中国の人類進化観と民族主義
中国の人類進化観と民族主義に関する研究(Cheng., 2017)が公表されました。本論文の刊行は5年前ですが、最近になって知り、中国の人類進化観と民族主義は以前より関心のある問題だったものの(関連記事1および関連記事2)、断片的な情報しか得ておらず、よく理解できていなかったので、この問題について具体的な情報が多く体系的に解説している本論文を読もう、と思った次第です。本論文は5年前の刊行ではありますが、今でもこの問題の最適な入門文献になるのではないか、と思います。以下、敬称は省略します。
●要約
1993年、アメリカ合衆国が率先した国際ヒトゲノム計画に呼応して、中国政府は国際的取り組みと連動して国家計画への資金提供を始めました。この科学的努力の結果、全現代人もしくは現生人類(Homo sapiens)のひじょうに最近の「アフリカ起源」に関する遺伝学者の結論が確証されました。この科学的発展は、「中国人」は70万年前頃の北京原人により代表されるホモ・エレクトス(Homo erectus)以来、独立したヒト集団として「中国」で暮らしてきた、という長きにわたる民族主義的信念と対立します。本論文は、人々の推定される先史時代の祖先に関する依然として浸透している政治的利用と、国民的論争を惹起した科学的難題により起きた論争の検証により、現代中国の民族主義における有力な人種的言説を確認し、それをより広い国際的文脈と結びつけます。
●前書き
2001年に本誌(The Journal of Asian Studies)は「北京原人と中国における民族主義的古人類学の政治」と題したバリー・ソートマン(Barry Sautman)の論文を刊行しました。同論文は、石器時代の考古学と人類学の複合的学術成果を「中国人らしさ」に適用した国家主導の言説の検証により、毛沢東後の中国における民族主義の隆盛に関する議論を広げようとしました。その民族主義的言説では、現代中国の首都である北京の南西約50kmに位置する周口店(Zhoukoudian)の山の洞窟に50万年以上前に居住しており、1929年に最初に発見されたホモ・エレクトス集団である北京原人が、その中国で発見された遺跡により中国人の直接的祖先としてみなされた、全ての旧石器時代人類集団を表している、と確認されました。【本論文が刊行された2017年時点で】最新の推定では、北京原人の年代は77万年前頃です(関連記事)。
北京原人はその発見時点で、ヒト進化研究の年表をネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から約50万年さかのぼらせ、ヒト進化研究の分野で中国に脚光を浴びせました。しかし今では、ヒト進化のこの中国版の重要性理解における重要な点は、世界の主流の古人類学者と中国の古人類学者との間の議論に関係しています。前者は、レベッカ・キャン(Rebecca Cann)やマーク・ストーンキング(Mark Stoneking)やアラン・ウィルソン(Allan Charles Wilson)により、1987年の有名な論文「ミトコンドリアDNAとヒトの進化」で最初に提案された理論(関連記事)を採用し、ホモ・エレクトスと現生人類の起源はアフリカにあり、現生人類は早ければ125000年前頃、遅くとも6万年前頃にはアフリカから移住し、世界規模で先住のホモ・エレクトス集団を置換した、現生人類の子孫である、と考えています【2013年10月の当ブログの記事でも述べましたが、こうした本論文のような認識にはやや問題があり、出アフリカ現生人類によるユーラシアの先住人類の完全置換説が主流になったのは1987年のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究以降と言えるかもしれませんが、現生人類アフリカ単一起源説自体は形質人類学の分野でそれ以前から提唱されていました】。一方後者は、現在の中国の地に到達したホモ・エレクトス集団が独立して現生人類へと進化した、と主張します。一般読者はこの議論の意味を単純に、中国人は世界の他地域と共通の現生人類起源を有しているのかどうか、そうでないとしたら次に、中国人の祖先はどれくらい「古い」のか、100万年前なのか200万年前なのか、という問題として解釈するかもしれません。
ソートマンは2001年の論文で人種的民族主義の明白な事例としての言説を提示し、それは、「我々個々がその帰属性を‘本質’が経時的に維持されてきた生物学と文化の控えめな共同体にたどれる、と考えている」というもので、一部の考古学および化石証拠の解釈により、その言説は世界の人々の根本的区分における信念に基づく「民俗分類と共鳴する中国の愛国心を支えています」。
シグリッド・シュマルザー(Sigrid Schmalzer)の2008年刊行の著書『人々の北京原人:20世紀中国の通俗科学』は、近代国家がいかに科学的教育を利用して公民権を形成したのか、という背景に対して、中華人民共和国のイデオロギー教化と政治的社会化における北京原人の役割の包括的研究です(注1)。「民族主義国家の指針は、中国の民族独自性を遠い過去に根づかせる科学的理論を優先するよう機能してきて」、それは「生物学的人種としての中国人の長命と、中国の地とこの人種のつながり」を強調した、というソートマンの指摘にシュマルザーは同意しました。1980年代にそうした傾向が加速し始めたことにも、シュマルザーは同意しました。しかし、そうした民族独自性が北京原人についての中国人の強調に果たした役割の程度について、シュマルザーはソートマンに同意しませんでした。第一に、シュマルザーの主張は、中国人の議論も(単に政治的ではなく)科学的論争であり、それは、「陪審員が依然としてヒト進化の多くの問題について結論を出していないから」であり、考古学者と古人類学者を含めて中国科学界は、中国人の祖先の「外来」もしくは「先住」起源に関する討論に対して一般的に公平である、というものでした。第二に、政治的動機でさえ、ヒトの起源における中国の中心的役割との主張は、「国際科学における名声の問題」で、民族的独自性よりも顕著でした。第三に、「生物学的人種の概念」の構築は、「科学者や一般人や国家自体により生み出された他の意味によって同時に不安定化されます」。最後に、多くの人々は、北京原人のようなヒト化石を「その国民もしくは人種の初期の代表としてだけではなく」、家族や共同体や地域や職業やヒトの帰属性ともみなしています。
したがって、ソートマンとシュマルザーは二人とも、北京原人に関して中国人の議論の背後にある民族主義的指針には同意しているものの、その議論がどれだけ政治的なのか、また人種的民族主義がそうした祖先の言説を特徴づけているのかどうか、という評価では異なっていました。ジェイムズ・ライボルド(James Leibold)の最近の研究は、より「政治的」で「人種的」な解釈を支持する評価を表しています。ライボルドは中国人の土着性の強い信念について断定されてきた現代中国における先史考古学の発展において、歴史的な中国の構築の軌跡をたどります。その言説のライボルドの統合では、独特な中国の人種概念は以前には、先史時代のヒト化石と分解物が高く評価されている民族主義的文脈の一部でした。ライボルドの論文によると、中華人民共和国初期までに、「北京原人は今や明確に、現生人類と黄色人種と中華民族(zhonghua minzu)の直接的な直径祖先として位置づけられました」。
ライボルド論文は、以前の文献では調べられていないか、それ以降の新たな発見による重要な発展に基づいて、現代中国の民族主義に対する北京原人の重要性についての議論を拡張します。第一に強調されるのは、ソートマンの2001年の論文やシュマルザーの2008年の本のように、1990年代以降、中国人の祖先の地位が仮定された北京原人は、おもに民族主義的言説における古人類学的解釈の代わりに、国家の認可した愛国的動因において象徴としてさらに評価されてきたことです。第二に、ライボルド論文はこの祖先崇拝に対する遺伝学の異議について中国の議論に焦点を当てていることです。以前の文献、とくにソートマンの2001年の論文は、そうした変化をより科学的な用語で説明しましたが、ライボルド論文は、議論誘発と中国の国家および科学界が取った行動の理解のため、1990年代後半と2000年代初期の国際ヒトゲノム計画(HGP)への中国の参加(現代中国研究では滅多に検証されない事実です)の歴史的文脈にこの異議を位置づけました。第三に、ソートマンの2001年の論文により政治的動機の仮説として批判されたものの、シュマルザーの2008年の本により正当な科学的仮説として認められた、中国起源の中国人(COC)の考古学的根拠を認めながら、それにも関わらず、詳細に人々の起源に関する二つの理論間の学術的議論を明らかにしています。遺伝学者が一般的にアフリカ起源の中国人(AOC)を信じている一方で、人類学者はCOC理論を擁護します。換言すると、この問題は科学的ではある(じっさい、COC理論を裏づける考古学的証拠があります)ものの、多くの場合その対処法は政治的と解されます。第四に、ライボルド論文はAOCとCOCの一般支持者がともに、そうした専門的議論に没頭する民族主義的意味合いを充分に理解し、さまざまな媒体経路を通じて互いに公開討論を行ってきた、と示します。この新たな減少は、極端な民族主義者と自由主義的志向層との間の、より広い民族主義的イデオロギー文壇に照らして分析されます。シュマルザーが2008年の著書で強調したように、北京原人に対する中国社会のより多様な意見は、今や民族主義的刺激への国際主義的解毒剤を含んでいます。
したがって本論文は、民族の祖先としての北京原人の、遺伝学からの異議により活性化され、持続した崇拝と、その意義の中国の議論は、両者とも学術的かつ通俗的で、その主題のより政治的で特に人種的である意味を明らかにしてきた、と主張します。社会が科学的にAOC理論を受け入れているという事実は、COC理論が依然として民族主義的指針に役立っている、という事実を覆い隠せません。逆に、両理論の共存は、中国の民族主義的政治内で緊張を高めるだけです。たとえば、本質化された共有の特徴を子孫に残した、さまざまな想像された祖先を構築した、ホモ・ユーロパエウス(Homo europaeus)やホモ・アルピヌス(Homo alpinus)やホモ・イスラエレンシス(Homo israelensis)といった同様の言説の国際的研究に触発され、本論文は中国の言説を「ホモ・シネンシス(Homo sinensis)」と命名しますが、それがはるか先史時代であり、したがって生物学的起源があることを強調します。本論文は、中国本土との不可解な関連において明白な人種分類で「中国人らしさ」を強調する、1980年代以降に中国で台頭する民族主義においても、この主題を文脈化します。「ホモ・シネンシス」という言説は、明白に世界最古との主張で世界の諸文明【以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】における中国文明を高め、共通の血統の確立によって民族主義的動員のために最も強い「結束力」との情報を与えることにより、この民族主義を前進させます。「我々」と「彼ら」との間のそうした究極の区別は、「中国の特徴」の公的イデオロギーを支持しており、中国の台頭は、百万年の豊かな生体エネルギーの作用として解釈されます。それは、「頑強な生命力と非凡な想像力(Wan qiang de sheng ming li he fei fan de chuang zao li)」と呼ばれます。
●「聖火」から「ありがとうございます、ご先祖様」へ
祖先崇敬と家系の強調で知られる文化において、現代中国における北京原人の名声はより政治的になり、まず1997年に中国共産党中央委員会宣伝部(DPCCP)による「愛国教育のための全国百拠点」の一覧に周口店が含まれたことにより特徴づけられました。1997年には、1世紀半ばにわたるイギリスの統治を経て香港が中国に返還された、愛国主義的修辞が急増しました。それ以前には、周口店は1962年に中国の国務院により設立された「国家歴史保存遺跡」でした。しかし、1990年代半ば以降、北京原人は博物館と歴史の教科書から離れ、愛国的動員の役割を引き受けました。
現在、中国の民族主義における北京原人の身体的存在は、北京中心部の西長安街の中華世紀壇(Zhonghua shijitan)で垣間見ることができます。この記念碑は、2000年1月以降、「中国の世紀」の始まりと「中華民族の偉大な復興」の証として立っています。この記念碑群には沈んだ広場があり、その中心では「聖火の祭壇」と呼ばれる火が燃えています。この炎は世紀末最後の日に周口店の洞窟で穴居人の衣装を着た役者による木の錐揉みで得られ、中国で多くのメダルを獲得した体操選手である李寧(Li Ning)に受け継がれ、その後、50km以上のリレーを通して運ばれました。数時間後、新世紀の前夜に、中国共産党と国家の指導者だった江沢民(Jiang Zemin)は、炎を裁断に運び、北京原人の象徴性の永続的兆候を確立した、国家儀式を完了しました。
実のところ、周口店洞窟から木の錐揉みで取られた火が「聖火」を熾し、1990年代以降、中国民族主義の研究のためその重要性を示唆するCOC支持の年長人類学者が関与して、公的行事が始められました。1993年には、第7回全国オリンピックの点火棒が、1936年に北京原人の頭蓋骨3点を発見した伝説的人類学者である賈蘭坡(Jia Lanpo、1908~2001年)により灯されました。「文明の炎」と命名された点火棒は、大規模な集会が待っていた天安門広場に中継されました。2005年7月、2008年の北京夏季オリンピックのために設計された北京の文化広場の開設を祝うため、またも年長の人類学者である劉東生(Liu Dongsheng、1917~2008年)が、同じ方法で点火棒に火を灯し、著名な文化人と運動選手により運ばれた中継が始まりました(図1)。北京の文化広場に到着すると、国家文化財局長と北京の副市長が点火棒を引き継ぎ、「聖火の祭壇に」点火し、「ヒト文明の火を再開しました」。2008年8月8日、この遺跡は再び北京地区のオリンピック聖火中継経路の開始地点に選ばれました(図2)。以下は本論文の図1です。
化石の発見以来、中国の人類学者は灰のような遺物を北京原人の火の利用能力の証拠として解釈してきました。北京原人の火の使用それは、世界の原始人類において最初だった、と考えられました。公式の物語は次のようにその重要性を詳述します(中国中央電視台の2000年の番組)。「火を熾して利用することは自然を制御する人類史において輝かしい最初の試みでした。(中略)中華民族は生存のための不屈の闘争と拡散の追求を決して諦めず、希望への火は決して消えることはありませんでした。(中略)この精神は、新世紀と新たな千年紀の中国を拳、中華民族の偉大な復興を確かなものとするでしょう」。歴史観光事業は2011年に、「周口店の火が世界を照らした、と言っても過言ではありません」と宣言しました。この証拠の中国の解釈と国際的な考古学者の意見の違いは、報道機関の報告が示唆するように、「西洋」から「中国」への挑戦として認識されることが多くなっています。「勤勉」や「明るい」や「勇敢」など中国人の肯定的特徴を説明する形容詞は、その「祖先」の描写にも使われます。祖先は、生徒の父系の想像力を無限の過去へと引き伸ばす説教的な教育手法を通じて、ある歴史教師がその同僚と共有しているように認識されます。「あなたは彼らに尋ねます。君は何歳ですか?君の父親は何歳ですか?君の祖父は何歳ですか?など。生徒がこれらの質問に答えると、あなたは生徒が100年、1000年、1万年、40万年、50万年、100万年前と計算し、我が祖国の長い歴史の基礎概念を確立するよう、手伝います」。以下は本論文の図2です。
大衆文化は、年代学や歴史的遺物のさまざまな事実をより深く掘り下げ、『北京原人の原始愛』と題したドラマに反映されている、中国人と中国文明の想定上の長寿を祖先の美徳に帰します。「音楽と舞踊と雄大なドラマ」は、通常は政治的意義のある番組に割り当てられる分類の劇で、一文字の名前でその祖先の地位を示唆する主人公である「根(Gen)」に敬意を表します。北京原人集団の家長である「根」の勇気と抜け目のなさは、小さな親族の生存にとって重要ですが、女性をめぐる競争における「根」の特権は、若い穴居人の間で不満を引き起こしています。「根」は年を取るにつれて、もはや血統を引き継ぐ健康な子供を儲けられない、と認識するので、その若い競合者に自分の女性を共有うるよう、許可します。大詰めを迎えて、過酷な冬により起きた絶望的な食料不足の中で、「根」は自身を大篝火に投じて、他者に自身の焼けた肉を食べさせます。「ありがとうございます、ご先祖様」、このドラマのポスターは、集団生存のための利他主義の美徳が、人種の始まり以来「中国人らしさ」の一部だった、と強調します。以下は本論文の図3です。
このドラマは大衆文化とCOCを結合させました。周口店博物館と、北京1998国際青年芸術劇団(Beijing 1998 Guoji Qingnian Yishu Jutuan)と呼ばれる前衛芸術家集団との間の協同であるこのドラマは、博物館の観光事業促進のために制作されました。興行収入最大化のため、このドラマのポスターは、原始的で乱交の穴居人の生活の文脈では正当な暴力的で性的に明示的な場への示唆により、若い成人と子供に不適切な内容について視聴者に警告しました。しかし、このドラマの終わりまでに、犠牲の炎の中で、全ての官能的な脚本と期待は、祖先の英雄の利他主義への賛辞に昇華されました。したがって、北京原人により灯された火は、中国民族主義の包括的主題(民族の生存への懸念と犠牲的愛国心への呼びかけ)を反映しているだけではなく、遺伝学者との論争における人類学者による議論を脚色しています。火熾しの技術により、北京原人の子孫は氷期を生き延びられた可能性が高い一方で、他地域の同時代人は絶滅した、というわけです。
逆説的ですが、1960年代以降、たとえば雲南省楚雄イ族自治州で発見された170万年前頃となる元謀(Yuanmou)人や、陝西省の藍田県(Lantian County)で発見された150万年前頃のホモ属化石など、北京原人よりずっと前のホモ・エレクトス化石の化石がかなり発見されてきました。近年発見された、湖北省の恩施トゥチャ族ミャオ族自治州(Enshi Tu and Miao ethnic autonomous prefecture)の建始(Jianshi)県で発見された人類遺骸は、200万年以上前と考えられています。しかし、北京原人と周口店は依然として「最初の中国人」と「最初の中国文明」を表しています。北京原人の名前は中国の考古学と人類学の知見において歴史的および制度的により確立しており、地理的に遠く文化的に周辺の候補からの異議を阻止できる独自の価値も示唆しています。科学的事実は、民族主義的記念碑の象徴的な統一的役割へのイデオロギー的選好に屈します(注2)。
●AOCもしくはCOC?遺伝学者と人類学者との間の論争
北京原人の最近の名声は、中国の民族主義が以前から北京原人に割り当てていたものを繰り返しています。しかしそれは、ヒトゲノム計画(HGP)への中国の参加という文脈で最先端の科学的異議を無視しての興隆であり、世間の反響とともに遺伝学者と人類学者との間の議論が高まりました。HGPは1990年にアメリカ合衆国の科学者により開始され、他の先進4ヶ国の科学者が参加しました。ヒトゲノムの全ての遺伝子を解読してマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)することにより、この冷戦後の世界規模の協同はヒトの遺伝的区別と多様性の決定と保存に巨大な影響を及ぼしました。したがって、その結果は「歴史書、つまり現生人類の経時的な旅物語」としても読むことができました。この「歴史書」は、全現代人の祖先として現生人類の単一のアフリカ起源で始まり、世界の全ての人々の人種と民族の区別の遺伝学的解釈(他の要因の中でも、移住と交雑)を提供し付告げます。
HGPが生み出した明らかな科学的利益にも関わらず、その計画内の国家の遺伝的データは、参加国に懸念を引き起こしました(注3)。利益と危険性の比較検討により、中国政府は1993年にHGPへの参加を決定し、5年間の準備期間を経て1998年に正式に参加し、この計画における唯一の発展途上国となりました。中国の国務院の傘下にある国家自然科学基金委員会(NNSFC)は、「中国におけるヒトゲノムの研究」に資金を提供し、遺伝学研究所の遺伝子工学国家重点実験室の「南部総合施設」、上海の復旦大学の生命科学学院、北京の中国科学院のヒトゲノム総合施設の「北部総合施設」を設立しました。この国家による科学的取り組みは、「中国人のゲノムにおける遺伝子座の一部構造に関する研究」と題した計画で始まり、それは世界的なゲノム地図に貢献しました。中国のHGPへの参加は、中国の国益促進の戦略的展開とみなされてきており、それは、HGPの北京計画の責任者の会見記事の表題「遺伝的資源をめぐる戦いは領土をめぐる戦いと同じくらい重要です」で明確に示唆されています。
これら中国人参加者を北京原人の祖先性への疑問提起に導いたのは、アメリカ合衆国の研究機関とさまざまな形で提携している中国人学者団により行なわれた研究活動でした。この提携の鍵となったのは、中国の遺伝学の創始者であり、1930年代に現代遺伝学の父であるモーガン(Thomas Hunt Morgan)とともにカリフォルニア工科大学で研究した、談家楨(Tan Jiazhen、1909~2008年)でした。談家楨は1950年代に中国に戻り、とくにモーガンを対象とした、西側ブルジョワ科学とのソ連の遺伝学批判に抵抗し、中国における科学の存続に努めました。談家楨は1990年代に中国指導者との人脈を使って(注5)中国政府にHGPへの参加を促し、その拠点研究機関である復旦大学を中国のゲノム研究の「南部総合施設」として指定することに成功し、中国の若い遺伝学者を国際的な科学界に結びつけるのに貢献しました。これら若い遺伝学者のうち最重要人物には、アメリカ合衆国で学び、1990年代後半にヒューストンのテキサス大学ヒト遺伝学センター(HGUT)の研究者だった金力(Jin Li)、中国医学科学院の医学生物学研究所出身で、1990年代にアメリカ合衆国の客員研究員でもあった褚嘉佑(Chu Jiayou)、1990年代後半にHGUTの博士研究員だった宿兵(Su Bin)が含まれます。彼らはその国際的つながりにより、「出アフリカ」理論とHGPとの間の関係により深く気づき、「出アフリカ」理論を裏づけるデータが中国を網羅していないことも知っていました(注6)。この国際的主流科学と民族主義的信念との間の矛盾に興味を抱いたこれら中国の若手遺伝学者は、中国の参加を両説への検証とみなしました。
これら中国人遺伝学者が中国で収集したデータは、「出アフリカ」理論を完全に裏づけました。これら中国人遺伝学者は1998年から、『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』や『米国ヒト遺伝学誌(The American Journal of Human Genetics)』や『ヒト遺伝学(Human Genetics)』や『サイエンス』など国際的な科学定期刊行物での論文掲載を開始しました。最初の報告「中国における人口集団の遺伝学的関係」は、中国の28人口集団(ほぼ非漢人の少数民族)のマイクロサテライト(DNA上で塩基の配列中に同じ構造を持つ部分が2~5対繰り返し並んでいる反復配列で、親族関係や遺伝的関係の決定に用いられます)のデータを分析しました。その報告は、「遺伝学的証拠は中国における現生人類の独立起源を裏づけません」と結論づけました。より重要な報告は、『サイエンス』で2001年5月に刊行されました。「アジア東部における現代人のアフリカ起源:12000人のY染色体の話」と題したその論文(関連記事)は、研究計画がより正確なデータ指標として染色体を用いて、漢人(北部が4592人、南部が5127人の標本)とアジア東部の他の民族集団を含めて、標本調査を拡大した、と報告しました。「89000~35000年前頃のアフリカに起源がある」ものの、12000人の標本全てでは見つからない、男性だけが保有するゲノム変異の特定により、この報告は現代人がアジア東部起源である最小限の可能性さえ却下しました。
この最初の報告はもともと『サイエンス』に提出されましたが、編集者はその主題の重要性を懸念して、待つことにしました。その後、談家楨は報告の著書に『PNAS』に提出するよう提案しました。それはすぐに刊行され、『ネイチャー』が直ちに長い解説を掲載しました。国際的科学界が世界で最多人口の国において収集されたデータで「出アフリカ」理論を確証したのは初めてでした。「アジア東部における現代人のアフリカ起源:12000人のY染色体の話」と題した論文は『サイエンス』にその3年後に送られ、すぐに受理されました。この研究はおもに、NNSFC計画で組織されたか、恩恵を受けている中国人科学者により行なわれましたが、その結果は国際的雑誌で発表され、次に報道機関を通じて逆に中国へと広められました。そうした現象は中国において「輸出経由の輸入」と呼ばれることが多く、国際的認知が国内の地位に役立つことを意味します。1998年の『PNAS』の報告が中国人科学者に北京原人の祖先性への異議を気づかせた後に、2001年の『サイエンス』報告は中国でより多くの宣伝を得ました。NNSFCの公報は、中国で見つかった化石および解剖学的証拠は依然としてCOCの可能性を示唆していた、と評しつつ、「我々の祖先はアフリカ由来だった、との見解を受け入れねばならない可能性がひじょうに高い」と指摘しました。
『ヒトの旅:遺伝学的な長い冒険』の迅速な翻訳と刊行は、英語版の刊行からわずか2年後の2004年のことで、より人気のある形態でこの異議に加わりました。スペンサー・ウェルズ(Spencer Wells)による同名の本と記録映画は、「出アフリカ」仮説の最も一般的な解釈の一つとして認識されてきました。同書は、中国での議論が始まったばかりなので、中国にはほとんど言及していませんが、「多地域連続進化説」を信じている人々にとって「悪い報道」として、折よく金力の研究を引用しています。中国の出版社がほぼ全てページにわたって写真と地図を掲載していることは、より幅広い読者への強い期待を示唆しており、その序文には、「中国の読者にとって熟考すべきことが多いに違いない」と述べられています。その理由は、「中国人は在来の‘北京原人’とその他のホモ・エレクトス集団の途切れることのない発展から進化した」との理論に反しており、「著者はそうした仮説の証拠がないことを明らかにする」と述べられているからです。
中国におけるこれらの刊行物と一致するさらなるデータ収集および分析では、その【2017年時点で】最新のものは2014年に雲南省昆明動物学研究所(IZKYP)により発表され、6000個体以上の標本が含まれており、AOCは中国社会、とくに自然科学界で広く親しまれています。社会科学と人文科学の分野も影響を感じており、民族主義者とその民族主義的意味の影響を受けています。そうした分野の一つが言語学です。多くの母語の音素の起源はアフリカにたどれる、とするクエンティン・アトキンソン(Quentin Atkinson)の仮説は、「出アフリカ」理論により触発された進化言語学派で、中国語の起源探求において中国人言語学者の間で繰り返されます。分子人類学がより一般的になるにつれて、民族研究において民族誌はより目立っていき、文献と物質文化の分析から集団遺伝学的調査の実験結果に注意が逸らされ、多くの少数民族の人々の起源と移住、漢人および漢人が支配的な国家との関係の再解釈につながりました。興味深い結果の一つは、漢人拡大は非漢人のより文明的な漢人文化の採用の結果である、とする伝統的な「文化拡散モデル」とは対照的な、中国南部の漢人拡大の「人口拡散モデル」で、これは中国南部漢人集団における漢人男性と非漢人女性のDNA混合の優勢なパターンを示します。この結果も、まず『ネイチャー』で刊行されました。その解釈によると、これは長期にわたる内部の性別(ジェンダー)に基づく植民化の興味をそそる概念を示唆しているかもしれません。
分子人類学は、2002~2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)発生という特定の状況内で、中国本土と台湾との間の愛国主義の対立の火に新たな燃料を追加しました。台湾の血液学者は、アジア東部および南東部のさまざまな人口集団間のウイルスの影響を分析しようとする試みにより、台湾先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は両方、本土中国人よりもオーストロネシア人の方にずっと近いことに気づきました。台湾の指導的血液学者が「我々はさまざまな血液有している」と主張し、したがってその本の表題は、台湾人のよれ多様な起源を主張し、中国側の「同じ血、同じ祖先」との言説に、台湾に対する民族主義的主張において異議を唱えました。
しかし、COCへの遺伝学者の異議は、COCにとっての制度的代弁者である、中国科学院古脊椎動物古人類研究所(IVPP)の人類学者からの迅速な抵抗に遭遇しました。IVPPの前身は、北京原人化石が発見された1929年に設立された、中国農商務省の中国地質調査研究所の新生代研究部局(RDCE)でした。この研究所の歴史は本質的に、中国とヨーロッパとアメリカ合衆国の協同の結果で(注7)、中国人の人類学者と考古学者の第一世代が学んだだけではなく、COCの論の基礎も築きました。ヒト進化の他地域仮説で知られているシカゴ大学の人類学者であるフランツ・ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich、1873~1948年)は、1930年代半ばにはRDCEの名誉局長で、その経験はヴァイデンライヒの理論形成に役割を果たました。1929年に最初の北京原人の頭蓋骨を発見した裴文中(Pei Wenzhong、1904~1982年)や、周口店発掘の調整者だった楊鐘健(Yang Zhongjian、1897~1979年)など、ほとんどのCOC支持者は西洋の人類学者から現場で学び、その後、IVPPにおいて長老となりました。そうしたCOC支持の学者は全員、すべて要請により周口店に埋葬されさえしました。公式の歴史物語は、国家の歴史の構築に貢献した人類学者と考古学者が愛国的英雄になるよう、そうした専門家の履歴を愛国的献身として称揚しました。現在、呉新智(Wu Xinzhi)や黄万波(Huang Wanbo)や高星(Gao Xing)といったIVPPの研究者は、熱心なCOCの擁護者です。
AOCを裏づける遺伝学的データとは対照的に中国の人類学者は、中国で見つかったホモ・エレクトスと現生人類との間の形態学と解剖学と文化遺物の間の類似性の形で、一見すると進化的連続性と考えられる豊富な証拠を示してきました。形態学および解剖学的証拠には、平坦な顔ではあるものの突出した頬骨、シャベル状切歯、低い鼻骨、長方形の眼窩などの身体的特徴が含まれます。文化遺物の証拠から、中国では打撃により形成された石英砂岩の石器が170万年前頃から3万年前頃まで優占しているように見えるものの、アフリカと中東(ホモ・エレクトスと現生人類の「出アフリカ」の旅の回廊)では、石器製作技術は進歩し、黒曜石の握斧が一般的に見つかる、と示されます。そのため、COCの主張は、AOCが正しい場合は次に、そうしたアフリカ起源の現生人類がその技術を中国にもたらさなかったのか、という問題提起につながります。より一般的に、COC支持者にとって、ホモ・エレクトスと現生人類両方の何千もの遺跡の全国規模の分布は、単一の外来種による完全な置換のシナリオを信じがたいものにします。
人類学者は2000年夏に、遺伝学者の研究について最初の報道機関の報告でAOCに応答し、取材を受けましたが、とくに呉新智がおもな対象でした。AOCの主要な反対者である呉新智はアメリカ合衆国のミルフォード・ウォルポフ(Milford H. Wolpoff)およびオーストラリアのアラン・ソーン(Alan Thorne、1939~2012年)とともに、アジア東部の化石データを用いて、現生人類の多地域進化モデルを提案しました。呉新智はそれ以来、「世界の主要な4人種は全てそれぞれの地のより古代型のヒト種つながっており、全て先住民として生まれた」と主張し続けています。呉新智は新聞に、化石は最も直接的な証拠ですが、DNAは間接的で断片的です、と語りました(注8)。呉新智が述べるように、「過去50年間、中国の人類学者は多くの古人類学的化石と千ヶ所以上の旧石器時代文化遺物の遺跡を見つけてきました」。(COC支持の学者が示すのは)北京原人により代表されるホモ・エレクトスと現代の中国人との間に断絶はなく、(進化は)「少量の交雑を伴う河川網のような拡大」でした。
3ヶ月後、「北京原人は依然として我々の祖先ですか?」と題した記事で、呉新智はアフリカ起源の現生人類と中国で進化した現生人類との間の偶発的な交雑の可能性を繰り返し指摘しました。この記事は、ヨーロッパでより一般的なように見える丸い形態の眼窩や突出した後頭骨など、中国で見つかる一部の現生人類の解剖学的現代人特徴に言及しています。遺伝学とのこの修正論的一致は、まだ決定的な証拠を見つけていないものの、遺伝学者は最近、ネアンデルタール人において類似のシナリオを示唆しています(関連記事)。共通起源としてのアフリカとのホモ・エレクトスおよび現生人類両方の系統樹概念とは対照的に、呉新智は前者(ホモ・エレクトスのアフリカ起源)を受け入れたものの、後者(現生人類)世界規模の進化について自身の「少量の交雑を伴う河川網(起源の複数供給源を意味します)」を主張しました。アフリカ単一起源と置換ではなく、偶発的な混合を伴う多地域進化理論である、現生人類についての呉新智のモデルは、COCの理論的枠組みでした。
人類学者の擁護論に応えて、遺伝学者はおもに、AOCの議論の余地ない証拠で、自身の分野の根拠を示してきました。遺伝学者は、観察者の先入観に左右されるかもしれない一部の顔面と頭蓋骨の類似性の一致による、2つのヒト集団間の関連性判断の難しさにも注意を喚起しています。より重要なのは、遺伝学者が中国で発見された仮定される進化的連続性における考古学的証拠の破損を指摘していることです。この破損は、10万~4万年前頃の化石と文化遺物の欠如で、この重要な期間に(初期)現生人類は完全な現生人類へと進化しました。金力などが説明してきたように、この破損は偶然ではなく、世界規模で多くの種の絶滅を引き起こした第四紀氷河により作られました。その時代の後に、新たな現生人類がアフリカから移動して全世界に拡大しました。これに対して人類学者は、氷期のアジア東部の一部地域の気候は比較的穏やかで、原始人は火を熾せたので、寒さを生き残ることができたかもしれない、と主張しました。したがって、周口店洞窟で熾された火は、再度中国人の祖先を他地域の同類と区別することになり、この技術的妥当性はドラマ『北京原人の原始愛』で説明されました。【中国人の祖先をめぐる】議論が始まって以来、人類学者の主要な課題は、氷期を通じて北京原人の子孫の生存を証明するだろう、まだ見つかっていない間隙(missing link)を見つけることです。
【中国人の祖先をめぐる】議論が公開されると、中国の報道機関の態度はこの科学的分裂を反映していましたが、その民族主義的意味を誇張して大々的に取り上げることが多くありました。しかし、より中立的で態度未定の立場か、COCに同情的ではあるものの、「より注意深い不可知論」の立場も一般的でした。中国中央電視台(CCTV)の関与は、そうした明らかな民族主義的感情の立場を示しました。AOCに関する国際的な一般報道機関の発表に対応して、CCTVは2011年に、「中国人はどこから来たのか?」と題した5回の番組から構成される、中国版物語を提示しました。この番組は、AOCが現在の主流科学だと認めながら、COCを正当的仮説として提示しました。その討論を語った回の表題は「遠い楽園」でした。その番組の主張は、半ば冗談ではあるものの、国際的な遺伝学者がmtDNA(母系)を用いてヒト進化を他の場所で追跡し、「イヴ理論」として知られているものの、中国の遺伝学者はY染色体(父系)を用いており、中国は依然として、「アダム」が進化の合体を完成させると特定された「遠い楽園」であることを誇れるはずだ、というものでした。
●政治的裁量を伴う学術的論争
この中国の論争は、未解決問題の多くの分野、とくに歴史と出自に関連する問題へのDNA研究の影響に関する国際的議論の一部を構成します。COCとAOCとの間の分裂は、上述の1987年のmtDNA研究以来、人類学者の少数派と多数派との間の国際的な論争を反映しています。少数派【COC支持】は現生人類の多地域起源を主張し、ヴァイデンライヒにより開拓され、今ではウォルポフとレイチェル・カスパリ(Rachel Caspari)に代表されます。これらの人類学者は議論の政治的意味について充分に認識しており、それは、1987年のmtDNA研究の発見が白人の人種主義(人種差別、racism)にとって科学的に決定的な打撃とみなされ、この問題を「大衆的学問分野」と呼び、非専門家のこの議論に対する熱意について言及しているからです。これら少数派の人類学者は、自らの学術的地位が、過去に人種主義に信頼性を与えた起源からのヒトの人種の並行進化の時代遅れの理論多元発生説と大衆に誤解されていることが多い、と感じています。その観点から、少数派の人類学者は、現代人が「肌の下は皆兄弟」であることを否定しているとみなされるものの、その競合相手【AOC支持の多数派の人類学者】は普遍的人間性の政治的に正しいイデオロギーという「道徳的高みに」に現れるので、無批判な大衆、とくに報道機関により、多大な人気を得ています。科学的仮説は、人気のある社会的議題を利用します。
この国際的人類学派【COC支持の少数派】は、80年ほど前のヴァイデンライヒの理論的基礎研究、および西洋の人類学者と中国の同僚との間で発展した協同で、本質的に「中国に縛られて」きました。毛沢東政権下の長い中断の後、両者の関係はウォルポフとソーンが1980年代初期にIVPPを訪れ、そこで呉新智と会ったことで、すぐに再開しました。彼ら【COC支持の少数派の人類学者】は、過去数十年間の中国のホモ・エレクトスと現生人類両方のひじょうに堅牢な証拠の発見を、多地域論の進化の概念にとって重要な証拠として取り上げました。1983年に、ウォルポフは呉新智を、ウォルポフの所属機関であるミシガン大学を拠点とする、アメリカ国立科学財団の特別研究員に招待しました。これらの交流は、多地域的議論を再活性化する1984年の共著論文につながりました。しかし、1987年のmtDNA研究以来、その【COC支持の少数派の人類学者の】協同は遺伝学的異議に対する同盟でした。そうした協同の【2017年時点で】最新の証拠は、英語と中国語両方で刊行されたウォルポフとカスパリの2013年の論文です。
中国の論争では、国際的討論における「人種」の代わりに「祖先」が重要な言葉です。中国における「人種」の政治手的意味合いは、「我々」が世界の他の人々とどれだけ異なっているのか、ということであり、遺伝学的事実と民族主義的感情との間に緊張を生み出しています。しかし、「祖先」は機能的に中国の「人種」に相当します。中国の遺伝学者と人類学者は、中国の民族主義への自身の研究の政治的意味合いを認識していますが、そうした解釈への明示的訴えを控えています。遺伝的に普遍的な現代人の起源も、人類学的な「中国人」の血統も、道徳的高みを占めること、もしくは政治的正しさを主張することに公然と利用されていません。この議論は政治化されていません。しかし、両陣営の言説をよく読むと、多くの科学用語と研究統計の下に隠された緊張における繊細な思慮分別が明らかになります。
一般的に、遺伝学者は政治的敏感さを巧みに回避する傾向があり、その発見の解釈を読者に公開したままにします。中国の遺伝学者により執筆された、2000年頃に国際誌に掲載されたほとんどの論文もしくは研究報告の責任著者で、今では復旦大学の指導的科学者である金力は、一般向けの科学記事や報道機関の取材や公開講演を通じてAOCの代弁者になり、外国人の同僚からもそのように認識されてきました。イギリスの人類学者で、BBCの4回の記録映画『途方もないヒトの旅』(関連記事)の執筆と視界を務めたアリス・ロバーツ(Alice Roberts)は、金力をその研究室に訪ねて取材しました。『途方もないヒトの旅』は、「出アフリカ」の主張を広めた『ヒトの旅』の後、2009年に企画された別の大衆科学計画で、そこでは中国がよく描写されています。ロバーツは「出アフリカ」の立場で、記録映画のための北京での別の訪問取材において呉新智と意見を異にしました。ロバーツはIVPPで自分を出迎え、北京原人の頭蓋骨化石を見せてくれた呉新智の親切に感謝しました。しかし、北京原人の頭蓋骨と現代人との「類似」の形態学的特徴との呉新智の解釈に関して、ロバーツは納得しないだけではなく、そうした【COCの根拠となる人類遺骸の】類似性は自分にとって「微妙」に見える、と呉新智に語りました。ロバーツは、上海の金力の研究室で味方を見つけました。金力の意見は、中国の民族主義に対する研究の意味合いを認識している、と示しており、金力は中国人と他の現代人との共通起源について喜んでいるようでした【以下の段落はロバーツに対する金力の返答】。
(2001年の『サイエンス』報告につながる)計画が始まる前、私【金力】は、中国における中国人の独立起源を裏づける証拠を、特定できるか見つけられるよう、願っていしました。それは、私【金力】が中国人であり、中国出身で、教育課程を通じて常に、中国人について何か特別なものがあった、と信じていたからでした。(「あなたは中国人としてどのように感じましたか?」とのロバーツの質問に金力は答えて)自分の研究室で生成された証拠を見た後、私【金力】は我々全員がその証拠で満足すべきだと考えています。それは、結局のところ、世界のさまざまな地域の現代人は相互にそれほど違いはなく、我々は全員ひじょうに近い親族だからです。【引用ここまで】
しかし、中国の報道機関に対して、金力【の発言】はより中立的に聞こえます。CCTVの番組「中国人はどこから来ましたか?」の訪問取材を受けた時、金力は中国人の起源について「出アフリカ」理論の妥当性についてその最初の疑念を強調し、中国で収集されたデータである種の「さまざまな結果」への希望を強調するだけです(注9)。金力は他の公開講演で、「我々はどこから来たのか」との質問に対する金力の研究団の発見の妥当性についての確固たる地位にも関わらず、北京原人が寄与している中国人の独自性について言及することは稀です。金力は国民と国家に対して、北京原人の一般的崇拝を再考するように、決して求めず、「民族主義」や「愛国心」や「歴史教育」といった単語さえ避けてきました。
COCについての歴史教師の留保は、我々に自己検閲の感覚を与えるかもしれません。北京の模範的な歴史教師である李曉鳳(Li Xiaofeng)よる珍しい大胆な表題「歴史教育は愛国教育に役立つべきだが、それは事実に沿ってすべきです」という2012年の取材で、李曉鳳は北京原人の事例から始めます。李曉鳳は、盲目的に教科書を信じるのではなく、自分で考えるよう、生徒を励まします。「あなたが生徒に‘北京原人は我々の祖先ですか?’と尋ねるならば、生徒は(教科書にそう書いてあるので)混乱するでしょう。誰かが生徒に北京原人は我々の祖先ではない、と言ったらどうなるでしょうか?」と李曉鳳は述べ、次にAOCとCOCとの間の論争を紹介します。しかし李曉鳳は、歴史教育と愛国心に関して詳細な説明を避けます。
人類学者についてソートマンは2001年の論文で、人類学者の研究は、「現在の中国に暮らしていた人類は中国人だと示唆し、科学は古代中国人の血統を示すことにより民族主義を強化すべきと強調している、」と主張しています。中国の人類学者の主張の背後に民族主義の課題を認めながら、シュマルザーは2008年の著者で、それにも関わらず、そうした議論は「人類学者の分野の主要なデータセット(つまり化石)を擁護することである」と主張し、「中国の化石についての西側の無視」がそうした議論の民族主義の汚点に寄与している、と考えています。どちらも正しいものの、【2017年時点で】近年の人類学者の言説は、石器時代の中国の独自性をより強く示唆しており、それは防御的というより独断的です。民族主義もしくは愛国心への直接的言及なしに、ホモ・エレクトスと現生人類の時代を両方含む地質時代全体で見つかった、と主張される一連の独特な特性の物語を通じて、民族主義もしくは愛国心自体を明らかにして、伝える傾向があります。人類学者である高星の2010年のIVPP年次研究報告によると、
【引用開始】中国とアジア東部の古代人は旧石器時代全体と初期新石器時代を通じて行動と技術において連続性と安定性を維持しており、技術革新よりも継承の特徴を伴う独特で漸進的な進化パターンを発展させ、そこでは置換や中断はありませんでした。80万年前頃、中国の南部と中央部では、同時代の西洋の「アシューリアン(Acheulian)技術」様式と類似した握斧や他の道具が出現し、3万年前頃には、中国北部で後期ヨーロッパ旧石器時代文化の特徴を有する「石刃技術」が出現しましたが、それらの石器は短命の花のようにひじょうに孤立して一時的存在で、在来の主流文化に顕著な影響を残せませんでした。そうした証拠に基づく学者の提案は、以下のようなものです。中国とさらにはアジア東部における更新世古代人の主要集団は、混乱を経ずに繁栄し続け、その文化と強力な生命力を有し、連続した進化的関係を提示した、というものです。「非在来文化」をもたらした少数の偶発的な外国集団が存在しましたが、すぐに主流文化の優越の痕跡なしに消滅したでしょう。【引用ここまで】
高星は、この中国もしくはアジア東部の進化パターンを「包括的行動モデル」と命名しました。そのモデルは、「局所的条件に適応し、地元の環境と調和的で友好的であり、絶え間ない移動と移転により環境資源の使用を低水準に保ちながら、偶発的に到来した外来文化を改善して同化しました(在来文化)」。
現生人類の世界規模の進化についての呉新智の「河川的網状組織」仮説が、なぜ中国人の独立起源があり得るのか、という問題に答えるならば、高星の「包括的行動モデル」はそうした起源は歴史的に必然である、と主張します。優れた特徴が200万年にわたる地質学的期間にホモ・エレクトスから現生人類まで古代の人類集団を維持し、外来の影響を土着化しながら、環境支配の確立において並外れた才能と技術を示しました。しかし、この「強い活力」とそれらの優れた特性は正確にはどこに由来したのでしょうか?それらは、自然環境への適応を通じて獲得され、それは絶え間ない反応が最終的には構造の再編成と直感的形成につながったのか、あるいは何かもっと先天的なものでしたか?「国民の特徴」を歴史化する傾向にある強い民族主義的伝統の文脈では、そうした勝利の口調で語られる進化的適応性と成功は、子孫に畏怖を抱かせる、普遍で超歴史的な「中国らしさ」の認識に自然につながります。
土着性と石器時代の経験の連続性に関するこの議論は、先史時代考古学の発展のすでに明確に描かれた軌跡と、中国文明の言説の先導を強調します。そうした議論は、世界の文明の中の現象である、本質的に内在的で自己永続的な文明について、新たな千年紀において中国の権威ある考古学の主張を促進します。その主張では、中国は先史時代の「所与のもの」として認められ、「現在の中国において」といった限定的な文言の必要はないようです。それは、過去と現在との間の空間的関係が、国際的な学者により必要な時にそのように明確にされていることが多いからです。2005年、著名な中国人と中国系アメリカ人の考古学者による国家支援の研究である『中国文明の形成─考古学的観点』が、中国語と英語の両方で刊行されました。中国の起源と形成段階の再解釈のため更新された研究を統合するこの画期的試みにおいて、その使命は「中国旧石器時代の特定の特徴」を探すことである、と編者は宣言しています。しかし、遺伝学がCOCを揺り動かした5年後、同書は「中国における初期のヒト」と題したその第1章において、【COCとAOCをめぐる】議論について全く言及していません。同書の序論第二部の著者で、中国社会科学院考古研究所の前所長である徐蘋芳(Xu Pingfang)は、中国の歴史系統を深く中期更新世にまで拡大しています。徐蘋芳はそこで、「この‘先秦’期(紀元前3世紀後半の秦王朝より前の中国史の期間)は100万年もしくはそれ以上続き、中国の旧石器時代と新石器時代と3王朝、つまり夏と商と周を含んでいます」と述べています。
●「現生人類を追放し、中華を復活させます!」
一般人の反応は、中国ではその主題【COCとAOCをめぐる議論】が大衆科学の授業ではなく、ウォルポフとカスパリが述べたように、「我々」が誰であるのかについての明確な何か、「公共の規律」である、と示しました。遺伝学者および人類学者とは異なり、COCとAOCの一般人支持者は、この問題【COCとAOCをめぐる議論】を公然と政治化します。一部の人々は、AOCが、19世紀と20世紀初期にヨーロッパの学者により提案され、【今では】信用を失った「中国文明の西洋起源」の新形態か、非愛国的で名声に餓えた中国の科学者を、中国民族主義の根拠を解体するために手先として利用する西側イデオロギーの陰謀である、と考えます。これらの人々にとって、AOCが「西側」理論である一方、COCは「中国」で、あたかもCOCが中国固有の製品であるかのようです。【COCの】反対派はそうした主張を、推定される中国と西側の対立に基づく過度な民族主義により助長された愛国的被害妄想として退けます。
中国以外の多地域主義者と同様に、COCの擁護者はAOCの報道機関の宣伝に気分を害しています。しかし、その反応は、民族主義によってさらに興奮しており、AOCの「西側」起源への疑惑に明らかです。上席言語学者である魯国堯(Lu Guoyao)は、「生物学に基づく出アフリカ理論が‘学界’と‘大衆’の刊行物の両方で優勢で、中国の言語学者でさえ今や遺伝学者を真似ている」と嘆きます。魯国堯は言語学者の議論を、中国の方言の多様性と複雑さを、単一の外来供給源に追いやり、中国文明の土着性を否定する試みとして却下しています。魯国堯は言語学者の同僚に、西側の学者は新規性を追求し、根拠のない過程やずっと遠いつながりを作ることにより大騒ぎを起こす傾向のため、しばしば疑われてきた、と警告します。より広範で長大な世界史の物語『起源─ヒト文明の中国起源の証拠となる研究』では、素人ながら「博学な」著者が、幅広い学問分野を用いて、文化的自信のない中国人に受け入れられた西側の中国誹謗としてAOCの誤りを証明します。その著者は、ホモ・エレクトスも中国起源であることさえ主張しています。その著者の見解では、中国は全ての主要な世界文明の発祥地です。
ソーシャルメディアにおけるCOC支持者の反応は、さらに政治的です。金力と呉新智の両者が取材を受けた主要な報告に反応して、あるコメンテーターは金力を「山師」と呼び、金力の「研究はアメリカ人により資金提供されたか、中国政府から資金が騙し取られました。そうした‘功績’は金力の名声と金を保証するために確実に有名な(外国の)雑誌に形成されるはずだった」と断言しました。次の二つのコメントが続きました。「彼ら【AOC支持の学者】は単に自国の結束力の解体を待つだけではすまず」、「現在、多くの言説が我々の歴史を軽視しようとしています。彼ら【AOC支持の学者】は四方八方から我々を分断し、我々の純血種を弱め、我々を混乱させ、我々の文化的および人種的耐久能力を破壊する目的で狡猾に噂を立て、我々の国家統一力と自信を密かに傷つけます。我が国にはそうしたクズが少なかったのに残念です」。自由主義的傾向の前衛的な一般向け歴史雑誌『国民史』は、この問題【COCとAOCをめぐる議論】についての長い特集のため、黄色い肌ではあるものの、中身は白色で、「非愛国的な中国人」に対する人種化された警句を意味する「バナナ」と分類されました。そのコメントは、『国民史』には、「国民的虚無主義と西側の普遍主義的価値」を促進する指針がある、と断言しました。
COCの最も過激な擁護は、「これを投稿する時だ」という1行とともに電子掲示板サイトに投稿された風刺画で見ることができます(図4)。図4左側の漢字は、上から下に次のように読めます。「200万年前の偉大なホモ・エレクトス。天国の息子は彼の洞窟の入口を守ります。王は(より文明的な生活に降伏するのではなく?)ジャングルで死ぬでしょう。領土譲歩も戦争賠償もありません。平和構築のための結婚も敬意を払うこともありません」。ホモ・エレクトス「中国人」とホモ・サピエンス(現生人類)「外国人」との間の遭遇の可能性は、「外来の」侵略者と「国家の」防御者との間の石器時代の小競り合いとして描かれています。図4の右側では、2人の北京原人の下の赤い2文字は「正統」を表し、より「文明化された」外観の男性の下の黒い2文字は赤い線で交差されており、「蛮夷」と読めます(しかし、この男性【とその背後に描かれた小さな人物たち】は伝統的な中国の正服を着ています)。一番下の行(赤色の漢字8文字)は、「ホモ・サピエンスを追放し、中華を復活させます」と翻訳できます。これは、清(満洲)王朝後期における有名な漢人民族主義者の反満洲の標語「北狄を追い払い、中華を復興せよ」の修正版です。それは異様に見えるかもしれませんが、その風刺画はAOCとCOCとの間の論争を何としても、より文明化された生活様式でさえ、外来に対する中国人の歴史を超えた防御として激しい感覚で解釈し、中国の現生人類の起源が外来であれば、考古学者はもっと発展した道具を見つけられただろう、という中国の人類学者の主張を想起させます。
論争の反対側では、AOC支持者は、中国人には先住の中国を拠点とする祖先も、土地との永続的な関係もない、という事実に満足しています。『国民史』は、「1929年以来我々は、我々がここ【現在の中国】に何十万年もいた、と信じてきました。我々は何世代にもわたって、ここで生まれ、ここで成長し、ここで埋葬されました。しかし、科学者は最近我々に、我々はじっさいには遠くからやって来た、と語りました」と報告します。偽の祖先と土地への偽造されたつながりのイデオロギー的意味は、多くのAOC支持者にとって明らかです。2000年代における中国の自由主義と保守主義との間での議論のように、それはひじょうに邪な方法で「普遍的価値」に挑戦して、「中国人的特徴」の正当化に役立ちます。なぜならば、それは「我々」がここ【現在の中国】にいて、それ以来独特であることを示しているからです。しかし、その【COC支持者】一部はさらに先に進んでいます。「現代中国人はどこから来ましたか?─それは政治的問題です」と題したあるインターネットのコメントは、ロンドンの東洋アフリカ研究学院(SOAS)での講演における中国の人類学者の主張に言及します。その主張は、新疆における彼の研究の唯一の目的は、新疆地域が古代から中国一部だったことの証明です、というものでした。
【インターネット上のコメントの引用開始】逆説的には、そうした愛国的学者は、彼が憎む西側の人種主義者とまったく同じです。人種主義者は、高貴な白人が他の人種とは別に進化した、と信じています。この奇跡の地の学者(中国の仮定された偉大さの愛国的賛美への皮肉)は、中国人であることの誇りを正当化するために、現代中国人は元謀人を藍田人および北京原人と結びつける単一の祖先系統に沿って進化した、と主張します。【引用ここまで】
したがって、COC信者へのAOC支持者のコメントは軽蔑的で、映画『騙された(hoodwinked、邦題は「リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!?」)』や「知的発育の遅れ」です。2014年に、ある人気の随筆家が、AOCを支持する2014年のIZKYP(雲南省昆明動物学研究所)計画により引き起こされた簡易ブログについての、COC信者の怒りに応えました。その随筆家は、「我々の歴史教科書は近代史だけではなく古代史にもある」と述べました。我々の「祖先」は「アフリカ人により一掃されました!」それはそうした「民族主義者」をひじょうに「哀れにした」、何と恐ろしい事実でしょう!この随筆は次のような皮肉で締めくくられています。CCTVは今や、「‘ああ、アフリカ、我が親愛なる母国!’と愛国的な歌を歌う」かもしれません。
●「ホモ・シネンシス」?
要約すると、中国がHGP(ヒトゲノム計画)に参加して以来、科学用語に包まれた民族主義にとって北京原人の祖先性をめぐる論争の意味合いは、社会のさまざまな部分でよく理解されており、超国家主義と自由主義の公開意見は、それぞれ論議の両極として現れました。この相違は中国の政党国家にも及んでいます。科学当局がAOCを主流科学と認める一方で、宣伝および教育機関は、愛国教育や民族主義的動員のためCOCを宣伝し続けています。北京原人の遺跡を全国的な「愛国教育」の拠点として促進し、中国の人類学者を愛国的英雄として記念することは、中国の考古学と人類学に身を捧げた外国の科学者の国際主義的精神と、これらの分野における中国の国際的名声を意図的に無視しています。北京原人の名前の由来となった、指導的人類学者で1930年代初期に周口店遺跡の管理責任者だったデヴィッドソン・ブラックは、生まれつきの心臓状態を無視して仕事に身を捧げ、化石の研究中に周口店遺跡で死亡しました。中国の人類学者がこれら外国人に深く感謝しているにも関わらず、北京原人の公式の叙述は、やむを得ない場合はいつでも、これら外国人の貢献を「科学的」と言及し、「国際主義者」とは滅多に言いません。その【国際主義という】言葉は、北京原人により喚起された愛国的感情を鎮める効果のため、巧みに回避されています。
論争を理解しようとする一般読者は、第一に、それを学問的と理解するかもしれません。これはおそらく、人類学者と遺伝学者がそれぞれ従う、通時的手法と共時的手法との間の二分法を反映しているのでしょう。第二に、氷期を通じてホモ・エレクトスの子孫が生き残ったことを確証する証拠は、まだ見つかっていません。アフリカ起源の現生人類とアジア東部における在来のホモ・エレクトスもしくは現生人類との間の混合を証明する実質的な証拠もまだありませんが、その可能性はあります。第三に、そして最重要なことは、これら2種類【遺伝学と人類学】のデータもしくはDNAに基づくAOCに批判的に異議を唱える化石証拠が見つかったとしても(注10)、これら古代人を「中国人」(もしくは特定の民族あるいは国民集団の「祖先」)とは呼べません。そうした古代人の生息地は「中国」(もしくはあらゆる国民国家の父祖の地/母国)ではありませんでした。そうした古代人の活動の痕跡は「中国文明」ではありませんでした。「現在の‘人種’のようなものが最初の現代的なホモ・サピエンスの前に存在した」ことを否定した、多地域主義仮説の指導的唱道者であるウォルポフとカスパリの研究でソートマンが気づいたように、多地域主義仮説とその民族主義もしくは人種化された解釈との間には、根本的違いが存在します。しかし、中国の多地域主義の学者は、同様の否認を刊行しませんでした。ウォルポフとカスパリは【2017年時点で】最近中国で刊行された論文で、「全てのヒト集団は現在等しく現代的です(中略)我々を現在の姿にしたのは我々の起源ではなく、我々を独特にしているのは我々の系統ではありません」と述べているように、この立場を維持してきました。
現代人か化石化しているか、身体的外見の形態かDNAの暗号か、といったヒトの身体についての科学的事実が、ヒト社会の独自性の構築やそうした独自性の歴史的変容の語りに利用でるのかどうか、またどう利用できるのか、という問題は、中国に固有ではありません。キース・ウェイロー(Keith Wailoo)などが主張するように、「科学はその文脈と利用から離れて存在しないので」、科学は大衆の想像力に及ぼす影響を解放することも縛りつけることもあり得ます。中国の遺伝学は過去に、ルイセンコ主義の形での生物学的進化スターリン主義の解釈に異議を唱え、今では人種主義的民族主義を突き崩しています。しかし他では、ウェイローなどが示してきたように、20世紀には国家支援の人種主義により悪用された歴史の記録があり、国家は依然として国民国家と民族の集団の政治的課題により操作されています。
ユダヤ人性に関するナディア・アブ・エル=ハジ(Nadia Abu El-Haj)の批判的研究は、この点に関してとくに啓蒙的です。それは、現代ユダヤ人が古代パレスチナの本来のヘブライ人の直接的で純粋な子孫だとする、一部のイスラエルの歴史物語の基本的仮定でした。20世紀の遺伝学と【2017年時点で】最近10年のゲノム研究は、その歴史を証明する科学的証拠として、この言説により利用されてきました。それにも関わらず、技術的困難やその言説により解決されてない不確実性はさておき、とくに、さまざまな歴史的状況下で誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないのか決定する方法に関して、ナディア・アブ・エル=ハジは、DNAの解読は直接的には帰属性構築に変換できない、と主張します。歴史的に形成されたヒトの意識とヒトの身体的事実との間の障壁は、認識論的です。したがって、イスラエルの民族主義における遺伝学の問題のある使用についてのナディア・アブ・エル=ハジの分析は、中国の民族主義による古人類学的科学の使用の批判において、比較観点と方法論的手法を提供します。
純粋な祖先に関する言説、祖先の発祥地、この祖先と環境との間の自然の絆、そして何よりも、この祖先とその子孫に特有の、身体的で精神的で知的でさらには道徳的特徴への顕著な系統的連続性に帰する物語は、狂信的な人種主義的民族主義を支持します。ホモ・エレクトスの祖先系統の発見を通じて人種的独自性を構築する試みは、1世紀前のイングランドの「ピルトダウン人」や、比較的最近では日本の藤村新一による化石偽造【じっさいには旧石器捏造】など、古人類学的捏造につながりました。藤村新一【捏造事件発覚後、結婚して改姓したそうです】は偽者の考古学者で、1980年代に日本の民族主義が再台頭する中で文化的有名人になりましたが、2000年に正体を暴露されました(関連記事)。ベンジャミン・アイサック(Benjamin Isaac)が警告しているように、「我々の時代に違法とみなされている」ものの、人種主義は「さまざまな名の下で、およびさまざまな見せかけにおいて起きます」。しかし、COCの政治的流用は、一部の古典的で典型的な人種主義的思考が、ほとんど変更されずに存続していることを示します。
人種と民族主義の最近の議論のうち、モーリス・オランデール(Maurice Olender)は、フランスの古典派である新学派(Nouvelle École)における最近10年の「古いアーリア主義の主題への郷愁」を明らかにしており、それは比較観点も提供できます。「アーリア人種」とのナチスの宣伝の悪名にも関わらず、新学派は新石器時代以来の「インド・ヨーロッパ人」の「完全なアーリア人の天才」をヨーロッパ西部文明の起源に帰し、「抽象と形而上学」、「内省」、とくに「自然を政治に統合することにより、自然を従属させる不断の傾向」のような特徴において自身を表しています。そうした人の道徳的肖像画も示唆されています。これらは、「包括的行動モデル」で示唆される祖先の天才との中国の言説や、祖先の勇気と美徳の賞賛を反映しています。国民的イデオロギーの連続体では、多くの新学派の学者が「‘新右翼’のさまざまな潮流」に傾倒していました。中国では、最も率直なCOCの素人支持者は、超国家主義者で、彼らにとって、純粋に土着の起源を擁護するのは政治的理由です。
オランデールにとって、新学派の言説はホモ・ユーロパエウス復興の試みを表しており、それは、生物学的特徴に由来独特な社会的性質がある仮定的な優れたヒトの血統を描写した、優越間違っているとして拒絶された人種概念です。特定のヒト集団を本質化して神秘化する同様の試みは、ホモ・アルピヌスについての言説でも見ることができます。ホモ・アルピヌスとは、「強く、健康で、勤勉で、辛抱強く、忍耐強く、温厚ではあるものの、自律的な人間の類型」であるスイスのアルプスの小作農の神話です。ナディア・アブ・エル=ハジも、純血で単一の祖先のユダヤ人性とのイスラエルの構成概念をホモ・イスラエレンシスと呼んでいます。これらの言説は、ヒトの文明が始まった比較的最近の時代に関係していますが、中国言説は、ヒト【現生人類】以前の自然史に深く沈んだ少なくとも50万年前にさかのぼります。したがって、私【本論文の著者】が類例に言及するために考案したホモ・シネンシスという用語は、文化的含意よりも生物学的含意の方が強い、仮定された先史時代および超歴史的なヒトの血統に対するより正当な呼称です。
COCの民族主義的解釈は、一握りの筋金入りの実態を把握していない保守主義者と、ソーシャルメディアにより誇張されたその有力者だけに受け入れられている、すでに熱狂的で閉鎖的な民族主義の狂気の結果として退けることはできません。それは、現代中国の民族主義的伝統に根差した新人種主義的修辞です。この伝統に関して、フランク・ディケッター(Frank Dikötter)は、人種的思考は中国史にそれ自体の起源があるものの、19世紀後半に西洋の人種理論とともに民族主義的言説へと発展し、西洋の人種理論は中国の国民を黄色人種と同一視したものの、その分類は元々人種差別的意味合いのある西洋の造語だった、と主張します。この中国の経験に部分的に基づいて、ディケッターは非西洋社会における人種的思考形成の「相互作用モデル」を提案し、人種的思考は西洋の発明で底から世界に広がった、とする拡散モデルに異議を唱えました。ソートマンは、中国におけるこの人種的民族主義のいくつかのより最近の発達の概略を述べています。それは、「炎(Yan)帝と黄(Huang)帝の子孫」、「龍の子孫」(中国を保護する神聖な祖先の動物神としての龍のトーテム信仰的崇拝)、肌の原始時代からある色素としての黄色、黄色い大地、帝国の遺産、国民の祖先としての北京原人など、身体および生物学的主張に典型です。
最近、北京原人の賛美が愛国的動員の手段に発展したように、上述の人種的民族主義は社会でより近づきやすくなったので、新たな修辞と普及手段の発明のためより一般的になりました(注11)。たとえば、一連の露骨な人種的分類である「黒い目、黒い髪、黄色い肌」は、大衆文化や日常の会話で」使われ、「中国人らしさ」を示すために政府は黙認してきました。それは、既存の「龍の子孫」や「炎帝と黄帝の子孫」とともに、ほぼ「中国人」の同義語になりました。「中国人の心と中国人の血」は、ほとんど人種的ではないものの生物学的に喚情的な別の一連の概念で、国民の団結と離散的な中国人らしさへの共通の帰属の源を本質化するために普及してきました。これら「人種的境界標識」の最も有名な表現は、愛国的動員のための主要な大衆文化の手段として1980年代以降に作られた、政府が促進した「愛国歌」で見られます。そのうち最も認知された歌は、DPCCP(中国共産党中央委員会宣伝部)の「愛国歌100」の一覧に含まれています。その題名と歌詞は情熱的かつ憂鬱な音調で中国の独自性を呼びかけ、根強い民族主義的不満を持つ人種としての中国人の感覚に満ちていることが多くあります(注12)。
北京原人の祖先性は、この人種的民族主義を前進させます。それは、中国の台頭における国民の帰属意識政治(identity politics)、つまり人種化された「中国人らしさ」を、最も凝集的な力として促進します。アンソニー・スミス(Anthony Smith)の民族国家の正当化における考古学の役割の簡潔な分析は、手短な最期の分析にすぐ使える手段です。独自性や本質主義や根源性や真正性や土着性や、より明白には土壌など、過去の物資文化の考古学の提示により裏づけられる「特有の領土的国家の民族主義的理想」を支持する全ての概念は、「歴史的発祥地」の構築へとつながっています。COCの政治的流用は、(数千年単位の)民族および文化的な概念から(数十万年単位の)進化および生物学的概念へとこれらの概念の適用を拡大しました。文化的連続性は、人種的系図へと変化しました。「中国人の独自性」はその究極的起源を、ホモ・エレクトスの祖先系統だけではなく、この人類と自然環境との間の断言された調和にも見出します。この二つは外国人にとって相容れない生息地へと融合し、そこから「父祖の地/母国(土地は先祖代々‘我々のもの’です)」と「古代以来の中国の領土」が絶対的正当性を獲得します。最終的分析では、現在の中国の国家主席(習近平)が繰り返し述べているように、「活発な生命力と比類なき創造力」と呼ばれる、百万年間の豊かな生体エネルギーの人種的神話が、「他者」から優れた「中国人」を区別する標語になりました。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。正直なところ、「identity」など訳語に迷った単語が少なからずあり、文脈で判断して訳語を変えるなど工夫してみましたが、正確に意味を把握できていない文章もあるでしょう。それでも全体的には、大きく外した解釈にはなっていないと思います。冒頭で述べたように、中国の人類進化観と民族主義には以前から関心を抱いており、それなりに情報を得てきました。そうした断片的な情報からは、中国において、COC、つまり現生人類多地域進化説的な見解と、AOC、つまり現生人類アフリカ単一起源説的な見解の対立があり、教育など国民教化の点ではCOC的見解が強調されているものの、政府がAOC的見解の公表を禁じているわけではなさそうだ、と予測していました。本論文を読み、この予測は大きく外れていなかったようですが、本論文はこの問題を体系的に論じており、具体的な情報も多く得られ、理解を深められたので、私にとって期待通りたいへん有意義な論文となりました。
本論文からは、現代中国では専門家だけではなく一般層においても、COC的見解とAOC的見解との間で激しい対立がある、と了解されます。この対立は専門家の間ではおもに、考古学と(形質)人類学がCOC的見解を、遺伝学がAOC的見解を支持する傾向にあるようで、これは1980~1990年代の他地域と大きく変わらないようです。COC的見解が中国の民族主義および愛国主義と親和的であることは、この問題に関心のある人には理解されるでしょうが、本論文はそうした傾向を体系的に検証しています。したがって、AOC的見解を支持する人々に対して、「西側」と通ずる「売国奴」といった誹謗中傷が浴びせられているのではないか、と推測していましたが、本論文で指摘されているように、やはり中国は人口が多いだけに、そうした人もいるようです。AOC的見解は「中国文明の西洋起源」説の新形態か、非愛国的で名声に餓えた中国の科学者を、中国の民族主義の根拠を解体するために手先として利用する「西側」の陰謀で、AOC的見解の支持は、「西側」の「普遍的価値」に毒されて中国の独自性と自律性を否定する「植民地根性」的堕落だとして、厳しく批判されるわけです。
これは、非ヨーロッパ世界の近代化(当然、ヨーロッパ世界の近代化も一様ではなく、とくに東部に関してはそうした問題が現代まで続いている、と言えるかもしれませんが)においてよく見られる現象で、近代化という名のヨーロッパ化を進めつつ、どこに自らの独自性と存在意義を見つけて国民国家化を進めるのかは、程度の差はあれ難題だった、と言えるでしょう。中国において、自らの起源を人類進化史においてどのように位置づけるのか、という問題も、自らの独自性を強く主張したい、という立場をCOC的見解が、世界との共通化および均質化(ヨーロッパ化)を目指す、という立場をAOC的見解が象徴している、と言えるかもしれません。
こうした人類進化観の対立についての枠組みは、近年になって断片的情報から次第に理解してきて、本論文でずっと鮮明に見えてきました。しかし、20年以上前には、そうした枠組みをほとんど理解できておらず、現生人類の起源に関しては、COCと親和的というかCOCも組み込んだ多地域進化説を形質人類学者と考古学者が、AOCも含むアフリカ単一起源説を遺伝学者が支持する傾向にある、との理解に留まっていました。そのため、20年以上前に、現代中国人の起源について、「欧米」が主張する現生人類アフリカ単一起源説を支持していない、と指摘された時には、なぜ遺伝学者と形質人類学者および考古学者という枠組みではなく、「欧米(西側)」と中国という枠組みで現生人類の起源に関する見解の違いを把握するのか、理由を理解できませんでした。しかし、本論文を読んだ今となっては、その理由がよく分かります。現生人類アフリカ単一起源説を「西側」の陰謀と考える非専門家が、中国には一定以上いると考えられるからです(その割合については本論文からも分かりませんし、そもそもこうした大規模な調査は難しそうですが)。
また、本論文の指摘で重要なのは、COCは国際的な(とはいっても、主要な拠点はオーストラリアと、アメリカ合衆国というかミシガン大学と言うべきかもしれませんが)現生人類多地域進化説の一部に組み込まれたと言えるものの、ウォルポフとカスパリに代表される現生人類多地域進化説の主流派と、中国の民族主義もしくは人種化された解釈との間には、「人種」については根本的な違いが存在することです。ウォルポフとカスパリは、現在の「人種」のようなものが最初の現代的なホモ・サピエンスの前に存在したことを否定し、現代人は等しく現代的だと指摘します。これは、現生人類多地域進化説が「人種差別的」と批判されることを、ウォルポフが警戒してきたこととも関連しています(関連記事)。ウォルポフとカスパリは、全てのヒト集団は現在等しく現代的で、現代人を現在の姿にしたのはその起源ではなく、現代人を独特にしているのは現代人の系統ではない、とも指摘しています。しかし、中国のCOC支持の学者も、同様の否認を公的には述べていないそうです。
本論文は全体的に、COCが中国の民族主義や愛国的動員に利用されていることや、COCを支持する公的言説において、外国人研究者の貢献を「国際主義」の観点から賞賛しないことなど、COCにかなり批判的です。それは、COCとAOCの比較で、COCの方が学術的にはずっと妥当性は低いからでもあるのでしょう。学術的妥当性での圧倒的優位から、中国の一般層のAOC支持者には、COC支持者を軽蔑する人もいるようです。それは、本質的には価値規範の問題なので、「事実」を争うCOCとAOCの論争とは根本的に異なるとはいえ、「Woke(日本語訳は確定していないと思いますが、‘覚醒’と訳すのがよいでしょうか)」主義(Wokeism)陣営(関連記事)というか、それに肯定的な人々が、これを理解していなかったり反発したりする人を「時代遅れ」などと軽蔑することとも表面的には似ているのでしょう。それはともかく、確かに、やり取りしている相手に対して自身の知的優位を確信すると(当然、あくまでも主観的判断なので、違っていることは珍しくありません)、侮蔑的態度を取る人は珍しくないでしょうし、日本語環境のインターネットでもありふれています。一般的には、こうした姿勢は好ましくないわけで、自戒せねばなりません。
ただ、それを個人的問題として片づけてしまうことには問題がありそうです。とくに中国について、COC的見解とAOC的見解との対立は、非ヨーロッパ世界でよく見られる近代化の苦闘だけではなく、近現代史における被害者意識の強さ(関連記事)も考慮する必要があるように思います。中国の近現代史を多少なりとも知れば、現代中国人が「西側」に強い不信感と嫌悪感を抱くことは了解されるでしょう。その意味で、中国の一般層のCOC支持者が、AOC支持者を「西側」に通ずる「売国奴」であるかの如く罵倒する心情は理解しやすいように思います。おそらく中国において、現代のさまざまな事象を「西側」、とくにその中で図抜けた国力のアメリカ合衆国の陰謀として把握する傾向は、少なからずあるのでしょう。ただ、中国は今ではアメリカ合衆国に並ぼうとしている超大国であり、軍事力や経済力で大きな影響力を有しているのでおり、世界に壊滅的な打撃を与えることができます。その意味で、中国は今後、被害者意識の発露の抑制に努めるべきだと思いますし、その傾向が強くなれば、その学術的妥当性の比較から、COCの支持者が減り、AOCの支持者が増えることでしょう。
それでも、中国の習近平国家主席(共産党総書記)の最近の発言からは、中国の教育において当面はCOC的見解が重視される、とも考えられます。その意味で、一般層では少なくとも中期的には、COCの支持者が一定以上の割合で残ると予想されます。そのさい要注意なのは、COCが中国の一般層で広く受け入れられているからといって、中国は学術的理解において「まだ遅れている」などと判断してしまうことです。中国は一方で、科学当局はAOCを主流的見解と認めており、近年の古代DNA研究の充実からも、人類進化研究において世界の最先端にいる、と言っても大過ないでしょう。どの国でも、特定の学問分野の最先端の成果を国民が広く知っているとは限らず、ある国の一面を見て、「先進的」とか「後進的」とか安易に判断してはならず、中国のように規模の大きい国はとくに注意する必要がありそうです。
AOCを「西側」の枠組みで語ることは的外れですが、「西側」の価値観や世界観の押し付け(主観的には)に対する反発には尤もなところもあるとは思います。現代日本社会において、「国際」もしくは「世界」と言いつつ、実質的にはヨーロッパ(とくに西部と北部)と北アメリカ大陸のことだけで語るような言説は珍しくなく、おそらく中国にも日本ほどではなくともそうした人はいるでしょうから、この点も、「西側」が中国など他地域で警戒されて嫌悪される理由になっているように思います。今後、「西側」の世界における相対的な経済的地位はさらに低下していくでしょうから、現在は情報(文化)発信力では「西側」世界に劣っている非「西側」世界の、「西側」世界とは異なる価値観が大きな影響力を有するようになる可能性も考えられます。
以上、COCよりもAOCの方が学術的妥当性はずっと高い、という認識を前提に述べてきましたが、これと関連する問題については、最近まとめました(関連記事)。その記事で私が言いたかったのは、現生人類の起源に関して、多地域進化説は根本的に間違っている、ということです。中国におけるCOCとAOCとの論争に関連して言えば、現在の中国領もしくはアジア東部において、ホモ・エレクトスなど非現生人類ホモ属と現代人との間に遺伝的つながりが確認されていません。それだけではなく、アフリカ起源でアジア東部へと拡散して広範に分布していたと考えられる複数の初期現生人類集団も、現代人との間の遺伝的つながりが皆無かほとんどない、と明らかになってきました。逆に、アジア東部現代人の主要な祖先集団は、当時存在した遺伝的に多様な現生人類集団のうちごく一部で、アジア東部に広範に分布するようになったのは現生人類がアフリカからアジア東部に最初に拡散してからかなり後だったのではないか、というわけです。このように、非現生人類ホモ属がその生息地の現代人の(ごくわずかに遺伝的影響を残しているかもしれないとはいえ)祖先集団ではないことはもちろん、ある地域の初期現生人類がその地域の現代人の主要な祖先集団ではない、という報告例も増えつつあり、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における(相互の遺伝子流動を想定しつつも)人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と言うべきでしょう。
●注釈
注1
そうした中華人民共和国における政治的指針は、人類の起源に関する宗教的創造神話や迷信の影響を受けないヒトの主体性を確立し、フリードリヒ・エンゲルス(Frederick Engels)がその著書「類人猿からヒトへの移行において労働が果たした役割」で主張したことをさらに詳しく述べて、北京原人の利用により肉体労働を尊ぶ社会主義的倫理観の促進に役立ちました。
注2
ネアンデルタール人やクロマニヨン人など、あるいは中国で発見された原始人の生息地の他の有名な遺跡の命名が、発見されたその場の地名に由来するのとは異なり、1929年に周口店洞窟で化石の発見を監督して確証したカナダの解剖学者で自然人類学者のデヴィッドソン・ブラック(Davidson Black)が、遺跡が首都の北京から50km離れているにも関わらず、化石を一般には北京原人として知られているシナントロプス・ペキネンシス(Sinanthropus pekinensis)と命名しました。この名前を中国語に直訳すると、「北京人」です。もしこの化石が「周口店人」もしくは北京原人化石が発見されたその場に因んで「竜骨山人(Longguo Hill Man)」だったならば、おそらく中国の民族主義者にとってさほど魅力的に聞こえなかったでしょう。
注3
おもな政治的懸念には、国家財産および安全保障の新たな形としてのDNAデータの扱い方が含まれています。ポール・ラビナウ(Paul Rabinow)は1999年に、この点に関して劇的な事例を示しており、1994年にフランス政府は「フランス人のDNA」をHGP関連のアメリカ合衆国の生化学会社であるミレニアム社へ提供することを、フランスの科学者に禁止しました。中国では、西洋への遺伝子流出、さらには、とくに中国の国民を疲弊させるために発明された遺伝子兵器の疑いの可能性について、懸念され議論となりました。国営報道機関の表題は、「我が国の安全を守るため、遺伝暗号を保護せよ」、「中国の国民の遺伝子は安全なのか?我々のDNA標本は流出していないのか?」に重きを置きました。中国の遺伝学者は、外国人と共有しているのは唾液や血液の標本ではなく、単にこれらの標本から得られた選択されたデータの特定の分類である、と説明しました。しかし、この懸念は依然として続いており、大衆文化で脚色されています。戦狼』という表題の最近【2017年時点】の映画の話は、国際的な遺伝子兵器の開発者に雇われた元アメリカ合衆国海軍特殊部隊員が中国に潜入し、アメリカ合衆国に拠点を置く売国的な中国人遺伝学者により違法に収集された遺伝子標本を密かに持ち出すねというものです。この映画は、ハーヴァード大学に拠点を置く中華系アメリカ人生物学者である徐希平(Xiping Xu)による、慢性疾患研究のための、1990年代後半と2000年代前半の中国での遺伝子標本の収集について議論の政治的解釈として見ることができます。徐希平の計画はアメリカ国立衛生研究所から資金提供を受けており、ミレニアム社とも関係していました。中国の科学者と報道機関は後に、徐希平研究について倫理および法的理由で警戒するようになり、アメリカ合衆国政府が調査することになりました。
注4
ソ連の遺伝学批判は、スターリン(Joseph Stalin)体制下で公的に支持された偽科学理論であるルイセンコ主義に基づいており、ルイセンコ主義は生物進化において後天的特性のみを認め、遺伝的特性を否定しました。
注5
国際的に著名な科学者である談家楨は、1990年代に中国共産党指導者により中国民主同盟の名誉議長に選出されました。中国民主同盟は、中国共産党の教義相手として、とくに知識人で機能している最大の「民主的政党」です。談家楨はその影響力を用いて、その戦略的重要性を江沢民に直接的に訴えることで、HGPとの中国の提携を確保しました。
注6
1995年、日本の遺伝学者は日本人のミトコンドリアDNAの証拠を提供し、「出アフリカ」理論を裏づけました。
注7
研究所はいわゆるアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)により設立されたが北京協和医学院(Peking Union Medical College)と提携しており、とくに解剖学部門は、当時自然人類学の研究所の拠点でした。1929年~太平洋戦争開始までの間、ヨーロッパとアメリカ合衆国の科学者が研究所運営の責任を負い、ロックフェラー財団が遺跡の調査に資金を提供しました。
注8
2005年に呉新智に取材したシュマルザーによると、呉新智は金力をIVPPに招き(時期は不明)、意見を交換したものの、その後も【AOCに】納得いかないままでした。
注9
褚嘉佑は取材で、1998年の『PNAS』の報告につながった研究を始める前には、「アフリカではない独立した中国人の遺伝子」を見つける、という希望があったことを認めています。
注10
12万~8万年前頃に湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)に現生人類が存在したことを示唆する【2017年時点で】最新の化石証拠(47点の歯)が2015年10月に発表されましたが(関連記事)、この化石群と北京原人の年代のホモ・エレクトスとの間の関係は未解明です【この化石の年代については、その後で議論になっています】。
注11
この段落の内容は本論文著者の2015年の文献からの引用です。
注12
たとえば、「私は誇りに思います、私は中国人です」との主張です。「無数の青色と茶色の目の中で、私は黒くダイヤモンドのような目を持っています/私は誇り高く、私は中国人です/無数の白い肌と黒い肌の中で、私は黄色の大地のような肌をしています/私は誇り高く、私は中国人です/私の祖先はジャングルから最初に歩き出しました/私の祖先は最初に農業を始めました」。
この作詞者は公式作家協会から「人民詩人」の栄誉を受け、その歌詞は中国語と中国文学のいくつかの教科書に掲載されました。
もう一つの歌「黄色人種」はこう宣言します。「黄色人種よ、地上を歩んでください/新たな胸を張ってください/5000年の時を経て、ついに私が舞台に立つ番です/(以下はラップ調です)癒せない傷はありません/古代の力が私たちを永遠に支えます/土の中の黄色が頑固に東洋を運びます/世界のどこでもあなたは黄色い顔を見るでしょう/赤い血は13億人の人々の血管に流れています/あなたはそれが私の激しい怒りだと言います/私はそれがあなたの態度だと言います/恐れを知らず、前進します/私たち中国人だけです/上には黄色い天があります/あなたは私が真の人間になるのを見るでしょう」
参考文献:
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
●要約
1993年、アメリカ合衆国が率先した国際ヒトゲノム計画に呼応して、中国政府は国際的取り組みと連動して国家計画への資金提供を始めました。この科学的努力の結果、全現代人もしくは現生人類(Homo sapiens)のひじょうに最近の「アフリカ起源」に関する遺伝学者の結論が確証されました。この科学的発展は、「中国人」は70万年前頃の北京原人により代表されるホモ・エレクトス(Homo erectus)以来、独立したヒト集団として「中国」で暮らしてきた、という長きにわたる民族主義的信念と対立します。本論文は、人々の推定される先史時代の祖先に関する依然として浸透している政治的利用と、国民的論争を惹起した科学的難題により起きた論争の検証により、現代中国の民族主義における有力な人種的言説を確認し、それをより広い国際的文脈と結びつけます。
●前書き
2001年に本誌(The Journal of Asian Studies)は「北京原人と中国における民族主義的古人類学の政治」と題したバリー・ソートマン(Barry Sautman)の論文を刊行しました。同論文は、石器時代の考古学と人類学の複合的学術成果を「中国人らしさ」に適用した国家主導の言説の検証により、毛沢東後の中国における民族主義の隆盛に関する議論を広げようとしました。その民族主義的言説では、現代中国の首都である北京の南西約50kmに位置する周口店(Zhoukoudian)の山の洞窟に50万年以上前に居住しており、1929年に最初に発見されたホモ・エレクトス集団である北京原人が、その中国で発見された遺跡により中国人の直接的祖先としてみなされた、全ての旧石器時代人類集団を表している、と確認されました。【本論文が刊行された2017年時点で】最新の推定では、北京原人の年代は77万年前頃です(関連記事)。
北京原人はその発見時点で、ヒト進化研究の年表をネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から約50万年さかのぼらせ、ヒト進化研究の分野で中国に脚光を浴びせました。しかし今では、ヒト進化のこの中国版の重要性理解における重要な点は、世界の主流の古人類学者と中国の古人類学者との間の議論に関係しています。前者は、レベッカ・キャン(Rebecca Cann)やマーク・ストーンキング(Mark Stoneking)やアラン・ウィルソン(Allan Charles Wilson)により、1987年の有名な論文「ミトコンドリアDNAとヒトの進化」で最初に提案された理論(関連記事)を採用し、ホモ・エレクトスと現生人類の起源はアフリカにあり、現生人類は早ければ125000年前頃、遅くとも6万年前頃にはアフリカから移住し、世界規模で先住のホモ・エレクトス集団を置換した、現生人類の子孫である、と考えています【2013年10月の当ブログの記事でも述べましたが、こうした本論文のような認識にはやや問題があり、出アフリカ現生人類によるユーラシアの先住人類の完全置換説が主流になったのは1987年のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究以降と言えるかもしれませんが、現生人類アフリカ単一起源説自体は形質人類学の分野でそれ以前から提唱されていました】。一方後者は、現在の中国の地に到達したホモ・エレクトス集団が独立して現生人類へと進化した、と主張します。一般読者はこの議論の意味を単純に、中国人は世界の他地域と共通の現生人類起源を有しているのかどうか、そうでないとしたら次に、中国人の祖先はどれくらい「古い」のか、100万年前なのか200万年前なのか、という問題として解釈するかもしれません。
ソートマンは2001年の論文で人種的民族主義の明白な事例としての言説を提示し、それは、「我々個々がその帰属性を‘本質’が経時的に維持されてきた生物学と文化の控えめな共同体にたどれる、と考えている」というもので、一部の考古学および化石証拠の解釈により、その言説は世界の人々の根本的区分における信念に基づく「民俗分類と共鳴する中国の愛国心を支えています」。
シグリッド・シュマルザー(Sigrid Schmalzer)の2008年刊行の著書『人々の北京原人:20世紀中国の通俗科学』は、近代国家がいかに科学的教育を利用して公民権を形成したのか、という背景に対して、中華人民共和国のイデオロギー教化と政治的社会化における北京原人の役割の包括的研究です(注1)。「民族主義国家の指針は、中国の民族独自性を遠い過去に根づかせる科学的理論を優先するよう機能してきて」、それは「生物学的人種としての中国人の長命と、中国の地とこの人種のつながり」を強調した、というソートマンの指摘にシュマルザーは同意しました。1980年代にそうした傾向が加速し始めたことにも、シュマルザーは同意しました。しかし、そうした民族独自性が北京原人についての中国人の強調に果たした役割の程度について、シュマルザーはソートマンに同意しませんでした。第一に、シュマルザーの主張は、中国人の議論も(単に政治的ではなく)科学的論争であり、それは、「陪審員が依然としてヒト進化の多くの問題について結論を出していないから」であり、考古学者と古人類学者を含めて中国科学界は、中国人の祖先の「外来」もしくは「先住」起源に関する討論に対して一般的に公平である、というものでした。第二に、政治的動機でさえ、ヒトの起源における中国の中心的役割との主張は、「国際科学における名声の問題」で、民族的独自性よりも顕著でした。第三に、「生物学的人種の概念」の構築は、「科学者や一般人や国家自体により生み出された他の意味によって同時に不安定化されます」。最後に、多くの人々は、北京原人のようなヒト化石を「その国民もしくは人種の初期の代表としてだけではなく」、家族や共同体や地域や職業やヒトの帰属性ともみなしています。
したがって、ソートマンとシュマルザーは二人とも、北京原人に関して中国人の議論の背後にある民族主義的指針には同意しているものの、その議論がどれだけ政治的なのか、また人種的民族主義がそうした祖先の言説を特徴づけているのかどうか、という評価では異なっていました。ジェイムズ・ライボルド(James Leibold)の最近の研究は、より「政治的」で「人種的」な解釈を支持する評価を表しています。ライボルドは中国人の土着性の強い信念について断定されてきた現代中国における先史考古学の発展において、歴史的な中国の構築の軌跡をたどります。その言説のライボルドの統合では、独特な中国の人種概念は以前には、先史時代のヒト化石と分解物が高く評価されている民族主義的文脈の一部でした。ライボルドの論文によると、中華人民共和国初期までに、「北京原人は今や明確に、現生人類と黄色人種と中華民族(zhonghua minzu)の直接的な直径祖先として位置づけられました」。
ライボルド論文は、以前の文献では調べられていないか、それ以降の新たな発見による重要な発展に基づいて、現代中国の民族主義に対する北京原人の重要性についての議論を拡張します。第一に強調されるのは、ソートマンの2001年の論文やシュマルザーの2008年の本のように、1990年代以降、中国人の祖先の地位が仮定された北京原人は、おもに民族主義的言説における古人類学的解釈の代わりに、国家の認可した愛国的動因において象徴としてさらに評価されてきたことです。第二に、ライボルド論文はこの祖先崇拝に対する遺伝学の異議について中国の議論に焦点を当てていることです。以前の文献、とくにソートマンの2001年の論文は、そうした変化をより科学的な用語で説明しましたが、ライボルド論文は、議論誘発と中国の国家および科学界が取った行動の理解のため、1990年代後半と2000年代初期の国際ヒトゲノム計画(HGP)への中国の参加(現代中国研究では滅多に検証されない事実です)の歴史的文脈にこの異議を位置づけました。第三に、ソートマンの2001年の論文により政治的動機の仮説として批判されたものの、シュマルザーの2008年の本により正当な科学的仮説として認められた、中国起源の中国人(COC)の考古学的根拠を認めながら、それにも関わらず、詳細に人々の起源に関する二つの理論間の学術的議論を明らかにしています。遺伝学者が一般的にアフリカ起源の中国人(AOC)を信じている一方で、人類学者はCOC理論を擁護します。換言すると、この問題は科学的ではある(じっさい、COC理論を裏づける考古学的証拠があります)ものの、多くの場合その対処法は政治的と解されます。第四に、ライボルド論文はAOCとCOCの一般支持者がともに、そうした専門的議論に没頭する民族主義的意味合いを充分に理解し、さまざまな媒体経路を通じて互いに公開討論を行ってきた、と示します。この新たな減少は、極端な民族主義者と自由主義的志向層との間の、より広い民族主義的イデオロギー文壇に照らして分析されます。シュマルザーが2008年の著書で強調したように、北京原人に対する中国社会のより多様な意見は、今や民族主義的刺激への国際主義的解毒剤を含んでいます。
したがって本論文は、民族の祖先としての北京原人の、遺伝学からの異議により活性化され、持続した崇拝と、その意義の中国の議論は、両者とも学術的かつ通俗的で、その主題のより政治的で特に人種的である意味を明らかにしてきた、と主張します。社会が科学的にAOC理論を受け入れているという事実は、COC理論が依然として民族主義的指針に役立っている、という事実を覆い隠せません。逆に、両理論の共存は、中国の民族主義的政治内で緊張を高めるだけです。たとえば、本質化された共有の特徴を子孫に残した、さまざまな想像された祖先を構築した、ホモ・ユーロパエウス(Homo europaeus)やホモ・アルピヌス(Homo alpinus)やホモ・イスラエレンシス(Homo israelensis)といった同様の言説の国際的研究に触発され、本論文は中国の言説を「ホモ・シネンシス(Homo sinensis)」と命名しますが、それがはるか先史時代であり、したがって生物学的起源があることを強調します。本論文は、中国本土との不可解な関連において明白な人種分類で「中国人らしさ」を強調する、1980年代以降に中国で台頭する民族主義においても、この主題を文脈化します。「ホモ・シネンシス」という言説は、明白に世界最古との主張で世界の諸文明【以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】における中国文明を高め、共通の血統の確立によって民族主義的動員のために最も強い「結束力」との情報を与えることにより、この民族主義を前進させます。「我々」と「彼ら」との間のそうした究極の区別は、「中国の特徴」の公的イデオロギーを支持しており、中国の台頭は、百万年の豊かな生体エネルギーの作用として解釈されます。それは、「頑強な生命力と非凡な想像力(Wan qiang de sheng ming li he fei fan de chuang zao li)」と呼ばれます。
●「聖火」から「ありがとうございます、ご先祖様」へ
祖先崇敬と家系の強調で知られる文化において、現代中国における北京原人の名声はより政治的になり、まず1997年に中国共産党中央委員会宣伝部(DPCCP)による「愛国教育のための全国百拠点」の一覧に周口店が含まれたことにより特徴づけられました。1997年には、1世紀半ばにわたるイギリスの統治を経て香港が中国に返還された、愛国主義的修辞が急増しました。それ以前には、周口店は1962年に中国の国務院により設立された「国家歴史保存遺跡」でした。しかし、1990年代半ば以降、北京原人は博物館と歴史の教科書から離れ、愛国的動員の役割を引き受けました。
現在、中国の民族主義における北京原人の身体的存在は、北京中心部の西長安街の中華世紀壇(Zhonghua shijitan)で垣間見ることができます。この記念碑は、2000年1月以降、「中国の世紀」の始まりと「中華民族の偉大な復興」の証として立っています。この記念碑群には沈んだ広場があり、その中心では「聖火の祭壇」と呼ばれる火が燃えています。この炎は世紀末最後の日に周口店の洞窟で穴居人の衣装を着た役者による木の錐揉みで得られ、中国で多くのメダルを獲得した体操選手である李寧(Li Ning)に受け継がれ、その後、50km以上のリレーを通して運ばれました。数時間後、新世紀の前夜に、中国共産党と国家の指導者だった江沢民(Jiang Zemin)は、炎を裁断に運び、北京原人の象徴性の永続的兆候を確立した、国家儀式を完了しました。
実のところ、周口店洞窟から木の錐揉みで取られた火が「聖火」を熾し、1990年代以降、中国民族主義の研究のためその重要性を示唆するCOC支持の年長人類学者が関与して、公的行事が始められました。1993年には、第7回全国オリンピックの点火棒が、1936年に北京原人の頭蓋骨3点を発見した伝説的人類学者である賈蘭坡(Jia Lanpo、1908~2001年)により灯されました。「文明の炎」と命名された点火棒は、大規模な集会が待っていた天安門広場に中継されました。2005年7月、2008年の北京夏季オリンピックのために設計された北京の文化広場の開設を祝うため、またも年長の人類学者である劉東生(Liu Dongsheng、1917~2008年)が、同じ方法で点火棒に火を灯し、著名な文化人と運動選手により運ばれた中継が始まりました(図1)。北京の文化広場に到着すると、国家文化財局長と北京の副市長が点火棒を引き継ぎ、「聖火の祭壇に」点火し、「ヒト文明の火を再開しました」。2008年8月8日、この遺跡は再び北京地区のオリンピック聖火中継経路の開始地点に選ばれました(図2)。以下は本論文の図1です。
化石の発見以来、中国の人類学者は灰のような遺物を北京原人の火の利用能力の証拠として解釈してきました。北京原人の火の使用それは、世界の原始人類において最初だった、と考えられました。公式の物語は次のようにその重要性を詳述します(中国中央電視台の2000年の番組)。「火を熾して利用することは自然を制御する人類史において輝かしい最初の試みでした。(中略)中華民族は生存のための不屈の闘争と拡散の追求を決して諦めず、希望への火は決して消えることはありませんでした。(中略)この精神は、新世紀と新たな千年紀の中国を拳、中華民族の偉大な復興を確かなものとするでしょう」。歴史観光事業は2011年に、「周口店の火が世界を照らした、と言っても過言ではありません」と宣言しました。この証拠の中国の解釈と国際的な考古学者の意見の違いは、報道機関の報告が示唆するように、「西洋」から「中国」への挑戦として認識されることが多くなっています。「勤勉」や「明るい」や「勇敢」など中国人の肯定的特徴を説明する形容詞は、その「祖先」の描写にも使われます。祖先は、生徒の父系の想像力を無限の過去へと引き伸ばす説教的な教育手法を通じて、ある歴史教師がその同僚と共有しているように認識されます。「あなたは彼らに尋ねます。君は何歳ですか?君の父親は何歳ですか?君の祖父は何歳ですか?など。生徒がこれらの質問に答えると、あなたは生徒が100年、1000年、1万年、40万年、50万年、100万年前と計算し、我が祖国の長い歴史の基礎概念を確立するよう、手伝います」。以下は本論文の図2です。
大衆文化は、年代学や歴史的遺物のさまざまな事実をより深く掘り下げ、『北京原人の原始愛』と題したドラマに反映されている、中国人と中国文明の想定上の長寿を祖先の美徳に帰します。「音楽と舞踊と雄大なドラマ」は、通常は政治的意義のある番組に割り当てられる分類の劇で、一文字の名前でその祖先の地位を示唆する主人公である「根(Gen)」に敬意を表します。北京原人集団の家長である「根」の勇気と抜け目のなさは、小さな親族の生存にとって重要ですが、女性をめぐる競争における「根」の特権は、若い穴居人の間で不満を引き起こしています。「根」は年を取るにつれて、もはや血統を引き継ぐ健康な子供を儲けられない、と認識するので、その若い競合者に自分の女性を共有うるよう、許可します。大詰めを迎えて、過酷な冬により起きた絶望的な食料不足の中で、「根」は自身を大篝火に投じて、他者に自身の焼けた肉を食べさせます。「ありがとうございます、ご先祖様」、このドラマのポスターは、集団生存のための利他主義の美徳が、人種の始まり以来「中国人らしさ」の一部だった、と強調します。以下は本論文の図3です。
このドラマは大衆文化とCOCを結合させました。周口店博物館と、北京1998国際青年芸術劇団(Beijing 1998 Guoji Qingnian Yishu Jutuan)と呼ばれる前衛芸術家集団との間の協同であるこのドラマは、博物館の観光事業促進のために制作されました。興行収入最大化のため、このドラマのポスターは、原始的で乱交の穴居人の生活の文脈では正当な暴力的で性的に明示的な場への示唆により、若い成人と子供に不適切な内容について視聴者に警告しました。しかし、このドラマの終わりまでに、犠牲の炎の中で、全ての官能的な脚本と期待は、祖先の英雄の利他主義への賛辞に昇華されました。したがって、北京原人により灯された火は、中国民族主義の包括的主題(民族の生存への懸念と犠牲的愛国心への呼びかけ)を反映しているだけではなく、遺伝学者との論争における人類学者による議論を脚色しています。火熾しの技術により、北京原人の子孫は氷期を生き延びられた可能性が高い一方で、他地域の同時代人は絶滅した、というわけです。
逆説的ですが、1960年代以降、たとえば雲南省楚雄イ族自治州で発見された170万年前頃となる元謀(Yuanmou)人や、陝西省の藍田県(Lantian County)で発見された150万年前頃のホモ属化石など、北京原人よりずっと前のホモ・エレクトス化石の化石がかなり発見されてきました。近年発見された、湖北省の恩施トゥチャ族ミャオ族自治州(Enshi Tu and Miao ethnic autonomous prefecture)の建始(Jianshi)県で発見された人類遺骸は、200万年以上前と考えられています。しかし、北京原人と周口店は依然として「最初の中国人」と「最初の中国文明」を表しています。北京原人の名前は中国の考古学と人類学の知見において歴史的および制度的により確立しており、地理的に遠く文化的に周辺の候補からの異議を阻止できる独自の価値も示唆しています。科学的事実は、民族主義的記念碑の象徴的な統一的役割へのイデオロギー的選好に屈します(注2)。
●AOCもしくはCOC?遺伝学者と人類学者との間の論争
北京原人の最近の名声は、中国の民族主義が以前から北京原人に割り当てていたものを繰り返しています。しかしそれは、ヒトゲノム計画(HGP)への中国の参加という文脈で最先端の科学的異議を無視しての興隆であり、世間の反響とともに遺伝学者と人類学者との間の議論が高まりました。HGPは1990年にアメリカ合衆国の科学者により開始され、他の先進4ヶ国の科学者が参加しました。ヒトゲノムの全ての遺伝子を解読してマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)することにより、この冷戦後の世界規模の協同はヒトの遺伝的区別と多様性の決定と保存に巨大な影響を及ぼしました。したがって、その結果は「歴史書、つまり現生人類の経時的な旅物語」としても読むことができました。この「歴史書」は、全現代人の祖先として現生人類の単一のアフリカ起源で始まり、世界の全ての人々の人種と民族の区別の遺伝学的解釈(他の要因の中でも、移住と交雑)を提供し付告げます。
HGPが生み出した明らかな科学的利益にも関わらず、その計画内の国家の遺伝的データは、参加国に懸念を引き起こしました(注3)。利益と危険性の比較検討により、中国政府は1993年にHGPへの参加を決定し、5年間の準備期間を経て1998年に正式に参加し、この計画における唯一の発展途上国となりました。中国の国務院の傘下にある国家自然科学基金委員会(NNSFC)は、「中国におけるヒトゲノムの研究」に資金を提供し、遺伝学研究所の遺伝子工学国家重点実験室の「南部総合施設」、上海の復旦大学の生命科学学院、北京の中国科学院のヒトゲノム総合施設の「北部総合施設」を設立しました。この国家による科学的取り組みは、「中国人のゲノムにおける遺伝子座の一部構造に関する研究」と題した計画で始まり、それは世界的なゲノム地図に貢献しました。中国のHGPへの参加は、中国の国益促進の戦略的展開とみなされてきており、それは、HGPの北京計画の責任者の会見記事の表題「遺伝的資源をめぐる戦いは領土をめぐる戦いと同じくらい重要です」で明確に示唆されています。
これら中国人参加者を北京原人の祖先性への疑問提起に導いたのは、アメリカ合衆国の研究機関とさまざまな形で提携している中国人学者団により行なわれた研究活動でした。この提携の鍵となったのは、中国の遺伝学の創始者であり、1930年代に現代遺伝学の父であるモーガン(Thomas Hunt Morgan)とともにカリフォルニア工科大学で研究した、談家楨(Tan Jiazhen、1909~2008年)でした。談家楨は1950年代に中国に戻り、とくにモーガンを対象とした、西側ブルジョワ科学とのソ連の遺伝学批判に抵抗し、中国における科学の存続に努めました。談家楨は1990年代に中国指導者との人脈を使って(注5)中国政府にHGPへの参加を促し、その拠点研究機関である復旦大学を中国のゲノム研究の「南部総合施設」として指定することに成功し、中国の若い遺伝学者を国際的な科学界に結びつけるのに貢献しました。これら若い遺伝学者のうち最重要人物には、アメリカ合衆国で学び、1990年代後半にヒューストンのテキサス大学ヒト遺伝学センター(HGUT)の研究者だった金力(Jin Li)、中国医学科学院の医学生物学研究所出身で、1990年代にアメリカ合衆国の客員研究員でもあった褚嘉佑(Chu Jiayou)、1990年代後半にHGUTの博士研究員だった宿兵(Su Bin)が含まれます。彼らはその国際的つながりにより、「出アフリカ」理論とHGPとの間の関係により深く気づき、「出アフリカ」理論を裏づけるデータが中国を網羅していないことも知っていました(注6)。この国際的主流科学と民族主義的信念との間の矛盾に興味を抱いたこれら中国の若手遺伝学者は、中国の参加を両説への検証とみなしました。
これら中国人遺伝学者が中国で収集したデータは、「出アフリカ」理論を完全に裏づけました。これら中国人遺伝学者は1998年から、『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』や『米国ヒト遺伝学誌(The American Journal of Human Genetics)』や『ヒト遺伝学(Human Genetics)』や『サイエンス』など国際的な科学定期刊行物での論文掲載を開始しました。最初の報告「中国における人口集団の遺伝学的関係」は、中国の28人口集団(ほぼ非漢人の少数民族)のマイクロサテライト(DNA上で塩基の配列中に同じ構造を持つ部分が2~5対繰り返し並んでいる反復配列で、親族関係や遺伝的関係の決定に用いられます)のデータを分析しました。その報告は、「遺伝学的証拠は中国における現生人類の独立起源を裏づけません」と結論づけました。より重要な報告は、『サイエンス』で2001年5月に刊行されました。「アジア東部における現代人のアフリカ起源:12000人のY染色体の話」と題したその論文(関連記事)は、研究計画がより正確なデータ指標として染色体を用いて、漢人(北部が4592人、南部が5127人の標本)とアジア東部の他の民族集団を含めて、標本調査を拡大した、と報告しました。「89000~35000年前頃のアフリカに起源がある」ものの、12000人の標本全てでは見つからない、男性だけが保有するゲノム変異の特定により、この報告は現代人がアジア東部起源である最小限の可能性さえ却下しました。
この最初の報告はもともと『サイエンス』に提出されましたが、編集者はその主題の重要性を懸念して、待つことにしました。その後、談家楨は報告の著書に『PNAS』に提出するよう提案しました。それはすぐに刊行され、『ネイチャー』が直ちに長い解説を掲載しました。国際的科学界が世界で最多人口の国において収集されたデータで「出アフリカ」理論を確証したのは初めてでした。「アジア東部における現代人のアフリカ起源:12000人のY染色体の話」と題した論文は『サイエンス』にその3年後に送られ、すぐに受理されました。この研究はおもに、NNSFC計画で組織されたか、恩恵を受けている中国人科学者により行なわれましたが、その結果は国際的雑誌で発表され、次に報道機関を通じて逆に中国へと広められました。そうした現象は中国において「輸出経由の輸入」と呼ばれることが多く、国際的認知が国内の地位に役立つことを意味します。1998年の『PNAS』の報告が中国人科学者に北京原人の祖先性への異議を気づかせた後に、2001年の『サイエンス』報告は中国でより多くの宣伝を得ました。NNSFCの公報は、中国で見つかった化石および解剖学的証拠は依然としてCOCの可能性を示唆していた、と評しつつ、「我々の祖先はアフリカ由来だった、との見解を受け入れねばならない可能性がひじょうに高い」と指摘しました。
『ヒトの旅:遺伝学的な長い冒険』の迅速な翻訳と刊行は、英語版の刊行からわずか2年後の2004年のことで、より人気のある形態でこの異議に加わりました。スペンサー・ウェルズ(Spencer Wells)による同名の本と記録映画は、「出アフリカ」仮説の最も一般的な解釈の一つとして認識されてきました。同書は、中国での議論が始まったばかりなので、中国にはほとんど言及していませんが、「多地域連続進化説」を信じている人々にとって「悪い報道」として、折よく金力の研究を引用しています。中国の出版社がほぼ全てページにわたって写真と地図を掲載していることは、より幅広い読者への強い期待を示唆しており、その序文には、「中国の読者にとって熟考すべきことが多いに違いない」と述べられています。その理由は、「中国人は在来の‘北京原人’とその他のホモ・エレクトス集団の途切れることのない発展から進化した」との理論に反しており、「著者はそうした仮説の証拠がないことを明らかにする」と述べられているからです。
中国におけるこれらの刊行物と一致するさらなるデータ収集および分析では、その【2017年時点で】最新のものは2014年に雲南省昆明動物学研究所(IZKYP)により発表され、6000個体以上の標本が含まれており、AOCは中国社会、とくに自然科学界で広く親しまれています。社会科学と人文科学の分野も影響を感じており、民族主義者とその民族主義的意味の影響を受けています。そうした分野の一つが言語学です。多くの母語の音素の起源はアフリカにたどれる、とするクエンティン・アトキンソン(Quentin Atkinson)の仮説は、「出アフリカ」理論により触発された進化言語学派で、中国語の起源探求において中国人言語学者の間で繰り返されます。分子人類学がより一般的になるにつれて、民族研究において民族誌はより目立っていき、文献と物質文化の分析から集団遺伝学的調査の実験結果に注意が逸らされ、多くの少数民族の人々の起源と移住、漢人および漢人が支配的な国家との関係の再解釈につながりました。興味深い結果の一つは、漢人拡大は非漢人のより文明的な漢人文化の採用の結果である、とする伝統的な「文化拡散モデル」とは対照的な、中国南部の漢人拡大の「人口拡散モデル」で、これは中国南部漢人集団における漢人男性と非漢人女性のDNA混合の優勢なパターンを示します。この結果も、まず『ネイチャー』で刊行されました。その解釈によると、これは長期にわたる内部の性別(ジェンダー)に基づく植民化の興味をそそる概念を示唆しているかもしれません。
分子人類学は、2002~2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)発生という特定の状況内で、中国本土と台湾との間の愛国主義の対立の火に新たな燃料を追加しました。台湾の血液学者は、アジア東部および南東部のさまざまな人口集団間のウイルスの影響を分析しようとする試みにより、台湾先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は両方、本土中国人よりもオーストロネシア人の方にずっと近いことに気づきました。台湾の指導的血液学者が「我々はさまざまな血液有している」と主張し、したがってその本の表題は、台湾人のよれ多様な起源を主張し、中国側の「同じ血、同じ祖先」との言説に、台湾に対する民族主義的主張において異議を唱えました。
しかし、COCへの遺伝学者の異議は、COCにとっての制度的代弁者である、中国科学院古脊椎動物古人類研究所(IVPP)の人類学者からの迅速な抵抗に遭遇しました。IVPPの前身は、北京原人化石が発見された1929年に設立された、中国農商務省の中国地質調査研究所の新生代研究部局(RDCE)でした。この研究所の歴史は本質的に、中国とヨーロッパとアメリカ合衆国の協同の結果で(注7)、中国人の人類学者と考古学者の第一世代が学んだだけではなく、COCの論の基礎も築きました。ヒト進化の他地域仮説で知られているシカゴ大学の人類学者であるフランツ・ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich、1873~1948年)は、1930年代半ばにはRDCEの名誉局長で、その経験はヴァイデンライヒの理論形成に役割を果たました。1929年に最初の北京原人の頭蓋骨を発見した裴文中(Pei Wenzhong、1904~1982年)や、周口店発掘の調整者だった楊鐘健(Yang Zhongjian、1897~1979年)など、ほとんどのCOC支持者は西洋の人類学者から現場で学び、その後、IVPPにおいて長老となりました。そうしたCOC支持の学者は全員、すべて要請により周口店に埋葬されさえしました。公式の歴史物語は、国家の歴史の構築に貢献した人類学者と考古学者が愛国的英雄になるよう、そうした専門家の履歴を愛国的献身として称揚しました。現在、呉新智(Wu Xinzhi)や黄万波(Huang Wanbo)や高星(Gao Xing)といったIVPPの研究者は、熱心なCOCの擁護者です。
AOCを裏づける遺伝学的データとは対照的に中国の人類学者は、中国で見つかったホモ・エレクトスと現生人類との間の形態学と解剖学と文化遺物の間の類似性の形で、一見すると進化的連続性と考えられる豊富な証拠を示してきました。形態学および解剖学的証拠には、平坦な顔ではあるものの突出した頬骨、シャベル状切歯、低い鼻骨、長方形の眼窩などの身体的特徴が含まれます。文化遺物の証拠から、中国では打撃により形成された石英砂岩の石器が170万年前頃から3万年前頃まで優占しているように見えるものの、アフリカと中東(ホモ・エレクトスと現生人類の「出アフリカ」の旅の回廊)では、石器製作技術は進歩し、黒曜石の握斧が一般的に見つかる、と示されます。そのため、COCの主張は、AOCが正しい場合は次に、そうしたアフリカ起源の現生人類がその技術を中国にもたらさなかったのか、という問題提起につながります。より一般的に、COC支持者にとって、ホモ・エレクトスと現生人類両方の何千もの遺跡の全国規模の分布は、単一の外来種による完全な置換のシナリオを信じがたいものにします。
人類学者は2000年夏に、遺伝学者の研究について最初の報道機関の報告でAOCに応答し、取材を受けましたが、とくに呉新智がおもな対象でした。AOCの主要な反対者である呉新智はアメリカ合衆国のミルフォード・ウォルポフ(Milford H. Wolpoff)およびオーストラリアのアラン・ソーン(Alan Thorne、1939~2012年)とともに、アジア東部の化石データを用いて、現生人類の多地域進化モデルを提案しました。呉新智はそれ以来、「世界の主要な4人種は全てそれぞれの地のより古代型のヒト種つながっており、全て先住民として生まれた」と主張し続けています。呉新智は新聞に、化石は最も直接的な証拠ですが、DNAは間接的で断片的です、と語りました(注8)。呉新智が述べるように、「過去50年間、中国の人類学者は多くの古人類学的化石と千ヶ所以上の旧石器時代文化遺物の遺跡を見つけてきました」。(COC支持の学者が示すのは)北京原人により代表されるホモ・エレクトスと現代の中国人との間に断絶はなく、(進化は)「少量の交雑を伴う河川網のような拡大」でした。
3ヶ月後、「北京原人は依然として我々の祖先ですか?」と題した記事で、呉新智はアフリカ起源の現生人類と中国で進化した現生人類との間の偶発的な交雑の可能性を繰り返し指摘しました。この記事は、ヨーロッパでより一般的なように見える丸い形態の眼窩や突出した後頭骨など、中国で見つかる一部の現生人類の解剖学的現代人特徴に言及しています。遺伝学とのこの修正論的一致は、まだ決定的な証拠を見つけていないものの、遺伝学者は最近、ネアンデルタール人において類似のシナリオを示唆しています(関連記事)。共通起源としてのアフリカとのホモ・エレクトスおよび現生人類両方の系統樹概念とは対照的に、呉新智は前者(ホモ・エレクトスのアフリカ起源)を受け入れたものの、後者(現生人類)世界規模の進化について自身の「少量の交雑を伴う河川網(起源の複数供給源を意味します)」を主張しました。アフリカ単一起源と置換ではなく、偶発的な混合を伴う多地域進化理論である、現生人類についての呉新智のモデルは、COCの理論的枠組みでした。
人類学者の擁護論に応えて、遺伝学者はおもに、AOCの議論の余地ない証拠で、自身の分野の根拠を示してきました。遺伝学者は、観察者の先入観に左右されるかもしれない一部の顔面と頭蓋骨の類似性の一致による、2つのヒト集団間の関連性判断の難しさにも注意を喚起しています。より重要なのは、遺伝学者が中国で発見された仮定される進化的連続性における考古学的証拠の破損を指摘していることです。この破損は、10万~4万年前頃の化石と文化遺物の欠如で、この重要な期間に(初期)現生人類は完全な現生人類へと進化しました。金力などが説明してきたように、この破損は偶然ではなく、世界規模で多くの種の絶滅を引き起こした第四紀氷河により作られました。その時代の後に、新たな現生人類がアフリカから移動して全世界に拡大しました。これに対して人類学者は、氷期のアジア東部の一部地域の気候は比較的穏やかで、原始人は火を熾せたので、寒さを生き残ることができたかもしれない、と主張しました。したがって、周口店洞窟で熾された火は、再度中国人の祖先を他地域の同類と区別することになり、この技術的妥当性はドラマ『北京原人の原始愛』で説明されました。【中国人の祖先をめぐる】議論が始まって以来、人類学者の主要な課題は、氷期を通じて北京原人の子孫の生存を証明するだろう、まだ見つかっていない間隙(missing link)を見つけることです。
【中国人の祖先をめぐる】議論が公開されると、中国の報道機関の態度はこの科学的分裂を反映していましたが、その民族主義的意味を誇張して大々的に取り上げることが多くありました。しかし、より中立的で態度未定の立場か、COCに同情的ではあるものの、「より注意深い不可知論」の立場も一般的でした。中国中央電視台(CCTV)の関与は、そうした明らかな民族主義的感情の立場を示しました。AOCに関する国際的な一般報道機関の発表に対応して、CCTVは2011年に、「中国人はどこから来たのか?」と題した5回の番組から構成される、中国版物語を提示しました。この番組は、AOCが現在の主流科学だと認めながら、COCを正当的仮説として提示しました。その討論を語った回の表題は「遠い楽園」でした。その番組の主張は、半ば冗談ではあるものの、国際的な遺伝学者がmtDNA(母系)を用いてヒト進化を他の場所で追跡し、「イヴ理論」として知られているものの、中国の遺伝学者はY染色体(父系)を用いており、中国は依然として、「アダム」が進化の合体を完成させると特定された「遠い楽園」であることを誇れるはずだ、というものでした。
●政治的裁量を伴う学術的論争
この中国の論争は、未解決問題の多くの分野、とくに歴史と出自に関連する問題へのDNA研究の影響に関する国際的議論の一部を構成します。COCとAOCとの間の分裂は、上述の1987年のmtDNA研究以来、人類学者の少数派と多数派との間の国際的な論争を反映しています。少数派【COC支持】は現生人類の多地域起源を主張し、ヴァイデンライヒにより開拓され、今ではウォルポフとレイチェル・カスパリ(Rachel Caspari)に代表されます。これらの人類学者は議論の政治的意味について充分に認識しており、それは、1987年のmtDNA研究の発見が白人の人種主義(人種差別、racism)にとって科学的に決定的な打撃とみなされ、この問題を「大衆的学問分野」と呼び、非専門家のこの議論に対する熱意について言及しているからです。これら少数派の人類学者は、自らの学術的地位が、過去に人種主義に信頼性を与えた起源からのヒトの人種の並行進化の時代遅れの理論多元発生説と大衆に誤解されていることが多い、と感じています。その観点から、少数派の人類学者は、現代人が「肌の下は皆兄弟」であることを否定しているとみなされるものの、その競合相手【AOC支持の多数派の人類学者】は普遍的人間性の政治的に正しいイデオロギーという「道徳的高みに」に現れるので、無批判な大衆、とくに報道機関により、多大な人気を得ています。科学的仮説は、人気のある社会的議題を利用します。
この国際的人類学派【COC支持の少数派】は、80年ほど前のヴァイデンライヒの理論的基礎研究、および西洋の人類学者と中国の同僚との間で発展した協同で、本質的に「中国に縛られて」きました。毛沢東政権下の長い中断の後、両者の関係はウォルポフとソーンが1980年代初期にIVPPを訪れ、そこで呉新智と会ったことで、すぐに再開しました。彼ら【COC支持の少数派の人類学者】は、過去数十年間の中国のホモ・エレクトスと現生人類両方のひじょうに堅牢な証拠の発見を、多地域論の進化の概念にとって重要な証拠として取り上げました。1983年に、ウォルポフは呉新智を、ウォルポフの所属機関であるミシガン大学を拠点とする、アメリカ国立科学財団の特別研究員に招待しました。これらの交流は、多地域的議論を再活性化する1984年の共著論文につながりました。しかし、1987年のmtDNA研究以来、その【COC支持の少数派の人類学者の】協同は遺伝学的異議に対する同盟でした。そうした協同の【2017年時点で】最新の証拠は、英語と中国語両方で刊行されたウォルポフとカスパリの2013年の論文です。
中国の論争では、国際的討論における「人種」の代わりに「祖先」が重要な言葉です。中国における「人種」の政治手的意味合いは、「我々」が世界の他の人々とどれだけ異なっているのか、ということであり、遺伝学的事実と民族主義的感情との間に緊張を生み出しています。しかし、「祖先」は機能的に中国の「人種」に相当します。中国の遺伝学者と人類学者は、中国の民族主義への自身の研究の政治的意味合いを認識していますが、そうした解釈への明示的訴えを控えています。遺伝的に普遍的な現代人の起源も、人類学的な「中国人」の血統も、道徳的高みを占めること、もしくは政治的正しさを主張することに公然と利用されていません。この議論は政治化されていません。しかし、両陣営の言説をよく読むと、多くの科学用語と研究統計の下に隠された緊張における繊細な思慮分別が明らかになります。
一般的に、遺伝学者は政治的敏感さを巧みに回避する傾向があり、その発見の解釈を読者に公開したままにします。中国の遺伝学者により執筆された、2000年頃に国際誌に掲載されたほとんどの論文もしくは研究報告の責任著者で、今では復旦大学の指導的科学者である金力は、一般向けの科学記事や報道機関の取材や公開講演を通じてAOCの代弁者になり、外国人の同僚からもそのように認識されてきました。イギリスの人類学者で、BBCの4回の記録映画『途方もないヒトの旅』(関連記事)の執筆と視界を務めたアリス・ロバーツ(Alice Roberts)は、金力をその研究室に訪ねて取材しました。『途方もないヒトの旅』は、「出アフリカ」の主張を広めた『ヒトの旅』の後、2009年に企画された別の大衆科学計画で、そこでは中国がよく描写されています。ロバーツは「出アフリカ」の立場で、記録映画のための北京での別の訪問取材において呉新智と意見を異にしました。ロバーツはIVPPで自分を出迎え、北京原人の頭蓋骨化石を見せてくれた呉新智の親切に感謝しました。しかし、北京原人の頭蓋骨と現代人との「類似」の形態学的特徴との呉新智の解釈に関して、ロバーツは納得しないだけではなく、そうした【COCの根拠となる人類遺骸の】類似性は自分にとって「微妙」に見える、と呉新智に語りました。ロバーツは、上海の金力の研究室で味方を見つけました。金力の意見は、中国の民族主義に対する研究の意味合いを認識している、と示しており、金力は中国人と他の現代人との共通起源について喜んでいるようでした【以下の段落はロバーツに対する金力の返答】。
(2001年の『サイエンス』報告につながる)計画が始まる前、私【金力】は、中国における中国人の独立起源を裏づける証拠を、特定できるか見つけられるよう、願っていしました。それは、私【金力】が中国人であり、中国出身で、教育課程を通じて常に、中国人について何か特別なものがあった、と信じていたからでした。(「あなたは中国人としてどのように感じましたか?」とのロバーツの質問に金力は答えて)自分の研究室で生成された証拠を見た後、私【金力】は我々全員がその証拠で満足すべきだと考えています。それは、結局のところ、世界のさまざまな地域の現代人は相互にそれほど違いはなく、我々は全員ひじょうに近い親族だからです。【引用ここまで】
しかし、中国の報道機関に対して、金力【の発言】はより中立的に聞こえます。CCTVの番組「中国人はどこから来ましたか?」の訪問取材を受けた時、金力は中国人の起源について「出アフリカ」理論の妥当性についてその最初の疑念を強調し、中国で収集されたデータである種の「さまざまな結果」への希望を強調するだけです(注9)。金力は他の公開講演で、「我々はどこから来たのか」との質問に対する金力の研究団の発見の妥当性についての確固たる地位にも関わらず、北京原人が寄与している中国人の独自性について言及することは稀です。金力は国民と国家に対して、北京原人の一般的崇拝を再考するように、決して求めず、「民族主義」や「愛国心」や「歴史教育」といった単語さえ避けてきました。
COCについての歴史教師の留保は、我々に自己検閲の感覚を与えるかもしれません。北京の模範的な歴史教師である李曉鳳(Li Xiaofeng)よる珍しい大胆な表題「歴史教育は愛国教育に役立つべきだが、それは事実に沿ってすべきです」という2012年の取材で、李曉鳳は北京原人の事例から始めます。李曉鳳は、盲目的に教科書を信じるのではなく、自分で考えるよう、生徒を励まします。「あなたが生徒に‘北京原人は我々の祖先ですか?’と尋ねるならば、生徒は(教科書にそう書いてあるので)混乱するでしょう。誰かが生徒に北京原人は我々の祖先ではない、と言ったらどうなるでしょうか?」と李曉鳳は述べ、次にAOCとCOCとの間の論争を紹介します。しかし李曉鳳は、歴史教育と愛国心に関して詳細な説明を避けます。
人類学者についてソートマンは2001年の論文で、人類学者の研究は、「現在の中国に暮らしていた人類は中国人だと示唆し、科学は古代中国人の血統を示すことにより民族主義を強化すべきと強調している、」と主張しています。中国の人類学者の主張の背後に民族主義の課題を認めながら、シュマルザーは2008年の著者で、それにも関わらず、そうした議論は「人類学者の分野の主要なデータセット(つまり化石)を擁護することである」と主張し、「中国の化石についての西側の無視」がそうした議論の民族主義の汚点に寄与している、と考えています。どちらも正しいものの、【2017年時点で】近年の人類学者の言説は、石器時代の中国の独自性をより強く示唆しており、それは防御的というより独断的です。民族主義もしくは愛国心への直接的言及なしに、ホモ・エレクトスと現生人類の時代を両方含む地質時代全体で見つかった、と主張される一連の独特な特性の物語を通じて、民族主義もしくは愛国心自体を明らかにして、伝える傾向があります。人類学者である高星の2010年のIVPP年次研究報告によると、
【引用開始】中国とアジア東部の古代人は旧石器時代全体と初期新石器時代を通じて行動と技術において連続性と安定性を維持しており、技術革新よりも継承の特徴を伴う独特で漸進的な進化パターンを発展させ、そこでは置換や中断はありませんでした。80万年前頃、中国の南部と中央部では、同時代の西洋の「アシューリアン(Acheulian)技術」様式と類似した握斧や他の道具が出現し、3万年前頃には、中国北部で後期ヨーロッパ旧石器時代文化の特徴を有する「石刃技術」が出現しましたが、それらの石器は短命の花のようにひじょうに孤立して一時的存在で、在来の主流文化に顕著な影響を残せませんでした。そうした証拠に基づく学者の提案は、以下のようなものです。中国とさらにはアジア東部における更新世古代人の主要集団は、混乱を経ずに繁栄し続け、その文化と強力な生命力を有し、連続した進化的関係を提示した、というものです。「非在来文化」をもたらした少数の偶発的な外国集団が存在しましたが、すぐに主流文化の優越の痕跡なしに消滅したでしょう。【引用ここまで】
高星は、この中国もしくはアジア東部の進化パターンを「包括的行動モデル」と命名しました。そのモデルは、「局所的条件に適応し、地元の環境と調和的で友好的であり、絶え間ない移動と移転により環境資源の使用を低水準に保ちながら、偶発的に到来した外来文化を改善して同化しました(在来文化)」。
現生人類の世界規模の進化についての呉新智の「河川的網状組織」仮説が、なぜ中国人の独立起源があり得るのか、という問題に答えるならば、高星の「包括的行動モデル」はそうした起源は歴史的に必然である、と主張します。優れた特徴が200万年にわたる地質学的期間にホモ・エレクトスから現生人類まで古代の人類集団を維持し、外来の影響を土着化しながら、環境支配の確立において並外れた才能と技術を示しました。しかし、この「強い活力」とそれらの優れた特性は正確にはどこに由来したのでしょうか?それらは、自然環境への適応を通じて獲得され、それは絶え間ない反応が最終的には構造の再編成と直感的形成につながったのか、あるいは何かもっと先天的なものでしたか?「国民の特徴」を歴史化する傾向にある強い民族主義的伝統の文脈では、そうした勝利の口調で語られる進化的適応性と成功は、子孫に畏怖を抱かせる、普遍で超歴史的な「中国らしさ」の認識に自然につながります。
土着性と石器時代の経験の連続性に関するこの議論は、先史時代考古学の発展のすでに明確に描かれた軌跡と、中国文明の言説の先導を強調します。そうした議論は、世界の文明の中の現象である、本質的に内在的で自己永続的な文明について、新たな千年紀において中国の権威ある考古学の主張を促進します。その主張では、中国は先史時代の「所与のもの」として認められ、「現在の中国において」といった限定的な文言の必要はないようです。それは、過去と現在との間の空間的関係が、国際的な学者により必要な時にそのように明確にされていることが多いからです。2005年、著名な中国人と中国系アメリカ人の考古学者による国家支援の研究である『中国文明の形成─考古学的観点』が、中国語と英語の両方で刊行されました。中国の起源と形成段階の再解釈のため更新された研究を統合するこの画期的試みにおいて、その使命は「中国旧石器時代の特定の特徴」を探すことである、と編者は宣言しています。しかし、遺伝学がCOCを揺り動かした5年後、同書は「中国における初期のヒト」と題したその第1章において、【COCとAOCをめぐる】議論について全く言及していません。同書の序論第二部の著者で、中国社会科学院考古研究所の前所長である徐蘋芳(Xu Pingfang)は、中国の歴史系統を深く中期更新世にまで拡大しています。徐蘋芳はそこで、「この‘先秦’期(紀元前3世紀後半の秦王朝より前の中国史の期間)は100万年もしくはそれ以上続き、中国の旧石器時代と新石器時代と3王朝、つまり夏と商と周を含んでいます」と述べています。
●「現生人類を追放し、中華を復活させます!」
一般人の反応は、中国ではその主題【COCとAOCをめぐる議論】が大衆科学の授業ではなく、ウォルポフとカスパリが述べたように、「我々」が誰であるのかについての明確な何か、「公共の規律」である、と示しました。遺伝学者および人類学者とは異なり、COCとAOCの一般人支持者は、この問題【COCとAOCをめぐる議論】を公然と政治化します。一部の人々は、AOCが、19世紀と20世紀初期にヨーロッパの学者により提案され、【今では】信用を失った「中国文明の西洋起源」の新形態か、非愛国的で名声に餓えた中国の科学者を、中国民族主義の根拠を解体するために手先として利用する西側イデオロギーの陰謀である、と考えます。これらの人々にとって、AOCが「西側」理論である一方、COCは「中国」で、あたかもCOCが中国固有の製品であるかのようです。【COCの】反対派はそうした主張を、推定される中国と西側の対立に基づく過度な民族主義により助長された愛国的被害妄想として退けます。
中国以外の多地域主義者と同様に、COCの擁護者はAOCの報道機関の宣伝に気分を害しています。しかし、その反応は、民族主義によってさらに興奮しており、AOCの「西側」起源への疑惑に明らかです。上席言語学者である魯国堯(Lu Guoyao)は、「生物学に基づく出アフリカ理論が‘学界’と‘大衆’の刊行物の両方で優勢で、中国の言語学者でさえ今や遺伝学者を真似ている」と嘆きます。魯国堯は言語学者の議論を、中国の方言の多様性と複雑さを、単一の外来供給源に追いやり、中国文明の土着性を否定する試みとして却下しています。魯国堯は言語学者の同僚に、西側の学者は新規性を追求し、根拠のない過程やずっと遠いつながりを作ることにより大騒ぎを起こす傾向のため、しばしば疑われてきた、と警告します。より広範で長大な世界史の物語『起源─ヒト文明の中国起源の証拠となる研究』では、素人ながら「博学な」著者が、幅広い学問分野を用いて、文化的自信のない中国人に受け入れられた西側の中国誹謗としてAOCの誤りを証明します。その著者は、ホモ・エレクトスも中国起源であることさえ主張しています。その著者の見解では、中国は全ての主要な世界文明の発祥地です。
ソーシャルメディアにおけるCOC支持者の反応は、さらに政治的です。金力と呉新智の両者が取材を受けた主要な報告に反応して、あるコメンテーターは金力を「山師」と呼び、金力の「研究はアメリカ人により資金提供されたか、中国政府から資金が騙し取られました。そうした‘功績’は金力の名声と金を保証するために確実に有名な(外国の)雑誌に形成されるはずだった」と断言しました。次の二つのコメントが続きました。「彼ら【AOC支持の学者】は単に自国の結束力の解体を待つだけではすまず」、「現在、多くの言説が我々の歴史を軽視しようとしています。彼ら【AOC支持の学者】は四方八方から我々を分断し、我々の純血種を弱め、我々を混乱させ、我々の文化的および人種的耐久能力を破壊する目的で狡猾に噂を立て、我々の国家統一力と自信を密かに傷つけます。我が国にはそうしたクズが少なかったのに残念です」。自由主義的傾向の前衛的な一般向け歴史雑誌『国民史』は、この問題【COCとAOCをめぐる議論】についての長い特集のため、黄色い肌ではあるものの、中身は白色で、「非愛国的な中国人」に対する人種化された警句を意味する「バナナ」と分類されました。そのコメントは、『国民史』には、「国民的虚無主義と西側の普遍主義的価値」を促進する指針がある、と断言しました。
COCの最も過激な擁護は、「これを投稿する時だ」という1行とともに電子掲示板サイトに投稿された風刺画で見ることができます(図4)。図4左側の漢字は、上から下に次のように読めます。「200万年前の偉大なホモ・エレクトス。天国の息子は彼の洞窟の入口を守ります。王は(より文明的な生活に降伏するのではなく?)ジャングルで死ぬでしょう。領土譲歩も戦争賠償もありません。平和構築のための結婚も敬意を払うこともありません」。ホモ・エレクトス「中国人」とホモ・サピエンス(現生人類)「外国人」との間の遭遇の可能性は、「外来の」侵略者と「国家の」防御者との間の石器時代の小競り合いとして描かれています。図4の右側では、2人の北京原人の下の赤い2文字は「正統」を表し、より「文明化された」外観の男性の下の黒い2文字は赤い線で交差されており、「蛮夷」と読めます(しかし、この男性【とその背後に描かれた小さな人物たち】は伝統的な中国の正服を着ています)。一番下の行(赤色の漢字8文字)は、「ホモ・サピエンスを追放し、中華を復活させます」と翻訳できます。これは、清(満洲)王朝後期における有名な漢人民族主義者の反満洲の標語「北狄を追い払い、中華を復興せよ」の修正版です。それは異様に見えるかもしれませんが、その風刺画はAOCとCOCとの間の論争を何としても、より文明化された生活様式でさえ、外来に対する中国人の歴史を超えた防御として激しい感覚で解釈し、中国の現生人類の起源が外来であれば、考古学者はもっと発展した道具を見つけられただろう、という中国の人類学者の主張を想起させます。
論争の反対側では、AOC支持者は、中国人には先住の中国を拠点とする祖先も、土地との永続的な関係もない、という事実に満足しています。『国民史』は、「1929年以来我々は、我々がここ【現在の中国】に何十万年もいた、と信じてきました。我々は何世代にもわたって、ここで生まれ、ここで成長し、ここで埋葬されました。しかし、科学者は最近我々に、我々はじっさいには遠くからやって来た、と語りました」と報告します。偽の祖先と土地への偽造されたつながりのイデオロギー的意味は、多くのAOC支持者にとって明らかです。2000年代における中国の自由主義と保守主義との間での議論のように、それはひじょうに邪な方法で「普遍的価値」に挑戦して、「中国人的特徴」の正当化に役立ちます。なぜならば、それは「我々」がここ【現在の中国】にいて、それ以来独特であることを示しているからです。しかし、その【COC支持者】一部はさらに先に進んでいます。「現代中国人はどこから来ましたか?─それは政治的問題です」と題したあるインターネットのコメントは、ロンドンの東洋アフリカ研究学院(SOAS)での講演における中国の人類学者の主張に言及します。その主張は、新疆における彼の研究の唯一の目的は、新疆地域が古代から中国一部だったことの証明です、というものでした。
【インターネット上のコメントの引用開始】逆説的には、そうした愛国的学者は、彼が憎む西側の人種主義者とまったく同じです。人種主義者は、高貴な白人が他の人種とは別に進化した、と信じています。この奇跡の地の学者(中国の仮定された偉大さの愛国的賛美への皮肉)は、中国人であることの誇りを正当化するために、現代中国人は元謀人を藍田人および北京原人と結びつける単一の祖先系統に沿って進化した、と主張します。【引用ここまで】
したがって、COC信者へのAOC支持者のコメントは軽蔑的で、映画『騙された(hoodwinked、邦題は「リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!?」)』や「知的発育の遅れ」です。2014年に、ある人気の随筆家が、AOCを支持する2014年のIZKYP(雲南省昆明動物学研究所)計画により引き起こされた簡易ブログについての、COC信者の怒りに応えました。その随筆家は、「我々の歴史教科書は近代史だけではなく古代史にもある」と述べました。我々の「祖先」は「アフリカ人により一掃されました!」それはそうした「民族主義者」をひじょうに「哀れにした」、何と恐ろしい事実でしょう!この随筆は次のような皮肉で締めくくられています。CCTVは今や、「‘ああ、アフリカ、我が親愛なる母国!’と愛国的な歌を歌う」かもしれません。
●「ホモ・シネンシス」?
要約すると、中国がHGP(ヒトゲノム計画)に参加して以来、科学用語に包まれた民族主義にとって北京原人の祖先性をめぐる論争の意味合いは、社会のさまざまな部分でよく理解されており、超国家主義と自由主義の公開意見は、それぞれ論議の両極として現れました。この相違は中国の政党国家にも及んでいます。科学当局がAOCを主流科学と認める一方で、宣伝および教育機関は、愛国教育や民族主義的動員のためCOCを宣伝し続けています。北京原人の遺跡を全国的な「愛国教育」の拠点として促進し、中国の人類学者を愛国的英雄として記念することは、中国の考古学と人類学に身を捧げた外国の科学者の国際主義的精神と、これらの分野における中国の国際的名声を意図的に無視しています。北京原人の名前の由来となった、指導的人類学者で1930年代初期に周口店遺跡の管理責任者だったデヴィッドソン・ブラックは、生まれつきの心臓状態を無視して仕事に身を捧げ、化石の研究中に周口店遺跡で死亡しました。中国の人類学者がこれら外国人に深く感謝しているにも関わらず、北京原人の公式の叙述は、やむを得ない場合はいつでも、これら外国人の貢献を「科学的」と言及し、「国際主義者」とは滅多に言いません。その【国際主義という】言葉は、北京原人により喚起された愛国的感情を鎮める効果のため、巧みに回避されています。
論争を理解しようとする一般読者は、第一に、それを学問的と理解するかもしれません。これはおそらく、人類学者と遺伝学者がそれぞれ従う、通時的手法と共時的手法との間の二分法を反映しているのでしょう。第二に、氷期を通じてホモ・エレクトスの子孫が生き残ったことを確証する証拠は、まだ見つかっていません。アフリカ起源の現生人類とアジア東部における在来のホモ・エレクトスもしくは現生人類との間の混合を証明する実質的な証拠もまだありませんが、その可能性はあります。第三に、そして最重要なことは、これら2種類【遺伝学と人類学】のデータもしくはDNAに基づくAOCに批判的に異議を唱える化石証拠が見つかったとしても(注10)、これら古代人を「中国人」(もしくは特定の民族あるいは国民集団の「祖先」)とは呼べません。そうした古代人の生息地は「中国」(もしくはあらゆる国民国家の父祖の地/母国)ではありませんでした。そうした古代人の活動の痕跡は「中国文明」ではありませんでした。「現在の‘人種’のようなものが最初の現代的なホモ・サピエンスの前に存在した」ことを否定した、多地域主義仮説の指導的唱道者であるウォルポフとカスパリの研究でソートマンが気づいたように、多地域主義仮説とその民族主義もしくは人種化された解釈との間には、根本的違いが存在します。しかし、中国の多地域主義の学者は、同様の否認を刊行しませんでした。ウォルポフとカスパリは【2017年時点で】最近中国で刊行された論文で、「全てのヒト集団は現在等しく現代的です(中略)我々を現在の姿にしたのは我々の起源ではなく、我々を独特にしているのは我々の系統ではありません」と述べているように、この立場を維持してきました。
現代人か化石化しているか、身体的外見の形態かDNAの暗号か、といったヒトの身体についての科学的事実が、ヒト社会の独自性の構築やそうした独自性の歴史的変容の語りに利用でるのかどうか、またどう利用できるのか、という問題は、中国に固有ではありません。キース・ウェイロー(Keith Wailoo)などが主張するように、「科学はその文脈と利用から離れて存在しないので」、科学は大衆の想像力に及ぼす影響を解放することも縛りつけることもあり得ます。中国の遺伝学は過去に、ルイセンコ主義の形での生物学的進化スターリン主義の解釈に異議を唱え、今では人種主義的民族主義を突き崩しています。しかし他では、ウェイローなどが示してきたように、20世紀には国家支援の人種主義により悪用された歴史の記録があり、国家は依然として国民国家と民族の集団の政治的課題により操作されています。
ユダヤ人性に関するナディア・アブ・エル=ハジ(Nadia Abu El-Haj)の批判的研究は、この点に関してとくに啓蒙的です。それは、現代ユダヤ人が古代パレスチナの本来のヘブライ人の直接的で純粋な子孫だとする、一部のイスラエルの歴史物語の基本的仮定でした。20世紀の遺伝学と【2017年時点で】最近10年のゲノム研究は、その歴史を証明する科学的証拠として、この言説により利用されてきました。それにも関わらず、技術的困難やその言説により解決されてない不確実性はさておき、とくに、さまざまな歴史的状況下で誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないのか決定する方法に関して、ナディア・アブ・エル=ハジは、DNAの解読は直接的には帰属性構築に変換できない、と主張します。歴史的に形成されたヒトの意識とヒトの身体的事実との間の障壁は、認識論的です。したがって、イスラエルの民族主義における遺伝学の問題のある使用についてのナディア・アブ・エル=ハジの分析は、中国の民族主義による古人類学的科学の使用の批判において、比較観点と方法論的手法を提供します。
純粋な祖先に関する言説、祖先の発祥地、この祖先と環境との間の自然の絆、そして何よりも、この祖先とその子孫に特有の、身体的で精神的で知的でさらには道徳的特徴への顕著な系統的連続性に帰する物語は、狂信的な人種主義的民族主義を支持します。ホモ・エレクトスの祖先系統の発見を通じて人種的独自性を構築する試みは、1世紀前のイングランドの「ピルトダウン人」や、比較的最近では日本の藤村新一による化石偽造【じっさいには旧石器捏造】など、古人類学的捏造につながりました。藤村新一【捏造事件発覚後、結婚して改姓したそうです】は偽者の考古学者で、1980年代に日本の民族主義が再台頭する中で文化的有名人になりましたが、2000年に正体を暴露されました(関連記事)。ベンジャミン・アイサック(Benjamin Isaac)が警告しているように、「我々の時代に違法とみなされている」ものの、人種主義は「さまざまな名の下で、およびさまざまな見せかけにおいて起きます」。しかし、COCの政治的流用は、一部の古典的で典型的な人種主義的思考が、ほとんど変更されずに存続していることを示します。
人種と民族主義の最近の議論のうち、モーリス・オランデール(Maurice Olender)は、フランスの古典派である新学派(Nouvelle École)における最近10年の「古いアーリア主義の主題への郷愁」を明らかにしており、それは比較観点も提供できます。「アーリア人種」とのナチスの宣伝の悪名にも関わらず、新学派は新石器時代以来の「インド・ヨーロッパ人」の「完全なアーリア人の天才」をヨーロッパ西部文明の起源に帰し、「抽象と形而上学」、「内省」、とくに「自然を政治に統合することにより、自然を従属させる不断の傾向」のような特徴において自身を表しています。そうした人の道徳的肖像画も示唆されています。これらは、「包括的行動モデル」で示唆される祖先の天才との中国の言説や、祖先の勇気と美徳の賞賛を反映しています。国民的イデオロギーの連続体では、多くの新学派の学者が「‘新右翼’のさまざまな潮流」に傾倒していました。中国では、最も率直なCOCの素人支持者は、超国家主義者で、彼らにとって、純粋に土着の起源を擁護するのは政治的理由です。
オランデールにとって、新学派の言説はホモ・ユーロパエウス復興の試みを表しており、それは、生物学的特徴に由来独特な社会的性質がある仮定的な優れたヒトの血統を描写した、優越間違っているとして拒絶された人種概念です。特定のヒト集団を本質化して神秘化する同様の試みは、ホモ・アルピヌスについての言説でも見ることができます。ホモ・アルピヌスとは、「強く、健康で、勤勉で、辛抱強く、忍耐強く、温厚ではあるものの、自律的な人間の類型」であるスイスのアルプスの小作農の神話です。ナディア・アブ・エル=ハジも、純血で単一の祖先のユダヤ人性とのイスラエルの構成概念をホモ・イスラエレンシスと呼んでいます。これらの言説は、ヒトの文明が始まった比較的最近の時代に関係していますが、中国言説は、ヒト【現生人類】以前の自然史に深く沈んだ少なくとも50万年前にさかのぼります。したがって、私【本論文の著者】が類例に言及するために考案したホモ・シネンシスという用語は、文化的含意よりも生物学的含意の方が強い、仮定された先史時代および超歴史的なヒトの血統に対するより正当な呼称です。
COCの民族主義的解釈は、一握りの筋金入りの実態を把握していない保守主義者と、ソーシャルメディアにより誇張されたその有力者だけに受け入れられている、すでに熱狂的で閉鎖的な民族主義の狂気の結果として退けることはできません。それは、現代中国の民族主義的伝統に根差した新人種主義的修辞です。この伝統に関して、フランク・ディケッター(Frank Dikötter)は、人種的思考は中国史にそれ自体の起源があるものの、19世紀後半に西洋の人種理論とともに民族主義的言説へと発展し、西洋の人種理論は中国の国民を黄色人種と同一視したものの、その分類は元々人種差別的意味合いのある西洋の造語だった、と主張します。この中国の経験に部分的に基づいて、ディケッターは非西洋社会における人種的思考形成の「相互作用モデル」を提案し、人種的思考は西洋の発明で底から世界に広がった、とする拡散モデルに異議を唱えました。ソートマンは、中国におけるこの人種的民族主義のいくつかのより最近の発達の概略を述べています。それは、「炎(Yan)帝と黄(Huang)帝の子孫」、「龍の子孫」(中国を保護する神聖な祖先の動物神としての龍のトーテム信仰的崇拝)、肌の原始時代からある色素としての黄色、黄色い大地、帝国の遺産、国民の祖先としての北京原人など、身体および生物学的主張に典型です。
最近、北京原人の賛美が愛国的動員の手段に発展したように、上述の人種的民族主義は社会でより近づきやすくなったので、新たな修辞と普及手段の発明のためより一般的になりました(注11)。たとえば、一連の露骨な人種的分類である「黒い目、黒い髪、黄色い肌」は、大衆文化や日常の会話で」使われ、「中国人らしさ」を示すために政府は黙認してきました。それは、既存の「龍の子孫」や「炎帝と黄帝の子孫」とともに、ほぼ「中国人」の同義語になりました。「中国人の心と中国人の血」は、ほとんど人種的ではないものの生物学的に喚情的な別の一連の概念で、国民の団結と離散的な中国人らしさへの共通の帰属の源を本質化するために普及してきました。これら「人種的境界標識」の最も有名な表現は、愛国的動員のための主要な大衆文化の手段として1980年代以降に作られた、政府が促進した「愛国歌」で見られます。そのうち最も認知された歌は、DPCCP(中国共産党中央委員会宣伝部)の「愛国歌100」の一覧に含まれています。その題名と歌詞は情熱的かつ憂鬱な音調で中国の独自性を呼びかけ、根強い民族主義的不満を持つ人種としての中国人の感覚に満ちていることが多くあります(注12)。
北京原人の祖先性は、この人種的民族主義を前進させます。それは、中国の台頭における国民の帰属意識政治(identity politics)、つまり人種化された「中国人らしさ」を、最も凝集的な力として促進します。アンソニー・スミス(Anthony Smith)の民族国家の正当化における考古学の役割の簡潔な分析は、手短な最期の分析にすぐ使える手段です。独自性や本質主義や根源性や真正性や土着性や、より明白には土壌など、過去の物資文化の考古学の提示により裏づけられる「特有の領土的国家の民族主義的理想」を支持する全ての概念は、「歴史的発祥地」の構築へとつながっています。COCの政治的流用は、(数千年単位の)民族および文化的な概念から(数十万年単位の)進化および生物学的概念へとこれらの概念の適用を拡大しました。文化的連続性は、人種的系図へと変化しました。「中国人の独自性」はその究極的起源を、ホモ・エレクトスの祖先系統だけではなく、この人類と自然環境との間の断言された調和にも見出します。この二つは外国人にとって相容れない生息地へと融合し、そこから「父祖の地/母国(土地は先祖代々‘我々のもの’です)」と「古代以来の中国の領土」が絶対的正当性を獲得します。最終的分析では、現在の中国の国家主席(習近平)が繰り返し述べているように、「活発な生命力と比類なき創造力」と呼ばれる、百万年間の豊かな生体エネルギーの人種的神話が、「他者」から優れた「中国人」を区別する標語になりました。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。正直なところ、「identity」など訳語に迷った単語が少なからずあり、文脈で判断して訳語を変えるなど工夫してみましたが、正確に意味を把握できていない文章もあるでしょう。それでも全体的には、大きく外した解釈にはなっていないと思います。冒頭で述べたように、中国の人類進化観と民族主義には以前から関心を抱いており、それなりに情報を得てきました。そうした断片的な情報からは、中国において、COC、つまり現生人類多地域進化説的な見解と、AOC、つまり現生人類アフリカ単一起源説的な見解の対立があり、教育など国民教化の点ではCOC的見解が強調されているものの、政府がAOC的見解の公表を禁じているわけではなさそうだ、と予測していました。本論文を読み、この予測は大きく外れていなかったようですが、本論文はこの問題を体系的に論じており、具体的な情報も多く得られ、理解を深められたので、私にとって期待通りたいへん有意義な論文となりました。
本論文からは、現代中国では専門家だけではなく一般層においても、COC的見解とAOC的見解との間で激しい対立がある、と了解されます。この対立は専門家の間ではおもに、考古学と(形質)人類学がCOC的見解を、遺伝学がAOC的見解を支持する傾向にあるようで、これは1980~1990年代の他地域と大きく変わらないようです。COC的見解が中国の民族主義および愛国主義と親和的であることは、この問題に関心のある人には理解されるでしょうが、本論文はそうした傾向を体系的に検証しています。したがって、AOC的見解を支持する人々に対して、「西側」と通ずる「売国奴」といった誹謗中傷が浴びせられているのではないか、と推測していましたが、本論文で指摘されているように、やはり中国は人口が多いだけに、そうした人もいるようです。AOC的見解は「中国文明の西洋起源」説の新形態か、非愛国的で名声に餓えた中国の科学者を、中国の民族主義の根拠を解体するために手先として利用する「西側」の陰謀で、AOC的見解の支持は、「西側」の「普遍的価値」に毒されて中国の独自性と自律性を否定する「植民地根性」的堕落だとして、厳しく批判されるわけです。
これは、非ヨーロッパ世界の近代化(当然、ヨーロッパ世界の近代化も一様ではなく、とくに東部に関してはそうした問題が現代まで続いている、と言えるかもしれませんが)においてよく見られる現象で、近代化という名のヨーロッパ化を進めつつ、どこに自らの独自性と存在意義を見つけて国民国家化を進めるのかは、程度の差はあれ難題だった、と言えるでしょう。中国において、自らの起源を人類進化史においてどのように位置づけるのか、という問題も、自らの独自性を強く主張したい、という立場をCOC的見解が、世界との共通化および均質化(ヨーロッパ化)を目指す、という立場をAOC的見解が象徴している、と言えるかもしれません。
こうした人類進化観の対立についての枠組みは、近年になって断片的情報から次第に理解してきて、本論文でずっと鮮明に見えてきました。しかし、20年以上前には、そうした枠組みをほとんど理解できておらず、現生人類の起源に関しては、COCと親和的というかCOCも組み込んだ多地域進化説を形質人類学者と考古学者が、AOCも含むアフリカ単一起源説を遺伝学者が支持する傾向にある、との理解に留まっていました。そのため、20年以上前に、現代中国人の起源について、「欧米」が主張する現生人類アフリカ単一起源説を支持していない、と指摘された時には、なぜ遺伝学者と形質人類学者および考古学者という枠組みではなく、「欧米(西側)」と中国という枠組みで現生人類の起源に関する見解の違いを把握するのか、理由を理解できませんでした。しかし、本論文を読んだ今となっては、その理由がよく分かります。現生人類アフリカ単一起源説を「西側」の陰謀と考える非専門家が、中国には一定以上いると考えられるからです(その割合については本論文からも分かりませんし、そもそもこうした大規模な調査は難しそうですが)。
また、本論文の指摘で重要なのは、COCは国際的な(とはいっても、主要な拠点はオーストラリアと、アメリカ合衆国というかミシガン大学と言うべきかもしれませんが)現生人類多地域進化説の一部に組み込まれたと言えるものの、ウォルポフとカスパリに代表される現生人類多地域進化説の主流派と、中国の民族主義もしくは人種化された解釈との間には、「人種」については根本的な違いが存在することです。ウォルポフとカスパリは、現在の「人種」のようなものが最初の現代的なホモ・サピエンスの前に存在したことを否定し、現代人は等しく現代的だと指摘します。これは、現生人類多地域進化説が「人種差別的」と批判されることを、ウォルポフが警戒してきたこととも関連しています(関連記事)。ウォルポフとカスパリは、全てのヒト集団は現在等しく現代的で、現代人を現在の姿にしたのはその起源ではなく、現代人を独特にしているのは現代人の系統ではない、とも指摘しています。しかし、中国のCOC支持の学者も、同様の否認を公的には述べていないそうです。
本論文は全体的に、COCが中国の民族主義や愛国的動員に利用されていることや、COCを支持する公的言説において、外国人研究者の貢献を「国際主義」の観点から賞賛しないことなど、COCにかなり批判的です。それは、COCとAOCの比較で、COCの方が学術的にはずっと妥当性は低いからでもあるのでしょう。学術的妥当性での圧倒的優位から、中国の一般層のAOC支持者には、COC支持者を軽蔑する人もいるようです。それは、本質的には価値規範の問題なので、「事実」を争うCOCとAOCの論争とは根本的に異なるとはいえ、「Woke(日本語訳は確定していないと思いますが、‘覚醒’と訳すのがよいでしょうか)」主義(Wokeism)陣営(関連記事)というか、それに肯定的な人々が、これを理解していなかったり反発したりする人を「時代遅れ」などと軽蔑することとも表面的には似ているのでしょう。それはともかく、確かに、やり取りしている相手に対して自身の知的優位を確信すると(当然、あくまでも主観的判断なので、違っていることは珍しくありません)、侮蔑的態度を取る人は珍しくないでしょうし、日本語環境のインターネットでもありふれています。一般的には、こうした姿勢は好ましくないわけで、自戒せねばなりません。
ただ、それを個人的問題として片づけてしまうことには問題がありそうです。とくに中国について、COC的見解とAOC的見解との対立は、非ヨーロッパ世界でよく見られる近代化の苦闘だけではなく、近現代史における被害者意識の強さ(関連記事)も考慮する必要があるように思います。中国の近現代史を多少なりとも知れば、現代中国人が「西側」に強い不信感と嫌悪感を抱くことは了解されるでしょう。その意味で、中国の一般層のCOC支持者が、AOC支持者を「西側」に通ずる「売国奴」であるかの如く罵倒する心情は理解しやすいように思います。おそらく中国において、現代のさまざまな事象を「西側」、とくにその中で図抜けた国力のアメリカ合衆国の陰謀として把握する傾向は、少なからずあるのでしょう。ただ、中国は今ではアメリカ合衆国に並ぼうとしている超大国であり、軍事力や経済力で大きな影響力を有しているのでおり、世界に壊滅的な打撃を与えることができます。その意味で、中国は今後、被害者意識の発露の抑制に努めるべきだと思いますし、その傾向が強くなれば、その学術的妥当性の比較から、COCの支持者が減り、AOCの支持者が増えることでしょう。
それでも、中国の習近平国家主席(共産党総書記)の最近の発言からは、中国の教育において当面はCOC的見解が重視される、とも考えられます。その意味で、一般層では少なくとも中期的には、COCの支持者が一定以上の割合で残ると予想されます。そのさい要注意なのは、COCが中国の一般層で広く受け入れられているからといって、中国は学術的理解において「まだ遅れている」などと判断してしまうことです。中国は一方で、科学当局はAOCを主流的見解と認めており、近年の古代DNA研究の充実からも、人類進化研究において世界の最先端にいる、と言っても大過ないでしょう。どの国でも、特定の学問分野の最先端の成果を国民が広く知っているとは限らず、ある国の一面を見て、「先進的」とか「後進的」とか安易に判断してはならず、中国のように規模の大きい国はとくに注意する必要がありそうです。
AOCを「西側」の枠組みで語ることは的外れですが、「西側」の価値観や世界観の押し付け(主観的には)に対する反発には尤もなところもあるとは思います。現代日本社会において、「国際」もしくは「世界」と言いつつ、実質的にはヨーロッパ(とくに西部と北部)と北アメリカ大陸のことだけで語るような言説は珍しくなく、おそらく中国にも日本ほどではなくともそうした人はいるでしょうから、この点も、「西側」が中国など他地域で警戒されて嫌悪される理由になっているように思います。今後、「西側」の世界における相対的な経済的地位はさらに低下していくでしょうから、現在は情報(文化)発信力では「西側」世界に劣っている非「西側」世界の、「西側」世界とは異なる価値観が大きな影響力を有するようになる可能性も考えられます。
以上、COCよりもAOCの方が学術的妥当性はずっと高い、という認識を前提に述べてきましたが、これと関連する問題については、最近まとめました(関連記事)。その記事で私が言いたかったのは、現生人類の起源に関して、多地域進化説は根本的に間違っている、ということです。中国におけるCOCとAOCとの論争に関連して言えば、現在の中国領もしくはアジア東部において、ホモ・エレクトスなど非現生人類ホモ属と現代人との間に遺伝的つながりが確認されていません。それだけではなく、アフリカ起源でアジア東部へと拡散して広範に分布していたと考えられる複数の初期現生人類集団も、現代人との間の遺伝的つながりが皆無かほとんどない、と明らかになってきました。逆に、アジア東部現代人の主要な祖先集団は、当時存在した遺伝的に多様な現生人類集団のうちごく一部で、アジア東部に広範に分布するようになったのは現生人類がアフリカからアジア東部に最初に拡散してからかなり後だったのではないか、というわけです。このように、非現生人類ホモ属がその生息地の現代人の(ごくわずかに遺伝的影響を残しているかもしれないとはいえ)祖先集団ではないことはもちろん、ある地域の初期現生人類がその地域の現代人の主要な祖先集団ではない、という報告例も増えつつあり、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における(相互の遺伝子流動を想定しつつも)人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と言うべきでしょう。
●注釈
注1
そうした中華人民共和国における政治的指針は、人類の起源に関する宗教的創造神話や迷信の影響を受けないヒトの主体性を確立し、フリードリヒ・エンゲルス(Frederick Engels)がその著書「類人猿からヒトへの移行において労働が果たした役割」で主張したことをさらに詳しく述べて、北京原人の利用により肉体労働を尊ぶ社会主義的倫理観の促進に役立ちました。
注2
ネアンデルタール人やクロマニヨン人など、あるいは中国で発見された原始人の生息地の他の有名な遺跡の命名が、発見されたその場の地名に由来するのとは異なり、1929年に周口店洞窟で化石の発見を監督して確証したカナダの解剖学者で自然人類学者のデヴィッドソン・ブラック(Davidson Black)が、遺跡が首都の北京から50km離れているにも関わらず、化石を一般には北京原人として知られているシナントロプス・ペキネンシス(Sinanthropus pekinensis)と命名しました。この名前を中国語に直訳すると、「北京人」です。もしこの化石が「周口店人」もしくは北京原人化石が発見されたその場に因んで「竜骨山人(Longguo Hill Man)」だったならば、おそらく中国の民族主義者にとってさほど魅力的に聞こえなかったでしょう。
注3
おもな政治的懸念には、国家財産および安全保障の新たな形としてのDNAデータの扱い方が含まれています。ポール・ラビナウ(Paul Rabinow)は1999年に、この点に関して劇的な事例を示しており、1994年にフランス政府は「フランス人のDNA」をHGP関連のアメリカ合衆国の生化学会社であるミレニアム社へ提供することを、フランスの科学者に禁止しました。中国では、西洋への遺伝子流出、さらには、とくに中国の国民を疲弊させるために発明された遺伝子兵器の疑いの可能性について、懸念され議論となりました。国営報道機関の表題は、「我が国の安全を守るため、遺伝暗号を保護せよ」、「中国の国民の遺伝子は安全なのか?我々のDNA標本は流出していないのか?」に重きを置きました。中国の遺伝学者は、外国人と共有しているのは唾液や血液の標本ではなく、単にこれらの標本から得られた選択されたデータの特定の分類である、と説明しました。しかし、この懸念は依然として続いており、大衆文化で脚色されています。戦狼』という表題の最近【2017年時点】の映画の話は、国際的な遺伝子兵器の開発者に雇われた元アメリカ合衆国海軍特殊部隊員が中国に潜入し、アメリカ合衆国に拠点を置く売国的な中国人遺伝学者により違法に収集された遺伝子標本を密かに持ち出すねというものです。この映画は、ハーヴァード大学に拠点を置く中華系アメリカ人生物学者である徐希平(Xiping Xu)による、慢性疾患研究のための、1990年代後半と2000年代前半の中国での遺伝子標本の収集について議論の政治的解釈として見ることができます。徐希平の計画はアメリカ国立衛生研究所から資金提供を受けており、ミレニアム社とも関係していました。中国の科学者と報道機関は後に、徐希平研究について倫理および法的理由で警戒するようになり、アメリカ合衆国政府が調査することになりました。
注4
ソ連の遺伝学批判は、スターリン(Joseph Stalin)体制下で公的に支持された偽科学理論であるルイセンコ主義に基づいており、ルイセンコ主義は生物進化において後天的特性のみを認め、遺伝的特性を否定しました。
注5
国際的に著名な科学者である談家楨は、1990年代に中国共産党指導者により中国民主同盟の名誉議長に選出されました。中国民主同盟は、中国共産党の教義相手として、とくに知識人で機能している最大の「民主的政党」です。談家楨はその影響力を用いて、その戦略的重要性を江沢民に直接的に訴えることで、HGPとの中国の提携を確保しました。
注6
1995年、日本の遺伝学者は日本人のミトコンドリアDNAの証拠を提供し、「出アフリカ」理論を裏づけました。
注7
研究所はいわゆるアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)により設立されたが北京協和医学院(Peking Union Medical College)と提携しており、とくに解剖学部門は、当時自然人類学の研究所の拠点でした。1929年~太平洋戦争開始までの間、ヨーロッパとアメリカ合衆国の科学者が研究所運営の責任を負い、ロックフェラー財団が遺跡の調査に資金を提供しました。
注8
2005年に呉新智に取材したシュマルザーによると、呉新智は金力をIVPPに招き(時期は不明)、意見を交換したものの、その後も【AOCに】納得いかないままでした。
注9
褚嘉佑は取材で、1998年の『PNAS』の報告につながった研究を始める前には、「アフリカではない独立した中国人の遺伝子」を見つける、という希望があったことを認めています。
注10
12万~8万年前頃に湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)に現生人類が存在したことを示唆する【2017年時点で】最新の化石証拠(47点の歯)が2015年10月に発表されましたが(関連記事)、この化石群と北京原人の年代のホモ・エレクトスとの間の関係は未解明です【この化石の年代については、その後で議論になっています】。
注11
この段落の内容は本論文著者の2015年の文献からの引用です。
注12
たとえば、「私は誇りに思います、私は中国人です」との主張です。「無数の青色と茶色の目の中で、私は黒くダイヤモンドのような目を持っています/私は誇り高く、私は中国人です/無数の白い肌と黒い肌の中で、私は黄色の大地のような肌をしています/私は誇り高く、私は中国人です/私の祖先はジャングルから最初に歩き出しました/私の祖先は最初に農業を始めました」。
この作詞者は公式作家協会から「人民詩人」の栄誉を受け、その歌詞は中国語と中国文学のいくつかの教科書に掲載されました。
もう一つの歌「黄色人種」はこう宣言します。「黄色人種よ、地上を歩んでください/新たな胸を張ってください/5000年の時を経て、ついに私が舞台に立つ番です/(以下はラップ調です)癒せない傷はありません/古代の力が私たちを永遠に支えます/土の中の黄色が頑固に東洋を運びます/世界のどこでもあなたは黄色い顔を見るでしょう/赤い血は13億人の人々の血管に流れています/あなたはそれが私の激しい怒りだと言います/私はそれがあなたの態度だと言います/恐れを知らず、前進します/私たち中国人だけです/上には黄色い天があります/あなたは私が真の人間になるのを見るでしょう」
参考文献:
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
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