新石器時代移行期の上メソポタミアの人口史

 新石器時代移行期の上メソポタミア(メソポタミア北部)の人口史に関する研究(Altinişık et al., 2022)が公表されました。アジア南西部における新石器時代移行期において、上メソポタミアは象徴主義と技術と食性での顕著な革新を通じて、重要な役割を果たしました。本論文は、ティグリス川流域の先土器新石器時代チャヨニュ(Çayönü)遺跡の古代人13個体(紀元前8500~紀元前7500年頃)のゲノムを、生物考古学的および物質文化的データとともに提示します。本論文の調査結果から、チャヨニュ遺跡の人々は遺伝的に多様な人口集団で、肥沃な三日月地帯の東西の混合した祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しており、共同体は移民を受け入れていた、と明らかになります。

 本論文の結果からさらに、この共同体は生物学的家系に沿って組織されていた、と示唆されます。本論文は、検証された個体における頭部の整形や焼灼など身体的処置を記載し、それはチャヨニュ遺跡の文化的独創性を反映しています。最後に、本論文は新石器時代アナトリア半島への東方からの遺伝子流動の可能性が高い供給源として上メソポタミアを特定し、それは物質文化の証拠と一致します。本論文の仮説は、新石器時代移行期における上メソポタミアの文化動態は、その肥沃な土地だけではなく、地域間の人口統計学的つながりの産物でもあった、というものです。


●研究史

 ユーフラテス川とティグリス川との間に位置する上メソポタミアの丘陵地帯は、ギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)に最初の記念碑的建造物が構築され、ヒトツブコムギやエンマーコムギやヒツジやヤギやブタやウシなど、多くの在来の動植物種が栽培・家畜化された、最初の定住狩猟採集民の故地であり、アジア南西部の新石器時代移行期(紀元前9800~紀元前6500年頃)におけるこれらの社会の革新的な精神および文化動態は、考古学的記録で充分に記載されているものの、その人口史と生物学的な親族関係関連の伝統は、上メソポタミアのゲノムの欠如のためまだ分かっていません。

 これは、新石器時代アジア南西部の最も遠い三つの隅、つまりレヴァント南部とザグロス中央部とアナトリア半島中央部に焦点を当ててきた、最近の考古遺伝学的研究の顕著な数(関連記事1および関連記事2および関連記事3)とは対照的です(図1A・B)。この一連の研究により明らかになったのは、(1)これら3地域にわたる遺伝的に異なる人口集団、(2)新石器時代(N)の前と先土器新石器時代(PPN)と土器新石器時代(PN)との間の人口集団連続性の優勢な傾向、(3)新石器時代の前期と後期との間のアナトリア半島中央部への推定される「南方」と「東方」の遺伝子流動など、経時的な地域間の遺伝子流動の上書きです。

 一方、地域間の人口統計学的および文化的変化における上メソポタミアの役割の可能性についての重要な問題、たとえば、上メソポタミアは後期新石器時代アナトリア半島中央部に影響を及ぼしたのかどうか、上メソポタミアはアナトリア半島への新石器時代の後の遺伝子流動の供給源だったのかどうか(関連記事1および関連記事2)、ということは未解決です。ユーフラテス川上流の15点のミトコンドリアDNA(mtDNA)を報告した単一の古代DNA研究を除いて、新石器時代の上メソポタミアはゲノムが調べられていないままで、それはおもに、この地域のDNA保存状態が悪いためです。以下は本論文の図1です。
画像

 本論文は、ティグリス川上流地域のチャヨニュ・テペシ(Çayönü Tepesi、以下チャヨニュ)遺跡(図1A・B)のゲノムデータの研究により、この間隙に対処します。チャヨニュ遺跡は、アジア南西部における採食から食料生産への移行の最良の事例の一つを提示する集落です。第一に、チャヨニュ遺跡は紀元前9500年頃となる先土器新石器時代A(PPNA)から紀元前7000年頃となるPPNまで続く期間が層序的に攪乱されておらず、この地域では類例がありません。第二に、チャヨニュ遺跡の新石器時代共同体はその顕著な文化動態で認識されており、それは以下の3要素に反映されています。(1)継続的な植物の管理と栽培およびブタやヒツジやヤギなど動物の管理の証拠、(2)建築様式の継続的な革新(図1C)、(3)先駆的な石灰燃焼技術や、数珠玉や象眼などを含む、ビーズや銅および孔雀石(緑色の銅鉱)の人工物の製作など、技術的実験です。最後に、西方(レヴァントとユーフラテス川)と東方(ティグリス川とザグロス地域)両方の影響と並行した発展は、チャヨニュ遺跡の物質文化でたどれます。これらの観察から、チャヨニュ遺跡と同時代の上メソポタミアの共同体は、新石器時代アジア南西部における文化的相互作用と革新の接続地として機能したかもしれない、と示唆されます。

 この研究は、チャヨニュ遺跡のゲノムデータを提示し、次にこれを用いて、以下の4点を説明します。(1)肥沃な三日月地帯の人口集団の人口統計学的構成と、考古学的記録において観察される物質文化の類似性との関連、(2)チャヨニュ遺跡および他の新石器時代遺跡群のゲノム多様性に反映されている新石器時代の人口統計学的移行、(3)チャヨニュ遺跡の家庭構造における共同埋葬間の遺伝的親族関係、(4)アナトリア半島における新石器時代および新石器時代の後の人口移動への上メソポタミアの寄与の可能性です。本論文は、チャヨニュ遺跡の幼児埋葬の興味深い事例も詳しく述べます。この幼児は移民の子供と推測され、人工的な頭蓋変形だけではなく、頭蓋骨における焼灼の最初の既知の事例の一つも提示します。


●標本

 チャヨニュ遺跡の33個体の骨格遺骸が調べられました(図1A・B)。これらはおもに、6ヶ所の先土器新石器時代B(PPNB)の建物の内部もしくは近くに位置する、床下埋葬として発見されました。ショットガン配列決定により33点の古代DNAライブラリが検査され、内在性DNAの割合は0.04~5%でした(中央値は0.2%)。これは、同時代のアナトリア半島中央部のアシュクル(Aşıklı)遺跡個体群(中央値は1.4%)より低いものの、同様の年代の別のアナトリア半島中央部の遺跡であるボンクル(Boncuklu)の個体群(中央値は0.1%)に匹敵します。

 14個体のライブラリがより深い配列決定で選択され、そこから0.016~0.49倍の範囲の深度でショットガンゲノムが生成されました。読み取り末端における高い死後損傷蓄積率と、平均断片規模(49~60塩基対、中央値は51.4塩基対)と、ミトコンドリアハプロタイプに基づく推定値は、14点のライブラリ全ての信頼性を示唆します。これらのデータを用いて、まず全ての個体の組み合わせで遺伝的親族関係が推定されました。ともに女性の乳児として特定された2点の標本(cay018とcay020)は、遺伝的に同じ個体か一卵性双生児と推測されました。骨格分析も、両方の錐体骨が同じ個体のものである可能性を示唆しました。したがって、両方のゲノムデータが統合され、単一個体を表すものとして統合されたデータは扱われ、標本規模は13個体に減少しました(成人女性6個体、成人男性2個体、未成人女性3個体、未成人男性2個体)。1親等から3親等の4組の親族関係がさらに特定され、集団遺伝学的分析では密接に関連する個体の一式から1個体を除いて除去されました。


●新石器時代アジア南西部の東西の遺伝的構造

 新石器時代アジア南西部におけるヒト集団の遺伝的類似性の概要を得るため、対でのf3結果のMDS(多次元尺度構成法)とD統計とqpAdm 分析を用いて、チャヨニュ遺跡13個体のゲノムが、肥沃な三日月地帯およびその近隣地域の紀元前15000~紀元前5500年前頃と年代測定された既知の古代人のゲノムと比較されました。これらにより多くの観察が得られました。MDS分析では、チャヨニュ集団は初期完新世のレヴァント南部とザグロス中央部とコーカサス南部とアナトリア半島中央部により境界線が共有されているアジア南部の遺伝的多様性の空間内において、明確で中間的な位置を占めました(図1D)。チャヨニュ遺跡古代人のゲノムの本論文の標本は、ザグロス/コーカサス個体群と相対的により近いように見える「外れ値」個体(cay008)を除いて、この空間内で内部的には均一でした。

 D統計では同様に、チャヨニュ集団は遺伝的に、アジア南西部東方(ザグロス中央部)よりも、アジア南西部西方、とくに初期完新世アナトリア半島中央部個体群の方と近い、と示されました(図2A)。同時に、ザグロス中央部個体群のゲノムは、アナトリア半島中央部もしくはレヴァント南部個体群よりも本論文のチャヨニュ遺跡標本の方と高い遺伝的類似性を示しました(図2B)。最後に、cay008には他のチャヨニュ遺跡個体群よりも高いザグロス地域個体群からの寄与がある、と分かりました(図1Dおよび図2C)。以下は本論文の図2です。
画像

 これらの観察を考慮して、まず新石器時代アジア南西部における遺伝的構造の起源が調べられました。ザグロス地域中央部個体群と比較しての、チャヨニュ遺跡個体群に代表される上メソポタミアとアナトリア半島中央部とレヴァント南部の人口集団間のより高い遺伝的類似性は興味深く、この類似性が距離による孤立過程により説明できるのかどうか、調査されました。本論文のアジア南西部標本における個体の各組み合わせ間で共有される遺伝的浮動が計算され、集落間の測地線の地理的距離が比較されました。時間的な遺伝的変化の影響を排除するため、1000年未満の離れた個体の組み合わせのみが含められました。予測されたように、空間距離と遺伝的距離との間の一般的な相関が見つかりました(図3A)。しかし、ザグロス地域中央部個体群のゲノムが、線形の距離による孤立モデルからの予測と比較して、有意に分化していることも分かりました(図3B)。したがって、肥沃な三日月地帯における、明確に分化した東西の遺伝的構造が推測され、肥沃な三日月地帯では、最も低い有効移動性が、上メソポタミアとザグロス地域中央部との間にあるようです。以下は本論文の図3です。
画像

 額面通り受け取ると、この結果は新石器時代における上メソポタミアとザグロス地域中央部との間の遺伝子流動への抵抗を示唆しているようです。しかし、これは恐らく有効な説明ではなく、それは、そうした抵抗が(チャヨニュ遺跡個体群とcay008におけるザグロス関連混合により表される)地域間移動の遺伝的証拠、および新石器時代におけるこの2地域【上メソポタミアとザグロス地域中央部】間の観察された物質文化の類似性と一致しないからです。したがって本論文は、観察された遺伝的構造の説明のため代替シナリオを提案します。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)において、初期完新世にアジア南西部の東方地域に居住していた人口集団の祖先(本論文では、ザグロス地域中央部/コーカサス南部個体群のゲノムの祖先)は、アジア南西部の西方地域の人口集団の祖先(アナトリア半島中央部と/レヴァントの個体群のゲノム祖先)から部分的に孤立していたかもしれません。これら「東方」と「西方」の人口集団は、浮動を通じて、もしくは第三の人口集団との混合により分化していった可能性があります。そうしたシナリオは、ザグロス圏内(ザグロス地域北西部とザグロス地域中央部の人口集団間)および旧石器時代後期と続旧石器時代(EP)におけるレヴァントとアナトリア半島中央部との間でも見られる密接な相互作用を示唆する考古学的データとも一致しているようです。

 上メソポタミアにおいて東西の混合が起こり、チャヨニュ遺跡個体群の遺伝子プールが生じた、との想定は妥当で、それはPNまでにアナトリア半島中央部にも影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。EPにおけるアナトリア半島個体群とザグロス地域個体群との分岐を推定した研究(関連記事)により示されたように、仮定された孤立と移住両方の過程の期間と時期が不明なままであることと、代替的なシナリオもデータを説明できること(つまり、上メソポタミア個体群の遺伝子プールは移動率が変化する東西の勾配の産物です)に要注意です。しかし、人口統計学的機序に関係なく、ザグロス地域中央部は初期完新世アジア南西部において遺伝的に最も異なる集団だったようです。


●チャヨニュ遺跡における混合祖先系統と多様な物質文化

 次に、チャヨニュ遺跡住民の人口統計学的起源が調べられました。上述のD統計の結果から、チャヨニュ遺跡標本は混合した東西の祖先系統を有している、と示唆され(図2A・B)、それはチャヨニュ遺跡の中間的な地理的位置と一致します。qpAdmを用いて、チャヨニュ遺跡標本(cay008個体は除きます)のゲノムにおける祖先系統の割合を、プナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡個体(アナトリアEP)に代表されるアナトリア半島中央部、レヴァント南部、ザグロス地域中央部に関連する祖先系統の3方向混合としてさらにモデル化できます(図2C)。チャヨニュ遺跡個体群はおもにアナトリア祖先系統を有しており、ザグロス祖先系統の33%とレヴァント南部祖先系統の19%により補完されます。

 次に、地域的な人口集団とのチャヨニュ遺跡個体群の遺伝的類似性が、本論文の標本で網羅される1000年間に変化した可能性があるのかどうか、調べられ、有意な時間的影響は見つかりませんでした(図4A)。個体群全体にわたるqpAdmに基づく祖先系統構成要素の時間変化の検証も、有意な変化を明らかにしませんでした。それでも、これらの結果は、cay008外れ値個体が例証するように、PPN(先土器新石器時代)におけるチャヨニュ遺跡への移住を除外するわけではありません。qpAdmでは、cay008個体のゲノムは50%のアナトリアEP祖先系統構成と50%のザグロス中央部N祖先系統を有しており、他のチャヨニュ遺跡個体群で見られる有意なレヴァント南部構成要素を欠いている、と推定されました。cay008個体を、「在来の」チャヨニュ遺跡標本(79%)の祖先系統とザグロス的な祖先系統(21%)の混合としてもモデル化できました。

 ここで要注意なのは、ザグロス以外ではあるものの、コーカサス南部を含めて遺伝的に関連する人口集団のいる地域も、チャヨニュ遺跡個体群における東方祖先系統の供給源かもしれない、ということです。さらに、「ザグロス関連祖先系統」自体じっさいには、ザグロス地域中央部からではなく、ザグロス地域北西部(つまり現代のイラク北部で、考古遺伝学的データはまだ利用できません)からのヒトの移動を表しているかもしれず、これはザグロス地域北西部とのチャヨニュ遺跡の物質文化の類似性とも一致しているでしょう(図1B)。以下は本論文の図4です。
画像

 これらの観察は全体的に、チャヨニュ人口集団が近隣地域と歴史的にも進行中でも人口統計学的つながりを有していた、との見解を裏づけます。考古学的には、チャヨニュ遺跡は新石器時代アジア南西部の東翼、とくにティグリスおよびユーフラテス川流域とザグロス地域北西部のPPNA/PPNB集落と多くの独特な特徴を共有しています(図1B)。これらの特徴には、記念碑的建築物および/もしくは特別な建物、「チャヨニュ石器」のような石器様式、無地もしくは翼のある大理石の腕輪が含まれます。同様に、黒曜石の交換網分析はティグリス川流域とザグロス地域との間の密接な相互作用を示唆します。チャヨニュ遺跡個体群の東西の混合祖先系統と、地域間のヒトの移動への開放性の可能性は、その観察された広範な物質文化の類似性と文化的動態を促進したかもしれない、と推測されます。


●「肥沃な三日月地帯」における初期新石器時代の人口統計学的変化

 本論文のデータセットではさらに、新石器時代以降の人口統計学影響に関する以前の観察の再考が可能になります。アシュクル遺跡やボンクル遺跡の個体群といったアナトリア半島中央部PPN(先土器新石器時代)人口集団は遺伝的多様性が低水準で、上部旧石器時代および中石器時代のヨーロッパ人およびコーカサス人と類似している、と以前には報告されてきました(関連記事)。比較すると、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡やチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡の個体群に代表されるアナトリア半島中央部PN人口集団は、アナトリア半島西部およびヨーロッパの新石器時代人口集団と同様に、より高い遺伝的多様性水準を有していました。遺伝的多様性のこの時間的増加は、農耕への移行および人口移動と混合の関連する増加に起因しました。

 本論文では、アジア南西部における動植物の主要な家畜化・栽培化の中心地を構成した肥沃な三日月地帯におけるPPN人口集団も、アナトリア半島中央部PPN集団と類似した低い遺伝的多様性水準を有していたのかどうか、調べられました。チャヨニュ遺跡に代表される上メソポタミア、ヨルダンのアイン・ガザル(Ain Ghazal)遺跡に代表されるレヴァント南部、ガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡に代表されるザグロス地域中央部の遺伝的標本での外群f3値を用いての遺伝的多様性測定により、これら全ての肥沃な三日月地帯のPPNの3集落は、アナトリア半島中央部PPNの集落よりも多様性水準が高く、アナトリア半島中央部および西部の後のPN共同体と同等である、と分かりました(図5A)。しかし要注意なのは、この比較的高い人口集団内の多様性が、チャヨニュ遺跡標本内では祖先系統の割合における目に見える個体間の違いを含んでいるようには見えないものの、集団内の異型接合性に起因するかもしれない、ということです。以下は本論文の図5です。
画像

 次に、hapROH演算法を用いて、充分な網羅率のチャヨニュ遺跡の1個体(cay007)のゲノムの同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)を通じて背景にある人口集団多様性が調べられ、他の初期完新世アジア南西部個体のゲノムで推定されたROH分布と比較されました。以前に報告されたように、アシュクル遺跡とボンクル遺跡と新石器時代の前のコーカサス個体群のゲノムは多くのROHを有しており、小さな人口規模が示唆されます。特定の新石器時代のゲノム(WC1やAsh128など)も、ROHの数と合計を記入すると「右側への移行」を示し、最近の近親交配を示唆します(図5B・C)。対照的に、cay007のゲノムはROHが小さくて少なく、最近の近親交配の欠如と比較的大きな人口規模をそれぞれ示唆しており、外群f3に基づく分析結果と一致します。

 全体的にこれらの結果から、PPNとPNの間にアナトリア半島中央部で観察された人口統計学的変化は肥沃な三日月地帯では起きず、少なくとも同程度ではなかった、と示唆されます。この観察は、初期完新世におけるアジア南西部の他地域と比較しての、アナトリア半島中央部平原での放射性炭素に基づく低い人口密度の推定値と一致します。この結果は、動植物の家畜化・栽培化の先祖と同様に、多くの狩猟採集民人口を支えているトロス山脈およびザグロス山脈とも一致するでしょう。


●チャヨニュ遺跡の共同埋葬は核家族および恐らくは拡大家族構造を反映しています

 最近の研究では、アシュクル・ヒュユク遺跡やボンクル・ヒュユク遺跡といったアナトリア半島中央部PPN共同体の共同埋葬は密接な遺伝的親族を含んでいることが多い、と明らかになり、これら最初の定住共同体は、以前に仮定されていたように、生物学的家族を中心に組織化されていたかもしれない、と示唆されました(関連記事)。対照的に、チャタルヒュユク遺跡やバルシン(Barcın)遺跡のPN共同体では、共同埋葬が密接な遺伝的親族で構成されることは稀なようで、PNにおける親族/社会構造の異なるパターンが示唆されます。しかし、これらの観察されたパターンが各期間を表しているかもしれない程度は不確実なままで、それは、分析された標本規模が小さいためです。

 本論文は2つの研究法を用いて、チャヨニュ遺跡の共同埋葬の遺伝的親族関係を調べました。まず、最大2親等もしくは3親等の感度を有する4つの異なる手法を用いて、同じ建物の共同埋葬を表しているこれらの9組で、充分なデータのある合計76組で遺伝的親族関係の水準が推定されました。4通りの密接に関連している組み合わせを識別でき、その中には1親等か2親等か3親等の関係の可能性のある組み合わせが含まれます(図6A・B・C)。これは過小評価の可能性があり、それは、閾値未満の共有された一塩基多型(SNP)の数の可能性のある密接な親族の組み合わせが含まれていないからです。とくに、これら全ての関連する組み合わせは、3ヶ所の建物に埋葬され、各組み合わせは同じ建物を共有していました(図7)。以下は本論文の図6です。
画像

 他者と共同埋葬されたものの密接な親族関係ではない9個体は、同じ拡大生物学的家族にまだ属している、と仮定されました。外群f3統計を用いて、これら共同埋葬された各組み合わせが他のチャヨニュ遺跡の個体とよりも相互の方と遺伝的に密接なのかどうか、検証することにより、これが調べられました。密接な遺伝的親族と特定されなかった共同埋葬の組み合わせは、異なる建物の他の組み合わせよりも相互の方と、依然としてわずかに遺伝的に近い、と分かりました。それにも関わらず、小さな標本規模を考えると、空間の影響と時間の影響との間を完全には区別できません。したがって、この問題は、骨格についてより集中的に年代測定されたより多い標本で、再検証する価値があります。以下は本論文の図7です。
画像

 本論文の結果は、アナトリア半島中央部PPNの同時代のアシュクルおよびボンクル遺跡の観察とほぼ同じです。したがって、生物学的な家族に基づく共同埋葬文化は、この期間のアジア南西部全体の共同体で共有された派生的な文化的特徴の多様な一式に属しているかもしれません。新石器時代の共同埋葬の社会的重要性と、それらが家族の構成員を表しているのかどうかは曖昧なままですが、観察されたパターンは、生物学的な家族構造が新石器時代移行期のアジア南西部において社会構成に役割を果たした、との見解と一致します。これらの結果は、バルシン遺跡とチャタルヒュユク遺跡のPN共同体における共同埋葬で報告された共通の遺伝的親族関係の欠如も、より興味深いものにします。


●人工的な頭蓋変形と焼灼のある移民系の幼児

 本論文の遺伝的比較は、著しくザグロス地域人口集団へのより高い遺伝的類似性を有する、外れ値個体(cay008)である1.5~2歳の女児を浮き彫りにします(図1Dおよび図2)。常染色体遺伝子座を用いての遺伝的親族関係は、この個体(cay008)と同じ建物に埋葬された成人女性個体(cay013)との間の3親等程度の関係を示唆します(図6および図7)。対照的に、そのX染色体遺伝子座を用いた分析は、3親等よりも密接な遺伝的関係を示唆しました(図6C)。cay013がcay008の父方の親族だったならば、そうした不一致が予測されます。系図分析はあり得るシナリオとして、cay013がcay008の父方大オバだと示唆しました。さらに、cay008のmtDNAハプログループ(mtHg)T2gは、ほぼmtHg-K1で構成されるチャヨニュ遺跡標本内では明確な外れ値でした。これら一連の証拠から、cay008のザグロス的な祖先系統はその母方側から継承され、cay008の移住してきた祖先が地元【チャヨニュ遺跡一帯】の個体との間に子供を産んだ、と示唆されます。

 この幼児(cay008)はさらに、その頭蓋に2点の興味深い特徴を示しました(図8A~F)。まず、cay008の頭蓋骨は、前頭葉と後頭葉の溝がある前頭葉の平坦化と後頭葉陥没として明らかなように、人工的な頭蓋変形もしくは意図的な頭の変形を受けているようです(図8C)。これは、二重の包帯を巻いた円形の頭の形成手順により作られる可能性があります。本論文の標本における追加の3個体も同様の証拠を示し、cay008の成人女性親族であるcay013が含まれます。2本の包帯での円形の頭の形成は新石器時代のアジア南西部で以前に記録されていますが、チャヨニュ遺跡はこの伝統の最初の既知の事例の一つを提示します。

 cay008の頭蓋骨は焼灼の証拠も提示します。つまり、器具による頭蓋の意図的な灼熱です。焼灼痕はアナトリア半島とヨーロッパの新石器時代人口集団では広く見られましたが、本論文が把握している限りでは、cay008はこの処置の最初の記録された事例を示します。ヨーロッパの焼灼痕は通常、頭蓋骨を薄くするために行なわれる穿孔術と関連していますが、cay008の頭蓋には穿孔の兆候が欠けていました。代わりに、cay008の断片的な後頭骨の内部表面に蛇形脳硬膜対称性を想起させる頭蓋内病変が観察され、この幼児が感染症にかかった、と示唆されます(図8D・E)。この頭蓋は、貧血症を示しているかもしれない眼窩篩も示します。頭頂骨の焼灼はこれらの疾患の悪影響の治療に適用されたかもしれない、と仮定されます。骨の形成は、この幼児(cay008)が焼灼後、一定期間生きていたことを示唆します。以下は本論文の図8です。
画像

 焼灼の証拠、広範な頭の整形、チャヨニュ遺跡における穿孔の追加の報告についての証拠は全体として、この共同体における意図的な身体改造の顕著な文化を示唆します。身体改造は、チャヨニュ遺跡における文化的革新の他の側面と並行して発展した可能性があり、地域間でも共有されたかもしれません。人工的な頭蓋変形と穿孔の事例は、肥沃な三日月地帯のさまざまな新石器時代遺跡で知られています。


●新石器時代および新石器時代の後のアナトリア半島への上メソポタミアの人口統計学的影響

 最後に、紀元前7000年頃以後のアナトリア半島への東方からの遺伝子流動の供給源としての上メソポタミアの役割の可能性が調べられました。東方からの遺伝子流動はPN(土器新石器時代)までに始まり、青銅器時代へと続いたアナトリア半島人口集団における、初期完新世コーカサス南部およびザグロス関連祖先系統の水準増加から推測されてきました(関連記事)。コーカサス/ザグロス関連祖先系統の元々の起源は上メソポタミアだったかもしれない、と推測されています。これは、上述の本論文の結果、具体的には、本論文のチャヨニュ遺跡標本がアナトリア半島中央部PPN(先土器新石器時代)人口集団と比較して25%超のザグロス祖先系統を含んでいたことを考えると、妥当かもしれません(図2C)。

 したがって、アナトリア半島人口集団における紀元前7000年頃以後の東方との混合が、初期完新世コーカサス関連集団から、もしくはチャヨニュ遺跡に代表される上メソポタミア集団からの遺伝子流動により適切に説明されるのかどうか、調べられます。D統計(ヨルバ人CHG/チャヨニュ個体群;検証対象X、アナトリアEP/PPN)が計算され、Xはアナトリア半島/エーゲ海の新石器時代から青銅器時代の人口集団、CHGは初期完新世のいわゆるコーカサス狩猟採集民を表し、アナトリアEP/PPNはアナトリア半島中央部のEP(続旧石器時代)のプナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡個体とPPNのボンクル個体をそれぞれ表しています。

 これは二つの興味深い結果を明らかにしました。第一に、チャヨニュ遺跡個体群のゲノムは、紀元前7000年頃のアナトリア半島個体群のゲノムとよりも、チャタルヒュユク遺跡やテペシク・シフトリク遺跡やバルシン遺跡の個体に代表されるPNアナトリア半島人口集団の方と高い遺伝的類似性を示す、と分かりました(図9)。さらに、チャヨニュ遺跡個体群の代わりにCHGを用いると、この類似性は弱いか存在しませんでした。この結果は、上メソポタミアが、紀元前7000年頃となるアナトリア半島中央部および恐らくは西部への東方からの遺伝子流動の供給源であるであることと一致しますが、コーカサスとは一致しない可能性が最も高そうです。この発見は、紀元前七千年紀半ばに、トルコ東部のビンギョル(Bingöl)地域からの黒曜石の最初の伝来と、「チャヨニュ石器」と類似した様式の石器の出現と、石器インダストリーにおける押圧技術の使用増加があった、というチャタルヒュユク遺跡の考古学的証拠とも共鳴します。

 第二に、アナトリア半島において初期銅器時代以降、チャヨニュ遺跡個体群のゲノムが新石器時代の後のアナトリア半島人への類似性を失う一方で、CHG標本は紀元前7000年頃以前のアナトリア半島人よりも新石器時代の後のアナトリア半島人への類似性を獲得します(図9A・B)。したがってPPNチャヨニュ関連集団は、新石器時代の後のアナトリア半島におけるコーカサス関連祖先系統関連祖先系統の直接的供給源として現れません。これは、二つの方法で説明できます。一方は、新石器時代の後の人口集団におけるコーカサス関連の影響が、ザグロス地域もしくはアナトリア半島北部など上メソポタミア以外の地域から生じた、というものです。代替的なシナリオは、上メソポタミア人の遺伝子プール自体が、ザグロス/コーカサス関連の遺伝子流動により紀元前7000年頃以後に変わった、というものです。この場合、上メソポタミアはその新たな遺伝的特性で、アナトリア半島への東方からの遺伝子流動の供給源であり続けたかもしれません。以下は本論文の図9です。
画像

 ヨーロッパの新石器化の背景にある主要な駆動体がアナトリア半島および/もしくはヨーロッパ南東部からの大規模な人口移動として認識されている一方で、アジア南西部における新石器化の数千年にわたる過程はよく理解されていません。本論文は、PPNBチャヨニュ遺跡個体群に代表される上メソポタミアPPN人口集団の形成を、初期完新世アジア南西部の東西の人口集団間の混合事象として説明します。PPNBチャヨニュ遺跡共同体は、PPNアナトリア半島中央部および新石器時代の前のヨーロッパの個体群と比較して、相対的に高い遺伝的多様性を有していたようです。

 半世紀近く前に、考古学者のロバート・ブレードウッド(Robert Braidwood)とハレット・チャンベル(Halet Çambel)は、チャヨニュ遺跡を定住と農耕の出現の完全な場所として記載しました。それは、植物と家畜の祖先が自然に共存していた、トロス山脈とザグロス山脈の丘陵地に沿った位置のためです。チャヨニュ遺跡は地域間交換網の活気ある接続地だった、と仮定されます。ギョベクリ・テペやグシル・ヒュユク(Gusir Höyük)やカラハン・テペ(Karahan Tepe)などの遺跡群における最近の発見と進行中の研究は、文化的動態と社会的交換網の中心的結節点としてのこの地域の重要性を論証し続けています。

 本論文の原稿が刊行のため受理されたのと同時に、上メソポタミア新石器時代個体群のゲノムも含む独立した研究が『サイエンス』誌で刊行されました(関連記事)。上メソポタミア新石器時代共同体の混合した東西祖先系統に関する本論文で報告された観察は、『サイエンス』誌のその研究と一致します。


参考文献:
Altinişık NE. et al.(2022): A genomic snapshot of demographic and cultural dynamism in Upper Mesopotamia during the Neolithic Transition. Science Advances, 8, 44, eabo3609.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abo3609

この記事へのコメント