坂野徹『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2022年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「縄文人」と「弥生人」に関する、進展著しい古代DNA研究も含めて人類学と考古学最新の研究の解説ではなく、おもに1990年代までの「日本人起源論」が、同時代の思潮からどのように影響を受けて提示されたのか、検証した学説史です。本書は、これまでの「日本人起源論」の学説史が、その時点での有力説と整合的な過去の学説を過大評価する傾向にあった、と問題を提起します。
日本における近代的な人類学・考古学研究はモース(Edward Sylvester Morse)による大森貝塚の発掘に始まる、と言われています。ただ、日本における近代的な人類学・考古学の黎明期を主導したのは、モースが直接的に指導した学生ではなく、坪井正五郎と坪井が率いる人類学会でした。また本書は、すでに江戸時代において好古趣味があり、土器や石器などの収集・研究が盛んで、坪井も好古少年の一人だった、と指摘します。坪井は学外での活動に精力的で、それもあって学問の世界で人類学の認知がなかなか進まず、東大の人類学教室は長きにわたって正規の所属学生を有する学科にはなれませんでした。坪井の影響下、明治期には人類学という名目で考古学研究も進められ、考古学独自の学会も作られます。
こうした日本における近代的な人類学・考古学の黎明期の「日本人種論」を主導し、後に大きな影響を与えたのは、モースのなど「お雇い外国人」でした。モースは、日本人の祖先は南方から日本列島に渡来し、北方から南下して日本列島を占拠していたアイヌの祖先に取って代わり、大森貝塚を残したのはアイヌ以前の「人種(プレ・アイヌ)」だった、と考えました。これは、アイヌには土器製作の習慣がないことを根拠としていました。シーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)の息子であるアレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander George Gustav von Siebold)は、アイヌこそが日本の先住民族と主張しました。ジョン・ミルン(John Milne)は、アイヌがかつて日本全土に住んでおり、後から渡来した日本人がアイヌを追って北上した、と主張しましたが、北海道では、アイヌの前にコロボックル(コロポクグル)が存在し、その後でアイヌ、さらにその後に日本人が到来した、と考えていました。この3人はおもに石器時時代の遺物遺跡に依拠しましたが、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)は生体の計測・観察と頭骨研究に基づいて、日本人種論を主張しました。ベルツは日本人を、アイヌ系と中国・朝鮮の上流階級に似たモンゴル系(代表は長州人)とマレー人に似た別のモンゴル系(代表は薩摩人)の3構成要素と把握しました。ベルツはアイヌを、「白人種」でかつて本州の広範囲に存在した、と考えていました。これら明治期の欧米系研究者の日本人起源論には違いもあるものの、記紀に基づいて、かつて日本列島において先住民族と日本人の祖先との間で闘争があった、と主張した点は共通していました。本書はこうした見解を、「人種交替モデル」と呼びます。本書はこうした見解の背景として、当時社会進化論が欧米を席巻しており、人類史を「人種」間の征服=交替により把握する歴史(先史時代)観がありふれていたことを指摘します。また本書は、こうした見解の根拠が記紀だったことは、日本の「文明」に対する欧米系研究者の信頼を反映している、と指摘します。
日本人研究者による日本人種論は、こうした外国人研究者による議論の延長線上に展開し、最初期における代表的なものがコロボックル論争でした。坪井が石器や土器の共通性から日本列島の先住民族はコロボックルと主張したのに対して、小金井良精はアイヌが日本列島の先住民族と主張しました。ただ、小金井は専門の人骨ではなく遺物遺跡でしたが、小金井は坪井より慎重で、当時まだ証拠が不充分だと認めていました。当時、すでに後の縄文土器と弥生土器の区分につながる分類が提示されつつありましたが、土器に基づいて縄文と弥生を対比させる発想はまだ確立していませんでした。その後、じょじょに弥生土器が縄文土器より古い、という認識が広がっていきます。このコロボックル論争は、坪井の弟子である鳥居龍蔵の調査によりアイヌ説の優位が確立していき、1913年に坪井が急逝したことにより、アイヌ説が一般的となります。
一方、明治期の人類学・考古学における日本人種論では、日本列島の先住民族をめぐる議論は盛んだったものの、先住民族を駆逐・征服したとされる日本人の起源についての議論はほとんど行なわれませんでした。これについて、天皇制の根幹に触れることが忌避された側面も指摘されていますが、本書はその理由として、同時期の歴史学ではさまざまな日本人起源論が語られていることから、日本人のユーラシア大陸由来についてほぼ共通理解が得られている一方で、アジア東部に関する知見が欠けていたことと、おもな研究対象は国内の遺物遺跡で、限られた資料から実証的に論じるのは困難だったことを挙げています。さらに本書が重視するのは、集団としての日本人をどう把握するのか、という問題です。当時、人種を生物学的区別、民族を文化的区別とする、日本において長く一般的だった観念はまだ確立しておらず、人種とは単に「同じ種類の人」を意味していました。坪井は、日本人という分類が国境という枠組みにより作られることに自覚的でしたが、大正期になると、日本人という枠組みの恣意性への自覚が消えていきます。これには、比較的新しい用語である「民族」の普及と相関しているようで、民族には当初から文化・歴史的意味合いが含められており、その普及につれて人種は「生物学化」した、と本書は推測します。高木敏雄はその初期において明確にこうした区分で民族と人種を語りつつ、日本人種は仮構的にすぎない、と指摘していました。大正期以降の人類学・考古学では、日本人の文化的・歴史的統一性もしくは民族としての一体性を前提に、日本人の起源を追求していきます。鳥居はアイヌが日本列島の先住民族だと断定し、日本人の祖先について、固有日本人とインドネジアンと印度支那民族の混血により成立した、と主張しました。鳥居説では、多数派の固有日本人が天孫降臨前から日本に入り込んでおり弥生土器をもたらした民族で、原始的で文化程度の低いインドネジアンが日本列島への到来の過程で多くの民族と混血し、「南支那に古くより存在する苗(ミャオ)族系統の印度民族(印度支那民族)」が銅鐸を日本にもたらした、と想定されていました。本書はこうした鳥居説の背景に、日清戦争以降の日本の領土拡大があった、と指摘します。新たに領地での現地調査により、以前には得られなかった確たる証拠を得て、自説を疑う人はいなくなった、と鳥居は豪語しました。
しかし、この鳥居説の提示直後から、その下の世代(坪井と小金井を第一世代、鳥居を第二世代とすると、第三世代)が鳥居説に異議が呈されます。この第三世代の特徴は、第一世代と第二世代では総合人類学的志向が強かったのに対して、より専門的な手法で日本人起源論を追求したことです。考古学では、濱田耕作が土器の違いを人種の違いと直結させる見解に疑問を呈しましたが、当初は鳥居説の影響も強く受けていました。人類学では、長谷部言人が、日本列島におけるアイヌから日本人への人種交替を想定した鳥居説の強力な批判者として現れました。松本彦七郎は、日本人とアイヌとの間に第三人種を想定し、日本人による第三人種の同化によりアイヌの人種的孤立性を説明しようとしましたが、濱田や長谷部と比較して、記紀への批判意識は希薄でした。松本は、日本人がアジア系とヨーロッパ系両方の子孫なので、東西の文化文明を「融和消化」できた、と主張しました。これは、「一等国」になった、というような日本における民族主義の高まりが背景にあるようです。清野謙次は、日本人もアイヌも日本石器時代人(日本原人)がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、と主張しました。ただ、日本石器時代人と現代日本人との間には大きな違いがあり、別の「人種」とも指摘されていました。人骨の統計処理に基づく清野説は、文化と人種の問題を分ける発想に大きな影響を及ぼし、人類学と考古学の分離に決定的な意味を持ちました。日本列島における石器時代からの(混血も伴いつつ)人類集団の連続性を想定する見解は本書では、鳥居説など人種交替モデルに対して人種連続モデルと呼ばれます。本書は、第一世代および第二世代と比較して記紀への依拠に否定的な第三世代の論調は、津田左右吉による記紀批判とも共鳴していた、と本書は指摘します。
人類学と考古学の分離により、「人種論」が人類学の「専有物」となった後、考古学は固有の方法論を確立する必要に迫られ、多くの研究者が土器の編年に取り組みます。1930年代には縄文土器(山内清男たち)と弥生土器(森本六爾や小林行雄たち)の編年体系の基礎が確立し、これが日本人起源論と関わってきます。それまで、日本の人類学・考古学ではヨーロッパ基準の石器時代という時代区分が用いられていましたが、この編年体系の基礎の確立を契機に、次第に弥生時代という概念が浸透していき、第二次世界大戦後には縄文時代と弥生時代という呼称が定着しました。山内たちと森本たちとの間には、日本列島における稲作起源論をめぐる確執から、対立関係が存在しました。ただ、この論争において、縄文土器の時代と弥生土器の時代を生産手段の違い(後者において水田稲作が始まります)と把握する見解の基礎が確立していきました。両者の違いは、縄文土器の時代と弥生土器の時代への移行過程にありました。山内は縄文土器が日本列島でほぼ同時期に終焉した、と主張しましたが、森本と小林は、弥生文化が大陸から九州北部へと伝わり、そこから日本列島全域に拡大した、と主張しました。つまり、弥生文化の始まりには地域差があるわけで、縄文土器から弥生土器への日本列島規模の同じ頃の移行を想定する山内説とは相いれないわけです。山内は、弥生土器の起源は縄文土器にある、と考えていました。山内は人種論への言及には慎重でしたが、座談会での発言からは人種連続モデルの枠内にいました。本書は、山内が清野から影響を受けた、と推測します。ただ、当時、人種連続モデルを支持する考古学者は少数だったようです。そうした考古学者の中には、人種交替モデルというよりは、縄文土器の担い手と(ユーラシア大陸東部から到来した)弥生土器の担い手との間の平和裡の融合により日本人が形成された、と考える人もいました。本書はこれを、「縄文人/弥生人モデル」と呼びます。この議論の過程で、再び記紀神話が人類学・考古学研究に強い影響を及ぼすようになります。
日本人起源論と関連して議論になったのは、日本列島における旧石器時代の存在です。第二次世界大戦前には、日本列島に旧石器時代は存在しなかった、との「常識」があった、と一般的に言われているようですが、本書は、そこまで単純な話ではない、と指摘します。たとえば、戦前の大物考古学者だった濱田も、日本列島における旧石器時代の存在を全否定したわけではありませんでした。さらに本書は、そもそも戦前の日本の考古学において旧石器か否かの厳密な判断は困難だった、と指摘します。上述のように1930年代には土器の編年研究は飛躍的に発展しましたが、石器に関する研究はあまり進んでいませんでした。戦前日本の人類学・考古学における旧石器時代への関心は、中国で「北京原人」など旧石器時代の化石人類や石器が相次いで発見されたことにより、高まっていきました。ただ、長谷部など人種連続モデルの支持者は、「明石原人」の発見なども含めてこうした国内外の知見を日本人起源論と関係づけて論じられませんでした。なお本書は、現生人類(Homo sapiens)の単一起源説と多地域進化説について、1980年代頃までは多地域進化説の方がむしろ有力だった、と指摘しますが、そもそも現在につながる現生人類多地域進化説の最終的な成立は1980年代で、多地域進化説的な見解を主張した研究者は、本書でも言及されている1948年に没したフランツ・ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)などそれ以前からいましたが、多地域進化説的な見解は最有力とは必ずしも言えませんでした(関連記事)。人類起源地について、当初はアフリカよりもアジアの方が有力だった、との本書の指摘は妥当だと思います。
日中戦争と太平洋戦争の頃には、国家の学問への圧力が強まり、人類学・考古学にも影響を及ぼしていきます。かつて古典を信頼しすぎないよう注意喚起していた長谷部は、1939年には完全に記紀に依存した日本人起源論を主張するようになります。長谷部は、日本の石器時代文化は世界無比と言えるくらい「絢爛」だと主張し、日本人の(大規模な)混血性を完全に否定するようになりました。長谷部は、日本人が大陸もしくは南方から移住してきた、との説には証拠がなく、「人類初発ののち間もなく日本人はこの日本の地に占居したので、初発の地を除くならば日本以外に日本人の郷土はない」とまで言い、日本人と周辺民族との類似性・親近性を否定しました。これは、万世一系たる皇室が日本で生まれたことも保証します。ただ、当時の日本は朝鮮半島と台湾も領土としており、内地と外地の一体性の観点から、明治期以降に「日鮮同祖論」も主張されていたくらいでした。したがって、長谷部の理論は「皇国」たる大日本帝国の「臣民」間に亀裂を生じさせる危険性もありました。当時、長谷部の理論が多くの支持を得ていたとは言い難い、と本書は評価します。一方、清野はこの間、「日本原人」がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、との以前から主張に基本的に変わりはありませんでしたが、「日本原人」は現代日本人の土台ではあるものの別の「人種」とみなすべき、との見解から、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、との見解に変わりました。清野は、「皇室は神代から日本国の日本人」で、神代記の諸神の活動はほぼ日本国内の事件と考えるべきだ、と主張し、この頃には長谷部と同様に記紀に大きく依拠するようになりました。過去における異民族との混血を認めつつ、その後に同化が進んで統一的な日本民族になった、という清野の言説は、戦時中には主流でした。一方この間、考古学は神武天皇の聖蹟調査に動員されるなど、時局とは無縁でいられませんでした。ただ、1941年2月に在野の3考古学会が結集して設立された日本古代文化学会について、「設立趣意書」や学会誌『古代文化』の巻頭のように時局に沿った文章もあったものの、寄稿論文や活動内容は同時代の政治状況にほとんど影響を受けておらず、大東亜共栄圏を考古学の立場から支えようという考察もほぼ皆無でした。当時の考古学には、記紀の建国神話に大きく依拠することへの抵抗があったようです。この時期の考古学では、先住の縄文人と後来の弥生人が融合した、との主張が多く見られるようになります。ただ、弥生人のユーラシア大陸(東部)からの渡来は明示的に語られず、それは当時証拠が少なかったからでもありました。
日本が第二次世界大戦で敗れたことにより、人類学・考古学の状況は大きく変わります。敗戦直後の混乱状態が次第に落ち着くなか、日本考古学のその後を決定づけたのは、1947年夏に始まった登呂遺跡の発掘とその後の日本考古学協会の創設でした。登呂遺跡の発掘に当時の考古学界は総力をあげて取り組み、さらには政府や皇室も巻き込む一代事業となりました。登呂遺跡は広く日本社会において大きな関心を集めましたが、本書は、人々の関心が縄文ではなく弥生だったことに注目します。当時、縄文は日本の基層(深層)文化ではなく、貧しく遅れた文化で、前座か露払いのような地位とみなされていました。登呂遺跡は、皇国史観に覆われていた日本古代史を明らかにする鍵と考えられ、水田稲作は「日本文化」の起源の探求と把握されました。当時、稲作こそ日本文化の中心との観念は強く、マルクス主義により強調される単線的な唯物史観が弥生文化=稲作との認識を強化しました。登呂遺跡は、戦後の「水田中心史観」の研究の出発点になりました。登呂遺跡の発掘とともにこの時期の考古学にとって重要なのは、岩宿遺跡における旧石器の発見でした。敗戦後、山内は考古学の重鎮となっていきますが、それは、敗戦により植民地帝国が崩壊し、日本列島に限定された戦後の日本考古学に適合していたのは、日本人(日本文化)の連続性・一系性に重点を置く山内の理論(人種連続モデル)だったからでした。
敗戦後の人類学では、長谷部が「明石原人」の石膏模型を発見し、「明石原人」は「北京原人」と同年代だと主張しました。長谷部は「明石原人」の発見者である直良信夫を「明石原人」調査団に含めず、それへの反発からか、直良は「葛生原人」や「日本橋人類」など相次いで古人骨を報告・命名し、「葛生原人」や「日本橋人類」については直良と親しい清野がお墨付きを与えました。清野は長谷部を競合者として意識していたようです。ただ、直良が報告した「人骨」は全て、後に中世以降の人骨か非ヒト動物の骨だった、と明らかになりました。「明石原人」も、後に旧石器時代の骨ではない、と明らかにされました。清野は戦後、積極的に日本人起源論を主張していきますが、その枠組みは上述の戦中のものと基本的に変わりませんでした。現代日本人の直接的起源は(混血を経つつも)日本石器時代人(日本原人)にある、というわけですしかし、戦後復権したマルクス主義者が清野説を高く評価するようになり、清野説は大きな支持を集めます。一方、戦後の長谷部は「明石原人」の存在を主張しつつ、日本の石器時代人の祖先とは認めず、「明石原人」の絶滅後に新たに石器時代人が陸路で九州に到達した、と推測しました。ただ長谷部は、血統が同じでも進化の過程で「骨格風貌」は変化してきた、と主張し、安易に日本人の成立を語るべきではない、と注意を喚起します。これは、かつては日本石器時代人と現代日本人との体質の大きな違いを主張しながら、その後、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、と見解を変えた清野説への批判にもなっていました。ただ、この時点では、膨大な人骨計測データを根拠にしていた清野と比較して、長谷部の主張は仮説の域を出ていなかった、と本書は評価します。これら清野や長谷部の著書や論文において、縄文と弥生は時代区分として用いられるようになります。
一方考古学では、縄文時代と弥生時代という時代区分が確立したのは1960年前後でした。これは、石器時代から金属器時代という、戦前の(ヨーロッパ基準に則った)時代区分との大きな違いでした。弥生文化の担い手について、考古学では、山内が縄文土器の担い手との連続性を主張しましたが、小林などは明確にユーラシア大陸(東部)からの渡来を想定しました。しかし、人類学では長谷部や清野に見られるように連続性が主張され、多くの考古学者にとって、人類学で「弥生人」のユーラシア大陸(東部)から日本列島への到来が認められないことは、大きな悩みとなりました。この状況で、人類学において新たな日本人起源論を提唱したのが金関丈夫で、人類学・考古学に留まらず幅広い学識がありました。金関は、「日本石器時代人」より高身長の「新しい種族」が弥生文化とともに日本列島に渡来し、九州北部から近畿地方にまで広がったものの、大陸部からの「後続部隊」はなく、人口も少なかったので、長身という形質は「在来種」に吸収されて失われ、「新しい種族」の起源地の有力候補は朝鮮半島南部と推測しました。この金関説(渡来・混血説)は、当時の多くの考古学者にとって歓迎すべきものでした。しかし、人類学においては長谷部説を鈴木尚が継承して発展させ(変形説)、渡来説が直ちに通説と認められたわけではありませんでした。鈴木は、先史時代(縄文時代と弥生時代)や古墳時代だけではなく、中世と近世の人骨を大量に収集し、その計測データに基づいて変形説を提唱しました。鈴木は頭蓋指数(頭蓋の頭長に対する頭幅比)が時代により変化することを実証し、「人種」について論じる指標の根拠の危うさを指摘しました。鈴木は、日本列島の人類集団は混血ではなく生活環境の変化による小進化により現在の日本人になった、と主張し続け、多くの人類学者から指示されます。ただ本書は、金関も鈴木も、渡来説と変形説が決定的に対立するとは主張しなかった、と注意を喚起します。金関説では、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者の形質は在来の「縄文人」に吸収された、と想定されているからです。その後、九州北部で多数の高身長人骨が発掘されるなど、渡来説が有利になり、1980年代には鈴木も弥生時代におけるユーラシア大陸(東部)から日本列島への渡来を認めるようになります。
金関説の延長線上に提示されたのが、埴原和郎の二重構造モデルでした。これは最初、1991年に英文で発表されました。二重構造モデルは、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者数を限定的に想定していた金関説とは異なり、大規模な渡来集団を想定したため、変形説との共存は困難でした。また、二重構造モデルは埴原の独創ではなく、当時の多くの人類学者の見解も同様でした。本書は、二重構造モデルも含めて縄文と弥生の区別に基づく縄文/弥生人モデルを、人類学と考古学の合作と評価しています。埴原の二重構造モデルについて、国際日本文化研究センター(日文研)の初代所長である梅原猛との密接な協力関係のなかで形成されたことに、本書は注目します。梅原などいわゆる新京都学派こそ、縄文を日本の基層・深層・古層と把握する発想の起源と考えられるからです。これは、縄文時代と弥生時代という時代区分の成立により初めて可能になった発想でした。この縄文古層論は、現在の日本社会でも俗流文化論として大きな影響を有しています。本書は最後に今後の日本人起源論について、ゲノム研究の進展などにより多源性の認識がさらに深まるだろう、と展望しているとともに、すでに多様な出自の人が日本で暮らしている以上、やがては日本人起源論が終わる可能性にも言及しています。
以上、本書についてざっと見てきました。本書は1990年代までの日本人起源論の変遷を取り上げており、これまで私の理解が浅かったので、たいへん有益でした。本書では取り上げられていない、日本人起源論の最新の研究については、おもに古代DNA研究を対象に、当ブログでそれなりに取り上げています。縄文時代(関連記事)と弥生時代および古墳時代(関連記事)の古代DNA研究からは、本書でも最後にわずかに言及されているように、日本列島における人類史がかなり複雑で、二重構造モデルでさえまだ単純化されていた、と示唆されます。日本人起源論については、当ブログで今後もできるだけ最新の研究を追いかけていくつもりです。
参考文献:
坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
日本における近代的な人類学・考古学研究はモース(Edward Sylvester Morse)による大森貝塚の発掘に始まる、と言われています。ただ、日本における近代的な人類学・考古学の黎明期を主導したのは、モースが直接的に指導した学生ではなく、坪井正五郎と坪井が率いる人類学会でした。また本書は、すでに江戸時代において好古趣味があり、土器や石器などの収集・研究が盛んで、坪井も好古少年の一人だった、と指摘します。坪井は学外での活動に精力的で、それもあって学問の世界で人類学の認知がなかなか進まず、東大の人類学教室は長きにわたって正規の所属学生を有する学科にはなれませんでした。坪井の影響下、明治期には人類学という名目で考古学研究も進められ、考古学独自の学会も作られます。
こうした日本における近代的な人類学・考古学の黎明期の「日本人種論」を主導し、後に大きな影響を与えたのは、モースのなど「お雇い外国人」でした。モースは、日本人の祖先は南方から日本列島に渡来し、北方から南下して日本列島を占拠していたアイヌの祖先に取って代わり、大森貝塚を残したのはアイヌ以前の「人種(プレ・アイヌ)」だった、と考えました。これは、アイヌには土器製作の習慣がないことを根拠としていました。シーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)の息子であるアレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander George Gustav von Siebold)は、アイヌこそが日本の先住民族と主張しました。ジョン・ミルン(John Milne)は、アイヌがかつて日本全土に住んでおり、後から渡来した日本人がアイヌを追って北上した、と主張しましたが、北海道では、アイヌの前にコロボックル(コロポクグル)が存在し、その後でアイヌ、さらにその後に日本人が到来した、と考えていました。この3人はおもに石器時時代の遺物遺跡に依拠しましたが、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)は生体の計測・観察と頭骨研究に基づいて、日本人種論を主張しました。ベルツは日本人を、アイヌ系と中国・朝鮮の上流階級に似たモンゴル系(代表は長州人)とマレー人に似た別のモンゴル系(代表は薩摩人)の3構成要素と把握しました。ベルツはアイヌを、「白人種」でかつて本州の広範囲に存在した、と考えていました。これら明治期の欧米系研究者の日本人起源論には違いもあるものの、記紀に基づいて、かつて日本列島において先住民族と日本人の祖先との間で闘争があった、と主張した点は共通していました。本書はこうした見解を、「人種交替モデル」と呼びます。本書はこうした見解の背景として、当時社会進化論が欧米を席巻しており、人類史を「人種」間の征服=交替により把握する歴史(先史時代)観がありふれていたことを指摘します。また本書は、こうした見解の根拠が記紀だったことは、日本の「文明」に対する欧米系研究者の信頼を反映している、と指摘します。
日本人研究者による日本人種論は、こうした外国人研究者による議論の延長線上に展開し、最初期における代表的なものがコロボックル論争でした。坪井が石器や土器の共通性から日本列島の先住民族はコロボックルと主張したのに対して、小金井良精はアイヌが日本列島の先住民族と主張しました。ただ、小金井は専門の人骨ではなく遺物遺跡でしたが、小金井は坪井より慎重で、当時まだ証拠が不充分だと認めていました。当時、すでに後の縄文土器と弥生土器の区分につながる分類が提示されつつありましたが、土器に基づいて縄文と弥生を対比させる発想はまだ確立していませんでした。その後、じょじょに弥生土器が縄文土器より古い、という認識が広がっていきます。このコロボックル論争は、坪井の弟子である鳥居龍蔵の調査によりアイヌ説の優位が確立していき、1913年に坪井が急逝したことにより、アイヌ説が一般的となります。
一方、明治期の人類学・考古学における日本人種論では、日本列島の先住民族をめぐる議論は盛んだったものの、先住民族を駆逐・征服したとされる日本人の起源についての議論はほとんど行なわれませんでした。これについて、天皇制の根幹に触れることが忌避された側面も指摘されていますが、本書はその理由として、同時期の歴史学ではさまざまな日本人起源論が語られていることから、日本人のユーラシア大陸由来についてほぼ共通理解が得られている一方で、アジア東部に関する知見が欠けていたことと、おもな研究対象は国内の遺物遺跡で、限られた資料から実証的に論じるのは困難だったことを挙げています。さらに本書が重視するのは、集団としての日本人をどう把握するのか、という問題です。当時、人種を生物学的区別、民族を文化的区別とする、日本において長く一般的だった観念はまだ確立しておらず、人種とは単に「同じ種類の人」を意味していました。坪井は、日本人という分類が国境という枠組みにより作られることに自覚的でしたが、大正期になると、日本人という枠組みの恣意性への自覚が消えていきます。これには、比較的新しい用語である「民族」の普及と相関しているようで、民族には当初から文化・歴史的意味合いが含められており、その普及につれて人種は「生物学化」した、と本書は推測します。高木敏雄はその初期において明確にこうした区分で民族と人種を語りつつ、日本人種は仮構的にすぎない、と指摘していました。大正期以降の人類学・考古学では、日本人の文化的・歴史的統一性もしくは民族としての一体性を前提に、日本人の起源を追求していきます。鳥居はアイヌが日本列島の先住民族だと断定し、日本人の祖先について、固有日本人とインドネジアンと印度支那民族の混血により成立した、と主張しました。鳥居説では、多数派の固有日本人が天孫降臨前から日本に入り込んでおり弥生土器をもたらした民族で、原始的で文化程度の低いインドネジアンが日本列島への到来の過程で多くの民族と混血し、「南支那に古くより存在する苗(ミャオ)族系統の印度民族(印度支那民族)」が銅鐸を日本にもたらした、と想定されていました。本書はこうした鳥居説の背景に、日清戦争以降の日本の領土拡大があった、と指摘します。新たに領地での現地調査により、以前には得られなかった確たる証拠を得て、自説を疑う人はいなくなった、と鳥居は豪語しました。
しかし、この鳥居説の提示直後から、その下の世代(坪井と小金井を第一世代、鳥居を第二世代とすると、第三世代)が鳥居説に異議が呈されます。この第三世代の特徴は、第一世代と第二世代では総合人類学的志向が強かったのに対して、より専門的な手法で日本人起源論を追求したことです。考古学では、濱田耕作が土器の違いを人種の違いと直結させる見解に疑問を呈しましたが、当初は鳥居説の影響も強く受けていました。人類学では、長谷部言人が、日本列島におけるアイヌから日本人への人種交替を想定した鳥居説の強力な批判者として現れました。松本彦七郎は、日本人とアイヌとの間に第三人種を想定し、日本人による第三人種の同化によりアイヌの人種的孤立性を説明しようとしましたが、濱田や長谷部と比較して、記紀への批判意識は希薄でした。松本は、日本人がアジア系とヨーロッパ系両方の子孫なので、東西の文化文明を「融和消化」できた、と主張しました。これは、「一等国」になった、というような日本における民族主義の高まりが背景にあるようです。清野謙次は、日本人もアイヌも日本石器時代人(日本原人)がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、と主張しました。ただ、日本石器時代人と現代日本人との間には大きな違いがあり、別の「人種」とも指摘されていました。人骨の統計処理に基づく清野説は、文化と人種の問題を分ける発想に大きな影響を及ぼし、人類学と考古学の分離に決定的な意味を持ちました。日本列島における石器時代からの(混血も伴いつつ)人類集団の連続性を想定する見解は本書では、鳥居説など人種交替モデルに対して人種連続モデルと呼ばれます。本書は、第一世代および第二世代と比較して記紀への依拠に否定的な第三世代の論調は、津田左右吉による記紀批判とも共鳴していた、と本書は指摘します。
人類学と考古学の分離により、「人種論」が人類学の「専有物」となった後、考古学は固有の方法論を確立する必要に迫られ、多くの研究者が土器の編年に取り組みます。1930年代には縄文土器(山内清男たち)と弥生土器(森本六爾や小林行雄たち)の編年体系の基礎が確立し、これが日本人起源論と関わってきます。それまで、日本の人類学・考古学ではヨーロッパ基準の石器時代という時代区分が用いられていましたが、この編年体系の基礎の確立を契機に、次第に弥生時代という概念が浸透していき、第二次世界大戦後には縄文時代と弥生時代という呼称が定着しました。山内たちと森本たちとの間には、日本列島における稲作起源論をめぐる確執から、対立関係が存在しました。ただ、この論争において、縄文土器の時代と弥生土器の時代を生産手段の違い(後者において水田稲作が始まります)と把握する見解の基礎が確立していきました。両者の違いは、縄文土器の時代と弥生土器の時代への移行過程にありました。山内は縄文土器が日本列島でほぼ同時期に終焉した、と主張しましたが、森本と小林は、弥生文化が大陸から九州北部へと伝わり、そこから日本列島全域に拡大した、と主張しました。つまり、弥生文化の始まりには地域差があるわけで、縄文土器から弥生土器への日本列島規模の同じ頃の移行を想定する山内説とは相いれないわけです。山内は、弥生土器の起源は縄文土器にある、と考えていました。山内は人種論への言及には慎重でしたが、座談会での発言からは人種連続モデルの枠内にいました。本書は、山内が清野から影響を受けた、と推測します。ただ、当時、人種連続モデルを支持する考古学者は少数だったようです。そうした考古学者の中には、人種交替モデルというよりは、縄文土器の担い手と(ユーラシア大陸東部から到来した)弥生土器の担い手との間の平和裡の融合により日本人が形成された、と考える人もいました。本書はこれを、「縄文人/弥生人モデル」と呼びます。この議論の過程で、再び記紀神話が人類学・考古学研究に強い影響を及ぼすようになります。
日本人起源論と関連して議論になったのは、日本列島における旧石器時代の存在です。第二次世界大戦前には、日本列島に旧石器時代は存在しなかった、との「常識」があった、と一般的に言われているようですが、本書は、そこまで単純な話ではない、と指摘します。たとえば、戦前の大物考古学者だった濱田も、日本列島における旧石器時代の存在を全否定したわけではありませんでした。さらに本書は、そもそも戦前の日本の考古学において旧石器か否かの厳密な判断は困難だった、と指摘します。上述のように1930年代には土器の編年研究は飛躍的に発展しましたが、石器に関する研究はあまり進んでいませんでした。戦前日本の人類学・考古学における旧石器時代への関心は、中国で「北京原人」など旧石器時代の化石人類や石器が相次いで発見されたことにより、高まっていきました。ただ、長谷部など人種連続モデルの支持者は、「明石原人」の発見なども含めてこうした国内外の知見を日本人起源論と関係づけて論じられませんでした。なお本書は、現生人類(Homo sapiens)の単一起源説と多地域進化説について、1980年代頃までは多地域進化説の方がむしろ有力だった、と指摘しますが、そもそも現在につながる現生人類多地域進化説の最終的な成立は1980年代で、多地域進化説的な見解を主張した研究者は、本書でも言及されている1948年に没したフランツ・ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)などそれ以前からいましたが、多地域進化説的な見解は最有力とは必ずしも言えませんでした(関連記事)。人類起源地について、当初はアフリカよりもアジアの方が有力だった、との本書の指摘は妥当だと思います。
日中戦争と太平洋戦争の頃には、国家の学問への圧力が強まり、人類学・考古学にも影響を及ぼしていきます。かつて古典を信頼しすぎないよう注意喚起していた長谷部は、1939年には完全に記紀に依存した日本人起源論を主張するようになります。長谷部は、日本の石器時代文化は世界無比と言えるくらい「絢爛」だと主張し、日本人の(大規模な)混血性を完全に否定するようになりました。長谷部は、日本人が大陸もしくは南方から移住してきた、との説には証拠がなく、「人類初発ののち間もなく日本人はこの日本の地に占居したので、初発の地を除くならば日本以外に日本人の郷土はない」とまで言い、日本人と周辺民族との類似性・親近性を否定しました。これは、万世一系たる皇室が日本で生まれたことも保証します。ただ、当時の日本は朝鮮半島と台湾も領土としており、内地と外地の一体性の観点から、明治期以降に「日鮮同祖論」も主張されていたくらいでした。したがって、長谷部の理論は「皇国」たる大日本帝国の「臣民」間に亀裂を生じさせる危険性もありました。当時、長谷部の理論が多くの支持を得ていたとは言い難い、と本書は評価します。一方、清野はこの間、「日本原人」がそれぞれ「隣接人種」と混血した結果成立した、との以前から主張に基本的に変わりはありませんでしたが、「日本原人」は現代日本人の土台ではあるものの別の「人種」とみなすべき、との見解から、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、との見解に変わりました。清野は、「皇室は神代から日本国の日本人」で、神代記の諸神の活動はほぼ日本国内の事件と考えるべきだ、と主張し、この頃には長谷部と同様に記紀に大きく依拠するようになりました。過去における異民族との混血を認めつつ、その後に同化が進んで統一的な日本民族になった、という清野の言説は、戦時中には主流でした。一方この間、考古学は神武天皇の聖蹟調査に動員されるなど、時局とは無縁でいられませんでした。ただ、1941年2月に在野の3考古学会が結集して設立された日本古代文化学会について、「設立趣意書」や学会誌『古代文化』の巻頭のように時局に沿った文章もあったものの、寄稿論文や活動内容は同時代の政治状況にほとんど影響を受けておらず、大東亜共栄圏を考古学の立場から支えようという考察もほぼ皆無でした。当時の考古学には、記紀の建国神話に大きく依拠することへの抵抗があったようです。この時期の考古学では、先住の縄文人と後来の弥生人が融合した、との主張が多く見られるようになります。ただ、弥生人のユーラシア大陸(東部)からの渡来は明示的に語られず、それは当時証拠が少なかったからでもありました。
日本が第二次世界大戦で敗れたことにより、人類学・考古学の状況は大きく変わります。敗戦直後の混乱状態が次第に落ち着くなか、日本考古学のその後を決定づけたのは、1947年夏に始まった登呂遺跡の発掘とその後の日本考古学協会の創設でした。登呂遺跡の発掘に当時の考古学界は総力をあげて取り組み、さらには政府や皇室も巻き込む一代事業となりました。登呂遺跡は広く日本社会において大きな関心を集めましたが、本書は、人々の関心が縄文ではなく弥生だったことに注目します。当時、縄文は日本の基層(深層)文化ではなく、貧しく遅れた文化で、前座か露払いのような地位とみなされていました。登呂遺跡は、皇国史観に覆われていた日本古代史を明らかにする鍵と考えられ、水田稲作は「日本文化」の起源の探求と把握されました。当時、稲作こそ日本文化の中心との観念は強く、マルクス主義により強調される単線的な唯物史観が弥生文化=稲作との認識を強化しました。登呂遺跡は、戦後の「水田中心史観」の研究の出発点になりました。登呂遺跡の発掘とともにこの時期の考古学にとって重要なのは、岩宿遺跡における旧石器の発見でした。敗戦後、山内は考古学の重鎮となっていきますが、それは、敗戦により植民地帝国が崩壊し、日本列島に限定された戦後の日本考古学に適合していたのは、日本人(日本文化)の連続性・一系性に重点を置く山内の理論(人種連続モデル)だったからでした。
敗戦後の人類学では、長谷部が「明石原人」の石膏模型を発見し、「明石原人」は「北京原人」と同年代だと主張しました。長谷部は「明石原人」の発見者である直良信夫を「明石原人」調査団に含めず、それへの反発からか、直良は「葛生原人」や「日本橋人類」など相次いで古人骨を報告・命名し、「葛生原人」や「日本橋人類」については直良と親しい清野がお墨付きを与えました。清野は長谷部を競合者として意識していたようです。ただ、直良が報告した「人骨」は全て、後に中世以降の人骨か非ヒト動物の骨だった、と明らかになりました。「明石原人」も、後に旧石器時代の骨ではない、と明らかにされました。清野は戦後、積極的に日本人起源論を主張していきますが、その枠組みは上述の戦中のものと基本的に変わりませんでした。現代日本人の直接的起源は(混血を経つつも)日本石器時代人(日本原人)にある、というわけですしかし、戦後復権したマルクス主義者が清野説を高く評価するようになり、清野説は大きな支持を集めます。一方、戦後の長谷部は「明石原人」の存在を主張しつつ、日本の石器時代人の祖先とは認めず、「明石原人」の絶滅後に新たに石器時代人が陸路で九州に到達した、と推測しました。ただ長谷部は、血統が同じでも進化の過程で「骨格風貌」は変化してきた、と主張し、安易に日本人の成立を語るべきではない、と注意を喚起します。これは、かつては日本石器時代人と現代日本人との体質の大きな違いを主張しながら、その後、両者に大きな「人種の体質的変化」はなかった、と見解を変えた清野説への批判にもなっていました。ただ、この時点では、膨大な人骨計測データを根拠にしていた清野と比較して、長谷部の主張は仮説の域を出ていなかった、と本書は評価します。これら清野や長谷部の著書や論文において、縄文と弥生は時代区分として用いられるようになります。
一方考古学では、縄文時代と弥生時代という時代区分が確立したのは1960年前後でした。これは、石器時代から金属器時代という、戦前の(ヨーロッパ基準に則った)時代区分との大きな違いでした。弥生文化の担い手について、考古学では、山内が縄文土器の担い手との連続性を主張しましたが、小林などは明確にユーラシア大陸(東部)からの渡来を想定しました。しかし、人類学では長谷部や清野に見られるように連続性が主張され、多くの考古学者にとって、人類学で「弥生人」のユーラシア大陸(東部)から日本列島への到来が認められないことは、大きな悩みとなりました。この状況で、人類学において新たな日本人起源論を提唱したのが金関丈夫で、人類学・考古学に留まらず幅広い学識がありました。金関は、「日本石器時代人」より高身長の「新しい種族」が弥生文化とともに日本列島に渡来し、九州北部から近畿地方にまで広がったものの、大陸部からの「後続部隊」はなく、人口も少なかったので、長身という形質は「在来種」に吸収されて失われ、「新しい種族」の起源地の有力候補は朝鮮半島南部と推測しました。この金関説(渡来・混血説)は、当時の多くの考古学者にとって歓迎すべきものでした。しかし、人類学においては長谷部説を鈴木尚が継承して発展させ(変形説)、渡来説が直ちに通説と認められたわけではありませんでした。鈴木は、先史時代(縄文時代と弥生時代)や古墳時代だけではなく、中世と近世の人骨を大量に収集し、その計測データに基づいて変形説を提唱しました。鈴木は頭蓋指数(頭蓋の頭長に対する頭幅比)が時代により変化することを実証し、「人種」について論じる指標の根拠の危うさを指摘しました。鈴木は、日本列島の人類集団は混血ではなく生活環境の変化による小進化により現在の日本人になった、と主張し続け、多くの人類学者から指示されます。ただ本書は、金関も鈴木も、渡来説と変形説が決定的に対立するとは主張しなかった、と注意を喚起します。金関説では、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者の形質は在来の「縄文人」に吸収された、と想定されているからです。その後、九州北部で多数の高身長人骨が発掘されるなど、渡来説が有利になり、1980年代には鈴木も弥生時代におけるユーラシア大陸(東部)から日本列島への渡来を認めるようになります。
金関説の延長線上に提示されたのが、埴原和郎の二重構造モデルでした。これは最初、1991年に英文で発表されました。二重構造モデルは、ユーラシア大陸(東部)からの渡来者数を限定的に想定していた金関説とは異なり、大規模な渡来集団を想定したため、変形説との共存は困難でした。また、二重構造モデルは埴原の独創ではなく、当時の多くの人類学者の見解も同様でした。本書は、二重構造モデルも含めて縄文と弥生の区別に基づく縄文/弥生人モデルを、人類学と考古学の合作と評価しています。埴原の二重構造モデルについて、国際日本文化研究センター(日文研)の初代所長である梅原猛との密接な協力関係のなかで形成されたことに、本書は注目します。梅原などいわゆる新京都学派こそ、縄文を日本の基層・深層・古層と把握する発想の起源と考えられるからです。これは、縄文時代と弥生時代という時代区分の成立により初めて可能になった発想でした。この縄文古層論は、現在の日本社会でも俗流文化論として大きな影響を有しています。本書は最後に今後の日本人起源論について、ゲノム研究の進展などにより多源性の認識がさらに深まるだろう、と展望しているとともに、すでに多様な出自の人が日本で暮らしている以上、やがては日本人起源論が終わる可能性にも言及しています。
以上、本書についてざっと見てきました。本書は1990年代までの日本人起源論の変遷を取り上げており、これまで私の理解が浅かったので、たいへん有益でした。本書では取り上げられていない、日本人起源論の最新の研究については、おもに古代DNA研究を対象に、当ブログでそれなりに取り上げています。縄文時代(関連記事)と弥生時代および古墳時代(関連記事)の古代DNA研究からは、本書でも最後にわずかに言及されているように、日本列島における人類史がかなり複雑で、二重構造モデルでさえまだ単純化されていた、と示唆されます。日本人起源論については、当ブログで今後もできるだけ最新の研究を追いかけていくつもりです。
参考文献:
坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
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