ブリテン島の上部旧石器時代後期の2個体の異なる遺伝的構成

 ブリテン島の上部旧石器時代後期の2個体の異なる遺伝的構成を報告した研究(Charlton et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究はすでに、人間進化研究ヨーロッパ協会第12回総会で概要が報告されていました(関連記事)。上部旧石器時代ヨーロッパの遺伝学的調査は、ヒト集団の移動と複雑で変容した歴史を明らかにしてきており、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)におけるヨーロッパ大陸全体の遺伝的変化のいくつかの事例の証拠があります。

 これらの遺伝的変化と同時に、LGM後の期間は、一連の顕著な気候と人口拡大と文化的多様化により特徴づけられます。ブリテン島はLGM後の拡大の最北西端に位置し、最初の後期氷期のヒト居住は不明なままです。本論文は、イギリスにおける旧石器時代のヒト個体、したがってブリテン島もしくはアイルランド島でこれまで得られた最古のヒトDNAの遺伝的データを提示します。ゴフの洞窟(Gough’s Cave)の上部旧石器時代後期の1個体は、その祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の全てが、スペインのエル・ミロン洞窟(El Mirón Cave)やベルギーのゴイエ(Goyet)の第三洞窟(Troisième caverne)などの遺跡の個体群と密接に関連するマグダレニアン(Magdalenian)関連個体群にたどれます。

 しかし、ケンドリックの洞窟(Kendrick’s Cave)の1個体は、ゴフの洞窟個体と関連する祖先系統の証拠を示しません。代わりに、ゴフの洞窟個体の祖先系統は、後期氷期においてヨーロッパ全域に拡大し、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)などの遺跡の個体群に代表される集団にたどれます。さらに、ゴフの洞窟とケンドリックの洞窟の2個体は、その遺伝的祖先系統特性だけではなく、安定同位体分析の証拠を通じて証明されるように、埋葬慣行と食性と生態でも異なっています。この発見は、イベリア半島で以前に検出された二重の遺伝的祖先系統と混合のパターンを反映していますが、ヨーロッパの南西部よりも北西部の方でより劇的な遺伝的置換が起きたことを示唆しているかもしれません。


●研究史

 LGM後に起きた気候温暖化はヒト社会の発展に重要で、ヨーロッパの動植物群の分布を劇的に変えました。較正年代で23400年前頃に始まるLGMには無人だった景観は、後期氷期に再移住され、ヒト集団の分布と密度が、かなりの文化的多様化の出現とともに顕著に変わりました。そのため、多くの研究がLGM後のヨーロッパにおける人口拡大と環境変化と文化的多様性の間の関係に焦点を当ててきました。しかし、ヨーロッパにおける氷期後のヒト再移住の詳細は、ヨーロッパ全体にわたる先史時代の移住の複雑な歴史と、この期間に年代測定されたヒト遺骸が比較的少ないため、不明なままです。

 近年では、配列決定技術の進歩が、改善された実験方法と生物情報学的作業の流れと組み合わされて、後期更新世ヨーロッパ人口集団の遺伝的痕跡の生成と分析の可能性を開きました。これまでに多くの研究が、農耕出現前のヨーロッパにおける最初の現生人類(Homo sapiens)の遺伝的構成を調べてきました。これらの研究は、人口拡大を示唆する遺伝的変化の多くの事例を明らかにしてきました(関連記事)。その最も顕著な事例の一つは、LGM末と完新世開始(較正年代で11700年前頃)との間の、後期氷期に起きました。この変化は、LGM後のヨーロッパにおける、IntCal20(関連記事)では15090年前頃となるベルギーのゴイエQ2個体、およびイタリアのヴィッラブルーナ個体と関連する祖先系統に反映されています。

 本論文は以下で、この2個体(ゴイエQ2個体とヴィッラブルーナ個体)と関連する祖先系統の省略表現として、この2個体を用います。「ゴイエQ2」祖先系統(関連記事)は、以前には18770年前頃(IntCal20)となるスペインのエル・ミロン洞窟(El Mirón Cave)個体により定義されており、較正年代で20500~14000年前頃(以下、明記しない場合は較正年代です)となるマグダレニアン(マドレーヌ文化)と関連する個体で特定されてきました。このゴイエQ2およびエル・ミドロン祖先系統は、ヨーロッパ南西部の氷期退避地からのLGM後の拡大を表している、と示唆されてきました。

 「ヴィッラブルーナ」祖先系統は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)としても知られており、続グラヴェティアン(Epigravettian)やアジリアン(Azilian)/フェダーメッサー(Federmesser)や続旧石器時代や中石器時代文化と関連する、14000~7000年前頃と年代測定された個体群から構成されます。ヴィッラブルーナ祖先系統は14000年前頃以降、全てのヨーロッパの個体が現在の近東の人口集団とある程度の遺伝的類似性を示す、という観察とも関連しています(関連記事)。この祖先系統の地理的分布の拡大は、グリーンランド亜間氷期(Greenland Interstadial)1(GI-1)の開始とほぼ同時代と考えられている後期氷期亜間氷期の急速な気候温暖化の期間や、マグダレニアン/上部旧石器時代後期からアジリアン/フェダーメッサー群/末期旧石器時代への文化的移行とも相関しているので、LGM後のヨーロッパ南西部への人々の移動を表している、と示唆されてきました。

 しかし、興味深いことに、ゴイエQ2とヴィッラブルーナの祖先系統の混合を有する個体が、少なくとも18700年前頃にヨーロッパ南部に出現し、これまでに特定されたそのような最初の事例は、エル・ミロン洞窟の1個体(関連記事)です。LGM後のヨーロッパ南部における混合したゴイエQ2とヴィッラブルーナの祖先系統を有する個体の存在は、最終氷期における孤立した退避地への人口集団の断片化と関連する問題を提起します。文化的および遺伝的流動の両方がヨーロッパ大陸全体で継続していたようですが、関連するこれらの過程と機序の性質は不明なままです。しかし、ヨーロッパ北部における14000年前頃までの混合していないゴイエQ2祖先系統を有する個体の存在は、LGMを通じて後期氷期へのある程度維持された孤立を示唆します。

 LGMにおけるヨーロッパ北部内の氷河周縁環境で暮らしていた人口集団と、マドレーヌ文化集団の拡大とも関連していたアルプスの東方から西北への人々の長距離移動の証拠があります。この証拠は、ゴイエQ2祖先系統を有する寒冷適応集団だったように見えるマグダレニアン人口集団が、ヨーロッパ北部へと撤退し、それはおそらく、気候温暖化とトナカイやウマなど獲物種の移動のためだった、との提案を提起します。逆に、スペイン北部やイタリアなどより南方の地域では、アカシカなど温暖な獲物種が後期氷期を通じて存続しており、そこでは人口集団混合のより大きな生態学的機会が提供されたかもしれません。

 ブリテン島は、LGM後の拡大の最北西の角に位置します。ブリテン島の陸地の約2/3はLGMには氷に覆われており、その後急速に退氷し、かなりの生態学的および環境変化がLGM後の景観で起きました。そのため、ブリテン島は上部旧石器時代後期人口集団を考察できる独特な環境条件を提供します。19000年前頃までに、ブリテン島とアイルランド島の氷床は広範囲に融解し、16000年前頃までには、イングランドとウェールズの全てで実質的に氷床はありませんでした。トナカイはイングランド南西部に17000年前頃までに存在し、開けた草原・ツンドラ植生が優占的でした。

 しかし、イギリスにおける上部旧石器時代後期遺跡群と放射性炭素年代測定プログラムの詳細な検討から、15500年以上前のブリテン島南西部におけるLGM後のヒト再移住の証拠はない、と示唆されています。そのため、ブリテン島の一部地域は後期氷期亜間氷期(14650年前頃以降)の始まりにおいて急速な気候温暖化の前に移住されました。加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)年代測定では、ブリテン島はおそらくパリ盆地やベルギーのアルデンヌなど近隣地域よりもわずかに後の年代に再移住された、と示唆され、それ故に、ヨーロッパ大陸全体の人々の拡大が提案されます。

 興味深いことに、局所的にクレスウェリアン(Creswellian、クレスウェル文化)として知られているブリテン島のマグダレニアンは、オランダ北部とドイツ北部低地とポーランドで見つかっている、古典的ハンブルク文化(Classic Hamburgian)と(年代と文化表現および類型論の両方の観点で)ひじょうに類似しています。しかし、LGM後の人口集団のブリテン諸島内への拡大の理解は、年代測定に適した保存された考古学的遺物が比較的少ないことに妨げられています。そのため、上部旧石器時代後期ブリテン島のヒト居住の正確な性質は不明のままで、ブリテン島における最初の氷期後の人口集団の知識は比較的少なくなっています。

 ブリテン島の中石器時代と新石器時代と青銅器時代の個体群の遺伝子は最近調べられていますが(関連記事)、ブリテン島の旧石器時代の個体についてまだ遺伝的データが生成されておらず、それは部分的には、後期更新世ブリテン島で利用可能なヒト骨格資料が少ないからです。これまでに、6ヶ所の上部旧石器時代遺跡だけから、ヒト骨格遺骸が回収されてきました。それにも関わらず、これらの稀な標本は、LGM後のヨーロッパ全体にわたるヒト集団の理解に重要で、それは、ブリテン島がヨーロッパ大陸の最北西端に位置するからです。

 中石器時代ブリテン島の人口集団は、一般的にWHG(ヴィッラブルーナ祖先系統)として特定されており、この遺伝的祖先系統は少なくとも10500年前頃までには初期完新世ヨーロッパの最北西地域に拡大していた、と示唆されます(関連記事)。しかし、不明点は、この祖先系統がいつ最初にブリテン島に到来したのか、さらに、ブリテン島における旧石器時代人口集団の遺伝的祖先系統は何だったのか、ということです。ヨーロッパ全体にわたるマドレーヌ文化とゴイエQ2祖先系統との以前の関係、およびクレスウェル文化と古典的ハンブルク文化との間の類似性を考えると、ブリテン島の上部旧石器時代後期人口集団もゴイエQ2遺伝的クラスタ(まとまり)内に収まる、と仮定できます。これらの問題に対処し、LGM後のヨーロッパの遺伝的構成に関する知識を広げるため、本論文はイングランドとウェールズの2ヶ所の遺跡のヒト遺骸の古代DNA解析を通じて、上部旧石器時代後期ブリテン島の遺伝的特徴を調べます。


●標本

 ブリテン島の上部旧石器時代後期の最もよく知られた遺跡群のうち2ヶ所は、ゴフの洞窟とケンドリックの洞窟です。ゴフ洞窟は、イングランド南西部のサマセットのチェダー渓谷に位置する大規模な洞窟体系の一部です(図1)。ゴフ洞窟は、その石器と動物相化石がこれまで調査されたブリテン島の旧石器時代洞窟では最大となるため、とくによく知られています。ゴフ洞窟の石器群は混合起源で、後期マグダレニアンと初期フェダーメッサー群技術の両方を含んでおり、遺跡居住の記録された開始は間氷期の始まり(GI-1e)と一致しており、その頃に温度が急速に上昇しました。中石器時代と年代測定された「チェダー人(Cheddar Man)」骨格と、少なくとも6点の旧石器時代後期ヒト個体(子供が1個体、思春期が2個体、成人が3個体)が遺跡から回収され、そのうち2点は以前に直接的に放射性炭素年代測定されました。

 骨格遺骸は、人肉食慣行や「頭蓋骨杯」の製作に起因するかもしれない、かなりの人為的に起きた改変を示します。ヒト遺骸と人為的に改変された動物相資料の以前の放射性炭素年代測定分析は、ゴフ洞窟の上部旧石器時代後期の居住の開始を14840~14680年前頃(確率68.2%、IntCal09)に制約し、居住は200年間を少し超えて続きました。この研究は、古代DNA解析のためゴフ洞窟で回収されたヒトの側頭骨1点(PV M 96544)を対象としました。この標本は側頭骨の錐体部に由来し、他のAMS年代測定されたヒト遺骸とともに直接的に年代測定された状況で回収されました。以下は本論文の図1です。
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 ケンドリック洞窟は北ウェールズのスランディドノ(Llandudno)の石灰岩の山塊である、グレートオームズヘッド(Great Orme’s Head)に位置します(図1)。ケンドリック洞窟遺跡は、後期氷期亜間氷期(GI-1e)の前半に人々により使用されていた、と知られており、洞窟内の拍車石突調整のある壊れた石刃の近位部の回収と、14500年前頃と年代測定された解体痕のあるウシ属の骨のため、マグダレニアン技術と関連づけられてきました。12900年前頃と年代測定された装飾されたウマの下顎骨は、ケンドリック洞窟遺跡が後期氷期亜間氷期まで使われ続けたことを示します。少なくとも4個体(成人3個体と子供1個体)のヒト遺骸とともに、ヒグマとオーロックスとアカシカの歯から作られた数珠玉も、遺跡で回収されました。これら刻まれて穿孔された人工遺物は、フェダーメッサー群の「小刀尖頭器」文化として知られる、ヨーロッパ大陸部の旧石器時代後期芸術と様式の類似性を共有している、と主張されてきました。

 ヒト遺骸から5点の直接的な放射性炭素年代が得られ、その範囲は11990~11905年前(非較正)です。しかし、これらの年代のうち1点は前処理手順に限外濾過法を含んでいました。さらに、これらの個体の食性は、以前には年代較正のさいに考慮されませんでした。これは、食性における海洋性および/もしくは淡水組成のため必要で、この研究はヒトの骨4点を再年代測定し、食性情報を放射性炭素較正に組み込みました。ケンドリック洞窟のヒト遺骸1点(ケンドリック074)も、古代DNA解析の対象とされました。この標本は下顎第一大臼歯に由来し、その下顎は以前に限外濾過法でAMS年代測定されました。

 ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の2ヶ所の遺跡は、年代的には近いものの、埋葬行動に違いを示します。ケンドリック洞窟は通常、埋葬地として解釈されており、それは部分的には、遺跡における食料加工活動もしくは廃棄物を示唆する動物遺骸の欠如のためです。ケンドリック洞窟のヒト遺骸にはヒトによる改変の証拠もありません。対照的に、ゴフ洞窟のヒト遺骸は【非ヒト】動物遺骸と同じ考古学的文脈から回収され、両者は著しいヒトによる改変を示します。ヒト骨格群は、散在したひじょうに断片的な頭蓋後方(首から下)の骨と、比較的完全な頭蓋冠で構成され、そのうち一部はすでに指摘されているように、頭蓋杯へと改変され、これは儀式的な人肉食の証拠として解釈されてきました。


●AMS年代測定と同位体分析

 11990±50~11830±50年前(非較正)の範囲となるケンドリック洞窟のヒト骨格遺骸から、4点の新たな限外濾過法放射性炭素測定値が得られました。これらの年代は全て、統計的に相互および以前に刊行されたヒト下顎からの限外濾過法年代とは統計的に区別できません。この年代は、遺跡の非限外濾過法の以前に刊行された年代の範囲内(非較正で12090±90~11760±90年前)に収まりますが、より制約された年代範囲を提供し、ケンドリック洞窟が埋葬地として用いられたかもしれない、との解釈へ裏づけを追加します。

 これら4点の標本で得られた新たな炭素13および窒素15データは、以前に得られた結果と一致しました。ヒト遺骸の以前の同位体分析では、海洋性および/もしくは淡水資源を含む食性が示唆されており、AMS年代への貯蔵効果の影響が考慮されねばならないことを意味します。プログラムFRUITSを用いて、新規および既存の安定同位体データを組み込み、さまざまな食資源への比例した影響を計算するよう、ベイズ混合モデルが構築されました。較正プログラムOxCal(4.4版)と混合曲線(Mix_Curves)関数を用いるベイズモデルが、ケンドリック洞窟のヒト遺骸と文化的に改変された動物遺骸の放射に適用されました。

 これにより、遺跡のヒトの活動の境界開始年代に16410~14070年前頃、境界終了年代に13730~13140年前頃の値が与えられます(いずれも信頼度95%)。しかし、ヒト遺骸の年代のみをモデルで用いると、境界開始年代は14100~13460年前頃です(信頼度95%)。古代DNA解析に用いられたヒト遺骸(ケンドリック074)は、13770~13390年前頃のモデル化された年代です(信頼度95%)。しかし、ケンドリック洞窟のヒト遺骸の安定同位体データは、その食性における海洋性タンパク質と淡水性タンパク質の割合に関して矛盾する解釈を導いたので、モデル化された年代は、追加の食性情報が、たとえば化合物固有の同位体分析か硫黄34を通じて利用可能になるまで、いくつかの注意点とともに扱われねばなりません。

 さらに、OxCal(4.4版)とIntCal20較正曲線を用いてのベイズモデル化手法が、ゴフ洞窟のヒト遺骸と人為的に改変された動物遺骸の刊行された放射性炭素年代に適用されました。この結果は、15070~14850年前頃の遺跡の境界開始年代と、14960~14610年前頃の遺跡の境界終了年代を示します(いずれも95%信頼区間)。この新たな較正は、グリーンランド氷床コア(I-1e)で記録されているように、遺跡の居住を主に後期氷期亜間氷期の開始(14700年前頃)の急速な温暖化の前へと変更しますが、居住の終了は後期氷期亜間氷期の開始直後に起きたかもしれません。

 ゴフ洞窟遺跡とケンドリック洞窟両方の新たなAMS年代と年代の再較正から、両遺跡は年代が近いものの、ゴフ洞窟の居住とケンドリック洞窟のヒト遺骸の年代間の重複はない、と論証されます(信頼度95%)。しかし、ケンドリック洞窟の人為的に改変されたウシ属の骨とゴフ洞窟のヒト居住との間に重複はあり、両遺跡は同時代に居住されていた、と示唆されます。ゴフ洞窟の居住の境界終了年代を古代DNA解析のため標本抽出されたケンドリック洞窟の標本の年代と比較すると、100%陸生に基づく食性を両者に仮定する場合、少なくとも600年の違いがあります。しかし、これは恐らく過小評価で、それは、海洋性および/もしくは淡水の食性組成の貯蔵効果の組み込みが、実際より新しい年代を示し、2個体間の年代間隙を少なくとも840年間から最大で1200年間に増加させる可能性があるからです。


●古代DNA解析

 ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体からそれぞれ、15497点と9702点のミトコンドリアDNA(mtDNA)断片が回収され、mtDNAゲノムの53.8倍と34.8倍の平均網羅率が得られました。直接的なショットガン配列決定により、ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体から、それぞれ30587614点と29326159点の核DNA断片も回収され、平均ゲノム網羅率は0.53倍と0.48倍になりました。ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体のヒト参照ゲノムへとマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)されたDNA断片の割合は、それぞれ23%と18%となり、平均的断片長は62塩基対と63塩基対でした。この両個体の各DNA断片は、配列決定において平均して1.95~2.29回で見られ、49%、と56%のクローン性へと変換されます。

 この両個体の完全なmtDNA配列が再構築され、HaploGrepとPhylotreeデータベースを用いて、そのハプログループ(mtHg)が決定されました。ゴフ洞窟の個体にはmtHg-U8aを定義する置換があり、ケンドリック洞窟の個体にはmtHg-U5a2を定義する置換があります。mtHg-U8aは以前には、初期先史時代のブリテン島では検出されず、ドイツのホーレ・フェルス(Hohle Fels)およびブリッレンヘーレ(Brillenhöhle)個体やベルギーのゴイエQ2個体など、ヨーロッパ他地域のマグダレニアン関連個体で検出されてきました。多くのブリテン島の中石器時代個体は以前に、mtHg-U5を有すると明らかになっており、その中にはmtHg-U5a2と決定されたケンツ洞窟(Kent’s Cavern)の個体も含まれます。

 X染色体とY染色体に配列されるDNA断片の数の評価により、ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体の性別が決定されました。ゴフ洞窟の個体は女性で、ケンドリック洞窟の個体は男性と分かりました。ケンドリック洞窟の骨格資料は遺跡の元々の記載で「男性」を表している、と言及されていましたが、生物学的性別の正式な骨学的評価は行なわれていませんでした。

 ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体で生成されたデータには、506151ヶ所と476347ヶ所の一塩基多型(SNP)がそれぞれ含まれており、古代人と現代人における遺伝的関係に情報をもたらす124万SNPパネルと重複します。主成分分析(PCA)では、ゴフ洞窟の個体はベルギーの15000年前頃のゴイエQ2個体の近くに位置しますが、ケンドリック洞窟の個体は、ブリテン島の中石器時代個体群を含む、おもにWHG的祖先系統を有する個体群とクラスタ化します(図2)。以下は本論文の図2です。
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 外群(この場合ムブティ人)からの分離後の古代の個体間で共有される遺伝的浮動の量を計測するf3統計(ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体、古代人;ムブティ人)の計算により再度、ゴフ洞窟の個体は19000~14000年前頃となるゴイエQ2遺伝的クラスタに属する個体群と最も多く浮動を共有するのに対して、ケンドリック洞窟の個体は14000~7000年前頃となるヴィッラブルーナ遺伝的クラスタに属する個体群と最も多く浮動を共有する、と分かりました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 D統計(古代人1、古代人2;ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体、ムブティ人)の計算でこれらの類似性がさらに確証されました。再度、ゴフ洞窟の個体はヴィッラブルーナ遺伝的クラスタとよりもゴイエQ2遺伝的クラスタの構成員の方と有意に多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と分かりました。対照的に、ケンドリック洞窟の個体は、ブリテン島の中石器時代の個体群と同様に、ゴイエQ2遺伝的クラスタの構成員とよりもヴィッラブルーナ遺伝的クラスタの構成員の方と有意に多くのアレルを共有しています。

 qpWaveとqpAdmでの混合モデル化を用いて、ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体の祖先系統がより詳しく調べられました。ゴイエQ2とヴィッラブルーナの個体が、潜在的な供給源人口集団として用いられました。ゴフ洞窟の個体は単一の供給源ゴイエQ2祖先系統、ケンドリック洞窟の個体は単一の供給源ヴィッラブルーナ祖先系統を有する、とモデル化されました。他の全ての単一供給源モデルを却下できます。興味深いことに、ブリテン島の中石器時代個体もチェダー人を除いて全員、この分析では混合していないヴィッラブルーナ祖先系統を有する、とモデル化できます。チェダー人もゴフ洞窟で回収され、その年代は10564~9915年前頃(IntCal20)ですが、代わりに、84.6±0.5%のヴィッラブルーナ関連祖先系統と15.4±0.5%のゴイエQ2関連祖先系統を有する、と最適にモデル化されます(図4)。以下は本論文の図4です。
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 しかし、単一供給源モデルはブリテン島の中石器時代個体群のデータを説明でき、追加のモデルの複雑さは必要ないものの、これら以前に刊行された中石器時代個体群の祖先系統の2供給源モデルも、完全には却下できないことに注意せねばなりません。これら2供給源モデルでは、ヴィッラブルーナ祖先系統が依然として全個体の主要な構成要素で、これらの個体の遺伝的祖先系統は、アヴリーヌ(Aveline)遺跡9号では74.8±9.7%、オゴフ・イル・イェチェン(Ogof yr ychen)遺跡個体では93.2±6.7%となります。対照的に、ゴフ洞窟のマグダレニアン個体は単一供給源ゴイエQ2祖先系統でのみ、ケンドリック洞窟の個体は単一の供給源ヴィッラブルーナ祖先系統でモデル化でき、2供給源モデルは強く却下されるか、低い適合性を示唆する0~100%の範囲外の混合割合が推定されます。


●考察

 これらの個体の遺伝的結果とAMS年代を組み合わせると、後期氷期のブリテン島における2つの遺伝的に異なる集団の存在が示唆されます。これは、本論文で分析されたゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体の異なるmtHgと、その独特な祖先系統パターンの両方で明らかです。ゴフ洞窟の個体がゴイエQ2祖先系統との明確な類似性を示すのに対して、ケンドリック洞窟の個体はヴィッラブルーナ祖先系統(WHG)との類似性を示します。後期マグダレニアンと初期フェダーメッサー群技術を含む石器群が混合起源であることを考えると、ゴフ洞窟の個体における遺伝的混合の欠如への注目も興味深いことです。さらに、ケンドリック洞窟の単一の文化的に識別可能な石器はマグダレニアンに分類されますが、ヴィッラブルーナ祖先系統は以前には続グラヴェティアン(続グラヴェット文化)およびアジリアン/フェダーメッサー群文化と関連づけられてきました。

 しかし、ケンドリック洞窟の刻まれて穿孔された人工遺物はフェダーメッサー群文化と関連するヨーロッパ大陸部の美術と様式的に類似しています。文化と遺伝子との間の境界がこの時点で崩壊するか、あるいは文化的および遺伝的に異なる集団がゴフ洞窟とケンドリック洞窟の両方に存在したかもしれませんが、その証拠は現時点で年代的に解決できない解像度です。しかし、本論文の分析は、ヴィッラブルーナ祖先系統がすでに後期氷期にブリテン島内部に存在した、と論証します。これは、ブリテン島におけるヴィッラブルーナ祖先系統の出現が完新世に先行する、と示唆します。おそらく、たとえば中石器時代開始における第二の移住など、ブリテン島へのヴィッラブルーナ祖先系統を有する集団の移住が複数あったかもしれませんが、本論文のデータには現時点で、この可能性に論評するだけの解像度がありません。

 しかし、後期氷期亜間氷期と初期完新世の温暖な気候は、ほぼGS-1と同時代の12900~11700年前頃となるヤンガー・ドライアス亜氷期(Younger Dryas Stadial)により中断されていたことへの注意が必要です。この時、気温は著しく寒冷化し、氷床はスコットランドで拡大し、アカシカが再度ブリテン島南西部の洞窟遺跡群で優占的な動物になりました。現時点で、ヤンガー・ドライアス期のブリテン諸島におけるヒトの存在を記録する放射性炭素測定はありません。これは化石生成論と保存の問題の結果かもしれませんが、ヒトの存在における間隙が実際にあったならば、これはブリテン島へのヴィッラブルーナ祖先系統の複数回の移住が起きた可能性を示唆します。

 現時点で利用可能なデータに基づくと、旧石器時代後期のケンドリック洞窟の個体が単一供給源のヴィッラブルーナ祖先系統を有しているのに対して、一部のブリテン島中石器時代個体はチェダー人との有意により多くの類似性を示しており、チェダー人は2供給源のゴイエQ2およびヴィッラブルーナ祖先系統を有している、とモデル化できます。したがって、これが示唆するのは、現時点での解像度の限界では、ある程度の遺伝的変化が、ブリテン島における中石器時代の出現とともに見られるかなりの文化的変化を伴って並行して起きたかもしれない、ということです。

 興味深いことに、これら2つの遺伝的に異なる上部旧石器時代後期人口集団は、ブリテン島に600年と1200年離れて存在し、同位体的に異なる食性を有していたようです。ケンドリック洞窟の個体は海洋性および淡水性の食物を消費しており、高栄養の海洋性哺乳類が含まれます。対照的に、ゴフ洞窟のヒト骨格群は海洋性および/もしくは淡水性資源消費の証拠を示さず、代わりに食性はおもに陸生草食動物、とくにアカシカとウシ属とウマに基づいており、ウマも含まれていました。しかし、これは食人の対象となった個体が、同遺跡で回収された動物遺骸を消費していた個体でもあった、ということを前提としています。

 これと並行して興味深いのは、ドイツのブリッレンヘーレおよびホーレ・フェルスやポーランドのマズシュッカ洞窟(Mazsycka Cave)でも見られる、ゴフ洞窟における食人とヒト資料の二次処理の証拠がある一方で、ケンドリック洞窟は、装飾されたウマの下顎など重要な動産芸術品と関連する、埋葬地として用いられた可能性があると解釈されてきた、と注意することです。これら一連の証拠を組み合わせると、異なる遺伝的類似性と食性と文化的行動を有する少なくとも2つの異なるヒト集団が後期氷期のブリテン島に存在していた、との解釈が裏づけられます。

 しかし、これらの人口集団の潜在的な供給源の判断は複雑です。この期間に、ブリテン島はドッガーランド(Doggerland)経由でヨーロッパ大陸本土とつながっていました。それにも関わらず、後期氷期のチャンネル川はおそらく、パリ盆地からなどの、より南西の地点での横断は困難で、移動への(季節的な)障壁を形成していた、と示唆されています。代わりに、後期氷期にブリテン島に到来した人口集団は、チャンネル川と古エルベ流域との間のもっと東方の経路をとり、おそらくはベルギーおよびオランダとブリテン島をつなぐ高地の地域を横断した、と提案されてきました。しかし、これらの仮説は、こうした地域に保存されている、古代DNA解析とAMS年代測定に適した旧石器時代後期遺骸の欠如のため、検証困難です。

 それにも関わらず、本論文のqpAdmモデル化では、ゴフ洞窟のモデル化された境界開始および終了年代に基づくと、ゴイエQ2祖先系統がブリテン島で少なくとも15070年前頃まで、遅ければ14610年前頃まで存続した、と示唆されます。亜間氷期の温暖化前と、トナカイとウマの最初の証拠が景観に戻った直後のイングランド南西部における人々の出現は、このゴイエQ2祖先系統と組み合わせると、これらの人々がLGMと後期氷期の初期に、ゴイエQ2とヴィッラブルーナの祖先系統が混合したより南方の人口集団から孤立したままの、マグダレニアン人口集団に由来しているかもしれない、と示唆します。

 それは恐らく、主要な寒冷適応の獲物種のより北方の緯度への収縮を引き起こしたLGM後の気候改善と後期氷期の急速な気候温暖化で、これはじっさい、マグダレニアンの寒冷適応人口集団による北方への後退を促進しました。しかし、少なくとも13800~13240年前頃以降、ヴィッラブルーナ(WHG)祖先系統がブリテン島に出現し、中石器時代まで存続し、農耕出現とともに新石器時代の開始にやっと置換されました。この祖先系統の供給源人口集団とブリテン島への経路は不明なままですが、かなりの環境変化をもたらした後期氷期の急速な気候温暖化が、ヒト集団に新たな生態学的機会を提供したかもしれません。同様に、これらの環境の発展は、寒冷適応動物相とその利用に特化した人々にかなりの圧力をかけたかもしれません。


●まとめ

 ブリテン島の最初の旧石器時代ヒト骨格資料の配列決定により、本論文はヨーロッパの古ゲノミクスの範囲を拡張しました。さらに、この研究内で生成された遺伝的データは明確に、後期氷期のブリテン島には二重の遺伝的祖先系統が存在したようだ、と論証します。ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の資料から生成された新たなAMS年代測定と既存のデータの再較正も、上部旧石器時代後期ブリテン島におけるこれら2つの遺伝的に異なる人口集団の年代が近く、600年ほど離れていた可能性を示唆します。興味深いことに、二重の後期更新世祖先系統は、イベリア半島狩猟採集民でも論証されました(関連記事)。しかし、混合したゴイエQ2とヴィッラブルーナ祖先系統は少なくとも187770年前頃以降のエル・ミロン洞窟などヨーロッパ南部で見られるものの、この混合の痕跡はブリテン島の個体では見られず、それ故に、ヨーロッパ南西部よりもヨーロッパ北西部でより顕著な遺伝的交代もしくは置換が示唆されます。

 さらに、ゴフ洞窟とケンドリック洞窟の個体は、年代が近いにも関わらず、安定同位体分析を通じて証明されたように、その遺伝的祖先系統だけではなく埋葬慣行と食性にも違いがある、と論証されます。これは、ブリテン島内における動的で多様な後期氷期の全体像を提示し、急速な環境と生態学的変化の期間において、上部旧石器時代後期には食性と埋葬行動と技術と遺伝的類似性で変化がありました。ブリテン島の初期先史時代遺伝学の既存の知識に本論文のデータを追加することで現れる新たなシナリオは、イギリスにおける複数回の人口集団交代事象の一つです。これは、ブリテン島の初期先史時代を通じて動的で変化し、ヨーロッパ大陸部全体で見られる事象を映し出す人口集団を反映している、と見ることができます。

 後期更新世ブリテン島のヒト遺骸の欠如は、DNA保存の限界とともに、この期間の分析には常に限界があることを意味します。しかし本論文は、ブリテン島の後期氷期のヒト骨格資料から有益な遺伝的情報を得ることと、これらのデータがブリテン諸島のヒトの初期居住と人口移動とヨーロッパ大陸部との相互作用と人口集団置換の可能性についての理解を深めることが可能である、と論証します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:ブリテン最古のヒトDNAから明らかになった異なる生活と血統

 ブリテン史上、既知最古のヒトDNAについて報告する論文が、Nature Ecology & Evolution に掲載される。約1万4000年前に生きていた2人の後期旧石器時代人の解析に基づく今回の知見によって、異なる血統的起源と、完新世以前のグレートブリテン島への複数集団の移住が明らかになった。

 ブリテンには最終氷期極大期以前から人類が生活していたが、約1万9000年前まで島には氷床が広がっており、その氷が融解し始めるまでは居住に適した場所が限られていたため、居住者は少なかった。

 Sophy Charltonたちは今回、英国サマセット州の「ゴフの洞窟(Gough's Cave)」から出土した1人、およびウェールズの「ケンドリックの洞窟(Kendrick's Cave)」から出土した1人のゲノムの塩基配列を解読し、得られた遺伝子データを各遺跡の文化的・生態学的実際に関する情報と関連付けた。ゴフの洞窟の人は約1万4900年前に生きていた女性であった一方、ケンドリックの洞窟の人はその1000年ほど後に生きていた男性であった。両遺跡は居住の年代が比較的近いが、ゴフの洞窟の人はベルギーで出土した1万5000年前のゴイエ(Goyet)Q2の個体と関連する遺伝的系統のデータを共有する一方、ケンドリックの洞窟の人はイタリアで出土した1万4000年前のヴィッラブルーナ(Villabruna)の人と同じ系統であった。このことから、ブリテンには遺伝的に異なる2つの集団が互いから約1000年以内に存在したことが指摘された。それは、後期更新世の欧州の別の場所でみられるいわゆる「複系統(dual ancestry)」のパターンと重なる。考古学的および同位体分析から、その2人の間には文化、食物、および葬法に関する相違も見いだされた。

 関連するNews & ViewsではChantel Connellerが、その知見を前向きに受け入れながらも、遺伝的特徴と社会的集団と考古学的文化の過度に単純化された相関を想定することを戒めている。そして、「旧石器考古学は比較的編年が不正確でデータセットが小さいため、数百年ないしは数千年も離れている可能性のある集団的出来事や物質文化的変化に関する同時性の主張に対し、とりわけ脆弱である。起源の物語は強力であり、政治的に中立であることはほとんどない」と述べている。



参考文献:
Charlton S. et al.(2022): Dual ancestries and ecologies of the Late Glacial Palaeolithic in Britain. Nature Ecology & Evolution, 6, 11, 1658–1668.
https://doi.org/10.1038/s41559-022-01883-z

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