松木武彦『はじめての考古学』

 ちくまプリマー新書の一冊として、筑摩書房より2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書のヒトの定義は、チンパンジー属系統と分岐して、常習的な直立二足歩行をするようになってからで、700万年前頃とされます。本書では、考古学の対象は「ヒト」の時代の物質資料(物的証拠)で、日本ではおもに第二次世界大戦前後までとされています。本書の「ヒト」が英語の「Hominina(ヒト亜族)」の訳語ということでしょうか。現代日本社会では、一般的に英語の「human」が「ヒト」と訳されるように思いますが、英語圏の「human」は、狭義では現生人類(Homo sapiens)のみ、広義ではホモ属全体を指すことが多いようです。

 本書は700万年前頃のヒトの出現について、「草原という新天地に進出して、直立二足歩行を始めました」と述べていますが、最初期のヒト(候補)であるサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)については、樹上性のよじ登りがおそらく移動行動の大半を占めていた、と示唆されていますし(関連記事)、現代人の祖先の可能性が高いとされる、その300万年以上後のアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)についても、かなりの樹上生活への適応の可能性が指摘されています(関連記事)。また、本書ではホモ・エレクトス(Homo erectus)の段階でヒトは初めてアフリカからユーラシアへと拡大した、とされていますが、レヴァントでは248万年前頃、中国では212万年前頃の石器が発見されているので、ヒトのユーラシアへの拡散はホモ・エレクトスよりも前の可能性が高そうです(関連記事)。

 日本列島における確実で広範なヒトの痕跡は4万年前頃以降となります。日本列島における旧石器時代の最古段階(4万~3万年前頃)を特徴づけるのは、台形の底辺に刃を付けた形の台形石器や、局部磨製石斧などです。日本列島は、旧石器時代に磨製石器がある珍しい地域の一つとなります。3万年前頃以降には、同じような形の細長い剥片を連続的に剥離させ、さらに加工したナイフ形石器が現れます。その多くは、片方の長辺が鋭い刃になり、もう一方の長辺は幅の広い平坦面になり、ナイフと似た形になります。ナイフ形石器は地域色が顕著です。2万年前頃以降には、長くて5cmほど、幅は1cm未満で通常は5mmほどの細石刃が主流となります。細石刃は、少人数での遊動生活に適した石器です。

 旧石器時代から縄文時代への移行期には、地球規模の温暖化がありました。縄文時代への移行を特徴づける石器は尖頭器で、土器が出現する16500年前頃には小型化し、狩猟対象の動物の小型化が示唆されます。その後、切っ先と反対側(基部)に柄を装着するための突起が付いた、有茎尖頭器(有舌尖頭器)が主流となります。さらに続いて出現したのが石鏃です。小型尖頭器は投槍に、有茎尖頭器は投槍器を用いた槍の切っ先に、石鏃は弓矢に用いられ、これは、大型動物を多数で倒すことから、小型動物を個人で遠くから倒すことへと、狩猟様式が大きく変化したことを反映している、と考えられ、旧石器時代から縄文時代にかけて、日本列島で大型動物が絶滅したり、北方へと去ったりしたことと一致します。この間、上述のように16500年前頃に土器が出現しますが、その理由は確定していません。旧石器時代から縄文時代への変化では定住も重要で、恒常的な住居の痕跡が出現します。縄文時代の開始については、土器の出現を重視する見解もありますが、縄文時代のさまざまな要素が出そろった12000年前頃との見解もあります。

 本書は認知考古学にかなりの分量を割いています。モノの物理的機能を対象にしてきた従来の考古学に対して、認知考古学は心理的機能を重視します。たとえば縄文土器では、その複雑な形や派手な文様は心理的機能によるものと考えられ、時には心理的機能が物理的機能を損なうほどに発達しています。それにより、世界観や物語を強く共有し、社会がまとまっていたのではないか、というわけです。縄文時代後期と晩期には寒冷化による危機を迎え、それが土偶の変化とも関連している、と本書は推測します。

 弥生時代は本格的な農耕、とくに水田稲作の普及により特徴づけられますが、本書は、縄文時代の最後の数百年間に、すでに西日本では弥生土器と同じく心理的機能の薄い土器が作られるようになっていたことに注目します。農耕の本格化により土器が単純で機能本位になる傾向は、世界各地でかなり普遍的に認められます。これは朝鮮半島から西日本に伝わったようですが、東日本への伝播は遅れたようです。弥生時代は、戦争とつながる表象がモノに表現されるようになった点でも、日本列島のヒト進化史において画期的でした。本書はヒト進化史において戦争が始まったのは農耕開始以降で、日本列島では弥生時代以降と指摘します。それ以前は、戦いはあっても規模が小さく、戦うための集団の組織化も不完全というわけです。戦争と関連して、弥生時代にはまず九州北部にクニが出現します。近畿など東方の地域では、九州北部のクニのような強大な勢力はなかなか現れなかったようです。

 弥生時代でも紀元前には、生業と文化に大きな地域差がありましたが、紀元後にはこの多様性が小さくなり、出雲や吉備を中心とした政治勢力が台頭し、広範囲に同じような文化が見られる古墳時代へと移行します。これには、温暖少雨傾向から湿潤多雨傾向への大きな気候変動と、九州北部よりも東方の地域への鉄器普及があったようです。この大きな変動の中で、青銅器を祀る九州北部および近畿と、青銅器の祭祀を排して大きな墓を築造する日本海側の山陰および北陸と瀬戸内海の吉備との競合関係が紀元後2世紀に見られ、それが紀元後3世紀前半には解消し、九州北部と近畿でも青銅器祭祀が廃止され、大きな墓が築造されるようになります。その結果、最大の墓が築造された地域は、吉備や出雲ではなく近畿に移り、近畿が新たな政治的中心地として現れます。その画期となるのが奈良県にある箸墓古墳で、築造年代は250年頃と推定されています。箸墓古墳の規模は、それ以前の墓と比較して突出していました。この頃、箸墓古墳の一帯には大規模な集落が出現します(纏向遺跡)。纏向遺跡ほどではなくとも、この頃には九州北部(比恵・那珂遺跡)や千葉県市原市(国分寺台遺跡群)で大規模な集落が建設されました。

 こうして日本列島の大半で古墳が築造される古墳時代へと移行しますが、古墳のような記念碑的巨大建造物により社会を統合することは、エジプトのピラミッドやブリテン島のストーンヘンジなど、世界の多くの地域で見られます。古墳時代において最大の古墳は大阪府の大仙古墳(伝仁徳天皇陵)ですが、当時の日本には、大仙古墳と同等以上の規模のギザのピラミッドや始皇帝陵を築いた古代政権ほどの後半で強力な政権はなかったようです。日本列島の古墳の起源はユーラシア中央部にあり、同様の墳墓はユーラシアで広く見られますが、日本列島の古墳がとくに巨大化した理由として、相対的に低い技術のため「質より量」で威信を示す必要があった、と本書は指摘します。また本書は、日本列島の古墳の特徴として、「墳丘構築→埋葬」というユーラシア地域の主流とは逆の築造手順だったことを挙げ、その理由は王が死後に点に上るという思想にあった、と指摘しています。古墳時代において、前期から中期にかけて大型前方後円墳の場所が奈良県から大阪府へと移動し、これが単に王墓の移動なのか、王権交替なのか、議論になっていますが、一元的支配が強化されていったことは確かなようで、それと関連してか男性の優位化も観察されます。古墳時代後期になると、前方後円墳の規模が縮小していきますが、その一因として、横穴式石室の普及が指摘されています。全ての古墳が消滅する前に、まず前方後円墳が廃絶されますが、それは仏教と関係している、と本書は推測します。


参考文献:
松木武彦(2022) 『はじめての考古学』(筑摩書房)

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