横山宏章『孫文と陳独秀 現代中国への二つの道』
平凡社新書の一冊として平凡社より2017年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、中国近代史における対照的な二人の人物として、孫文と陳独秀を取り上げ、近代中国の歴史的背景と課題を浮き彫りにします。民族主義と民権主義を主張しながら、愚かな大衆は賢者に導かれるべき存在と考え、国家体制の革命を強調し、現在の用語では「開発独裁」的な志向の孫文と、近代化には個々の国民の自覚が必要で、さもなければ専制国家へ逆戻りすると考えた、徹底的なヨーロッパ化志向の陳独秀は、確かに対照的で、中国近代史を描くのに適切な人選と言えるかもしれません。
孫文が強烈な漢民族(という概念は当時確立される過程にあった、と言えるかもしれませんが)主義者で、ダイチン・グルン(大清帝国)が日清戦争で敗北したことも、「異民族王朝」打倒の好機として歓迎していたくらいです。当時の孫文は、帝国主義列強の侵略よりも、漢民族が満洲民族の「奴隷」から脱却すること(駆除韃虜、恢復中華)を優先していました。一方、陳独秀はダイチン・グルン滅亡前から、漢民族のみではなく、もっと広く「中国人」を意識していたようです。孫文も陳独秀も日本に留学しており、中国近代史における日本の影響の強さが改めて浮き彫りになります。
人格の点では、孫文には傲慢なところがあり、革命勢力の団結を乱す場合が少なからずあったようです。孫文の独裁志向は、その性格にも起因しているのかもしれません。しかし、孫文には熱烈な支持者も少なからずおり、辛亥革命により誕生した中華民国では、臨時大総統に就任します。ただ、これは袁世凱までのつなぎにすぎませんでした。一方、中国同盟会に加入しなかった陳独秀は、この間にテロリズムに関わり、また日本に留学しました。私生活では、妻の妹と駆け落ちしています。陳独秀は、日本で西欧啓蒙主義を本格的に学び、帰国後は、妻の妹と駆け落ちして杭州に逃避し、ここでは政治から離れて比較的穏やかな生活を送っていたようで、甲骨文を研究していました。
その陳独秀は、辛亥革命後に安徽省で公職に就きますが、袁世凱討伐に失敗し、逃亡に追い込まれました。陳独秀は上海に逃げ込み、政治から逃避して読書三昧の生活を送ります。ここで陳独秀は、武力革命ではなく、思想革命・文学革命と呼ばれる国民の意識革命を目指します。儒教秩序により縛られてきた国民の意識と生活習慣を開放し、自由で自立した個人の形成を企図したわけで、その思想的基盤となったのが、西欧啓蒙民主思想でした。本書は、何度も失敗を繰り返しながら闘い続けてきたので、一度の軍事的敗北で意欲が挫けることはなかった孫文とは異なり、繊細な精神の陳独秀は、初めての武装蜂起の失敗に意気消沈して読書三昧の生活を送った、と評価しています。
その陳独秀が再起する契機となったのは、対華二十一カ条要求に対する中華民国政府の弱腰と、袁世凱の(すぐに挫折した)皇帝即位でした。陳独秀は雑誌『新青年』を刊行し、これが「新文化運動」と呼ばれる新たな潮流につながりました。陳独秀は時の人となり、北京大学に文科学長(文学部長)に招聘されます。当時、北京大学には守旧派の学者が多くおり、全面的な欧化論者の陳独秀は、激しく糾弾されたようです。陳独秀は、私生活での問題もあり、短期間で文科学長の地位を失います。しかし、五四運動で逮捕された陳独秀は、英雄視されるようになります。釈放後の陳独秀は、言わば列強戦勝国の戦果分配協議の場となったパリ講和会議の結果に失望し、政治活動へ復帰していき、西欧啓蒙思想から離れて、マルクス主義へと接近します。当時、マルクス主義諸政党は帝国主義的植民地政策に反対し、労働者の救済と団結を唱え、新たなプロレタリア文学を語っていたからです。この陳独秀だけではなく孫文にもコミンテルンは接近し、早くも1921年7月には陳独秀を領袖とする中国共産党が正式に結成されます。
この間、1920年に孫文と陳独秀は初めて会い、協調と対立の狭間で孫文の死まで微妙な関係が続きます。孫文は、軍閥との提携も辞さず、政権獲得を目指しますが、大軍閥の財力と兵力にはおよばず、自身の武力強大化のためコミンテルンやソ連とも提携します。すでにコミンテルンの影響で中国共産党は結成されており、コミンテルンの指示により国共合作が進められます。孫文がコミンテルンやソ連との提携を決断した最大の理由は、孫文の思想変化というよりは、当時ソ連で採用されていた新経済政策(ネップ)が、急進的な社会主義化ではなく、孫文の実業計画と同じと認識し、その軍事支援に期待したからのようです。ただ、孫文は国民党と共産党の対等な連合(党外合作)は認めませんでした。一方、陳独秀を初めとして中国共産党側は、軍閥との提携も辞さない孫文は旧態依然だとして、国共合作にかなり批判的でした。陳独秀は、国共合作により共産党の発展の機会は永久に失われる、と考えていましたが、本書は、国民党の庇護下で共産党は急速に勢力を伸ばし、反共軍閥からの弾圧を回避できた、とその意義を指摘します。
孫文は1925年に没し、陳独秀は、孫文死後の蒋介石による共産党弾圧の結果、共産党が敗北した責任を負わされ、1927年に共産党総書記を解任されました。その後、陳独秀は、トロツキーに共鳴し、スターリンの指導下にある中国共産党を批判した結果、党籍を剥奪され、共産党が政権を掌握して成立した中華人民共和国においては、「叛徒、漢奸、右傾機械主義」などと罵倒されてきました。しかし、鄧小平の復権以降、陳独秀の評価の見直しが進められているようです。本書では新文化運動について詳しくは触れられていませんが、私は以前より、現代日本社会において新文化運動、つまり20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の異議は大きい、と考えてきたので(関連記事)、陳独秀への印象は悪くありませんでした。今後、時間を作って新文化運動に関する一般向けの本も読んでいこう、と考えています。
孫文が強烈な漢民族(という概念は当時確立される過程にあった、と言えるかもしれませんが)主義者で、ダイチン・グルン(大清帝国)が日清戦争で敗北したことも、「異民族王朝」打倒の好機として歓迎していたくらいです。当時の孫文は、帝国主義列強の侵略よりも、漢民族が満洲民族の「奴隷」から脱却すること(駆除韃虜、恢復中華)を優先していました。一方、陳独秀はダイチン・グルン滅亡前から、漢民族のみではなく、もっと広く「中国人」を意識していたようです。孫文も陳独秀も日本に留学しており、中国近代史における日本の影響の強さが改めて浮き彫りになります。
人格の点では、孫文には傲慢なところがあり、革命勢力の団結を乱す場合が少なからずあったようです。孫文の独裁志向は、その性格にも起因しているのかもしれません。しかし、孫文には熱烈な支持者も少なからずおり、辛亥革命により誕生した中華民国では、臨時大総統に就任します。ただ、これは袁世凱までのつなぎにすぎませんでした。一方、中国同盟会に加入しなかった陳独秀は、この間にテロリズムに関わり、また日本に留学しました。私生活では、妻の妹と駆け落ちしています。陳独秀は、日本で西欧啓蒙主義を本格的に学び、帰国後は、妻の妹と駆け落ちして杭州に逃避し、ここでは政治から離れて比較的穏やかな生活を送っていたようで、甲骨文を研究していました。
その陳独秀は、辛亥革命後に安徽省で公職に就きますが、袁世凱討伐に失敗し、逃亡に追い込まれました。陳独秀は上海に逃げ込み、政治から逃避して読書三昧の生活を送ります。ここで陳独秀は、武力革命ではなく、思想革命・文学革命と呼ばれる国民の意識革命を目指します。儒教秩序により縛られてきた国民の意識と生活習慣を開放し、自由で自立した個人の形成を企図したわけで、その思想的基盤となったのが、西欧啓蒙民主思想でした。本書は、何度も失敗を繰り返しながら闘い続けてきたので、一度の軍事的敗北で意欲が挫けることはなかった孫文とは異なり、繊細な精神の陳独秀は、初めての武装蜂起の失敗に意気消沈して読書三昧の生活を送った、と評価しています。
その陳独秀が再起する契機となったのは、対華二十一カ条要求に対する中華民国政府の弱腰と、袁世凱の(すぐに挫折した)皇帝即位でした。陳独秀は雑誌『新青年』を刊行し、これが「新文化運動」と呼ばれる新たな潮流につながりました。陳独秀は時の人となり、北京大学に文科学長(文学部長)に招聘されます。当時、北京大学には守旧派の学者が多くおり、全面的な欧化論者の陳独秀は、激しく糾弾されたようです。陳独秀は、私生活での問題もあり、短期間で文科学長の地位を失います。しかし、五四運動で逮捕された陳独秀は、英雄視されるようになります。釈放後の陳独秀は、言わば列強戦勝国の戦果分配協議の場となったパリ講和会議の結果に失望し、政治活動へ復帰していき、西欧啓蒙思想から離れて、マルクス主義へと接近します。当時、マルクス主義諸政党は帝国主義的植民地政策に反対し、労働者の救済と団結を唱え、新たなプロレタリア文学を語っていたからです。この陳独秀だけではなく孫文にもコミンテルンは接近し、早くも1921年7月には陳独秀を領袖とする中国共産党が正式に結成されます。
この間、1920年に孫文と陳独秀は初めて会い、協調と対立の狭間で孫文の死まで微妙な関係が続きます。孫文は、軍閥との提携も辞さず、政権獲得を目指しますが、大軍閥の財力と兵力にはおよばず、自身の武力強大化のためコミンテルンやソ連とも提携します。すでにコミンテルンの影響で中国共産党は結成されており、コミンテルンの指示により国共合作が進められます。孫文がコミンテルンやソ連との提携を決断した最大の理由は、孫文の思想変化というよりは、当時ソ連で採用されていた新経済政策(ネップ)が、急進的な社会主義化ではなく、孫文の実業計画と同じと認識し、その軍事支援に期待したからのようです。ただ、孫文は国民党と共産党の対等な連合(党外合作)は認めませんでした。一方、陳独秀を初めとして中国共産党側は、軍閥との提携も辞さない孫文は旧態依然だとして、国共合作にかなり批判的でした。陳独秀は、国共合作により共産党の発展の機会は永久に失われる、と考えていましたが、本書は、国民党の庇護下で共産党は急速に勢力を伸ばし、反共軍閥からの弾圧を回避できた、とその意義を指摘します。
孫文は1925年に没し、陳独秀は、孫文死後の蒋介石による共産党弾圧の結果、共産党が敗北した責任を負わされ、1927年に共産党総書記を解任されました。その後、陳独秀は、トロツキーに共鳴し、スターリンの指導下にある中国共産党を批判した結果、党籍を剥奪され、共産党が政権を掌握して成立した中華人民共和国においては、「叛徒、漢奸、右傾機械主義」などと罵倒されてきました。しかし、鄧小平の復権以降、陳独秀の評価の見直しが進められているようです。本書では新文化運動について詳しくは触れられていませんが、私は以前より、現代日本社会において新文化運動、つまり20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の異議は大きい、と考えてきたので(関連記事)、陳独秀への印象は悪くありませんでした。今後、時間を作って新文化運動に関する一般向けの本も読んでいこう、と考えています。
この記事へのコメント