化石および遺伝的記録から推測されるネアンデルタール人と現生人類の相互作用

 化石および遺伝的記録から推測されるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の相互作用に関する概説(Stringer, and Crété., 2022)が公表されました。証拠から示唆されるのは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の系統は60万年前頃に分岐し始め、その後はユーラシアとアフリカでほぼ別々に進化した、ということです。6万年前頃、現生人類は顕著な出アフリカを始め、それは1万年前頃までにほぼ世界全体に分布するに至ります。

 しかし、ギリシア南部のマニ半島のアピディマ洞窟(Apidima Cave)の化石に関する最近の研究では、20万年以上前にヨーロッパに到達した現生人類のより初期の拡散があった、と提案されており、それは、中期更新世後半における初期ネアンデルタール人と現生人類系統との間の遺伝子流動を示唆する、古代DNAのデータと一致します。現生人類の追加の範囲拡大は、10万年以上前となるアジア西部、6万年以上前となる中国とスマトラ島とオーストラリアの証拠から示唆されます。

 最近まで、41000年前頃に始まったオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の拡大に先行する、ヨーロッパにおける現生人類の存在の他の痕跡はほとんどありませんでした。しかし、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)やイタリアのプッリャ州のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)やフランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)のような遺跡の新たなデータから、存続しているネアンデルタール人とともに現生人類集団が存在した可能性を示す、オーリナシアンの前となる拡散があった、と示唆されています。

 これらの人口集団の一部は後のユーラシア人と関連しているかもしれませんが、他の人口集団は今では絶滅した現生人類系統を表しているようです。増加しつつある遺伝的データから今では、ネアンデルタール人と現生人類のこの共存は両種間の交雑期間が伴っていた、と知られています。本論文では、現生人類集団へのネアンデルタール人個体の継続的吸収が、ネアンデルタール人の消滅につながった要因の一つだったかもしれない、と示唆されます。


●研究史

 ほんの数年前には、ホモ・サピエンスが祖先のアフリカの故地から少なくとも6万年前頃には拡散を始めたとしても、ヨーロッパにおける現生人類の到達にはもっと長い時間を要し、おそらくは41000年前頃のオーリナシアンインダストリーの到来とともにやっと到達した、と主張することが依然として可能でした。この「遅延」は、より寒冷なヨーロッパの環境への適応を発達させる必要により起きたか、あるいは先住のネアンデルタール人が何千年もの間、ホモ・サピエンスの排除に成功したからだ、と仮定されました。しかし、2019年以降、以前に観察されたようにアジア西部だけではなく、ヨーロッパにおいても、初期ホモ・サピエンスと後期ネアンデルタール人の長期の共存可能性を論証する一連の文献があれます。さらに、古代DNAの証拠から、この重複にはヨーロッパとアジアにおけるこれらの人口集団間の交雑複数の事象が伴っていた、と示されます。

 本論文はまず、ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの種の状態、およびその系統に沿って進化を区別するさいの、「古代型」や「現代型」や「初期」や「後期」のような用語の使用を検証します。本論文は次に、ユーラシアとアフリカにおけるネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統それぞれの発達について知られていることを簡潔に調べ、ユーラシアへのホモ・サピエンスの初期拡散に関する増えつつある証拠を再検討します。次に、ヨーロッパにおける6万~4万年前頃の期間と、さまざまな石器技術と関連するホモ・サピエンス集団の複数の到来に関する新たな証拠に焦点が当てられます。最後に、ネアンデルタール人集団とホモ・サピエンス集団が相互をどのように認識したのか、ということと、遺伝子交換を行なった社会環境が検証され、これら古代の人口集団間の複雑な相互作用の理解を深めるデータが予測されます。


●ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシス

 ほとんどの古人類学者は、ネアンデルタール人と現生人類をヒトの別種、つまりホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスとみなしています。現生人類の身体的特徴には、高くて丸い(「球状化」)脳頭蓋、小さく分断した眉弓、比較的狭い骨盤が含まれますが、ネアンデルタール人は、比較的長くて低い頭蓋骨、大きくて連続した眉弓、広くてより裾広がりの寛骨を示します。聴覚に不可欠の中耳の3点の小さな骨でさえ、注意深く測定すればネアンデルタール人と容易に区別できます。さらに、いくつかの研究では、頭蓋や耳の形態などの特徴におけるネアンデルタール人と現生人類の違いは、霊長類の異なる種で見られるものと一致するか、超えている、と示されてきました(関連記事)。

 したがって、現生人類をネアンデルタール人とは異なる種として分類するのに充分な身体的証拠があり、遺伝的データからは、現生人類系統は50万年以上前(関連記事)かさらにそれ以前(関連記事1および関連記事2)からネアンデルタール人とは別の進化の道を歩み始めた、と示唆されています。しかし今では、この分離はこれら進化した人口集団間の交雑を妨げるのに充分ではなかった(関連記事)、と分かっており、多くの密接に関連した現生種でも同様のことが観察されています(関連記事1および関連記事2)。

 ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統に沿った進化を区別するには追加の専門用語が必要ですが、いくつかの根本的で困難な命名法の問題があり、それは、長年にわたって最近のヒト進化の議論につきまとってきました。つまり、「古代型(archaic)」と「現代型(modern)」のヒトで用いられてきた専門用語です。多くの研究者は、最近および現存するホモ・サピエンスの「解剖学的に現代的な」骨格形態を表すために「現代型」の用語を、一般的および学術的議論の両方で使用しています。この場合のホモ・サピエンスとは、上述のように、高い神経頭蓋、球状の側頭部、前頭骨の下に引っ込んだ小さな顔面、小さくて連続していない眼窩上隆起、出生後の延長された生長期間と生活史、狭い胸郭と胴体と骨盤など、特定の特徴を共有しています。

 しかし、本論文の一方の著者であるストリンガー(Chris Stringer)氏は最近、(解剖学的な)現代人は、あまりにも混乱を招く用語である、と提案しました。それは、この用語があまりにも多くの異なるやり方で使われており、すっかり「最近のヒト」や「現存のヒト」や「行動的に現代的なヒト」といった、定義にそれ自体の問題を孕んでいる用語と融合してきたからです。「現代型」と常に関連づけられている用語である「古代型」も、ネアンデルタール人が大きな脳や突き出た中顔面や独特な耳骨など多くの派生的特徴を有しているのに、(「現代型」のヒトではない故に)「古代型」のヒトとして記載される矛盾した状況をもたらします。ストリンガー氏は、ホモ・サピエンス化石について「前期」と「後期」という代替的な用語を時に使うことで、この混乱に対処しました。しかし、これらの用語が適用された遺骸の多くは、年代測定されていないか、年代が議論になっています。さらに、化石の年代は、その形態がどの程度祖先的なのか、あるいは派生的なのか、必ずしも示唆しません。

 ストリンガー氏は2021年4月に、ソーシャルメディアでこれらの問題を論じ、多くの有益な反応と見解を受け取りました。たとえば、マイク・プラヴキャン(Mike Plavcan)氏は、単純に「基底部(系統樹もしくは系統発生上で祖先の位置に近い特徴を示します)」という用語と、「派生的(特殊化した祖先的ではない特徴を意味します)」という用語の使用を提案しました。それも、一般的語法における「原始的(primitive)」のような単語を用いることで付いてくる社会的因習により特徴づけられていません。これらの単語はどちらも、系統発生の議論では広く使用されていますが、古人類学ではずっと限定的です。

 したがって、この解決策に従うと、モロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡の化石(ジェベル・イルード1号)や、エチオピアのオモ・キビシュ2号(Omo Kibish 2)が基底部ホモ・サピエンス(bHs)を表している一方で、保存部分ではオモ・キビシュ1号は派生的ホモ・サピエンス(dHs)と記載できる、と言えます。同様に、中期更新世となるスペイン北部のアタプエルカの丘陵にある通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の人類遺骸のようなネアンデルタール人系統の初期構成員を基底部ネアンデルタール人(bHn)と呼べる一方で、フランスのラ・フェラシー(La Ferrassie)遺跡の人類遺骸(ラ・フェラシー1号)やフォーブス採石場(Forbes’ Quarry)の人類遺骸のような化石は、派生的ネアンデルタール人(dHn)と呼べます。

 「古代型」対「現代型」の二分法の廃止は、「古代型」遺伝子移入の曖昧な標識化も終了させ、それは、ネアンデルタール人系統の遺伝子移入、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の遺伝子移入、非現生人類系統の遺伝子移入などについてより具体的に話せることを意味します。しかし、ソーシャルメディアでの反応では、基底部および派生的のような用語は相対的である、と指摘され、誰がどちらかの使用を決定できるのか、と疑問が呈されました。これに対して、同じ(またはさらに悪い)問題が「古代型」と「現代型」という用語に当てはまる、と主張できます。さらに、「基底部」および「派生的」を非公式に使う場合でも、系統発生もしくはこれらの決定がどのようになされたのか明確にするための特徴の一覧を参照することは、少なくとも可能なはずです。結局のところ、「大きい」や「小さい」や「暑い」や「寒い」のような相対的用語が常に使われますが、それにも関わらず、そうした用語は有益です。ヒト化石が議論される場合、同じことが「基底部」と「派生的」に適用できる、と期待されます。


●ヨーロッパにおける少なくとも40万年間のネアンデルタール人の進化

 SHは、初期のヒトの多くの部分骨格で有名であり、その年代は43万年前頃です(関連記事)。これらの骨と歯の分析から、SH人類遺骸はネアンデルタール人の初期の近縁と示唆され(関連記事)、この結論は、SH化石の1点から古代DNAが回収され、ネアンデルタール人系統に位置づけられた2016年に裏づけられました(関連記事)。これらの遺伝的データを後のネアンデルタール人およびdHs(派生的ホモ・サピエンス)のゲノムと組み合わせると、ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統との間の分岐が60万年前頃に始まった、と示唆されます。これは、以下で議論される新たな研究と組み合わせると、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの最終共通祖先(LCA)がどの人類だったのか、という問題に関する考え方に変化をもたらしました。

 以前には、多くの研究者が、LCAはそれ以前の種であるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)もしくはホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)だった、と認めていました。そうしたLCA候補種は、ヨーロッパではギリシアのペトラローナ(Petralona)やフランスのアラゴ(Arago)、アフリカではエチオピアのボド(Bodo)やザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)としても知られるカブウェ(Kabwe)などの化石により表されていました。このLCA種は50万年前頃に分岐し始め、それからユーラシアではネアンデルタール人、アフリカでは現生人類をじょじょに生み出した、と想定されました。

 しかし、ホモ・ローデシエンシスとされるカブウェ頭蓋に関する最近の年代測定研究では、この標本がわずか30万年前頃と年代測定され(関連記事)、現生人類の古代のアフリカの祖先で予測される年代よりもずっと新しい、と示されました。さらに、ホモ・ローデシエンシスの顔面形態に関する最近の研究では、その頬骨上顎形態は派生的なので、現生人類の祖先を表している可能性は低い、と示唆されています。したがって、本論文の見解では、60万年前頃の現生人類とネアンデルタール人のLCAの正確な性質やLCAの分布場所を確証する充分な証拠は、現時点ではないことになります。


●ユーラシアにおけるネアンデルタール人の進化と同じ時間規模のアフリカにおけるホモ・サピエンスの進化

 しかし、ホモ・サピエンスの進化の系譜が60万年前頃までさかのぼるのならば、ホモ・サピエンスの初期進化を記録しているはずのSH化石に相当するものはどこにあるのでしょうか?最近まで、多くの科学者の主張は、20万~15万年前頃と年代測定された、オモ・キビシュ1号やエチオピアのアファール地溝のミドルアワシュ(Middle Awash)のヘルト(Herto)で発見された成人遺骸(BOU-VP-16/1)が、現生人類の最初の既知の構成員を表している、というものでした。この両化石は球状の脳頭蓋と縮小した眉の大きさを有しており、オモ・キビシュ1号もホモ・サピエンス的な寛骨を有しており、以前に推定されたよりも年代は古い、と示されました(関連記事)。

 これらエチオピアの標本がdHs(派生的ホモ・サピエンス)を表しているならば、これらエチオピアの標本と、ネアンデルタール人とのより古い共通祖先との間に、大きな時間的間隙があるようです。南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)やケニアのエリー・スプリングス(Eliye Springs)など他のアフリカの化石は、現生人類系統でより初期に存在したより祖先的なホモ・サピエンス人口集団を表しているかもしれない、と主張されてきましたが、その証拠は不完全で、充分には年代測定されていません(関連記事)。

 2017年、モロッコのジェベル・イルードの新旧の化石と考古学的発見を記載した2つの研究が刊行され、30万年前頃と年代測定されましたが(関連記事)、これは以前に提案された年代よりずっと古くなります。これらの発見が示す特徴は、ジェベル・イルードの化石がホモ・サピエンス系統の初期構成員を表しているかもしれない、と示唆しており、アフリカ北部を、ホモ・サピエンスの進化における提案された僻地からより目立つ位置に変えました。ジェベル・イルード化石は、より長くてより低い脳頭蓋、強い眉弓、大きな顔面と歯など、30万年前頃の人類遺骸で予測され得るいくつかの祖先的特徴を示します。しかし、繊細な頬骨と引っ込んだ顔面は、頭蓋骨と歯の詳細および顎骨の形態と同様に、より派生的に見えます。ジェベル・イルード遺跡における火の制御された使用と石器の精巧化の関連する証拠は、これら現生人類系統の推定される初期構成員における複雑な行動を示唆します。

 他の発見から、ジェベル・イルードの人々は30万年前頃にアフリカで孤立していたわけではなく、現生人類の進化史におけるジェベル・イルードの人々の位置づけは簡単ではない、と示唆されています。今では、少なくとも3種のヒトがその時点でアフリカ全域に存在していた可能性が高いようです。上述のように、ホモ・サピエンスの系統がおそらくはモロッコに存在していた一方で、ザンビアのカブウェにはホモ・ローデシエンシスが存続していたようです(関連記事)。さらに今では、南アフリカ共和国のヨハネスブルク近郊のライジングスター(Rising Star)洞窟群の奥深く出発見された何百もの化石が知られており、これらはホモ・ナレディ(Homo naledi)と呼ばれ、その時点でアフリカ南部に存在していたずっと祖先形質の種です(関連記事)。

 ジェベル・イルードの発見を、ケニアのエリー・スプリングスやグオモデ(Guomde)、南アフリカ共和国のフロリスバッド、エチオピアのオモ・キビシュ、タンザニアのンガロバ(Ngaloba)のような遺跡の、一部の研究者により初期ホモ・サピエンスへと分類された他の化石と比較すると、事態はさらに複雑になります。これらの化石は大きな差異と、祖先的および派生的特徴のさまざまな組み合わせを示し、それは、dHs(派生的ホモ・サピエンス)の特徴の整然と連続した進化を示唆していないか、ホモ・サピエンス系統への分類に疑問を呈している可能性さえあります。

 代わりに、ストリンガー氏と他の何人かの研究者は今では、ホモ・サピエンスの進化についてより複雑な汎アフリカモデルを好んでいます。このモデルでは、現代人の祖先の形態は多様で、アフリカ大陸の大半に散在していました(関連記事)。絶えず変化する気候に影響を受けて、地域ごとの進化は盛衰し、時には、網目状になったり、別々の道を進んだり、完全に消滅したりしました。「現代型のヒト」と呼ばれるものは、アフリカにおける何十万年にもわたるこれらさまざまな祖先的人口集団の混合の最終的な結果です。


●アフリカからのホモ・サピエンスの初期拡散

 dHs(派生的ホモ・サピエンス)は6万年前頃にアフリカから顕著な拡散を開始し(関連記事1および関連記事2)、ネアンデルタール人集団はその約2万年後に消滅しました(関連記事)。これら2つの事象はつながっており、両種【ネアンデルタール人と現生人類】が遭遇した時に、何が起きたのでしょうか?考古学と化石と遺伝学(古代DNA)の記録における新たな発見は、6万~4万年前頃の両人口集団【ネアンデルタール人と現生人類】間のつながりを明らかにし始めつつあります。

 ネアンデルタール人とdHsの進化は、各地域でほぼ別々に進行したようですが、古代DNAの証拠は最近、両者が、おそらくは初期ホモ・サピエンスがユーラシアに短期間侵出した25万年前頃に遺伝子を交換したかもしれない、と明らかにしました(関連記事1および関連記事2)。この頃となる調整石核技術の拡大はそうした接触を反映しているかもしれず、アフリカからの移動も示す化石遺骸がギリシアのアピディマ洞窟で発見されており、そのホモ・サピエンス的な脳頭蓋の後部は少なくとも21万年前と年代測定されました(関連記事)。

 アピディマ洞窟の2点の化石ヒト頭蓋が最初に研究された時には、堆積物内の近接から、少なくとも16万年前頃とされたアピディマ2号で行なわれたウラン系列測定が両者に適用される、と仮定されました。より完全なアピディマ2号頭蓋は、フランスのラ・シャペルオーサン(La Chapelle-aux-Saints)遺跡の人類遺骸のようなネアンデルタール人の頭蓋との形態類似性を示しましたが、(以前には刊行されていなかった)アピディマ1号の部分的な頭蓋のさらなる研究は、アピディマ2号およびネアンデルタール人化石との予測よりも少ない類似性を示しており、少なくとも13万年前頃のホモ・サピエンス化石で観察される頭蓋との密接な特徴を有しています。

 新たな年代測定分析の結果は予想外で、アピディマ2号は少なくとも17万年前頃、アピディマ1号は少なくとも21万年前頃に位置づけられ、形態計測比較では、保存部分について、アピディマ1号はdHsに典型的な特徴を表している、と示されました。アピディマ1号の頭蓋は不完全で、その形態は部分的に鏡像再構築に基づいていますが、再構築と用いられた大規模な比較データセットで実行された複数の検証は分析の分解能を向上させ、アピディマ1号がホモ・サピエンスのみに典型的な頭蓋の高くて丸い後部を提示する、と比較的確実に示唆します。

 アピディマ1号および2号の頭蓋はウラン系列法で直接的に年代測定され、ウラン系列法は一般的に、骨に用いられたさいには下限年代を提供します。対照的に、頭蓋の間の硬化した鋳型の石化は、その後の化石化過程と一致して、15万年前頃と年代測定できます。これらの結果は、初期ホモ・サピエンス集団がギリシアに21万年前頃までに存在し、おそらくはレヴァントの類似の集団と関連しており、その後で17万年前頃までにネアンデルタール人集団に置換された、という新たなシナリオを示唆します。

 アピディマ化石の分析が正しければ、ホモ・サピエンスはヨーロッパに以前に考えられていたよりも15万年以上前に進入したわけで、まったく新たな範囲の問題と可能性を提起し、その中には、どこから来たのか、何が起きたのか、ということも含まれます。アフリカからの最も可能性が高い経路は、レヴァントとトルコを経由したでしょう。アフリカ外におけるそうした初期ホモ・サピエンス集団の存在は、上述のように、ゲノムデータに基づくLCAのより古い時間規模、およびミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の分析に由来するより新しい時間規模と比較して(関連記事1および関連記事2)、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの人口集団間の初期のDNA交換の痕跡から示唆されています。残念ながら、どこか他地域との考古学的つながりを確証するのに役立つ、アピディマ頭蓋のどちらかと直接的に関連する石器はありませんが、アピディマ化石の証拠から、これら初期ホモ・サピエンスの製作物はその後の更新世のヨーロッパの記録に存在しているに違いない、と示唆されます。

 10万年以上前とされるスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)やミスリヤ(Misliya)のようなイスラエルの遺跡の人類遺骸で示唆されているように、アフリカからのホモ・サピエンスの他の初期拡散の痕跡は確かにあります(図1)。本論文でdHsとみなされているスフールとカフゼーの人類遺骸の年代は13万~10万年前頃と長年認識されており、2017年には、ミスリヤ洞窟の完全な一連の左側の歯を伴う部分的な上顎に関する研究が刊行され、この遺骸は派生的なホモ・サピエンスに分類され、その下限推定年代は174000年前頃です(関連記事)。それ以降、部分的な下顎と脳頭蓋を含む一部のよりネアンデルタール人的な化石が、イスラエル中央部のネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)開地遺跡で回収され(関連記事)、この地域ではかなりの中期更新世後期のヒトの差異があり、ホモ・サピエンス系統とホモ・ネアンデルターレンシス系統の構成員の共存の可能性も含まれる、と示唆されています。

 アジア西部とヨーロッパを超えた、中国南部(関連記事)からスマトラ島(関連記事)とオーストラリア北部(関連記事)までの6万年以上前となるdHsの拡散の証拠もありますが、その年代に研究者が全員納得しているわけではありません(関連記事)。それにも関わらず、アフリカ外の現代人のゲノム解析から、ホモ・サピエンスの主要な拡散は6万年前頃に始まり、その2万年後となるネアンデルタール人の消滅は、ホモ・サピエンスの主要な拡散事象とよく関連しているかもしれない、と示唆されます。しかし、ネアンデルタール人の特徴を有する骨格が化石記録から消滅した、という意味で、この終焉は身体的なものにすぎませんでした。これは、過去10年ほどの古代DNAの回収により、ネアンデルタール人がその消滅前に初期dHsと交雑した、と示されたからで、アフリカ外に暮らすほとんどの人々はそのゲノムにネアンデルタール人由来のDNAを約2%有している、ということを意味します。以下は本論文の図1です。
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 初期dHsの身体遺骸に加えて、考古学者も石器など物質文化の形でこれらの人々が残した痕跡を用いて、アフリカからの拡大範囲を追跡します。上部旧石器としてまとめて分類されている物質文化は、アジア西部とヨーロッパにおけるdHsの初期拡大の地図作成に重要と証明されており、最近まで、41000年前頃に始まったオーリナシアンの拡大に先行するヨーロッパにおけるホモ・サピエンスの存在の痕跡はほとんどありませんでした(関連記事)。移行的(中部旧石器と上部旧石器の混合した特徴を示すため)として記載されているそれ以前の謎めいた石器インダストリーがあり、たとえばイタリアのウルツィアン(Ulzzian、ウルツォ文化)です。他には、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)として記載される石器インダストリーがあり、たとえばブルガリアのバチョキロ洞窟のバチョキリアン(Bachokirian、バチョキロ文化)で、その製作者の性質が確証されていませんでした。

 しかし、過去数年で、バチョキロ洞窟(関連記事)やチェコ共和国のズラティクン洞窟(関連記事)やイタリアのカヴァッロ洞窟やフランスのマンドリン洞窟(関連記事)のような遺跡からの重要な新しい証拠が明らかになり、これらの遺跡の証拠は、ヨーロッパにおける初期ホモ・サピエンスの到来年代をさらに遡らせるようです。さらに、考古学的関連はないもののヨーロッパを越えて、男性のホモ・サピエンス個体の部分的な大腿骨が、シベリア西部のロシア連邦オムスク州(Omsk Oblast)のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見され、その年代は45000年前頃と推定されて、そのゲノム配列は、ネアンデルタール人から祖先への遺伝子流動がその男性個体の7000~13000年前頃に起きたことを示唆します(関連記事)。

 ウルツィアンとして知られる移行期インダストリーは、イタリアのいくつかの遺跡で記録されており、年代は45000~40000年前頃で、その製作者が後期ネアンデルタール人なのか初期ホモ・サピエンスなのかについて、長い間議論されてきました。しかし、2011年に、カヴァッロ洞窟の2点の乳歯がその形態に基づいてホモ・サピエンスを表している、と同定されました(関連記事)。これは、以前には特定されていなかった地中海北部地域に広がるホモ・サピエンスの拡大を明らかにした重要な発見です。残念ながら、ウルツィアンのどの遺跡からも古代人のDNAはまだ回収されていません。

 ズラティクンの部分的な頭蓋骨と骨格は1950年に上部旧石器を伴う洞窟で発見され、その時はわずか15000年前頃と考えられていました。しかし、この女性頭蓋骨の新たな分析は、それが45000年以上前である可能性を示唆する古代DNAを回収しました(関連記事)。ズラティクン個体のゲノムから、彼女は現在のヨーロッパとアジアの人口集団の分岐に先行して分岐した系統に属し、先行する交雑事象からネアンデルタール人のDNAの比較的大きい断片を含んでいた、と示唆されます。

 46000~42500年前頃となるバチョキロ洞窟人類遺骸の発見は、ヨーロッパ東部における初期ホモ・サピエンスのわずかに異なる像を描きます。バチョキロ洞窟では、IUPバチョキリアンインダストリーと関連する3点の歯と骨の断片からDNAが得られ、バチョキロ洞窟の個体がネアンデルタール人の祖先をわずか数世代前に有していた、と示唆されます(関連記事)。ネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の新しさは、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)個体での推定値(関連記事)と類似していますが、男性のワセ1号が後のユーラシア人と関連していないのに対して、バチョキロ洞窟個体群のゲノムは、4万年前頃となる北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性個体を含むアジア東部人との関連(関連記事)を示します【本論文はこう指摘しますが、ワセ1号の主要な祖先はバチョキロ洞窟の46000~42500年前頃の個体群と遺伝的にきわめて近縁な集団との見解(関連記事)もあります】。これは、ズラティクンの女性個体とウスチイシムの男性個体の後に起きたか、完全に別の事象である、ホモ・サピエンスの初期ユーラシア拡散を示唆します。

 バチョキロ洞窟の証拠について注目に値するのは、ヨーロッパへのホモ・サピエンスの最初の拡散についての一般的な見解の誤りを論証していることです。その一般的な見解では通常、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3における短期の気候改善中にホモ・サピエンスのヨーロッパへの拡散が起きた、と想定されています。バチョキロ洞窟の考古学および動物相の記録から、dHSはすでにより寒冷な44000年前頃の環境に対処していた、と示されます。これは、ホモ・サピエンスの適応性を示している可能性がありますが、これらの人々の部分的なネアンデルタール人の生物学的および文化的遺産も反映しているかもしれません。


●ヨーロッパ西部からの新たな証拠

 最終氷期には、拡大した氷冠に蓄えられた水の量のため世界的な海水準はずっと低く、ジャージー島はフランスとつながっていました。ジャージー島のラ・コット・ド・サン・ブリレード(La Cotte de St Brelade)遺跡での1911~1920年の発掘では、中部旧石器時代の2万点以上の石器(ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と関連するインダストリー)と、マンモスやケブカサイなど氷期大型動物の骨が見つかりました。1910~1911年には、13点のヒトの歯も発見され、それらは大きく、歯根が頑丈だったので、ネアンデルタール人と同定されました。

 過去数年間に、研究者はこれらの歯を再調査し、驚くべき結果が得られました。第一に、詳細な比較から、当初推測されていた1個体ではなく、少なくとも2個体を表している、と分かりました。第二に、全ての歯にはいくつかのネアンデルタール人の特徴があり、その大きさはネアンデルタール人と一致しており、数点の歯にはこれら古代人で通常みられる特徴が欠けていた一方で、その形態の他の側面ははるかに典型的なホモ・サピエンスものに見えました。

 この遺跡の最近の年代測定研究から、これらの歯はおそらく48000年前頃未満だと分かっており、これらの歯がこれまでに知られている最も新しいネアンデルタール人遺骸の一部である可能性を意味しています。しかし、ホモ・サピエンスが4万年以上前からヨーロッパの一部でネアンデルタール人と重複しており、これらの人口集団が時々交雑していた、と知られていることを考えると、恐らくはこれらの個体における特徴の異常な組み合わせから、ジャージー島の人口集団がネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二重祖先系統を直近の過去に有していた、と示唆されます。これは、古代DNAが歯に保存されていたならば、検証できることです。

 最近の研究(関連記事)は、複数回のホモ・サピエンス拡散のさらなる証拠を提供し、フランスのローヌ渓谷のマンドリン洞窟E層の乳歯上顎大臼歯は形態学的にホモ・サピエンスと同定され、その年代は57000~51500年前頃です。この単一の歯は、近隣のネロン洞窟(Grotte de Néron)遺跡に名称が由来するネロニアン(Neronian、ネロン文化)と呼ばれる独特な石器インダストリーと関連しており、ひじょうに小さな槍先形尖頭器もしくは鏃の可能性があると解釈された、標準化された尖頭器により特徴づけられています。このネロニアンインダストリーは、ネアンデルタール人の占拠に特徴的なムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の道具を含む層と、ネアンデルタール人と同定された追加の8点の歯を含む層との間に位置しており、この年代のヨーロッパの他のインダストリーとは異なっていて、レヴァントとアフリカで最も近い類例が見つかります。

 マンドリン洞窟におけるこれらの発見は、この期間における【ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの】遺伝的および文化的接触と、北地中海沿岸でのアジア西部からローヌ渓谷へのあり得る拡散経路についての、さらなる問題を提起します。マンドリン洞窟の発見は、ネロニアンインダストリーが関連するローヌ川支流のアルデーシュ川沿いのアブリ・デュ・マラス(Abri du Maras)遺跡でずっと新しい年代と測定されていることを考えると、ネロニアン自体の性質と長さについての問題も提起します。

 この豊富な新しいデータは、さまざまな年代とさまざまな技術の使用における、4万年以上前となるヨーロッパでのネアンデルタール人の領域への初期ホモ・サピエンスの複数拡散の増加しつつある描写に追加されます。しかし、ヨーロッパへの侵入者【現生人類】の繰り返しの大きな波の想定ではなく、おそらくは不安定な気候と関連する変動する気候のため、これら初期ホモ・サピエンスのヨーロッパへの拡散のいくつかは、たとえばマンドリン洞窟のように短期間で一時的な居住だったようで、恐らく代わりに、経時的に衰退して流れていく、人々の小さな細流を想像せねばなりません。ホモ・サピエンスのこれら初期の範囲拡大のいくつか、たとえばウスチイシムやズラティクンやワセで発見された個体のゲノムに代表される人口集団は、明らかにユーラシアにおける後の子孫を有しておらず、ホモ・サピエンスの今では消滅した系統を表しています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが遭遇した時に起きたこと

 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが交雑したのかどうかについての長い議論は、古代DNAが利用可能になったことにより最終的に解決され、交雑を伴う最近のアフリカ起源や同化などのモデルが、今では観察されたデータに最も適しているように見えます(関連記事)。人口集団間の遺伝子交換が広範で、ホモ・サピエンスの派生的特徴が人口拡散を通じて次第に拡大したならば、同化は最終的により適切だと証明されますが、在来の人口集団が置換過程において拡散するホモ・サピエンスによりおもに吸収された、という証拠は、交雑を伴う最近のアフリカ起源を支持します。

 大衆文化や学術的著作(関連記事)において、ネアンデルタール人の人間性とホモ・サピエンスとの密接な類似を強調した、ネアンデルタール人についての最近の歓迎すべき新たな認識があります。しかし、dHs(派生的ホモ・サピエンス)系統とdHn(派生的ネアンデルタール人)系統との間にはおそらく50万年もの実際の進化的分離時間があり、これら他のヒトをホモ・サピエンス自体の単により大きな眉の異形として表すことには要注意です。骨盤と胸郭の解剖学的構造における違いは、異なる生理機能と体格を明確に示唆しており、身体と顔面と頭髪分布の観点でのネアンデルタール人の外観、および外耳と目と鼻と唇などの要素の正確な形状についての正確な知識はありません。

 成人のネアンデルタール人に遍在する眉弓は、よく議論されている構造ですが、最近の研究では、眉弓がそれ以前のヒトにおいて情報伝達機能を有していたかもしれず(関連記事)、ネアンデルタール人では存続した可能性があるものの、dHsでは失われた、と示唆されています。これが示唆するのは、dHsはその機能を他の合図、おそらくは眉毛か他の顔の表情、あるいは恐らく言語もしくは象徴的表示を含む技能で置き換え、象徴的表示には穿孔や刺青などの文化的装飾が含まれていたかもしれない、ということです。

 ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの系統がユーラシアで6万年前頃に遭遇し始めた時、外見や言葉と身振りの意思伝達や表現や一般的な行動やおそらくは臭いでも、類似性と違いの両方があったでしょうし、そうした類似性と違いは、両者が最初の接触で相互をどのように認識するのかに影響を及ぼしたでしょうから、配偶者認識の機序に影響を与えたでしょう。両者は互いを人として、したがって潜在的な味方か配偶者か次の食事としてさえ見たでしょうか?答えが何であれ、とくにヒトの行動の気まぐれを考えると、それは時と場によりさまざまに変わります。

 さらに、これらの人口集団は、いわゆる「大航海時代」における大陸を越えて遭遇したどの多様な集団よりもずっと長く相互に分岐していたので、最近のヒトの歴史であったことよりも、外見と行動では顕著な差異が予測されます。さらに、ネアンデルタール人は明らかに知的で確実に言葉を話していましたが、ネアンデルタール人系統とホモ・サピエンス系統で発達した言語の区別は、おそらく今存在するものをはるかに超えていたでしょう。さらに、認知と発声の解剖学的構造もネアンデルタール人とホモ・サピエンスでは異なっていた、と示唆する遺伝的データがあり、それは両種間の差異を浮き彫りにしたかもしれません。

 種水準でのホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスとの間の違いの規模がどうであれ、各人口集団の構成員が多くの場合交雑したに違いない、と増え続ける遺伝的データから分かっており、男性系統で一定水準の不妊性があったとしても(関連記事1および関連記事2)、両者の配偶行動から繁殖能力のある子供が生まれました。では、これらの性的出会いにつながった社会的環境は何でしたか?チンパンジーについて検討すると、他の群れから雌を捕獲する事例があり、繁殖可能年齢およびその前の年齢両方の雌は、時に最近の狩猟採集民や牧畜民の間で、その社会的集団から強奪されています。ゴリラとチンパンジーでは、ホモ・サピエンスと同様に、雄もしくは雌の個体から誘われる機会的でしばしば密かな交尾は、通常の配偶相手から離れた場所で行われることがあります。最近の狩猟採集民間の配偶のより構造的な移動は、局所的な人口統計学的条件により変わるので、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの集団間でも時には発達したかもしれません。

 しかし、現時点で興味深いのは、化石記録から解明され、本論文で提示されている、後期ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの集団間交雑の実際もしくはあり得る事例がいくつかあるものの、これまでのところその全ては(曖昧なラ・コット・ド・サン・ブリレードの事例は別として)、ネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスの化石から証明されている、ということです。これは、後期ネアンデルタール人の遺伝的記録が少ないためか、あるいは、ネアンデルタール人の社会集団内の交雑個体がより稀であるか、あるいは生存できなかったのでしょうか?

 重要な45000~40000年前頃の期間のゲノムのより多くの標本が、ホモ・サピエンスの遺伝子プールへのネアンデルタール人のDNAの移入という現在のパターンを維持し、その逆がない場合、これはネアンデルタール人集団消滅の機序を提供するかもしれません。繁殖能力のあるネアンデルタール人が、この期間に定期的に(どのような機序であれ)ホモ・サピエンス集団へと吸収されたならば、ネアンデルタール人の遺伝子プールからも事実上排除されることになり、壮年期個体のそうした一貫した流出は、小さな狩猟採集民集団では長く維持できることではなかったでしょう。おそらく、拡散するホモ・サピエンス集団は後期ネアンデルタール人のポケットを吸収するスポンジのような役割を果たし、恐らくはそれが、何にましても、生存可能な人口集団としてのネアンデルタール人の最終的な消滅につながりました。

 洞窟堆積物からの環境DNA回収の最近の進歩は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の集団が相互作用していた地上での人口集団の関係についての理解を大きく変える、と期待されます。6万~4万年前頃の期間には、ヒト化石を含んでいるヨーロッパの遺跡はほとんどありませんが、ミトコンドリアや核のゲノム物質の形態で、ヒトの存在の痕跡を含む遺跡はもっと多くあるかもしれません。これまでの研究で論証されているのは、堆積物のDNAは種および個体水準でヒトを識別でき、さまざまな人口集団、性別、親族関係、異なる人口集団間の混合の程度を解明できるかもしれない、ということです(関連記事1および関連記事2)。そうした躍進は、数年前でさえ予測できませんでしたし、今後もより多くの驚きがあるでしょう。現代人に消えない遺伝的痕跡を残し、研究を興味深いものとしている、本論文が取り上げてきた古代の遭遇について学ぶことはまだ多くあります。


参考文献:
Stringer C, and Crété L.(2022): Mapping Interactions of H. neanderthalensis and Homo sapiens from the Fossil and Genetic Records. PaleoAnthropology, 2022, 2, 401–412.
https://doi.org/10.48738/2022.iss2.130

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