フランスとスペイン北部におけるネアンデルタール人と現生人類の共存期間

 フランスとスペイン北部におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の共存期間に関する研究(Djakovic et al., 2022)が公表されました。最近の化石発見により、ネアンデルタール人と現生人類はヨーロッパで5000~6000年間ほど共存していたかもしれない、と示唆されています。しかし、地域的規模での同時代の存在の証拠は、ひじょうに分かりにくいままです。ヨーロッパにおける最も新しい直接的に年代測定されたネアンデルタール人の一部が見られるフランスとスペイン北部では、現生人類の所産とされるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)遺物群がネアンデルタール人と関連するシャテルペロニアン(Châtelperronian)遺物群を「置換した」ようです。ベイズモデル化は出発点として最初と最後の既知の発生を用いて、これらの占拠がじっさい部分的に同時期だったかもしれない指標を提供してきました。しかし現実には、考古学および化石記録において種もしくは文化伝統の「最初」もしくは「最後」の出現を特定できる可能性は低そうです。

 本論文は最適線形推定モデル化を用いて、プロトオーリナシアン(先オーリニャック文化)とシャテルペロニアン(シャテルペロニアン)の考古学的記録のこれら「欠落」部分の統計的推測により、フランスとスペイン北部における現生人類の最初の出現年代とネアンデルタール人の消滅年代を推定します。本論文はさらに、直接的に年代測定されたネアンデルタール人化石遺骸のデータセットを用いて、この地域におけるネアンデルタール人の消滅年代を推定します。本論文の全データセットは、更新された年代範囲生成のために最新の較正曲線(IntCal20)を用いて較正された、66点の現代の放射性炭素決定で構成されます。その結果、この地域の現生人類の居住の開始はネアンデルタール人およびシャテルペロニアンの消滅に1400~2900年ほど先行していた可能性が高い、と示唆されます。これは、新たな独立した手法を用いての、この地域における上部旧石器時代最初期におけるネアンデルタール人と現生人類という2集団間の共存のベイズ由来期間を再確認し、これらの居住の時期に関する理解が記録における大幅な間隙に煩わされない可能性を示唆します。しかし、この共存が何らかの直接的相互作用を伴っていたのかどうかは、まだ解明されていません。


●研究史

 較正年代【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】で5万~4万年前頃に、ネアンデルタール人が解剖学的現代人(anatomically modern humans、略してAMH、現生人類)に置換され、化石記録から消えたので、ヨーロッパの人口統計学的景観は大きく変わりました(関連記事)。ブルガリアとチェコ共和国とフランス南東部の最近の証拠から、AMHはヨーロッパに少なくとも47000~45000年前頃(関連記事1および関連記事2)、おそらくは54000年前頃(関連記事)までに到来した、と示唆されます。大陸規模では、これはこうしたヒト標本間の14000年以上の重複の可能性を示唆しています。

 しかし、ヒト進化史のこの重要な期間におけるネアンデルタール人と現生人類との間の相互作用のその性質と時期と特定の地理的領域については、ほとんど知られていません。たとえば、遺伝的データは、ヨーロッパにおける初期AMHの最近のネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の存在において顕著な差異が存在することを示してきており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、その標本規模は限定的であるものの、後期ネアンデルタール人は近い世代での現生人類の祖先証拠をまだ示していない(関連記事)、との指摘は興味深いものです。このパターンの考えられる説明の一つは、少なくとも一部の地域では、ヨーロッパに移住した最初のAMHが直接的にはネアンデルタール人と遭遇しなかった可能性です。

 考古学的には、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期の最初の期間は、たとえばブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)など、いわゆる「初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)」遺物群により特徴づけられ、IUPは、47000~44000年前頃に起きた、最初の、おそらくは成功しなかったAMHのヨーロッパへの移住を表している、と次第に解釈されるようになっています(関連記事)。「成功しなかった」という用語は、これら最初の集団がヨーロッパの現在の人口集団に目に見える遺伝的寄与を残していないようだということで、用いられてきました。

 しかし、最近刊行された、フランス南東部のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)遺跡からの証拠は、この最初の移住を54000年前頃にまでさかのぼらせる可能性があります(関連記事)。マンドリン洞窟遺跡では、現生人類に分類される大臼歯乳歯が、特有のIUP様式の石器インダストリーのある考古学的層位から回収され、その年代は58000~51000年前頃のどこかの時点です。追加の証拠で確認されたならば、これは見方を大きく変えることになり、ヨーロッパ西部奥深くにおけるAMHを以前の見解より12000年以上早く位置づけます。

 興味深いことに、マンドリン洞窟で確認されたネロニアン(Neronian)インダストリーの消滅に続く12000~14000年以上、フランスのあらゆる地域でAMH居住の証拠はありません。ネロニアンはじっさい、短期の地理的に限定された技術的実体を表しているようです。代わりに、42000年前頃まで、フランスの考古学的記録はネアンデルタール人の遺骸と文化的資料によってのみ特徴づけられるようです。マンドリン洞窟の証拠はじっさい、ヨーロッパにおけるAMH存在のこの最初の期間はおもに、小規模で成功しなかった移住で構成されており、到来したAMHとネアンデルタール人との間に持続的な共存はなかった、との見解を後押しするかもしれません。

 ヨーロッパ全域での42000年前頃となる広義のオーリナシアン(Aurignacian)複合の開始は、AMH集団のヨーロッパへの第二のより成功した移住を反映している、と広く受け入れられており、ホモ・サピエンスによるヨーロッパへの定着の最初の主要で持続的な段階を示しているかもしれません。多くの地域で、プロトオーリナシアンと前期オーリナシアン石器群は、たとえばウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアンやLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)など、いわゆる「移行的」石器インダストリーを急速に置換したようで、そのうち一部はネアンデルタール人の所産とみなされています。

 本論文は「移行的」という用語を、意思伝達の手段として用います。それは、この専門語が技術複合の特定のまとまりを分類するのに広く用いられてきたからです。しかし、シャテルペロニアンを例にとると、「移行的」という名称はじっさい誤解を招きます。この用語は元々、たとえば中部旧石器と上部旧石器の再加工石器形態の存在など、中部旧石器と上部旧石器の技術的特徴の混合を示す、石器インダストリーの記載を意図していました。しかし、過去20年間の広範な研究により、シャテルペロニアンは完全に「上部旧石器時代」石器インダストリーを表しており、この用語の元々の意味における「移行的」として記載されるべきではない、と確証されました。

 現在、フランスとスペイン北部のシャテルペロニアンインダストリーは、ヨーロッパの「移行的」インダストリーの一つとネアンデルタール人の化石遺骸との間の最も強い関連を示します。ネアンデルタール人遺骸は、フランスの2ヶ所の主要な遺跡であるサン・セザール(Saint-Césaire)遺跡とアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)において、シャテルペロニアン人工遺物を含む層序学的層位から回収されました(関連記事)。

 しかし、これらの関連の妥当性は激しく議論されており、シャテルペロニアンインダストリーの製作者と、ネアンデルタール人との関連の信頼性両方に関する合意は、全員一致ではありません(関連記事)。進行中の議論にも関わらず、シャテルペロニアンインダストリーのネアンデルタール人の所産は尤も節約的でよく受け入れられたモデルです。そのおもな理由は、議論はさておき、シャテルペロニアン人工遺物を含む層序学的層位から回収されたヒト遺骸が、これまでネアンデルタール人だけだからです。

 シャテルペロニアンとプロトオーリナシアンの遺物群間の技術的類似性、つまり、石刃と小石刃に基づく石器技術や骨器や個人的装飾品は、4万年前頃のネアンデルタール人の消滅に先行するこの地域における現生人類とネアンデルタール人との間の相互作用の可能性に関する議論につながりました。最も注目すべきことに、シャテルペロニアン遺物群の「上部旧石器」的特徴は、在来のネアンデルタール人集団への、プロトオーリナシアン遺物群を製作する外来のAMHの影響を反映している、と提案されてきました。しかし、これら2つの石器インダストリーが同じ遺跡で識別されている場合はいつでも、プロトオーリナシアン遺物群が常に層序学的にシャテルペロニアン遺物群の上に位置します。

 シャテルペロニアンのより早い「開始」年代を示唆する年代データとの組み合わせでは、シャテルペロニアンの最初の「出現」は、プロトオーリナシアンの(より遅い)出現と因果関係がないようです。議論があるものの、シャテルペロニアンの起源について最もよく受け入れられている仮説の一つは、地域的なムステリアン(Mousterian)基層からの在来の発展です。そのモデルの現代的な繰り返しは、プロトオーリナシアン技術の担い手である集団とのある種の接触/相互作用が、たとえばデュフォー(Dufour)型と類似している再加工された小石刃など、シャテルペロニアン内で後により「上部旧石器的な」特徴の発達の契機になっただろう、と仮定します。この地域におけるプロトオーリナシアンとシャテルペロニアンの遺物群の放射性炭素年代のベイズモデル化はすでに、これらの占拠が1600年以上にわたって共存していた可能性を示唆します。

 方法論的観点からは、考古学的現象の年代測定における2つの最近の進展が、これらの議論に関連しています。まず、炭素14測定値を信頼できる暦年代に変換するのに用いられる、較正曲線です。最近実用化されたIntCal20放射性炭素較正曲線(関連記事)は、ヨーロッパにおける上部旧石器時代の最初の段階の年代に重要な意味を有しています。具体的には、48000~40000年前の時間枠(この期間に、放射性炭素時計は本来のほぼ2倍の速度になるようです)における放射性炭素の年代膨張の特定は、ネアンデルタール人からAMHへのヨーロッパの移行が、以前に考えられていたよりもわずかに早い、より圧縮された過程だったかもしれない、との提案につながりました(図1)。この拡大した炭素14の時間規模は以前の較正曲線では説明されておらず、43000~41000年前頃に頂点に達するラシャンプ(Laschamp)地磁気逸脱への移行とつながっている、大気中の炭素14生成の大幅な増加(700%程度の増加)と関連している、と考えられています。以下は本論文の図1です。
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 第二の方法論的発展は、古生物学と保存科学から考古学への最適線形推定(OLE)モデル化の導入です。OLEは、起源(発祥)および終了(絶滅)年代の統計的推論により、文化的および生物学的現象の完全な編年を再構築できる、頻度論的モデル化手法です。開始もしくは終了点として、最初もしくは最新の既知の年代測定された人工遺物および化石を用いることが多い伝統的な推定値とは異なり、OLEは、ある現象がこれら既知の発生の前もしくは後にどのくらい長く持続した可能性があるのか、推測できます。一般的にこの手法は、種や人工遺物や文化的伝統の「最初」もしくは「最後の」出現の発見は、あっても稀である、という仮定に支えられています。つまり、ある考古学的(もしくは化石)現象の最初と最後の事例が、発見されて年代測定される可能性は低い、というわけです。OLEは、既知の人工遺物発見の時間的間隔の使用によりこの問題に対処し、まだ見つかっていないか、見つけられない考古学的記録の部分を統計的に推定します。その結果、現象の時間的存在のより正確な説明を提供します。

 これらの進展には、ネアンデルタール人の消滅に先行する、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期におけるAMHとネアンデルタール人の共存に関する理解を改善する可能性があります。とくに、ネアンデルタール人とAMHとの間の共存が大陸規模で確証されているにも関わらず、あらゆる種類の地域規模での共存の説得力ある証拠は、ひじょうに分かりにくいままです。ここでとくに興味深いのはフランスとスペイン北部で、この地域では4点のネアンデルタール人化石が直接的に年代測定されており(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、後期ネアンデルタール人と関連する多数のよく研究されて信頼できる年代測定のシャテルペロニアン遺物群と、ヨーロッパ西部内で最初期のよく年代測定されたプロトオーリナシアン文脈の一部があります。

 本論文は、最近実用化されたIntCal20較正曲線を用いて、シャテルペロニアンおよびプロトオーリナシアン遺物群の現代的に生成された炭素14測定値と、フランスとスペイン北部とベルギーの直接的に年代測定された後期ネアンデルタール人の大規模な選択を再較正します。次に、OLEモデル化を用いてこれら更新された年代範囲が分析され、この地域におけるAMHの「発祥」年代とネアンデルタール人の消滅年代が統計的に推定されます。以前に強調されたように、この手法は既知の発生の時間的間隔を用いて、まだ発見されていないか、発見できない記録の部分(つまり、「最初」と「最後」の発生)を統計的に推定します。OLEは以前には、旧石器時代伝統の時間的重複の調査に適用されたことがありません。最後に、この手法の結果が、「最初」と「最後」のデータ点としての既知の年代測定された発生に依拠するベイズモデル化と比較されます。本論文はそうすることで、ヨーロッパ西部のこの重要な地域におけるネアンデルタール人と現生人類との間の重複期間について、新たな推定に貢献し、以前の推定値信頼性を評価します。

 このデータセットは、シャテルペロニアンの7ヶ所の遺跡の28点と、プロトオーリナシアンの10ヶ所の遺跡の28点の遺物の56点の放射性炭素年代測定で構成されます。まとめると、スペイン北部と、フランス南西部および中央部および地中海地域が網羅されます。さらに、これらの遺物群とネアンデルタール人化石の時間的関係を調べるため、周辺地域内の、直接的に年代測定された後期ネアンデルタール人標本(5万年前頃以降)の、全ての利用可能な放射性炭素推定値が含められました(フランスが4点、ベルギーが6点の計10点)。合計で、18ヶ所の別々のよく確証された遺跡からの66点の放射性炭素年代測定が、データセット内で表されています。


●既知のシャテルペロニアンとプロトオーリナシアンと直接的に年代測定されたネアンデルタール人の年代空間パターン化

 シャテルペロニアンとプロトオーリナシアンと直接的に年代測定されたネアンデルタール人のデータセットの集計されたIntCal20の較正放射性炭素年代(95.4%の信頼性)の分布をまとめた見取り図は図2で示され、同じデータセットを用いて生成されたベイズ開始(緑色)および終了(赤色)年代が含まれます。確率分布は、3分類全ての間の明確な重複を示します。集計されたデータセットに基づくと、ベイズモデル化ではシャテルペロニアンについて、開始年代は45343~44248年前、終了年代は40138~41081年前と示唆されます。地域的なプロトオーリナシアンのデータセットでは、開始が42873~41747年前、終了が39197~38087年前のモデル化された年代を生成します。直接的に年代測定されたネアンデルタール人のデータセットについては、この地域におけるネアンデルタール人の存在のモデル化された終了年代は、41757~39859年前と予測されます。

 まとめると、地域的なプロトオーリナシアンとシャテルペロニアンと直接的に年代測定されたネアンデルタール人の年代データは、部分的な重複を示します。たとえば、イストゥリッツ(Isturitz )の4点やラベコ・コバ(Labeko Koba)の2点やガッザリア(Gatzarria)の1点やエスキチョ・グラパオウ(Esquicho-Grapaou)の1点やラルブレーダ(L’Arbreda)の4点のプロトオーリナシアン遺物群で生成された較正年代範囲は、フランスのサン・セザール遺跡(IntCal20では42206~39960年前)とラ・フェラシー(La Ferrassie)遺跡(LF8個体、IntCal20では41696~408270年前)とトナカイ洞窟(AR-14個体、IntCal20では42370~40778年前)の直接的に年代測定されたネアンデルタール人3個体と、完全もしくはほぼ完全に重複しています。以下は本論文の図2です。
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 どの遺跡がこの重複を説明しているのか、という点では、プロトオーリナシアン遺跡について、最古の年代の可能性がある較正年代の範囲は、イストゥリッツとラベコ・コバとガッザリアとエスキチョ・グラパオウとラルブレーダに由来し、対象地域の南限において首尾一貫した地理的クラスタ(まとまり)を形成します(図3a~f)。このパターンは、この地域で最初の現生人類の定住の初期段階が居住の南北のパターンにしたがっている可能性が高く、プロトオーリナシアン(白い四角)がじょじょにさらに北方から現れ、層序系列においてシャテルペロニアン(灰色の丸)を置換した、と示唆しているかもしれません(図3d~f)。以下は本論文の図3です。
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●OLEモデル化を用いてのプロトオーリナシアンの「発祥」時期とシャテルペロニアンおよびネアンデルタール人の「消滅」の推定

 本論文には三つの目的があり、OLEモデルと各標本が必要です。第一に、フランスとスペイン北部におけるプロトオーリナシアンの発祥年代の推定です。9ヶ所の別々の遺跡からの9点の最古のプロトオーリナシアンの年代が、逆の時間方向で実行されるこのOLEモデルへと入力されます。第二に、フランスとスペイン北部におけるシャテルペロニアンの終了年代の推定です。7ヶ所の別々の遺跡から最も新しいシャテルペロニアンの年代が、時間的に順方向で実行されるOLEモデルへと入力されます。第三に、地域的なネアンデルタール人の消滅年代の推定です。フランス(4個体)とベルギー(6個体)の後期ネアンデルタール人10個体の直接的な年代が、時間的に順方向で実行されるOLEモデルへと入力されます。

 OLEモデル化では、プロトオーリナシアンは42653~42269年前にフランスとスペイン北部に出現した可能性が高い、と推測されます。この開始年代範囲の上限は再標本抽出により定義されますが、下限は炭素14年代範囲に由来する中心傾向(平均)年代を用います。以前に説明されたように、炭素14年代測定に固有の不確実な範囲のより適切な説明のため、再標本抽出推定値が検討されます。プロトオーリナシアンがこの時点に先行する確率が5%しかない信頼区間年代は、44172~43394年前の区間を提供します。上限および下限が再度、再標本抽出技術と中心傾向年代によりそれぞれ定義されます。OLEモデル化は、シャテルペロニアンが39894~39798年前頃に消滅した、と推定します。この開始年代範囲の上限は再標本抽出技術により定義されますが、その下限は中心傾向(平均)を用います。この時点の後に続く確率が5%しかない信頼区間年代は、37838~37572年前の区間を提供します。上限および下限が再度、再標本抽出技術と中心傾向年代によりそれぞれ定義されます。OLEモデル化は、フランスとベルギーにおけるネアンデルタール人の局所的消滅が40870~40457年前に起きた、と推測します。終了年代範囲の上限は再標本抽出技術により定義されますが、その下限は中心傾向(平均)を用います。ネアンデルタール人がこの時点に先行する確率が5%しかない信頼区間年代は、44172~43394年前の区間を提供し、その上限および下限が再度、再標本抽出技術と中心傾向年代によりそれぞれ定義されます。

 全てのOLEモデルにわたり、中心傾向(平均)に基づく推定値と比較して、再標本抽出手法が時間的範囲を数百年拡張しました。各モデルについて1万回の再標本抽出繰り返しの結果は、図4に示されます。組み合わせると、OLEモデル化では、プロトオーリナシアンはネアンデルタール人とシャテルペロニアンインダストリーのこの地域からのそれぞれ1399~2196年前と2375~2855年前に出現した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●考察

 各「発祥」および「消滅」年代のOLEモデル化に基づくと、プロトオーリナシアンはネアンデルタール人とシャテルペロニアンインダストリーがフランスとスペイン北部から消滅した1400~2900年前頃に出現した可能性があるようです。これは以前の推定値とほぼ一致し、ヨーロッパ西部の初期上部旧石器時代におけるこれらの集団間の共存期間を再確証します。さらに、これらの居住時期の理解は考古学的記録の大きな間隙に影響を受けないかもしれない、と示唆される可能性があります。よく年代測定されたプロトオーリナシアン遺物群の最古の較正年代範囲は、まずフランス北部とスペイン南部でクラスタ(まとまり)を形成し、フランスの中央部と北部においてシャテルペロニアン遺物群で生成された年代と重複します。これは、年代重複が地理的に構造化されており、プロトオーリナシアンは南方から北方の出現パターンに従っている、と示唆している可能性があります。さらに、直接的に年代測定されたネアンデルタール人化石遺骸を用いて生成されたOLE推定値に基づくと、地域的なプロトオーリナシアンの開始は、この地域におけるネアンデルタール人の消滅に2200年以上先行していた、とモデル化されます。

 これらの結果は、この期間について生成された較正放射性炭素測定の確率範囲の性質を考えると、おそらく驚くべきことではなく、この年代は時間的に、放射性炭素年代測定の許容上限(5万年前頃)近くに位置します。しかし、本論文で生成されたOLEの「消滅」と「発祥」の推定値が、較正年代自体で特定された範囲をはるかに超えているわけではない、という事実は注目に値し、各発生について観察された時間間隔と関連している可能性があります。各事例では、各分類(プロトオーリナシアンとシャテルペロニアンとネアンデルタール人)についての最新および最古の一連の年代は、わずかな差異と年代間の間隔のある狭い時間帯を反映しており(つまり、年代は年代順に近くなります)、その後の追加の年代測定された発生は知られていません。これには二つの潜在的な意味があります。第一に、各インダストリーについての最古および/もしくは最新の既知の年代は、そのインダストリーの真の発祥および/もしくは消滅年代に近い可能性が高そうです。第二に、関連して、真の出現および/もしくは消滅年代は、一部の事例では最古および/もしくは最新の較正年代自体の上限よりもわずかに控えめかもしれません。これは恐らくとくにシャテルペロニアンと関連しており、シャテルペロニアンは、いくつかの顕著な例外はあるものの、比較的短命で短い占拠をほぼ反映している、と広く認められています。

 もちろん、この分析には限界があり、考慮が必要です。最も明白なのは、この研究で含まれる遺跡の標本規模に関するものです。これは、放射性炭素データセットについて、厳密で控えめな標本抽出条件を採用する決定により影響を受けました。本論文は、検討された標本がこの地域内における既知のシャテルペロニアンとプロトオーリナシアンの発生の標本を反映している、と認識していますが、それは既知の地理的分布を網羅しています。さらに、OLEはこのようなデータセットで最適に機能します。第二の潜在的な制約は、放射性炭素測定自体に関するものです。もちろん、あらゆるモデルの信頼性は、そこに入力されたデータの信頼性にかかっています。本論文で採用された仮定は、モデルに入力された年代範囲が、これらの発生の年代順の存在に意味のあるデータ点を反映している、というものです。これは、こうしたインダストリーの期間が次第に洗練されるにつれて、やがて変わっていくかもしれません。しかし現時点では、本論文で用いられた放射性炭素測定の信頼性を疑う明確な証拠はありませんが、将来の研究では、より多くの遺跡が年代測定されるか、再年代測定され、さらなる手法の発展につれて、このモデルの改定が必要になるかもしれません。

 考古学的観点からは、これらの結果に関連するのは、シャテルペロニアンとプロトオーリナシアンの文脈の次第に増加している、小石刃技術や骨の人工遺物や個人的装飾品の存在が認められていることです。プロトオーリナシアン技術複合(横方向に再加工されたデュフォー型小石刃の示準石器は一般的に、プロトオーリナシアン石器群のかなりの割合を占めます)の象徴的特徴として異議なくみなされている、シャテルペロニアン内での意図的な小石刃製作の一部の形態および/もしくは修正は今では、少なくとも5ヶ所の開地遺跡(関連記事)と6ヶ所の洞窟遺跡で報告されています。これらの類似性がこうしたインダストリー間のある種のつながりを、あるとしてどの程度表しているのか、不明なままですが、これらの遺物群を製作した集団の同時代性の可能性は、確かに関連性があります。

 もちろん、本論文で提示された結果は、どのヒト集団がこれらのインダストリーの製作にかかわったのか、という問題への回答には役立ちませんが、この地域におけるシャテルペロニアンとAMHの所産とされるプロトオーリナシアン両方の遺物群への直接的に年代測定されたネアンデルタール人遺骸の時間的および地理的近さは、現時点での知識では、見過ごすことは困難です。とはいえ、後期と年代測定されたベルギーのネアンデルタール人の最近の年代再評価は、ネアンデルタール人が以前に考えられていたよりもかなり古い可能性が高い、と説得的に論証しました(図5)。この発展により、本論文で対象とされたフランスのネアンデルタール人は今や、ネアンデルタール人集団の推定された地理的分布全体で特定された、最も新しい直接的に年代測定された一つとなります。これは重要な検討事項を提起します。つまり、さらに人為的および/もしくは自然の汚染問題を軽減するよう設計された、新たな放射性炭素年代測定技術を採用した将来の研究(たとえば、化合物特有放射性炭素分析)は、やがて現在受け入れられている年代を確証もしくは改定するかもしれません。以下は本論文の図5です。
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 ともかく、広義のオーリナシアン技術複合の開始に先行するヨーロッパの人口統計学的景観の急速に進歩する理解を考慮すると、もしあるとして、この期間におけるヨーロッパ大陸全域の考古学的インダストリーの製作者間の、生物学的帰属性と文化的つながりの評価により多くの研究が必要なのは明確です。しかし現時点では、形態学と遺伝学両方の証拠に基づくと、シャテルペロニアン遺物群と関連する人類標本はネアンデルタール人だけです。プロトオーリナシアンについては、事例は逆です。プロトオーリナシアン文脈での刊行された人類の関連は、イタリア北部のリパロ・ボンブリーニ(Riparo Bombrini)岩陰遺跡とフマネ洞窟(Grotta di Fumane)遺跡の2点の乳歯だけで、これはそれぞれ、形態学的基準とミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づいて現生人類に分類されています(関連記事)。

 とはいえ現時点では、ほとんどのプロトオーリナシアン遺物群は現生人類の存在のよく受け入れられている代理として単に機能している、というのが現実ですが、この一方的な関連の妥当性は、現在の証拠では確実ではありません。じっさい多くの点で、同じことがシャテルペロニアン遺物群、およびそのネアンデルタール人との一方的な関連についても言えます(関連記事)。堆積物の古代DNA分析を含む古遺伝学的研究の進行中の急増と、ZooMS(Zooarchaeology by Mass Spectrometry、質量分光測定による動物考古学)による動物考古学の使用により、将来の研究は疑いなく、これらのインダストリーの生物学的製作者に新たな光を当てるでしょう。

 現在の知識では、シャテルペロニアンの開始はプロトオーリナシアンの出現に、地域的およびヨーロッパ規模の両方で明確に先行します。しかし、フランスとスペイン北部におけるこれらの遺物群の時空間的重なりと、この地域の複数の直接的に年代測定されたネアンデルタール人との重複の可能性は、この地域の上部旧石器時代の初期段階が、おそらく生物学的分類に関係なく、異なるヒト集団の近位共存を含んでいたかもしれない、との見解に信頼性を与えます。


●まとめ

 OLEモデル化は、フランスとスペイン北部における現生人類とプロトオーリナシアンの出現が42653~42269年前、シャテルペロニアンと地域的なネアンデルタール人の消滅がそれぞれ39894~39798年前および40870~40457年前と予測し、この地域におけるこれらヒト集団間の約1400~2800年間の重複の可能性を示唆します。これはベイズ推定値と一致し、この地域の上部旧石器時代初期におけるこれらヒト集団間の共存期間を再確証しており、これらの居住時期の理解が記録の大きな間隙に影響を受けないかもしれない、と示唆されます。さらに、この年代的重複は地理的に構造化されているようで、プロトオーリナシアンの出現パターンは南方から北方へと従っています。まとめると、これらの観察から、この地域の最初期上部旧石器時代はネアンデルタール人と現生人類の共存期間を含んでいた可能性が高い、との提案が強化されます。しかし、この共存の性質はまだ解決されていません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古代人類:現生人類とネアンデルタール人の両方が存在した期間が推定された

 フランスとスペイン北部では、ネアンデルタール人が絶滅するまでの1400年から2900年の間、現生人類とネアンデルタール人の両方が存在していた可能性があることを示す推定結果が明らかになった。この知見を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。これはモデル化研究によって得られた知見であり、この地域に2種の人類が存在していたことに関する知識が深まった。

 ヨーロッパでは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が絶滅するまでの5000年から6000年間にわたって、現生人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人の両方が存在していた可能性のあることが、最近の化石証拠から示唆された。しかし、現在のところ、この2種の人類が同時代に存在していたことを示す地域レベルの証拠がほとんどなく、これらの地域でホモ・サピエンスが出現した時期とネアンデルタール人が絶滅した時期を確定することは難しい。

 今回、Igor Djakovicたちは、フランスとスペイン北部の17か所の考古遺跡で出土した合計56点のネアンデルタール人と現生人類の人工遺物(28点ずつ)のデータセットと、さらに同じ地域から発掘されたネアンデルタール人の標本(10点)を分析した。全てのサンプルは、2000年以降、強力な最新技術を用いて放射性炭素年代測定が行われており、より正確な測定になっている。

 Djakovicたちは、最適線形推定モデル化とベイズ確率モデル化を用いて、これらのサンプルとそれに関係するヒト集団の年代範囲を推定し、これらのヒト集団が考古遺跡に存在していたかもしれない最も早い年代と最も遅い年代を推定した。このモデル化は、年代推定を妨げる考古学的記録の欠落部分を埋める役割を果たした。

 Djakovicたちは、このモデル化に基づいて、ネアンデルタール人の人工遺物が最初に出現したのは今から4万5343~4万4248年前であり、消滅したのは3万9894~3万9798年前だと推定している。また、ネアンデルタール人の遺体の直接的な年代測定に基づいて、ネアンデルタール人が4万870~4万457年前に絶滅したとされた。現生人類が最初に出現したのは4万2653~4万2269年前と推定された。Djakovicたちは、以上の結果は、これら2種の人類の両方がこの地域に1400年から2900年間にわたって存在していたことを示唆していると結論付けている。しかし、今回の研究の結果には、現生人類とネアンデルタール人の間に交流があったのかどうか、あるいはどのような交流があったのかという点は示されていない。



参考文献:
Djakovic I, Key A, and Soressi M.(2022): Optimal linear estimation models predict 1400–2900 years of overlap between Homo sapiens and Neandertals prior to their disappearance from France and northern Spain. Scientific Reports, 12, 15000.
https://doi.org/10.1038/s41598-022-19162-z

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