漢代の新疆住民の学際的研究
中華人民共和国新疆ウイグル自治区(以下、新疆)の漢代住民の学際的分析結果を報告した研究(Allen et al., 2022)が公表されました。古代中華帝国の国境地帯では、漢人と非漢人の相互作用が深く根付いていました。しかし、これら国境の人々の遺伝的起源もしくは生活様式についてはほとんど知られていません。この研究は、古代DNAと安定同位体の分析を適用して、現代の新疆にある石城子(Shichengzi)遺跡の漢代の人口集団を調べます。石城子遺跡のヒト(8点)と非ヒト動物(26点)と作物遺骸の同位体分析(炭素13と窒素15)から、窒素15比の違いに基づいて、遺跡住民の食性パターンは農耕牧畜集団と農耕集団とに分けられる、と示唆されます。
古代DNA解析により、石城子遺跡のヒト標本4点は2集団に分けられ、一方は古代アジア北東部(ANA)関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)をおもに有していましたが、もう一方の集団は後期新石器時代黄河(黄河LN)関連祖先系統が優勢でした。古代DNAと安定同位体の証拠は両方、牧畜民のアジア北東部起源と、漢人農耕民のアジア東部起源を示しますが、それにも関わらず、両者は石城子で単一の埋葬空間を共有していました。したがって本論文は、漢帝国とその周辺地域に代表される浸透性国境を越えた人口集団の複数の起源と独自性の明確な証拠を提供し、初期中華帝国における国境文化の解釈について新たなモデルを提案します。
●研究史
ますます多くの研究が、古代DNA研究と複数の形態の科学的および古典的な考古学分析を組み合わせようとしています。古代DNAと炭素および窒素の同位体の分析は、古代人の起源とヒトおよび非ヒト動物の古食性慣行の知識を改善してきました。そうした学際的手法は、さまざまな状況における古代の人口史と生計への魅力的で新たな洞察を提供できますが、中華帝国の歴史の国境地域への適用は稀でした。この新たな分野の研究手法の採用により、本論文は漢王朝の国境遺跡におけるDNAデータと古食性および他の考古学的証拠との組み合わせを通じて、国境研究に新たな展望を開きます。
2014~2019年に、天山山脈の北側斜面に位置する、新疆の奇台(Qitai)県に位置する石城子遺跡(北緯43度36分59.1秒、東経89度45分43.2秒、海抜1770m)は主要な漢王朝の要塞として特定され、科学的に発掘されました(図1)。遺跡は約11万m²にわたり、放射性炭素年代は、遺跡の居住が紀元前1世紀から紀元後3世紀までだった、と示唆します。複数の建築特徴が明らかになり、年代は屯田(agricultural garrison)の期間でした。これらには、正門、うち固められた土壁(版築)、堀、建物、豊富な土器、瓦、武器、農具が含まれていました(区域A・C・D)。埋葬と単一の漢代様式の窯が区域Bで発掘されました。その後、2020年の研究では、石城子遺跡は漢文化と非漢文化の「坩堝」として特徴づけられ、考古学的証拠を用いて、2000~1700年前頃の比較的温順な気候条件に対する天山山脈の環境への局所的適応が論証されました。以下は本論文の図1です。
紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて、漢帝国と農耕牧畜帝国とアジア中央部の紀元後の人々の間の相互作用は、初期シルクロードの異文化間の交通の頂点とみなされました。現在の中国の歴史書では、漢帝国の武帝(在位は紀元前141~紀元前87年)は紀元前119年頃にこの劇的な変化を起こし、同盟国を探して、漢の北方に隣接する脅威だった匈奴連合を服従させるため、漢の存在を強化しました。その後の漢の皇帝は、「西方地域(おもに現代の新疆に位置します)」における漢軍の配備を強化しました。中国の学者はこの期間における中原から帝国西端への漢民族【という分類を紀元後3世紀までの現在の中国の人類集団に用いてよいのか、疑問は残りますし、本論文の論調は全体的に、漢代の異なる「民族」間の融和を強調しているように思われ、現代の政治目的の観点から警戒すべきところがあるとは思います】の強制移住を歴史学的に記載し、大量に研究してきました(関連記事)。
アジア中央部の多様な生態学的背景に対して、階層化された漢の秩序は屯田と他の定住様式で確立しました。これは漢帝国のユーラシア草原地帯への政治および経済的影響の安定化に役立ちました。しかし実際には、集団間の移住と交流は広範に行なわれた、と考えられています。ある学者は、漢の中心とその周辺との間の「文化的媒介や同化や拒絶や統合」を特徴づけました。石城子遺跡の発掘により、漢と匈奴と西方地域の集団の相互作用の問題はひじょうに興味深い問題の一つとなりました。
本論文は、伝統的な考古学的手法を炭素および窒素同位体、また石城子遺跡の4個体の古代DNA分析と融合させます。石城子遺跡(図1a)は以前に、漢王朝の屯田として確証されました。異なる遺伝的および同位体特性にも関わらず、石城子遺跡では類似の埋葬慣行が共有されていました。これは共通の埋葬空間と恐らくは遺跡の使用についての異なる食性慣行の組み合わせとみなされ、この「相互主義」は漢の拡大および地域的適応と、長年にわたって確立された、柔軟な生計戦略を背景に交渉された、と本論文は主張します。この研究は、漢の移民と西方地域の農耕牧畜民が屯田の状況内で相互作用した方法の論証により現在の知識に寄与し、北西部における漢の国境形成過程の理解に対するあり得る結果を調べます。方法論的手法は考古学と歴史学を組み合わせ、短期および長期の文脈で中華帝国の歴史における国境形成の再評価に役立つでしょう。
石城子遺跡の西側では、10基の埋葬、1頭の生贄とされたウマの遺構、1基の土器窯が発掘されました。埋葬は、竪穴式土坑墓6基、竪穴式横穴墓3基、二段棚式竪穴墓1基(二層台)に分類されます。全て頭を西に向けた個々にうつ伏せになった埋葬で、棺は谷状でした。二層台で発見された内棺と外棺では、ほぞ穴とほぞの構造が採用されました。側室墓M3では漢王朝の五銖銭(wuzhu coin)、側室墓M1では青銅製銘板と青銅製環と鉄刀とさまざまな実用土器が含まれていました。二層台のM2の埋葬は、木製外棺で墓に入れられており、この墓はM1およびM3とは大きく異なります。M2にはヒツジの距骨と絹と漆と玉も埋葬されていました。この埋葬様式と副葬品の選択は、2つの異なる人口集団を強く示唆しており、M3的な漢人集団とM2的な牧畜民集団の可能性が高そうです。石城子遺跡で得られた同位体データと古代DNAデータは、既知のデータと統合されて分析・比較されました。
●放射性炭素年代測定と炭素および窒素の同位体分析
石城子遺跡で回収された考古学資料の全ての加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代は、補足資料の表1に示されており、その年代は紀元前40~紀元後420年(95.4%信頼限界)です。発掘された遺物や中国の歴史文献からさらなる証拠が得られるまで、石城子遺跡は紀元前1世紀から紀元後3世紀まで居住されていた、と考えられます。
図2に示されているように、標本抽出されたヒト遺骸8個体は、窒素15値の違いに基づいて2群に分けることができます。これらのヒト標本の窒素15値の範囲は9.6~14.3%で、さまざまな量のタンパク質の摂取が示唆されます。A群(M1、M2、M4、M5、M6、M8)の平均的な窒素15値は13.8±0.4%で、肉や乳製品など、かなり窒素15が豊富な食料の消費を示唆します。対照的に、B群(M3とM9)の2個体は比較的低い窒素15値(それぞれ9.6%と10.3%)を示し、A群より少ないタンパク質の消費が明らかになります。骨資料の炭素13値の範囲は-16~-18.2%で、C3植物に由来するタンパク質を含む食性の個体群での類似のパターンが示唆されます。全てのデータは補足資料の表4に示されています。以下は本論文の図2です。
図2で示されるように、最も負の炭素13および窒素15値は、炭化したコムギおよびハダカムギの種子の標本に由来します。その範囲は-25.8~-19.8%と3.1~11.8%です。アワとキビで新たに得られた炭素と窒素の安定同位体の結果は、それぞれ-11.9および-11.6%と、9.6および10.7%でした。この作物データは、石城子遺跡におけるC3およびC4作物食品の同位体基準を確立しました。石城子遺跡で回収されたウマ(Equus caballus)の骨の炭素13および窒素15値は、それぞれ-20.2%と5.4%でした。この窒素同位体値はほとんどのコムギおよびハダカムギの穀粒より低かったので、このウマは野生のC3の陸生の草および/もしくは低木により大きく影響される食性だった、と示唆されます。さらに、ヒツジおよびヤギ(20頭)とウシ(4頭)の平均的な炭素13および窒素15値は、それぞれ-18.4±0.5%および-18.9±0.8%と、8±1.1%および8.3±1.6%で、家畜化された草食動物の食性は、おもにエゾムギ属穀物と野生植物に基づくC3植物由来のタンパク質に影響を受けました。
以前の同位体研究では、ヒトのコラーゲンの窒素15値は食性と比較して+3~5%濃縮されている、と論証されました。図2で示されるように、A群のヒトの窒素15値はヒツジおよびヤギの骨、ウシの骨、コムギおよびハダカムギの穀粒より、それぞれ5.8%、5.5%、6.9%高く(3~5%超)、遺跡周辺で見つかった家畜化された草食動物に由来する肉と乳製品を高度に消費していた、と示唆されます。対照的に、B群の平均的な窒素15値は、ヒツジおよびヤギの骨、ウシの骨、コムギおよびハダカムギの穀粒より、それぞれ2%、1.7%、3.1%高い(3~5%もしくは約3%未満)と示されました。さらに、B群の両個体は、石城子遺跡で回収されたイヌ科標本(10.8%)より窒素15値が低く、B群は通常オオムギとコムギを食べ、家畜のヒツジおよびヤギとウシの肉の消費は最小限だった、と示唆されます。もしそうならば、A群の個体は牧畜民を表しており、B群の個体は農耕民だった可能性が高い、と考えるのが合理的です。
石城子遺跡近くの3ヶ所の遺跡で収集された炭素13および窒素15の比較データは、図2で示されます。石人子溝(Shirenzigou)遺跡で見られる農耕牧畜民の平均的な炭素13および窒素15値(図1a)は、それぞれ–18.5±0.4%と12.6±0.7%で、石城子遺跡のA群の個体と食性が類似しており、窒素15が豊富なC3植物由来のタンパク質に顕著な影響を受けた、と示されます。対照的に、河西回廊(Hexi Corridor)の黄万(Huangwan)遺跡と黒水国(Heishuiguo)遺跡の漢人集団の平均的な炭素13および窒素15値は、それぞれ-10±2.3%および10.5±1.5%と、-16±1.7%および10.8±1.1%です。黄万遺跡の個体群の方が炭素13値はずっと豊富ですが、両漢人集団はほぼ同一で顕著に低水準の窒素15値を示す石城子遺跡B群と類似しており、動物性食物の消費はかなり限定的で、集団間の食性類似性の根拠を示す、と示唆されます。したがって、割り当てられた分類の変動性にも関わらず、全体的な植物網内でより広範な北西部漢人の文脈内で考慮すると、石城子集団を農耕民と農耕牧畜民に区分することに確信が持てます。
●古代DNAデータ
石城子遺跡で回収された古代人4個体(M1、M3、M4、M9)のDNAが解析され、核DNAの網羅率は0.0235~0.0646倍、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の網羅率は1.38075(個体M4)~57.2302倍となります。個体M4のmtDNAの網羅率が低いことに要注意です。親族関係分析では、これら4個体すべての組み合わせで無関係と確認されました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、M1がD4c2b、M3がD4j15、M4がD4j7、M9が D4c2cで、すべてmtHg-D4に分類されます。男性3個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、M3がO(M1751)、M4がN1a1a1a1a(CTS1077)、M9がO2a2b2a1a(F4110)ですが、M4の網羅率は低いので、暫定的に分類されています。M3とM9は典型的なアジア東部のYHgに、M4はアジア北東部で優勢なYHgに(暫定的に)分類され、石城子遺跡人口集団の父系での二重起源が示唆されます。
主成分分析(PCA)では、石城子遺跡の4個体が2群に別れる、と観察されました(図3)。個体M1とM4はPCA図の上部で新石器時代から鉄器時代のモンゴル高原東部の古代人およびバイカル湖の金石併用時代(銅器時代)狩猟採集民(HG)とクラスタ化します(まとまります)。前者にはモンゴルN(新石器時代)とウランズーク石板墓(Ulaanzuukh_SlabGrave)文化と後期匈奴が、後者にはロシアのロコモティフ(Lokomotiv)遺跡とシャマンカ(Shamanka)文化の人口集団が含まれます。石城子遺跡のM3およびM9個体は黄河流域の古代農耕民人口集団および現代漢人とクラスタ化します。以下は本論文の図3です。
K(系統構成要素数)= 4のADMIXTURE分析(図4)は類似のパターンを明らかにし、石城子遺跡の4個体は、異なる祖先系統構成の2群に区分されます。石城子遺跡の個体M1とM4は、おもに古代アジア北東部(ANA)関連祖先系統を有しており、この祖先系統はアムール川流域前期新石器時代個体(AR_EN)により表されるANA狩猟採集民で高い割合を示します。一方、石城子遺跡の個体M3とM9は、後期新石器時代以降の黄河流域雑穀農耕民(関連記事)と類似した遺伝的特性を示します。後期新石器時代以降の黄河流域雑穀農耕民には、黄河流域後期新石器時代(YR_LN)と黄河流域後期青銅器時代~鉄器時代(YR_LBIA)が含まれます。以下は本論文の図4です。
●石城子遺跡住民の二重起源
次に、外群f3分析を用いて、石城子遺跡個体群の遺伝的差異がさらに決定され、石城子遺跡個体群と現代および古代のユーラシア人との遺伝的類似性が定量的に調べられました。その結果、石城子遺跡個体群における高い遺伝的異質性が明らかに例証されました。石城子遺跡個体群のうち、M3とM9が黄河流域雑穀農耕民(YR_LNとYR_LBIA)および現代漢人集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していたのに対して、M1とM4はANA祖先系統をより高い割合で有するアジア北東部人口集団と密接な遺伝的関係を示し、その中には、モンゴル東部N、ロシアのロコモティフ遺跡金石併用時代と悪魔の門(DevilsCave)Nとシャマンカ文化金石併用時代と青銅器時代ウランズーク石板墓文化と、現代のテュルク諸語話者集団が含まれます(図5)。以下は本論文の図5です。
f4統計により上述の調査結果が確証されます。対でのqpWave分析は、外群f3統計と類似のクラスタ化パターンを明らかにしますが、石城子遺跡個体群の遺伝的差異をさらに論証します(図6)。石城子遺跡個体群のうち、M3とM9は遺伝的に黄河流域雑穀農耕民と均一ですが、M1は黄河流域雑穀農耕民だけではなく、モンゴル高原とバイカル湖の狩猟採集民ともクラスタ化します。とくに、個体M4はモンゴル高原およびバイカル湖の狩猟採集民とのみクラスタ化します。
PCAとADMIXTUREとf統計と対でのqpWaveの均質な検証の結果に基づいて、石城子遺跡の4個体は石城子A(M1とM4)と石城子B(M3とM9)に分類されました。石城子Aは、黄河流域雑穀農耕民とは対照的に、モンゴル高原およびバイカル湖の新石器時代狩猟採集民、青銅器時代ウランズーク石板墓文化人口集団とより密接な遺伝的関係を示しました。また石城子Aは、f4(ムブティ人、石城子A;シナ・チベット語族話者、ツングース語族およびモンゴル諸語話者)の正の値に反映されているように、シナ・チベット語族話者とよりも、ツングース語族およびモンゴル諸語話者人口集団の方と多くのアレルを共有しています。
対照的に、石城子Bは、f4(ムブティ人、石城子B;黄河流域住民、モンゴル高原住民)の負の値に反映されているように、モンゴル高原の古代の人口集団とよりも、黄河流域雑穀農耕民の方と近い遺伝的類似性を示しました。また石城子Bは、f4(ムブティ人、石城子B;シナ・チベット語族話者、アルタイ諸語話者)の負の値に示されているように、アルタイ諸語話者集団とよりもシナ・チベット語族話者方と多くのアレルを共有しています。以下は本論文の図6です。
さらに、qpWaveとqpAdmを用いて、祖先系統供給源の数と、石城子遺跡集団の妥当な混合モデルが調べられました。少なくとも2つの祖先系統の流れが、石城子遺跡の両集団の起源を示唆している可能性が高そうです。石城子Aのモデル化は、ほぼANA祖先系統で構成されるモンゴル高原古代人口集団の子孫である可能性が高い、と示されました。一方、単一の供給源としてウランズーク石板墓文化集団との1方向モデル化は、モンゴルN北方を外群一式に含めると失敗したものの、推定割合で25.8±7.9%で他の供給源としてアミ人(Ami)を含めた場合のみ、適合した2方向モデルが得られました。
1供給源としてのYR_LNとのモデルは、石城子Aの遺伝的差異の説明に失敗し、農耕民集団からのひじょうに限られた遺伝的影響が示唆されます。石城子Bは、ANA関連祖先系統の人口集団ではなく、YR_LNに祖先系統が由来することにより、その祖先系統構成において完全に異なる特性を示しました。外群一式としてモンゴル北方を追加すると、単一の供給源としてYR_LNを含むモデルは、依然として石城子Bへの適合を提供します。石城子遺跡個体の、M3とM9・M1・M4の個体水準での混合モデル化結果は、それぞれ集団水準での石城子Bおよび石城子Aの結果と一致します。
●匈奴と烏孫のつながり
漢代には、その北方の牧畜政権だった匈奴がモンゴル高原で繁栄しました。石城子遺跡住民と匈奴との関係の可能性は、さらに調査する価値があります。本論文では、匈奴人口集団は遺伝的に東西に分類され、東群(初期匈奴残余、後期匈奴、後期匈奴漢)は、支配的なアジア北東部もしくは漢人関連祖先系統を示します(関連記事)。石城子遺跡の個体M4も、f4(X、ムブティ人;M4、初期匈奴残り)の負の有意な値に反映されているように、初期匈奴残余と遺伝的クレード(単系統群)を形成する、と分かりました。対でのqpWave分析も、石城子遺跡の個体M1とM4が後期匈奴漢と遺伝的クレードを形成すると論証し、M4は後期匈奴との一定の類似性も示しました(図6)。
武帝の治位中およびその後、西域における漢の大戦略は、「遠方諸国と提携し、近隣諸国を攻撃する(遠交近攻)」として歴史的に記述されました。つまり、西域諸国と同盟し、脅威である匈奴との戦いを有利にしようと考えたわけです。強力な烏孫国家は、その後に漢により同盟を求められた同時代のそうした国家の一つでした。この歴史的情報を念頭に置いて、本論文は石城子遺跡集団と烏孫集団との間の関係も調べました。f4分析(検証対象X、ムブティ人;石城子遺跡集団、烏孫)は、石城子遺跡集団と、祖先系統の大半がユーラシア西部集団に由来する、アジア中央部の烏孫および康居人口集団との間の遺伝的に有意な違いを示しました。Xには、シンタシュタ(Sintashta)文化やゴヌル・テペ(Gonur Tepe)遺跡青銅器時代やアナトリア半島新石器時代の個体群など、ユーラシア西部集団が含められました。
石城子遺跡個体群と、石人子溝遺跡および天山山脈東部の北側斜面の鉄器時代農耕牧畜遺跡および新疆の標本との間の遺伝的関係も調べられました。f4分析(検証対象X、ムブティ人;石城子遺跡集団、石人子溝遺跡集団)が実行され、石城子遺跡集団の両方と石人子溝遺跡集団との間の有意な違いが観察されました。石城子遺跡集団は石人子溝遺跡集団よりも多くのアジア東部祖先系統を有していました。これは、両遺跡間の直接的移住の可能性の誤りを明らかにします。
●考察
この研究は、石城子遺跡に関する証拠の組み合わせを提示しました。それは、人口集団の古遺伝学と、古食性の炭素および窒素の同位体分析と、発掘された埋葬です。石城子遺跡住民は、2つの別々の遺伝的集団と古食性パターンに分けられます。DNAと安定同位体分析のこの組み合わせは、伝統的な考古学および歴史文献では利用できない手法で、漢代(新代の断絶を挟んで紀元前202~紀元後220年)における石城子遺跡の農耕牧畜民と農耕民の共同利用の可能性が高いことを決定的に論証しました。しかし、遺跡空間と埋葬データの使用は、違いの表現とともに、これら異なる集団間の密接な相互作用を示します。次に本論文は、石城子遺跡の両集団は同時代で、各集団は漢代の辺境駐屯地の社会的および政治的生活の両方に関わっていた、と主張します。石城子遺跡のヒトの食性パターンの新たな炭素および窒素同位体の証拠、および石人子溝と黄万と黒水国という他の3ヶ所の遺跡の同位体データ(図1a)との統合は、牧畜と農耕の生計戦略が石城子遺跡周辺の共有された社会政治的環境内で維持された、との主張を強化します。
石城子遺跡の証拠は、漢の国境制度内の生活様式の理解の更新に役立ちます。考古学的データの配列が広がると、漢の国境の考古学を世界的な文脈にも位置づけられ始めるかもしれません。たとえば、ローマ国境の形成過程の考古学は、以前には農耕牧畜と農耕の相互作用の問題に取り組んできました。特定の生態系内での植物の栽培化と動物の家畜化の過程の絡み合い、つまり農耕と牧畜の経路の人為的で厳格な区分とは対照的な「相互主義」の関係を強調した議論に依拠し、先行研究ではローマ帝国辺境の農耕牧畜と農耕の相互主義の強調が主張されました。その後の研究はこの議論に基づいて、「管理された」辺境だけがあらゆる種類の相利共生的関係を現実的に含めることができる、と指摘して批判しました。
石城子遺跡には、漢人と非漢人のある程度の「統合」と「調和」がありましたが、帝国の行政的支配と「警察」の表象下では、そうした「相互主義」も新たな社会政治的現実への局所的な知識と適応を表していた、と分かります。考古学的に言えば、漢の制度はこれら農耕民と牧畜民により適応されました。個人の生計と富の観点では、農耕牧畜民の可能性が高い個体M2の印象的な副葬品は、地元のエリートが自らのより広い人脈内で漢の制度を信じて、恐らくじっさいに受け入れた、と示唆しているかもしれません。対照的に、個体M3のような漢人移民の剥き出しの埋葬は、これらの地域に移動した漢人の大半が、奴隷的もしくは囚人的な地位だったことを示唆する文献証拠と一致して、その生活の地位がかなり低かったことを示唆します。今後、漢代とその前後の時期の新疆地域の都市に関する研究や、地方と漢帝国の形成過程の相互関連と地域的な時間的先例を浮き彫りにする研究が進むよう、期待されます。
本論文のDNAと古食性分析は、石城子遺跡の生活様式と生計、したがって他の漢代辺境駐屯地についての判断能力も改善しました。2000年代初期の社会考古学的文献に触発された最近の生物考古学的研究は、その主題をこの複雑な閾値刺激空間内の「具体化された」個体群とみなし始めました。石城子遺跡では、生計経路と遺伝的背景の多様性が、相互に利益をもたらす牧畜民および農耕民集団の「具体化された」国境独自性へと合体しました。農耕牧畜集団は経済および政治的利益のために石城子駐屯地に属し、そうした決定の長期的結果を通じて、国境の現実の具体化部分になったかもしれません。
次に、屯田制度へのこの急速な順応が、農耕集団間の双方向関与とともに、農耕牧畜民の適応により等しく促進された可能性も、示唆され始めます。漢の空間へのこの急速な適応はさらに、新疆地域における長期的で相乗的な農耕牧畜民と農耕民の関係を示唆します。漢の制度はある意味で、自身をこの組織網に組み込み、適応させました。石城子遺跡の被葬者の遺伝学的および古食性的特性の多様性から、漢人とアルタイ諸語話者の農耕および農耕牧畜人口集団は広範囲に石城子を使用した、と示唆されます。屯田制と漢様式土器窯の両方から示唆されるように、これは典型的に導入された漢の空間でした。
しかし、漢人と非漢人の埋葬が、この時期の非漢人の五銖銭の存在、およびこの期間の新疆全体の農耕牧畜民の竪穴式土坑墓により区別できるかもしれない一方で、この共有された埋葬室の慣習的使用および石城子との両集団の長期の関連の観察は、より長期的で慣習的な調和の証拠としてさらに考慮されるべきです。本論文の証拠は、農耕民と農耕牧畜民両方の屯田制度への長期の適応を示しており、これは新疆地域に深く刻まれ、適応が示唆しているかもしれないよりも柔軟な過程です。これは、漢帝国の西域の新たな考古学資料が発掘され、科学的考古学の手法で分析されるにつれて、有望な一連の分析を提供します。
●まとめ
本論文は、漢王朝の国境地域を網羅する最初の古代DNAデータを提供します。これは、同位体および埋葬データと組み合わされ、漢の国境形成と発展の新たな解釈の提案を可能にします。国境の独自性は、複数の配列として理解できます。それは、高度に地域化された状況における農耕と農耕牧畜生活様式の組み合わせ、新たな社会政治的現実への適応、相互利益と集団の個性化の手段の発見です。将来の研究計画では、追加の伝統的および科学的な考古学的分析とともに、本論文で取り上げられた手法を用いて、複数の遺跡様式の分析と、中国北西部における短期および長期の国境の複雑性へのさらなる探求を通じて、漢の国境史の調査の拡張が試みられるでしょう。
参考文献:
Allen E. et al.(2022): Multidisciplinary lines of evidence reveal East/Northeast Asian origins of agriculturalist/pastoralist residents at a Han dynasty military outpost in ancient Xinjiang. Frontiers in Ecology and Evolution, 10:932004.
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.932004
古代DNA解析により、石城子遺跡のヒト標本4点は2集団に分けられ、一方は古代アジア北東部(ANA)関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)をおもに有していましたが、もう一方の集団は後期新石器時代黄河(黄河LN)関連祖先系統が優勢でした。古代DNAと安定同位体の証拠は両方、牧畜民のアジア北東部起源と、漢人農耕民のアジア東部起源を示しますが、それにも関わらず、両者は石城子で単一の埋葬空間を共有していました。したがって本論文は、漢帝国とその周辺地域に代表される浸透性国境を越えた人口集団の複数の起源と独自性の明確な証拠を提供し、初期中華帝国における国境文化の解釈について新たなモデルを提案します。
●研究史
ますます多くの研究が、古代DNA研究と複数の形態の科学的および古典的な考古学分析を組み合わせようとしています。古代DNAと炭素および窒素の同位体の分析は、古代人の起源とヒトおよび非ヒト動物の古食性慣行の知識を改善してきました。そうした学際的手法は、さまざまな状況における古代の人口史と生計への魅力的で新たな洞察を提供できますが、中華帝国の歴史の国境地域への適用は稀でした。この新たな分野の研究手法の採用により、本論文は漢王朝の国境遺跡におけるDNAデータと古食性および他の考古学的証拠との組み合わせを通じて、国境研究に新たな展望を開きます。
2014~2019年に、天山山脈の北側斜面に位置する、新疆の奇台(Qitai)県に位置する石城子遺跡(北緯43度36分59.1秒、東経89度45分43.2秒、海抜1770m)は主要な漢王朝の要塞として特定され、科学的に発掘されました(図1)。遺跡は約11万m²にわたり、放射性炭素年代は、遺跡の居住が紀元前1世紀から紀元後3世紀までだった、と示唆します。複数の建築特徴が明らかになり、年代は屯田(agricultural garrison)の期間でした。これらには、正門、うち固められた土壁(版築)、堀、建物、豊富な土器、瓦、武器、農具が含まれていました(区域A・C・D)。埋葬と単一の漢代様式の窯が区域Bで発掘されました。その後、2020年の研究では、石城子遺跡は漢文化と非漢文化の「坩堝」として特徴づけられ、考古学的証拠を用いて、2000~1700年前頃の比較的温順な気候条件に対する天山山脈の環境への局所的適応が論証されました。以下は本論文の図1です。
紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて、漢帝国と農耕牧畜帝国とアジア中央部の紀元後の人々の間の相互作用は、初期シルクロードの異文化間の交通の頂点とみなされました。現在の中国の歴史書では、漢帝国の武帝(在位は紀元前141~紀元前87年)は紀元前119年頃にこの劇的な変化を起こし、同盟国を探して、漢の北方に隣接する脅威だった匈奴連合を服従させるため、漢の存在を強化しました。その後の漢の皇帝は、「西方地域(おもに現代の新疆に位置します)」における漢軍の配備を強化しました。中国の学者はこの期間における中原から帝国西端への漢民族【という分類を紀元後3世紀までの現在の中国の人類集団に用いてよいのか、疑問は残りますし、本論文の論調は全体的に、漢代の異なる「民族」間の融和を強調しているように思われ、現代の政治目的の観点から警戒すべきところがあるとは思います】の強制移住を歴史学的に記載し、大量に研究してきました(関連記事)。
アジア中央部の多様な生態学的背景に対して、階層化された漢の秩序は屯田と他の定住様式で確立しました。これは漢帝国のユーラシア草原地帯への政治および経済的影響の安定化に役立ちました。しかし実際には、集団間の移住と交流は広範に行なわれた、と考えられています。ある学者は、漢の中心とその周辺との間の「文化的媒介や同化や拒絶や統合」を特徴づけました。石城子遺跡の発掘により、漢と匈奴と西方地域の集団の相互作用の問題はひじょうに興味深い問題の一つとなりました。
本論文は、伝統的な考古学的手法を炭素および窒素同位体、また石城子遺跡の4個体の古代DNA分析と融合させます。石城子遺跡(図1a)は以前に、漢王朝の屯田として確証されました。異なる遺伝的および同位体特性にも関わらず、石城子遺跡では類似の埋葬慣行が共有されていました。これは共通の埋葬空間と恐らくは遺跡の使用についての異なる食性慣行の組み合わせとみなされ、この「相互主義」は漢の拡大および地域的適応と、長年にわたって確立された、柔軟な生計戦略を背景に交渉された、と本論文は主張します。この研究は、漢の移民と西方地域の農耕牧畜民が屯田の状況内で相互作用した方法の論証により現在の知識に寄与し、北西部における漢の国境形成過程の理解に対するあり得る結果を調べます。方法論的手法は考古学と歴史学を組み合わせ、短期および長期の文脈で中華帝国の歴史における国境形成の再評価に役立つでしょう。
石城子遺跡の西側では、10基の埋葬、1頭の生贄とされたウマの遺構、1基の土器窯が発掘されました。埋葬は、竪穴式土坑墓6基、竪穴式横穴墓3基、二段棚式竪穴墓1基(二層台)に分類されます。全て頭を西に向けた個々にうつ伏せになった埋葬で、棺は谷状でした。二層台で発見された内棺と外棺では、ほぞ穴とほぞの構造が採用されました。側室墓M3では漢王朝の五銖銭(wuzhu coin)、側室墓M1では青銅製銘板と青銅製環と鉄刀とさまざまな実用土器が含まれていました。二層台のM2の埋葬は、木製外棺で墓に入れられており、この墓はM1およびM3とは大きく異なります。M2にはヒツジの距骨と絹と漆と玉も埋葬されていました。この埋葬様式と副葬品の選択は、2つの異なる人口集団を強く示唆しており、M3的な漢人集団とM2的な牧畜民集団の可能性が高そうです。石城子遺跡で得られた同位体データと古代DNAデータは、既知のデータと統合されて分析・比較されました。
●放射性炭素年代測定と炭素および窒素の同位体分析
石城子遺跡で回収された考古学資料の全ての加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代は、補足資料の表1に示されており、その年代は紀元前40~紀元後420年(95.4%信頼限界)です。発掘された遺物や中国の歴史文献からさらなる証拠が得られるまで、石城子遺跡は紀元前1世紀から紀元後3世紀まで居住されていた、と考えられます。
図2に示されているように、標本抽出されたヒト遺骸8個体は、窒素15値の違いに基づいて2群に分けることができます。これらのヒト標本の窒素15値の範囲は9.6~14.3%で、さまざまな量のタンパク質の摂取が示唆されます。A群(M1、M2、M4、M5、M6、M8)の平均的な窒素15値は13.8±0.4%で、肉や乳製品など、かなり窒素15が豊富な食料の消費を示唆します。対照的に、B群(M3とM9)の2個体は比較的低い窒素15値(それぞれ9.6%と10.3%)を示し、A群より少ないタンパク質の消費が明らかになります。骨資料の炭素13値の範囲は-16~-18.2%で、C3植物に由来するタンパク質を含む食性の個体群での類似のパターンが示唆されます。全てのデータは補足資料の表4に示されています。以下は本論文の図2です。
図2で示されるように、最も負の炭素13および窒素15値は、炭化したコムギおよびハダカムギの種子の標本に由来します。その範囲は-25.8~-19.8%と3.1~11.8%です。アワとキビで新たに得られた炭素と窒素の安定同位体の結果は、それぞれ-11.9および-11.6%と、9.6および10.7%でした。この作物データは、石城子遺跡におけるC3およびC4作物食品の同位体基準を確立しました。石城子遺跡で回収されたウマ(Equus caballus)の骨の炭素13および窒素15値は、それぞれ-20.2%と5.4%でした。この窒素同位体値はほとんどのコムギおよびハダカムギの穀粒より低かったので、このウマは野生のC3の陸生の草および/もしくは低木により大きく影響される食性だった、と示唆されます。さらに、ヒツジおよびヤギ(20頭)とウシ(4頭)の平均的な炭素13および窒素15値は、それぞれ-18.4±0.5%および-18.9±0.8%と、8±1.1%および8.3±1.6%で、家畜化された草食動物の食性は、おもにエゾムギ属穀物と野生植物に基づくC3植物由来のタンパク質に影響を受けました。
以前の同位体研究では、ヒトのコラーゲンの窒素15値は食性と比較して+3~5%濃縮されている、と論証されました。図2で示されるように、A群のヒトの窒素15値はヒツジおよびヤギの骨、ウシの骨、コムギおよびハダカムギの穀粒より、それぞれ5.8%、5.5%、6.9%高く(3~5%超)、遺跡周辺で見つかった家畜化された草食動物に由来する肉と乳製品を高度に消費していた、と示唆されます。対照的に、B群の平均的な窒素15値は、ヒツジおよびヤギの骨、ウシの骨、コムギおよびハダカムギの穀粒より、それぞれ2%、1.7%、3.1%高い(3~5%もしくは約3%未満)と示されました。さらに、B群の両個体は、石城子遺跡で回収されたイヌ科標本(10.8%)より窒素15値が低く、B群は通常オオムギとコムギを食べ、家畜のヒツジおよびヤギとウシの肉の消費は最小限だった、と示唆されます。もしそうならば、A群の個体は牧畜民を表しており、B群の個体は農耕民だった可能性が高い、と考えるのが合理的です。
石城子遺跡近くの3ヶ所の遺跡で収集された炭素13および窒素15の比較データは、図2で示されます。石人子溝(Shirenzigou)遺跡で見られる農耕牧畜民の平均的な炭素13および窒素15値(図1a)は、それぞれ–18.5±0.4%と12.6±0.7%で、石城子遺跡のA群の個体と食性が類似しており、窒素15が豊富なC3植物由来のタンパク質に顕著な影響を受けた、と示されます。対照的に、河西回廊(Hexi Corridor)の黄万(Huangwan)遺跡と黒水国(Heishuiguo)遺跡の漢人集団の平均的な炭素13および窒素15値は、それぞれ-10±2.3%および10.5±1.5%と、-16±1.7%および10.8±1.1%です。黄万遺跡の個体群の方が炭素13値はずっと豊富ですが、両漢人集団はほぼ同一で顕著に低水準の窒素15値を示す石城子遺跡B群と類似しており、動物性食物の消費はかなり限定的で、集団間の食性類似性の根拠を示す、と示唆されます。したがって、割り当てられた分類の変動性にも関わらず、全体的な植物網内でより広範な北西部漢人の文脈内で考慮すると、石城子集団を農耕民と農耕牧畜民に区分することに確信が持てます。
●古代DNAデータ
石城子遺跡で回収された古代人4個体(M1、M3、M4、M9)のDNAが解析され、核DNAの網羅率は0.0235~0.0646倍、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の網羅率は1.38075(個体M4)~57.2302倍となります。個体M4のmtDNAの網羅率が低いことに要注意です。親族関係分析では、これら4個体すべての組み合わせで無関係と確認されました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、M1がD4c2b、M3がD4j15、M4がD4j7、M9が D4c2cで、すべてmtHg-D4に分類されます。男性3個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、M3がO(M1751)、M4がN1a1a1a1a(CTS1077)、M9がO2a2b2a1a(F4110)ですが、M4の網羅率は低いので、暫定的に分類されています。M3とM9は典型的なアジア東部のYHgに、M4はアジア北東部で優勢なYHgに(暫定的に)分類され、石城子遺跡人口集団の父系での二重起源が示唆されます。
主成分分析(PCA)では、石城子遺跡の4個体が2群に別れる、と観察されました(図3)。個体M1とM4はPCA図の上部で新石器時代から鉄器時代のモンゴル高原東部の古代人およびバイカル湖の金石併用時代(銅器時代)狩猟採集民(HG)とクラスタ化します(まとまります)。前者にはモンゴルN(新石器時代)とウランズーク石板墓(Ulaanzuukh_SlabGrave)文化と後期匈奴が、後者にはロシアのロコモティフ(Lokomotiv)遺跡とシャマンカ(Shamanka)文化の人口集団が含まれます。石城子遺跡のM3およびM9個体は黄河流域の古代農耕民人口集団および現代漢人とクラスタ化します。以下は本論文の図3です。
K(系統構成要素数)= 4のADMIXTURE分析(図4)は類似のパターンを明らかにし、石城子遺跡の4個体は、異なる祖先系統構成の2群に区分されます。石城子遺跡の個体M1とM4は、おもに古代アジア北東部(ANA)関連祖先系統を有しており、この祖先系統はアムール川流域前期新石器時代個体(AR_EN)により表されるANA狩猟採集民で高い割合を示します。一方、石城子遺跡の個体M3とM9は、後期新石器時代以降の黄河流域雑穀農耕民(関連記事)と類似した遺伝的特性を示します。後期新石器時代以降の黄河流域雑穀農耕民には、黄河流域後期新石器時代(YR_LN)と黄河流域後期青銅器時代~鉄器時代(YR_LBIA)が含まれます。以下は本論文の図4です。
●石城子遺跡住民の二重起源
次に、外群f3分析を用いて、石城子遺跡個体群の遺伝的差異がさらに決定され、石城子遺跡個体群と現代および古代のユーラシア人との遺伝的類似性が定量的に調べられました。その結果、石城子遺跡個体群における高い遺伝的異質性が明らかに例証されました。石城子遺跡個体群のうち、M3とM9が黄河流域雑穀農耕民(YR_LNとYR_LBIA)および現代漢人集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していたのに対して、M1とM4はANA祖先系統をより高い割合で有するアジア北東部人口集団と密接な遺伝的関係を示し、その中には、モンゴル東部N、ロシアのロコモティフ遺跡金石併用時代と悪魔の門(DevilsCave)Nとシャマンカ文化金石併用時代と青銅器時代ウランズーク石板墓文化と、現代のテュルク諸語話者集団が含まれます(図5)。以下は本論文の図5です。
f4統計により上述の調査結果が確証されます。対でのqpWave分析は、外群f3統計と類似のクラスタ化パターンを明らかにしますが、石城子遺跡個体群の遺伝的差異をさらに論証します(図6)。石城子遺跡個体群のうち、M3とM9は遺伝的に黄河流域雑穀農耕民と均一ですが、M1は黄河流域雑穀農耕民だけではなく、モンゴル高原とバイカル湖の狩猟採集民ともクラスタ化します。とくに、個体M4はモンゴル高原およびバイカル湖の狩猟採集民とのみクラスタ化します。
PCAとADMIXTUREとf統計と対でのqpWaveの均質な検証の結果に基づいて、石城子遺跡の4個体は石城子A(M1とM4)と石城子B(M3とM9)に分類されました。石城子Aは、黄河流域雑穀農耕民とは対照的に、モンゴル高原およびバイカル湖の新石器時代狩猟採集民、青銅器時代ウランズーク石板墓文化人口集団とより密接な遺伝的関係を示しました。また石城子Aは、f4(ムブティ人、石城子A;シナ・チベット語族話者、ツングース語族およびモンゴル諸語話者)の正の値に反映されているように、シナ・チベット語族話者とよりも、ツングース語族およびモンゴル諸語話者人口集団の方と多くのアレルを共有しています。
対照的に、石城子Bは、f4(ムブティ人、石城子B;黄河流域住民、モンゴル高原住民)の負の値に反映されているように、モンゴル高原の古代の人口集団とよりも、黄河流域雑穀農耕民の方と近い遺伝的類似性を示しました。また石城子Bは、f4(ムブティ人、石城子B;シナ・チベット語族話者、アルタイ諸語話者)の負の値に示されているように、アルタイ諸語話者集団とよりもシナ・チベット語族話者方と多くのアレルを共有しています。以下は本論文の図6です。
さらに、qpWaveとqpAdmを用いて、祖先系統供給源の数と、石城子遺跡集団の妥当な混合モデルが調べられました。少なくとも2つの祖先系統の流れが、石城子遺跡の両集団の起源を示唆している可能性が高そうです。石城子Aのモデル化は、ほぼANA祖先系統で構成されるモンゴル高原古代人口集団の子孫である可能性が高い、と示されました。一方、単一の供給源としてウランズーク石板墓文化集団との1方向モデル化は、モンゴルN北方を外群一式に含めると失敗したものの、推定割合で25.8±7.9%で他の供給源としてアミ人(Ami)を含めた場合のみ、適合した2方向モデルが得られました。
1供給源としてのYR_LNとのモデルは、石城子Aの遺伝的差異の説明に失敗し、農耕民集団からのひじょうに限られた遺伝的影響が示唆されます。石城子Bは、ANA関連祖先系統の人口集団ではなく、YR_LNに祖先系統が由来することにより、その祖先系統構成において完全に異なる特性を示しました。外群一式としてモンゴル北方を追加すると、単一の供給源としてYR_LNを含むモデルは、依然として石城子Bへの適合を提供します。石城子遺跡個体の、M3とM9・M1・M4の個体水準での混合モデル化結果は、それぞれ集団水準での石城子Bおよび石城子Aの結果と一致します。
●匈奴と烏孫のつながり
漢代には、その北方の牧畜政権だった匈奴がモンゴル高原で繁栄しました。石城子遺跡住民と匈奴との関係の可能性は、さらに調査する価値があります。本論文では、匈奴人口集団は遺伝的に東西に分類され、東群(初期匈奴残余、後期匈奴、後期匈奴漢)は、支配的なアジア北東部もしくは漢人関連祖先系統を示します(関連記事)。石城子遺跡の個体M4も、f4(X、ムブティ人;M4、初期匈奴残り)の負の有意な値に反映されているように、初期匈奴残余と遺伝的クレード(単系統群)を形成する、と分かりました。対でのqpWave分析も、石城子遺跡の個体M1とM4が後期匈奴漢と遺伝的クレードを形成すると論証し、M4は後期匈奴との一定の類似性も示しました(図6)。
武帝の治位中およびその後、西域における漢の大戦略は、「遠方諸国と提携し、近隣諸国を攻撃する(遠交近攻)」として歴史的に記述されました。つまり、西域諸国と同盟し、脅威である匈奴との戦いを有利にしようと考えたわけです。強力な烏孫国家は、その後に漢により同盟を求められた同時代のそうした国家の一つでした。この歴史的情報を念頭に置いて、本論文は石城子遺跡集団と烏孫集団との間の関係も調べました。f4分析(検証対象X、ムブティ人;石城子遺跡集団、烏孫)は、石城子遺跡集団と、祖先系統の大半がユーラシア西部集団に由来する、アジア中央部の烏孫および康居人口集団との間の遺伝的に有意な違いを示しました。Xには、シンタシュタ(Sintashta)文化やゴヌル・テペ(Gonur Tepe)遺跡青銅器時代やアナトリア半島新石器時代の個体群など、ユーラシア西部集団が含められました。
石城子遺跡個体群と、石人子溝遺跡および天山山脈東部の北側斜面の鉄器時代農耕牧畜遺跡および新疆の標本との間の遺伝的関係も調べられました。f4分析(検証対象X、ムブティ人;石城子遺跡集団、石人子溝遺跡集団)が実行され、石城子遺跡集団の両方と石人子溝遺跡集団との間の有意な違いが観察されました。石城子遺跡集団は石人子溝遺跡集団よりも多くのアジア東部祖先系統を有していました。これは、両遺跡間の直接的移住の可能性の誤りを明らかにします。
●考察
この研究は、石城子遺跡に関する証拠の組み合わせを提示しました。それは、人口集団の古遺伝学と、古食性の炭素および窒素の同位体分析と、発掘された埋葬です。石城子遺跡住民は、2つの別々の遺伝的集団と古食性パターンに分けられます。DNAと安定同位体分析のこの組み合わせは、伝統的な考古学および歴史文献では利用できない手法で、漢代(新代の断絶を挟んで紀元前202~紀元後220年)における石城子遺跡の農耕牧畜民と農耕民の共同利用の可能性が高いことを決定的に論証しました。しかし、遺跡空間と埋葬データの使用は、違いの表現とともに、これら異なる集団間の密接な相互作用を示します。次に本論文は、石城子遺跡の両集団は同時代で、各集団は漢代の辺境駐屯地の社会的および政治的生活の両方に関わっていた、と主張します。石城子遺跡のヒトの食性パターンの新たな炭素および窒素同位体の証拠、および石人子溝と黄万と黒水国という他の3ヶ所の遺跡の同位体データ(図1a)との統合は、牧畜と農耕の生計戦略が石城子遺跡周辺の共有された社会政治的環境内で維持された、との主張を強化します。
石城子遺跡の証拠は、漢の国境制度内の生活様式の理解の更新に役立ちます。考古学的データの配列が広がると、漢の国境の考古学を世界的な文脈にも位置づけられ始めるかもしれません。たとえば、ローマ国境の形成過程の考古学は、以前には農耕牧畜と農耕の相互作用の問題に取り組んできました。特定の生態系内での植物の栽培化と動物の家畜化の過程の絡み合い、つまり農耕と牧畜の経路の人為的で厳格な区分とは対照的な「相互主義」の関係を強調した議論に依拠し、先行研究ではローマ帝国辺境の農耕牧畜と農耕の相互主義の強調が主張されました。その後の研究はこの議論に基づいて、「管理された」辺境だけがあらゆる種類の相利共生的関係を現実的に含めることができる、と指摘して批判しました。
石城子遺跡には、漢人と非漢人のある程度の「統合」と「調和」がありましたが、帝国の行政的支配と「警察」の表象下では、そうした「相互主義」も新たな社会政治的現実への局所的な知識と適応を表していた、と分かります。考古学的に言えば、漢の制度はこれら農耕民と牧畜民により適応されました。個人の生計と富の観点では、農耕牧畜民の可能性が高い個体M2の印象的な副葬品は、地元のエリートが自らのより広い人脈内で漢の制度を信じて、恐らくじっさいに受け入れた、と示唆しているかもしれません。対照的に、個体M3のような漢人移民の剥き出しの埋葬は、これらの地域に移動した漢人の大半が、奴隷的もしくは囚人的な地位だったことを示唆する文献証拠と一致して、その生活の地位がかなり低かったことを示唆します。今後、漢代とその前後の時期の新疆地域の都市に関する研究や、地方と漢帝国の形成過程の相互関連と地域的な時間的先例を浮き彫りにする研究が進むよう、期待されます。
本論文のDNAと古食性分析は、石城子遺跡の生活様式と生計、したがって他の漢代辺境駐屯地についての判断能力も改善しました。2000年代初期の社会考古学的文献に触発された最近の生物考古学的研究は、その主題をこの複雑な閾値刺激空間内の「具体化された」個体群とみなし始めました。石城子遺跡では、生計経路と遺伝的背景の多様性が、相互に利益をもたらす牧畜民および農耕民集団の「具体化された」国境独自性へと合体しました。農耕牧畜集団は経済および政治的利益のために石城子駐屯地に属し、そうした決定の長期的結果を通じて、国境の現実の具体化部分になったかもしれません。
次に、屯田制度へのこの急速な順応が、農耕集団間の双方向関与とともに、農耕牧畜民の適応により等しく促進された可能性も、示唆され始めます。漢の空間へのこの急速な適応はさらに、新疆地域における長期的で相乗的な農耕牧畜民と農耕民の関係を示唆します。漢の制度はある意味で、自身をこの組織網に組み込み、適応させました。石城子遺跡の被葬者の遺伝学的および古食性的特性の多様性から、漢人とアルタイ諸語話者の農耕および農耕牧畜人口集団は広範囲に石城子を使用した、と示唆されます。屯田制と漢様式土器窯の両方から示唆されるように、これは典型的に導入された漢の空間でした。
しかし、漢人と非漢人の埋葬が、この時期の非漢人の五銖銭の存在、およびこの期間の新疆全体の農耕牧畜民の竪穴式土坑墓により区別できるかもしれない一方で、この共有された埋葬室の慣習的使用および石城子との両集団の長期の関連の観察は、より長期的で慣習的な調和の証拠としてさらに考慮されるべきです。本論文の証拠は、農耕民と農耕牧畜民両方の屯田制度への長期の適応を示しており、これは新疆地域に深く刻まれ、適応が示唆しているかもしれないよりも柔軟な過程です。これは、漢帝国の西域の新たな考古学資料が発掘され、科学的考古学の手法で分析されるにつれて、有望な一連の分析を提供します。
●まとめ
本論文は、漢王朝の国境地域を網羅する最初の古代DNAデータを提供します。これは、同位体および埋葬データと組み合わされ、漢の国境形成と発展の新たな解釈の提案を可能にします。国境の独自性は、複数の配列として理解できます。それは、高度に地域化された状況における農耕と農耕牧畜生活様式の組み合わせ、新たな社会政治的現実への適応、相互利益と集団の個性化の手段の発見です。将来の研究計画では、追加の伝統的および科学的な考古学的分析とともに、本論文で取り上げられた手法を用いて、複数の遺跡様式の分析と、中国北西部における短期および長期の国境の複雑性へのさらなる探求を通じて、漢の国境史の調査の拡張が試みられるでしょう。
参考文献:
Allen E. et al.(2022): Multidisciplinary lines of evidence reveal East/Northeast Asian origins of agriculturalist/pastoralist residents at a Han dynasty military outpost in ancient Xinjiang. Frontiers in Ecology and Evolution, 10:932004.
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.932004
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