黒田基樹『家康の正妻 築山殿』
平凡社新書の一冊として、平凡社より2022年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。来年(2023年)の大河ドラマでは徳川家康(松平元康)が主人公で、家康の妻の築山殿(演じるのは有村架純氏)についてはほぼ小説や大河ドラマで得た知識しかなかったので、基本的な情報から得る目的で読みました。築山殿に関する同時代史料は1点だけとのことで、その実像の把握は難しい、本書は指摘します。そのため本書は、江戸時代のできるだけ信頼性の高い史料に依拠して、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点から築山殿の実像に迫ります。戦国大名家は当主たる家長と「家」妻との共同運営体で、正妻あるいは「家」妻の管轄領域があり、そこに関しては当主もしくは家長でも独断で処理できず、正妻もしくは「家」妻の了解を得て進められた、というわけです。なお、側室は江戸時代の一夫一妻制において妾のうち事実婚に相当する場合の呼称として生まれたそうで、戦国時代はまだ一夫多妻多妾制だったそうです。そのため本書は、正妻・別妻・妾という用語と、男性家長とともに家組織の運営に当たる妻について「家」妻という用語を使います。
「築山殿」という呼称は17世紀半ばの史料に見え、岡崎で「築山」という場所に居住したことに由来するようです。築山殿の実名は定かではありません。築山殿の父については江戸時代から複数伝えられており、その通称が「関口刑部少輔」であることは共通しているものの、実名は義広や氏広や親永や氏縁とさまざまに伝わっています。しかし本書は、実名が氏純だった、と指摘します。築山殿は今川義元の姪とも伝わっていますが、じっさいは、築山殿の父である氏純の兄の瀬名貞綱が義元の姉婿でした。関口家には刑部少輔家と刑部大輔家が存在していました。関口家では刑部少輔家は庶子の系統ですが、早くに今川家に仕えて御一家衆として成立しました。関口氏純は瀬名家の出身で、関口家に婿養子に入り、今川家の外交関係で重要な役割を担っていました。築山殿の実名(上述のように実際には不明ですが)として伝わる「瀬名」は、父の実家に由来するようです。関口氏純の動向は当時の史料では1566年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)9月まで確認できますが、その後の動向は不明です。築山殿には妹がおり、北条氏規の妻だった、と推定されています。築山殿の成年については、1539年前後と推測されており、家康より数歳年長だった可能性があります。関口家は今川家の家格秩序では最上位に位置し、松平家は三河の国衆で今川家に従属する立場にありましたから、今川家では松平家よりも関口家の方が上位で、築山殿と家康との関係も築山殿の方が上位だっただろう、と本書は推測します。
築山殿の夫である家康(松平元信、松平元康)は、三河の国衆である松平家の当主で、「人質」ではなく、築山殿との結婚により今川家において親類衆とみなされるようになりました。家康は今川家の親類衆として駿府在住を基本として、駿府から領国を統治していました。築山殿と家康との間には息子の信康と娘の亀姫が生まれ、信康の誕生は1559年3月と伝わっています。信康の幼名は父から受け継いだ竹千代で、信康は家康(元信、元康)の嫡男として位置づけられましたが、これは信康が家康の長男だったからではなく、正妻である築山殿の息子だったからでした。築山殿は生まれてからずっと駿府で過ごしてきたと考えられますが、1560年5月19日の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、岡崎城にいた今川軍が退去して、家康が本拠の岡崎城に帰還したことで、状況が大きく変わります。この時、家康は直ちに今川家から自立して敵対したのではなく、それは1561年4月の三河の牛久保城攻撃からだった、と現在では明らかになっています。そのため、桶狭間の戦い後に家康が岡崎城に居続けたのは、今川家当主である氏真の処置だった、と考えられています。築山殿はこの時に駿府から岡崎に移住した、と本書は推測します。ただ、築山殿の息子である信康(竹千代)は人質としてそのまま駿府に居住していたようです。本書はこれを、信康は人質としてではなく、今川家の親類衆として駿府屋敷の留守に当たった、と解釈しています。家康が今川からの自立を考えたのは、越後の長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻にさいして、同盟相手の北条に援軍を派遣して、三河での織田との抗争に注力できなくなったからでした。家康は1561年2月に織田と和睦しますが、これは今川氏真の了解を得ていなかっただろう、と本書は推測します。国衆が従っていた戦国大名から庇護を受けられなくなって離反するという、戦国時代にはよく見られる事例でした。これにより、築山殿と家康の夫婦関係で優位な立場にあるのは、築山殿から家康へと変わり、築山殿にとって人生の転機になった、と本書は指摘します。
家康が今川方から離反したことにより、三河では松平と今川との対立が激化し、1561年6月には「三州錯乱」と言われる状況に陥ります。松平方が確実に勢力を拡大するなか、氏真は将軍の足利義輝に家康との和睦の調停を要請しますが、家康はこれに応じませんでした。ただ、今川家臣の鵜殿家の息子2人と信康(竹千代)との人質交換が成立しています。家康が今川から離反した時点で駿府にいた信康は殺害されても仕方のないところでしたが、そうならなかったのは、祖父の関口氏純の嘆願というよりは、むしろ御一家衆の外孫だったので、家康に対して松平家当主として擁立する可能性も踏まえてのことではなかったか、と本書は推測します。信康は駿府から岡崎城に移った後、織田信長の娘である五徳(岡崎殿)と婚約しています。これにより、松平と織田との間に同盟が成立し、その背景として、この時期の松平と今川との抗争激化があったようです。本書は、松平の「家」妻としての立場から、築山殿も信康と五徳との婚約に同意しただろう、と推測します。家康は、織田とは同盟を結んだものの、今川との戦いでの負担からか、不満が高まった家臣団に離反され、これは一般的に「三河一向一揆」と呼ばれています。その実態は、一向宗寺院のみならず、家臣団の叛乱でもあったわけです。家康にとって幸いなことに、この時期に今川領国の遠江でも叛乱が発生し、今川から三河の反家康勢力への支援は充分ではありませんでした。1563年11月に勃発した「三河一向一揆」は、1564年9月には鎮圧されたようです。この過程で、家康は国衆から西三河の戦国大名権力へと成長した、と本書は評価します。1566年5月には、家康は東三河一帯も領国化し、三河一国を領国とする戦国大名になり、名字を松平から徳川に改称します。この時、家康は任官を要請しますが、将軍不在で近衛家に依頼したため、藤原氏の一員という体裁がとられ、家康は以後しばらく、源氏ではなく藤原氏を称します。徳川の名字を称したのは家康だけで、嫡男の信康も松平と称しており、当初、徳川の名字は当主の家康だけに許されていたようです。家康の子で徳川と称したのは、家康生前では後に生まれた秀忠と義直と頼宜だけでした。本書は、三河には多くの松平一族が存在したので、その差別化のために徳川に改称した、と指摘します。信康と五徳との結婚は1567年だろう、と本書は推測します。三河を領国化した家康は、武田信玄と同盟して、1568年12月から今川領国の遠江へと侵攻します。この時、武田と今川の同盟が破綻し、北条は今川との同盟を維持して武田と対立するようになっていました。武田は北条と対峙するため侵攻していた今川領国から甲斐へと一旦撤退し、単独で北条と対峙するようになった家康は、負担の重さから北条と和睦します。これに武田信玄が不満を抱き、織田信長を通じて家康に抗議します。信玄は、家康を織田配下とみなしていました。こうした経緯から、徳川と武田は互いに不信感を抱き、1570年には敵対関係となります。遠江を攻略した家康は、1570年6月、信長の助言を受けて本拠を遠江の浜松(引間)城に遷します。築山殿は家康には同行せず、その後も岡崎の築山屋敷に居住し続け、信康も岡崎城に留まりました。本書は、三河と遠江の領国維持のため、妻子とは別居することが最適と判断したのだろう、と推測します。信康(竹千代)は1571年に元服しますが、岳父の信長に由来する「信」が上字、父の家康に由来する「康」が下字であることから、この時期の家康は実質的に信長の従属下にあった、と指摘します。つまり、信康と五徳の夫婦関係も、かつて今川義元存命時に家康よりも築山殿の方が上位だったように、五徳が上位だった、というわけです。
徳川と武田が敵対関係に陥る中、築山殿にとって別居に続いて夫との関係で大きな問題となったのは、次男の秀康と侍女の督姫の誕生でした。戦国大名の家において、子供の誕生は正妻もしくは「家」妻の管理下に置かれ、別妻・妾の存在やその子供の出産は、正妻もしくは「家」妻の承認下で行なわれました。秀康は1574年2月8日に生まれ、双子の弟(永見貞愛)がいましたが、弟は家康の実子と認定されませんでした。正妻は別妻や妾の承認権を有しており、築山殿は秀康の母(長勝院殿)を家康の妾として承知せず、妊娠したため女房衆から追放しました。これが江戸時代前期になると、築山殿の「嫉妬」が原因と矮小化されています。長勝院殿の出産に関わったのは家康家臣の本多重次でしたが、築山殿が承認しなかったため、当初は家康も実子と認知できず、認知できたのは築山殿の死後でした。一方、督姫の母(西郡の方)は築山殿から妾として承認されていたようです。督姫が生まれた1575年には、岡崎の町奉行の一人である大岡弥四郎(後世には大賀弥四郎と伝わっています)を首謀者とする謀叛が起きており、築山殿が関わっていたようです。当時、徳川は武田に対して劣勢で、この謀叛に関わった家老の石川春重たちは、武田に通ずることで自らの存続を企図していたようです。この謀叛は後世には「大賀弥四郎」の個人的陰謀とされましたが、じっさいには大規模で成算もあったようです。本書は、築山殿が武田に対して劣勢な徳川の存続を危ぶみ、その対策として武田に内通し、信康を武田の下で存立させようとしたのではないか、と推測します。朝倉景鏡や穴山信君など、劣勢な大名の一族が敵方に通ずることは当時珍しくありませんでした。本書は、この武田への内通には信康家臣団の多くが加わっていたものの、全員処罰すると信康家臣団は崩壊するので、武田との抗争が続くなか、首謀者だけが処罰され、築山殿も不問とされたものの、これにより築山殿と家康との関係は決定機に悪化しただろう、と推測します。家康が築山殿を離縁せず、代わりの妻を迎えなかったのは、正妻の地位の重さを示している、と本書は指摘します。
1575年5月の長篠の戦いの後、徳川は武田に対して攻勢に出ますが、武田も長篠での敗戦の打撃からすぐに軍を立て直して反撃に出たため、徳川にとって武田は相変わらず脅威でした。この長篠の戦い後も続いていた徳川と武田の抗争の中で信康事件が起きます。信康事件の発端は、信康の妻である五徳が夫の不行状を父である信長に12箇条にわたった訴えたことにある、とされています。しかし、この間の経緯を伝える『三河物語』や「松平記」は、築山殿が家康と離れて駿府に人質として留まっていた、などと述べており、物語的な創作があると考えられると本書は指摘します。本書は、「岡崎東泉記」を根拠に、天下人の長女で夫の信康と義母の築山殿を下に見ていた五徳が、そのことを信康に叱責され、意趣返しとして信長に信康の行状を悪し様に伝えるという、他愛ない夫婦喧嘩が信康事件の発端で、その中に築山殿の武田への内通が記されていたので、問題が大きくなったのではないか、と推測しています。これに対して、築山殿と信康は多数派工作を展開し、それに対して家康が、三河衆の岡崎城下屋敷での居住を禁止し、本領での居室を命じたのではないか、と本書は推測します。つまり家康は、信康と三河衆との関係を引き離そうとしたわけです。家康はこの頃から信康の処置を考え始めるようになっていたものの、武田との抗争が続く中、自身の代理を務められる唯一の存在である嫡男の信康を簡単には排除できなかっただろう、と本書は推測します。さらに本書は、三河の家臣団に武田との戦争継続を見直そうと考える者が少なからずおり、それが家康と信康および三河の家臣団との間の対立を生じさせていた可能性も指摘します。
家康にとって築山殿と信康の処置は難問だったわけですが、決断の大きな契機となったのは、三男の秀忠(長丸)が1579年4月7日に誕生したことだろう、と本書は推測します。「長丸」との幼名から本書は、家康が秀忠を新たな「長男」として認識した可能性を指摘します。家康が築山殿と信康の処置を決断するもう一つの契機となったのは、1579年9月4日に成立し、交渉は同年1月から始まっていた北条との同盟だろう、と本書は推測します。北条は当時、上杉の内紛である御館の乱への対応をめぐって武田との関係が悪化しており、徳川との同盟を求めていました。これは徳川にとって、武田との戦いを劇的に好転させる契機となりました。こうして家康は築山殿と信康の処罰を決断し、1579年8月4日、信康を岡崎城から追放しますが、これは信康の廃嫡を意味しました。信康は信長の娘婿で、家康は実質的に信長の従属大名だったので、信康の廃嫡について信長の了解を得るため、家臣の酒井忠次を使者として信長に派遣したのだろう、と本書は指摘します。五徳の信長への条書により、築山殿の武田への内通を信長が知ることになり、家康は上位者である信長への忖度から信康を成敗し、三河の家臣団にも武田との戦争継続の方針を承認させようとした、と本書は信康事件を把握しています。本書は、後ろ盾の今川が没落し、息子の信康が廃嫡されたことで前途を悲観した築山殿が自害したのではないか、と推測します。
「築山殿」という呼称は17世紀半ばの史料に見え、岡崎で「築山」という場所に居住したことに由来するようです。築山殿の実名は定かではありません。築山殿の父については江戸時代から複数伝えられており、その通称が「関口刑部少輔」であることは共通しているものの、実名は義広や氏広や親永や氏縁とさまざまに伝わっています。しかし本書は、実名が氏純だった、と指摘します。築山殿は今川義元の姪とも伝わっていますが、じっさいは、築山殿の父である氏純の兄の瀬名貞綱が義元の姉婿でした。関口家には刑部少輔家と刑部大輔家が存在していました。関口家では刑部少輔家は庶子の系統ですが、早くに今川家に仕えて御一家衆として成立しました。関口氏純は瀬名家の出身で、関口家に婿養子に入り、今川家の外交関係で重要な役割を担っていました。築山殿の実名(上述のように実際には不明ですが)として伝わる「瀬名」は、父の実家に由来するようです。関口氏純の動向は当時の史料では1566年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)9月まで確認できますが、その後の動向は不明です。築山殿には妹がおり、北条氏規の妻だった、と推定されています。築山殿の成年については、1539年前後と推測されており、家康より数歳年長だった可能性があります。関口家は今川家の家格秩序では最上位に位置し、松平家は三河の国衆で今川家に従属する立場にありましたから、今川家では松平家よりも関口家の方が上位で、築山殿と家康との関係も築山殿の方が上位だっただろう、と本書は推測します。
築山殿の夫である家康(松平元信、松平元康)は、三河の国衆である松平家の当主で、「人質」ではなく、築山殿との結婚により今川家において親類衆とみなされるようになりました。家康は今川家の親類衆として駿府在住を基本として、駿府から領国を統治していました。築山殿と家康との間には息子の信康と娘の亀姫が生まれ、信康の誕生は1559年3月と伝わっています。信康の幼名は父から受け継いだ竹千代で、信康は家康(元信、元康)の嫡男として位置づけられましたが、これは信康が家康の長男だったからではなく、正妻である築山殿の息子だったからでした。築山殿は生まれてからずっと駿府で過ごしてきたと考えられますが、1560年5月19日の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、岡崎城にいた今川軍が退去して、家康が本拠の岡崎城に帰還したことで、状況が大きく変わります。この時、家康は直ちに今川家から自立して敵対したのではなく、それは1561年4月の三河の牛久保城攻撃からだった、と現在では明らかになっています。そのため、桶狭間の戦い後に家康が岡崎城に居続けたのは、今川家当主である氏真の処置だった、と考えられています。築山殿はこの時に駿府から岡崎に移住した、と本書は推測します。ただ、築山殿の息子である信康(竹千代)は人質としてそのまま駿府に居住していたようです。本書はこれを、信康は人質としてではなく、今川家の親類衆として駿府屋敷の留守に当たった、と解釈しています。家康が今川からの自立を考えたのは、越後の長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻にさいして、同盟相手の北条に援軍を派遣して、三河での織田との抗争に注力できなくなったからでした。家康は1561年2月に織田と和睦しますが、これは今川氏真の了解を得ていなかっただろう、と本書は推測します。国衆が従っていた戦国大名から庇護を受けられなくなって離反するという、戦国時代にはよく見られる事例でした。これにより、築山殿と家康の夫婦関係で優位な立場にあるのは、築山殿から家康へと変わり、築山殿にとって人生の転機になった、と本書は指摘します。
家康が今川方から離反したことにより、三河では松平と今川との対立が激化し、1561年6月には「三州錯乱」と言われる状況に陥ります。松平方が確実に勢力を拡大するなか、氏真は将軍の足利義輝に家康との和睦の調停を要請しますが、家康はこれに応じませんでした。ただ、今川家臣の鵜殿家の息子2人と信康(竹千代)との人質交換が成立しています。家康が今川から離反した時点で駿府にいた信康は殺害されても仕方のないところでしたが、そうならなかったのは、祖父の関口氏純の嘆願というよりは、むしろ御一家衆の外孫だったので、家康に対して松平家当主として擁立する可能性も踏まえてのことではなかったか、と本書は推測します。信康は駿府から岡崎城に移った後、織田信長の娘である五徳(岡崎殿)と婚約しています。これにより、松平と織田との間に同盟が成立し、その背景として、この時期の松平と今川との抗争激化があったようです。本書は、松平の「家」妻としての立場から、築山殿も信康と五徳との婚約に同意しただろう、と推測します。家康は、織田とは同盟を結んだものの、今川との戦いでの負担からか、不満が高まった家臣団に離反され、これは一般的に「三河一向一揆」と呼ばれています。その実態は、一向宗寺院のみならず、家臣団の叛乱でもあったわけです。家康にとって幸いなことに、この時期に今川領国の遠江でも叛乱が発生し、今川から三河の反家康勢力への支援は充分ではありませんでした。1563年11月に勃発した「三河一向一揆」は、1564年9月には鎮圧されたようです。この過程で、家康は国衆から西三河の戦国大名権力へと成長した、と本書は評価します。1566年5月には、家康は東三河一帯も領国化し、三河一国を領国とする戦国大名になり、名字を松平から徳川に改称します。この時、家康は任官を要請しますが、将軍不在で近衛家に依頼したため、藤原氏の一員という体裁がとられ、家康は以後しばらく、源氏ではなく藤原氏を称します。徳川の名字を称したのは家康だけで、嫡男の信康も松平と称しており、当初、徳川の名字は当主の家康だけに許されていたようです。家康の子で徳川と称したのは、家康生前では後に生まれた秀忠と義直と頼宜だけでした。本書は、三河には多くの松平一族が存在したので、その差別化のために徳川に改称した、と指摘します。信康と五徳との結婚は1567年だろう、と本書は推測します。三河を領国化した家康は、武田信玄と同盟して、1568年12月から今川領国の遠江へと侵攻します。この時、武田と今川の同盟が破綻し、北条は今川との同盟を維持して武田と対立するようになっていました。武田は北条と対峙するため侵攻していた今川領国から甲斐へと一旦撤退し、単独で北条と対峙するようになった家康は、負担の重さから北条と和睦します。これに武田信玄が不満を抱き、織田信長を通じて家康に抗議します。信玄は、家康を織田配下とみなしていました。こうした経緯から、徳川と武田は互いに不信感を抱き、1570年には敵対関係となります。遠江を攻略した家康は、1570年6月、信長の助言を受けて本拠を遠江の浜松(引間)城に遷します。築山殿は家康には同行せず、その後も岡崎の築山屋敷に居住し続け、信康も岡崎城に留まりました。本書は、三河と遠江の領国維持のため、妻子とは別居することが最適と判断したのだろう、と推測します。信康(竹千代)は1571年に元服しますが、岳父の信長に由来する「信」が上字、父の家康に由来する「康」が下字であることから、この時期の家康は実質的に信長の従属下にあった、と指摘します。つまり、信康と五徳の夫婦関係も、かつて今川義元存命時に家康よりも築山殿の方が上位だったように、五徳が上位だった、というわけです。
徳川と武田が敵対関係に陥る中、築山殿にとって別居に続いて夫との関係で大きな問題となったのは、次男の秀康と侍女の督姫の誕生でした。戦国大名の家において、子供の誕生は正妻もしくは「家」妻の管理下に置かれ、別妻・妾の存在やその子供の出産は、正妻もしくは「家」妻の承認下で行なわれました。秀康は1574年2月8日に生まれ、双子の弟(永見貞愛)がいましたが、弟は家康の実子と認定されませんでした。正妻は別妻や妾の承認権を有しており、築山殿は秀康の母(長勝院殿)を家康の妾として承知せず、妊娠したため女房衆から追放しました。これが江戸時代前期になると、築山殿の「嫉妬」が原因と矮小化されています。長勝院殿の出産に関わったのは家康家臣の本多重次でしたが、築山殿が承認しなかったため、当初は家康も実子と認知できず、認知できたのは築山殿の死後でした。一方、督姫の母(西郡の方)は築山殿から妾として承認されていたようです。督姫が生まれた1575年には、岡崎の町奉行の一人である大岡弥四郎(後世には大賀弥四郎と伝わっています)を首謀者とする謀叛が起きており、築山殿が関わっていたようです。当時、徳川は武田に対して劣勢で、この謀叛に関わった家老の石川春重たちは、武田に通ずることで自らの存続を企図していたようです。この謀叛は後世には「大賀弥四郎」の個人的陰謀とされましたが、じっさいには大規模で成算もあったようです。本書は、築山殿が武田に対して劣勢な徳川の存続を危ぶみ、その対策として武田に内通し、信康を武田の下で存立させようとしたのではないか、と推測します。朝倉景鏡や穴山信君など、劣勢な大名の一族が敵方に通ずることは当時珍しくありませんでした。本書は、この武田への内通には信康家臣団の多くが加わっていたものの、全員処罰すると信康家臣団は崩壊するので、武田との抗争が続くなか、首謀者だけが処罰され、築山殿も不問とされたものの、これにより築山殿と家康との関係は決定機に悪化しただろう、と推測します。家康が築山殿を離縁せず、代わりの妻を迎えなかったのは、正妻の地位の重さを示している、と本書は指摘します。
1575年5月の長篠の戦いの後、徳川は武田に対して攻勢に出ますが、武田も長篠での敗戦の打撃からすぐに軍を立て直して反撃に出たため、徳川にとって武田は相変わらず脅威でした。この長篠の戦い後も続いていた徳川と武田の抗争の中で信康事件が起きます。信康事件の発端は、信康の妻である五徳が夫の不行状を父である信長に12箇条にわたった訴えたことにある、とされています。しかし、この間の経緯を伝える『三河物語』や「松平記」は、築山殿が家康と離れて駿府に人質として留まっていた、などと述べており、物語的な創作があると考えられると本書は指摘します。本書は、「岡崎東泉記」を根拠に、天下人の長女で夫の信康と義母の築山殿を下に見ていた五徳が、そのことを信康に叱責され、意趣返しとして信長に信康の行状を悪し様に伝えるという、他愛ない夫婦喧嘩が信康事件の発端で、その中に築山殿の武田への内通が記されていたので、問題が大きくなったのではないか、と推測しています。これに対して、築山殿と信康は多数派工作を展開し、それに対して家康が、三河衆の岡崎城下屋敷での居住を禁止し、本領での居室を命じたのではないか、と本書は推測します。つまり家康は、信康と三河衆との関係を引き離そうとしたわけです。家康はこの頃から信康の処置を考え始めるようになっていたものの、武田との抗争が続く中、自身の代理を務められる唯一の存在である嫡男の信康を簡単には排除できなかっただろう、と本書は推測します。さらに本書は、三河の家臣団に武田との戦争継続を見直そうと考える者が少なからずおり、それが家康と信康および三河の家臣団との間の対立を生じさせていた可能性も指摘します。
家康にとって築山殿と信康の処置は難問だったわけですが、決断の大きな契機となったのは、三男の秀忠(長丸)が1579年4月7日に誕生したことだろう、と本書は推測します。「長丸」との幼名から本書は、家康が秀忠を新たな「長男」として認識した可能性を指摘します。家康が築山殿と信康の処置を決断するもう一つの契機となったのは、1579年9月4日に成立し、交渉は同年1月から始まっていた北条との同盟だろう、と本書は推測します。北条は当時、上杉の内紛である御館の乱への対応をめぐって武田との関係が悪化しており、徳川との同盟を求めていました。これは徳川にとって、武田との戦いを劇的に好転させる契機となりました。こうして家康は築山殿と信康の処罰を決断し、1579年8月4日、信康を岡崎城から追放しますが、これは信康の廃嫡を意味しました。信康は信長の娘婿で、家康は実質的に信長の従属大名だったので、信康の廃嫡について信長の了解を得るため、家臣の酒井忠次を使者として信長に派遣したのだろう、と本書は指摘します。五徳の信長への条書により、築山殿の武田への内通を信長が知ることになり、家康は上位者である信長への忖度から信康を成敗し、三河の家臣団にも武田との戦争継続の方針を承認させようとした、と本書は信康事件を把握しています。本書は、後ろ盾の今川が没落し、息子の信康が廃嫡されたことで前途を悲観した築山殿が自害したのではないか、と推測します。
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