岡本隆司『悪党たちの中華帝国』
新潮選書の一冊として、新潮社から2022年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、「悪党」に焦点を当てた中国史です。本書の「悪党」は、悪名高い人物という一般的な意味合いですが、悪評が定着しているような人物でも実は「悪党」ではないとか、悪評がなくとも本当「悪党」だったとか、客観的実像を検証しつつ、悪評の背景も探られています。対象となる時代は、現代の中国と比較の対象になるような規模の隋と唐以降で、近い時代の人物を対比させる構成になっています。具体的には、唐代が太宗と安禄山、五代十国時代が馮道と後周の世宗(柴栄)、宋代が王安石と朱子(朱熹)、明代の皇帝が永楽帝と万暦帝、明代の思想家が王陽明と李卓吾、清末民初が康有為と梁啓超です。
唐の太宗(李世民)は、一般的には中国史上屈指の名君とされています。本書は、李世民とは対照的に暴君の代名詞的存在である隋の煬帝(明帝)にも分量を割いて、単純に暴君とは言えず、その政策には必然性があり、李世民にもほぼ受け継がれ、煬帝はそれらの政策遂行において一定以上準備もしていた、と指摘します。李世民は皇太子の兄と弟を殺害し、唐の初代皇帝(高祖)である父(李淵)の後継者となります。本書は、この点で、流血の事態に至らずに兄から後継者の地位を奪った煬帝の方がましだった、と指摘します。また本書は、李世民が名君であることを後世に伝えた『貞観政要』にしても、漢籍史書の特徴である個人の所感・発言・会話が多く、制度や社会の動態描写が少ないことから、李世民の実績は定かではない、と指摘します。本書は、煬帝と太宗(李世民)の構図・影像は同じで、亡国と建国で明暗反転したにすぎず、煬帝が素直な人物だったのに対して、太宗はもっと狡猾だった、と評価します。太宗は歴史と記録を充分に意識して演技した人物であり、煬帝を徹底的に貶めることで自身が明君になった、と本論文は指摘します。
安禄山は『平家物語』の冒頭で言及されており、日本でも前近代から知名度が高かったのでしょう。安禄山は、太宗から高宗と武則天(則天武后)の治世を経て変容していった唐の体制で台頭しました。安禄山はソグド系突厥人で、複数の言語に通じていたため、交易の仲買人としての役職を務めたこともあり、その後、范陽節度使に仕えて軍人として台頭し、自身が節度使に任じられます。安禄山は玄宗の寵臣である李林甫に取り入って出世しましたが、李林甫が没し、玄宗の寵臣として台頭してきた楊国忠とは玄宗の恩寵をめぐって対立し、楊国忠の誅殺を名目に、755年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、挙兵しました。安禄山の軍は、突厥やソグドや契丹など、多種族の混合でした。玄宗は長安を放棄し、楊国忠は殺害されますが、安禄山は757年1月、息子の安慶緒に殺害されます。安禄山は楊国忠の排除を名目に挙兵しましたが、その真の理由についてはよく分かっていないようです。この安史の乱は、唐の体制が破綻していたことを明らかにし、節度使割拠の情勢が常態化します。本書は、安史の乱がユーラシア規模の地殻変動を示しており、唐という第一次「中華帝国」解体の狼煙になった、とその意義を評価します。
馮道は多くの王朝と君主に仕え、その王朝が滅亡しても殉じずに他の王朝に仕えたことから、無節操な人物として後世には指弾されました。しかし、馮道は五代十国の戦乱の中、民をできる限り保護しようとして、それは庶民とごく近い感覚を持っていたからでした。馮道は家柄も風采もよくなく、当時はまだ文官の登用ではそうした要素が重視されていましたが、馮道は人を見る目の優れた上司に恵まれ、出世していきます。馮道を重用した後唐の明宗(李嗣源)の没後、馮道は後継者争いの中でいち早く支持を表明した李従珂にかえって不信感を抱かれて失脚します。この経緯から、後世に馮道を指弾する人が出てくるのは仕方ないかな、とも思えます。本書は、評価の分かれる馮道について、事実認識の点ではほぼ同じながら、君主・王朝本位だと指弾され、人民・社会を重視すると肯定的評価になる、と指摘します。これは、漢字文化圏の前近代的価値観と現代的価値観の違いとも言えそうですが、本書は、前近代にあっても、後述の李卓吾のように馮道を激賞した人物がいる、と指摘します。
後周の世宗(柴栄)は叔母が郭威の妻となり、その間に子供が生まれなかったことから、郭威の養子となりました。郭威は後晋の石敬瑭の腹心となり、石敬瑭は後晋の初代皇帝となったものの、その後継者は「燕雲十六州」を回収しようとしてキタイ(契丹)と対立し、後晋は滅亡します。後晋を滅ぼし、一時的に中原を占拠したキタイが中原から撤退した後に、劉知遠(高祖)が後漢を建国しますが、これに貢献したのが郭威でした。劉知遠は即位後1年ほどで没し、若くして即位した次男(隠帝)の側近と先代(劉知遠)の旧臣が対立し、自らも隠帝の側近の標的となった郭威は挙兵して開封へと進軍し、隠帝は戦死して後漢は実質的に滅亡します。この時、留守居を任されたのが柴栄でした。郭威は兵士により皇帝に擁立され(後周の太祖)、功臣の粛清も含めて意欲的に統治に努めたようですが、即位後3年で没し、養子の柴栄が即位します(世宗)。世宗は即位直後、後漢の後継政権である北漢を、馮道が反対するにも関わらず攻め、危地に陥ったものの見事に大勝します(高平の戦い)。この戦勝とその後の信賞必罰の人事と軍隊整理により世宗の地位は安定し、国家財政を圧迫していた仏教の規制に着手します。この政策は、仏教を克服した宋学が浸透した後世には肯定的に評価されました。世宗は南唐も従属させ、燕雲十六州を「奪回」すべく出陣して順調に進軍しますが、陣中で発病し、開封に戻るもそのまま没します。即位してわずか5年半後のことでした。本書は、五代十国の混乱収拾の道筋をつけた人物として、世宗を評価しています。
王安石は現代日本(中国も?)社会では、おおむね進歩的な改革者として肯定的に評価されているでしょうが、歴史的には長く、周囲の勧告を聞かず、「執拗」に過激な施策を強行し、佞臣と奸臣を生み出して国家を滅亡に追いやったとして、批判されてきました。当時、宋はキタイ(契丹)と和睦して(澶淵の盟)平和を実現し、文治主義により国家が軍隊を統制出来ていたものの、軍隊は弱体化し、新興の西夏に対抗するための兵数増加により財政が圧迫され、格差は拡大し、農村は荒廃していき、治安が悪化していました。王安石は、同世代の有望な官僚には珍しく、中央の官職経験がほとんどなく、地方官を歴任していましたが、当時からその名声は高く、若き君主の神宗に抜擢され、改革を進めます。王安石の改革(新法)は財政再建を目的とし、要は支出削減と収入増加ですが、官民で偏ってきた負担関係を整理して合理化し、社会格差の平準化と秩序再建する、という共通点がありました。この改革は相応の成果をあげており、王安石は地方官の経歴が長いだけに、実情を的確に把握していたようです。しかし、これは当時の有力政治家の既得権を侵害することになり、王安石の改革はそうした旧法党により激しく批判されます。さらに、王安石は議論を無駄と考えて反対派を排斥していき、これが後世の悪評につながりました。王安石の失脚後、新法党と旧法党との党争が続き、宋(北宋)は間もなく滅亡します。この時、亡国の君主となった徽宗(実際の滅亡はその息子の欽宗の代ですが)の「奸臣」とされた蔡京が人脈的には新法党だったので、新法党は亡国の原因と考えられ、党争は旧法党が勝利した形となり、王安石の長きにわたる否定的評価が定まりました。
近代日本社会において朱子学は儒教の代表的存在で、封建主義の代名詞であり、近代に背反する思想とみなされてきました。しかし、朱子学に対する批判は日本よりも中国の方がずっと早かった、と本書は指摘します。清代には考証学が盛んになり、(朱子学も含まれる)宋学と明学は空理空論として敵視されました。さらに言えば、朱子学への批判は14世紀以降の中国史の大きな流れの一つでもありました。朱子(朱熹)の学問は、宋代の儒教復興の流れ(宋学)から現れました。宋学は旧法党の学統というか人脈に連なり、そうした思想状況の中、南宋が成立したばかりの頃に朱子は生まれます。朱子は科挙の最終試験に合格しますが、その成績は悪かったようで、学者としての能力は試験での能力とは別のものも要求される、ということでしょうか。朱子は科挙の成績が悪かったためか、その官暦は華々しくなく、実際に官僚として働いたのは、地方官として9年ほど、中央で40日ほどとされます。朱子は地方官を務める傍ら学問を講義し、自分が政治よりも学問に向いていることを悟ったようです。朱子は、進んで名誉的な肩書である「祀官」を務め、実質的に学問の道に進みます。この祀官は、失脚した人物によく与えられており、実際の職務はありませんでした。朱子の学問は朱子学と呼ばれ、二分的な概念把握で世界全体を体系づけようとしました。朱子学は、宋代に出現した士大夫層にとって煩雑で習得困難な訓詁学に代わる、理解しやすい体系的な教学を提供しました。朱子学では、膨大な儒教の経典に加えてごく短い四書が重視され、史書も『資治通鑑』の入門書としての『資治通鑑綱目』が編纂され、要は新興の士大夫層に対する合理的配慮であり、現代の教科書と教育課程の概念および方法に近いものでした。朱子学は直ちに体制教義となったわけではなく、当初は弾圧もされましたが、やがてはアジア東部漢字文化圏において儒教の代表とみなされるようになり、それが近代には封建主義の代名詞として批判される所以ともなりました。
明は、モンゴル帝国の覇権下において活発だったユーラシア東西の交流が「14世紀の危機」において低調になり、各地が孤立していく中で成立した政権でした。商業金融の衰微の中、明の建国者である朱元璋(洪武帝)は、農本主義・現物主義的な体制を構築します。それと結びついたのが「中華」の回復で、明では「華夷秩序」が強く志向され、民間人の一般的な内外の往来は禁止されて、外国は「朝貢」もしくはその付随でした明との交流・取引は認められませんでした(朝貢一元体制)。朱元璋は皇帝の一元的支配を志向し、それが経済的に華北に対して有意にある華南を中心とした功臣粛清にもつながりましたが、もちろん皇帝が全てを把握できるわけはなく、息子を各地の王に任命します。本書は、明を「私物化」体制と評価します。洪武帝の息子たちの中で、モンゴルと対峙する要衝の北平(旧大都、現在の北京)に燕王として駐屯したのが、四男である朱棣でした。華南を弾圧して「中華」一元化を図る朱元璋は、首都を南京から北方の古都である西安(長安)へ移そうとして、皇太子の朱標に西安を視察させますが、朱標が没したため、遷都計画は挫折します。その後、皇太孫となったのは朱標の息子である朱允炆でした。朱元璋没後、朱允炆が即位し(建文帝)、各地の王に任じられていた叔父を取り潰そうとします。そこで、朱棣はやられる前に決起し(靖難の変)、苦戦しつつ南京を制圧して、建文帝は行方不明となります。朱棣は即位したものの(永楽帝)、南京の建文帝の臣下の中には従わない者も少なからずいました。永楽帝は父である洪武帝の「中華」統一路線を継承し、都は父の構想とは異なるものの北平に遷されました。ただ、永楽帝は一般的に、その積極的な対外方針から、洪武帝路線を変更した、と評価されているようです。しかし本書は、有名な鄭和の遠征にしても、モンゴル帝国の積極的な海洋展開への「回帰」というだけではなく、「朝貢一元体制」とも背反していなかったことを指摘します。簒奪者として即位した永楽帝は、自らの功績を示すために一見すると積極的な路線を進めましたが、主観的には父である洪武帝の忠実な後継者であろうとした、と本書は評価します。本書は、洪武帝の目指した自給自足敵で運輸・商業を忌避する方針は、その経済力からして、北から南を支配する政体とは整合的ではなく、永楽帝により確立された明の体制には、構造的な矛盾が内在していた、と指摘します。
明の万暦帝(朱翊鈞)は、亡国の君主として語られてきました。明が実際に滅亡したのは万暦帝の後で、万暦帝の代に滅びなかったのは幸運だった、とも言われてきました。しかし本書は、その評価は妥当だとしても、明の滅亡の責任を万暦帝だけに帰してよいのか、と問題提起します。上述のように明は「中華」一元的な支配体制を志向し、対外的には朝貢一元体制を維持しようとしましたが、江南の経済発展により、明国内では補助的な役割しか与えられなかった通貨に代わって銀が実質的に通貨として機能し、銀が外国から流入することにより、江南の生産物への対外的需要もあって、大規模な貿易により朝貢一元体制が破綻しかねない状況になりました。ヨーロッパ勢力がアメリカ大陸を侵略して支配し、アメリカ大陸では銀の増産が始まり、やがて明にずっと近い日本でも技術革新により銀の増産が始まりました。こうした世界規模での経済の一体化が明後期には始まりつつあり、政治体制と民間社会(経済)は乖離していました。明にとっての「北虜南倭」の脅威も、そうした乖離に起因するもので、この関係はその後の中華帝国の基本的構造になった、と本書は指摘します。隆慶帝の時代にはその乖離は弥縫策で対処されましたが、当然根本的な解決にはならず、そうした状況で1573年に即位したのが万暦帝でした。万暦帝即位後の10年弱は、宰相の張居正の執政期でした。張居正は弛緩した明の体制を立て直そうとし、一定の効果はあったものの、それは王安石のような根本的改革ではなかった、と本書は評価します。万暦帝にとって、師傅でもあった張居正は逆らうことのできない存在でした。その張居正の死後、万暦帝は張居正の一族を積極的に粛清し、その解放感から政務を放棄して自身の陵墓の建造に執心し、財政が傾きます。万暦帝はその対策を次々と思いついて実行しており、暗愚な人物ではないものの、その明敏さを活用する方向が問題だった、と本書は評価します。本書は、こうした皇帝の思いつきの実行が可能だったのは、明の「私物化」体制に原因がある、と指摘します。
明代には、上述のように政治と社会(経済)の乖離が進行し、士大夫層でも、科挙に合格しても任官しない人(紳士)が現れます。それまで、知識人と官僚は一体であるべきと考えられましたが、明代には、任官する士大夫(官)は政治家・官僚に純化していき、宋代とは異なり、文芸学術での実績が目立たたなくなります。一方、任官しない士大夫(紳)は文芸学術に専心していきますが、それは政治に無関心だったからではなく、官界遊泳をあえて忌避した側面がありました。明初には蘇州を初めとして江南は弾圧され、文化的にも低調でしたが、15世紀後半~16世紀前半にかけて、経済復興とともに文化も再興します。こうした中で、官界・権力とは一定の距離を取った在野在地の名望家は、「郷紳」と呼ばれています。当時、文芸は職業ではなかったので、後援者がおり、江南の民間社会は、「官」よりも「紳」の方を戦略的・選択的に支持した、と本書は指摘します。当時の体制教学は二分の原理を特質とする朱子学で、王陽明(守仁)も当初は熱心に学びました。王陽明は何度かの不合格後、科挙に合格して任官します。最初の官は激務だったようで、病気療養することになり、この時に道教と仏教にも触れたようです。官に復帰後、王陽明は政争に巻き込まれて左遷され、そこで思索を深めたようです。王陽明は群盗鎮圧で功績を挙げ、その後で隠棲生活に配流ものの、その軍才を評価されて再度起用され、その無理がたたったのか、57歳で死亡します。理気二元論の朱子学を学ぶ中で疑問を抱いた王陽明は、二元的な対概念の枠組みでは朱子学と同じながら、内外を区別せず一体化しようとする方向性の思想を打ち出します。こうした陽明学出現の社会的背景として、表向きは高尚なことを言いながら、実際には非違・貪欲な行動が珍しくなかった知識層へ反感・反省がありました。社会の乖離が進むなか、その負の側面に対する警鐘として、陽明学は支持を得ていきました。また陽明学は反読書・書物を特徴として、下層民衆にも門戸を開いていました。陽明学では「講学」が重視され、これは口頭の講義・討論です。門戸の広い陽明学は広範に浸透していきましたが、朱子学を体制教義とする朝鮮半島では異端扱いされ、科挙のない日本では朱子学とともに隆盛しました。
李卓吾は王陽明の死の1年前となる1527年に生まれました。王陽明の死後、陽明学は、善悪の意識のうえに着実な修養を重視する「右派」と、良知を発現させるために人為的もしくは意識的な修養・実践は無用とする「左派」に、大きく分かれます。本書は、知識層の多くが指示したのは「右派」であるものの、王陽明の思想の正嫡は「左派」だった、と評価しています。李卓吾は福建省での科挙に合格するものの、経済的余裕がないため、次の段階の試験は受けられず、河南省と南京で学校の教官となります。李卓吾はその後も、さほど出世せず、最終の官歴は雲南省姚安府の知事でした。李卓吾は55歳でこの職の任期を終え、官を辞して湖北省で読書と著述に専念しますが、それは郷紳の経済的援助を受けてのことでした。李卓吾は官僚時代に陽明学「左派」に触れたものの、その著作は社会変革を主張するものではありませんでした。しかし、李卓吾の言説は社会問題になりました。李卓吾の思想は陽明学「左派」に連なるものの、違いもありました。陽明学「左派」は「読書」を批判して軽蔑するあまり、「読書」を否定したので、「読書」を重視した陽明学「右派」や朱子学との対立は水掛け論となります。しかし、李卓吾は「読書」に没頭し、その上で「読書」を批判したので、陽明学「右派」や朱子学との「読書人」にとって真の脅威となりました。李卓吾は、儒教の経典も尊重すべき教義を説いた聖賢すら、外在的な「仮」に他なりませんでした。つまり、「中華帝国」で古来続いて来た経典と聖賢の権威を真っ向から否定するものでした。すでに王陽明も、心底納得できなければ孔子の説でも従えない、と言っており、李卓吾は陽明学に内在する思想を極限まで突き止めたわけです。李卓吾の史論も、体裁こそ伝統的な史書と違いはありませんが、論評の基準と判定は大きく異なっており、始皇帝と則天武后を高く評価し、上述のように無節操の変節漢と言われた馮道も賞賛しています。李卓吾の信奉者は少なからずおり、それが士大夫の多数派の警戒を強めていた可能性が高い、と本書は指摘します。李卓吾は捕縛され、獄中にて自殺しました。李卓吾は現代人の感覚・立場に近く、それ故に「旧体制」に憎まれ、中国の近世が市民的近世にならなかった事態を象徴する、との見解もあります。李卓吾の死後、ともに明清交替を生きた顧炎武と黄宗羲は、李卓吾の「近代思惟」にかなり接近しつつも、李卓吾を強く否定し、旧来の聖賢・経典を前提とする「中華帝国」の再建を目指しました。本書はそこに、問題の核心を見ています。
明が滅亡し、ダイチン・グルン(大清帝国)の統治下において漢学が盛行しますが、それには政権側からの弾圧の側面とともに、知識層が政権側に迎合した側面もある、と本書は指摘します。漢学は「実事求是」を掲げ、経書や史書や古典を言語的に正しく読もうとして、実証を徹底しました。これには同時代の西洋の影響もあった、との見解も提示されています。これについて内藤湖南は、一定の知的水準と経済的時間的余裕があれば誰でもできる、と批判しました。大清帝国の平和が続く中、当初実用を志した漢学は、実用から遊離して考証自体が目的となり、些末な対象ばかり扱うようになります。これは、当初の国家的な危機的状況から実用を目指した漢学が、平和の到来により安逸に流れた、ということでもあったので、再び危機が深まれば、新たに実用を志す機運が高まることになり、その危機とは、19世紀の西洋列強の圧力(西洋の衝撃)でした。一方、漢学でも、後漢までだった検証対象が前漢にも及び、公羊学が台頭します。公羊学は、太古の黄金時代を孔子は後世に伝えた、という後漢以降の儒教解釈とは異なり、孔子が既存の体制を改めて新たに儒教を創始した、と主張します。つまり、儒教を尚古思想的ではなく改革的なものとして解釈できるようになったわけです。1858年に広州で生まれた康有為は、公羊学が浸透していく中で、改革思想を構築し、運動を実践しました。康有為が科挙を受験すべく北京に赴いた1895年、大清帝国は日本に敗れ、下関条約を調印します。この屈辱的事態に、康有為も含めて科挙受験者は政権に変革を訴えます。康有為が主張した「変法」は、おもに明治維新を手本にした制度改革で、伝統的な儒教解釈では(王安石が長く批判されてきたように)改革は悪とされているので、「変法」正当化のため孔子は改革者と位置づけられました。これは多くの下級官僚と知識人一般を直接の標的としており、李鴻章など少数の大官による以前の改革事業とは大きく異なっていました。康有為は何度も上書を提出し、ついに高官の前で自説を述べることになります。その結果、1898年6月11日、「変法」開始の詔が下されます(戊戌変法)。光緒帝自身が、康有為を信任して改革を主導した、と考えられています。康有為は科挙の改廃や行政機構の再編を主張しましたが、既得権が関わる大きな問題で反発も大きく、この改革は早くも3ヶ月後には挫折します(戊戌の政変)。本書は康有為を、重厚深奥な思索者ではなく、既成理論を応用する軽薄な人物で、博識ながら相互の矛盾に悩むよりも、それを軽やかにこじつけて統合した、と指摘します。この変革の挫折後、康有為は梁啓超などと共に日本へと亡命します。本書は康有為を、思想家ではあったものの、思想家に必要な独善が度を過ぎていた、と評価しています。亡命後の康有為の活動は多岐にわたりますが、ほぼ挫折の繰り返しでした。康有為は、儒教が多数の庶民に受け入れられるような信仰ではないことから、儒教のキリスト教化(孔教)を図りました。辛亥革命後、康有為は孔教の国教化を訴えましたが、失敗に終わります。しかし本書はこれを、時代錯誤の試みで当然の帰結とは評価しておらず、孔教の排除には新文化運動を待たねばならなかった、と評価しています。
定見がありすぎた康有為に対して、その弟子の梁啓超は定見がなさすぎて、清代の思想を破壊した、と梁啓超自身が評価していました。その梁啓超は1873年に生まれ、当時の平均的知識人のように科挙を受験しますが、康有為との出会いにより、変革者としての道を歩むことになります。しかし梁啓超は当初から、康有為の学問についていけないところがある、と感じていたようです。それでも、その人生は大きな影響を受けます。戊戌の政変により日本へと亡命した梁啓超は15年も日本に滞在し、その間に思想が大きく変わり、また和製漢語を積極的に取り入れました。こうした梁啓超の思想と新たな文体は、若い知識層に大きな影響を与え、魯迅も毛沢東も例外ではありませんでした。梁啓超は日本滞在中に孔子の権威から離脱しており、思想的には康有為と決別したことになります。梁啓超は西欧と日本を基準に「国家主義」を取り入れ、それが若い知識層に大きな影響を与えたため、「中華帝国」の運命を変えることになりました。梁啓超は、それまでの「中華帝国」には国名がなかった、つまりそもそも国家(ネイション)ではきなったから国名も存在しなかった、というわけで、ナショナル・ヒストリーとしての「中国史」の創出を企図しました。梁啓超は伝統的な史書を、朝廷が国家はなく、王朝の家譜にすぎず、個人の存在を知っていても社会の存在を知らない、と痛烈に批判しました。梁啓超は国民国家形成のため、とくに「公徳」を強く主張しました。「中華帝国」の旧道徳は個々人の改善を図る「私徳」ばかりで、社会全体の改善を歯する「公徳」を欠いていた、というわけです。15年にわたる日本滞在中の1903年、梁啓超はアメリカ合衆国を訪れますが、道徳心・公共観念に乏しい華僑社会の現実に失望し、「私徳」を訴えるようになります。個々の道徳心の確立なくして「公徳」の習得はあり得ない、というわけです。梁啓超は革命派に失望し、「開明専制」を主張するようになります。立憲君主制による漸進的な改革を目指したわけです。辛亥革命後の1912年、梁啓超は帰国します。帰国後の梁啓超は1910年代には、おもに政治家・閣僚として活動し、中央政権を支持しました。その結果、革命派に反対する立場となり、中華人民共和国における梁啓超の評価は低いものでした。この点は伝統的な正統史観と変わらない、と本書は指摘します。梁啓超は、おおむね中央政権を支持したものの、袁世凱の帝制復活には反対し、その後の康有為たちの「復辟」運動にも反対します。梁啓超は、「共和の国体」を維持し、理想の「政体」を目指す点で、立場は不動でした。梁啓超は第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席し、西洋の科学・政治・文明への批判を強め、ついには西洋流の「国家主義」を放棄し、政界から離れることにします。梁啓超は「中華帝国」の文明を再評価する方針に転換し、研究活動に専念しますが、1929年に没しました。その思想がたびたび変わったことから、梁啓超を機会主義者・便宜主義者とみなすことも可能ですが、梁啓超の目的は変革を通じた救国で一貫していた、と本書は指摘します。
本書はこれら12人の「悪党」について、時代の課題・要請に応じようとした言動・進退であり、そうした試行に錯誤という結果を突きつけ、個々人に対する毀誉褒貶を判断基準として「悪党」という烙印を押し続けるのが「中華帝国」の仕組みだったかもしれない、と指摘します。容易に秩序の構築・統一を許さない多元世界に、「中華」に君臨して「帝国」を統治する指導者・君主は苦しめられ、李世民や安禄山や柴栄や永楽帝や万暦帝はその典型です。エリートと庶民の乖離が著しく、多層化の止まらない二元社会では、「帝国」を経営し、「中華」を再考しようと試みた為政者・思想家が悩み、馮道や王安石や朱熹や王陽明はその代表です。西洋と邂逅した新時代に、そうした「中華帝国」変革の端緒を見出だして表現したのが、李卓吾や康有為でした。それだけに毀誉褒貶が激しく、自殺や亡命に追い込まれます。梁啓超はその克服を志しましたが、日本を媒介に西洋流の国民国家を建設する試みは、現実に直面して挫折し、新たな構想を余儀なくされました。辛亥革命に始まる革命の過程で、「中華帝国」は確かに消滅したものの、それは「中華」が「中国」に転化し、「帝国」から皇帝がいなくなっただけ、かえって混迷を深めた感があります。「国家主義(ナショナリズム)」は身に付いても、目指す「国民国家(ネイション・ステート)」にはなりきれず、地域偏差と多元性、エリートと庶民の乖離、多層化した社会格差は根強く存在したので、試行錯誤が繰り返され、「悪党」も輩出され続ける、というわけです。現在の中華人民共和国においても、地域偏差と経済格差はむしろ悪化した面すらあり、習近平主席が「悪党」と見まがう強権を発動し、革命により否定されたはずの「皇帝」の如く振舞うのも当然である、と本書は指摘します。中華人民共和国における現在の「民族問題」についても、梁啓超以来、中国が主張してきた「一つの中国」と「中華民族」の創出にあたった不可避な現象に他ならない、と現在の北京政府はみなしている、と本書は指摘します。多元的な「帝国」は、西洋の衝撃により「一国家一民族(国民)」の制度構築を強いられ、「中華帝国」は「中国」と「中華民族」の概念をその基軸に据えました。それが西側諸国からは、独裁や人権侵害や民族問題に見えるわけです。習近平主席が西側諸国から強権的な「皇帝」に見えるのは、歴史的な所産というわけです。本書は、西側諸国、とくに近隣の日本が、中国側のそうした認識を踏まえて、「普遍的価値」を持ちつつ絶対視することなく、中国に対処せねばならない、と指摘します。
唐の太宗(李世民)は、一般的には中国史上屈指の名君とされています。本書は、李世民とは対照的に暴君の代名詞的存在である隋の煬帝(明帝)にも分量を割いて、単純に暴君とは言えず、その政策には必然性があり、李世民にもほぼ受け継がれ、煬帝はそれらの政策遂行において一定以上準備もしていた、と指摘します。李世民は皇太子の兄と弟を殺害し、唐の初代皇帝(高祖)である父(李淵)の後継者となります。本書は、この点で、流血の事態に至らずに兄から後継者の地位を奪った煬帝の方がましだった、と指摘します。また本書は、李世民が名君であることを後世に伝えた『貞観政要』にしても、漢籍史書の特徴である個人の所感・発言・会話が多く、制度や社会の動態描写が少ないことから、李世民の実績は定かではない、と指摘します。本書は、煬帝と太宗(李世民)の構図・影像は同じで、亡国と建国で明暗反転したにすぎず、煬帝が素直な人物だったのに対して、太宗はもっと狡猾だった、と評価します。太宗は歴史と記録を充分に意識して演技した人物であり、煬帝を徹底的に貶めることで自身が明君になった、と本論文は指摘します。
安禄山は『平家物語』の冒頭で言及されており、日本でも前近代から知名度が高かったのでしょう。安禄山は、太宗から高宗と武則天(則天武后)の治世を経て変容していった唐の体制で台頭しました。安禄山はソグド系突厥人で、複数の言語に通じていたため、交易の仲買人としての役職を務めたこともあり、その後、范陽節度使に仕えて軍人として台頭し、自身が節度使に任じられます。安禄山は玄宗の寵臣である李林甫に取り入って出世しましたが、李林甫が没し、玄宗の寵臣として台頭してきた楊国忠とは玄宗の恩寵をめぐって対立し、楊国忠の誅殺を名目に、755年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、挙兵しました。安禄山の軍は、突厥やソグドや契丹など、多種族の混合でした。玄宗は長安を放棄し、楊国忠は殺害されますが、安禄山は757年1月、息子の安慶緒に殺害されます。安禄山は楊国忠の排除を名目に挙兵しましたが、その真の理由についてはよく分かっていないようです。この安史の乱は、唐の体制が破綻していたことを明らかにし、節度使割拠の情勢が常態化します。本書は、安史の乱がユーラシア規模の地殻変動を示しており、唐という第一次「中華帝国」解体の狼煙になった、とその意義を評価します。
馮道は多くの王朝と君主に仕え、その王朝が滅亡しても殉じずに他の王朝に仕えたことから、無節操な人物として後世には指弾されました。しかし、馮道は五代十国の戦乱の中、民をできる限り保護しようとして、それは庶民とごく近い感覚を持っていたからでした。馮道は家柄も風采もよくなく、当時はまだ文官の登用ではそうした要素が重視されていましたが、馮道は人を見る目の優れた上司に恵まれ、出世していきます。馮道を重用した後唐の明宗(李嗣源)の没後、馮道は後継者争いの中でいち早く支持を表明した李従珂にかえって不信感を抱かれて失脚します。この経緯から、後世に馮道を指弾する人が出てくるのは仕方ないかな、とも思えます。本書は、評価の分かれる馮道について、事実認識の点ではほぼ同じながら、君主・王朝本位だと指弾され、人民・社会を重視すると肯定的評価になる、と指摘します。これは、漢字文化圏の前近代的価値観と現代的価値観の違いとも言えそうですが、本書は、前近代にあっても、後述の李卓吾のように馮道を激賞した人物がいる、と指摘します。
後周の世宗(柴栄)は叔母が郭威の妻となり、その間に子供が生まれなかったことから、郭威の養子となりました。郭威は後晋の石敬瑭の腹心となり、石敬瑭は後晋の初代皇帝となったものの、その後継者は「燕雲十六州」を回収しようとしてキタイ(契丹)と対立し、後晋は滅亡します。後晋を滅ぼし、一時的に中原を占拠したキタイが中原から撤退した後に、劉知遠(高祖)が後漢を建国しますが、これに貢献したのが郭威でした。劉知遠は即位後1年ほどで没し、若くして即位した次男(隠帝)の側近と先代(劉知遠)の旧臣が対立し、自らも隠帝の側近の標的となった郭威は挙兵して開封へと進軍し、隠帝は戦死して後漢は実質的に滅亡します。この時、留守居を任されたのが柴栄でした。郭威は兵士により皇帝に擁立され(後周の太祖)、功臣の粛清も含めて意欲的に統治に努めたようですが、即位後3年で没し、養子の柴栄が即位します(世宗)。世宗は即位直後、後漢の後継政権である北漢を、馮道が反対するにも関わらず攻め、危地に陥ったものの見事に大勝します(高平の戦い)。この戦勝とその後の信賞必罰の人事と軍隊整理により世宗の地位は安定し、国家財政を圧迫していた仏教の規制に着手します。この政策は、仏教を克服した宋学が浸透した後世には肯定的に評価されました。世宗は南唐も従属させ、燕雲十六州を「奪回」すべく出陣して順調に進軍しますが、陣中で発病し、開封に戻るもそのまま没します。即位してわずか5年半後のことでした。本書は、五代十国の混乱収拾の道筋をつけた人物として、世宗を評価しています。
王安石は現代日本(中国も?)社会では、おおむね進歩的な改革者として肯定的に評価されているでしょうが、歴史的には長く、周囲の勧告を聞かず、「執拗」に過激な施策を強行し、佞臣と奸臣を生み出して国家を滅亡に追いやったとして、批判されてきました。当時、宋はキタイ(契丹)と和睦して(澶淵の盟)平和を実現し、文治主義により国家が軍隊を統制出来ていたものの、軍隊は弱体化し、新興の西夏に対抗するための兵数増加により財政が圧迫され、格差は拡大し、農村は荒廃していき、治安が悪化していました。王安石は、同世代の有望な官僚には珍しく、中央の官職経験がほとんどなく、地方官を歴任していましたが、当時からその名声は高く、若き君主の神宗に抜擢され、改革を進めます。王安石の改革(新法)は財政再建を目的とし、要は支出削減と収入増加ですが、官民で偏ってきた負担関係を整理して合理化し、社会格差の平準化と秩序再建する、という共通点がありました。この改革は相応の成果をあげており、王安石は地方官の経歴が長いだけに、実情を的確に把握していたようです。しかし、これは当時の有力政治家の既得権を侵害することになり、王安石の改革はそうした旧法党により激しく批判されます。さらに、王安石は議論を無駄と考えて反対派を排斥していき、これが後世の悪評につながりました。王安石の失脚後、新法党と旧法党との党争が続き、宋(北宋)は間もなく滅亡します。この時、亡国の君主となった徽宗(実際の滅亡はその息子の欽宗の代ですが)の「奸臣」とされた蔡京が人脈的には新法党だったので、新法党は亡国の原因と考えられ、党争は旧法党が勝利した形となり、王安石の長きにわたる否定的評価が定まりました。
近代日本社会において朱子学は儒教の代表的存在で、封建主義の代名詞であり、近代に背反する思想とみなされてきました。しかし、朱子学に対する批判は日本よりも中国の方がずっと早かった、と本書は指摘します。清代には考証学が盛んになり、(朱子学も含まれる)宋学と明学は空理空論として敵視されました。さらに言えば、朱子学への批判は14世紀以降の中国史の大きな流れの一つでもありました。朱子(朱熹)の学問は、宋代の儒教復興の流れ(宋学)から現れました。宋学は旧法党の学統というか人脈に連なり、そうした思想状況の中、南宋が成立したばかりの頃に朱子は生まれます。朱子は科挙の最終試験に合格しますが、その成績は悪かったようで、学者としての能力は試験での能力とは別のものも要求される、ということでしょうか。朱子は科挙の成績が悪かったためか、その官暦は華々しくなく、実際に官僚として働いたのは、地方官として9年ほど、中央で40日ほどとされます。朱子は地方官を務める傍ら学問を講義し、自分が政治よりも学問に向いていることを悟ったようです。朱子は、進んで名誉的な肩書である「祀官」を務め、実質的に学問の道に進みます。この祀官は、失脚した人物によく与えられており、実際の職務はありませんでした。朱子の学問は朱子学と呼ばれ、二分的な概念把握で世界全体を体系づけようとしました。朱子学は、宋代に出現した士大夫層にとって煩雑で習得困難な訓詁学に代わる、理解しやすい体系的な教学を提供しました。朱子学では、膨大な儒教の経典に加えてごく短い四書が重視され、史書も『資治通鑑』の入門書としての『資治通鑑綱目』が編纂され、要は新興の士大夫層に対する合理的配慮であり、現代の教科書と教育課程の概念および方法に近いものでした。朱子学は直ちに体制教義となったわけではなく、当初は弾圧もされましたが、やがてはアジア東部漢字文化圏において儒教の代表とみなされるようになり、それが近代には封建主義の代名詞として批判される所以ともなりました。
明は、モンゴル帝国の覇権下において活発だったユーラシア東西の交流が「14世紀の危機」において低調になり、各地が孤立していく中で成立した政権でした。商業金融の衰微の中、明の建国者である朱元璋(洪武帝)は、農本主義・現物主義的な体制を構築します。それと結びついたのが「中華」の回復で、明では「華夷秩序」が強く志向され、民間人の一般的な内外の往来は禁止されて、外国は「朝貢」もしくはその付随でした明との交流・取引は認められませんでした(朝貢一元体制)。朱元璋は皇帝の一元的支配を志向し、それが経済的に華北に対して有意にある華南を中心とした功臣粛清にもつながりましたが、もちろん皇帝が全てを把握できるわけはなく、息子を各地の王に任命します。本書は、明を「私物化」体制と評価します。洪武帝の息子たちの中で、モンゴルと対峙する要衝の北平(旧大都、現在の北京)に燕王として駐屯したのが、四男である朱棣でした。華南を弾圧して「中華」一元化を図る朱元璋は、首都を南京から北方の古都である西安(長安)へ移そうとして、皇太子の朱標に西安を視察させますが、朱標が没したため、遷都計画は挫折します。その後、皇太孫となったのは朱標の息子である朱允炆でした。朱元璋没後、朱允炆が即位し(建文帝)、各地の王に任じられていた叔父を取り潰そうとします。そこで、朱棣はやられる前に決起し(靖難の変)、苦戦しつつ南京を制圧して、建文帝は行方不明となります。朱棣は即位したものの(永楽帝)、南京の建文帝の臣下の中には従わない者も少なからずいました。永楽帝は父である洪武帝の「中華」統一路線を継承し、都は父の構想とは異なるものの北平に遷されました。ただ、永楽帝は一般的に、その積極的な対外方針から、洪武帝路線を変更した、と評価されているようです。しかし本書は、有名な鄭和の遠征にしても、モンゴル帝国の積極的な海洋展開への「回帰」というだけではなく、「朝貢一元体制」とも背反していなかったことを指摘します。簒奪者として即位した永楽帝は、自らの功績を示すために一見すると積極的な路線を進めましたが、主観的には父である洪武帝の忠実な後継者であろうとした、と本書は評価します。本書は、洪武帝の目指した自給自足敵で運輸・商業を忌避する方針は、その経済力からして、北から南を支配する政体とは整合的ではなく、永楽帝により確立された明の体制には、構造的な矛盾が内在していた、と指摘します。
明の万暦帝(朱翊鈞)は、亡国の君主として語られてきました。明が実際に滅亡したのは万暦帝の後で、万暦帝の代に滅びなかったのは幸運だった、とも言われてきました。しかし本書は、その評価は妥当だとしても、明の滅亡の責任を万暦帝だけに帰してよいのか、と問題提起します。上述のように明は「中華」一元的な支配体制を志向し、対外的には朝貢一元体制を維持しようとしましたが、江南の経済発展により、明国内では補助的な役割しか与えられなかった通貨に代わって銀が実質的に通貨として機能し、銀が外国から流入することにより、江南の生産物への対外的需要もあって、大規模な貿易により朝貢一元体制が破綻しかねない状況になりました。ヨーロッパ勢力がアメリカ大陸を侵略して支配し、アメリカ大陸では銀の増産が始まり、やがて明にずっと近い日本でも技術革新により銀の増産が始まりました。こうした世界規模での経済の一体化が明後期には始まりつつあり、政治体制と民間社会(経済)は乖離していました。明にとっての「北虜南倭」の脅威も、そうした乖離に起因するもので、この関係はその後の中華帝国の基本的構造になった、と本書は指摘します。隆慶帝の時代にはその乖離は弥縫策で対処されましたが、当然根本的な解決にはならず、そうした状況で1573年に即位したのが万暦帝でした。万暦帝即位後の10年弱は、宰相の張居正の執政期でした。張居正は弛緩した明の体制を立て直そうとし、一定の効果はあったものの、それは王安石のような根本的改革ではなかった、と本書は評価します。万暦帝にとって、師傅でもあった張居正は逆らうことのできない存在でした。その張居正の死後、万暦帝は張居正の一族を積極的に粛清し、その解放感から政務を放棄して自身の陵墓の建造に執心し、財政が傾きます。万暦帝はその対策を次々と思いついて実行しており、暗愚な人物ではないものの、その明敏さを活用する方向が問題だった、と本書は評価します。本書は、こうした皇帝の思いつきの実行が可能だったのは、明の「私物化」体制に原因がある、と指摘します。
明代には、上述のように政治と社会(経済)の乖離が進行し、士大夫層でも、科挙に合格しても任官しない人(紳士)が現れます。それまで、知識人と官僚は一体であるべきと考えられましたが、明代には、任官する士大夫(官)は政治家・官僚に純化していき、宋代とは異なり、文芸学術での実績が目立たたなくなります。一方、任官しない士大夫(紳)は文芸学術に専心していきますが、それは政治に無関心だったからではなく、官界遊泳をあえて忌避した側面がありました。明初には蘇州を初めとして江南は弾圧され、文化的にも低調でしたが、15世紀後半~16世紀前半にかけて、経済復興とともに文化も再興します。こうした中で、官界・権力とは一定の距離を取った在野在地の名望家は、「郷紳」と呼ばれています。当時、文芸は職業ではなかったので、後援者がおり、江南の民間社会は、「官」よりも「紳」の方を戦略的・選択的に支持した、と本書は指摘します。当時の体制教学は二分の原理を特質とする朱子学で、王陽明(守仁)も当初は熱心に学びました。王陽明は何度かの不合格後、科挙に合格して任官します。最初の官は激務だったようで、病気療養することになり、この時に道教と仏教にも触れたようです。官に復帰後、王陽明は政争に巻き込まれて左遷され、そこで思索を深めたようです。王陽明は群盗鎮圧で功績を挙げ、その後で隠棲生活に配流ものの、その軍才を評価されて再度起用され、その無理がたたったのか、57歳で死亡します。理気二元論の朱子学を学ぶ中で疑問を抱いた王陽明は、二元的な対概念の枠組みでは朱子学と同じながら、内外を区別せず一体化しようとする方向性の思想を打ち出します。こうした陽明学出現の社会的背景として、表向きは高尚なことを言いながら、実際には非違・貪欲な行動が珍しくなかった知識層へ反感・反省がありました。社会の乖離が進むなか、その負の側面に対する警鐘として、陽明学は支持を得ていきました。また陽明学は反読書・書物を特徴として、下層民衆にも門戸を開いていました。陽明学では「講学」が重視され、これは口頭の講義・討論です。門戸の広い陽明学は広範に浸透していきましたが、朱子学を体制教義とする朝鮮半島では異端扱いされ、科挙のない日本では朱子学とともに隆盛しました。
李卓吾は王陽明の死の1年前となる1527年に生まれました。王陽明の死後、陽明学は、善悪の意識のうえに着実な修養を重視する「右派」と、良知を発現させるために人為的もしくは意識的な修養・実践は無用とする「左派」に、大きく分かれます。本書は、知識層の多くが指示したのは「右派」であるものの、王陽明の思想の正嫡は「左派」だった、と評価しています。李卓吾は福建省での科挙に合格するものの、経済的余裕がないため、次の段階の試験は受けられず、河南省と南京で学校の教官となります。李卓吾はその後も、さほど出世せず、最終の官歴は雲南省姚安府の知事でした。李卓吾は55歳でこの職の任期を終え、官を辞して湖北省で読書と著述に専念しますが、それは郷紳の経済的援助を受けてのことでした。李卓吾は官僚時代に陽明学「左派」に触れたものの、その著作は社会変革を主張するものではありませんでした。しかし、李卓吾の言説は社会問題になりました。李卓吾の思想は陽明学「左派」に連なるものの、違いもありました。陽明学「左派」は「読書」を批判して軽蔑するあまり、「読書」を否定したので、「読書」を重視した陽明学「右派」や朱子学との対立は水掛け論となります。しかし、李卓吾は「読書」に没頭し、その上で「読書」を批判したので、陽明学「右派」や朱子学との「読書人」にとって真の脅威となりました。李卓吾は、儒教の経典も尊重すべき教義を説いた聖賢すら、外在的な「仮」に他なりませんでした。つまり、「中華帝国」で古来続いて来た経典と聖賢の権威を真っ向から否定するものでした。すでに王陽明も、心底納得できなければ孔子の説でも従えない、と言っており、李卓吾は陽明学に内在する思想を極限まで突き止めたわけです。李卓吾の史論も、体裁こそ伝統的な史書と違いはありませんが、論評の基準と判定は大きく異なっており、始皇帝と則天武后を高く評価し、上述のように無節操の変節漢と言われた馮道も賞賛しています。李卓吾の信奉者は少なからずおり、それが士大夫の多数派の警戒を強めていた可能性が高い、と本書は指摘します。李卓吾は捕縛され、獄中にて自殺しました。李卓吾は現代人の感覚・立場に近く、それ故に「旧体制」に憎まれ、中国の近世が市民的近世にならなかった事態を象徴する、との見解もあります。李卓吾の死後、ともに明清交替を生きた顧炎武と黄宗羲は、李卓吾の「近代思惟」にかなり接近しつつも、李卓吾を強く否定し、旧来の聖賢・経典を前提とする「中華帝国」の再建を目指しました。本書はそこに、問題の核心を見ています。
明が滅亡し、ダイチン・グルン(大清帝国)の統治下において漢学が盛行しますが、それには政権側からの弾圧の側面とともに、知識層が政権側に迎合した側面もある、と本書は指摘します。漢学は「実事求是」を掲げ、経書や史書や古典を言語的に正しく読もうとして、実証を徹底しました。これには同時代の西洋の影響もあった、との見解も提示されています。これについて内藤湖南は、一定の知的水準と経済的時間的余裕があれば誰でもできる、と批判しました。大清帝国の平和が続く中、当初実用を志した漢学は、実用から遊離して考証自体が目的となり、些末な対象ばかり扱うようになります。これは、当初の国家的な危機的状況から実用を目指した漢学が、平和の到来により安逸に流れた、ということでもあったので、再び危機が深まれば、新たに実用を志す機運が高まることになり、その危機とは、19世紀の西洋列強の圧力(西洋の衝撃)でした。一方、漢学でも、後漢までだった検証対象が前漢にも及び、公羊学が台頭します。公羊学は、太古の黄金時代を孔子は後世に伝えた、という後漢以降の儒教解釈とは異なり、孔子が既存の体制を改めて新たに儒教を創始した、と主張します。つまり、儒教を尚古思想的ではなく改革的なものとして解釈できるようになったわけです。1858年に広州で生まれた康有為は、公羊学が浸透していく中で、改革思想を構築し、運動を実践しました。康有為が科挙を受験すべく北京に赴いた1895年、大清帝国は日本に敗れ、下関条約を調印します。この屈辱的事態に、康有為も含めて科挙受験者は政権に変革を訴えます。康有為が主張した「変法」は、おもに明治維新を手本にした制度改革で、伝統的な儒教解釈では(王安石が長く批判されてきたように)改革は悪とされているので、「変法」正当化のため孔子は改革者と位置づけられました。これは多くの下級官僚と知識人一般を直接の標的としており、李鴻章など少数の大官による以前の改革事業とは大きく異なっていました。康有為は何度も上書を提出し、ついに高官の前で自説を述べることになります。その結果、1898年6月11日、「変法」開始の詔が下されます(戊戌変法)。光緒帝自身が、康有為を信任して改革を主導した、と考えられています。康有為は科挙の改廃や行政機構の再編を主張しましたが、既得権が関わる大きな問題で反発も大きく、この改革は早くも3ヶ月後には挫折します(戊戌の政変)。本書は康有為を、重厚深奥な思索者ではなく、既成理論を応用する軽薄な人物で、博識ながら相互の矛盾に悩むよりも、それを軽やかにこじつけて統合した、と指摘します。この変革の挫折後、康有為は梁啓超などと共に日本へと亡命します。本書は康有為を、思想家ではあったものの、思想家に必要な独善が度を過ぎていた、と評価しています。亡命後の康有為の活動は多岐にわたりますが、ほぼ挫折の繰り返しでした。康有為は、儒教が多数の庶民に受け入れられるような信仰ではないことから、儒教のキリスト教化(孔教)を図りました。辛亥革命後、康有為は孔教の国教化を訴えましたが、失敗に終わります。しかし本書はこれを、時代錯誤の試みで当然の帰結とは評価しておらず、孔教の排除には新文化運動を待たねばならなかった、と評価しています。
定見がありすぎた康有為に対して、その弟子の梁啓超は定見がなさすぎて、清代の思想を破壊した、と梁啓超自身が評価していました。その梁啓超は1873年に生まれ、当時の平均的知識人のように科挙を受験しますが、康有為との出会いにより、変革者としての道を歩むことになります。しかし梁啓超は当初から、康有為の学問についていけないところがある、と感じていたようです。それでも、その人生は大きな影響を受けます。戊戌の政変により日本へと亡命した梁啓超は15年も日本に滞在し、その間に思想が大きく変わり、また和製漢語を積極的に取り入れました。こうした梁啓超の思想と新たな文体は、若い知識層に大きな影響を与え、魯迅も毛沢東も例外ではありませんでした。梁啓超は日本滞在中に孔子の権威から離脱しており、思想的には康有為と決別したことになります。梁啓超は西欧と日本を基準に「国家主義」を取り入れ、それが若い知識層に大きな影響を与えたため、「中華帝国」の運命を変えることになりました。梁啓超は、それまでの「中華帝国」には国名がなかった、つまりそもそも国家(ネイション)ではきなったから国名も存在しなかった、というわけで、ナショナル・ヒストリーとしての「中国史」の創出を企図しました。梁啓超は伝統的な史書を、朝廷が国家はなく、王朝の家譜にすぎず、個人の存在を知っていても社会の存在を知らない、と痛烈に批判しました。梁啓超は国民国家形成のため、とくに「公徳」を強く主張しました。「中華帝国」の旧道徳は個々人の改善を図る「私徳」ばかりで、社会全体の改善を歯する「公徳」を欠いていた、というわけです。15年にわたる日本滞在中の1903年、梁啓超はアメリカ合衆国を訪れますが、道徳心・公共観念に乏しい華僑社会の現実に失望し、「私徳」を訴えるようになります。個々の道徳心の確立なくして「公徳」の習得はあり得ない、というわけです。梁啓超は革命派に失望し、「開明専制」を主張するようになります。立憲君主制による漸進的な改革を目指したわけです。辛亥革命後の1912年、梁啓超は帰国します。帰国後の梁啓超は1910年代には、おもに政治家・閣僚として活動し、中央政権を支持しました。その結果、革命派に反対する立場となり、中華人民共和国における梁啓超の評価は低いものでした。この点は伝統的な正統史観と変わらない、と本書は指摘します。梁啓超は、おおむね中央政権を支持したものの、袁世凱の帝制復活には反対し、その後の康有為たちの「復辟」運動にも反対します。梁啓超は、「共和の国体」を維持し、理想の「政体」を目指す点で、立場は不動でした。梁啓超は第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席し、西洋の科学・政治・文明への批判を強め、ついには西洋流の「国家主義」を放棄し、政界から離れることにします。梁啓超は「中華帝国」の文明を再評価する方針に転換し、研究活動に専念しますが、1929年に没しました。その思想がたびたび変わったことから、梁啓超を機会主義者・便宜主義者とみなすことも可能ですが、梁啓超の目的は変革を通じた救国で一貫していた、と本書は指摘します。
本書はこれら12人の「悪党」について、時代の課題・要請に応じようとした言動・進退であり、そうした試行に錯誤という結果を突きつけ、個々人に対する毀誉褒貶を判断基準として「悪党」という烙印を押し続けるのが「中華帝国」の仕組みだったかもしれない、と指摘します。容易に秩序の構築・統一を許さない多元世界に、「中華」に君臨して「帝国」を統治する指導者・君主は苦しめられ、李世民や安禄山や柴栄や永楽帝や万暦帝はその典型です。エリートと庶民の乖離が著しく、多層化の止まらない二元社会では、「帝国」を経営し、「中華」を再考しようと試みた為政者・思想家が悩み、馮道や王安石や朱熹や王陽明はその代表です。西洋と邂逅した新時代に、そうした「中華帝国」変革の端緒を見出だして表現したのが、李卓吾や康有為でした。それだけに毀誉褒貶が激しく、自殺や亡命に追い込まれます。梁啓超はその克服を志しましたが、日本を媒介に西洋流の国民国家を建設する試みは、現実に直面して挫折し、新たな構想を余儀なくされました。辛亥革命に始まる革命の過程で、「中華帝国」は確かに消滅したものの、それは「中華」が「中国」に転化し、「帝国」から皇帝がいなくなっただけ、かえって混迷を深めた感があります。「国家主義(ナショナリズム)」は身に付いても、目指す「国民国家(ネイション・ステート)」にはなりきれず、地域偏差と多元性、エリートと庶民の乖離、多層化した社会格差は根強く存在したので、試行錯誤が繰り返され、「悪党」も輩出され続ける、というわけです。現在の中華人民共和国においても、地域偏差と経済格差はむしろ悪化した面すらあり、習近平主席が「悪党」と見まがう強権を発動し、革命により否定されたはずの「皇帝」の如く振舞うのも当然である、と本書は指摘します。中華人民共和国における現在の「民族問題」についても、梁啓超以来、中国が主張してきた「一つの中国」と「中華民族」の創出にあたった不可避な現象に他ならない、と現在の北京政府はみなしている、と本書は指摘します。多元的な「帝国」は、西洋の衝撃により「一国家一民族(国民)」の制度構築を強いられ、「中華帝国」は「中国」と「中華民族」の概念をその基軸に据えました。それが西側諸国からは、独裁や人権侵害や民族問題に見えるわけです。習近平主席が西側諸国から強権的な「皇帝」に見えるのは、歴史的な所産というわけです。本書は、西側諸国、とくに近隣の日本が、中国側のそうした認識を踏まえて、「普遍的価値」を持ちつつ絶対視することなく、中国に対処せねばならない、と指摘します。
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