坂野潤治『西郷隆盛と明治維新』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2013年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。ネットでは著者は西郷隆盛贔屓だと言われており、かなり癖がある内容なのかな、とも思いましたが、私の西郷隆盛への印象はかなり悪いので、西郷贔屓かもしれないとはいえ、著者が碩学であることは間違いないので、本書で西郷への印象を相対化できるかな、と考えて読みました。西郷隆盛が初めて江戸に行ったのは1854年で、本書はこれを重視します。それは、ペリー来航により、「尊王攘夷」の本家とも言うべき水戸藩が、攘夷の先送り(ぶらかし論)へと転換したからです。攘夷の即行より幕藩体制の改革を当面の課題とする見解は、西郷に大きな影響を与えたようです。これは水戸学にとって変節とも言えましたが、後期水戸学の開祖とも言うべき会沢正志斎の『新論』には、当初より「国体論」の抽象性と「強兵論」の具体性という矛盾が含まれていた、と本書は指摘します。
こうした状況で江戸に行った西郷は、1857~1858年の一橋慶喜擁立運動において、「開国」か「攘夷」かの問題についてほとんど関心を有していませんでした。この頃の西郷は、「開国派」とも「攘夷派」とも連携を図っていました。西郷の当時の連携相手は諸藩の有力武士が多く、これは島津斉彬が西郷を登用し、諸藩有力者との交渉を一任したためでした。この一橋慶喜擁立派は、幕政に直接関われない外様や親藩を中心として幕政改革を要求し、これに対抗したのが、譜代大名を中心とする勢力で、紀州藩主の徳川慶福(家茂)を擁立しました。その中心人物となったのが大老に就任した井伊直弼で、一橋慶喜擁立派を弾圧したのが安政の大獄でした。西郷はこれにより失脚したというか、表舞台から退場します。
その後、大久保利通たちの尽力により西郷は鹿児島に戻りますが、藩主である島津茂久(忠義)の父で藩政の実権を握る島津久光と衝突し、流刑に処されます。西郷は、島津斉彬の構想に従って諸藩との連携を考えていましたが、島津久光に対して、諸藩の大名や有力家臣との面識がない、と指摘します。本書は、島津久光の幕政改革は一定の成果を挙げたものの、有力諸藩との連合が構想から抜け落ちており、朝廷と幕府と薩摩藩の三者合議制を志向していたので、土佐藩や長州藩などの反発を買ってしまった、と西郷の先見性を指摘します。本書は、「新体制」目指す変革者が、「旧体制」を守ろうとする側に弾圧された代表的事例として、島津久光による西郷の流刑を評価しています。
1864年に西郷が復権して以降、禁門の変、第一次長州征伐、薩長盟約、第二次長州征伐、大政奉還、王政復古、戊辰戦争と目まぐるしく情勢が変わります。本書は、薩長盟約前後に形成された政治情勢を、幕府派(保守派)と中間派(中道派)と倒幕派(革新派)に分類しています。本書は西郷の選択について、「中道派」と「革新派」との間で迷い続けていたようだ、と評価しています。西郷は「官軍」による東北制圧に目処がついた後、1868年11月に鹿児島に帰ります。西郷が新政府で要職に就かなかった理由は昔から議論されてきましたが、本書は、西郷に率いられていた薩摩藩兵が「官軍」として江戸に在駐しなかったことを重視しています。つまり、この時点では薩摩藩兵が真の意味で「官軍」ではなく、あくまでも封建制下の兵だった、というわけです。
明治維新後の西郷について、本書は廃藩置県により西郷の長年の目標が達成された、と評価しています。ただ本書は、西郷贔屓を自認しながら、西郷に統治の経験も近代ヨーロッパ文化の深い造詣もなかった、と指摘しています。西郷には、統一国家の運営について、基本的な知識も必要な経験もなかった、というわけです。この西郷の欠点は、同じく薩摩藩出身の五代友厚にはよく見えていた、と本書は指摘します。「征韓論」について本書は、西郷は「征韓」を主張したのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自身が訪朝して「暴殺」されれば「征韓」の口実ができると言ったのは、本当の「征韓」論者だった板垣退助の説得のためだった、と指摘します。西郷が落命するに至った西南戦争について本書は、西郷には一定の合理的勝算はあったものの、反乱を起こすような大目的はなく、急進派の決起に乗らざるを得なかった、と評価しています。
こうした状況で江戸に行った西郷は、1857~1858年の一橋慶喜擁立運動において、「開国」か「攘夷」かの問題についてほとんど関心を有していませんでした。この頃の西郷は、「開国派」とも「攘夷派」とも連携を図っていました。西郷の当時の連携相手は諸藩の有力武士が多く、これは島津斉彬が西郷を登用し、諸藩有力者との交渉を一任したためでした。この一橋慶喜擁立派は、幕政に直接関われない外様や親藩を中心として幕政改革を要求し、これに対抗したのが、譜代大名を中心とする勢力で、紀州藩主の徳川慶福(家茂)を擁立しました。その中心人物となったのが大老に就任した井伊直弼で、一橋慶喜擁立派を弾圧したのが安政の大獄でした。西郷はこれにより失脚したというか、表舞台から退場します。
その後、大久保利通たちの尽力により西郷は鹿児島に戻りますが、藩主である島津茂久(忠義)の父で藩政の実権を握る島津久光と衝突し、流刑に処されます。西郷は、島津斉彬の構想に従って諸藩との連携を考えていましたが、島津久光に対して、諸藩の大名や有力家臣との面識がない、と指摘します。本書は、島津久光の幕政改革は一定の成果を挙げたものの、有力諸藩との連合が構想から抜け落ちており、朝廷と幕府と薩摩藩の三者合議制を志向していたので、土佐藩や長州藩などの反発を買ってしまった、と西郷の先見性を指摘します。本書は、「新体制」目指す変革者が、「旧体制」を守ろうとする側に弾圧された代表的事例として、島津久光による西郷の流刑を評価しています。
1864年に西郷が復権して以降、禁門の変、第一次長州征伐、薩長盟約、第二次長州征伐、大政奉還、王政復古、戊辰戦争と目まぐるしく情勢が変わります。本書は、薩長盟約前後に形成された政治情勢を、幕府派(保守派)と中間派(中道派)と倒幕派(革新派)に分類しています。本書は西郷の選択について、「中道派」と「革新派」との間で迷い続けていたようだ、と評価しています。西郷は「官軍」による東北制圧に目処がついた後、1868年11月に鹿児島に帰ります。西郷が新政府で要職に就かなかった理由は昔から議論されてきましたが、本書は、西郷に率いられていた薩摩藩兵が「官軍」として江戸に在駐しなかったことを重視しています。つまり、この時点では薩摩藩兵が真の意味で「官軍」ではなく、あくまでも封建制下の兵だった、というわけです。
明治維新後の西郷について、本書は廃藩置県により西郷の長年の目標が達成された、と評価しています。ただ本書は、西郷贔屓を自認しながら、西郷に統治の経験も近代ヨーロッパ文化の深い造詣もなかった、と指摘しています。西郷には、統一国家の運営について、基本的な知識も必要な経験もなかった、というわけです。この西郷の欠点は、同じく薩摩藩出身の五代友厚にはよく見えていた、と本書は指摘します。「征韓論」について本書は、西郷は「征韓」を主張したのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自身が訪朝して「暴殺」されれば「征韓」の口実ができると言ったのは、本当の「征韓」論者だった板垣退助の説得のためだった、と指摘します。西郷が落命するに至った西南戦争について本書は、西郷には一定の合理的勝算はあったものの、反乱を起こすような大目的はなく、急進派の決起に乗らざるを得なかった、と評価しています。
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