シチリア島の古典期ギリシア軍の多様な遺伝的起源
シチリア島の古典期ギリシア軍の多様な遺伝的起源を報告した研究(Reitsema et al., 2022)が公表されました。紀元前千年紀に、交易と植民により地中海のヒトの移動が前例のないほど増加しました。戦争は分断する力とみなされることが多いものの、じっさいには文化的接触のもう一つの触媒です。本論文は、ギリシアのシチリア島の植民地ヒメラ(Himera)の軍のために戦った、紀元前5世紀の兵士からのゲノム規模データを、一般市民の代表、近隣の先住植民地、イタリアとギリシアの現代人96個体とともに報告することにより、古代の戦争の人口統計学的動態への洞察を提供します。残りの標本とは異なり、多くの兵士はヨーロッパ北部とユーラシア草原地帯とコーカサスに祖先の起源がありました。遺伝学と考古学と同位体と歴史学のデータを統合すると、これらの結果は、傭兵が古代ギリシアにおいて顕著な役割を果たした、と例証し、戦争への参加が古典期の世界における大陸規模のヒトの移動にどのように寄与したのか、浮き彫りにします。
●研究史
古典期地中海世界は、交易と植民だけではなく、ギリシア人やフェニキア人などによる拡張戦略に起因する、新たに確立された植民地および交易経路を守る必要性により起きることが多い、政治および軍事的争いによっても媒介される長距離相互作用により特徴づけられます。暴力的紛争は、古代の文献記事の一般的主題で、これら古代社会をより深く理解するには、人口集団の相互作用における軍事活動の役割についての代替的な仮説の検証が重要です。
少なくとも前期青銅器時代(EBA)に始まる物質文化の交換により証明されているように、先史時代のシチリア島と地中海東部との間の関連について、広範な考古学的証拠があります。この初期の接触は、紀元前二千年紀半ば以降のイラン関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素の出現を示す、ゲノムデータにも反映されています(関連記事)。イラン関連祖先系統は、地中海のこの時期までに、さらに東方の地域でのみ検出されていました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。
考古学および文献証拠によると、以前には在来の鉄器時代集団が完全に居住していたシチリア島西海岸の、フェニキア人交易所の設立は、紀元前9世紀に始まり、その後、紀元前8世紀にギリシア人による体系的植民が続きました。ギリシア世界の刊行された古代DNAデータは依然として希薄ですが、エーゲ海地域に居住し、ギリシア現代人の主要な供給源人口集団であることと一致する、時に「ミケーネ人」と呼ばれる後期青銅器時代(LBA)の人々のデータは利用可能です。
紀元前5世紀に居住していたイベリア半島のアンプリアス(Empúries)のギリシア植民地の住民は、LBAエーゲ海地域の人々および在来の人々との明らかな遺伝的つながりを有しており(関連記事)、このLBAエーゲ海地域の遺伝的兆候を有する人々による島の人々への寄与です。しかし、ギリシア植民地における多様な出自の広範な考古学的証拠にも関わらず、地中海全域、とくにシチリア島のそれを超えて、遺伝的多様性を評価するための遺伝的データはほとんど存在しません。
ヒメラは、イオニアとドーリアのギリシア人により紀元前648年頃に設立された植民地でした(図1)。ヒメラには、在来のシチリア人やカルタゴ人やエトルリア人も居住していた可能性が高そうです。それは、これらの集団間の相互作用が、セリヌンテ(Selinunte)などギリシア人植民地でよく記録されているからです。ヒメラはシチリア島北部における最西端のギリシア人植民地で(セリヌンテが南方にあるので)、在来のシチリア人およびカルタゴ人植民地に隣接していました。
古代の著述家は、ギリシア人とカルタゴ人との間で紀元前480年と紀元前409年に起きた2回の戦いを記述しており、ヒメラの西方のネクロポリス(大規模共同墓地)で出土した成人男性を含む集団墓地は、この2回の戦いで死んだ兵士を含んでいる、と考えられています。文献によると、ヒメラはシラクサとアグリジェント(Agrigento)のギリシアの同盟国の送った救援軍のため、紀元前480年の戦いに勝ったものの、助けを借りなかった紀元前409年の戦いでは負けました。紀元前409年の敗北後、ヒメラは破壊され、自治都市国家(ポリス)としての機能を停止しました。以下は本論文の図1です。
古代および古典期のギリシア軍はよく、おもに重装歩兵で構成されている、と理解されています。重装歩兵は自己負担のギリシア市民兵で、重い鎧を着用し、そのポリスと同盟植民地を守りました。ギリシア軍における傭兵の役割は古代の歴史家により軽視されることが多く、傭兵は英雄的なギリシアの重装歩兵よりも劣っている、とよくみなされます。ギリシア世界における傭兵の雇用は通常、必要に応じて商品や事業や軍事援助の国際的交換を確立した、貴族間の関係を通じてもたらされました。ギリシア本土の古典期には、これらの関係は、紀元前4世紀のアテナイの傭兵の台頭など政治的紛争の時期を除いて、より大きなポリス間の国際的関係によりほぼ包摂されました。傭兵は、ギリシア本土とシチリア島の両方で、僭主の護衛としても雇われました。ギリシア軍の傭兵の役割はさほど明確ではありませんが、カルタゴなどは傭兵軍を用いることがよくあり、シチリア島のギリシアの僭主も同様だった可能性が高そうです。
最近、集団墓地のストロンチウムおよび酸素同位体の証拠が、紀元前480年の戦いと関連する集団墓地の多数の非地元民と、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地におけるほぼ地元民を明らかにすることにより、歴史的記述を裏づけました。重要なことに、同位体の証拠から、紀元前480年の戦いの非地元民兵士の多くは、シチリア島よりもさらに遠くに起源がある、と示唆されます。これは、シチリア島の他地域のギリシアの同盟国のみを記述した古代の歴史家とは対照的で、一般的に評価されているよりも大きな、ギリシア軍における傭兵の役割の可能性を浮き彫りにします。
同位体分析は、人々が生涯に旅をしたのかどうかについての情報を提供しますが、遺伝的データは、人々の祖先の地理的起源の可能性を明らかにすることにより、補完的証拠を提供します。本論文は、ヒメラの戦いと関連する個体と、ヒメラの一般市民から合計33個体と、シチリア島の在来のシカニ(Sicani)文化と関連する近隣の2ヶ所の植民地の21個体のゲノム規模データを分析し、紀元前千年紀のシチリア島住民の遺伝的祖先系統への洞察と、古代地中海での人口集団の相互作用における古代の紛争の役割評価のための追加のデータ点を提供します。
●標本
約120万ヶ所の一塩基多型(SNP)が濃縮されました。標準的な品質基準で選別し、少なくとも1万ヶ所を網羅するSNPの切断を用いて、紀元前480年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された16個体、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された5個体、ヒメラの西ネクロポリスに埋葬された一般市民に分類される11個体、東ネクロポリスに埋葬された一般市民に分類される1個体が保持されました。全ての兵士は遺伝的に男性と性別分類されますが、市民のうち7個体は男性、他の5個体は女性と遺伝的に性別分類されます。
鉄器時代(IA)となる紀元前9世紀~紀元前8世紀のポリッツェッロ(Polizzello)遺跡の19個体と、紀元前6世紀~紀元前5世紀となるバウチーナ(Baucina)のモンテ・ファルコーネ(Monte Falcone)遺跡の男女両方を表す2個体が、分析されました。ポリッツェッロ遺跡では、2親等の1組が検出されました。全体的に、新たなデータセットの標本の平均網羅率は、常染色体の標的SNPでは0.011~4.298倍で、網羅されたSNPは11393~905741ヶ所です。これら新たな古代人の文脈化のため、ヒト起源(HO)SNP一式で、イタリアとギリシアとクレタ島の現代人96個体について新たな遺伝子型決定データが生成されました。
64の多様なユーラシア西部およびアフリカ北部人口集団の刊行された現代の985個体とともに、新たに生成されたHOデータで主成分(PC)が計算され(図2A)、古代の新たな個体群と刊行された個体群が最初の2主成分に投影されました。以前に報告されたように、ユーラシア西部現代人は第一主成分で分離する2つの並行する勾配を形成し、これはヨーロッパの人口集団を近東およびコーカサスの人口集団と区別しますが、第二主成分は人口集団の南北の地理的分布を大まかに反映しています。現代のエーゲ海とバルカン半島の人口集団は、2つの並行する勾配間の空間を占めており、遺伝的および地理的架け橋を形成します。以下は本論文の図2です。
本論文で新たに報告された現代人1900個体と古代人2453個体を含む世界規模の一式で、教師なしADMIXTUREが、K(系統構成要素数)=2~15クラスタ(まとまり)で実行され、ヨーロッパ人の3つの主要な祖先系統構成要素、つまり、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)および初期ヨーロッパ農耕民(EEF)およびコーカサス狩猟採集民(CHG)と関連する遺伝的クラスタを区別する最小のKは6と示されます(図2B)。低網羅率標本の95%信頼区間楕円を考慮し、現代人の世界規模およびユーラシア一式上で主成分を考慮しても安定したままで、ADMIXTURE分析におけるさまざまな構成要素の割合と相関する主成分空間で、明確なクラスタへとほとんどの個体が分離される、と観察されます。これらの遺伝的クラスタは対でのqpWave分析で確証され、その遺伝的クラスタと年代および考古学的文脈にしたがった個体群が分類され、集団および個体ごとにその後の祖先系統モデル化が行なわれます。
●ヒメラおよびその周辺地域の一般市民
IAシチリア島人(シチリア_IA)はシカニ文化と関連しており、ヒメラ遺跡で発掘された個体群のほとんどとは異なる均質なクラスタを形成する、と分かりました。シチリア_IAはそれ以前の中期および後期青銅器時代シチリア島人(シチリア_MBAおよびシチリア_LBA、図2A)により占められている主成分空間に収まり、ADMIXTURE 分析においてWHG(青色)とCHG(緑色)とEEF(橙色)で最大化される遺伝的構成要素の類似した均質な割合を示します(図2B)。
qpAdmを使用すると、シチリア_IAはヨーロッパの遺伝的構成要素に寄与した遠位4供給源の混合としてモデル化できます。それは、トルコのバルシン(Barcin)遺跡個体に代表されるアナトリア半島北西部新石器時代(N)農耕民(トルコ_バルシン_N)が76.4±1.2%、WHGが6.4±1.0%、ザグロス地域中央部のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡に代表される初期イラン農耕民(イラン_ガンジュダレー_N)が6.3±1.5%、ロシアのサマラ(Samara)遺跡個体に代表されるヤムナヤ文化複合と関連するEBA草原地帯牧畜民(ロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤ)が10.9±1.6%で、イラン関連混合なしで最良にモデル化できる先行するLBAシチリア島集団と比較して、イラン関連混合の増加が示唆されます。
より近位の青銅器時代(BA)から鉄器時代(IA)の祖先系統供給源を用いたモデルは、一方では在来のシチリア島供給源(シチリア_LBAかシチリア_LBA_ I10371かシチリア_MBA)が57.1~98.7%と、他方ではイタリア半島の鉄器時代~共和政期(イタリア_IA_共和政・.SG)かスペイン_BAかスペイン_IAかアルメニア_LBA.SGかバルカン_IAの1.3~42.9%との間の2方向混合で却下されません。これは、シチリア_IA人口集団がこれまでに標本抽出されたシチリア島のBA住民と完全には連続的ではなく、代わりに恐らくはシチリア島外の可能性が最も高い他の人口集団からいくぶんの遺伝子流動を受け取った、と示唆します。要注意なのは、BAシチリア島では15個体しか刊行データがなく、標本抽出されていないシチリア島のいくつかの人口集団が遺伝的に後の集団とより連続的である、という可能性が残っていることです。
スペイン_IAとの関連の可能性は興味深く、それは、EBAの要塞における構造的類似性が、シラクサの近くのカステルッチオ(Castelluccio)遺跡で記載されており、鐘状ビーカー(Bell Beaker)のような人工遺物がパレルモの近くのBA遺跡群で発見されてきたからです。イベリア半島からシチリア島に琥珀がもたらされたことは、それ以前にはなかったとしても、少なくとも紀元前3世紀には記録されています。さらに、横方向に尖った軸がシチリア島で発見されており、これはイベリア半島の冶金伝統に由来する可能性が高く、広範な地中海交易網を示唆しています。しかし、1999年に刊行された本では、「シチリア島のビーカーはスペイン様式に由来している、と提案されてきたものの(中略)、じっさいの輸入を表している確実な証拠はなく、近年ではイタリア半島北部の発見が増え、その形態について今ではヨーロッパ中央部起源の可能性が高そうなので、イベリア半島との直接的な関係の事例は、以前ほど説得力はありません」と指摘されています。
おそらくは後に失われた情報源を利用可能だった古代の歴史家も、イベリア半島との関係の可能性を論じました。トゥキュディデスはシカニ人について、シチリア島の先住民ではなく、イベリア半島からの入植者だった、と記述しました。ディオドロス・シクロスはこの主張に同意せず、代わりにシカニ人をシチリア島の最初の住民と名づけました。もちろん、古代の歴史家の記述は、入植など実際の事象の数百年あるいは数千年後に書かれており、直接的証拠として採用すべきではなく、検証は重要であるものの、事実にはまったく基づいていないかもしれない、より古い口述史の表現としてのみ採用すべきです。本論文の結果は両方のシナリオを暫定的に裏づけますが、シカニ人がイベリア半島人のみの子孫であるか、他の非シチリア島人口集団の子孫である可能性は低そうです。
いくつかの局所的な遺伝的連続性の一連の証拠の一つは、Y染色体ハプログループ(YHg)G2a2b2a1a1c1a1(Z1903)の排他的存在です。この系統はMBAとLBAのシチリア島住民ですでに見つかっており、その他には、イベリア半島を含めて先史時代か初期歴史時代には報告されていません。男性1個体は、祖先系統のイベリア半島供給源を反映しているかもしれないYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)に固有の下位系統R-FT40455に分類され、それは、この系統が他のどの地域よりもBA以降のイベリア半島で一般的だからです。YHg-R1b1a1b1a1a2aはシチリア島のEBAの個体群でも観察されてきたので、シカニ文化の時期にまで持続したかもしれません。シチリア_IAと先行するBA個体群で全体的な低水準の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が観察され、族内婚慣行の証拠を提供せず、大きな有効人口規模を示します。
ヒメラにおける個体の時間的情報特定のための埋葬含有物の分析が依然として進行中なので、紀元前6世紀~紀元前5世紀に使用され、遺跡全体にまたがっている可能性がある、ヒメラの西ネクロポリスの単一墓から発掘された市民を表している、と考えられる11個体が分析されました。3個体のみが、形式的統計の実行に充分な網羅率(少なくとも5万ヶ所のSNP)を有していますが、全個体は主成分分析(PCA)とADMIXTUREでは広く地中海中央部および東部の遺伝的特性と一致します(図2)。
高網羅率の3個体のうち、I20166/W3182とI20168/W3702は両方、ギリシア_LBAとクレード化します(まとまります)。個体I20163/W1838は異なるようで、その祖先系統は、在来のシチリア島のMBAかLBAかIAの供給源(38~55%)と、サルデーニャ島のカルタゴの個体群と密接に関連する集団(45~62%)の寄与を含む最高のP値でモデル化されます。サルデーニャ島のカルタゴの個体群は、アフリカ北部祖先系統か、あるいはシチリア_IA祖先系統87.6±3.1%と、完全にアフリカ北部祖先系統を有する銅器時代サルデーニャ島の遺伝的外れ値に代表される集団に由来する祖先系統12.4±3.1%を有しています。
ADMIXTUREで分析できた8個体のうち4個体が、アフリカ人で最大化される遺伝的構成要素を低い割合(2.2~3.8%)で有していた、と分析できることは注目に値します。このアフリカ人で最大化される遺伝的構成要素は、本論文で対象とされたシチリア島の他の個体では同じ程度では見つからないものの、カルタゴとレヴァントの個体群では見られ、同じ個体群は世界規模のPCAではレヴァント集団に向かって動いています。一般市民の網羅率が低いことを考慮すると、集団内分散の比較と最初の2主成分上の重心距離はそれにも関わらず、市民標本が以下に示されるように、ヒメラの両方の戦いの兵士の集団、つまりシチリア_ヒメラ_紀元前480年およびシチリア_ヒメラ_紀元前409年と重複する、と示唆します。しかし、ヒメラの市民個体群は兵士よりも遺伝的に多様で、兵士の祖先系統の大半はエーゲ海地域人口集団に由来し、おそらくはギリシア人入植者かその子孫を表しています。このより大きな遺伝的多様性は、市民個体群のより低い網羅率により単純には説明できない可能性が高そうです。
理想的には、ヒメラにおける埋葬状況のより広範な多様性からのより大きな標本規模が、分析された個体がより多様な市民集団の遺伝的に階層化された部分集合を表しているのかどうか、検証するのに必要でしょう。ギリシア人植民地は、文化的および遺伝的に多様な人々の出会いの場でした。ギリシアのポリス(独立した都市)とアポイキア(植民地)に暮らしていた人々は、ギリシア本土とギリシア諸島に祖先がある人を含んでいただけではなく、植民地の後背地の人々とフェニキア人やエトルリア人など他の文化集団の構成員も含んでおり、それは本論文で観察される兆候を説明できるでしょう。とくにヒメラは、近隣のカルタゴ人植民地に近く、ヒメラの僭主テリルス(Terillus)がカルタゴと同盟を結んでいたため、フェニキア人との強い結びつきを有していたかもしれません。
紀元前7世紀~紀元前5世紀に使用されていたヒメラの東ネクロポリスに埋葬されていた1個体は、植民地の民衆への地元民の取り込みを直接的に証明し、それは、この個体がqpAdmでは同時代のシチリア_IA集団に祖先系統が由来するものとして最良にモデル化されるからです。社会的階層化の可能性は、埋葬遺跡との関連が提案されてきており、それは、東ネクロポリスに埋葬された個体群が西ネクロポリス個体群より低い炭素13および窒素15値と骨格病状の高い割合を示し、資源への異なる利用可能性が示唆されるからです。しかし、標本数が限定的であるため、そうした顕著な階層化が遺伝的祖先系統に関して存在したのかどうか、検証できません。
●紀元前480年の戦いのヒメラの兵士における多様な祖先系統
戦いと関連していたほとんどのヒメラ人は、PCAではギリシア_LBAの個体群とクラスタ化すると分かり、ヒメラの軍隊におけるおもにギリシア祖先系統の個体群の大きな寄与、およびギリシアのLBAとシチリア島の紀元前5世紀のギリシア人植民地との間のかなりの遺伝的連続性と一致します。少なくとも一部のギリシア人祖先系統を有するこれらの兵士は、植民地の住民であるか、シラクサなど他の植民地からの援軍だったかもしれません。紀元前480年の戦いの兵士16人のうち7人(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_1)と紀元前409年の戦いの兵士のうち5人全員(シチリア_ヒメラ_紀元前409年)は、この主要な遺伝的クラスタの一部です。
qpWave/qpAdmを使用すると、これら2集団の兵士はそれぞれ、その祖先系統がギリシア_LBAと関連する集団に100%由来するか、シチリア_LBAもしくはシチリア_IA供給源とエーゲ海地域供給源のさまざまな割合での混合に由来するものとしてモデル化でき、多くの兵士(および紀元前409年の戦いの兵士全員)はおそらく、シチリア島のギリシア人入植者の子孫で、ギリシア人と在来のシチリア人との間の族間婚が行なわれていた、と示唆されます。この遺伝的証拠は、シチリア島のギリシア人植民地の社会的慣行の理解に証拠を追加します。なぜならば、ギリシア人植民地におけるシチリア島のモノの存在は、族間婚ではなく交易を表しているかもしれない、という事実のため、族間婚の検出は考古学的に困難だからです。遺伝的データも、考古学的に視覚化されないかもしれない情報を提供します。なぜならば、個体はどの埋葬伝統とモノを死体埋葬時に採用するのか決定する力を有しており、これらの考古学的な帰属標識と、個体が自身の帰属意識をどう見ていたかは、遺伝的祖先系統と一致する場合もそうではない場合もあるからです。
地元民とヒメラのギリシア人入植者との間の結婚を超えて、人口集団の構成が、紀元前476年のアグリジェント(Agrigento)の僭主テロン(Theron)による政治的乗っ取り後の、ドーリア人の大規模な流入にも影響を受けていたかもしれない可能性を検証することは重要です。この期間にヒメラの何千人もの住民が殺害されました。しかし、この時点での分析に利用可能な標本規模が限定的で、ドーリア人の文脈からの比較データが欠如しており、この仮説を検証できません。いずれにしても、兵士の両集団は在来のシチリア人との混合において不均一で、各個体のさまざまな遺伝的歴史が示唆されます。有意な遺伝的差異が存在する、と確信的に記載できますが、この時期のシチリア島のギリシア民族に含まれる遺伝的差異の分布を適切に特徴づけるには、利用可能な標本規模より大きいものが必要でしょう。
紀元前480年の戦いの兵士では、最初の集団(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_1)と一致しない遺伝的祖先系統を有する9個体(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2)が見つかり(図2)、より高い網羅率の個体で祖先系統モデルが検証されました。シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2は、PCAでは主要クラスタとヨーロッパ中央部個体群との間に収まる、中心を離れた2個体(I10946/W1771とI10950/W814)で構成され、これはADMIXTUREにおいてWHG遺伝的クラスタの相対的により高い割合によっても示唆される区別です。qpAdmでの広範なあり得るBAおよびIA供給源を検証すると、祖先系統の有効なモデルは、地中海中央部もしくは東部集団(シチリア島かエーゲ海地域かバルカン半島)と関連する供給源と、ヨーロッパ西部集団(フランスかスペインかチェコかハンガリー)と関連する供給源の混合で構成されます。バルカン半島人の遺伝的起源は、バルカン半島において現在の最高頻度となるYHg-E1b1b1a1b1a(V13)により示唆されています。
2個体(I10943/W0396とI10949/W0403)はシチリア_ヒメラ_紀元前480年_3として分類され、ヨーロッパ北東部集団および紀元前千年紀のバルト海地域東部集団とともに位置し、リトアニアのBA個体群のみを代理供給源として用いてモデル化できます。低網羅率の1個体(I17870/W0336)は、PCAおよびADMIXTUREから推測される主要な祖先系統クラスタとの関連の両方で(図2)、シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2とシチリア_ヒメラ_紀元前480年_3との中間に収まります。
2個体(I10944/W0461とI10947/W1774)はシチリア_ヒメラ_紀元前480年_4と分類され、ユーラシア草原地帯の遊牧民の文脈の個体群に収まり、ADMIXTURE分析では、ほとんどのIA草原地帯牧畜民を特徴づける、漢人とブラジル先住民のカリティアナ人(Karitiana)で最大化される遺伝的構成要素(それぞれ薄緑色と紫色)を有しています。qpAdmではその祖先系統は一致しており、IA草原地帯中央部遊牧民に由来する85~89%と、エーゲ海地域的供給源に由来する11~15%で、これは恐らく、草原地帯の遺伝的に多様な人口集団間で起きた可能性がある混合です(関連記事)。そのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、ユーラシア東部の遺伝的起源を示唆しており、mtHg-A6aはこれまで現代の中国でしか見つかっておらず、mtHg-N1a1a1aはロシアとカザフスタンとモンゴルに限られています。
最後に、シチリア_ヒメラ_紀元前480年_5と分類される外れ値1個体(I10951/W0653)は現代のコーカサス人口集団に位置し、PCAでは古代の草原地帯個体群とコーカサス個体群との中間に収まり、ADMIXTUREではCHG構成要素を最高の割合で有しています(図2)。供給源としてアルメニア_MBAと密接に関連する集団との単一方向モデルが、データに適合します。同様に、第二の低網羅率個体(I17872/W0428)はPCAではコーカサスの人口集団の最も近くに位置します(図2A)。
古代人集団との外群f3統計は、qpAdmで推定された遠位祖先系統の割合のように、遺伝区的類似性の同じ一般的パターンを反映しています。これらシチリア_ヒメラ_紀元前480年の集団は、トルコ_バルシン_NとWHGとイラン_ガンジュダレー_N/CHGとロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤと関連する集団からの祖先系統の、さまざまな割合に由来するものとして全てモデル化でき、例外はシベリア祖先系統の追加が必要なシチリア_ヒメラ_紀元前480年_4だけです。
●同位体証拠の統合は紀元前480年の戦いにおける傭兵の存在を裏づけます
ある個人の遺伝的構成は、その祖先の起源への洞察を提供しますが、最近もしくは何世代もさかのぼるかどうかに関わらず、その個人が生まれたか育った地理的地域についての情報を提供しません。ストロンチウムと酸素の同位体比は、個人の歯もしくは骨の形跡期の居住地の場所の局所的な地質と水文を反映しており、生涯における個人の移動性についての情報を提供します。したがって、遺伝的および同位体情報は、ヒトの移動性と生活史についての補完的情報を提供します。
遺伝的歴史の多様性が、先行研究でヒメラの個体群の歯から集められたストロンチウムおよび酸素同位体データと相関させられました。市民の標本の全個体については、紀元前409年の戦いの個体全員と、紀元前480年の墓の個体のほとんど(7個体のうち5個体)がエーゲ海地域関連と判断され、ストロンチウム同位体比は地元起源と一致します。対照的に、おもにヨーロッパ中央部・北東部およびユーラシア草原地帯およびアルメニアとの遺伝的類似性を有する紀元前480年の戦いの兵士は全員、同位体は地元ではありませんでした(図3)。
数人の低い酸素同位体比は、ヒメラよりも、高緯度で、標高が高く、寒冷な気候で、降水量が多く、沿岸から遠い地域に特徴的で、数人の高いストロンチウム同位体比は、ヒメラよりも古い下層の岩石と土壌を示唆します。中心から離れた同位体データ自体は、ヒメラの個体群の非シチリア島起源を証明しません。両同位体の類似の中心から離れた比率は、ヒメラの近隣では見つからないにしても、シチリア島の他地域でも見つけられます。しかし、中心から離れた遺伝的特性を有する9個体全員も外部の同位体特性を示す、遺伝的証拠と同位体証拠との間の一致は、紀元前480年の戦いに加わった多くの兵士が、既知のギリシア世界の遠い地域から来た、という説得力のある証拠を提供します。
これらの調査結果は、紀元前409年の戦いで死亡した遺伝的に均質な標本抽出された個体群とは異なり、紀元前480年の戦いの兵士の起源はより多様だった、という可能性を示唆します。これは、紀元前480年のギリシア軍には、ギリシアと他の文化的背景の傭兵もしくは給与支給の兵士が含まれていた、という解釈を裏づけます。ギリシア人植民地と他のポリスは両方、傭兵を雇い、市民に基づく重装歩兵軍を支援しました。カルタゴ軍は傭兵を用いることが多かった、とよく記録されており、シチリア島のギリシア人僭主も同じことをした可能性が高そうです。
古代の歴史家は紀元前480年にヒメラのために戦った傭兵について具体的に言及していませんが、シラクサの僭主ゲロン(Gelon)は軍隊を作り上げるために外国の傭兵を多数集めた、と述べています。これらの兵士はおそらく、ヒメラを守るために派遣された救援軍にいたのでしょう。シチリア島は傭兵にとってとくに魅力的な目的地で、それは、シチリア島の多くのギリシア人ポリスが、傭兵軍創設に必要な富を引き出すことができ、通常はその支配維持のための護衛を必要とする僭主により支配されていたからです。一部の傭兵は世評によると、スキタイの射手やトラキアの軽装歩兵など、特定の技能で有名な地域から募集されていました。
したがって、遺伝的多様性がヒメラの市民の標本を超えている紀元前480年の戦いの兵士は、ヒメラのポリスからのみの徴兵を反映していなかった可能性が高く、遺伝的データと同位体データの組み合わせから、そうした兵士はシチリア島自体からずっと遠くで生まれ育った、と示唆されます。対照的に、地元起源とほぼ一致する同位体痕跡と、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された成人男性個体群の遺伝的類似性は、歴史的記述を裏づけ、傭兵もしくは同盟国からの援助がなく、ヒメラの一般市民から徴募された軍隊の戦いを示唆しています。歴史的記述によると、シラクサのギリシア人は当初、紀元前409年にヒメラ支援のため派遣されたものの、最終的にはシラクサを守るため引き返し、ヒメラは自国の市民に依拠して自立することになりました。しかし、紀元前409年の戦いの兵士についてはわずか5個体の遺伝的データしかないので、非エーゲ海地域の遺伝的起源の個体の欠如が統計的に有意なのかどうか確証するには、追加のデータが必要でしょう。
●帰属標識と埋葬の扱い
紀元前480年の戦いと関連する4ヶ所の集団墓地間には、遺伝的類似性にパターンがあります。エーゲ海地域遺伝的クラスタ外に位置する全兵士は集団墓地1~4号に埋葬されていますが、集団墓地5~7号の全個体はエーゲ海地域遺伝的クラスタ内に収まり、統計的に有意差があります(図3)。この結果は、集団墓地1~4号に埋葬されたより多くの非地元民を示す、ストロンチウム同位体証拠を反映しています。集団墓地1~4号と集団墓地5~7号は空間的に分離し、規模が異なっており、集団墓地1~4号はずっと多くの埋葬で構成されています。個体の埋葬場所とその遺伝的祖先系統との相関は、同じ集団墓地における類似の祖先背景の兵士の意図的な配置を示唆しており、この社会の埋葬決定における帰属の重要性を反映しています。以下は本論文の図3です。
これらの結果から、集団墓地5~7号の個体は、その個体を埋葬した生存者の間でより大きな威信を有している、と示唆され、これは埋葬状況に基づく以前の主張と一致します。集団墓地5~7号に埋葬された個体(平均年齢45.0歳)は、集団墓地1~4号に埋葬された個体(平均年齢29.6歳)よりずっと年長で、集団墓地1~4号の事例、もしくは急いで埋葬された集団墓地8・9号の事例のように、引きずられた痕跡を示しません。さらに、集団墓地5・6号の個体には、紀元前480年の他の集団墓地とは異なり、副葬品が含まれます。これらの個体もエーゲ海地域遺伝的クラスタ内に収まる事実は、死亡した兵士の埋葬に責任のある個体により認識されているように、エーゲ海地域祖先系統と威信との間のつながりを示唆します。
古代ギリシア世界における民族性の構築は、おもに共通の子孫と祖国の問題でしたが、言語もしくは物質文化のような、文化的特徴によっても知らされていました。本論文のデータから、紀元前480年の戦いの死者を埋葬した生存者は、死者の敬意ある扱いのための社会的論理の一部として、社会的出自の情報を組み込んだ、と示されます。「外国」祖先系統を有する個体は、全員が同位体証拠に基づいて非地元民と識別され、集団墓地1~4号に埋葬され、他のギリシアの人口集団との遺伝的類似性を有する個体は、より小さな集団墓地5~7号に埋葬されました。それにも関わらず、非地元民が「他者」の均質な集団とみなされていたことは、明らかではありません。死者のより特定的な出自が認識され、それに基づいていた可能性があります。たとえば、集団墓地1・2号には、ヨーロッパ北東部祖先系統を有する個体が両方とも含まれています。戦死者の識別は、鎧と武器もしくは表現型の特徴に基づいて、戦死者を知っている生き残った仲間の兵士により行なわれたかもしれません(図3)。
多くの他の兵士は単一の埋葬で埋められたかもしれず、考古学的には兵士として見えません。ヒメラでは、一部の単一埋葬は、死亡時に暴力を受けたことを示唆する、死亡時外傷のある個体を含んでいます。これらの個体は戦いで死に、これらの個体を知る人々により単一の埋葬で埋められたのかもしれません。古典古代に記録されているように、一部の遺体は本国に送還されたかもしれず、シチリア島の他地域では、より遠方の地域よりも本国に送還された可能性が高そうです。本国への送還は、最初に遺体を火葬することにより達成されたでしょう。ヒメラでは、火葬は一般的に行なわれていました。
●考察
これらの結果は、地理的に異なる場所に由来する不均質な祖先系統に反映されているように、植民地が移住をどのように促進したのか、浮き彫りにします。さらに、この結果は、武力紛争が古典古代における多様な人口集団間の接触機序としてどのように機能したのか、示します。すでに高度に接続された地域では、ギリシアの戦争は大陸規模でヒトの移動を促進し、移住はさまざまな規模で起き、人々の小規模な移動や集団の大規模な移動や古代の過程としての世界化が含まれていた、と強調する学問を豊かにして裏づける、新たな一連の証拠を提供します。
古代ギリシア世界において戦争と関連する移住の多くは、他の文脈で記録されてきたように、市民兵士の定期的で小規模な移動だったかもしれません。しかし、本論文の調査結果は、戦争と傭兵の関与が古代ギリシア世界の個体の大規模な移動に重要な役割を果たしたかもしれない、という提案を支持します。ギリシアの傭兵の戦争は、考古学および歴史学の焦点でしたが、フェニキア人の状況における民族統合力としての戦争と傭兵の関与の重要性が認識されていたにも関わらず、文化的交換と遺伝子流動の媒介として議論されることは稀でした。
商人や入植者や奴隷のように、傭兵は地中海地域における文化伝達に役割を果たしました。交易と植民地化が地中海地域の共同体を個人対個人の相互作用で結びつましたが、広範な地理的空間にわたる商品の交換は移住を必要とせず、代わりに仲介者(つまり商人)を介して達成できました。傭兵はギリシア世界で最も長い距離を旅した人々で(おそらくは奴隷に匹敵します)、広く異なる文化的および遺伝的背景の人々を対面させました。移動性についての遺伝的および同位体証拠を統合すると、移動の時間規模が明確になり、シチリア島への第一世代の移住が示唆されます。ギリシアの僭主に仕え、ギリシアの戦争に加わる経済的機会により、バルカン半島やガリアやゲルマニアなどヨーロッパの遠方地域から、地中海地域、とくにシチリア島に引き寄せられた傭兵は、ギリシアのポリスにおける単なる遍歴の「部外者」ではありませんでした。
傭兵は、商人や入植者のように、傭兵を外国文化に深く埋め込み、文化的交換の強力な潜在的行為者とした、地元の共同体で暮らすことが多くありました。歴史的証拠は、傭兵が市民として参政権を与えられるようになり、ギリシアのポリスの政治的・文化的・遺伝的構造に統合されるようになった事例を示唆します。ディオドロス・シクロスは、シラクサの僭主であるゲロンが雇った7000人の外国人傭兵について記述しており、その傭兵の一部は紀元前480年の戦いに加わり、紀元前466年に市民権を与えられました。ギリシア人入植者と彼らが遭遇した先住民に加えて、傭兵は紀元前千年紀のギリシアのポリスで起きた文化と着想とおそらくは遺伝子の交換の一部で、時には、ヒメラの2回の戦いの異なる結果が示すように、ギリシア軍の勝利を確保するうえで重要な役割を果たしたかもしれません。
ヒメラにおける外国人兵士の歴史的に文脈化された遺伝的および同位体証拠は、不均質性と、ヨーロッパと中東と世界の他地域のIAおよびIA後の社会を特徴づける、進化する複雑性の別の指標です。古典期ギリシアの傭兵の多様な起源の特定は、植民地の設立などよく記録された人口移動とは別に、専門的な経済もしくは宗教活動と関連する個体の長距離移動の理解に微妙な差異を提供します。遺伝的データが刊行されている古代地中海の遺跡は、入植の種類と機能と歴史的状況の観点ではかなり異なります。ヒメラの集団墓地は、武力紛争を表し、広範な地理的空間にわたる個体の移住の機序としての戦争の証拠を提供する点で、並外れています。遺伝的傾向と、考古学的および歴史的文脈において特有の事例を評価し続けることにより、研究は、複数の分野を組み合わせると、交易や戦争や都市化や崩壊などの傾向の理解を深める可能性がある地域の、一連のさまざまな伝記を解明できるでしょう。
参考文献:
Reitsema LJ. et al.(2022): The diverse genetic origins of a Classical period Greek army. PNAS, 119, 41, e2205272119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2205272119
●研究史
古典期地中海世界は、交易と植民だけではなく、ギリシア人やフェニキア人などによる拡張戦略に起因する、新たに確立された植民地および交易経路を守る必要性により起きることが多い、政治および軍事的争いによっても媒介される長距離相互作用により特徴づけられます。暴力的紛争は、古代の文献記事の一般的主題で、これら古代社会をより深く理解するには、人口集団の相互作用における軍事活動の役割についての代替的な仮説の検証が重要です。
少なくとも前期青銅器時代(EBA)に始まる物質文化の交換により証明されているように、先史時代のシチリア島と地中海東部との間の関連について、広範な考古学的証拠があります。この初期の接触は、紀元前二千年紀半ば以降のイラン関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素の出現を示す、ゲノムデータにも反映されています(関連記事)。イラン関連祖先系統は、地中海のこの時期までに、さらに東方の地域でのみ検出されていました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。
考古学および文献証拠によると、以前には在来の鉄器時代集団が完全に居住していたシチリア島西海岸の、フェニキア人交易所の設立は、紀元前9世紀に始まり、その後、紀元前8世紀にギリシア人による体系的植民が続きました。ギリシア世界の刊行された古代DNAデータは依然として希薄ですが、エーゲ海地域に居住し、ギリシア現代人の主要な供給源人口集団であることと一致する、時に「ミケーネ人」と呼ばれる後期青銅器時代(LBA)の人々のデータは利用可能です。
紀元前5世紀に居住していたイベリア半島のアンプリアス(Empúries)のギリシア植民地の住民は、LBAエーゲ海地域の人々および在来の人々との明らかな遺伝的つながりを有しており(関連記事)、このLBAエーゲ海地域の遺伝的兆候を有する人々による島の人々への寄与です。しかし、ギリシア植民地における多様な出自の広範な考古学的証拠にも関わらず、地中海全域、とくにシチリア島のそれを超えて、遺伝的多様性を評価するための遺伝的データはほとんど存在しません。
ヒメラは、イオニアとドーリアのギリシア人により紀元前648年頃に設立された植民地でした(図1)。ヒメラには、在来のシチリア人やカルタゴ人やエトルリア人も居住していた可能性が高そうです。それは、これらの集団間の相互作用が、セリヌンテ(Selinunte)などギリシア人植民地でよく記録されているからです。ヒメラはシチリア島北部における最西端のギリシア人植民地で(セリヌンテが南方にあるので)、在来のシチリア人およびカルタゴ人植民地に隣接していました。
古代の著述家は、ギリシア人とカルタゴ人との間で紀元前480年と紀元前409年に起きた2回の戦いを記述しており、ヒメラの西方のネクロポリス(大規模共同墓地)で出土した成人男性を含む集団墓地は、この2回の戦いで死んだ兵士を含んでいる、と考えられています。文献によると、ヒメラはシラクサとアグリジェント(Agrigento)のギリシアの同盟国の送った救援軍のため、紀元前480年の戦いに勝ったものの、助けを借りなかった紀元前409年の戦いでは負けました。紀元前409年の敗北後、ヒメラは破壊され、自治都市国家(ポリス)としての機能を停止しました。以下は本論文の図1です。
古代および古典期のギリシア軍はよく、おもに重装歩兵で構成されている、と理解されています。重装歩兵は自己負担のギリシア市民兵で、重い鎧を着用し、そのポリスと同盟植民地を守りました。ギリシア軍における傭兵の役割は古代の歴史家により軽視されることが多く、傭兵は英雄的なギリシアの重装歩兵よりも劣っている、とよくみなされます。ギリシア世界における傭兵の雇用は通常、必要に応じて商品や事業や軍事援助の国際的交換を確立した、貴族間の関係を通じてもたらされました。ギリシア本土の古典期には、これらの関係は、紀元前4世紀のアテナイの傭兵の台頭など政治的紛争の時期を除いて、より大きなポリス間の国際的関係によりほぼ包摂されました。傭兵は、ギリシア本土とシチリア島の両方で、僭主の護衛としても雇われました。ギリシア軍の傭兵の役割はさほど明確ではありませんが、カルタゴなどは傭兵軍を用いることがよくあり、シチリア島のギリシアの僭主も同様だった可能性が高そうです。
最近、集団墓地のストロンチウムおよび酸素同位体の証拠が、紀元前480年の戦いと関連する集団墓地の多数の非地元民と、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地におけるほぼ地元民を明らかにすることにより、歴史的記述を裏づけました。重要なことに、同位体の証拠から、紀元前480年の戦いの非地元民兵士の多くは、シチリア島よりもさらに遠くに起源がある、と示唆されます。これは、シチリア島の他地域のギリシアの同盟国のみを記述した古代の歴史家とは対照的で、一般的に評価されているよりも大きな、ギリシア軍における傭兵の役割の可能性を浮き彫りにします。
同位体分析は、人々が生涯に旅をしたのかどうかについての情報を提供しますが、遺伝的データは、人々の祖先の地理的起源の可能性を明らかにすることにより、補完的証拠を提供します。本論文は、ヒメラの戦いと関連する個体と、ヒメラの一般市民から合計33個体と、シチリア島の在来のシカニ(Sicani)文化と関連する近隣の2ヶ所の植民地の21個体のゲノム規模データを分析し、紀元前千年紀のシチリア島住民の遺伝的祖先系統への洞察と、古代地中海での人口集団の相互作用における古代の紛争の役割評価のための追加のデータ点を提供します。
●標本
約120万ヶ所の一塩基多型(SNP)が濃縮されました。標準的な品質基準で選別し、少なくとも1万ヶ所を網羅するSNPの切断を用いて、紀元前480年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された16個体、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された5個体、ヒメラの西ネクロポリスに埋葬された一般市民に分類される11個体、東ネクロポリスに埋葬された一般市民に分類される1個体が保持されました。全ての兵士は遺伝的に男性と性別分類されますが、市民のうち7個体は男性、他の5個体は女性と遺伝的に性別分類されます。
鉄器時代(IA)となる紀元前9世紀~紀元前8世紀のポリッツェッロ(Polizzello)遺跡の19個体と、紀元前6世紀~紀元前5世紀となるバウチーナ(Baucina)のモンテ・ファルコーネ(Monte Falcone)遺跡の男女両方を表す2個体が、分析されました。ポリッツェッロ遺跡では、2親等の1組が検出されました。全体的に、新たなデータセットの標本の平均網羅率は、常染色体の標的SNPでは0.011~4.298倍で、網羅されたSNPは11393~905741ヶ所です。これら新たな古代人の文脈化のため、ヒト起源(HO)SNP一式で、イタリアとギリシアとクレタ島の現代人96個体について新たな遺伝子型決定データが生成されました。
64の多様なユーラシア西部およびアフリカ北部人口集団の刊行された現代の985個体とともに、新たに生成されたHOデータで主成分(PC)が計算され(図2A)、古代の新たな個体群と刊行された個体群が最初の2主成分に投影されました。以前に報告されたように、ユーラシア西部現代人は第一主成分で分離する2つの並行する勾配を形成し、これはヨーロッパの人口集団を近東およびコーカサスの人口集団と区別しますが、第二主成分は人口集団の南北の地理的分布を大まかに反映しています。現代のエーゲ海とバルカン半島の人口集団は、2つの並行する勾配間の空間を占めており、遺伝的および地理的架け橋を形成します。以下は本論文の図2です。
本論文で新たに報告された現代人1900個体と古代人2453個体を含む世界規模の一式で、教師なしADMIXTUREが、K(系統構成要素数)=2~15クラスタ(まとまり)で実行され、ヨーロッパ人の3つの主要な祖先系統構成要素、つまり、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)および初期ヨーロッパ農耕民(EEF)およびコーカサス狩猟採集民(CHG)と関連する遺伝的クラスタを区別する最小のKは6と示されます(図2B)。低網羅率標本の95%信頼区間楕円を考慮し、現代人の世界規模およびユーラシア一式上で主成分を考慮しても安定したままで、ADMIXTURE分析におけるさまざまな構成要素の割合と相関する主成分空間で、明確なクラスタへとほとんどの個体が分離される、と観察されます。これらの遺伝的クラスタは対でのqpWave分析で確証され、その遺伝的クラスタと年代および考古学的文脈にしたがった個体群が分類され、集団および個体ごとにその後の祖先系統モデル化が行なわれます。
●ヒメラおよびその周辺地域の一般市民
IAシチリア島人(シチリア_IA)はシカニ文化と関連しており、ヒメラ遺跡で発掘された個体群のほとんどとは異なる均質なクラスタを形成する、と分かりました。シチリア_IAはそれ以前の中期および後期青銅器時代シチリア島人(シチリア_MBAおよびシチリア_LBA、図2A)により占められている主成分空間に収まり、ADMIXTURE 分析においてWHG(青色)とCHG(緑色)とEEF(橙色)で最大化される遺伝的構成要素の類似した均質な割合を示します(図2B)。
qpAdmを使用すると、シチリア_IAはヨーロッパの遺伝的構成要素に寄与した遠位4供給源の混合としてモデル化できます。それは、トルコのバルシン(Barcin)遺跡個体に代表されるアナトリア半島北西部新石器時代(N)農耕民(トルコ_バルシン_N)が76.4±1.2%、WHGが6.4±1.0%、ザグロス地域中央部のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡に代表される初期イラン農耕民(イラン_ガンジュダレー_N)が6.3±1.5%、ロシアのサマラ(Samara)遺跡個体に代表されるヤムナヤ文化複合と関連するEBA草原地帯牧畜民(ロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤ)が10.9±1.6%で、イラン関連混合なしで最良にモデル化できる先行するLBAシチリア島集団と比較して、イラン関連混合の増加が示唆されます。
より近位の青銅器時代(BA)から鉄器時代(IA)の祖先系統供給源を用いたモデルは、一方では在来のシチリア島供給源(シチリア_LBAかシチリア_LBA_ I10371かシチリア_MBA)が57.1~98.7%と、他方ではイタリア半島の鉄器時代~共和政期(イタリア_IA_共和政・.SG)かスペイン_BAかスペイン_IAかアルメニア_LBA.SGかバルカン_IAの1.3~42.9%との間の2方向混合で却下されません。これは、シチリア_IA人口集団がこれまでに標本抽出されたシチリア島のBA住民と完全には連続的ではなく、代わりに恐らくはシチリア島外の可能性が最も高い他の人口集団からいくぶんの遺伝子流動を受け取った、と示唆します。要注意なのは、BAシチリア島では15個体しか刊行データがなく、標本抽出されていないシチリア島のいくつかの人口集団が遺伝的に後の集団とより連続的である、という可能性が残っていることです。
スペイン_IAとの関連の可能性は興味深く、それは、EBAの要塞における構造的類似性が、シラクサの近くのカステルッチオ(Castelluccio)遺跡で記載されており、鐘状ビーカー(Bell Beaker)のような人工遺物がパレルモの近くのBA遺跡群で発見されてきたからです。イベリア半島からシチリア島に琥珀がもたらされたことは、それ以前にはなかったとしても、少なくとも紀元前3世紀には記録されています。さらに、横方向に尖った軸がシチリア島で発見されており、これはイベリア半島の冶金伝統に由来する可能性が高く、広範な地中海交易網を示唆しています。しかし、1999年に刊行された本では、「シチリア島のビーカーはスペイン様式に由来している、と提案されてきたものの(中略)、じっさいの輸入を表している確実な証拠はなく、近年ではイタリア半島北部の発見が増え、その形態について今ではヨーロッパ中央部起源の可能性が高そうなので、イベリア半島との直接的な関係の事例は、以前ほど説得力はありません」と指摘されています。
おそらくは後に失われた情報源を利用可能だった古代の歴史家も、イベリア半島との関係の可能性を論じました。トゥキュディデスはシカニ人について、シチリア島の先住民ではなく、イベリア半島からの入植者だった、と記述しました。ディオドロス・シクロスはこの主張に同意せず、代わりにシカニ人をシチリア島の最初の住民と名づけました。もちろん、古代の歴史家の記述は、入植など実際の事象の数百年あるいは数千年後に書かれており、直接的証拠として採用すべきではなく、検証は重要であるものの、事実にはまったく基づいていないかもしれない、より古い口述史の表現としてのみ採用すべきです。本論文の結果は両方のシナリオを暫定的に裏づけますが、シカニ人がイベリア半島人のみの子孫であるか、他の非シチリア島人口集団の子孫である可能性は低そうです。
いくつかの局所的な遺伝的連続性の一連の証拠の一つは、Y染色体ハプログループ(YHg)G2a2b2a1a1c1a1(Z1903)の排他的存在です。この系統はMBAとLBAのシチリア島住民ですでに見つかっており、その他には、イベリア半島を含めて先史時代か初期歴史時代には報告されていません。男性1個体は、祖先系統のイベリア半島供給源を反映しているかもしれないYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)に固有の下位系統R-FT40455に分類され、それは、この系統が他のどの地域よりもBA以降のイベリア半島で一般的だからです。YHg-R1b1a1b1a1a2aはシチリア島のEBAの個体群でも観察されてきたので、シカニ文化の時期にまで持続したかもしれません。シチリア_IAと先行するBA個体群で全体的な低水準の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が観察され、族内婚慣行の証拠を提供せず、大きな有効人口規模を示します。
ヒメラにおける個体の時間的情報特定のための埋葬含有物の分析が依然として進行中なので、紀元前6世紀~紀元前5世紀に使用され、遺跡全体にまたがっている可能性がある、ヒメラの西ネクロポリスの単一墓から発掘された市民を表している、と考えられる11個体が分析されました。3個体のみが、形式的統計の実行に充分な網羅率(少なくとも5万ヶ所のSNP)を有していますが、全個体は主成分分析(PCA)とADMIXTUREでは広く地中海中央部および東部の遺伝的特性と一致します(図2)。
高網羅率の3個体のうち、I20166/W3182とI20168/W3702は両方、ギリシア_LBAとクレード化します(まとまります)。個体I20163/W1838は異なるようで、その祖先系統は、在来のシチリア島のMBAかLBAかIAの供給源(38~55%)と、サルデーニャ島のカルタゴの個体群と密接に関連する集団(45~62%)の寄与を含む最高のP値でモデル化されます。サルデーニャ島のカルタゴの個体群は、アフリカ北部祖先系統か、あるいはシチリア_IA祖先系統87.6±3.1%と、完全にアフリカ北部祖先系統を有する銅器時代サルデーニャ島の遺伝的外れ値に代表される集団に由来する祖先系統12.4±3.1%を有しています。
ADMIXTUREで分析できた8個体のうち4個体が、アフリカ人で最大化される遺伝的構成要素を低い割合(2.2~3.8%)で有していた、と分析できることは注目に値します。このアフリカ人で最大化される遺伝的構成要素は、本論文で対象とされたシチリア島の他の個体では同じ程度では見つからないものの、カルタゴとレヴァントの個体群では見られ、同じ個体群は世界規模のPCAではレヴァント集団に向かって動いています。一般市民の網羅率が低いことを考慮すると、集団内分散の比較と最初の2主成分上の重心距離はそれにも関わらず、市民標本が以下に示されるように、ヒメラの両方の戦いの兵士の集団、つまりシチリア_ヒメラ_紀元前480年およびシチリア_ヒメラ_紀元前409年と重複する、と示唆します。しかし、ヒメラの市民個体群は兵士よりも遺伝的に多様で、兵士の祖先系統の大半はエーゲ海地域人口集団に由来し、おそらくはギリシア人入植者かその子孫を表しています。このより大きな遺伝的多様性は、市民個体群のより低い網羅率により単純には説明できない可能性が高そうです。
理想的には、ヒメラにおける埋葬状況のより広範な多様性からのより大きな標本規模が、分析された個体がより多様な市民集団の遺伝的に階層化された部分集合を表しているのかどうか、検証するのに必要でしょう。ギリシア人植民地は、文化的および遺伝的に多様な人々の出会いの場でした。ギリシアのポリス(独立した都市)とアポイキア(植民地)に暮らしていた人々は、ギリシア本土とギリシア諸島に祖先がある人を含んでいただけではなく、植民地の後背地の人々とフェニキア人やエトルリア人など他の文化集団の構成員も含んでおり、それは本論文で観察される兆候を説明できるでしょう。とくにヒメラは、近隣のカルタゴ人植民地に近く、ヒメラの僭主テリルス(Terillus)がカルタゴと同盟を結んでいたため、フェニキア人との強い結びつきを有していたかもしれません。
紀元前7世紀~紀元前5世紀に使用されていたヒメラの東ネクロポリスに埋葬されていた1個体は、植民地の民衆への地元民の取り込みを直接的に証明し、それは、この個体がqpAdmでは同時代のシチリア_IA集団に祖先系統が由来するものとして最良にモデル化されるからです。社会的階層化の可能性は、埋葬遺跡との関連が提案されてきており、それは、東ネクロポリスに埋葬された個体群が西ネクロポリス個体群より低い炭素13および窒素15値と骨格病状の高い割合を示し、資源への異なる利用可能性が示唆されるからです。しかし、標本数が限定的であるため、そうした顕著な階層化が遺伝的祖先系統に関して存在したのかどうか、検証できません。
●紀元前480年の戦いのヒメラの兵士における多様な祖先系統
戦いと関連していたほとんどのヒメラ人は、PCAではギリシア_LBAの個体群とクラスタ化すると分かり、ヒメラの軍隊におけるおもにギリシア祖先系統の個体群の大きな寄与、およびギリシアのLBAとシチリア島の紀元前5世紀のギリシア人植民地との間のかなりの遺伝的連続性と一致します。少なくとも一部のギリシア人祖先系統を有するこれらの兵士は、植民地の住民であるか、シラクサなど他の植民地からの援軍だったかもしれません。紀元前480年の戦いの兵士16人のうち7人(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_1)と紀元前409年の戦いの兵士のうち5人全員(シチリア_ヒメラ_紀元前409年)は、この主要な遺伝的クラスタの一部です。
qpWave/qpAdmを使用すると、これら2集団の兵士はそれぞれ、その祖先系統がギリシア_LBAと関連する集団に100%由来するか、シチリア_LBAもしくはシチリア_IA供給源とエーゲ海地域供給源のさまざまな割合での混合に由来するものとしてモデル化でき、多くの兵士(および紀元前409年の戦いの兵士全員)はおそらく、シチリア島のギリシア人入植者の子孫で、ギリシア人と在来のシチリア人との間の族間婚が行なわれていた、と示唆されます。この遺伝的証拠は、シチリア島のギリシア人植民地の社会的慣行の理解に証拠を追加します。なぜならば、ギリシア人植民地におけるシチリア島のモノの存在は、族間婚ではなく交易を表しているかもしれない、という事実のため、族間婚の検出は考古学的に困難だからです。遺伝的データも、考古学的に視覚化されないかもしれない情報を提供します。なぜならば、個体はどの埋葬伝統とモノを死体埋葬時に採用するのか決定する力を有しており、これらの考古学的な帰属標識と、個体が自身の帰属意識をどう見ていたかは、遺伝的祖先系統と一致する場合もそうではない場合もあるからです。
地元民とヒメラのギリシア人入植者との間の結婚を超えて、人口集団の構成が、紀元前476年のアグリジェント(Agrigento)の僭主テロン(Theron)による政治的乗っ取り後の、ドーリア人の大規模な流入にも影響を受けていたかもしれない可能性を検証することは重要です。この期間にヒメラの何千人もの住民が殺害されました。しかし、この時点での分析に利用可能な標本規模が限定的で、ドーリア人の文脈からの比較データが欠如しており、この仮説を検証できません。いずれにしても、兵士の両集団は在来のシチリア人との混合において不均一で、各個体のさまざまな遺伝的歴史が示唆されます。有意な遺伝的差異が存在する、と確信的に記載できますが、この時期のシチリア島のギリシア民族に含まれる遺伝的差異の分布を適切に特徴づけるには、利用可能な標本規模より大きいものが必要でしょう。
紀元前480年の戦いの兵士では、最初の集団(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_1)と一致しない遺伝的祖先系統を有する9個体(シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2)が見つかり(図2)、より高い網羅率の個体で祖先系統モデルが検証されました。シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2は、PCAでは主要クラスタとヨーロッパ中央部個体群との間に収まる、中心を離れた2個体(I10946/W1771とI10950/W814)で構成され、これはADMIXTUREにおいてWHG遺伝的クラスタの相対的により高い割合によっても示唆される区別です。qpAdmでの広範なあり得るBAおよびIA供給源を検証すると、祖先系統の有効なモデルは、地中海中央部もしくは東部集団(シチリア島かエーゲ海地域かバルカン半島)と関連する供給源と、ヨーロッパ西部集団(フランスかスペインかチェコかハンガリー)と関連する供給源の混合で構成されます。バルカン半島人の遺伝的起源は、バルカン半島において現在の最高頻度となるYHg-E1b1b1a1b1a(V13)により示唆されています。
2個体(I10943/W0396とI10949/W0403)はシチリア_ヒメラ_紀元前480年_3として分類され、ヨーロッパ北東部集団および紀元前千年紀のバルト海地域東部集団とともに位置し、リトアニアのBA個体群のみを代理供給源として用いてモデル化できます。低網羅率の1個体(I17870/W0336)は、PCAおよびADMIXTUREから推測される主要な祖先系統クラスタとの関連の両方で(図2)、シチリア_ヒメラ_紀元前480年_2とシチリア_ヒメラ_紀元前480年_3との中間に収まります。
2個体(I10944/W0461とI10947/W1774)はシチリア_ヒメラ_紀元前480年_4と分類され、ユーラシア草原地帯の遊牧民の文脈の個体群に収まり、ADMIXTURE分析では、ほとんどのIA草原地帯牧畜民を特徴づける、漢人とブラジル先住民のカリティアナ人(Karitiana)で最大化される遺伝的構成要素(それぞれ薄緑色と紫色)を有しています。qpAdmではその祖先系統は一致しており、IA草原地帯中央部遊牧民に由来する85~89%と、エーゲ海地域的供給源に由来する11~15%で、これは恐らく、草原地帯の遺伝的に多様な人口集団間で起きた可能性がある混合です(関連記事)。そのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、ユーラシア東部の遺伝的起源を示唆しており、mtHg-A6aはこれまで現代の中国でしか見つかっておらず、mtHg-N1a1a1aはロシアとカザフスタンとモンゴルに限られています。
最後に、シチリア_ヒメラ_紀元前480年_5と分類される外れ値1個体(I10951/W0653)は現代のコーカサス人口集団に位置し、PCAでは古代の草原地帯個体群とコーカサス個体群との中間に収まり、ADMIXTUREではCHG構成要素を最高の割合で有しています(図2)。供給源としてアルメニア_MBAと密接に関連する集団との単一方向モデルが、データに適合します。同様に、第二の低網羅率個体(I17872/W0428)はPCAではコーカサスの人口集団の最も近くに位置します(図2A)。
古代人集団との外群f3統計は、qpAdmで推定された遠位祖先系統の割合のように、遺伝区的類似性の同じ一般的パターンを反映しています。これらシチリア_ヒメラ_紀元前480年の集団は、トルコ_バルシン_NとWHGとイラン_ガンジュダレー_N/CHGとロシア_サマラ_EBA_ヤムナヤと関連する集団からの祖先系統の、さまざまな割合に由来するものとして全てモデル化でき、例外はシベリア祖先系統の追加が必要なシチリア_ヒメラ_紀元前480年_4だけです。
●同位体証拠の統合は紀元前480年の戦いにおける傭兵の存在を裏づけます
ある個人の遺伝的構成は、その祖先の起源への洞察を提供しますが、最近もしくは何世代もさかのぼるかどうかに関わらず、その個人が生まれたか育った地理的地域についての情報を提供しません。ストロンチウムと酸素の同位体比は、個人の歯もしくは骨の形跡期の居住地の場所の局所的な地質と水文を反映しており、生涯における個人の移動性についての情報を提供します。したがって、遺伝的および同位体情報は、ヒトの移動性と生活史についての補完的情報を提供します。
遺伝的歴史の多様性が、先行研究でヒメラの個体群の歯から集められたストロンチウムおよび酸素同位体データと相関させられました。市民の標本の全個体については、紀元前409年の戦いの個体全員と、紀元前480年の墓の個体のほとんど(7個体のうち5個体)がエーゲ海地域関連と判断され、ストロンチウム同位体比は地元起源と一致します。対照的に、おもにヨーロッパ中央部・北東部およびユーラシア草原地帯およびアルメニアとの遺伝的類似性を有する紀元前480年の戦いの兵士は全員、同位体は地元ではありませんでした(図3)。
数人の低い酸素同位体比は、ヒメラよりも、高緯度で、標高が高く、寒冷な気候で、降水量が多く、沿岸から遠い地域に特徴的で、数人の高いストロンチウム同位体比は、ヒメラよりも古い下層の岩石と土壌を示唆します。中心から離れた同位体データ自体は、ヒメラの個体群の非シチリア島起源を証明しません。両同位体の類似の中心から離れた比率は、ヒメラの近隣では見つからないにしても、シチリア島の他地域でも見つけられます。しかし、中心から離れた遺伝的特性を有する9個体全員も外部の同位体特性を示す、遺伝的証拠と同位体証拠との間の一致は、紀元前480年の戦いに加わった多くの兵士が、既知のギリシア世界の遠い地域から来た、という説得力のある証拠を提供します。
これらの調査結果は、紀元前409年の戦いで死亡した遺伝的に均質な標本抽出された個体群とは異なり、紀元前480年の戦いの兵士の起源はより多様だった、という可能性を示唆します。これは、紀元前480年のギリシア軍には、ギリシアと他の文化的背景の傭兵もしくは給与支給の兵士が含まれていた、という解釈を裏づけます。ギリシア人植民地と他のポリスは両方、傭兵を雇い、市民に基づく重装歩兵軍を支援しました。カルタゴ軍は傭兵を用いることが多かった、とよく記録されており、シチリア島のギリシア人僭主も同じことをした可能性が高そうです。
古代の歴史家は紀元前480年にヒメラのために戦った傭兵について具体的に言及していませんが、シラクサの僭主ゲロン(Gelon)は軍隊を作り上げるために外国の傭兵を多数集めた、と述べています。これらの兵士はおそらく、ヒメラを守るために派遣された救援軍にいたのでしょう。シチリア島は傭兵にとってとくに魅力的な目的地で、それは、シチリア島の多くのギリシア人ポリスが、傭兵軍創設に必要な富を引き出すことができ、通常はその支配維持のための護衛を必要とする僭主により支配されていたからです。一部の傭兵は世評によると、スキタイの射手やトラキアの軽装歩兵など、特定の技能で有名な地域から募集されていました。
したがって、遺伝的多様性がヒメラの市民の標本を超えている紀元前480年の戦いの兵士は、ヒメラのポリスからのみの徴兵を反映していなかった可能性が高く、遺伝的データと同位体データの組み合わせから、そうした兵士はシチリア島自体からずっと遠くで生まれ育った、と示唆されます。対照的に、地元起源とほぼ一致する同位体痕跡と、紀元前409年の戦いと関連する集団墓地に埋葬された成人男性個体群の遺伝的類似性は、歴史的記述を裏づけ、傭兵もしくは同盟国からの援助がなく、ヒメラの一般市民から徴募された軍隊の戦いを示唆しています。歴史的記述によると、シラクサのギリシア人は当初、紀元前409年にヒメラ支援のため派遣されたものの、最終的にはシラクサを守るため引き返し、ヒメラは自国の市民に依拠して自立することになりました。しかし、紀元前409年の戦いの兵士についてはわずか5個体の遺伝的データしかないので、非エーゲ海地域の遺伝的起源の個体の欠如が統計的に有意なのかどうか確証するには、追加のデータが必要でしょう。
●帰属標識と埋葬の扱い
紀元前480年の戦いと関連する4ヶ所の集団墓地間には、遺伝的類似性にパターンがあります。エーゲ海地域遺伝的クラスタ外に位置する全兵士は集団墓地1~4号に埋葬されていますが、集団墓地5~7号の全個体はエーゲ海地域遺伝的クラスタ内に収まり、統計的に有意差があります(図3)。この結果は、集団墓地1~4号に埋葬されたより多くの非地元民を示す、ストロンチウム同位体証拠を反映しています。集団墓地1~4号と集団墓地5~7号は空間的に分離し、規模が異なっており、集団墓地1~4号はずっと多くの埋葬で構成されています。個体の埋葬場所とその遺伝的祖先系統との相関は、同じ集団墓地における類似の祖先背景の兵士の意図的な配置を示唆しており、この社会の埋葬決定における帰属の重要性を反映しています。以下は本論文の図3です。
これらの結果から、集団墓地5~7号の個体は、その個体を埋葬した生存者の間でより大きな威信を有している、と示唆され、これは埋葬状況に基づく以前の主張と一致します。集団墓地5~7号に埋葬された個体(平均年齢45.0歳)は、集団墓地1~4号に埋葬された個体(平均年齢29.6歳)よりずっと年長で、集団墓地1~4号の事例、もしくは急いで埋葬された集団墓地8・9号の事例のように、引きずられた痕跡を示しません。さらに、集団墓地5・6号の個体には、紀元前480年の他の集団墓地とは異なり、副葬品が含まれます。これらの個体もエーゲ海地域遺伝的クラスタ内に収まる事実は、死亡した兵士の埋葬に責任のある個体により認識されているように、エーゲ海地域祖先系統と威信との間のつながりを示唆します。
古代ギリシア世界における民族性の構築は、おもに共通の子孫と祖国の問題でしたが、言語もしくは物質文化のような、文化的特徴によっても知らされていました。本論文のデータから、紀元前480年の戦いの死者を埋葬した生存者は、死者の敬意ある扱いのための社会的論理の一部として、社会的出自の情報を組み込んだ、と示されます。「外国」祖先系統を有する個体は、全員が同位体証拠に基づいて非地元民と識別され、集団墓地1~4号に埋葬され、他のギリシアの人口集団との遺伝的類似性を有する個体は、より小さな集団墓地5~7号に埋葬されました。それにも関わらず、非地元民が「他者」の均質な集団とみなされていたことは、明らかではありません。死者のより特定的な出自が認識され、それに基づいていた可能性があります。たとえば、集団墓地1・2号には、ヨーロッパ北東部祖先系統を有する個体が両方とも含まれています。戦死者の識別は、鎧と武器もしくは表現型の特徴に基づいて、戦死者を知っている生き残った仲間の兵士により行なわれたかもしれません(図3)。
多くの他の兵士は単一の埋葬で埋められたかもしれず、考古学的には兵士として見えません。ヒメラでは、一部の単一埋葬は、死亡時に暴力を受けたことを示唆する、死亡時外傷のある個体を含んでいます。これらの個体は戦いで死に、これらの個体を知る人々により単一の埋葬で埋められたのかもしれません。古典古代に記録されているように、一部の遺体は本国に送還されたかもしれず、シチリア島の他地域では、より遠方の地域よりも本国に送還された可能性が高そうです。本国への送還は、最初に遺体を火葬することにより達成されたでしょう。ヒメラでは、火葬は一般的に行なわれていました。
●考察
これらの結果は、地理的に異なる場所に由来する不均質な祖先系統に反映されているように、植民地が移住をどのように促進したのか、浮き彫りにします。さらに、この結果は、武力紛争が古典古代における多様な人口集団間の接触機序としてどのように機能したのか、示します。すでに高度に接続された地域では、ギリシアの戦争は大陸規模でヒトの移動を促進し、移住はさまざまな規模で起き、人々の小規模な移動や集団の大規模な移動や古代の過程としての世界化が含まれていた、と強調する学問を豊かにして裏づける、新たな一連の証拠を提供します。
古代ギリシア世界において戦争と関連する移住の多くは、他の文脈で記録されてきたように、市民兵士の定期的で小規模な移動だったかもしれません。しかし、本論文の調査結果は、戦争と傭兵の関与が古代ギリシア世界の個体の大規模な移動に重要な役割を果たしたかもしれない、という提案を支持します。ギリシアの傭兵の戦争は、考古学および歴史学の焦点でしたが、フェニキア人の状況における民族統合力としての戦争と傭兵の関与の重要性が認識されていたにも関わらず、文化的交換と遺伝子流動の媒介として議論されることは稀でした。
商人や入植者や奴隷のように、傭兵は地中海地域における文化伝達に役割を果たしました。交易と植民地化が地中海地域の共同体を個人対個人の相互作用で結びつましたが、広範な地理的空間にわたる商品の交換は移住を必要とせず、代わりに仲介者(つまり商人)を介して達成できました。傭兵はギリシア世界で最も長い距離を旅した人々で(おそらくは奴隷に匹敵します)、広く異なる文化的および遺伝的背景の人々を対面させました。移動性についての遺伝的および同位体証拠を統合すると、移動の時間規模が明確になり、シチリア島への第一世代の移住が示唆されます。ギリシアの僭主に仕え、ギリシアの戦争に加わる経済的機会により、バルカン半島やガリアやゲルマニアなどヨーロッパの遠方地域から、地中海地域、とくにシチリア島に引き寄せられた傭兵は、ギリシアのポリスにおける単なる遍歴の「部外者」ではありませんでした。
傭兵は、商人や入植者のように、傭兵を外国文化に深く埋め込み、文化的交換の強力な潜在的行為者とした、地元の共同体で暮らすことが多くありました。歴史的証拠は、傭兵が市民として参政権を与えられるようになり、ギリシアのポリスの政治的・文化的・遺伝的構造に統合されるようになった事例を示唆します。ディオドロス・シクロスは、シラクサの僭主であるゲロンが雇った7000人の外国人傭兵について記述しており、その傭兵の一部は紀元前480年の戦いに加わり、紀元前466年に市民権を与えられました。ギリシア人入植者と彼らが遭遇した先住民に加えて、傭兵は紀元前千年紀のギリシアのポリスで起きた文化と着想とおそらくは遺伝子の交換の一部で、時には、ヒメラの2回の戦いの異なる結果が示すように、ギリシア軍の勝利を確保するうえで重要な役割を果たしたかもしれません。
ヒメラにおける外国人兵士の歴史的に文脈化された遺伝的および同位体証拠は、不均質性と、ヨーロッパと中東と世界の他地域のIAおよびIA後の社会を特徴づける、進化する複雑性の別の指標です。古典期ギリシアの傭兵の多様な起源の特定は、植民地の設立などよく記録された人口移動とは別に、専門的な経済もしくは宗教活動と関連する個体の長距離移動の理解に微妙な差異を提供します。遺伝的データが刊行されている古代地中海の遺跡は、入植の種類と機能と歴史的状況の観点ではかなり異なります。ヒメラの集団墓地は、武力紛争を表し、広範な地理的空間にわたる個体の移住の機序としての戦争の証拠を提供する点で、並外れています。遺伝的傾向と、考古学的および歴史的文脈において特有の事例を評価し続けることにより、研究は、複数の分野を組み合わせると、交易や戦争や都市化や崩壊などの傾向の理解を深める可能性がある地域の、一連のさまざまな伝記を解明できるでしょう。
参考文献:
Reitsema LJ. et al.(2022): The diverse genetic origins of a Classical period Greek army. PNAS, 119, 41, e2205272119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2205272119
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