岡本隆司『曾国藩 「英雄」と中国史』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2022年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は曾国藩を矛盾した人物と把握します。同時代において名声を集めた一方で、悪評も高く、実績と実像に比して声威と評判のみ高い、というわけです。曾国藩は湖南省で1811年に生まれました。それ以前の18世紀は、ユーラシア西方が戦争と革命の時代だったのに対して、ユーラシア東方は「平和」だった、と本書は指摘します。その構図が19世紀には逆転するわけですが、曾国藩はその転換期に生まれたわけです。

 ダイチン・グルン(大清帝国)においては、この平和な時期に人口が急増し、それが社会不安を招来し、18世紀末以降、動乱の時代に突入します。この状況に、既存の武力である王朝の八旗と緑営は役立たず、地域の秩序維持を担ったのは、一種の自警団である団錬でした。これにより、それまで王朝の常備軍以外に武装していたのは反体制的な秘密結社だけだったのに、民間一般も武装するようになります。曾国藩(曾子城)はこうした社会状況下で、中小規模の地主の家に生まれます。一族からは科挙合格者は出ておらず、祖父の代に勃興したさほど裕福ではなく成り上がりの家柄でした。

 曾国藩は一族の期待を担って英才教育を受け、20代前半で童試と郷試に相次いで合格し、名門の学院に入って会試に臨みますが、2回不合格となり、3回目で合格します。曾国藩はそのまま宮中での殿試を受け、第三甲(第一甲は上位3名、第二甲は第4位から80名ほどで、第三甲はそれ以下)の100名のうち第41位で、再試験(朝考)で成績第3位(道光帝により第2位に引き上げられます)となり、翰林院で「庶吉士」という見習いとなります。この場合、3年後に見習いの卒業試験である「散館考試」を経て最終的な任官が決まります。曾国藩は、この時、名を「子城」から「国藩」に改めています。曾国藩は散館考試で二等の第19位(一等は17名、二等は26名、三等は7名)となり、1840年、翰林院検討という官職に任ぜられます。曾国藩は駆け出しの高級官僚の一員として職務に励みつつ学問を続け、当時主流の考証学よりも宋学の方に傾倒します。曾国藩は当時としては異例なほど生真面目な人物だったようで、それがカリスマ性にもつながっていたようです。

 曾国藩は当時の宰相であるムジャンガ(穆彰阿)に見込まれ、試験で度々優遇されたようで、それにより順調に出世していきました。その過程で、郷試の試験官となった曾国藩には「門生」が増えていき、そのうちの一人が李鴻章でした。曾国藩は道光帝没後に即位した咸豊帝に即位直後の先帝の処遇をめぐる問題での進言によりに入られ、中央ら政府の主要官僚としての立場を固めます。その直後、太平天国の乱(関連記事)が勃発しますが、当初、太平天国の乱勃発以前から不穏な社会情勢に危機感を抱いていた曾国藩も、都から眺める立場でしかありませんでした。すでに有効な軍事力ではなかった官軍は太平天国の乱を鎮圧できず、団錬を基盤にした在地勢力が反乱軍に対処します。太平天国は華中と華南の反体制的勢力を糾合し、単なる反乱勢力から大清帝国にとっての一大敵国へと発達します。

 この間、曾国藩は母を亡くし、服喪中に咸豊帝から団錬を編成指揮し、地元の「匪賊」を操作するよう命じられます。曾国藩は服喪を続けるべきか悩みますが、太平天国の乱が大清帝国にとって深刻な状況であることから、勅命を受けることにします。曾国藩は団錬など在地の組織と人脈を活用し、この難局に対処します。曾国藩の処置は苛烈で、反体制側とみなした秘密結社などの人々を次々に処刑していき、これにはさすがに批判もあったようですが、生真面目な曾国藩は手を緩めようとはしません。官軍の欠点をよく把握していた曾国藩は、身元の明らかな農民を高給で募集し、部隊を編成します。こうして、有名な湘軍が形成されていきます。曾国藩は太平天国に対してその地域性を強調し、在地の郷紳に協力を呼びかけます。そのさいに儒教を主軸に据えたのは、大清王朝と距離感があったためというよりは、知識層である郷紳にとって個別の王朝よりも儒教を重んじるのが普通の感覚だったからだ、と本書は指摘します。

 湘軍は順調に太平天国軍を撃破していったわけではなく、大清王朝政府から手厚い援助を受けていなかったので(そもそも、大清帝国は安上がりの「小さな政府」でした)手痛い敗北も苦境に陥ったこともあり、その中には明らかな曾国藩の失策もありました。本書は、曾国藩には将器がなかった、と評価しています。しかし、その湘軍が最後には太平天国を打倒します。本書は、戦闘を避けることも珍しくなかった官軍や民間の軍隊の中で、曾国藩の性格もあり、真面目に太平天国軍や「匪賊」と交戦していった湘軍は異形異質の存在で、むしろ同じ大清王朝側の軍よりも太平天国軍の方と似ていた面が多い、と評価しています。苦境に陥っていた湘軍は、太平天国側の内紛により勢力を挽回し、曾国藩も、戦闘の現場で軍資金調達などに苦慮するうち、新たな政治構想を形成していきます。それは、現地の指揮官にもっと権限を与えねばならない、大清帝国の末期から中華民国期にかけての政治に大きな影響を及ぼすに至る構想でした。

 大清王朝と太平天国の戦いは一進一退を続けますが、北京の大清王朝政府にとって、しょせんは南方での争乱との意識もあり、曾国藩への冷遇もそのためでした。しかし、太平天国軍が経済的中心地の蘇州を1860年に占拠すると、さすがに大清王朝政府も慌てて、全体を統括する両江総督に曾国藩を任命します。曾国藩は現状判断から、直ちに蘇州奪回に動き出したわけではありませんでしたが、戦局は湘軍へと有利に傾いていきます。しかし、当時湘軍の軍紀は結成当初よりかなり弛緩しており、規模も膨張していたため、曾国藩は幕僚だった李鴻章に命じて合肥に帰京させ、在地の団錬を中心に新たな軍隊を徴募させます。曾国藩は、李鴻章が募集した新軍3500名に湘軍3000名を加えて、上海へと向かわせます。こうして淮軍が誕生しました。天京(南京)に立て籠もった太平天国軍の劣勢はもはや明らかで、1864年6月1日に首謀者の洪秀全は病死し、その翌月9日に天京は陥落し、これが太平天国滅亡の日とされています。

 太平天国の乱は、世界史上最悪の犠牲者を出した争乱と言われています。曾国藩は、すでに結成当初より質が低下し、肥大化した湘軍を解散します。曾国藩には、李鴻章の淮軍が健在で、増強しつつあったので、今後の内乱の鎮圧と自己の保身のための武力には問題ない、との判断があったようです。曾国藩は戦後復興に取りかかり、科挙の試験場の修築や減税に取り組みます。湘軍は解散しましたが、各省の総督・巡撫(督撫)は、戦時の兵力と裁量をほぼそのまま引き継ぎ、所轄地域の掌握と治安維持に務めました。こうした体制は「督撫重権」と呼ばれ、それを創始して確立したのは曾国藩でしたが、最も活用したのは李鴻章でした。団錬も督撫の地位も既存の制度でしたが、その比重と組み合わせを戦時に応じて変えたことで、新たな体制が出現したわけです。咸豊帝没後にまだ幼い同治帝が即位し、曾国藩は重用されますが、それは、北京政府が自身の弱体化を自覚していたからでした。

 太平天国の乱の鎮圧後も、その残党も加わった捻軍の反乱は大清王朝にとって脅威となり、曾国藩に鎮圧が命じられます。すでに湘軍は解散しており、曾国藩は悩んだようですが、生真面目な性分なので鎮圧に赴きます。しかし、曾国藩は懸念通り反乱を鎮圧できず、引責辞任を申し出て、代わりに李鴻章が私兵の淮軍を率いて鎮圧し、その勢威が確立します。責任感から逼塞していた曾国藩を李鴻章が説得して両江総督に復帰させます。曾国藩は地方大官で初めて「洋務」事業を手掛けた、と言われていますが、本心では西洋と「洋務」に否定的だったようです。しかし、10年以上にわたる太平天国との戦いの中で、曾国藩は現実主義者にならざるを得ず、晩年にその学問が宋学から考証学に移ったのも、それと関連しているようです。また、これにはより現実家だった李鴻章の影響も大きかったようです。

 曾国藩は静かな隠退を考えていたようですが、反「洋務」派や排外派への対策から、1868年9月、直隷総督に任命され、北方へと向かいます。しかし、すでに気力体力の衰えた曾国藩にとって、相次いだ西洋列強との外交問題は多大な負担になったようで、健康状態が悪化します。本書は、儒教に依拠して郷紳を支持基盤としていながら、郷紳が否定的な「洋務」を必要とした時代に対処することは、曾国藩には困難だった、と評価しています。1870年8月に曾国藩の後任の両江総督が刺殺されたことで、曾国藩は再度両江総督に任命され、直隷総督には李鴻章が任命されます。曾国藩は李鴻章を補佐しつつ、両江総督を務め、1872年3月12日、没しました。

 曾国藩没後、李鴻章を筆頭とする門人や与党は、曾国藩を顕彰します。上述のように、曾国藩は太平天国の乱のさいの残虐な処置や軍の指揮での失態などで悪評もありましたが、それは多かれ少なかれ、曾国藩の門人と与党にも当てはまりました。彼らには、曾国藩を顕彰することで、自身を正当化する必要がありました。その目論見は成功し、たとえば梁啓超は曾国藩に傾倒しており、それは梁啓超が突出していたわけではなく、同時期に曾国藩を高く評価した人は少なくありませんでした。政治家では、蒋介石が曾国藩を顕彰しました。一方で、孫文のように、太平天国の継承を掲げた革命家には、曾国藩を敵視する人もいました。蒋介石を大陸から追いやって建国した中国共産党は、蒋介石への否定から、「半植民地半封建」の克服を掲げ、曾国藩も批判の対象となりました。これは、中国社会に根強く存在する排外的反体制的感情が、政治的な人物評価と結びつけられた事例です。これが中華人民共和国における曾国藩の公的評価となり、日本でも大きな影響力を有しました。1980年代以降、曾国藩に対するそうした全否定的評価は稀になりましたが、中華人民共和国でのそれ以前の「通説」が完全に払拭されたわけでもありません。

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