Rebecca Wragg Sykes『ネアンデルタール』
レベッカ・ウラグ・サイクス(Rebecca Wragg Sykes)著、野中香方子訳で、筑摩書房より2022年10月に刊行されました。原書の刊行は2020年です。本書は原書刊行時に話題になり、原書は日本語版より安いと予想されたので(原書のKindle版は2022年10月時点で1834円、本書は3960円)原書で読むことも考えましたが、私の英語力と根気を考えたら数千円高くなっても日本語版で読んだ方が総合的には安上がりだと考えて、日本語版を待つことにしました。参考文献は、著者がネットで公開しています。本書は分厚いので本当は電子書籍で購入したかったのですが、筑摩書房の単行本はあまり電子書籍になっていないようなので、紙版で購入しました。本書はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の発見史・研究史であるとともに、考古学を中心に形質人類学や遺伝学などさまざまな分野の最新の研究成果を提示しており、ネアンデルタール人についての現時点での最適な日本語の概説書と言えそうです。以下、本書の興味深い見解を備忘録として取り上げます。
ネアンデルタール人は現生人類(Homo sapiens)よりも脳が大きいと言われてきたことについて、ネアンデルタール人標本の性別が偏っており、完全に近いネアンデルタール人骨格の大半が男性だったためで、男性だけで比較するとネアンデルタール人と現生人類の脳の大きさはほぼ同じと指摘されています(P67)。この問題については、今後関連文献を読んで調べるつもりです。現生人類とは異なるネアンデルタール人の形態について、以前は鼻など寒冷気候への適応と解釈される傾向にありましたが、現在では、以前の想定ほどには寒冷気候に適応していたわけではない、と考えられています(P85)。じっさい、ネアンデルタール人的な形態および文化的特徴は35万年前頃以降となる温暖な海洋酸素同位体ステージ(MIS)9に現れ、滅亡直前の45000年前頃まで、氷期よりも間氷期の方が長かったことになります(P124)。ネアンデルタール人の形態は、起伏の激しい土地での多い運動量により形成されたところも多分にあったようです。ネアンデルタール人は現生人類と比較して、走ること、とくに長距離走には不向きだったようです。
ネアンデルタール人の腕では左右の非対称性が見られ、現生人類と同様に右利きが多かったようですが、これは日常的に槍の使用のような激しい活動をしていたためと推測されています。ただ、ネアンデルタール人の肩の仕組みは現生人類と比較して投擲に適していないようで、ネアンデルタール人にとって投擲は日常的だった、との見解もありますが(関連記事)、むしろ動物の皮の加工のような削り取りのような行動で片腕(おもに右利きなので右腕)が発達したのではないか、と本書では指摘されています(P95)。ネアンデルタール人も現代人と同様に体の使い方に性差があったようで、女性は男性ほど左右の腕の違いがありません。ネアンデルタール人の体格の性差は、現代人と似ています(P97)。皮の加工では、ネアンデルタール人は前歯も使ったと考えられており、前歯がひじょうに摩耗していますが、性差が見られ、一部の女性は男性よりも前歯の消耗が激しい、と観察されています。ネアンデルタール人では、女性は下の前歯、男性は上の前歯が欠けている傾向にあり、これはヨーロッパ西部でよく似たパターンが観察されているので、ここからも性差が示唆されます。ただ本書は、ネアンデルタール人が生物学的性差を超えて性別(ジェンダー)をどう認識していたのか、分かっていない、と指摘します。また本書は、現代人と同じくネアンデルタール人にも個体差があることから、個体間の分業の可能性を示唆します。ネアンデルタール人の形態では、こうした性差とともに時空間的な差異も観察されており、それは環境の違いを反映しているようです。
ネアンデルタール人の完全に近い骨格の大半には少なくとも一度の病気や負傷の痕跡があり、歯の成長から飢餓を経験したと示唆されているので(関連記事)、ネアンデルタール人は過酷な生活を送っていた、と考えられてきました。ただ、全ネアンデルタール人標本にそうした痕跡が見られるわけではなく、乳児期に関しては、むしろネアンデルタール人よりも初期現生人類の方が健康ストレスは大きかった、と示唆されています(P103)。ネアンデルタール人も現代人と同様に歯痛には苦しんだようですが、抜歯痕の隣の歯の歯石に針葉樹の木片が埋め込まれていたことから、歯の治療が行なわれていた、と示唆されています(P104)。全体的に、ネアンデルタール人は現生人類の狩猟採集民と比較してとくに病気がちではなかった、と推測されています。ネアンデルタール人の大半は30歳まで生きられなかった、と考えられていますが、中高年の個体も見つかっており、考古学的記録で50歳以上の個体が稀なのは、それ以上の年齢の特定が困難だからだ、と指摘されています(P106)。ネアンデルタール人の負傷の痕跡については、ネアンデルタール人の残忍さと結びつけられることもありますが、ネアンデルタール人同士の疑問の余地のない殺害は1例だけのようで、むしろ初期現生人類の方が暴力的だった可能性も示唆されています(P114)。ネアンデルタール人はMIS9~3のユーラシアに存在し、その間に激しい気候変動を経つつ、生き延びました。上述のように、ネアンデルタール人は以前に考えられていたほど氷期の環境に適応していたわけではなく、温暖な気候下でも暮らしていました。ネアンデルタール人は多様な環境で暮らしており、ユーラシア西部でネアンデルタール人の痕跡が確認されていないのは湿地帯だけですが、そこで暮らしていた可能性を否定できません(P142)。
ネアンデルタール人がこのように多様な環境を生き抜いてきたのは、複雑な技術的文化を有していたからでした。ネアンデルタール人の代表的な石器技術がルヴァロワ(Levallois)技法で、類似の技術の起源は50万年前頃のアフリカの初期現生人類系統と考えられています。このルヴァロワ技法により二次加工も容易になって、ネアンデルタール人はさまざまな用途の石器を製作でき、遠方に石器を持って移動することもできるようになりました。ヨーロッパ西部のネアンデルタール人の石器技術には、円盤形とキーナ(Quina)型もあり、円盤形はきわめて資源節約的でした。円盤形技法の石器は、その使用痕から骨や木のような硬い物を切るのによく使われ、ルヴァロワ型やキーナ型の石器とは異なりほとんど二次加工されていないので、使い捨てだったようです。それを反映して、円盤形技法の石材は大半が近場のものでした。ここから、円盤形技法は石材の産地を熟知し、定期的に長距離移動しないネアンデルタール人に適していたようです。キーナ型は円盤形と同様に、ルヴァロワ型とは異なり最初の粗削りや途中の石核調整はほとんど必要とされず、円盤形とは異なり、できるだけ長く薄い刃を得ることが目的でした。キーナ型は、廃棄物が少なく、大量の剥片が得られて、酷使にも二次加工にも耐えられました。ネアンデルタール人は石刃も製作しており、本格的な石刃(長さが幅の2倍以上)であるラミナール(Laminar)も作っていました。ただ、ネアンデルタール人は、上部旧石器文化のヒトとは異なり、骨ではなく石のハンマーを用いて石刃を製作し、石核の下準備もあまりしていませんでした。ネアンデルタール人の最も顕著な「石刃文化」は、MIS5の後にヨーロッパ北西部で発展し、約2万年間にわたって石刃が一般的に使用されました。ただ、その現象は長く続かず、他の地域の石刃は主流ではなく、かなり変化に富んでいました。フランス南西部のコンブ・グルナル(Combe‐Grenal)洞窟では、8万~7万年前頃の人工遺物の1/5は石刃の打ち割りに関連しており、中には長さ3cm未満のごく小さいものもあり、「細石刃」と呼ばれました。この「細石刃」は、打ち割りの偶然の産物ではなく、ネアンデルタール人の技術体系に組み込まれていました(P168)。石刃技法は、後に現生人類がよく用いたため、ネアンデルタール人がおもに用いた技法より優れている、と考えられてきましたが、資源の節約や切れ味の点で優れているわけではなく、長期の使用も二次加工もほぼ不可能です。ただ、石刃は組み合わせ道具の使用には適していました。ネアンデルタール人の石器には、下部旧石器時代のアシューリアン(Acheulian)の両面石器伝統も見られました。両面石器は、中部旧石器時代初期にはほとんど見られなくなっていましたが、15万年前頃から、技術の多様化の一環として復活します。ただ、それはネアンデルタール人集団の一部で、下部旧石器時代のものとは技術的に異なっていました。両面石器は、ルヴァロワ型やキーナ型の石器と同様に繰り返し二次加工されていました。ネアンデルタール人の石器技術にはこのように違いもありますが、良質な中古品の再利用を好んだ点は起用通していました。ネアンデルタール人の石器技術は多様で、ヨーロッパ中東部の両面石器はその西方世界とは大きく異なり、カイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)と総称されます。その文化的境界の意味合いについては、まだよく分かっていません。ネアンデルタール人は多くの場所で環境に応じて異なる石器技術を生み出しており、石器技術が停滞していた、との見解には問題があるようです。
ただ、歴史的に狩猟採集民の道具の大半が有機物から構成されているように、ネアンデルタール人も石器だけではなく有機物製の道具を使っていた、と考えられています。じっさい、ネアンデルタール人は石だけではなく木や骨や貝殻も使っていました。ネアンデルタール人にとって、木は常に豊富だったとは限りませんが、日常生活の一部でした。ドイツ北部のニーダーザクセン(Lower Saxony)州のシェーニンゲン(Schöningen)遺跡では、337000~30万年前頃の木製の槍が発見されています。この槍は先を尖らせただけの棒ではなく、細いトウヒやヨーロッパアカマツから成功に作られており、いずれも木の一番硬い部分である根元を先端にしていました。槍の柄は、強度を上げるために意図的に木の中央が避けられていました(P185)。この槍は、ネアンデルタール人の木工技術は原始的との以前の思い込みを覆しました。9万年前頃と推定されているスペイン北部のアランバルツァ(Aranbaltza)遺跡と、20万年前頃と推定されているイタリアのポッジェティ・ヴェッキ(Poggetti Vecchi)遺跡では、一方の先端を尖らせた棒が多数発見されました。これはシェーニンゲンの槍よりずっと短く、長さと傷み具合と使用痕から、掘るための棒だった、と示唆されます。これらの棒は入念に加工されており、わずかに焦げた痕跡から、火を用いて樹皮や外側の木を取り除いたようです。さらに、これらの棒には再利用と考えられる痕跡が見られます。スペイン北東部のアブリック・ロマニ(Abric Romaní)遺跡では、何百もの炉後や何万もの石器とともに、も炭化した木片などが発見されました。なかには、皿ののような木製品も見つかっています。ネアンデルタール人は組み合わせ道具も用いており、その大半は石に柄を接続したものですが、それには動物の筋や腱や植物繊維が用いられていました。さらに、ネアンデルタール人は接着剤(天然アスファルトやタール)も用いて組み合わせ道具を作っていました(関連記事)。
ネアンデルタール人は貝殻も道具として使っており(貝器)、貝器が出土した遺跡に共通するのは、周辺に良質の石の採取場所がないことです。骨角器は、中部旧石器時代にはほとんど存在しない、と以前には考えられていましたが、今では下部旧石器時代に用いられていたことが明らかになっています。骨は、石器の仕上げや再加工にも用いられました。ネアンデルタール人は骨を用いるさいに、動物種や骨の部位も選択していました。ネアンデルタール人が骨を武器に用いていた可能性もありますが、現時点でその有力候補は、ドイツのザルツギッター=レーベンシュテット(Salzgitter Lebenstedt)遺跡の55000~45000年前頃の骨器だけです。これらネアンデルタール人の複雑な道具は先行人類を凌駕しており、先を見通して多段階の計画を立てる能力が示されるとともに、現生人類との技術的境界線が曖昧になってきました。アフリカの中期石器時代に見られ、ネアンデルタール人の中部旧石器時代に見られない石器技術は、石の性質を改善するための過熱と、武器の鋸歯を入れるための「押圧剥離」だけです。ただ、そうした技術が現生人類で広く確認されているわけではありません。一部のネアンデルタール人遺骸では、歯がとくに欠けていたり、歯に植物の滓が含まれていたりしたことから、歯を使って道具を製作していた専門的職人の存在が示唆されます。こうしたネアンデルタール人の高度な技術の継承には教育が行なわれた、と考えられます。それは、文化体験での学習だろう、と本書は推測します。
ネアンデルタール人の食性は以前から関心を集めてきましたが、現生人類との比較で重要なのは、ネアンデルタール人の方が必要なカロリーはずっと多かった(毎日、ネアンデルタール人が3500~5000kcal必要とするのに対して、現生人類は2500kcal程度)、ということです。ネアンデルタール人の食料調達はおもに死肉漁りだった、と以前は考えられていましたが、現在では狩猟が大きな役割を果たした、と明らかになっています。ネアンデルタール人は槍で狩猟を行ない、マンモスのような大型動物も狩っていました。ネアンデルタール人の同位体比はオオカミやハイエナに近く、一部のネアンデルタール人は動物性タンパク質の20~50%をマンモスから得ていたようです。マンモス以外の大型動物では、さまざまなサイ、オーロックス、スイギュウ、大型ラクダなどをネアンデルタール人は狩っていました。もちろん、ネアンデルタール人は大型動物だけではなく野生ロバやガゼルなど中型動物も狩っており、状況に応じて狩猟対象を柔軟に切り替えていました。また、ネアンデルタール人は小動物も狩猟対象としており、鳥類もその卵も食べていました。ネアンデルタール人は海産資源を含めて水棲動物も食べており、居住していた洞窟の近くの淡水魚を獲っていたようです。海産資源では、貝類や甲殻類を現生人類と同じくらい古くから食べていた証拠が見つかっています(関連記事)。ネアンデルタール人はウミガメも食べており、時代が下るにつれてウミガメの大きさが縮小するので、ネアンデルタール人が乱獲した可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は草食動物だけではなく大型のホラアナグマも狩っており、おもに冬眠中を狙ったと考えられます。ネアンデルタール人の食性は、肉(動物性タンパク質)への依存度が高かったとしても、植物にも依存しており、歯の摩耗痕の分析から、寒冷地のネアンデルタール人には肉食による摩耗が多いものの、レヴァントのような温暖で植生の豊かな他地域では、植物によると推測される歯の摩耗痕が確認されています。歯石のDNA解析から、ネアンデルタール人が植物を食べていたことは改めて確認され、具体的にはナツメヤシやエンドウマメや根茎などです。イネ科植物も含まれており、それを食べるにはかなりの時間の処理が必要だった、と考えられています。ネアンデルタール人が食べたと考えられる動物の骨には焼けた痕跡があることから、ネアンデルタール人は加熱調理していたようです。直接的な考古学的証拠はありませんが、ネアンデルタール人は燻製や乾燥などで肉を保存していた可能性も想定されます。ネアンデルタール人の食性と狩猟について、近年では全体的に、以前想定されていたほど現生人類との違いはない、と考えられるようになっており、ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人と初期現生人類はどちらも陸生草食動物を選好していた、と推測されています(関連記事)。
ネアンデルタール人の居住パターンも、近年では以前より深く把握されるようになりました。「煤編年学」により、ある遺跡の層で人類が何回居住したのか、解明できるようになり、人類の痕跡の大半は、複数回の居住により形成された、と分かってきました。そのため、ネアンデルタール人の行動パターンをより詳細に解明する遺跡としては、異なる居住期間の交じり合わない遺跡が理想となります。ネアンデルタール人が火を使用していたことは間違いありませんが、自ら火を熾していたのか否かは、まだ確定していないようです。しかし、強力な燃焼促進剤にもなる二酸化マンガンが細かく砕かられていることから、少なくとも一部のネアンデルタール人は火を熾せたようです。また、ネアンデルタール人が枯れ木だけではなく褐炭(石炭化度合が低い石炭)を使って燃やしていた可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は現生人類と同様に非を用いるために炉も作っており、その作り方と使い方はさまざまだったようです。ネアンデルタール人の生活空間については、炉とともに、植物で作った寝床も使っていたようで、机や椅子のような機能を果たした「家具」も使用していたかもしれません。ネアンデルタール人の空間の使い方は乱雑ではなく複雑かつ意図的で、この点では現生人類と近かったようです。また、ネアンデルタール人はまず間違いなく服を作って着用しており、糸を使用していた可能性も指摘されています。
こうした生活パターンから窺えるのは、ネアンデルタール人は基本的に放浪者だった、ということです。ただ、その移動は場当たり的ではありませんでした。上述のようにネアンデルタール人は中型や小型の動物も狩っていましたが、おもに狩るのは大型動物なので、その群を追って移動する必要がありました。ネアンデルタール人の移動パターン解明の手がかりとなるのは、石器も含めて遺跡にある石とその産地との距離です。一般的に、遺跡で最も多い石は約5km~10km以内で入手できます。そうした石の多くはあまり上質ではありませんが、拠点から数時間以内の場所で集められました。通常、60km以上離れた産地に由来する石は10%以下で、純度の高い黒曜石の中には300km以上の移動例もあり、普通の燧石でも100km以上運ばれることがありました。本書は、遠くから運ばれた石は、ネアンデルタール人が石の産地と他の場所をめぐる間に持ち歩いたお気に入りの石器の「生き残り」にすぎなかっただろう、と推測します。それは、上質の石が原石のまま打ち割りする場所に持ち込まれることは滅多にないからです。全般的に、ある環境におけるネアンデルタール人の石の利用法は現代の狩猟採集民に似ており、移動において石器を選ぶさいに、予定される活動や移動距離や途中で入手可能な石の種類など、多くの要因を考慮したようです。これは、ネアンデルタール人の計画性を示唆します。ネアンデルタール人と比較して、現生人類の石器群ではネアンデルタール人よりも60km以上離れた産地に由来するものが多く、それは社会的つながりの強さを反映している、と解釈されてきました。本書は、ネアンデルタール人の遺跡における産地がきわめて遠い石器は、集団内の1人か2人が過酷で迅速な旅をして運んだのだろう、と推測しています。本書は別の可能性として、ネアンデルタール人の個体が全員近親交配で生まれてきたわけではなかったことから、他の集団との交流の一環としての石器の交換も挙げています。
ネアンデルタール人の象徴的行動には議論がありますが、フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)で発見された深部の建造物(関連記事)や多くの遺跡で見つかっている顔料の使用など、現生人類とも通ずる象徴的行動がネアンデルタール人にも存在した可能性は高く、ネアンデルタール人が話せた可能性は高い、と本書は指摘します。ネアンデルタール人の象徴的行動については、ネアンデルタール人の所産とされた壁画が議論となり、疑問視する研究者は少なくないようですが、最近の年代測定の結果(関連記事)からも、ネアンデルタール人が何らかの壁画を残した可能性は低くなさそうです。ネアンデルタール人については、線刻や鳥類の爪の利用も複数の遺跡で確認されており、鳥類の爪は美的価値か象徴的表現への興味だった、と考えられています。こうしたネアンデルタール人の象徴的行動について現生人類との比較では、45000年以上前には、明確な具象芸術が存在しないことです【と本書は指摘しますが、原書刊行後の研究(関連記事)では、スラウェシ島の具象的な洞窟壁画芸術の年代が45000年以上前である可能性も指摘されています】。本書は、ジャワ島のトリニール(Trinil)遺跡で発見された54万~43万年前頃の淡水貝に幾何学模様の線刻が見られること(関連記事)から、ネアンデルタール人と現生人類の象徴的行動は太古のホモ属から受け継いだ共通の遺産だったかもしれない、と指摘します。
ネアンデルタール人の男女関係と社会について、スペイン北部のエル・シドロン(El Sidrón)遺跡の事例から、男性優位集団と解釈する見解(関連記事)もありますが、本書は、エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸は洞窟の他の場所から流れてきて堆積したので同時代なのか不明で、狩猟採集文化においては母系社会が一般的である、と指摘します【本書の「男性優位集団」の意味を断定できませんが、「父系的」と解釈すると、本書の指摘とは異なって、一般的に狩猟採集社会における母系社会の割合は父系社会より低いとされており(木山.,2001,P313)、アルタイ山脈のネアンデルタール人の研究(関連記事)でも、ネアンデルタール人社会は父系的だっただろう、と推測されています】。本書は、ネアンデルタール人が一夫一妻制のような絆を築いていただろう、と推測しています。上述のように、ネアンデルタール人社会には老人はほとんどいなかったのではないか、との見解もあるものの、本書は、化石が人口構造を正確に反映しているとは限らない(ネアンデルタール人の化石に占める女性の割合がきわめて低いことなどから)として、ネアンデルタール人社会にも老人(長老)がおり、孫に知識と経験を授けていただろう、と推測します。
ネアンデルタール人の埋葬については懐疑的な見解もあるものの、本書の複数の事例、とくに骨格遺骸が残りにくい子供の保存状態良好な複数の遺骸からは、ネアンデルタール人が何らかの意図で埋葬した可能性は高いように思います。ネアンデルタール人の骨格遺骸に、皮を剥いだり、手足を切り離したり、骨を外したりなど、解体の痕跡があることを報告した事例は増えていますが、ネアンデルタール人による食人行為の直接的証拠はほとんどなく、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡で発見されたヒトの歯形の痕跡があるネアンデルタール人の骨は例外的です。一方現生人類では、食人の証拠がさまざまな時期で確認されています。ネアンデルタール人の遺骸が焼かれたことはひじょうに稀で、偶然だった可能性が指摘されていますが、食人の痕跡が多いクラピナ遺跡のネアンデルタール人遺骸の一部は、加熱調理された可能性があります。解体の痕跡のあるネアンデルタール人遺骸については、最も栄養豊富な部位の骨には食べられた痕跡や風化の痕跡が見つかっていません。エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸については、若者の遺骸に切断痕が最も多い、というパターンが見られました。こうした食人かもしれないネアンデルタール人遺骸について本書はボノボの事例から、攻撃が銅器とは限らず、食べた後の遺骸は、死者の代理もしくは使者とつながりがあるものとして扱われた可能性を指摘します。つまり、食人は個体と集団が死の衝撃を乗り越えるための強力な手法ではないか、というわけです。本書はネアンデルタール人のこうした遺骸の扱いを、狩猟や道具製作や芸術など行動の他の側面に見られる進歩や多様化と一致する、と指摘します。遺骸についてネアンデルタール人と現生人類の違いは、ネアンデルタール人の無傷の骨が野外遺跡では見つかっていないことです。一方、現生人類でもそれは3万年前頃までは稀でしたが、それ以降は確認事例が増えてきます。また、遺骸に成人男性が多く、女性が少ないことはネアンデルタール人も現生人類も共通していますが、現生人類はネアンデルタール人よりも老人は少なく、子供も少ない天が異なります。副葬品については、ネアンデルタール人についてその有無が議論になっており、明らかに現生人類の方が多いものの、45000~3万年前頃のヨーロッパの初期現生人類の遺骸は、ネアンデルタール人の扱いによく似ています。
21世紀における古代DNA研究の進展は目覚ましく、本書はその成果を簡潔にまとめており、ネアンデルタール人と現生人類との関係は複雑だったことが窺えます。それは、原書刊行後の研究(関連記事)でも示されています。本書はネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析にもやや詳しく言及していますが、最近の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人のmtDNAでの系統関係が包括的に示されています。本書は現代人の表現型におけるネアンデルタール人からの遺伝的影響も簡潔に取り上げていますが、この問題については最近の総説(関連記事)が公表されました。ネアンデルタール人と現生人類との交雑が明らかになったことは、21世紀の古人類学研究において最も注目を集めた事例と言えるかもしれませんが、その具体的な様相は不明で、今後も解明されることはないでしょう。本書は、両者の遭遇において強姦があったかもしれないものの、「外国人好き」ではなく「外国人恐怖症」を初期設定にする必要はない、と指摘しています。
ネアンデルタール人の絶滅(より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団と個体は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)に対する関心は高く、それは現代人自身の絶滅に対する強い恐れがあるのだろう、と本書は指摘します。つまり、ネアンデルタール人は絶滅する運命にあったのに対して、現生人類は特別な優秀さがあって生き残った、というわけです。ネアンデルタール人の絶滅で注目されてきたのは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人の所産と考えられる中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)と、現生人類の所産と考えられる上部旧石器との「中間的(過渡的)性格」の石器インダストリー(関連記事)です。これら「移行期インダストリー」の具体的事例の一つがシャテルペロニアン(Châtelperronian)で、当初は現生人類の所産と考えられていたものの、ネアンデルタール人の遺骸が発見されたことにより、ネアンデルタール人の所産との見解が有力になりました。本書は、シャテルペロニアン(シャテルペロン文化)の「過渡的」性格は古い時代の厳密ではない発掘が行なわれた遺跡か、攪乱が起きた遺跡に限定されていることから、その「過渡的」性格の見直しの必要性を指摘します。シャテルペロニアンではラミナール(長さが幅の2倍以上である本格的な石刃)が優占しており、その技術はネアンデルタール人による石刃や細石刃の製作とは異なり、むしろ現生人類の所産であるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)に似ている、というわけです。本書は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとを結びつける根拠とされてきた、サン・セザール(Saint-Césaire)遺跡とアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)の発掘とその解釈には問題がある、と指摘します。両者において攪乱や侵食が起きた可能性は高い、というわけです。別のよく知られた「移行期インダストリー」は、イタリアで発見されてきたウルツィアン(Ulzzian)です。ウルツィアン(ウルツォ文化)には、先行する中部旧石器時代の技法との違いや類似が込み入っており、「三日月形石器」により特徴づけられます。ウルツィアンについては、出土した歯を根拠に現生人類の所産とする見解もありますが(関連記事)、本書はウルツィアンもシャテルペロニアンも、ネアンデルタール人の文化との違いを強調しつつ、その担い手について断定はしていません。本書は、「移行期インダストリー」として、フランス南西部で発見されたネロニアン(Neronian)にも言及しています。
ネロニアン(ネロン文化)はシャテルペロニアンより1万年ほど古く、ネアンデルタール人の石器層に挟まれていることで注目されます。ネロニアンと類似した文化として、中近東とヨーロッパの境界に見られる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)があります。少なくとも一部のIUPの担い手は初期現生人類ですが【原書刊行後の研究(関連記事)により、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡のIUPの担い手は、現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近い初期現生人類集団と明らかになりました】、猛禽類の鉤爪を集めることなど、ネロニアンにはネアンデルタール人との文化的つながりが見られます。ネロニアンの担い手がネアンデルタール人なのか現生人類なのか断定できませんが【原書刊行後の研究(関連記事)により、マンドリン(マンドゥラン)洞窟(Grotte Mandrin)遺跡のネロニアン層の人類の歯の分析から、その担い手は現生人類だった可能性が高い、と示唆されています】、在来のネアンデルタール人を追い払い、その後で再びネアンデルタール人が到来した可能性は高そうです。まだ全容はとても解明されていませんが、これらネアンデルタール人の絶滅に近い年代の「移行期インダストリー」の研究からは、ネアンデルタール人の絶滅および現生人類との関係は複雑で、単純に現生人類がネアンデルタール人に対して優位に立っていたとは断定できない、と本書は指摘します。現代ヨーロッパ人も、1万年前頃の中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民とは遺伝的つながりが少なく、初期現生人類集団の絶滅は珍しくない、というわけです【この問題については、原書刊行後の研究も踏まえて最近当ブログで記事を掲載しました】。
本書は最後に、19世紀半ばの発見以来、ネアンデルタール人像がどう変容してきたのか、同時代においてどのような違いがあったのか、当時の社会的文脈に位置づけて解説します。ネアンデルタール人を「野蛮」と位置づける見解は発見当初から有力で、それは当時の「人種」階層化の観念とも強く結びついていました。その行きつく先にナチス政権があったことの反省から、第二次世界大戦後には「人種」に基づく科学を否定する動きが強まりましたが、人種主義的科学の影響は長引き、1962年には著名な人類学者であるカールトン・クーン(Carleton Coon)による『人種の起源』と題した本が刊行され、激論が惹起されました(関連記事)。本書は、ネアンデルタール人も含めて人類進化史の研究で、西洋の関係者がしばしば特権的に振舞ってきて、先住民・狩猟採集民の知識と世界観は無視されてきたものの、最近になって、それらを活用して研究の新たな地平が開かれた、と指摘します。本書は、都市での生活を大前提とする西洋の研究者には理解できない動機によりネアンデルタール人が行動していたかもしれず、その解明に狩猟採集民の世界観・知識が役立つ可能性を指摘します。たとえば、ネアンデルタール人のクマ狩りについて、経済的な動機が明らかではないので、社会的動機に基づいて説明されましたが、それはきわめて西洋的で、威信のためだった、というものでした。しかし、現代の狩猟採集民の文化には、クマに人格や人間性を見るものもあり、ネアンデルタール人のクマ狩りについても、威信以外の何らかの社会的関係の構築に役立ったかもしれない、と本書は指摘します。
以上、本書についてざっと見てきました。冒頭で述べたように、本書はネアンデルタール人についての現時点での最適な日本語の概説書と言えそうで、ネアンデルタール人についての包括的な解説から、ネアンデルタール人の概説書としての役割を長く保つことになる名著と評価されるでしょう。本書からは、発見当初のネアンデルタール人に対する否定的評価はもちろん、mtDNA解析によりネアンデルタール人と現生人類とが異なる、と判明した1997年から、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動が確認された2010年までに主流だった、ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する見解よりもずっと、ネアンデルタール人と現生人類の違いは小さかった可能性が高い、と考えられます。ネアンデルタール人の絶滅を説明するために、現生人類がネアンデルタール人よりも「優秀」だと強調されたわけですが、その背景として、本書が指摘するように、絶滅を恐れる現代人の心理があったのでしょう。ネアンデルタール人への視線はその時代の世界観・思潮と無縁ではあり得ず、それはネアンデルタール人から現生人類への遺伝的影響が明らかになった現在でも同様でしょうが、少しでもそうした偏見を回避できるよう、多様な研究と言説に触れる必要があると思います。
参考文献:
Sykes RW.著(2022)、野中香方子訳『ネアンデルタール』(筑摩書房、原書の刊行は2020年)
木山英明(2001)『人間の来た道 人類学の話』第2刷(好文出版、初版の刊行は1994年)
ネアンデルタール人は現生人類(Homo sapiens)よりも脳が大きいと言われてきたことについて、ネアンデルタール人標本の性別が偏っており、完全に近いネアンデルタール人骨格の大半が男性だったためで、男性だけで比較するとネアンデルタール人と現生人類の脳の大きさはほぼ同じと指摘されています(P67)。この問題については、今後関連文献を読んで調べるつもりです。現生人類とは異なるネアンデルタール人の形態について、以前は鼻など寒冷気候への適応と解釈される傾向にありましたが、現在では、以前の想定ほどには寒冷気候に適応していたわけではない、と考えられています(P85)。じっさい、ネアンデルタール人的な形態および文化的特徴は35万年前頃以降となる温暖な海洋酸素同位体ステージ(MIS)9に現れ、滅亡直前の45000年前頃まで、氷期よりも間氷期の方が長かったことになります(P124)。ネアンデルタール人の形態は、起伏の激しい土地での多い運動量により形成されたところも多分にあったようです。ネアンデルタール人は現生人類と比較して、走ること、とくに長距離走には不向きだったようです。
ネアンデルタール人の腕では左右の非対称性が見られ、現生人類と同様に右利きが多かったようですが、これは日常的に槍の使用のような激しい活動をしていたためと推測されています。ただ、ネアンデルタール人の肩の仕組みは現生人類と比較して投擲に適していないようで、ネアンデルタール人にとって投擲は日常的だった、との見解もありますが(関連記事)、むしろ動物の皮の加工のような削り取りのような行動で片腕(おもに右利きなので右腕)が発達したのではないか、と本書では指摘されています(P95)。ネアンデルタール人も現代人と同様に体の使い方に性差があったようで、女性は男性ほど左右の腕の違いがありません。ネアンデルタール人の体格の性差は、現代人と似ています(P97)。皮の加工では、ネアンデルタール人は前歯も使ったと考えられており、前歯がひじょうに摩耗していますが、性差が見られ、一部の女性は男性よりも前歯の消耗が激しい、と観察されています。ネアンデルタール人では、女性は下の前歯、男性は上の前歯が欠けている傾向にあり、これはヨーロッパ西部でよく似たパターンが観察されているので、ここからも性差が示唆されます。ただ本書は、ネアンデルタール人が生物学的性差を超えて性別(ジェンダー)をどう認識していたのか、分かっていない、と指摘します。また本書は、現代人と同じくネアンデルタール人にも個体差があることから、個体間の分業の可能性を示唆します。ネアンデルタール人の形態では、こうした性差とともに時空間的な差異も観察されており、それは環境の違いを反映しているようです。
ネアンデルタール人の完全に近い骨格の大半には少なくとも一度の病気や負傷の痕跡があり、歯の成長から飢餓を経験したと示唆されているので(関連記事)、ネアンデルタール人は過酷な生活を送っていた、と考えられてきました。ただ、全ネアンデルタール人標本にそうした痕跡が見られるわけではなく、乳児期に関しては、むしろネアンデルタール人よりも初期現生人類の方が健康ストレスは大きかった、と示唆されています(P103)。ネアンデルタール人も現代人と同様に歯痛には苦しんだようですが、抜歯痕の隣の歯の歯石に針葉樹の木片が埋め込まれていたことから、歯の治療が行なわれていた、と示唆されています(P104)。全体的に、ネアンデルタール人は現生人類の狩猟採集民と比較してとくに病気がちではなかった、と推測されています。ネアンデルタール人の大半は30歳まで生きられなかった、と考えられていますが、中高年の個体も見つかっており、考古学的記録で50歳以上の個体が稀なのは、それ以上の年齢の特定が困難だからだ、と指摘されています(P106)。ネアンデルタール人の負傷の痕跡については、ネアンデルタール人の残忍さと結びつけられることもありますが、ネアンデルタール人同士の疑問の余地のない殺害は1例だけのようで、むしろ初期現生人類の方が暴力的だった可能性も示唆されています(P114)。ネアンデルタール人はMIS9~3のユーラシアに存在し、その間に激しい気候変動を経つつ、生き延びました。上述のように、ネアンデルタール人は以前に考えられていたほど氷期の環境に適応していたわけではなく、温暖な気候下でも暮らしていました。ネアンデルタール人は多様な環境で暮らしており、ユーラシア西部でネアンデルタール人の痕跡が確認されていないのは湿地帯だけですが、そこで暮らしていた可能性を否定できません(P142)。
ネアンデルタール人がこのように多様な環境を生き抜いてきたのは、複雑な技術的文化を有していたからでした。ネアンデルタール人の代表的な石器技術がルヴァロワ(Levallois)技法で、類似の技術の起源は50万年前頃のアフリカの初期現生人類系統と考えられています。このルヴァロワ技法により二次加工も容易になって、ネアンデルタール人はさまざまな用途の石器を製作でき、遠方に石器を持って移動することもできるようになりました。ヨーロッパ西部のネアンデルタール人の石器技術には、円盤形とキーナ(Quina)型もあり、円盤形はきわめて資源節約的でした。円盤形技法の石器は、その使用痕から骨や木のような硬い物を切るのによく使われ、ルヴァロワ型やキーナ型の石器とは異なりほとんど二次加工されていないので、使い捨てだったようです。それを反映して、円盤形技法の石材は大半が近場のものでした。ここから、円盤形技法は石材の産地を熟知し、定期的に長距離移動しないネアンデルタール人に適していたようです。キーナ型は円盤形と同様に、ルヴァロワ型とは異なり最初の粗削りや途中の石核調整はほとんど必要とされず、円盤形とは異なり、できるだけ長く薄い刃を得ることが目的でした。キーナ型は、廃棄物が少なく、大量の剥片が得られて、酷使にも二次加工にも耐えられました。ネアンデルタール人は石刃も製作しており、本格的な石刃(長さが幅の2倍以上)であるラミナール(Laminar)も作っていました。ただ、ネアンデルタール人は、上部旧石器文化のヒトとは異なり、骨ではなく石のハンマーを用いて石刃を製作し、石核の下準備もあまりしていませんでした。ネアンデルタール人の最も顕著な「石刃文化」は、MIS5の後にヨーロッパ北西部で発展し、約2万年間にわたって石刃が一般的に使用されました。ただ、その現象は長く続かず、他の地域の石刃は主流ではなく、かなり変化に富んでいました。フランス南西部のコンブ・グルナル(Combe‐Grenal)洞窟では、8万~7万年前頃の人工遺物の1/5は石刃の打ち割りに関連しており、中には長さ3cm未満のごく小さいものもあり、「細石刃」と呼ばれました。この「細石刃」は、打ち割りの偶然の産物ではなく、ネアンデルタール人の技術体系に組み込まれていました(P168)。石刃技法は、後に現生人類がよく用いたため、ネアンデルタール人がおもに用いた技法より優れている、と考えられてきましたが、資源の節約や切れ味の点で優れているわけではなく、長期の使用も二次加工もほぼ不可能です。ただ、石刃は組み合わせ道具の使用には適していました。ネアンデルタール人の石器には、下部旧石器時代のアシューリアン(Acheulian)の両面石器伝統も見られました。両面石器は、中部旧石器時代初期にはほとんど見られなくなっていましたが、15万年前頃から、技術の多様化の一環として復活します。ただ、それはネアンデルタール人集団の一部で、下部旧石器時代のものとは技術的に異なっていました。両面石器は、ルヴァロワ型やキーナ型の石器と同様に繰り返し二次加工されていました。ネアンデルタール人の石器技術にはこのように違いもありますが、良質な中古品の再利用を好んだ点は起用通していました。ネアンデルタール人の石器技術は多様で、ヨーロッパ中東部の両面石器はその西方世界とは大きく異なり、カイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)と総称されます。その文化的境界の意味合いについては、まだよく分かっていません。ネアンデルタール人は多くの場所で環境に応じて異なる石器技術を生み出しており、石器技術が停滞していた、との見解には問題があるようです。
ただ、歴史的に狩猟採集民の道具の大半が有機物から構成されているように、ネアンデルタール人も石器だけではなく有機物製の道具を使っていた、と考えられています。じっさい、ネアンデルタール人は石だけではなく木や骨や貝殻も使っていました。ネアンデルタール人にとって、木は常に豊富だったとは限りませんが、日常生活の一部でした。ドイツ北部のニーダーザクセン(Lower Saxony)州のシェーニンゲン(Schöningen)遺跡では、337000~30万年前頃の木製の槍が発見されています。この槍は先を尖らせただけの棒ではなく、細いトウヒやヨーロッパアカマツから成功に作られており、いずれも木の一番硬い部分である根元を先端にしていました。槍の柄は、強度を上げるために意図的に木の中央が避けられていました(P185)。この槍は、ネアンデルタール人の木工技術は原始的との以前の思い込みを覆しました。9万年前頃と推定されているスペイン北部のアランバルツァ(Aranbaltza)遺跡と、20万年前頃と推定されているイタリアのポッジェティ・ヴェッキ(Poggetti Vecchi)遺跡では、一方の先端を尖らせた棒が多数発見されました。これはシェーニンゲンの槍よりずっと短く、長さと傷み具合と使用痕から、掘るための棒だった、と示唆されます。これらの棒は入念に加工されており、わずかに焦げた痕跡から、火を用いて樹皮や外側の木を取り除いたようです。さらに、これらの棒には再利用と考えられる痕跡が見られます。スペイン北東部のアブリック・ロマニ(Abric Romaní)遺跡では、何百もの炉後や何万もの石器とともに、も炭化した木片などが発見されました。なかには、皿ののような木製品も見つかっています。ネアンデルタール人は組み合わせ道具も用いており、その大半は石に柄を接続したものですが、それには動物の筋や腱や植物繊維が用いられていました。さらに、ネアンデルタール人は接着剤(天然アスファルトやタール)も用いて組み合わせ道具を作っていました(関連記事)。
ネアンデルタール人は貝殻も道具として使っており(貝器)、貝器が出土した遺跡に共通するのは、周辺に良質の石の採取場所がないことです。骨角器は、中部旧石器時代にはほとんど存在しない、と以前には考えられていましたが、今では下部旧石器時代に用いられていたことが明らかになっています。骨は、石器の仕上げや再加工にも用いられました。ネアンデルタール人は骨を用いるさいに、動物種や骨の部位も選択していました。ネアンデルタール人が骨を武器に用いていた可能性もありますが、現時点でその有力候補は、ドイツのザルツギッター=レーベンシュテット(Salzgitter Lebenstedt)遺跡の55000~45000年前頃の骨器だけです。これらネアンデルタール人の複雑な道具は先行人類を凌駕しており、先を見通して多段階の計画を立てる能力が示されるとともに、現生人類との技術的境界線が曖昧になってきました。アフリカの中期石器時代に見られ、ネアンデルタール人の中部旧石器時代に見られない石器技術は、石の性質を改善するための過熱と、武器の鋸歯を入れるための「押圧剥離」だけです。ただ、そうした技術が現生人類で広く確認されているわけではありません。一部のネアンデルタール人遺骸では、歯がとくに欠けていたり、歯に植物の滓が含まれていたりしたことから、歯を使って道具を製作していた専門的職人の存在が示唆されます。こうしたネアンデルタール人の高度な技術の継承には教育が行なわれた、と考えられます。それは、文化体験での学習だろう、と本書は推測します。
ネアンデルタール人の食性は以前から関心を集めてきましたが、現生人類との比較で重要なのは、ネアンデルタール人の方が必要なカロリーはずっと多かった(毎日、ネアンデルタール人が3500~5000kcal必要とするのに対して、現生人類は2500kcal程度)、ということです。ネアンデルタール人の食料調達はおもに死肉漁りだった、と以前は考えられていましたが、現在では狩猟が大きな役割を果たした、と明らかになっています。ネアンデルタール人は槍で狩猟を行ない、マンモスのような大型動物も狩っていました。ネアンデルタール人の同位体比はオオカミやハイエナに近く、一部のネアンデルタール人は動物性タンパク質の20~50%をマンモスから得ていたようです。マンモス以外の大型動物では、さまざまなサイ、オーロックス、スイギュウ、大型ラクダなどをネアンデルタール人は狩っていました。もちろん、ネアンデルタール人は大型動物だけではなく野生ロバやガゼルなど中型動物も狩っており、状況に応じて狩猟対象を柔軟に切り替えていました。また、ネアンデルタール人は小動物も狩猟対象としており、鳥類もその卵も食べていました。ネアンデルタール人は海産資源を含めて水棲動物も食べており、居住していた洞窟の近くの淡水魚を獲っていたようです。海産資源では、貝類や甲殻類を現生人類と同じくらい古くから食べていた証拠が見つかっています(関連記事)。ネアンデルタール人はウミガメも食べており、時代が下るにつれてウミガメの大きさが縮小するので、ネアンデルタール人が乱獲した可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は草食動物だけではなく大型のホラアナグマも狩っており、おもに冬眠中を狙ったと考えられます。ネアンデルタール人の食性は、肉(動物性タンパク質)への依存度が高かったとしても、植物にも依存しており、歯の摩耗痕の分析から、寒冷地のネアンデルタール人には肉食による摩耗が多いものの、レヴァントのような温暖で植生の豊かな他地域では、植物によると推測される歯の摩耗痕が確認されています。歯石のDNA解析から、ネアンデルタール人が植物を食べていたことは改めて確認され、具体的にはナツメヤシやエンドウマメや根茎などです。イネ科植物も含まれており、それを食べるにはかなりの時間の処理が必要だった、と考えられています。ネアンデルタール人が食べたと考えられる動物の骨には焼けた痕跡があることから、ネアンデルタール人は加熱調理していたようです。直接的な考古学的証拠はありませんが、ネアンデルタール人は燻製や乾燥などで肉を保存していた可能性も想定されます。ネアンデルタール人の食性と狩猟について、近年では全体的に、以前想定されていたほど現生人類との違いはない、と考えられるようになっており、ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人と初期現生人類はどちらも陸生草食動物を選好していた、と推測されています(関連記事)。
ネアンデルタール人の居住パターンも、近年では以前より深く把握されるようになりました。「煤編年学」により、ある遺跡の層で人類が何回居住したのか、解明できるようになり、人類の痕跡の大半は、複数回の居住により形成された、と分かってきました。そのため、ネアンデルタール人の行動パターンをより詳細に解明する遺跡としては、異なる居住期間の交じり合わない遺跡が理想となります。ネアンデルタール人が火を使用していたことは間違いありませんが、自ら火を熾していたのか否かは、まだ確定していないようです。しかし、強力な燃焼促進剤にもなる二酸化マンガンが細かく砕かられていることから、少なくとも一部のネアンデルタール人は火を熾せたようです。また、ネアンデルタール人が枯れ木だけではなく褐炭(石炭化度合が低い石炭)を使って燃やしていた可能性も指摘されています。ネアンデルタール人は現生人類と同様に非を用いるために炉も作っており、その作り方と使い方はさまざまだったようです。ネアンデルタール人の生活空間については、炉とともに、植物で作った寝床も使っていたようで、机や椅子のような機能を果たした「家具」も使用していたかもしれません。ネアンデルタール人の空間の使い方は乱雑ではなく複雑かつ意図的で、この点では現生人類と近かったようです。また、ネアンデルタール人はまず間違いなく服を作って着用しており、糸を使用していた可能性も指摘されています。
こうした生活パターンから窺えるのは、ネアンデルタール人は基本的に放浪者だった、ということです。ただ、その移動は場当たり的ではありませんでした。上述のようにネアンデルタール人は中型や小型の動物も狩っていましたが、おもに狩るのは大型動物なので、その群を追って移動する必要がありました。ネアンデルタール人の移動パターン解明の手がかりとなるのは、石器も含めて遺跡にある石とその産地との距離です。一般的に、遺跡で最も多い石は約5km~10km以内で入手できます。そうした石の多くはあまり上質ではありませんが、拠点から数時間以内の場所で集められました。通常、60km以上離れた産地に由来する石は10%以下で、純度の高い黒曜石の中には300km以上の移動例もあり、普通の燧石でも100km以上運ばれることがありました。本書は、遠くから運ばれた石は、ネアンデルタール人が石の産地と他の場所をめぐる間に持ち歩いたお気に入りの石器の「生き残り」にすぎなかっただろう、と推測します。それは、上質の石が原石のまま打ち割りする場所に持ち込まれることは滅多にないからです。全般的に、ある環境におけるネアンデルタール人の石の利用法は現代の狩猟採集民に似ており、移動において石器を選ぶさいに、予定される活動や移動距離や途中で入手可能な石の種類など、多くの要因を考慮したようです。これは、ネアンデルタール人の計画性を示唆します。ネアンデルタール人と比較して、現生人類の石器群ではネアンデルタール人よりも60km以上離れた産地に由来するものが多く、それは社会的つながりの強さを反映している、と解釈されてきました。本書は、ネアンデルタール人の遺跡における産地がきわめて遠い石器は、集団内の1人か2人が過酷で迅速な旅をして運んだのだろう、と推測しています。本書は別の可能性として、ネアンデルタール人の個体が全員近親交配で生まれてきたわけではなかったことから、他の集団との交流の一環としての石器の交換も挙げています。
ネアンデルタール人の象徴的行動には議論がありますが、フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)で発見された深部の建造物(関連記事)や多くの遺跡で見つかっている顔料の使用など、現生人類とも通ずる象徴的行動がネアンデルタール人にも存在した可能性は高く、ネアンデルタール人が話せた可能性は高い、と本書は指摘します。ネアンデルタール人の象徴的行動については、ネアンデルタール人の所産とされた壁画が議論となり、疑問視する研究者は少なくないようですが、最近の年代測定の結果(関連記事)からも、ネアンデルタール人が何らかの壁画を残した可能性は低くなさそうです。ネアンデルタール人については、線刻や鳥類の爪の利用も複数の遺跡で確認されており、鳥類の爪は美的価値か象徴的表現への興味だった、と考えられています。こうしたネアンデルタール人の象徴的行動について現生人類との比較では、45000年以上前には、明確な具象芸術が存在しないことです【と本書は指摘しますが、原書刊行後の研究(関連記事)では、スラウェシ島の具象的な洞窟壁画芸術の年代が45000年以上前である可能性も指摘されています】。本書は、ジャワ島のトリニール(Trinil)遺跡で発見された54万~43万年前頃の淡水貝に幾何学模様の線刻が見られること(関連記事)から、ネアンデルタール人と現生人類の象徴的行動は太古のホモ属から受け継いだ共通の遺産だったかもしれない、と指摘します。
ネアンデルタール人の男女関係と社会について、スペイン北部のエル・シドロン(El Sidrón)遺跡の事例から、男性優位集団と解釈する見解(関連記事)もありますが、本書は、エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸は洞窟の他の場所から流れてきて堆積したので同時代なのか不明で、狩猟採集文化においては母系社会が一般的である、と指摘します【本書の「男性優位集団」の意味を断定できませんが、「父系的」と解釈すると、本書の指摘とは異なって、一般的に狩猟採集社会における母系社会の割合は父系社会より低いとされており(木山.,2001,P313)、アルタイ山脈のネアンデルタール人の研究(関連記事)でも、ネアンデルタール人社会は父系的だっただろう、と推測されています】。本書は、ネアンデルタール人が一夫一妻制のような絆を築いていただろう、と推測しています。上述のように、ネアンデルタール人社会には老人はほとんどいなかったのではないか、との見解もあるものの、本書は、化石が人口構造を正確に反映しているとは限らない(ネアンデルタール人の化石に占める女性の割合がきわめて低いことなどから)として、ネアンデルタール人社会にも老人(長老)がおり、孫に知識と経験を授けていただろう、と推測します。
ネアンデルタール人の埋葬については懐疑的な見解もあるものの、本書の複数の事例、とくに骨格遺骸が残りにくい子供の保存状態良好な複数の遺骸からは、ネアンデルタール人が何らかの意図で埋葬した可能性は高いように思います。ネアンデルタール人の骨格遺骸に、皮を剥いだり、手足を切り離したり、骨を外したりなど、解体の痕跡があることを報告した事例は増えていますが、ネアンデルタール人による食人行為の直接的証拠はほとんどなく、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡で発見されたヒトの歯形の痕跡があるネアンデルタール人の骨は例外的です。一方現生人類では、食人の証拠がさまざまな時期で確認されています。ネアンデルタール人の遺骸が焼かれたことはひじょうに稀で、偶然だった可能性が指摘されていますが、食人の痕跡が多いクラピナ遺跡のネアンデルタール人遺骸の一部は、加熱調理された可能性があります。解体の痕跡のあるネアンデルタール人遺骸については、最も栄養豊富な部位の骨には食べられた痕跡や風化の痕跡が見つかっていません。エル・シドロン遺跡のネアンデルタール人遺骸については、若者の遺骸に切断痕が最も多い、というパターンが見られました。こうした食人かもしれないネアンデルタール人遺骸について本書はボノボの事例から、攻撃が銅器とは限らず、食べた後の遺骸は、死者の代理もしくは使者とつながりがあるものとして扱われた可能性を指摘します。つまり、食人は個体と集団が死の衝撃を乗り越えるための強力な手法ではないか、というわけです。本書はネアンデルタール人のこうした遺骸の扱いを、狩猟や道具製作や芸術など行動の他の側面に見られる進歩や多様化と一致する、と指摘します。遺骸についてネアンデルタール人と現生人類の違いは、ネアンデルタール人の無傷の骨が野外遺跡では見つかっていないことです。一方、現生人類でもそれは3万年前頃までは稀でしたが、それ以降は確認事例が増えてきます。また、遺骸に成人男性が多く、女性が少ないことはネアンデルタール人も現生人類も共通していますが、現生人類はネアンデルタール人よりも老人は少なく、子供も少ない天が異なります。副葬品については、ネアンデルタール人についてその有無が議論になっており、明らかに現生人類の方が多いものの、45000~3万年前頃のヨーロッパの初期現生人類の遺骸は、ネアンデルタール人の扱いによく似ています。
21世紀における古代DNA研究の進展は目覚ましく、本書はその成果を簡潔にまとめており、ネアンデルタール人と現生人類との関係は複雑だったことが窺えます。それは、原書刊行後の研究(関連記事)でも示されています。本書はネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析にもやや詳しく言及していますが、最近の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人のmtDNAでの系統関係が包括的に示されています。本書は現代人の表現型におけるネアンデルタール人からの遺伝的影響も簡潔に取り上げていますが、この問題については最近の総説(関連記事)が公表されました。ネアンデルタール人と現生人類との交雑が明らかになったことは、21世紀の古人類学研究において最も注目を集めた事例と言えるかもしれませんが、その具体的な様相は不明で、今後も解明されることはないでしょう。本書は、両者の遭遇において強姦があったかもしれないものの、「外国人好き」ではなく「外国人恐怖症」を初期設定にする必要はない、と指摘しています。
ネアンデルタール人の絶滅(より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団と個体は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)に対する関心は高く、それは現代人自身の絶滅に対する強い恐れがあるのだろう、と本書は指摘します。つまり、ネアンデルタール人は絶滅する運命にあったのに対して、現生人類は特別な優秀さがあって生き残った、というわけです。ネアンデルタール人の絶滅で注目されてきたのは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人の所産と考えられる中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)と、現生人類の所産と考えられる上部旧石器との「中間的(過渡的)性格」の石器インダストリー(関連記事)です。これら「移行期インダストリー」の具体的事例の一つがシャテルペロニアン(Châtelperronian)で、当初は現生人類の所産と考えられていたものの、ネアンデルタール人の遺骸が発見されたことにより、ネアンデルタール人の所産との見解が有力になりました。本書は、シャテルペロニアン(シャテルペロン文化)の「過渡的」性格は古い時代の厳密ではない発掘が行なわれた遺跡か、攪乱が起きた遺跡に限定されていることから、その「過渡的」性格の見直しの必要性を指摘します。シャテルペロニアンではラミナール(長さが幅の2倍以上である本格的な石刃)が優占しており、その技術はネアンデルタール人による石刃や細石刃の製作とは異なり、むしろ現生人類の所産であるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)に似ている、というわけです。本書は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとを結びつける根拠とされてきた、サン・セザール(Saint-Césaire)遺跡とアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)の発掘とその解釈には問題がある、と指摘します。両者において攪乱や侵食が起きた可能性は高い、というわけです。別のよく知られた「移行期インダストリー」は、イタリアで発見されてきたウルツィアン(Ulzzian)です。ウルツィアン(ウルツォ文化)には、先行する中部旧石器時代の技法との違いや類似が込み入っており、「三日月形石器」により特徴づけられます。ウルツィアンについては、出土した歯を根拠に現生人類の所産とする見解もありますが(関連記事)、本書はウルツィアンもシャテルペロニアンも、ネアンデルタール人の文化との違いを強調しつつ、その担い手について断定はしていません。本書は、「移行期インダストリー」として、フランス南西部で発見されたネロニアン(Neronian)にも言及しています。
ネロニアン(ネロン文化)はシャテルペロニアンより1万年ほど古く、ネアンデルタール人の石器層に挟まれていることで注目されます。ネロニアンと類似した文化として、中近東とヨーロッパの境界に見られる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)があります。少なくとも一部のIUPの担い手は初期現生人類ですが【原書刊行後の研究(関連記事)により、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡のIUPの担い手は、現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近い初期現生人類集団と明らかになりました】、猛禽類の鉤爪を集めることなど、ネロニアンにはネアンデルタール人との文化的つながりが見られます。ネロニアンの担い手がネアンデルタール人なのか現生人類なのか断定できませんが【原書刊行後の研究(関連記事)により、マンドリン(マンドゥラン)洞窟(Grotte Mandrin)遺跡のネロニアン層の人類の歯の分析から、その担い手は現生人類だった可能性が高い、と示唆されています】、在来のネアンデルタール人を追い払い、その後で再びネアンデルタール人が到来した可能性は高そうです。まだ全容はとても解明されていませんが、これらネアンデルタール人の絶滅に近い年代の「移行期インダストリー」の研究からは、ネアンデルタール人の絶滅および現生人類との関係は複雑で、単純に現生人類がネアンデルタール人に対して優位に立っていたとは断定できない、と本書は指摘します。現代ヨーロッパ人も、1万年前頃の中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民とは遺伝的つながりが少なく、初期現生人類集団の絶滅は珍しくない、というわけです【この問題については、原書刊行後の研究も踏まえて最近当ブログで記事を掲載しました】。
本書は最後に、19世紀半ばの発見以来、ネアンデルタール人像がどう変容してきたのか、同時代においてどのような違いがあったのか、当時の社会的文脈に位置づけて解説します。ネアンデルタール人を「野蛮」と位置づける見解は発見当初から有力で、それは当時の「人種」階層化の観念とも強く結びついていました。その行きつく先にナチス政権があったことの反省から、第二次世界大戦後には「人種」に基づく科学を否定する動きが強まりましたが、人種主義的科学の影響は長引き、1962年には著名な人類学者であるカールトン・クーン(Carleton Coon)による『人種の起源』と題した本が刊行され、激論が惹起されました(関連記事)。本書は、ネアンデルタール人も含めて人類進化史の研究で、西洋の関係者がしばしば特権的に振舞ってきて、先住民・狩猟採集民の知識と世界観は無視されてきたものの、最近になって、それらを活用して研究の新たな地平が開かれた、と指摘します。本書は、都市での生活を大前提とする西洋の研究者には理解できない動機によりネアンデルタール人が行動していたかもしれず、その解明に狩猟採集民の世界観・知識が役立つ可能性を指摘します。たとえば、ネアンデルタール人のクマ狩りについて、経済的な動機が明らかではないので、社会的動機に基づいて説明されましたが、それはきわめて西洋的で、威信のためだった、というものでした。しかし、現代の狩猟採集民の文化には、クマに人格や人間性を見るものもあり、ネアンデルタール人のクマ狩りについても、威信以外の何らかの社会的関係の構築に役立ったかもしれない、と本書は指摘します。
以上、本書についてざっと見てきました。冒頭で述べたように、本書はネアンデルタール人についての現時点での最適な日本語の概説書と言えそうで、ネアンデルタール人についての包括的な解説から、ネアンデルタール人の概説書としての役割を長く保つことになる名著と評価されるでしょう。本書からは、発見当初のネアンデルタール人に対する否定的評価はもちろん、mtDNA解析によりネアンデルタール人と現生人類とが異なる、と判明した1997年から、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動が確認された2010年までに主流だった、ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する見解よりもずっと、ネアンデルタール人と現生人類の違いは小さかった可能性が高い、と考えられます。ネアンデルタール人の絶滅を説明するために、現生人類がネアンデルタール人よりも「優秀」だと強調されたわけですが、その背景として、本書が指摘するように、絶滅を恐れる現代人の心理があったのでしょう。ネアンデルタール人への視線はその時代の世界観・思潮と無縁ではあり得ず、それはネアンデルタール人から現生人類への遺伝的影響が明らかになった現在でも同様でしょうが、少しでもそうした偏見を回避できるよう、多様な研究と言説に触れる必要があると思います。
参考文献:
Sykes RW.著(2022)、野中香方子訳『ネアンデルタール』(筑摩書房、原書の刊行は2020年)
木山英明(2001)『人間の来た道 人類学の話』第2刷(好文出版、初版の刊行は1994年)
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