現生人類の拡散におけるペルシア湾の役割
取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、現生人類(Homo sapiens)の拡散におけるペルシア湾(本論文はアラブ側の主張にも配慮してか、アラブ・ペルシア湾と表記していますが、以下ではより一般的なペルシア湾で統一します)の役割に関する研究(Ferreira et al., 2021)が公表されました。アラビア半島は、アフリカから移住してきた現生人類の初期の構造を中心とした調査にとって戦略上重要です。アラビア半島は古代人のDNA証拠の回収に適していない気候条件にも関わらず、近隣の古代人標本のゲノムデータと情報をもたらす統計的手法の両方が利用可能なことにより、地域的な人口集団の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のモデル化が可能です。本論文はこの手法を、アラブ人291個体とイラン人78個体で選別された741000ヶ所の多様体のデータセットに適用し、洞察に満ちた証拠を得ました。
東西の軸はアラビア半島における人口構造の強い推進力で、さらに重要なことに、アラビア半島西部をレヴァントと、アラビア半島東部をイランおよびコーカサスとつなぐ連続性が経時的に明確に存在していました。アラビア半島東部人は、全ての検証された現代の人口集団のうち最高水準の基底部ユーラシア人系統も示しており、これは、そのゲノムにおける最近のサハラ砂漠以南のアフリカ人の流入に起因する偏りの可能性について補正した後でさえ維持されていた兆候です。当然のことながら、東アラブ人は、これまで既知の古代人標本では基底部ユーラシア人の最良の代理だったイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の人々と、最高の類似性を有する集団でもありました。基底部ユーラシア人系統は、ヨーロッパ人とアジア東部人の共通祖先から5万年以上前に分岐し、それがネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との後の混合に先行していた、古代の非アフリカ人の痕跡です。本論文の結果は、ペルシア湾の【寒冷化による海面低下のため】露出した盆地が、基底部ユーラシア人起源地だった可能性を示唆しているようで、これはアラビア半島古代人標本の研究によりさらに調査されるべきシナリオです。
●研究史
現代のゲノムデータの合着(合祖)分析は、ヒトの過去の主要な事象の推測の基礎となってきました。2010年までに、古代DNA分類に関する技術的改善の盛行は、全体像への重要な洞察に寄与しました。じっさい、絶滅した多様性の調査の新たな可能性は、いくつかの人口集団間の相互作用を含むひじょうに豊富な全体像を明らかにしつつあります。出アフリカ移住(OOA)、つまり非アフリカ系人口集団間の分岐と、ユーラシアおよびアメリカ大陸へのその最初の移動について、新たに洞察が得られてきました(関連記事)。
古代DNAの一覧はすでに、45000年前頃までさかのぼる標本から何百もの全ゲノムショットガンデータと一塩基多型(SNP)配列的な何千もの標的捕獲データを含んでいます。残念ながら、ヨーロッパ人とシベリア人とアメリカ大陸先住民と近東人の標本への強い偏りが依然としてあるので、アジア人とアフリカ人のゲノム史には大きな間隙が残っています。この偏りの原因となる克服困難な要因は、古代DNAの保存における環境の影響で、アラビア半島やサハラなど乾燥した砂漠、アフリカの大半とアジアとアメリカ大陸の湿潤な熱帯林は、最悪な条件の一つです。それにも関わらず、これらの地域についてさえ、新たに開発された統計的手法により、現在の人口集団のゲノムへの近隣の古代の創始者の寄与を評価できます。
アラビア半島は、7万~6万年前頃の成功した出アフリカ移住の経路に重要な役割を果たしたか、少なくともその経路にあり、重要な遺伝学的および考古学的発見がこの地域で明らかにされてきました(関連記事)。更新世アラビア半島は、現生人類の居住に影響を及ぼした、いくつかの気候変化事象に曝されました。湿潤期には、人口集団は沿岸から内陸地域へと河川流域沿いに拡大しましたが、乾燥期には退避地へと縮小しました。気候と考古学の証拠は、3ヶ所のアラビア半島の主要な退避地の存在を示唆します。それは、紅海沿岸平原、ドファール山脈と隣接するイエメンとオマーンの沿海地帯、ペルシア湾の露出した盆地です。
現在のアラビア半島の人口集団に焦点を当てたゲノム研究は、東西の人口集団間の顕著な異質性を明らかにしました。この異質性は、恐らくサハラ砂漠以南のアフリカ東部およびレヴァントとのいくらかの連続体を形成するアラビア半島西部(サウジアラビアとイエメン)に起因する可能性が最も高い緩やかな勾配にあるのに対して、アラビア半島東部(オマーンとアラブ首長国連邦)はイランとアジア南部の人口集団から流入を受けました。最近、この軸が、マラリア耐性(西部においてより高頻度です)とラクターゼ(乳糖分解酵素)耐性(アラビア半島西部における局所的適応で、アラビア半島東部ではヨーロッパ人とアジア南部人に由来するアレルの適応的混合です)をもたらす多様体についての特有の正の選択の兆候とも一致する、と論証されました。しかし、基底部ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Nの分析から、成功した出アフリカ移住はその後に【寒冷化による海面低下のため】露出したペルシア湾の盆地においてより大きな影響を与えた、と示唆されました。
アラビア半島では古代人の遺骸が極端に少ないにも関わらず、おもに道具や人工遺物を含む遺跡があり、近隣地域および重要な期間からの古代DNA情報は、アラビア半島の過去の居住者の遺伝的歴史の再構築に重要な手がかりを提供できます。主要な問題は、成功した出アフリカ移住者の祖先集団に関するもので、その所有者は以前には、基底部ユーラシア人系統の保有者として示されました。基底部ユーラシア人の担い手は、ヨーロッパ人とアジア東部人の共通祖先から5万年以上前に分岐したので(関連記事)、シベリア西部のロシア連邦オムスク州(Omsk Oblast)のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の男性個体(関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)個体(関連記事)など、全ての既知の深い古代の狩猟採集民(HG)のユーラシア標本との関連では、必然的に外群です。
基底部ユーラシア人集団の地理的位置は依然として議論の問題になっており、コーカサス山脈の13000~9000年前頃となるサツルブリア(Satsurblia)およびコティアス(Kotias)遺跡の古代人標本で見られる基底部ユーラシア人系統はより高い割合です。それほどではありませんが、基底部ユーラシア人系統は、ユーラシア西部とアジア南西部の現代の人口集団に依然として存在します。最初のヤギ飼育者だったイランのザグロス山脈中央部の孤立した基底部ユーラシア人系統の子孫が、ユーラシア草原地帯へとその後で拡大した、と以前には推測されてきました。モロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の古代人標本(関連記事)も、部分的に基底部ユーラシア人の子孫かもしれず、それは、この標本が、最良の代理がナトゥーフィアン(Natufian)人である完新世近東人と遺伝的類似性を共有しており、サハラ砂漠以南のアフリカ人(東西のアフリカ人の混合)から1/3ほどの流入を受けているからです。したがってこれまで、アジア南西部は依然として、仮定的な基底部ユーラシア人集団の最も可能性が高い起源地ですが、より正確な位置は依然として特定困難です。
無視できない別の要素は、基底部ユーラシア人系統におけるネアンデルタール人からの流入が、あったとしてもわずかだったことです(関連記事)。これは、ネアンデルタール人と現生人類との混合事象が、現生人類系統における基底部ユーラシア人系統との分岐後ではあるものの、ヨーロッパ人とアジア東部人の分離前だったことを裏づけます。基底部ユーラシア人の子孫とユーラシア西部人およびアジア南西部人とのその後の混合は、その観察されたアジア東部現代人(基底部ユーラシア人からの流入がありません)よりも低いネアンデルタール人からの流入を説明できるかもしれません。繰り返しになりますが、ネアンデルタール人と現生人類の交雑事象についてのこの新たな情報は、基底部ユーラシア人の祖先の地理的起源の精緻化に役立てます。12万~5万年前頃となる、スフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)などイスラエルの遺跡における現生人類の存在と、同じくイスラエルのタブン(Tabun)およびケバラ(Kebara)洞窟におけるネアンデルタール人の存在は、現生人類とネアンデルタール人が地理的および時間的にレヴァントにおいて重複していた、という証拠を提供します(関連記事)。アジア南西部の南方ではそうした証拠は見つかっていませんが、証拠の欠如は欠如の証拠ではありません。
本論文は、現在のアラビア半島の人口集団のゲノム特性を有する主要な近隣の人々の古代のゲノムを統合して分析し、その起源を説明する代替的なシナリオを検証しました。本論文のデータセットは、人口構造と選択事象の観点で以前に詳細に分析された、アラブ人291個体とイラン人78個体で選別された741000の多様体で構成されます。この研究は、アラビア半島全体の良好な地理的解像度のため、他の研究とは異なります。
●現在のアラブ人とイラン人の多様性への古代の祖先系統の投影
アラブおよびその近隣の人口集団が、旧石器時代から青銅器時代までの移行以来、この地域に居住していた集団とどのように関連していたのか、理解するため、主成分分析(PCA)が実行され、古代人標本が現代人のアレル(対立遺伝子)頻度差異で推定された主成分(PC)に投影されました(図1)。サウジアラビアとイエメンの現代人標本は密接にクラスタ化し(まとまり)、ナトゥーフィアンの3標本と重なり、レヴァントの先土器新石器時代B・C(PPNB・PPNC)およびレヴァントの青銅器時代標本と密接でした。ほとんどのアラブ首長国連邦(UAE)の現代人と、オマーンおよびイランの現代人は、イラン後期新石器時代および新石器時代の標本や、コーカサス旧石器時代および前期青銅器時代および銅器時代の標本と混在しました。現代のアラブ人とイラン人の標本数点はより分散しており、アフリカ北部のイベロモーラシアンおよび前期新石器時代標本と混在し、これはそのゲノムにおけるいくらかのサハラ砂漠以南のアフリカからの流入と一致します。この分散は、各人口集団内における何らかの構造の存在も示します。アナトリア半島とバルカン半島とユーラシア草原地帯の古代人標本は、現代のアラブ人とイラン人の標本から遠くに投影されました。以下は本論文の図1です。
PCAで説明されたばかりの人口構造パターンは、ロジスティック回帰の交差検証(CV)で推定された最適なK(系統構成要素数)=9で、ADMIXTURE分析(図2A・B)によりほぼ裏づけられました。濃い青色の構成要素は現代のアラビア半島(最高値はサウジアラビアとイエメン)と近東の人口集団、および古代のレヴァントのナトゥーフィアンおよび青銅器時代標本で頻出しました。対照的に、アラビア半島東部とイランの現代人標本のかなりの割合は、ザグロス新石器時代および全期間のアナトリア半島/コーカサス標本と、明るい紫色の構成要素を高頻度で共有していました。この構成要素は、レヴァントとコーカサスの人口集団において最頻値で見られました。ヨーロッパ北部現代人標本においてひじょうに高頻度の橙色の構成要素は、ヨーロッパとバルカン半島の狩猟採集民および草原地帯人口集団でも優勢でした。
現代ヨーロッパ人、とくに南方において2番目に一般的で、近東とアナトリア半島とイランの現代人にも存在する黄緑色の構成要素は、ザグロス山脈の新石器時代の古代人標本を除いて、全ての古代人標本(とくに、アナトリア半島とヨーロッパ南部の新石器時代)で観察されました。ザグロス山脈新石器時代標本では、ユーラシア草原地帯の古代の人口集団と同様に、濃い緑色の構成要素がかなりの量で検出されました。この構成要素は、現代のアジア南部人口集団において典型的で、イランとUAEとオマーンの現代人標本でも観察されました。桃色と赤色のアフリカ人祖先系統の構成要素の影響はアフリカ南東部の古代人標本でとくに高く、アフリカ北部の古代人(とくにイベロモーラシアンの標本)において重要な頻度で見つかりました。同じ構成要素は、UAEとオマーンの一部の現代人標本でも、イエメンの数個体とともに見られました。以下は本論文の図2です。
アラビア半島標本のゲノムにおけるサハラ砂漠以南のアフリカからの流入の影響(40%超のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入のある個体は、ごく最近の移民による偏りを避けるため、以前には分析から除外されました)をより深く確認するため、ハプロタイプに基づく手法(fineSTRUCTURE)で人口構造が調査されました(図3A・B)。いくつかのクラスタ(まとまり)が、アラビア半島の東西の軸間の区別を裏づけました。クラスタFはアラビア半島西部において典型的で、サウジアラビアとイエメンの人口の2/3、UAEとオマーンの人口の1/3未満を表しています。クラスタDはアラビア半島東部において典型的で、イラン人とも共有されており、とくにアラビア半島西部では実質的に存在しません。このクラスタは、ドゥルーズ派の人々(レヴァントの孤立した集団)でのみ観察されるクラスタBと関連しています。各クラスタのこれら祖先系統の背景は、ADMIXTURE図示がクラスタにより再構成されると、容易に視覚化できます(図3A)。以下は本論文の図3です。
これらのクラスタにより分布している現代のアラビア半島とイランの標本における平均的なサハラ砂漠以南のアフリカからの流入値は、Aでは22%、Cでは5%、Dでは6%、Eでは0.3%、Fでは3%です。確かに、クラスタAは依然としてサハラ砂漠以南のアフリカからのかなりの流入を有していますが、他のクラスタは全て、約5%に制限されています。局所的な祖先系統演算法(RFMix)を用いて、クラスタAとDにおけるサハラ砂漠以南のアフリカからの区画の長さをさらに確認しよう、と試みられました。RFMixソフトウェアは、標識間の連鎖不平衡(LD)モデルを用いて、ハプロタイプの推定される祖先の区画の混合間のゲノムの各断片の祖先系統を推測します。補足資料のS4とS5では、クラスタAとDに分類された各アラブ人とイラン人の個体について、サハラ砂漠以南のアフリカからの区画の平均規模がcM(センチモルガン)で表示されます。組換えが経時的に起きると、区画の規模が減少するので、混合の時間は区画の規模と逆相関します。その結果は、両クラスタ(AとD)のより短い区画で明確な傾向を示唆しており、サハラ砂漠以南のアフリカ人との混合のより古い年代と一致します。
●アラビア半島の祖先系統構成要素のモデル化
まず、古代の供給源人口集団から国ごとのアラビア半島の祖先系統構成要素がモデル化されました(qpAdm演算法)。本論文で検証されたアラビア半島とイランの人口集団であり得る最も複雑なシナリオは4供給源で構成され(図4A)、それは、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イベロモーラシアン、ナトゥーフィアン、ザグロス農耕民です。アラビア半島西部の人口の2/3が、レヴァントで典型的なナトゥーフィアンと共有された祖先系統を持っている一方で、アラビア半島東部とイランはCHGおよびザグロス農耕民と共有された背景が優勢でした。イベロモーラシアンとの類似性はアラビア半島において西部よりも東部で高いものの、イランではすでに残っていました。全ての他のあり得る4供給源シナリオは、アラビア半島西部における優勢なレヴァント兆候で構成されますが(コーカサスもしくはザグロスをレヴァントPPNBかレヴァント前期青銅器時代に置換)、アラビア半島東部は常に、コーカサス(時としてコーカサス前期青銅器時代がレヴァント兆候を全体的に置換します)およびザグロス農耕民との類似性を有していました。以下は本論文の図4です。
祖先系統の混合割合の独立した推定値を得るため、さまざまな考古学的期間(旧石器時代と新石器時代と青銅器時代)に属する供給源により区分される現代の5人口集団で、別の演算法、つまり非負制約付最小二乗法(NNLS)を適応させたCHROMOPAINTER分析(CP/NNLS)が用いられました。これらの結果は、レヴァント(ナトゥーフィアン、レヴァントPPNB、レヴァント前期青銅器時代)との連続性を有するアラビア半島西部集団内の類似性を反映していた一方で、アラビア半島東部とイラン集団は、より多くのコーカサス/アジア南部の影響(CHG、ザグロス新石器時代、ユーラシア草原地帯青銅器時代)を示しました。qpAdmで識別された4供給源は各期間のCP/NNLSの結果でも浮き彫りにされているようなので、供給源としてCHGとイベロモーラシアンとナトゥーフィアンとザグロス農耕民の検証により、全体的なCP/NNLS分析が実行されました(図4B)。図4Bで示されるように、これら供給源の各割合はqpAdmとCP/NNLSの推定間ではほぼ同等で、わずかな例外は、ザグロスからの流入がより低く、CHG兆候がより高いイエメンです。
サハラ砂漠以南のアフリカからの顕著な流入のあるクラスタAのアラビア半島東部における高頻度を考えて、クラスタごとの4供給源(CHGとイベロモーラシアンとナトゥーフィアンとザグロス農耕民)でもCP/NNLSが計算されました(図4C)。3クラスタだけにイベロモーラシアンからの流入があり、この流入はクラスタAでは圧倒的で、おそらくは最近の流入による偏りです。アラビア半島東部とイランのクラスタDではこの流入はひじょうに限定的で、レヴァントのクラスタCではさらに限定的でした。興味深いことに、アラビア半島西部のクラスタFは、レヴァントのクラスタC、ドゥルーズ派のクラスタB、アナトリア半島/コーカサスのクラスタEよりも、レヴァントで出現した続旧石器時代文化のナトゥーフィアン人から有意に多くの影響を受けていました。ザグロスの影響は、アラビア半島東部/イランのクラスタDと、アラビア半島西部のクラスタFおよびAに限定されていました。
●基底部ユーラシア人系統
f4統計(検証集団、漢人;ウスチイシム個体、ムブティ人)の適用で以前の研究(関連記事)に従って、基準としての漢人とさまざまな検証人口集団との比較でウスチイシム個体(非基底部ユーラシア人祖先系統の古代の代理)のアレル共有の過剰の測定により、基底部ユーラシア人祖先系統が検証されました。図4Dはアジア南西部の検証された現代の人口集団のほとんどで有意な負の結果を示し、これらの人口集団における基底部ユーラシア人系統の存在と一致します。有意な結果はアラビア半島東部においてより極端で、アラビア半島西部、近東の人口集団とイラン人、コーカサス人、アナトリア半島人、最後にヨーロッパ人の順です。
この分析に含められたイベロモーラシアンの古代人標本は、基底部ユーラシア人系統の最高の流入があり、現代のアラビア半島東部人口集団での観察よりもさらに高いものでした。当然ながら、平均20%のサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有するクラスタAは、イベロモーラシアン標本の近くに位置しており、クラスタD(アラビア半島東部とイラン)とF(アラビア半島西部)は、他のレヴァントおよびイランの標本と類似の位置を占めました。他の古代人標本は、その地の現代の人口集団と類似のf4統計値を示しました。ルクセンブルクのロシュブール(Louschbour)遺跡標本は、予測されたように、基底部ユーラシア人系統からの流入を示しませんでした。この兆候がモデル化されていないアフリカ人祖先系統ではなく基底部ユーラシア人祖先系統なのかどうか検証するため、ムブティ人の代理の変更によりf4統計が繰り返されました。それは、(1)ボツワナのツワナ人、(2)中央アフリカ共和国のビアカ人、(3)ナミビアのコイサン人、(4)ナイジェリアのヨルバ人、(5)南アフリカ共和国のコイサン人です。f4統計値は、これらの検定全てで一致しました。
古代人標本についての以前の報告と一致して、現代人標本における基底部ユーラシア人系統の割合は、ネアンデルタール人からの流入と負の相関がありました。上述の結果と一致して、基底部ユーラシア人系統を最高量で有する現代人標本はアラビア半島東部人口集団(45%)で、アラビア半島西部人口集団およびイラン人(38%)、レヴァント人(28%のドゥルーズ派の人々を除いて32%)、コーカサス人(20~25%)と続きますが、ヨーロッパ人は最低の値(20%未満)です。この分析では、クラスタA(49%)とD(45%)の基底部ユーラシア人系統の割合はひじょうに類似しており、アラビア半島におけるサハラ砂漠以南のアフリカからの恐らくは最近の流入によりもたらされた偏りはひじょうに低い、と示唆されます。
アラビア半島東部においてより多いクラスタにおける基底部ユーラシア人系統の割合は、アラビア半島西部で優勢なクラスタで観察された値(クラスタFで35%)よりも高くなりました。古代人標本は回帰直線に従い(2点の外れ値はより高い欠失遺伝子型を有しています)、イベロモーラシアン人は、さまざまな以前の結果から予測されるように、最高の基底部ユーラシア人系統の割合と最低のネアンデルタール人系統の割合を示します。基底部ユーラシア人系統からの流入についてのqpAdmに基づく推定は、アラビア半島現代人およびコーカサスとザグロスの古代人標本における同等の量を示唆し、ナトゥーフィアンでは流入はより少なくなっています。
アラビア半島における基底部ユーラシア人系統からの流入は、後のおよびすでに混合した供給源からの混合に起因するかもしれないので、f4検定(検証集団、漢人;ウスチイシム個体、X)が実行され、Xは混合していない古代人標本です。その結果、アラビア半島西部におけるナトゥーフィアンの優勢な痕跡が明らかになりましたが、それにも関わらず、アラビア半島東部では影響が小さく、じっさい、ヨーロッパ南部の人口集団ではナトゥーフィアンはアラビア半島東部よりも大きな影響を有しています。興味深いことに、イベロモーラシアンでの検定は、レヴァントおよびアラビア半島西部との類似性を浮き彫りにしており、その標本の主要な近東背景と一致しており(関連記事)、それに続くのがアラビア半島東部(恐らくは基底部ユーラシア人の類似性)で、その次がイベリア半島およびイタリア半島となり、アフリカ北部とヨーロッパ南部とのつながりの議論について興味深い結果です。基底部ユーラシア人の痕跡が評価に含まれる場合、イベロモーラシアン標本はアラビア半島東部とクラスタ化し、除外すると、アラビア半島西部とクラスタ化します。コーカサスとザグロスの標本は、それ自体分析対象期間を含む混合のいくつかの兆候を示し、さほど明確ではないパターンを示すので、創始者と受容者を分離するにはすでに複雑になりすぎています。
●まとめ
本論文では、近隣の主要な地理的地域からの情報をもたらす古代DNA標本の利用可能性により、現在の人口集団のゲノムプールへの創始者の寄与について代替的シナリオを直接的に検証できる、と示されました(図5)。本論文で実行されたさまざまな分析の結果に反映されているように、アラビア半島東部をイランおよびコーカサスとつなげる時間に沿った連続性は今や明らかです。農耕民伝統への2つの分離した狩猟採集民により影響を受けた地理的範囲(南方)が拡大され、その一方はレヴァント南部で、もう一方は以前に報告されたコーカサス南部とイラン高原です。本論文の結果から、アラビア半島東部で見られる基底部ユーラシア人系統のより強い兆候を考えると、東方の連続性は恐らくより古い、と明らかになります。以下は本論文の図5です。
基底部ユーラシア人という指定は、ヨーロッパとアジアの人口集団を産み出したその後の事象に焦点を当てていますが、この系統は、非アフリカ地域の最初の成功した定住を浮き彫りにする成功した出アフリカ移民集団としても、同様にうまく説明できます。この第二の指定は、最近のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入に起因するこの痕跡を識別するさいに、あり得る偏りに対して注意を喚起します。最近のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入を無視できるハプロタイプに基づくクラスタ化とクラスタ識別の実行により、クラスタD(アラビア半島東部およびイラン)における基底部ユーラシア人系統の痕跡が確証され、それに続くのがクラスタF(アラビア半島西部)です。
イベロモーラシアン標本は基底部ユーラシア人系統をひじょうに高水準で有しており、その理由は二つあります。第一に、イベロモーラシアン標本が2万年前頃にアフリカ北部に逆移住した主要なアジア南西部母集団に由来するためです。第二に、イベロモーラシアン標本が、アフリカ北部での定住後にサハラ砂漠以南のアフリカ人と混合したことです。したがって、イベロモーラシアン標本はおそらく、基底部ユーラシア人集団の最良の古代の代理です。
アラビア半島東部で見られる最高水準の基底部ユーラシア人系統は、ペルシア湾の露出した盆地における初期現生人類の居住に関する、以前の遺伝学的および考古学的証拠を補強します。これらの結果は、基底部ユーラシア人集団の地理的起源を近東からアラビア半島東部に移すことにより、恐らくはレヴァントにおいて起きたネアンデルタール人と現生人類の交雑事象ともよりよく一致します。以前の研究では、より高い基底部ユーラシア人系統を有する古代DNA標本はレヴァントにある、と観察され、基底部ユーラシア人は必然的に、分析されたナトゥーフィアン人の年代よりも前ではあるものの、ネアンデルタール人と【近東人も含めて非アフリカ系現代人の主要な祖先である】現生人類との混合の後に近東人と混合したか、基底部ユーラシア人の祖先は近東に居住していたものの、ネアンデルタール人との混合には加わらなかった、と示唆されました。
本論文の結果は前者、つまりアラビア半島東部の基底部ユーラシア人はナトゥーフィアン期の後に近東人と混合した、というシナリオと一致しているようですが、他の仮説を除外するわけではありません。したがって、ペルシア湾の露出した盆地は、基底部ユーラシア人の起源地だった可能性があり、これは現在のホルムズ海峡をザグロスおよびコーカサスの草原地帯とつなぐ容易な回廊(東方の連続体)を伴っていた可能性があります。ザグロス地域の最近の考古学的証拠では、この地域は中部旧石器および上部旧石器時代には通行可能で、恒久的な水および原材料と関連している渓谷により相互とつながっている山間平原を含んでいる、と示唆されています。
基底部ユーラシア人とネアンデルタール人との混合集団は遺伝的に近いので、どこかで以前に分岐した同じアフリカからの移民集団の子孫である可能性が最も高そうです。基底部ユーラシア人とその他の出アフリカ現生人類集団との分岐は出アフリカの後に(北方もしくは南方経路を通って)アジア南西部のどこかで、あるいはアフリカで起きたかもしれません。後者のシナリオでは、基底部ユーラシア人の分枝を生じさせた現生人類集団の部分集合はおそらく、ペルシア湾の露出した盆地の退避地をとる南方経路を通りましたが、ヨーロッパ人とアジア人の【主要な】直接的祖先は北方経路を通り、ネアンデルタール人と混合し、さらに移動してヨーロッパ人とアジア人に分岐しました。
現在の証拠では、この二つのシナリオの絡み合った謎を解明できず、アラビア半島東部/ザグロス地域の古代人標本の発見と分析の緊急性が浮き彫りになります。これらの標本が5万年前頃である必要はなく、2万~1万年前頃の標本は当然より高い基底部ユーラシア人祖先系統を有しているはずで、出アフリカの発生時や現代に存在する主要な人口集団の分岐時期の頃に起きた人口統計学と混合と拡散の事象にとって、優れた代理を表しているかもしれません。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文の刊行後にも、この地域を含むより広範な古代DNA研究が大きく進展しており(関連記事)、まだ標本抽出がされていない基底部ユーラシア人について、さらに解明していくためのデータが蓄積されつつある、と言えるでしょう。基底部ユーラシア人の起源地については、アフリカ北部を想定する見解があり、私はアラビア半島南部も想定していましたが(関連記事)、本論文は、寒冷期に海面低下により露出したペルシア湾の盆地を想定しており、確かにその可能性は高いように思います。基底部ユーラシア人は、ユーラシア西部現代人に大きな遺伝的影響を残している、と推測されているので、今後の研究の進展が注目されます。
参考文献:
Ferreira JC. et al.(2021): Projecting Ancient Ancestry in Modern-Day Arabians and Iranians: A Key Role of the Past Exposed Arabo-Persian Gulf on Human Migrations. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab194.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab194
東西の軸はアラビア半島における人口構造の強い推進力で、さらに重要なことに、アラビア半島西部をレヴァントと、アラビア半島東部をイランおよびコーカサスとつなぐ連続性が経時的に明確に存在していました。アラビア半島東部人は、全ての検証された現代の人口集団のうち最高水準の基底部ユーラシア人系統も示しており、これは、そのゲノムにおける最近のサハラ砂漠以南のアフリカ人の流入に起因する偏りの可能性について補正した後でさえ維持されていた兆候です。当然のことながら、東アラブ人は、これまで既知の古代人標本では基底部ユーラシア人の最良の代理だったイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の人々と、最高の類似性を有する集団でもありました。基底部ユーラシア人系統は、ヨーロッパ人とアジア東部人の共通祖先から5万年以上前に分岐し、それがネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との後の混合に先行していた、古代の非アフリカ人の痕跡です。本論文の結果は、ペルシア湾の【寒冷化による海面低下のため】露出した盆地が、基底部ユーラシア人起源地だった可能性を示唆しているようで、これはアラビア半島古代人標本の研究によりさらに調査されるべきシナリオです。
●研究史
現代のゲノムデータの合着(合祖)分析は、ヒトの過去の主要な事象の推測の基礎となってきました。2010年までに、古代DNA分類に関する技術的改善の盛行は、全体像への重要な洞察に寄与しました。じっさい、絶滅した多様性の調査の新たな可能性は、いくつかの人口集団間の相互作用を含むひじょうに豊富な全体像を明らかにしつつあります。出アフリカ移住(OOA)、つまり非アフリカ系人口集団間の分岐と、ユーラシアおよびアメリカ大陸へのその最初の移動について、新たに洞察が得られてきました(関連記事)。
古代DNAの一覧はすでに、45000年前頃までさかのぼる標本から何百もの全ゲノムショットガンデータと一塩基多型(SNP)配列的な何千もの標的捕獲データを含んでいます。残念ながら、ヨーロッパ人とシベリア人とアメリカ大陸先住民と近東人の標本への強い偏りが依然としてあるので、アジア人とアフリカ人のゲノム史には大きな間隙が残っています。この偏りの原因となる克服困難な要因は、古代DNAの保存における環境の影響で、アラビア半島やサハラなど乾燥した砂漠、アフリカの大半とアジアとアメリカ大陸の湿潤な熱帯林は、最悪な条件の一つです。それにも関わらず、これらの地域についてさえ、新たに開発された統計的手法により、現在の人口集団のゲノムへの近隣の古代の創始者の寄与を評価できます。
アラビア半島は、7万~6万年前頃の成功した出アフリカ移住の経路に重要な役割を果たしたか、少なくともその経路にあり、重要な遺伝学的および考古学的発見がこの地域で明らかにされてきました(関連記事)。更新世アラビア半島は、現生人類の居住に影響を及ぼした、いくつかの気候変化事象に曝されました。湿潤期には、人口集団は沿岸から内陸地域へと河川流域沿いに拡大しましたが、乾燥期には退避地へと縮小しました。気候と考古学の証拠は、3ヶ所のアラビア半島の主要な退避地の存在を示唆します。それは、紅海沿岸平原、ドファール山脈と隣接するイエメンとオマーンの沿海地帯、ペルシア湾の露出した盆地です。
現在のアラビア半島の人口集団に焦点を当てたゲノム研究は、東西の人口集団間の顕著な異質性を明らかにしました。この異質性は、恐らくサハラ砂漠以南のアフリカ東部およびレヴァントとのいくらかの連続体を形成するアラビア半島西部(サウジアラビアとイエメン)に起因する可能性が最も高い緩やかな勾配にあるのに対して、アラビア半島東部(オマーンとアラブ首長国連邦)はイランとアジア南部の人口集団から流入を受けました。最近、この軸が、マラリア耐性(西部においてより高頻度です)とラクターゼ(乳糖分解酵素)耐性(アラビア半島西部における局所的適応で、アラビア半島東部ではヨーロッパ人とアジア南部人に由来するアレルの適応的混合です)をもたらす多様体についての特有の正の選択の兆候とも一致する、と論証されました。しかし、基底部ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Nの分析から、成功した出アフリカ移住はその後に【寒冷化による海面低下のため】露出したペルシア湾の盆地においてより大きな影響を与えた、と示唆されました。
アラビア半島では古代人の遺骸が極端に少ないにも関わらず、おもに道具や人工遺物を含む遺跡があり、近隣地域および重要な期間からの古代DNA情報は、アラビア半島の過去の居住者の遺伝的歴史の再構築に重要な手がかりを提供できます。主要な問題は、成功した出アフリカ移住者の祖先集団に関するもので、その所有者は以前には、基底部ユーラシア人系統の保有者として示されました。基底部ユーラシア人の担い手は、ヨーロッパ人とアジア東部人の共通祖先から5万年以上前に分岐したので(関連記事)、シベリア西部のロシア連邦オムスク州(Omsk Oblast)のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の男性個体(関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃のワセ1号(Oase1)個体(関連記事)など、全ての既知の深い古代の狩猟採集民(HG)のユーラシア標本との関連では、必然的に外群です。
基底部ユーラシア人集団の地理的位置は依然として議論の問題になっており、コーカサス山脈の13000~9000年前頃となるサツルブリア(Satsurblia)およびコティアス(Kotias)遺跡の古代人標本で見られる基底部ユーラシア人系統はより高い割合です。それほどではありませんが、基底部ユーラシア人系統は、ユーラシア西部とアジア南西部の現代の人口集団に依然として存在します。最初のヤギ飼育者だったイランのザグロス山脈中央部の孤立した基底部ユーラシア人系統の子孫が、ユーラシア草原地帯へとその後で拡大した、と以前には推測されてきました。モロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の古代人標本(関連記事)も、部分的に基底部ユーラシア人の子孫かもしれず、それは、この標本が、最良の代理がナトゥーフィアン(Natufian)人である完新世近東人と遺伝的類似性を共有しており、サハラ砂漠以南のアフリカ人(東西のアフリカ人の混合)から1/3ほどの流入を受けているからです。したがってこれまで、アジア南西部は依然として、仮定的な基底部ユーラシア人集団の最も可能性が高い起源地ですが、より正確な位置は依然として特定困難です。
無視できない別の要素は、基底部ユーラシア人系統におけるネアンデルタール人からの流入が、あったとしてもわずかだったことです(関連記事)。これは、ネアンデルタール人と現生人類との混合事象が、現生人類系統における基底部ユーラシア人系統との分岐後ではあるものの、ヨーロッパ人とアジア東部人の分離前だったことを裏づけます。基底部ユーラシア人の子孫とユーラシア西部人およびアジア南西部人とのその後の混合は、その観察されたアジア東部現代人(基底部ユーラシア人からの流入がありません)よりも低いネアンデルタール人からの流入を説明できるかもしれません。繰り返しになりますが、ネアンデルタール人と現生人類の交雑事象についてのこの新たな情報は、基底部ユーラシア人の祖先の地理的起源の精緻化に役立てます。12万~5万年前頃となる、スフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)などイスラエルの遺跡における現生人類の存在と、同じくイスラエルのタブン(Tabun)およびケバラ(Kebara)洞窟におけるネアンデルタール人の存在は、現生人類とネアンデルタール人が地理的および時間的にレヴァントにおいて重複していた、という証拠を提供します(関連記事)。アジア南西部の南方ではそうした証拠は見つかっていませんが、証拠の欠如は欠如の証拠ではありません。
本論文は、現在のアラビア半島の人口集団のゲノム特性を有する主要な近隣の人々の古代のゲノムを統合して分析し、その起源を説明する代替的なシナリオを検証しました。本論文のデータセットは、人口構造と選択事象の観点で以前に詳細に分析された、アラブ人291個体とイラン人78個体で選別された741000の多様体で構成されます。この研究は、アラビア半島全体の良好な地理的解像度のため、他の研究とは異なります。
●現在のアラブ人とイラン人の多様性への古代の祖先系統の投影
アラブおよびその近隣の人口集団が、旧石器時代から青銅器時代までの移行以来、この地域に居住していた集団とどのように関連していたのか、理解するため、主成分分析(PCA)が実行され、古代人標本が現代人のアレル(対立遺伝子)頻度差異で推定された主成分(PC)に投影されました(図1)。サウジアラビアとイエメンの現代人標本は密接にクラスタ化し(まとまり)、ナトゥーフィアンの3標本と重なり、レヴァントの先土器新石器時代B・C(PPNB・PPNC)およびレヴァントの青銅器時代標本と密接でした。ほとんどのアラブ首長国連邦(UAE)の現代人と、オマーンおよびイランの現代人は、イラン後期新石器時代および新石器時代の標本や、コーカサス旧石器時代および前期青銅器時代および銅器時代の標本と混在しました。現代のアラブ人とイラン人の標本数点はより分散しており、アフリカ北部のイベロモーラシアンおよび前期新石器時代標本と混在し、これはそのゲノムにおけるいくらかのサハラ砂漠以南のアフリカからの流入と一致します。この分散は、各人口集団内における何らかの構造の存在も示します。アナトリア半島とバルカン半島とユーラシア草原地帯の古代人標本は、現代のアラブ人とイラン人の標本から遠くに投影されました。以下は本論文の図1です。
PCAで説明されたばかりの人口構造パターンは、ロジスティック回帰の交差検証(CV)で推定された最適なK(系統構成要素数)=9で、ADMIXTURE分析(図2A・B)によりほぼ裏づけられました。濃い青色の構成要素は現代のアラビア半島(最高値はサウジアラビアとイエメン)と近東の人口集団、および古代のレヴァントのナトゥーフィアンおよび青銅器時代標本で頻出しました。対照的に、アラビア半島東部とイランの現代人標本のかなりの割合は、ザグロス新石器時代および全期間のアナトリア半島/コーカサス標本と、明るい紫色の構成要素を高頻度で共有していました。この構成要素は、レヴァントとコーカサスの人口集団において最頻値で見られました。ヨーロッパ北部現代人標本においてひじょうに高頻度の橙色の構成要素は、ヨーロッパとバルカン半島の狩猟採集民および草原地帯人口集団でも優勢でした。
現代ヨーロッパ人、とくに南方において2番目に一般的で、近東とアナトリア半島とイランの現代人にも存在する黄緑色の構成要素は、ザグロス山脈の新石器時代の古代人標本を除いて、全ての古代人標本(とくに、アナトリア半島とヨーロッパ南部の新石器時代)で観察されました。ザグロス山脈新石器時代標本では、ユーラシア草原地帯の古代の人口集団と同様に、濃い緑色の構成要素がかなりの量で検出されました。この構成要素は、現代のアジア南部人口集団において典型的で、イランとUAEとオマーンの現代人標本でも観察されました。桃色と赤色のアフリカ人祖先系統の構成要素の影響はアフリカ南東部の古代人標本でとくに高く、アフリカ北部の古代人(とくにイベロモーラシアンの標本)において重要な頻度で見つかりました。同じ構成要素は、UAEとオマーンの一部の現代人標本でも、イエメンの数個体とともに見られました。以下は本論文の図2です。
アラビア半島標本のゲノムにおけるサハラ砂漠以南のアフリカからの流入の影響(40%超のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入のある個体は、ごく最近の移民による偏りを避けるため、以前には分析から除外されました)をより深く確認するため、ハプロタイプに基づく手法(fineSTRUCTURE)で人口構造が調査されました(図3A・B)。いくつかのクラスタ(まとまり)が、アラビア半島の東西の軸間の区別を裏づけました。クラスタFはアラビア半島西部において典型的で、サウジアラビアとイエメンの人口の2/3、UAEとオマーンの人口の1/3未満を表しています。クラスタDはアラビア半島東部において典型的で、イラン人とも共有されており、とくにアラビア半島西部では実質的に存在しません。このクラスタは、ドゥルーズ派の人々(レヴァントの孤立した集団)でのみ観察されるクラスタBと関連しています。各クラスタのこれら祖先系統の背景は、ADMIXTURE図示がクラスタにより再構成されると、容易に視覚化できます(図3A)。以下は本論文の図3です。
これらのクラスタにより分布している現代のアラビア半島とイランの標本における平均的なサハラ砂漠以南のアフリカからの流入値は、Aでは22%、Cでは5%、Dでは6%、Eでは0.3%、Fでは3%です。確かに、クラスタAは依然としてサハラ砂漠以南のアフリカからのかなりの流入を有していますが、他のクラスタは全て、約5%に制限されています。局所的な祖先系統演算法(RFMix)を用いて、クラスタAとDにおけるサハラ砂漠以南のアフリカからの区画の長さをさらに確認しよう、と試みられました。RFMixソフトウェアは、標識間の連鎖不平衡(LD)モデルを用いて、ハプロタイプの推定される祖先の区画の混合間のゲノムの各断片の祖先系統を推測します。補足資料のS4とS5では、クラスタAとDに分類された各アラブ人とイラン人の個体について、サハラ砂漠以南のアフリカからの区画の平均規模がcM(センチモルガン)で表示されます。組換えが経時的に起きると、区画の規模が減少するので、混合の時間は区画の規模と逆相関します。その結果は、両クラスタ(AとD)のより短い区画で明確な傾向を示唆しており、サハラ砂漠以南のアフリカ人との混合のより古い年代と一致します。
●アラビア半島の祖先系統構成要素のモデル化
まず、古代の供給源人口集団から国ごとのアラビア半島の祖先系統構成要素がモデル化されました(qpAdm演算法)。本論文で検証されたアラビア半島とイランの人口集団であり得る最も複雑なシナリオは4供給源で構成され(図4A)、それは、コーカサス狩猟採集民(CHG)、イベロモーラシアン、ナトゥーフィアン、ザグロス農耕民です。アラビア半島西部の人口の2/3が、レヴァントで典型的なナトゥーフィアンと共有された祖先系統を持っている一方で、アラビア半島東部とイランはCHGおよびザグロス農耕民と共有された背景が優勢でした。イベロモーラシアンとの類似性はアラビア半島において西部よりも東部で高いものの、イランではすでに残っていました。全ての他のあり得る4供給源シナリオは、アラビア半島西部における優勢なレヴァント兆候で構成されますが(コーカサスもしくはザグロスをレヴァントPPNBかレヴァント前期青銅器時代に置換)、アラビア半島東部は常に、コーカサス(時としてコーカサス前期青銅器時代がレヴァント兆候を全体的に置換します)およびザグロス農耕民との類似性を有していました。以下は本論文の図4です。
祖先系統の混合割合の独立した推定値を得るため、さまざまな考古学的期間(旧石器時代と新石器時代と青銅器時代)に属する供給源により区分される現代の5人口集団で、別の演算法、つまり非負制約付最小二乗法(NNLS)を適応させたCHROMOPAINTER分析(CP/NNLS)が用いられました。これらの結果は、レヴァント(ナトゥーフィアン、レヴァントPPNB、レヴァント前期青銅器時代)との連続性を有するアラビア半島西部集団内の類似性を反映していた一方で、アラビア半島東部とイラン集団は、より多くのコーカサス/アジア南部の影響(CHG、ザグロス新石器時代、ユーラシア草原地帯青銅器時代)を示しました。qpAdmで識別された4供給源は各期間のCP/NNLSの結果でも浮き彫りにされているようなので、供給源としてCHGとイベロモーラシアンとナトゥーフィアンとザグロス農耕民の検証により、全体的なCP/NNLS分析が実行されました(図4B)。図4Bで示されるように、これら供給源の各割合はqpAdmとCP/NNLSの推定間ではほぼ同等で、わずかな例外は、ザグロスからの流入がより低く、CHG兆候がより高いイエメンです。
サハラ砂漠以南のアフリカからの顕著な流入のあるクラスタAのアラビア半島東部における高頻度を考えて、クラスタごとの4供給源(CHGとイベロモーラシアンとナトゥーフィアンとザグロス農耕民)でもCP/NNLSが計算されました(図4C)。3クラスタだけにイベロモーラシアンからの流入があり、この流入はクラスタAでは圧倒的で、おそらくは最近の流入による偏りです。アラビア半島東部とイランのクラスタDではこの流入はひじょうに限定的で、レヴァントのクラスタCではさらに限定的でした。興味深いことに、アラビア半島西部のクラスタFは、レヴァントのクラスタC、ドゥルーズ派のクラスタB、アナトリア半島/コーカサスのクラスタEよりも、レヴァントで出現した続旧石器時代文化のナトゥーフィアン人から有意に多くの影響を受けていました。ザグロスの影響は、アラビア半島東部/イランのクラスタDと、アラビア半島西部のクラスタFおよびAに限定されていました。
●基底部ユーラシア人系統
f4統計(検証集団、漢人;ウスチイシム個体、ムブティ人)の適用で以前の研究(関連記事)に従って、基準としての漢人とさまざまな検証人口集団との比較でウスチイシム個体(非基底部ユーラシア人祖先系統の古代の代理)のアレル共有の過剰の測定により、基底部ユーラシア人祖先系統が検証されました。図4Dはアジア南西部の検証された現代の人口集団のほとんどで有意な負の結果を示し、これらの人口集団における基底部ユーラシア人系統の存在と一致します。有意な結果はアラビア半島東部においてより極端で、アラビア半島西部、近東の人口集団とイラン人、コーカサス人、アナトリア半島人、最後にヨーロッパ人の順です。
この分析に含められたイベロモーラシアンの古代人標本は、基底部ユーラシア人系統の最高の流入があり、現代のアラビア半島東部人口集団での観察よりもさらに高いものでした。当然ながら、平均20%のサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有するクラスタAは、イベロモーラシアン標本の近くに位置しており、クラスタD(アラビア半島東部とイラン)とF(アラビア半島西部)は、他のレヴァントおよびイランの標本と類似の位置を占めました。他の古代人標本は、その地の現代の人口集団と類似のf4統計値を示しました。ルクセンブルクのロシュブール(Louschbour)遺跡標本は、予測されたように、基底部ユーラシア人系統からの流入を示しませんでした。この兆候がモデル化されていないアフリカ人祖先系統ではなく基底部ユーラシア人祖先系統なのかどうか検証するため、ムブティ人の代理の変更によりf4統計が繰り返されました。それは、(1)ボツワナのツワナ人、(2)中央アフリカ共和国のビアカ人、(3)ナミビアのコイサン人、(4)ナイジェリアのヨルバ人、(5)南アフリカ共和国のコイサン人です。f4統計値は、これらの検定全てで一致しました。
古代人標本についての以前の報告と一致して、現代人標本における基底部ユーラシア人系統の割合は、ネアンデルタール人からの流入と負の相関がありました。上述の結果と一致して、基底部ユーラシア人系統を最高量で有する現代人標本はアラビア半島東部人口集団(45%)で、アラビア半島西部人口集団およびイラン人(38%)、レヴァント人(28%のドゥルーズ派の人々を除いて32%)、コーカサス人(20~25%)と続きますが、ヨーロッパ人は最低の値(20%未満)です。この分析では、クラスタA(49%)とD(45%)の基底部ユーラシア人系統の割合はひじょうに類似しており、アラビア半島におけるサハラ砂漠以南のアフリカからの恐らくは最近の流入によりもたらされた偏りはひじょうに低い、と示唆されます。
アラビア半島東部においてより多いクラスタにおける基底部ユーラシア人系統の割合は、アラビア半島西部で優勢なクラスタで観察された値(クラスタFで35%)よりも高くなりました。古代人標本は回帰直線に従い(2点の外れ値はより高い欠失遺伝子型を有しています)、イベロモーラシアン人は、さまざまな以前の結果から予測されるように、最高の基底部ユーラシア人系統の割合と最低のネアンデルタール人系統の割合を示します。基底部ユーラシア人系統からの流入についてのqpAdmに基づく推定は、アラビア半島現代人およびコーカサスとザグロスの古代人標本における同等の量を示唆し、ナトゥーフィアンでは流入はより少なくなっています。
アラビア半島における基底部ユーラシア人系統からの流入は、後のおよびすでに混合した供給源からの混合に起因するかもしれないので、f4検定(検証集団、漢人;ウスチイシム個体、X)が実行され、Xは混合していない古代人標本です。その結果、アラビア半島西部におけるナトゥーフィアンの優勢な痕跡が明らかになりましたが、それにも関わらず、アラビア半島東部では影響が小さく、じっさい、ヨーロッパ南部の人口集団ではナトゥーフィアンはアラビア半島東部よりも大きな影響を有しています。興味深いことに、イベロモーラシアンでの検定は、レヴァントおよびアラビア半島西部との類似性を浮き彫りにしており、その標本の主要な近東背景と一致しており(関連記事)、それに続くのがアラビア半島東部(恐らくは基底部ユーラシア人の類似性)で、その次がイベリア半島およびイタリア半島となり、アフリカ北部とヨーロッパ南部とのつながりの議論について興味深い結果です。基底部ユーラシア人の痕跡が評価に含まれる場合、イベロモーラシアン標本はアラビア半島東部とクラスタ化し、除外すると、アラビア半島西部とクラスタ化します。コーカサスとザグロスの標本は、それ自体分析対象期間を含む混合のいくつかの兆候を示し、さほど明確ではないパターンを示すので、創始者と受容者を分離するにはすでに複雑になりすぎています。
●まとめ
本論文では、近隣の主要な地理的地域からの情報をもたらす古代DNA標本の利用可能性により、現在の人口集団のゲノムプールへの創始者の寄与について代替的シナリオを直接的に検証できる、と示されました(図5)。本論文で実行されたさまざまな分析の結果に反映されているように、アラビア半島東部をイランおよびコーカサスとつなげる時間に沿った連続性は今や明らかです。農耕民伝統への2つの分離した狩猟採集民により影響を受けた地理的範囲(南方)が拡大され、その一方はレヴァント南部で、もう一方は以前に報告されたコーカサス南部とイラン高原です。本論文の結果から、アラビア半島東部で見られる基底部ユーラシア人系統のより強い兆候を考えると、東方の連続性は恐らくより古い、と明らかになります。以下は本論文の図5です。
基底部ユーラシア人という指定は、ヨーロッパとアジアの人口集団を産み出したその後の事象に焦点を当てていますが、この系統は、非アフリカ地域の最初の成功した定住を浮き彫りにする成功した出アフリカ移民集団としても、同様にうまく説明できます。この第二の指定は、最近のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入に起因するこの痕跡を識別するさいに、あり得る偏りに対して注意を喚起します。最近のサハラ砂漠以南のアフリカからの流入を無視できるハプロタイプに基づくクラスタ化とクラスタ識別の実行により、クラスタD(アラビア半島東部およびイラン)における基底部ユーラシア人系統の痕跡が確証され、それに続くのがクラスタF(アラビア半島西部)です。
イベロモーラシアン標本は基底部ユーラシア人系統をひじょうに高水準で有しており、その理由は二つあります。第一に、イベロモーラシアン標本が2万年前頃にアフリカ北部に逆移住した主要なアジア南西部母集団に由来するためです。第二に、イベロモーラシアン標本が、アフリカ北部での定住後にサハラ砂漠以南のアフリカ人と混合したことです。したがって、イベロモーラシアン標本はおそらく、基底部ユーラシア人集団の最良の古代の代理です。
アラビア半島東部で見られる最高水準の基底部ユーラシア人系統は、ペルシア湾の露出した盆地における初期現生人類の居住に関する、以前の遺伝学的および考古学的証拠を補強します。これらの結果は、基底部ユーラシア人集団の地理的起源を近東からアラビア半島東部に移すことにより、恐らくはレヴァントにおいて起きたネアンデルタール人と現生人類の交雑事象ともよりよく一致します。以前の研究では、より高い基底部ユーラシア人系統を有する古代DNA標本はレヴァントにある、と観察され、基底部ユーラシア人は必然的に、分析されたナトゥーフィアン人の年代よりも前ではあるものの、ネアンデルタール人と【近東人も含めて非アフリカ系現代人の主要な祖先である】現生人類との混合の後に近東人と混合したか、基底部ユーラシア人の祖先は近東に居住していたものの、ネアンデルタール人との混合には加わらなかった、と示唆されました。
本論文の結果は前者、つまりアラビア半島東部の基底部ユーラシア人はナトゥーフィアン期の後に近東人と混合した、というシナリオと一致しているようですが、他の仮説を除外するわけではありません。したがって、ペルシア湾の露出した盆地は、基底部ユーラシア人の起源地だった可能性があり、これは現在のホルムズ海峡をザグロスおよびコーカサスの草原地帯とつなぐ容易な回廊(東方の連続体)を伴っていた可能性があります。ザグロス地域の最近の考古学的証拠では、この地域は中部旧石器および上部旧石器時代には通行可能で、恒久的な水および原材料と関連している渓谷により相互とつながっている山間平原を含んでいる、と示唆されています。
基底部ユーラシア人とネアンデルタール人との混合集団は遺伝的に近いので、どこかで以前に分岐した同じアフリカからの移民集団の子孫である可能性が最も高そうです。基底部ユーラシア人とその他の出アフリカ現生人類集団との分岐は出アフリカの後に(北方もしくは南方経路を通って)アジア南西部のどこかで、あるいはアフリカで起きたかもしれません。後者のシナリオでは、基底部ユーラシア人の分枝を生じさせた現生人類集団の部分集合はおそらく、ペルシア湾の露出した盆地の退避地をとる南方経路を通りましたが、ヨーロッパ人とアジア人の【主要な】直接的祖先は北方経路を通り、ネアンデルタール人と混合し、さらに移動してヨーロッパ人とアジア人に分岐しました。
現在の証拠では、この二つのシナリオの絡み合った謎を解明できず、アラビア半島東部/ザグロス地域の古代人標本の発見と分析の緊急性が浮き彫りになります。これらの標本が5万年前頃である必要はなく、2万~1万年前頃の標本は当然より高い基底部ユーラシア人祖先系統を有しているはずで、出アフリカの発生時や現代に存在する主要な人口集団の分岐時期の頃に起きた人口統計学と混合と拡散の事象にとって、優れた代理を表しているかもしれません。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文の刊行後にも、この地域を含むより広範な古代DNA研究が大きく進展しており(関連記事)、まだ標本抽出がされていない基底部ユーラシア人について、さらに解明していくためのデータが蓄積されつつある、と言えるでしょう。基底部ユーラシア人の起源地については、アフリカ北部を想定する見解があり、私はアラビア半島南部も想定していましたが(関連記事)、本論文は、寒冷期に海面低下により露出したペルシア湾の盆地を想定しており、確かにその可能性は高いように思います。基底部ユーラシア人は、ユーラシア西部現代人に大きな遺伝的影響を残している、と推測されているので、今後の研究の進展が注目されます。
参考文献:
Ferreira JC. et al.(2021): Projecting Ancient Ancestry in Modern-Day Arabians and Iranians: A Key Role of the Past Exposed Arabo-Persian Gulf on Human Migrations. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab194.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab194
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