伝的均一性が、PNの担い手はこの地域における区別される地理的起源と到来年代を有する集団を表している、という仮説をひっくり返しました(関連記事)。
最後に、古代DNA研究の発見、およびそれに伴うことが多い直接的な放射性炭素年代は、新たな考古学的研究の路線を示しており、たとえば、アフリカの中央部と東部の採食民間の前期完新世のつながりについてです(関連記事)。古代DNAは過去を再構築するための1手法にすぎませんが、新たな情報を追加し、他の分野での数十年にわたる研究に基づいている可能性があります。しかし、古代DNAが堅牢な歴史的もしくは考古学的記録から知られているものを超えて多くの価値を追加できない、と研究者が分かる場合も時にあるかもしれず、この研究が単に自身のために「DNAを調べる」のではなく、問題駆動型を維持することが常用です。
●規模と観点と命名法の問題
遺伝学と言語学と考古学と歴史学における学者間の緊張の中心点は、過去について共有される関心への研究法の違いです。この一部は、さまざまな規模で問うことができる問題の規模と種類に関わっています。アフリカで研究している遺伝学者は、地域もしくは大陸規模でさえそうする傾向があります。この一部は、遺伝学者が関心を寄せる問題、たとえば、更新世の人口構造やバンツー語族の拡大と関係ありますが、現代人と古代人両方のDNA標本抽出の斑状の性質の反映でもあります。DNA標本抽出は、より精細な分析を妨げ、考古遺伝学者「大きな物語」のみに関心がある、という誤った印象につながります。この意味で、考古遺伝学はアフリカの考古学が20世紀半ばか後半に立った場所におり、その当時は、専門家が石器や土器や他の種類の物質文化を通じて、文化史定義の基礎的研究を行なっていました。同様に、ずっと早く、言語学的研究は大陸規模の変化を調べました。基本的枠組みが理解されて初めて、新たな疑問が理解しやすくなり、考古学者と言語学者の両方にとってより小さい規模での調査が可能となります。
より高いデータ密度で将来可能になるかもしれないことのモデルについて、他の事例研究を見ることができます。これはおもにヨーロッパにおいてのことで(ヨーロッパ外では、上述の、スーダンのヌビアにおけるキリスト教期墓地の事例があります)、同じ地域もしくは同じ墓地でさえ、多くの古代の個体が配列決定されました。この手法は、考古学と生物考古学の証拠と合わせて、地位の不平等や親族関係や結婚後の居住や健康など社会的問題のより詳細な調査を可能とします。さまざまな種類のデータセットの使用は、同じ問題について異なる視点につながるかもしれないので、生産的な張力をもたらす可能性がある別の論点です。古代DNAは、たとえば、大規模な移住が過去に起きたことなど、情報をもたらす可能性があり、統計的モデル化は、その移住の起源地と時期を示唆するのに役立つことができます。しかし、考古学と放射性炭素年代測定は、これらの推論によく年代測定された遺跡で正解を提供するのに重要です。考古学と生物考古学と言語学と民俗学は、そうした事象が起きた社会的条件の判断に役立つかもしれず、この観点は遺伝学では提供できません。
規模とデータセットが分野で異なるように、語彙も異なります。遺伝学者は祖先系統を研究しますが、祖先系統は、民族もしくは言語の同一性とは同じではなく、物質文化に基づいた分類とも異なりますが、これらの全ては命名法で役割を果たすようになるかもしれません。しかし、異なる種類の同一性を混同しないように注意すべきで、これは専門家により慎重に検討された問題です。たとえば、本論文では「バンツー祖先系統」ではなく、「バンツー語族話者と関連する祖先系統」という表現が用いられています。人々が個人や季節や他の原理に基づいて生計戦略間で動く柔軟性を考えると、同様の問題は遺伝的分類の略語として「農耕民」もしくは「牧畜民」を用いる場合にも生じます。最後に、物質文化伝統の定義についての何十年もの考古学的議論を考えると、考古学的文化に基づいた分類(たとえば、PN関連祖先系統)も課題です。とくに複数の古代人ゲノムの分析と比較の場合には、発表のさいには略語が好まれますが、遺伝学者が次第に刊行物で明示的に議論するようになってきた同一性の種類間の重要な区別を、略語は把握できません。
●生物考古学と考古遺伝学の統合
考古学的文脈におけるヒト遺骸の研究である生物考古学は、過去の生活に関して、異なるものの補完的な情報を遺伝学に提起します。古代DNAは個体の系統について情報を提供できますが、生物考古学的評価は、死者の生きた経験への洞察を得るのに適しています。多くの方法で、生物考古学的データ(放射性炭素年代測定など他の手法と組み合わせて)は、いつ、どこで、どのように、どれだけ長く個人が生き、骨格的に明らかな疾患もしくは外傷があるのかどうか、という文脈の提供により、古代DNA標本に「命を吹き込みます」。
古代DNA研究は、生物考古学的データを軽視するか充分に活用してこなかったものの、近年ではこれに関して顕著な変化が見られました。とくにアフリカ南部では、研究は「標本の背後の人々」に焦点を当てつつあり、これは、研究対象の個体について生活がどのようなものだったのかについて、より俯瞰的な全体像を描くために、遺伝学と骨格と考古学のデータの統合を含む過程です。そうした試みは、アフリカの古代DNA研究が大陸規模の調査から地域的および局所的過程の調査へと移行するにつれて、ますます重要になっていき、考古学的および生物考古学的研究では基礎づけられているかもしれない(ものの完全には答えられない)局所的もしくは遺跡水準の研究上の問題の調査が可能になるでしょう(関連記事)。生物考古学的データは、アフリカにおける新たな古代の疾患研究でも役割を果たしつつあり、それは影響を受けた個体の特定と病理学的研究の両方を通じてであり(たとえば、住血吸虫症を患っていた可能性が高い、上述のバリット・ベイ遺跡の少年です)、疾患耐性への遺伝的適応(たとえば、マラリアに対して保護をもたらすダッフィー・ヌルのアレルです)の文脈の解釈によってです。
さまざまな一連の研究がまず交差し始めた時によくある事例ですが、生物考古学と考古遺伝学の研究間にはより大きな相乗効果への充分な余地があります。とくに、古代DNA研究は破壊的な標本抽出を要求するので、生物考古学的評価が、どれだけ多くの個体が存在し、基本的な文脈データ(たとえば死亡時年齢、推定性別、文化的関連)を収集するのか、将来の研究を最小限傷つける要素を選択するのか、混合もしくは分離された収集の場合、同じ個体が2回標本抽出されないよう、判断するための第一段階の要求であるべきです。生物考古学者は、研究計画の作成と研究上の問題に依拠する調査について最良の個体を特定することに、積極的に関わるべきです。その場合の最良の個体とは、たとえば、結核など特定の疾患に感染した可能性があるか、形態学的証拠が人口統計学的変化を示唆する地域的文脈を表しているような場合です。生物考古学的なヒト遺骸に関する深い実用的知識のある学者として、生物考古学者は、古代DNAを用いて研究できないか、そうすべきではない個体と収集物洞察の提供や、古代DNA研究の可能な個体についての研究法の作成に役立っていますし、そうあり続けるでしょう。
●学際性の再考
集団遺伝学は、古典的遺伝標識の最初の研究から、ヒトゲノム計画を経て古代DNA革命まで、半世紀以上にわたってアフリカの歴史の研究に有益な混乱をもたらしてきました。本論文で調べられた課題は、ある意味で、新規性はありません。振り子がアフリカの歴史においてより大きな規模とより小さな規模の物語間を行き来するのと同様に、本論文で検討された分野も、経時的に多かれ少なかれ統合したり分岐したりします。遺伝学的研究の進む速度を考えると、専門家は協力の新たな方法を構築するために、語彙と観点と専門分野の訓練と学術文化における過去の違いに取り組まねばなりません。
これは、専門家が他の分野から既存の視点の検証を探す、「確証の枠組み」を超えての移動を意味します。この傾向は、学者が他の分野から研究をつまみ食い的および無批判に引用する、「最後の段落問題」と呼ばれてきたものにつながる可能性があります。幸いなことに、アフリカの過去の研究では、考古学者と言語学者と歴史学者と遺伝学者が、どうすればともによりよく研究できるのか、議論しているところです。重要な構成要素としてアフリカの機関における能力開発を含まねばならない、歴史科学における将来の訓練は、共通の基盤に向かって学者が努力し続けることを確実にするため、学生をこれらさまざまな領域専門知識と語彙に曝すべきです。
●文献の検討
アフリカのゲノミクス、とくに古ゲノミクスは新しい分野で、ほとんどの知見は2000年代初頭以来となります。しかし、半世紀以上にわたる研究は、アフリカにおける深いヒト起源や、さまざまな程度の強いで、言語学や考古学や歴史学の記録と関連しているかもしれない人口統計学的変容と関係する、人口構造の問題を調べてきました。広く一般化として、アフリカの人口史の研究は、1960年代から1980年代までの古典的な遺伝標識(たとえば、血液型やRh因子や免疫標識の研究)の研究から、1980年代から2000年代までの片親性遺伝標識(mtDNAとY染色体)へと移行し、最終的には、21世紀初頭のヒトゲノム計画の誕生でゲノム規模データへと進みました。2015年以来、この変化はゲノム規模の古代DNAデータの配列決定に向かい、その嚆矢はエチオピアのモタ洞窟の研究でした(関連記事)。アフリカの人口史に関する文献は、もはや現代人のDNAと古代人のDNAとの間に分かれておらず、むしろ、これら異なるデータ情報源はますます統合されています。
方法論の進歩と並行して、考古学者と言語学者と人類学者と歴史学者はますます、アフリカの過去の研究において遺伝学者の研究法と調査結果に関わるようになっています。マッカケン(Scott MacEachern)の画期的論文「遺伝子と部族とアフリカ史」は部分的には、カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)とその同僚の1994年の著作『ヒト遺伝子の歴史と地理』への応答として2000年に刊行され、遺伝学的研究における帰属意識に基づく分類の使用を問題視し、より広く、アフリカの過去についての考古学と歴史学と民族誌と言語学の研究に照らして、遺伝学的研究の価値と陥穽を調べました。この随筆だけが遺伝学の批判的評価を行なっているわけではありませんが、今日でも反響を呼び続けています。
2000年代初頭のゲノム革命は、考古学と歴史言語学と遺伝学の統合の追加の検討と、学際性の利点および危険性を引き起こしました。「古代DNA革命」は2015年以降アフリカで勢いを増しており、アフリカの研究におけるゲノム転換に関する配慮の見解の第三の波を引き起こしました。懸念の多くは、2000年にマッカケンにより提起されたものと同じです。他には、ヒト骨格遺骸の破壊的標本抽出や、有意義な共同体関与の必要性に焦点が当てられています。アフリカ主義の学者は、脱植民地化のレンズを通じて、および歴史科学をより公正なものとするためのより広範な呼びかけの一部として、ますますこれらの問題に気をつけるようになりつつありますが、アフリカにおける現代および古代のDNA研究の批判は、この分野の最初期から残っている未解決の問題を反映し続けています。
●一次資料
一次資料として文献に依拠する他の歴史科学とは異なり、ヒトDNA研究の一次資料は人々です。現代人のDNA研究の場合、これは遺伝的データだけではなく、民族的な自己の帰属意識や話している言語など、参加者が提供する情報も含まれます。古遺伝学的研究の場合、ヒトの古代DNA研究はおもに考古学的なヒト遺骸に依存します。古代DNA研究のさらなる資料は、動植物遺骸や、有機物があり、したがってDNAを保存しているかもしれない文化的物質を含みます。たとえば、植物素材の漆喰が付着した石器や、動物の皮から作った羊皮紙や、タバコのパイプ軸にヒト唾液の残留物です。考古学的収集物は一般的に、アフリカ大陸全域と、多くの場合ヨーロッパおよび北アメリカ大陸の両方で、博物館と大学で管理されています。植民地支配下では、多くのアフリカの考古学的収集物は、ヒト骨格遺骸を含めて、その由来の場所から持ち出され、ヨーロッパの博物館および大学か、ヨーロッパの支配地域内の別の場所に運ばれました。たとえば、複数のイギリスの旧植民地のアフリカの文化遺産とヒト遺骸は、現在では南アフリカ共和国で見られます。21世紀には本国送還がより公然と議論されていますが、ほとんどの場合実現からほど遠く、考古学的ヒト遺骸には(歴史時代のヒト遺骸とは対照的に)比較的少ない関心が寄せられてきました。
博物館は収集物のデータベースを維持していることが多く、それは時に公開されます。これらの収集物は正式には、関連する政府機関や学芸員や先住民共同体など他の利害関係者からの許可を得た場合にのみ利用できます。これらの利害関係者は各国の状況に特有で、遺跡の場所と時間枠によっても異なるので、本論文で網羅的に一覧化することはできません。適切な出発点は、国際博物館会議(International Council of Museums、略してICOM)により維持されている名鑑です。
考古学的遺物から標本抽出されると、派生的な分子生成物(DNA抽出物およびライブラリ)は通常、作業が行なわれ、温度と他の条件が最適な保存に管理されている実験室で、長期間保存されます。これは、効率的にこの情報を不滅化する不可欠な段階なので、考古学的遺骸のさらなる標本抽出なしに、他の遺伝学的研究で再調査して使用でき、保存機関に返却できます。最終的に、DNA抽出物とライブラリの保存も、標本が由来する国へと移るかもしれませんが、これはほとんどのアフリカ諸国にはまだ存在しない、専用の実験室施設が必要でしょう。
現代および古代のゲノム研究は、開かれた科学(オープンサイエンス)にとってモデルとして引用されてきました。慣行の条件として、古代と現代両方のDNA配列は公開され、他の研究者が独自に結果を確認し、これらのデータを自身の分析に組み込むことが可能になります(関連記事)。現在、3つの主要な保管所が活動し、相互にデータを共有しており、航海しています。それは、ヨーロッパヌクレオチド保管所と、遺伝子銀行と、日本のDNAデータ銀行です。多くの実験室も、研究により生成されたDNAデータを公開するウェブサイトを運営しており、関連する論文では多くの場合インターネット上のリンクが公開されています。開かれた科学を地元のデータ主権と調和させる必要性に関する進行中の議論は、いくつかの文脈で古代DNA研究と高度に関連しており、今後数年間で慣行の形成において大きな役割を果たす可能性が高そうです。
古遺伝学的研究の重要で時には過小評価されている側面は、補足情報がしばしば、過去の歴史学者や考古学者や歴史言語学者や他の学者が探していたかもしれない、詳細な一次データの多くを含んでいることです。DNA研究は、長大な原稿を許可しない科学誌で刊行されることが多いものの、補遺は、初めての場合が多い、遺跡や埋葬や放射性炭素年代や、研究でDNAを提供した現代人による民族の自己帰属意識や話している言語の、重要な詳細を刊行する場になってきました。
参考文献:
Prendergast ME, Sawchuk EA, and Sirak KA.(2022): Genetics and the African Past. African History.
https://doi.org/10.1093/acrefore/9780190277734.013.143
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