ハンガリー王国のフニャディ家のDNA解析
ハンガリー王国のフニャディ(Hunyadi)家のDNA解析結果を報告した研究(Neparáczki et al., 2022)が公表されました。フニャディ家は、14~16世紀のヨーロッパ中央部の歴史において、最も影響力のあった家系の一つです。フニャディ家の威信は、ハンガリー王国の摂政の地位にまで上り詰めた、トルコを撃退したヨハネス・フニャディ(Johannes Hunyadi)により確立されました。その次男であるマティアス・フニャディ(Matthias Hunyadi)は、1458年にハンガリー王国の支配者に選出されました。フニャディ家の出自は不明です。さらに、マティアスは、嫡嗣がおらず、その庶子である息子のヨハネス・コルヴィヌス(Johannes Corvinus)が王位を得られなかったため、王朝を築くのに失敗しました。マティアスの孫息子であるクリストフォルス・コルヴィヌス(Christophorus Corvinus)は幼少時に死亡したので、フニャディ家の直系の男系は途絶えました。
本論文は、学際的研究の枠組みで、次世代配列決定技術により、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスの全ゲノム配列を決定しました。2人はともに、ユーラシアでは広く分布しているY染色体ハプログループ(YHg)E1b1b1a1b1a6a1cを有していました。両者の親子関係は、古典的な縦列型反復配列(STR)手法と全ゲノムデータを用いて確認されました。クリストフォルス・コルヴィヌスのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、稀で散発的に見られるT2c1+146で、地中海周辺で最高頻度となりますが、その父であるヨハネス・コルヴィヌスのmtHgはT2bで、これはユーラシアで広く分布しており、この父子両方のmtHgは母親の既知の出自と一致します。考古遺伝学的分析から、コルヴィヌスは古代ヨーロッパ人のゲノム構成を有していた、と示唆されました。報告されている遺伝的データに基づくと、墓所だけが知られているものの、他の数体の骨格とともに安置されている、全ての他のフニャディ家の構成員を特定することが可能になるでしょう。
●研究史
ハンガリー史における最重要期間の一つは、フニャディ時代としてハンガリーの史書では知られている数十年間です。この時代に、ヨハネス・フニャディ(1407?~1456年)とその息子であるマティアス・フニャディ(1443~1490年)が、ヨーロッパ征服を目論んで驚異的に急速に拡大するオスマン帝国に首尾よく立ち向かい、ハンガリーの南方の国境でオスマン帝国を食い止めました。この顕著な偉業はフニャディ家に大きな名声をもたらし、ハンガリーにとってはヨーロッパとキリスト教世界の防波堤との称号が得られました。フニャディという名前は、16世紀のイングランドとギリシアでは「指導者、征服者」という意味と同義になりました。フニャディ家はその英雄的行為により、イタリア人やセルビア人やクロアチア人やスロヴェニア人やスロヴァキア人やチェコ人やルーシ人やルーマニア人にとってと同様に、ハンガリー人にとっても民間の英雄にもなりました。
ヨハネス・フニャディは、ハンガリー王(1387~1437年)で神聖ローマ皇帝(1433~1437)のルクセンブルグのジギスムント(Sigismund)のひじょうに有能な将軍として名声を得ました。彼はすぐに軍事と政治の両分野で地位を上げました。彼は国の最大の領主になり、その重要な資源を用いて、最高司令官としてトルコに対する防衛の、1446年以降はハンガリー王国の摂政として先導しました。彼はほぼ全ての戦いに勝ったので、ひじょうに人気がありました。彼の最後でおそらくは最重要の戦いは、ナーンドルフェヘールヴァール(Nándorfehérvár、現在のベオグラード)における1456年のオスマン軍に対してのものでした。正午に鳴り響く鐘は、今日に至るまで、この勝利を毎日記念するものです。ヨハネス・フニャディは、ハンガリー人にとって勝利に終わったナーンドルフェヘールヴァールでの戦いの3週間後、伝染病で死亡しました。
ヨハネス・フニャディがまだ生きていた間に、軍事訓練とともに人文主義教育を受けていたラディスラウス(Ladislaus)とマティアスという彼の2人の息子のうち1人は、ハンガリーの王位に就く可能性がある、という考えが浮かび上がりました。しかし、ヨハネス・フニャディの早すぎる死の後、その長男(ラディスラウス)はラディスラウス5世(1453~1457年)により処刑されました。ラディスラウス5世はその直後に死亡したので、ハンガリーの一般議会はラディスラウスの弟のマティアスをハンガリー王として選出しました。「新人(成り上がり)」として王位に就いたマティアスは、同時代の最も重要な君主の1人になりました。外交手腕とヨーロッパで最良に組織化されて戦闘準備の整った軍隊である黒軍に依拠して、マティアスは南の国境を世界帝国【オスマン帝国】から守っただけではなく、国の領土を拡大しました。彼はオーストリアの東部州とボヘミアの一部を征服しました。マティアスの名前は、イタリアの人文主義者より賞賛されることが多い文学と芸術と科学と、15世紀にはバチカンの図書館に次いでヨーロッパで大きな収集とみなされていた、人文主義者の王室図書館であるコルヴィヌス図書室の創設のため、世界中で記憶されています。
マティアスは、妻であるアラゴンのベアトリス(Beatrice)との間に子供がいなかったので、唯一にして非嫡出の息子であるヨハネス・コルヴィヌス(1473~1504年)を後継者にするつもりでした。マティアスは、突然で予期せぬ死の後、11世紀以来ハンガリー王の戴冠と埋葬の場所であるセーケシュフェヘールヴァール(Székesfehérvár)の大聖堂に埋葬されました。残念ながら、この大聖堂はトルコのハンガリー占領中および占領後に破壊され、マティアスの墓は失われました。マティアスの息子はマティアスの死後簒奪され、その王冠はヤギェウォ(Jagiellon)王朝のヴワディスワフ(Vladislaus)2世に授けられました。ヨハネス・コルヴィヌスはダルマチアとスロヴェニアとクロアチアの公爵の称号を与えられ、トルコに対するハンガリー国教の防衛で優れた功績を挙げました。ヨハネス・コルヴィヌスは1504年10月に死亡した後、その希望によりレポグァヴァ(Lepoglava)のポーリン(Pauline)修道院に葬られました。そのほぼ2年後、ヨハネス・コルヴィヌスの息子であるクリストフォルスはわずか6歳で死亡し、ヨハネス・コルヴィヌスの隣に埋葬されました。クリストフォルスの死とともに、コルヴィヌス系統は終焉しました。
フニャディ家の起源は、当時すでに憶測の的になっていました。ほとんどの同時代の情報源によると、フニャディ家はワラキア家系の高貴な一族の構成員でした。しかし、とくにマティアス・レックス(Matthias Rex)の治世中には、いくつかの伝説が量通していました。最もよく知られた物語の一つは、イタリアの人文主義者により創作され、1502年に死亡したアントニオ・ボンフィニ(Antonio Bonfini)により洗練されたもので、フニャディ家を部分的にローマのコルヴィヌス家に結びつけました。一方、アントニオ・ボンフィニは、ヨハネス・フニャディがハンガリーのルクセンブルグ王(1387~1437)と神聖ローマ皇帝(1433~1437年)のジギスムントとの非嫡出の息子だった、という口頭伝承も記録しています。歴史家はこれらの伝説の真実性を立証しようとしてきましたが、文献ではヤノス・フニャディ(János Hunyadi)の母方もしくは父方のどちらかを明確に立証できません。
近年、有名な歴史的家系の遺伝的起源を特定する考古遺伝学的研究が、ますます重視されてきました。ロマノフ家、ストックホルムの創設者であるブリガー・マグヌッソン(Briger Magnusson)、リチャード3世の遺伝的起源について、論文が刊行されました。ハンガリーでは、アールパード(Árpád)朝の創始者である2人の構成員が特定され、その系統発生的起源が解明されて、アールパード朝で最も著名なベーラ(Bela)3世のDNAも解析されました(関連記事)。
この研究は、レポグァヴァの聖母マリア「無原罪の御宿り(Immaculate Conception)」教会のコルヴィヌスの墓に埋葬された個体間の生物学的関連性の調査と、その遺伝的構成の定義が目的です。この情報は、セーケシュフェヘールヴァールの納骨堂に保管されている遺骸の中から、マティアス・レックスの遺骸の特定可能性に重要となるでしょう。標本抽出された遺骸は、放射性炭素年代測定法により年代(標本の年代は95.4%の確率で1459~1632年と推定され、1459~1525年である確率は48.5%で、1559~1632年である確率は46.9%です)が、その形態に基づいて死亡時年齢が推定されました。mtDNAと核DNAが解析され、mtHgとYHgが決定されました。
●人類学的特徴
ヨハネス・コルヴィヌスの骨学的資料の保存状態(図1A)は、骨の表面が死後に損傷したいくつかの領域を除いてかなり良好でした。頭蓋骨縫合閉鎖によると、死亡時年齢は29~35歳でした。しかし、死亡時年齢推定のための縫合成熟の信頼性には疑問があります。骨盤に病理学的状態が検出されたので、この領域の年齢依存的な特徴の検討には問題がありました。したがって、恥骨表面の評価は除外される必要がありました。耳介表面の調査に基づくと、死亡時年齢は30~39歳です。しかし、この領域も病理学的変化と死後損傷の影響をわずかに受けていたので、これらの結果は要注意です。1957年の研究によると、骨端片の癒合が鎖骨の胸骨端で不完全だったので、死亡時年齢は20代後半と推定できます。以下は本論文の図1です。
骨盤の病理学的変化と頭蓋底の死後損傷のため、形態学的特徴のいくつかは性別決定において除外されるべきです。9点のよく観察できる性的二形の骨格の特徴に基づくと、この個体の性別は男性でした。骨の古病理学的分析により、左股関節に深刻な変化がある、と明らかになりました。これらの観察は、ヨハネス・コルヴィヌスの幼少期の外傷に関する文献と一致します。
クリストフォルス・コルヴィヌスの断片的な骨格は、長骨の遠位端および近位端での死後損傷を明らかにし、さらに、左顔面骨の大半が失われていました。クリストフォルス・コルヴィヌスの死亡時年齢(図1B)は、歯の萌出に基づくと7歳(±2ヶ月)で、長骨の測定によると約7~8差異でした。観察された骨格には、病理学的変化は検出できませんでした。骨考古学的調査(個体の死亡時年齢と性別と成人個体の病理学的変化)の結果は、レポグァヴァの聖母マリア「無原罪の御宿り」教会の納骨堂の骨格遺骸が、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのものである、という仮説を裏づけます。
●Y染色体データ
PowerPlex Y23 PCR増幅一式を用いて、両方の古代DNA標本から完全なY染色体STRハプロタイプ特性が得られました。両個体のハプロタイプが同じなので、両者は密接な父系親族かもしれない、との仮定が確証されます。Y染色体DNA検定に基づいて計算された統計的評価にわると、検査された2標本が共有された父系祖先に由来する確率は99.996%で、「実際に証明された」口頭陳述に相当します。YHRDデータベースで、23ヶ所のY染色体STR遺伝子座から構成されるこのハプロタイプが検索されましたが、23998のハプロタイプで一致するものは見つかりませんでした。遺伝子座を17に減らしても、一致するものはありませんでした。さらに遺伝子座を12に減らすと、残りが稀なハプロタイプを有している、と示唆する296798のハプロタイプうち1つだけが一致しました。
ハプロタイプ予測に基づいて、両標本はYHg-E1b1b1a1(M78)に分類でき、それはM78一塩基多型(SNP)遺伝標識の検証により確証されます。YHg-E1b1b1a1は13400年前頃に形成されました。7000年前頃のYHg-E1b1b1a1の下位ハプログループに属する遺骸が、スペインのアヴェラナー(Avellaner)洞窟で発見されました。ソポト(Sopot)文化の別のYHg-E1b1b1a1標本は、ハンガリーで見つかりました(紀元前5000~紀元前4800年頃)。この知見から、YHg-E1b1b1a1の男性は新石器時代農耕民とともに肥沃な三日月地帯からヨーロッパとさらにはアジアへ到来した可能性が最も高い、と示唆されます。数世紀以内に、YHg-E1b1b1a1b1a(V13)はヨーロッパで最も広く分布した男性系統の一つになり、ヨーロッパと地中海の境界をはるかに越えて、アジアにまで達しました。
STR研究の後、全ゲノム配列決定データからより深い分類が実行されました。コルヴィヌスは、2ヶ所のSNP(BY4281とBY4330)に基づいて、YHg-E1b1b1a1b1a6a1c∼と分類されました。父系となるYHg-E1b1b1a1b1a6a1cの古代人標本はおそらく、時空間的に広範に分布していました。その1個体は中世サルデーニャ島(関連記事)で、別の1個体は鉄器時代カザフ草原のオトゥラル・カラタウ(Otrar-Karatau)文化で確認されており、両標本ともYHg-E1b1b1a1b1a6a1∼(CTS9320)に分類されます。YHg-E1b1b1a1b1a(V13)の同じ下位系統はエリートのハンガリー征服者であるアヴァール期(895~950年)個体群と、中世ハンガリー貴族でカルパチア盆地において検出されました。
●ミトコンドリアゲノム分析
ヨハネス・コルヴィヌスのミトコンドリア配列は、独特な多型3828G を有するmtHg-T2bに分類されました。mtHg-T2bの最初期の代表は、アナトリア半島北西部初期新石器時代(紀元前6500年頃)個体群で検出されており、mtHg-T2bはヨーロッパへの到来前に中東の農耕民においてすでに存在していた、と示唆されます。mtHg-T2bはその後、ヨーロッパ南部に拡大し、その後の新石器時代農耕民はヨーロッパ中にmtHg-T2bを広げました。
中央結合ネットワーク(Median-Joining Network、略してMJN)の系統発生分析から、本論文の分析対象のmtHg-T2b系統と最も近い配列の一致は、新石器時代の線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)の3個体、ドイツの青銅器時代の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化1標本と中世初期の2標本、ブリテン島の青銅器時代の2標本、ポーランドの青銅器時代のトシュチニェツ(Trzciniec)文化の2標本、ハンガリーのレンジェル(Lengyel)文化に属する新石器時代の1標本、リトアニアの青銅器時代の1標本、トルコの後期銅器時代の1標本、スペインのポエニ人の1標本、フィンランドの中世の1標本、ルーマニアの中世の1標本で見つかる、と明らかになりました。ヨハネス・コルヴィヌスの母系はおそらく、農耕の拡大を伴う中東に由来し、経時的に、一般的でユーラシア全体で広く分布したmtHgになりました。
クリストフォルス・コルヴィヌスのmtDNAは、SNP多型の200Gと783Gと9524Gと11914Aと2346Tに基づいて、 mtHg-T2c1+146に分類されました。mtHg-T2c1は中東起源の可能性が最も高そうです。母系となるmtHg-T2c1+146は、ハンガリーの銅器時代および新石器時代遺骸と、イスラエルとシリアとトルコの青銅器時代および銅器時代の中東の遺骸、イタリアの新石器時代遺骸、ドイツで発掘されたLBK個体群で優占しています。系統発生分析に基づくと、母系となるmtHg-T2c1+146は過去において比較的稀なmtHgで、現在はおもに中東とヨーロッパの一部に存在する、と言えます。MJNでは、最も近い配列の一致(6ヌクレオチド離れています)はトルコとシリアの銅器時代個体群で見つけることができる、と明らかになりました。さらに、密接に関連した系統が、銅器時代ハンガリーの領域の1個体と、青銅器時代イスラエルの領域の1個体と、ドイツのLBKの別の1個体で検出されました。
これらの結果から、クリストフォルス・コルヴィヌスの母系は中東の古代の分枝で、初期農耕民に由来し、新石器時代にはハンガリーにおいてすでに存在していた、と示唆されます。これらのデータは、クリストフォルス・コルヴィヌスの母親で、アラゴンおよびカスティーリャ王朝と関連する地中海の人々の子孫だった、ベアトリーチェ・フランゲパン(Beatrix Frangepán)の起源についての歴史的記録と一致します。
●考古ゲノミクス分析
2個体(ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌス)の全ゲノム配列は、PCAngsdプログラムで親族関係について検証され、0.2437の値が得られました。この値は、疑似半数体ゲノムで比較する場合、1親等の親族関係で予測される値である0.25にひじょうに近いものです。ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、主成分分析(PCA)図のヨーロッパ側に配置され、クリストフォルス・コルヴィヌスは、その母親から継承した地中海祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のため、その父からやや南方へと動いていました(図2)。以下は本論文の図2です。
教師なしAdmixtureは、K(系統構成要素数)=7で最小の交差検証値となります。親族分析では、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスとの間の1親等の関係が示唆されたので、Admixture分析ではヨハネス・コルヴィヌスだけが残されました。ヨハネス・コルヴィヌスのゲノムには、50%の新石器時代アナトリア半島、31%の古代北ユーラシア人、8%のイラン新石器時代、5%のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、3%の前期青銅器時代、2%の漢人の混合構成要素が含まれます(図3a)。
個体水準では、10点の最も類似した標本は、ロシア連邦のモルドヴィア共和国の2点とヴォログダ州の2点、クロアチア人の3点、ルーマニア人の2点、ハンガリー人の1点に由来します(図3b)。図3bにおけるこれらの最も類似した個体群では、わずかな構成要素が明らかな違いを示していますが、それにも関わらず、これらの標本は、さまざまな割合の同一の構成要素の他の個体と比較して、主要な構成要素の類似した割合のため、密接にクラスタ化します(まとまります)。人口集団水準では、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、現在のヨーロッパ南部とカルパチア盆地の人口集団と最大の類似性を示しますが、ヨーロッパ東部草原地帯においても類似のゲノム構成の個体を見つけることができます。以下は本論文の図3です。
外群f3統計によると、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、新石器時代ヨーロッパの標本、レンジェル文化やボドログケツェツール(Bodrogkeszetúr)文化やケレス(Körös)文化といったハンガリーの新石器時代の標本と最高の共有された浮動を有しています。これは明確に、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスの主要なゲノム構成要素が何千年も前にカルパチア盆地に存在していることを示しており、Admixtureの結果と一致します(図4)。以下は本論文の図4です。
その新石器時代の遺産に続いて、ヨハネス・コルヴィヌスの息子であるクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、クロアチアの銅器時代のヴチェドル(Vučedol、Vucedol)文化の1標本と際立った共有された浮動を有しています。これは、その母親から受け継いだ、より高い地中海からの遺伝的影響と一致しており、PCAでも見られ、歴史的データにより裏づけられます。
●まとめ
本論文は、有名なヨーロッパ中央部のフニャディ家の最後の男性2人の構成員の、DNA特性の特定に成功しました。この2個体は、ゲノム水準で古代の新石器時代の遺伝的遺産を有しています。フニャディ家を特徴づけるYHg-E1b1b1a1b1a6a1c∼(BY4281)は、ハンガリーのセーケシュフェヘールヴァールの破壊された大聖堂の場所に隣接する納骨堂の遺骸の中から、マティアス・フニャディの遺骸特定の試みに手がかりを提供するでしょう。
参考文献:
Neparáczki E. et al.(2022): The genetic legacy of the Hunyadi descendants. Heliyon, 8, 11, E11731.
https://doi.org/10.1016/j.heliyon.2022.e11731
本論文は、学際的研究の枠組みで、次世代配列決定技術により、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスの全ゲノム配列を決定しました。2人はともに、ユーラシアでは広く分布しているY染色体ハプログループ(YHg)E1b1b1a1b1a6a1cを有していました。両者の親子関係は、古典的な縦列型反復配列(STR)手法と全ゲノムデータを用いて確認されました。クリストフォルス・コルヴィヌスのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、稀で散発的に見られるT2c1+146で、地中海周辺で最高頻度となりますが、その父であるヨハネス・コルヴィヌスのmtHgはT2bで、これはユーラシアで広く分布しており、この父子両方のmtHgは母親の既知の出自と一致します。考古遺伝学的分析から、コルヴィヌスは古代ヨーロッパ人のゲノム構成を有していた、と示唆されました。報告されている遺伝的データに基づくと、墓所だけが知られているものの、他の数体の骨格とともに安置されている、全ての他のフニャディ家の構成員を特定することが可能になるでしょう。
●研究史
ハンガリー史における最重要期間の一つは、フニャディ時代としてハンガリーの史書では知られている数十年間です。この時代に、ヨハネス・フニャディ(1407?~1456年)とその息子であるマティアス・フニャディ(1443~1490年)が、ヨーロッパ征服を目論んで驚異的に急速に拡大するオスマン帝国に首尾よく立ち向かい、ハンガリーの南方の国境でオスマン帝国を食い止めました。この顕著な偉業はフニャディ家に大きな名声をもたらし、ハンガリーにとってはヨーロッパとキリスト教世界の防波堤との称号が得られました。フニャディという名前は、16世紀のイングランドとギリシアでは「指導者、征服者」という意味と同義になりました。フニャディ家はその英雄的行為により、イタリア人やセルビア人やクロアチア人やスロヴェニア人やスロヴァキア人やチェコ人やルーシ人やルーマニア人にとってと同様に、ハンガリー人にとっても民間の英雄にもなりました。
ヨハネス・フニャディは、ハンガリー王(1387~1437年)で神聖ローマ皇帝(1433~1437)のルクセンブルグのジギスムント(Sigismund)のひじょうに有能な将軍として名声を得ました。彼はすぐに軍事と政治の両分野で地位を上げました。彼は国の最大の領主になり、その重要な資源を用いて、最高司令官としてトルコに対する防衛の、1446年以降はハンガリー王国の摂政として先導しました。彼はほぼ全ての戦いに勝ったので、ひじょうに人気がありました。彼の最後でおそらくは最重要の戦いは、ナーンドルフェヘールヴァール(Nándorfehérvár、現在のベオグラード)における1456年のオスマン軍に対してのものでした。正午に鳴り響く鐘は、今日に至るまで、この勝利を毎日記念するものです。ヨハネス・フニャディは、ハンガリー人にとって勝利に終わったナーンドルフェヘールヴァールでの戦いの3週間後、伝染病で死亡しました。
ヨハネス・フニャディがまだ生きていた間に、軍事訓練とともに人文主義教育を受けていたラディスラウス(Ladislaus)とマティアスという彼の2人の息子のうち1人は、ハンガリーの王位に就く可能性がある、という考えが浮かび上がりました。しかし、ヨハネス・フニャディの早すぎる死の後、その長男(ラディスラウス)はラディスラウス5世(1453~1457年)により処刑されました。ラディスラウス5世はその直後に死亡したので、ハンガリーの一般議会はラディスラウスの弟のマティアスをハンガリー王として選出しました。「新人(成り上がり)」として王位に就いたマティアスは、同時代の最も重要な君主の1人になりました。外交手腕とヨーロッパで最良に組織化されて戦闘準備の整った軍隊である黒軍に依拠して、マティアスは南の国境を世界帝国【オスマン帝国】から守っただけではなく、国の領土を拡大しました。彼はオーストリアの東部州とボヘミアの一部を征服しました。マティアスの名前は、イタリアの人文主義者より賞賛されることが多い文学と芸術と科学と、15世紀にはバチカンの図書館に次いでヨーロッパで大きな収集とみなされていた、人文主義者の王室図書館であるコルヴィヌス図書室の創設のため、世界中で記憶されています。
マティアスは、妻であるアラゴンのベアトリス(Beatrice)との間に子供がいなかったので、唯一にして非嫡出の息子であるヨハネス・コルヴィヌス(1473~1504年)を後継者にするつもりでした。マティアスは、突然で予期せぬ死の後、11世紀以来ハンガリー王の戴冠と埋葬の場所であるセーケシュフェヘールヴァール(Székesfehérvár)の大聖堂に埋葬されました。残念ながら、この大聖堂はトルコのハンガリー占領中および占領後に破壊され、マティアスの墓は失われました。マティアスの息子はマティアスの死後簒奪され、その王冠はヤギェウォ(Jagiellon)王朝のヴワディスワフ(Vladislaus)2世に授けられました。ヨハネス・コルヴィヌスはダルマチアとスロヴェニアとクロアチアの公爵の称号を与えられ、トルコに対するハンガリー国教の防衛で優れた功績を挙げました。ヨハネス・コルヴィヌスは1504年10月に死亡した後、その希望によりレポグァヴァ(Lepoglava)のポーリン(Pauline)修道院に葬られました。そのほぼ2年後、ヨハネス・コルヴィヌスの息子であるクリストフォルスはわずか6歳で死亡し、ヨハネス・コルヴィヌスの隣に埋葬されました。クリストフォルスの死とともに、コルヴィヌス系統は終焉しました。
フニャディ家の起源は、当時すでに憶測の的になっていました。ほとんどの同時代の情報源によると、フニャディ家はワラキア家系の高貴な一族の構成員でした。しかし、とくにマティアス・レックス(Matthias Rex)の治世中には、いくつかの伝説が量通していました。最もよく知られた物語の一つは、イタリアの人文主義者により創作され、1502年に死亡したアントニオ・ボンフィニ(Antonio Bonfini)により洗練されたもので、フニャディ家を部分的にローマのコルヴィヌス家に結びつけました。一方、アントニオ・ボンフィニは、ヨハネス・フニャディがハンガリーのルクセンブルグ王(1387~1437)と神聖ローマ皇帝(1433~1437年)のジギスムントとの非嫡出の息子だった、という口頭伝承も記録しています。歴史家はこれらの伝説の真実性を立証しようとしてきましたが、文献ではヤノス・フニャディ(János Hunyadi)の母方もしくは父方のどちらかを明確に立証できません。
近年、有名な歴史的家系の遺伝的起源を特定する考古遺伝学的研究が、ますます重視されてきました。ロマノフ家、ストックホルムの創設者であるブリガー・マグヌッソン(Briger Magnusson)、リチャード3世の遺伝的起源について、論文が刊行されました。ハンガリーでは、アールパード(Árpád)朝の創始者である2人の構成員が特定され、その系統発生的起源が解明されて、アールパード朝で最も著名なベーラ(Bela)3世のDNAも解析されました(関連記事)。
この研究は、レポグァヴァの聖母マリア「無原罪の御宿り(Immaculate Conception)」教会のコルヴィヌスの墓に埋葬された個体間の生物学的関連性の調査と、その遺伝的構成の定義が目的です。この情報は、セーケシュフェヘールヴァールの納骨堂に保管されている遺骸の中から、マティアス・レックスの遺骸の特定可能性に重要となるでしょう。標本抽出された遺骸は、放射性炭素年代測定法により年代(標本の年代は95.4%の確率で1459~1632年と推定され、1459~1525年である確率は48.5%で、1559~1632年である確率は46.9%です)が、その形態に基づいて死亡時年齢が推定されました。mtDNAと核DNAが解析され、mtHgとYHgが決定されました。
●人類学的特徴
ヨハネス・コルヴィヌスの骨学的資料の保存状態(図1A)は、骨の表面が死後に損傷したいくつかの領域を除いてかなり良好でした。頭蓋骨縫合閉鎖によると、死亡時年齢は29~35歳でした。しかし、死亡時年齢推定のための縫合成熟の信頼性には疑問があります。骨盤に病理学的状態が検出されたので、この領域の年齢依存的な特徴の検討には問題がありました。したがって、恥骨表面の評価は除外される必要がありました。耳介表面の調査に基づくと、死亡時年齢は30~39歳です。しかし、この領域も病理学的変化と死後損傷の影響をわずかに受けていたので、これらの結果は要注意です。1957年の研究によると、骨端片の癒合が鎖骨の胸骨端で不完全だったので、死亡時年齢は20代後半と推定できます。以下は本論文の図1です。
骨盤の病理学的変化と頭蓋底の死後損傷のため、形態学的特徴のいくつかは性別決定において除外されるべきです。9点のよく観察できる性的二形の骨格の特徴に基づくと、この個体の性別は男性でした。骨の古病理学的分析により、左股関節に深刻な変化がある、と明らかになりました。これらの観察は、ヨハネス・コルヴィヌスの幼少期の外傷に関する文献と一致します。
クリストフォルス・コルヴィヌスの断片的な骨格は、長骨の遠位端および近位端での死後損傷を明らかにし、さらに、左顔面骨の大半が失われていました。クリストフォルス・コルヴィヌスの死亡時年齢(図1B)は、歯の萌出に基づくと7歳(±2ヶ月)で、長骨の測定によると約7~8差異でした。観察された骨格には、病理学的変化は検出できませんでした。骨考古学的調査(個体の死亡時年齢と性別と成人個体の病理学的変化)の結果は、レポグァヴァの聖母マリア「無原罪の御宿り」教会の納骨堂の骨格遺骸が、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのものである、という仮説を裏づけます。
●Y染色体データ
PowerPlex Y23 PCR増幅一式を用いて、両方の古代DNA標本から完全なY染色体STRハプロタイプ特性が得られました。両個体のハプロタイプが同じなので、両者は密接な父系親族かもしれない、との仮定が確証されます。Y染色体DNA検定に基づいて計算された統計的評価にわると、検査された2標本が共有された父系祖先に由来する確率は99.996%で、「実際に証明された」口頭陳述に相当します。YHRDデータベースで、23ヶ所のY染色体STR遺伝子座から構成されるこのハプロタイプが検索されましたが、23998のハプロタイプで一致するものは見つかりませんでした。遺伝子座を17に減らしても、一致するものはありませんでした。さらに遺伝子座を12に減らすと、残りが稀なハプロタイプを有している、と示唆する296798のハプロタイプうち1つだけが一致しました。
ハプロタイプ予測に基づいて、両標本はYHg-E1b1b1a1(M78)に分類でき、それはM78一塩基多型(SNP)遺伝標識の検証により確証されます。YHg-E1b1b1a1は13400年前頃に形成されました。7000年前頃のYHg-E1b1b1a1の下位ハプログループに属する遺骸が、スペインのアヴェラナー(Avellaner)洞窟で発見されました。ソポト(Sopot)文化の別のYHg-E1b1b1a1標本は、ハンガリーで見つかりました(紀元前5000~紀元前4800年頃)。この知見から、YHg-E1b1b1a1の男性は新石器時代農耕民とともに肥沃な三日月地帯からヨーロッパとさらにはアジアへ到来した可能性が最も高い、と示唆されます。数世紀以内に、YHg-E1b1b1a1b1a(V13)はヨーロッパで最も広く分布した男性系統の一つになり、ヨーロッパと地中海の境界をはるかに越えて、アジアにまで達しました。
STR研究の後、全ゲノム配列決定データからより深い分類が実行されました。コルヴィヌスは、2ヶ所のSNP(BY4281とBY4330)に基づいて、YHg-E1b1b1a1b1a6a1c∼と分類されました。父系となるYHg-E1b1b1a1b1a6a1cの古代人標本はおそらく、時空間的に広範に分布していました。その1個体は中世サルデーニャ島(関連記事)で、別の1個体は鉄器時代カザフ草原のオトゥラル・カラタウ(Otrar-Karatau)文化で確認されており、両標本ともYHg-E1b1b1a1b1a6a1∼(CTS9320)に分類されます。YHg-E1b1b1a1b1a(V13)の同じ下位系統はエリートのハンガリー征服者であるアヴァール期(895~950年)個体群と、中世ハンガリー貴族でカルパチア盆地において検出されました。
●ミトコンドリアゲノム分析
ヨハネス・コルヴィヌスのミトコンドリア配列は、独特な多型3828G を有するmtHg-T2bに分類されました。mtHg-T2bの最初期の代表は、アナトリア半島北西部初期新石器時代(紀元前6500年頃)個体群で検出されており、mtHg-T2bはヨーロッパへの到来前に中東の農耕民においてすでに存在していた、と示唆されます。mtHg-T2bはその後、ヨーロッパ南部に拡大し、その後の新石器時代農耕民はヨーロッパ中にmtHg-T2bを広げました。
中央結合ネットワーク(Median-Joining Network、略してMJN)の系統発生分析から、本論文の分析対象のmtHg-T2b系統と最も近い配列の一致は、新石器時代の線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)の3個体、ドイツの青銅器時代の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化1標本と中世初期の2標本、ブリテン島の青銅器時代の2標本、ポーランドの青銅器時代のトシュチニェツ(Trzciniec)文化の2標本、ハンガリーのレンジェル(Lengyel)文化に属する新石器時代の1標本、リトアニアの青銅器時代の1標本、トルコの後期銅器時代の1標本、スペインのポエニ人の1標本、フィンランドの中世の1標本、ルーマニアの中世の1標本で見つかる、と明らかになりました。ヨハネス・コルヴィヌスの母系はおそらく、農耕の拡大を伴う中東に由来し、経時的に、一般的でユーラシア全体で広く分布したmtHgになりました。
クリストフォルス・コルヴィヌスのmtDNAは、SNP多型の200Gと783Gと9524Gと11914Aと2346Tに基づいて、 mtHg-T2c1+146に分類されました。mtHg-T2c1は中東起源の可能性が最も高そうです。母系となるmtHg-T2c1+146は、ハンガリーの銅器時代および新石器時代遺骸と、イスラエルとシリアとトルコの青銅器時代および銅器時代の中東の遺骸、イタリアの新石器時代遺骸、ドイツで発掘されたLBK個体群で優占しています。系統発生分析に基づくと、母系となるmtHg-T2c1+146は過去において比較的稀なmtHgで、現在はおもに中東とヨーロッパの一部に存在する、と言えます。MJNでは、最も近い配列の一致(6ヌクレオチド離れています)はトルコとシリアの銅器時代個体群で見つけることができる、と明らかになりました。さらに、密接に関連した系統が、銅器時代ハンガリーの領域の1個体と、青銅器時代イスラエルの領域の1個体と、ドイツのLBKの別の1個体で検出されました。
これらの結果から、クリストフォルス・コルヴィヌスの母系は中東の古代の分枝で、初期農耕民に由来し、新石器時代にはハンガリーにおいてすでに存在していた、と示唆されます。これらのデータは、クリストフォルス・コルヴィヌスの母親で、アラゴンおよびカスティーリャ王朝と関連する地中海の人々の子孫だった、ベアトリーチェ・フランゲパン(Beatrix Frangepán)の起源についての歴史的記録と一致します。
●考古ゲノミクス分析
2個体(ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌス)の全ゲノム配列は、PCAngsdプログラムで親族関係について検証され、0.2437の値が得られました。この値は、疑似半数体ゲノムで比較する場合、1親等の親族関係で予測される値である0.25にひじょうに近いものです。ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、主成分分析(PCA)図のヨーロッパ側に配置され、クリストフォルス・コルヴィヌスは、その母親から継承した地中海祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のため、その父からやや南方へと動いていました(図2)。以下は本論文の図2です。
教師なしAdmixtureは、K(系統構成要素数)=7で最小の交差検証値となります。親族分析では、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスとの間の1親等の関係が示唆されたので、Admixture分析ではヨハネス・コルヴィヌスだけが残されました。ヨハネス・コルヴィヌスのゲノムには、50%の新石器時代アナトリア半島、31%の古代北ユーラシア人、8%のイラン新石器時代、5%のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、3%の前期青銅器時代、2%の漢人の混合構成要素が含まれます(図3a)。
個体水準では、10点の最も類似した標本は、ロシア連邦のモルドヴィア共和国の2点とヴォログダ州の2点、クロアチア人の3点、ルーマニア人の2点、ハンガリー人の1点に由来します(図3b)。図3bにおけるこれらの最も類似した個体群では、わずかな構成要素が明らかな違いを示していますが、それにも関わらず、これらの標本は、さまざまな割合の同一の構成要素の他の個体と比較して、主要な構成要素の類似した割合のため、密接にクラスタ化します(まとまります)。人口集団水準では、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、現在のヨーロッパ南部とカルパチア盆地の人口集団と最大の類似性を示しますが、ヨーロッパ東部草原地帯においても類似のゲノム構成の個体を見つけることができます。以下は本論文の図3です。
外群f3統計によると、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、新石器時代ヨーロッパの標本、レンジェル文化やボドログケツェツール(Bodrogkeszetúr)文化やケレス(Körös)文化といったハンガリーの新石器時代の標本と最高の共有された浮動を有しています。これは明確に、ヨハネス・コルヴィヌスとクリストフォルス・コルヴィヌスの主要なゲノム構成要素が何千年も前にカルパチア盆地に存在していることを示しており、Admixtureの結果と一致します(図4)。以下は本論文の図4です。
その新石器時代の遺産に続いて、ヨハネス・コルヴィヌスの息子であるクリストフォルス・コルヴィヌスのゲノムは、クロアチアの銅器時代のヴチェドル(Vučedol、Vucedol)文化の1標本と際立った共有された浮動を有しています。これは、その母親から受け継いだ、より高い地中海からの遺伝的影響と一致しており、PCAでも見られ、歴史的データにより裏づけられます。
●まとめ
本論文は、有名なヨーロッパ中央部のフニャディ家の最後の男性2人の構成員の、DNA特性の特定に成功しました。この2個体は、ゲノム水準で古代の新石器時代の遺伝的遺産を有しています。フニャディ家を特徴づけるYHg-E1b1b1a1b1a6a1c∼(BY4281)は、ハンガリーのセーケシュフェヘールヴァールの破壊された大聖堂の場所に隣接する納骨堂の遺骸の中から、マティアス・フニャディの遺骸特定の試みに手がかりを提供するでしょう。
参考文献:
Neparáczki E. et al.(2022): The genetic legacy of the Hunyadi descendants. Heliyon, 8, 11, E11731.
https://doi.org/10.1016/j.heliyon.2022.e11731
この記事へのコメント