蔀勇造 『物語 アラビアの歴史 知られざる3000年の興亡』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は都市成立以降のアラビア半島史で、いわゆる無明時代(ジャーヒリーヤ、狭義にはイスラム教の前の約150年間)、つまりイスラム教よりも前のアラビア半島史をとくに知りたくて読んだわけですが、8章のうち4章もジャーヒリーヤに割いているのは意外でした。確かに、都市成立以降の長さでいえば、イスラム教出現前の期間の方が長いわけですが。さすがにいわゆる先史時代についてはほぼ言及されていませんが、アラビア半島は現生人類(Homo sapiens)の拡散において重要な役割を果たした地域だと思います(関連記事)。
アラビアとはアラブの住む土地という意味で、アラブという呼称の初出は紀元前9世紀のアッシリアのシャルマネセル3世の碑文です。初期のアラブは、アラビやアリビなど表記に多少の違いはありますが、シリア砂漠のラクダ遊牧民を指しており、民族集団を意味していたわけではありませんでした。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝を経てギリシア語文献の時代には、アラブはシリア砂漠から南の半島にかけての住民全てを指す総称となり、その居住および活動地域がアラビアと呼ばれるようになって、それが自称ともなります。ラクダの家畜化により、それまで人類の活動が困難だった広大な砂漠地帯も生活圏の一部となりました。
アラビア半島各地で現地人が残した文字記録は、紀元前千年紀以降に見られるようになります。本書は、これが東地中海沿岸とその近隣地域における紀元前二千年紀後半の混乱(関連記事)と関連しているかもしれない、と指摘します。地中海東岸で生まれた南セム系アルファベットが、隊商路を通じて南方へ伝播したわけです。南セム系アルファベットは、後にイスラム教拡大とともに北西セム系アルファベットに駆逐されますが、エチオピアでは現在も南セム系文字が使用されています。紀元前千年紀前半には、南アラビアにおいて複数の王国が出現しました。ただ、その担い手は南アラビアの紀元前二千年紀の青銅器文化と灌漑農業の担い手ではなく、北方から南下してきた集団だった、と推測されています。この問題は、DNAの保存に適した環境ではないものの、古代DNA研究により解明されていくのではないか、と期待されます。南アラビアで最初に出現した王国がサヴァで、日本では「シバの女王」の伝説で知られています。
いわゆるヘレニズム時代には、エジプトのプトレマイオス期が、インドやアラビアからの新たな物産輸入経路を開拓して、アラビアの「香料の道」が打撃を受け、経済的に「香料の道」に依存していたアラビア諸国は衰退していきます。紀元前千年紀後半のアラビア半島では、この交易路の変更、ヒトコブラクダの本格的な使用やウマの導入による戦闘能力の向上、ローマ帝国の侵略など、大きな変化がありました。この変化を経て3世紀には、オリエント世界はローマ帝国とペルシア帝国(サーサーン朝)とアクスム王国の三極構造が形成され、アクスム王国が南アラビアに侵攻してくるなど、アラビア半島も影響を受けます。アクスム王国は、南アラビアに対して長期にわたって政治的影響を及ぼしていたようです。
こうした中で、5世紀半ば以降、イスラム教出現の前提となる社会・文化的背景が形成されていきます(狭義のジャーヒリーヤ)。この頃には、ローマの東西分裂が固定化され、西ローマ帝国は5世紀後半に滅亡し、アラビア半島に深く関わってくるのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)となります。この頃にはアラビア半島の信仰は、岩石や巨木や自然現象を対象とするアニミズム(精霊崇拝)的なものから、都市もしくは国家単位で複数の神々への信仰を経て、ユダヤ人のディアスポラ(離散)によるアラビア半島への移住などにより、次第に一神教的なものに変容していきました。4世紀以降には、アラブ世界へのキリスト教の布教も活発化します。
こうした状況でイスラム教が勃興します。イスラム教の急速な拡大に関心を抱いてきたのは専門家だけではなく、私も同様ですが、これが難問であることも周知されている、と言えるでしょう。本書は、規模の大小や見かけの違いはあれども、類似の現象は人類史において太平天国の乱など少なくない、と指摘します。本書が重視するのは、当時アラビア半島において他にも複数の預言者が現れたことです。ムハンマド以外のそうした預言者は後にイスラム教の観点から偽者とされますが、本書は、そうした預言者と称した人物に多数の人々が従ったことに注目しています。当時のアラビア半島では、預言者や救世主を待望する雰囲気が強かったのではないか、というわけです。ローマ(ビザンツ帝国)とペルシア(サーサーン朝)とエチオピア(アクスム王国)という巨大勢力の干渉が現実的で、アラビア半島内での抗争が絶えない不安定な状況において、一神教の強い影響を受けて新興宗教が成立しやすい中で、ムハンマドもユダヤ教の強い影響を受けてイスラム教を創出したのではないか、というわけです。イスラム教の征服活動の成功要因について本書は、ムハンマドの後継者争いでイスラム教共同体(ウンマ)の分裂が回避されたことともに、アラブにとって脅威だったビザンツ帝国とサーサーン朝とアクスム王国のという巨大勢力の弱体化を重視しています。
イスラム教の拡大により、アラビア半島から若者が多く流出することにもなり、沈滞状態に陥ったものの、一方で、主流派のスンナ派にとって異端的な諸派の逃避場にもなった、と本書は指摘します。その後、インドと地中海との交易が再度隆盛に向かい、政治的状況によりその経由地としてペルシア湾から紅海へと重点が移ると、アラビア半島が再び活性化します。15世紀にはヨーロッパ勢力がアラビア半島へと侵出するようになり、その嚆矢となったのはポルトガルでした。その後、オスマン帝国がアラビア半島にまで勢力を拡大しますが、サファヴィー朝やヨーロッパ勢力との抗争もあり、アラビア半島を持続的に完全に制圧できたわけではなく、アラビア半島各地の在地勢力には自立と独立の機会がありました。現代のアラビア半島の政治・社会の形成に重要な役割を果たしたのは、18世紀のイスラム教改革運動と、サウード家による新王朝樹立でした。
アラビアとはアラブの住む土地という意味で、アラブという呼称の初出は紀元前9世紀のアッシリアのシャルマネセル3世の碑文です。初期のアラブは、アラビやアリビなど表記に多少の違いはありますが、シリア砂漠のラクダ遊牧民を指しており、民族集団を意味していたわけではありませんでした。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝を経てギリシア語文献の時代には、アラブはシリア砂漠から南の半島にかけての住民全てを指す総称となり、その居住および活動地域がアラビアと呼ばれるようになって、それが自称ともなります。ラクダの家畜化により、それまで人類の活動が困難だった広大な砂漠地帯も生活圏の一部となりました。
アラビア半島各地で現地人が残した文字記録は、紀元前千年紀以降に見られるようになります。本書は、これが東地中海沿岸とその近隣地域における紀元前二千年紀後半の混乱(関連記事)と関連しているかもしれない、と指摘します。地中海東岸で生まれた南セム系アルファベットが、隊商路を通じて南方へ伝播したわけです。南セム系アルファベットは、後にイスラム教拡大とともに北西セム系アルファベットに駆逐されますが、エチオピアでは現在も南セム系文字が使用されています。紀元前千年紀前半には、南アラビアにおいて複数の王国が出現しました。ただ、その担い手は南アラビアの紀元前二千年紀の青銅器文化と灌漑農業の担い手ではなく、北方から南下してきた集団だった、と推測されています。この問題は、DNAの保存に適した環境ではないものの、古代DNA研究により解明されていくのではないか、と期待されます。南アラビアで最初に出現した王国がサヴァで、日本では「シバの女王」の伝説で知られています。
いわゆるヘレニズム時代には、エジプトのプトレマイオス期が、インドやアラビアからの新たな物産輸入経路を開拓して、アラビアの「香料の道」が打撃を受け、経済的に「香料の道」に依存していたアラビア諸国は衰退していきます。紀元前千年紀後半のアラビア半島では、この交易路の変更、ヒトコブラクダの本格的な使用やウマの導入による戦闘能力の向上、ローマ帝国の侵略など、大きな変化がありました。この変化を経て3世紀には、オリエント世界はローマ帝国とペルシア帝国(サーサーン朝)とアクスム王国の三極構造が形成され、アクスム王国が南アラビアに侵攻してくるなど、アラビア半島も影響を受けます。アクスム王国は、南アラビアに対して長期にわたって政治的影響を及ぼしていたようです。
こうした中で、5世紀半ば以降、イスラム教出現の前提となる社会・文化的背景が形成されていきます(狭義のジャーヒリーヤ)。この頃には、ローマの東西分裂が固定化され、西ローマ帝国は5世紀後半に滅亡し、アラビア半島に深く関わってくるのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)となります。この頃にはアラビア半島の信仰は、岩石や巨木や自然現象を対象とするアニミズム(精霊崇拝)的なものから、都市もしくは国家単位で複数の神々への信仰を経て、ユダヤ人のディアスポラ(離散)によるアラビア半島への移住などにより、次第に一神教的なものに変容していきました。4世紀以降には、アラブ世界へのキリスト教の布教も活発化します。
こうした状況でイスラム教が勃興します。イスラム教の急速な拡大に関心を抱いてきたのは専門家だけではなく、私も同様ですが、これが難問であることも周知されている、と言えるでしょう。本書は、規模の大小や見かけの違いはあれども、類似の現象は人類史において太平天国の乱など少なくない、と指摘します。本書が重視するのは、当時アラビア半島において他にも複数の預言者が現れたことです。ムハンマド以外のそうした預言者は後にイスラム教の観点から偽者とされますが、本書は、そうした預言者と称した人物に多数の人々が従ったことに注目しています。当時のアラビア半島では、預言者や救世主を待望する雰囲気が強かったのではないか、というわけです。ローマ(ビザンツ帝国)とペルシア(サーサーン朝)とエチオピア(アクスム王国)という巨大勢力の干渉が現実的で、アラビア半島内での抗争が絶えない不安定な状況において、一神教の強い影響を受けて新興宗教が成立しやすい中で、ムハンマドもユダヤ教の強い影響を受けてイスラム教を創出したのではないか、というわけです。イスラム教の征服活動の成功要因について本書は、ムハンマドの後継者争いでイスラム教共同体(ウンマ)の分裂が回避されたことともに、アラブにとって脅威だったビザンツ帝国とサーサーン朝とアクスム王国のという巨大勢力の弱体化を重視しています。
イスラム教の拡大により、アラビア半島から若者が多く流出することにもなり、沈滞状態に陥ったものの、一方で、主流派のスンナ派にとって異端的な諸派の逃避場にもなった、と本書は指摘します。その後、インドと地中海との交易が再度隆盛に向かい、政治的状況によりその経由地としてペルシア湾から紅海へと重点が移ると、アラビア半島が再び活性化します。15世紀にはヨーロッパ勢力がアラビア半島へと侵出するようになり、その嚆矢となったのはポルトガルでした。その後、オスマン帝国がアラビア半島にまで勢力を拡大しますが、サファヴィー朝やヨーロッパ勢力との抗争もあり、アラビア半島を持続的に完全に制圧できたわけではなく、アラビア半島各地の在地勢力には自立と独立の機会がありました。現代のアラビア半島の政治・社会の形成に重要な役割を果たしたのは、18世紀のイスラム教改革運動と、サウード家による新王朝樹立でした。
この記事へのコメント