ヨーロッパ南部とアジア南西部の大規模な古代ゲノム研究
ヨーロッパ南部とアジア南西部に関する3つの大規模な古代ゲノム研究が公表されました。それは、ヨーロッパ南部とアジア南西部の古代から中世の人類遺骸の古代ゲノムデータを報告した研究(Lazaridis et al., 2022A)と、メソポタミア古代人のゲノムデータを報告した研究(Lazaridis et al., 2022B)と、総説的な研究(Lazaridis et al., 2022C)です。以下それぞれ、L論文A、L論文B、L論文Cと呼びます。日本語の解説記事もあります。
◎L論文A
文学的および考古学的資料は、遺伝学により補完できる、青銅器時代以降のヨーロッパ南部とアジア西部の豊かな歴史を保存してきました。ギリシアのミケーネ期エリートは一般人と変わらず、いくらかの草原地帯祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する人々と、グリフィン戦士のようなそれを有さない他の人々の両方を含んでいました。同様に、ヴァン湖周辺のウラルトゥ王国の中央地域の人々は、王国北部の州の人々に特徴的な草原地帯祖先系統を欠いていました。アナトリア半島の人々は、ローマ帝国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)期にいたるまで並外れた連続性を示し、人々はローマ市自体を含むローマ帝国の大半の人口統計学的中核として機能しました。中世には、スラブ語およびテュルク語話者と関連する移住がこの地域に大きな影響を与えました。
●研究史
古代の著述家の作品は、古代世界への強力な洞察を提供し、さまざまな集団と政治組織と習慣と関係と軍事紛争に関する情報を記録しています。写本の伝統は、過去の地中海やアジア西部の文化の文献も含む考古学的記録により増加してきました。本論文は古代DNAの力を活用し、過去の国家や帝国に暮らしていた人々について第三の情報源を提供します。これらの側面の多くは、記載されている事象と近い時代の古代の文献において、記録されてきたか、示唆されてきました。しかし、完全に客観的な文献はなく、全ての文献は必然的に著者の偏見と世界観により形成されます。古代DNAはその長所と短所が備わった独立した証拠を提供し、それ自体で過去の全体像を描くことはできません。それにも関わらず、古代DNAは古代の文献と考古学的証拠を補完します。遺伝的データの使用により、とくに人々の移動と生物学的表現型について、古代DNAデータがない場合よりも過去の過程の微妙な痕跡を得られる、と期待できます。
本論文(L論文A)は、他の2本の論文(L論文BとL論文C)とともに、いわゆる「南アーチ(Southern Arc、アナトリア半島とヨーロッパ南東部およびアジア西部におけるその近隣)」の人口集団の遺伝的歴史の包括的な考古遺伝学的分析の一部となります。完全なデータセットの記述と分析の枠組みと銅器時代と青銅器時代の人口史の特徴づけは、L論文Cで述べられます。新石器時代の人口史の分析は、L論文Bで述べられます。本論文は、文献の情報もある人々に焦点を当てます。本論文の主題は、文献での洞察が遺伝的データによりどの程度裏づけられるのか、あるいは裏づけられないのか、検証することと、さらに、遺伝学がどのような補完的な情報を提供できるのか、調べることです。古代の文献を参照するさいには、ペルセウス電子図書館などオンライン書庫での文章検索のための標準的略語が用いられます。本論文は、青銅器時代末に始まり、紀元前千年紀とローマ帝国から現在までの3000年間にわたる地域史をたどります。
●青銅器時代のエーゲ海世界
先行研究で論証されてきたのは、ミノア期(紀元前3500~紀元前1100年頃となるクレタ島の青銅器時代全体)とミケーネ期(ギリシア本土その周辺の島々、中期ヘラディック期後半から後期ヘラディック期末となる青銅器時代後半)のギリシアの青銅器時代文化では、その祖先系統の大半がアナトリア半島農耕民と関連するこの地域の新石器時代住民にさかのぼる、遺伝的に類似した人口集団が居住していた、ということです(関連記事)。本論文は、これらの考古学的文脈と関連する人々をミノア人およびミケーネ人と呼びますが、そうした人々はほぼ確実に自身を考古学により定義されたこの枠組み(ミノア人とミケーネ人)とは考えていなかったでしょうし、じっさい後述のように、ミノア文化やミケーネ文化と関連する人々の祖先系統には広範な遺伝的差異があった、と認識しています。
ミケーネ人とミノア人は両方、ギリシアの新石器時代住民と比較して余分な「東方」コーカサス関連祖先系統を有していますが、ミノア人には欠けていた幾分の草原地帯祖先系統を集団として取り上げられたミケーネ人が有していた点で、相互に異なっていました(関連記事)。本論文は、以前には報告された古代DNAデータなしで複数の遺跡に地理的標本抽出を拡大し、以前に刊行された、ペロポネソス半島とサラミス島からのミケーネ人の古代DNAデータと、ラシティ(Lasithi)およびモニ・オディギトリア(Moni Odigitria)遺跡からのミノア人の古代DNAデータを補完します。クレタ島からは、ザクロス(Zakros)遺跡の中期ミノア文化の1個体が報告されます。
ギリシア本土の文脈では、ギリシア中央部からの最初のミケーネ人のデータが報告されます。これは以前には標本抽出されていなかったコリントス地峡北部地域で、アッティカとフォキダ(Phokis)県のデルポイ(Delphi)近郊のカストラウリ(Kastrouli)とフティオティダ(Phthiotis)県のロクリス(Lokris)が含まれます。ペロポネソス半島のコリントス地峡南部では、ピュロス(Pylos)の「ネストール宮殿(Palace of Nestor)」とその近郊から多くの個体のデータが報告され、ミノア期クレタ島で多くが作られた何百もの貴重な人工物とともに、大きな石造墓に埋葬された30~35歳頃となる若い男性エリートのグリフィン戦士(Griffin Warrior)が含まれます。
青銅器時代の変化を文脈化するには、青銅器時代の前の遺伝的景観を特徴づけることが重要です(図1)。これについては、新石器時代住民から始め、南アーチ完新世人口集団について開発された5供給源モデルを用いて、祖先系統の割合が推定されました。それには供給源の代理として、コーカサス狩猟採集民(CHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代民、セルビアの鉄門(Iron Gates)のバルカン半島狩猟採集民、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)の新石器時代住民が含まれます。ペロポネソス半島の新石器時代ギリシア人だけではなく、ギリシア北部の新石器時代ギリシア人も、CHG関連祖先系統を8~10%有する、と推定されます(図1C)。ヨーロッパ南部と新石器時代人口集団において一般的に少量のCHG関連祖先系統が見つかり、これはCHG関連祖先系統がないヨーロッパ中央部および西部のパターンとは異なります。これは、さまざまなアナトリア半島新石器時代人口集団からヨーロッパへの複数の移住の波の証明を提供します。以下は本論文の図1です。
CHGとEHG両方の関連祖先系統は青銅器時代エーゲ海では増加し、同時にアナトリア半島関連祖先系統は減少しており(図1)、ミケーネ期ギリシア人はCHG関連祖先系統を21.2±1.3%、EHG関連祖先系統を4.3±1.0%有しています。バルカン半島のヤムナヤ(Yamnaya)文化と「高地草原地帯」クラスタ(まとまり)におけるこれら構成要素の均衡のとれた割合を考えると、エーゲ海地域のEHG構成要素はそれ自体がもたらされたのではなく、CHG関連祖先系統の量とほぼ一致することに伴っていたので、CHG関連祖先系統の残りは21.2-4.3=16.9%となります。これにより、草原地帯の移民と、その構成要素にCHG関連祖先系統を約18.5%含んでいたに違いない人口集団とが混合した、と推測できます。とくに、ミノア人におけるCHG関連祖先系統の推定割合は、18.3±1.2%でほぼ同じです。
したがって、本論文の分析は、以前に提案された二つの仮説の一方を強く裏づけることにより、後期青銅器時代人口集団の起源に関する問題を解決します。つまり、ミケーネ人はヤムナヤ文化的な草原地帯からの移民の子孫とミケーネ人的な基盤との混合の結果で、これまであり得る代替的なシナリオとされてきた、アナトリア半島新石器時代住民的な基盤と、東方からのアルメニア人的な人口集団との混合の結果ではない、というわけです。この代替的なシナリオはさらに、ギリシア南部のキクラデス諸島とエウボイア島からの前期青銅器時代に属する紀元前2500年頃の先ミケーネ期個体群が、21.2±1.7%のCHG関連祖先系統を有しており(関連記事)、本論文の推定割合と一致し、予測されたミノア人的基盤についての直接的証拠を提供する、という事実と矛盾します。
ミケーネ人がヤムナヤ文化的な草原地帯に由来する人口集団とミノア人もしくは前期青銅器時代エーゲ海的人口集団との1:10の比率での混合としてモデル化できる事実から、ミノア人の形成への地理的に中間(草原地帯とエーゲ海地域との間)の人口集団の寄与はわずかだった、と示唆されます。この結論は、以下の点によりさらに裏づけられます(L論文C)。第一に、エーゲ海基盤集団の推定20%と比較して、バルカン半島の新石器時代住民におけるCHG関連祖先系統は5%と低いことです。第二に、他のヨーロッパ南東部人口集団とは対照的に、エーゲ海地域ではバルカン半島狩猟採集民関連祖先系統がほぼ存在しません。第三に、エーゲ海地域のすぐ北の最小限の在来祖先系統を伴うヤムナヤ文化的個体群が、前期青銅器時代のアルバニアとブルガリアに存在することです。ミケーネ人の祖先へと草原地帯祖先系統の拡大を媒介した人々の遺伝的構成が何であれ、エーゲ海地域人口集団への草原地帯の遺伝的影響は量的にはわずかでした。ミケーネ人におけるヤムナヤ文化関連の草原地帯祖先系統の割合は、北方のバルカン半島住民の1/3程度、東方のアルメニア住民の1/2程度、鐘状ビーカー(Bell Beaker)および縄目文土器(Corded Ware)文化と関連するヨーロッパ中央部および北部の人口集団の1/5~1/3程度の水準です。
ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民祖先系統の指標としてのEHG祖先系統は、クレタ島東端のザクロスの新たに報告された中期ミノア文化1個体には存在しません。この女性個体の祖先系統は以前の報告と概して似ていますが、顕著なレヴァント混合(30.5±9.1%)が伴い、その個体が東方からクレタ島への移民であるか、過去の民族的多様性が早くもホメロス『オデュッセイア』で言及されている、構造化されたクレタ島人口集団の一部だったことと一致します。
EHG祖先系統もミケーネ期個体群には存在しなかった、と示されます。これは、ギリシア本土とクレタ島との間の対照が顕著だったものの、EHG祖先系統の浸透が後期青銅器時代においてギリシア本土人口集団の全体に到達せず、ミケーネ文化遺跡内ではかなり変動があったことさえ示唆します。ピュロスのネストール宮殿の最古(紀元前1450年頃)の個体であるグリフィン戦士は、遺伝的にエーゲ海地域の一般的な人口集団のちょうど真ん中に位置するので、完全にエーゲ海地域在来の可能性が高そうです。この男性個体ではEHG祖先系統が検出されないのに対して、ピュロス宮殿で発見された残りのミケーネ期の個体群には平均して4.8±1.1%のEHG祖先系統があります。この発見は、この男性個体もしくはその祖先のクレタ島起源と一致するかもしれません。あるいは、ピュロス宮殿の後の2個体(一方は宮殿近くの玄室墓に、もう一方は石棺墓に埋葬されました)のように、この男性個体はEHGとの混合がなかったギリシア本土人口集団に由来するかもしれません。
EHG祖先系統の差異は、短い地理的距離の規模と同じ期間内で観察されます。コリクレピ・スパタ(Kolikrepi-Spata)に埋葬されたアッティカの標本の4個体(紀元前1450年頃)は、2±1%のEHG祖先系統しか有しておらず、これは近隣のサラミス島およびペロポネソス半島で標本抽出された個体群よりずっと少なくなっています。これは、プラトン『メネクセノス(Menex)』など、古典期アテナイが遠い過去には他のギリシアの都市国家よりも移民が少なかった、との主張は真実の要素を有していたかもしれない、と示唆しますが、そうした地理的パターンの決定的な確立にはより大規模な標本が必要でしょう。
北方からの移民は、たとえ控えめなものであれ、ギリシア本土全体で影響を残しました。これは男性系統でも証明されており、たとえば、ネストール宮殿の父系親族の組み合わせ間の稀なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b2(PF7562)の一致があり、このYHgは後期青銅器時代ミケーネ文化ギリシア人と、ヤムナヤ文化個体群と遺伝的に類似しているコーカサス北部リソゴルスキヤ(Lysogorskyja)の前期青銅器時代1個体とを結びつけます(関連記事)。ヤムナヤ文化個体群とのこの父系のつながりは、エリート埋葬の地位のある草原地帯祖先系統の一般的な関連性として解釈されるべきではありません。それは、本論文のミケーネ期個体群の大半を構成する一般人も草原地帯祖先系統を有していたのに対して、グリフィン戦士など一部のエリート構成員は草原地帯祖先系統の有意な証拠を有していないからです。
草原地帯祖先系統拡大期における同じ文化的状況の、他の個体よりも草原地帯祖先系統が少ないエリート1個体の類似の事例は、ブリテン島のストーンヘンジ埋葬景観の最も豪勢な墓である「エイムズベリーの射手(Amesbury Archer)」でも見られます(関連記事)。これら2事例は、社会的支配の物語と遺伝的祖先系統を混同する落とし穴を浮き彫りにします。エーゲ海地域への初期の草原地帯からの移民の社会的役割が何であれ、そうした移民は地元民との混合を排除するか、あるいは地元民が権力の地位に就くことを妨げる体制を確立しませんでした。この包括性は、移民と地元民が混ざり合ってミケーネ期人口集団の祖先を形成したように、エーゲ海地域における草原地帯祖先系統のかなりの希釈を説明できるかもしれず、一方では草原地帯祖先系統を通じてインド・ヨーロッパ人の残りと、他方ではギリシア語祖語話者に先行するエーゲ海地域の人々とつながる、ギリシア語の起源にも光を当てるかもしれません。
ピュロスの父系親族2個体のうち1個体(I13518)は、イトコ間の子供でした。そうした近親婚はミケーネ社会エリートだけではなく、青銅器時代南アーチのさまざまな場所で記録されており、その中にはオジと姪の間の子供である可能性が高い、クロアチアのベスダンヤカ(Bezdanjača)の1個体(I18717)が含まれます。これは、新石器時代に始まった近親交配慣行(関連記事)がその後も続いていることを示しますが、これが分析された埋葬の人口集団の偏った部分集合の結果なのか、それとも社会全体の文化的選好を反映しているのかは、本論文の利用可能な標本では解決できません。「英雄時代」の古典期の神話的記述におけるそうした近親交配は、著者自身の時体にまで続いた慣行を反映していますか?より多くの場所の古代DNA研究によって、一握りの遺跡から推測される配偶選好のこれらのパターンをより高解像度で特徴づけることができます。
●ギリシア植民期
本論文は、ミケーネ期の青銅器時代個体群と遺伝的に類似していた、南アーチとそれ以外両方の個体群の特定により、ギリシア植民期(紀元前8世紀~紀元前6世紀)と関連する人口統計学的パターンの予備的概観を報告します。これは、ギリシア本土のフォキダ県のデルポイ近郊のカストラウリで発見されたアルカイック期の1個体を特定し、スペイン北東部のギリシア植民地アンプリアス(Empúries)で発見された個体群は、ギリシア本土のミケーネ期個体群と遺伝的にひじょうに類似しています。アンプリアスは、自身を現在のフォキダ県からの植民者と言っていた、アナトリア半島西部のポカイア人(Phocaeans)による辺境植民地でした。したがって本論文は、地中海にわたる、ほとんど混合のない、長い伝達の連鎖の末端を把握します。アンプリアス個体群の祖先系統は、この連鎖の始まりにさかのぼれるか、あるいは別の遺伝的に類似の供給源に由来しますか?まだギリシア植民地世界の人々の標本抽出は多くありませんが、地中海と黒海沿岸に広がった多様なギリシア植民地の体系的標本抽出は、特定の主要都市植民地のつながりの証拠の体系的検証と、在来人口集団と移民との混合、および遺伝的異質性がギリシア植民地で果たした役割の程度の記録を可能とするでしょう。
ミケーネ期に典型的な祖先系統は、ペリシテの考古学的文脈と関連するアシュケロン(Ashkelon)の1個体の事例のように、地中海東部にも拡大しました(関連記事)。トラキア内陸部カピタン・アンデュレボ(Kapitan Andreevo)の数個体のミケーネ人の遺伝的特性との類似性も示され、ミケーネ人が遺伝的に、後期青銅器時代エーゲ海地域圏外であるバルカン半島東部の一部のトのラキア人と類似していた、と示唆されます。これは、遺伝的類似性と文化的類似性の混合の危険性を浮き彫りにする警告を提供します。
アナトリア半島沿岸地域は、ギリシアの植民の別の領域を形成し、アナトリア半島の大半はアレクサンドロス大王の後継者たちにより確立されたヘレニズム王国に組み込まれ、ヨーロッパ南東部からアナトリア半島への人口移動の機会を提供します。しかし、ミケーネ人的な個体は、エーゲ海地域の現代のボドルム(Bodrum)に相当するハリカルナッソス(Halicarnassus)など紀元前千年紀のギリシア植民地遺跡や、黒海地域の現代のサムスン(Samsun)に相当するアミソス(Amisos)では見つかっていません。このパターンはイベリア半島のアンプリアスとは質的に異なっており、アナトリア半島の初期ギリシア入植者が最初に植民した時にアナトリア半島の地元のカリア人(Carian)女性と結婚した、とのヘロドトスの記述と一致します。それは、アレクサンドロス自身の結婚と、その配下の征服したペルシア帝国の女性との結婚を想起させます。明らかに、ギリシア人はギリシアの一部では自身を非ギリシア人と社会的および繁殖的に分離しており、他の地域ではそうではありませんでした。将来の研究の重要な主題は、地元の共同体の人々と混合したギリシア人と相関していた要因を特定することです。
●ウラルトゥ王国とイランおよびメソポタミアの近隣諸国
上述のように、エーゲ海は限定的なEHG浸透の地域で、それにも関わらず、EHG祖先系統がごくわずかだった近隣のアナトリア半島と区別されます(L論文C)。さらに注目すべき事例は、トルコ東部とアルメニアの山地で地理的に断片化された地域に位置する鉄器時代のウラルトゥ王国で、この地域では言語学的景観が青銅器時代と鉄器時代には複雑だったに違いありません。トルコのチャウシュテペ(Çavuştepe)のヴァン湖とアルメニアにおけるその北方拡張部に位置するウラルトゥ王国中心部の人々は、物質文化により強く結びついており、わずか200km離れて埋葬されていましたが、ウラルトゥ王国初期(紀元前9~紀元前8世紀)には、ほとんど重ならずに異なる遺伝的クラスタを形成していました(図2)。ヴァン湖クラスタは、ヴァン湖地域における近隣のムラディエ(Muradiye)の先ウラルトゥ王国人口集団(紀元前1300年頃)とも連続的で、より多いレヴァント祖先系統と草原地帯祖先系統の欠如により特徴づけられます。それは、前期鉄器時代の先ウラルトゥ王国個体群のように、レヴァント祖先系統が少なく、いくぶん草原地帯祖先系統を有する、アルメニアのウラルトゥ王国期個体群のクラスタとは対照的です(L論文C)。
本論文の遺伝学的結果は、この地域における言語学的関係の形成の説明に役立ちます。より多くのレヴァント祖先系統を有するヴァン湖中核集団の人口連続性は、ウラルトゥ王国の非インド・ヨーロッパ語族言語を、より南方の分布ではシリアとメソポタミア北部を含む前期青銅器時代フルリ語と結びつけた、フルリ・ウラルトゥ語族(Hurro-Urartian language)とよく対応しているかもしれません。このフルリ・ウラルトゥ語族言語圏の周辺には、草原地帯混合人口集団が北方から到来し、その存在は草原地帯集団拡大の南端を示します。この上述の草原地帯集団拡大とそのウラルトゥ語話者との近接性は、ウラルトゥ語の単語をアルメニア語の語彙に組み込んだ過程を提供するでしょう。以下は本論文の図2です。
ウラルトゥ王国個体群をその近隣のイラン北西部の鉄器時代ハサンル(Hasanlu)遺跡の個体群(紀元前1000年頃)と比較すると(図2E)、ハサンル人口集団はいくらかのEHG祖先系統を有しているものの、アルメニアの同時代人よりもその割合は低い、と観察されました。ハサンル人口集団は、同じYHg-R1b1a1b1b(M12149)の存在によりアルメニア人ともつながっており、青銅器時代草原地帯のヤムナヤ文化人口集団と関連しています(L論文C)。この場合、どの言語が話されたのか、明らかではありませんが、この人口集団は、イラン語群話者の最も近縁な言語であるインド・アーリア語群話者の祖先となる、草原地帯人口集団に属するアジア中央部および南部の、高い割合のEHGのYHg-R1a1a1b2(Z93)を有する集団(関連記事)との関連を示しません。
現代イラン人はYHg-R1a1a1b2(Z93)もしくはより一般的なその上位系統のYHg-R1a1a(M17)を有しており、これはイランの多様な19人口集団の全てと現代インド人で見られ、現代イラン人ではほぼ完全にYHg-R1bが存在しません(1%未満)。したがって、YHg-R1aが古代と現代のインド・イラン人の間の共通のつながりを表しているように見える一方で、多くのハサンル男性が有していたYHg-R1bはそうではありません。ハサンル遺跡の男性16個体におけるYHg-R1aの欠如は、ハサンル遺跡の男性が代わりにアルメニア人と父系では関連していることから、(アルメニア人と関連しているか、非インド・ヨーロッパ語族の在来人口集団に属する)非インド・イラン人の言語がそこで話され、イラン語群は紀元後千年紀にやっとアジア中央部からイラン高原にもたらされたかもしれない、と示唆されます。
最後に、アッシリア北部メソポタミアの後期青銅器時代(紀元前1250年頃)の単一個体は、EHG祖先系統を欠いている点でウラルトゥ王国のヴァン湖個体群と類似しており、レヴァント常染色体祖先系統の量が最高で(42.8±5.3%)、強いレヴァントとの地理的関連がある派生的なYHg-J1a2a1a2(P58)を有しており(L論文C)、歴史の大半でこの地域において話されて記録されてきた言語など、セム語族話者だった可能性があります。考古学と歴史的文献は、古代近東の政治的地理について豊富な情報を供給しており、将来の遺伝学的研究は、自発的な移住もしくは国家政策により実施された人々の強制移動に起因する、人口集団の変化を解明するでしょう。
●ローマ帝国とビザンツ帝国の人口集団のアナトリア半島起源
イタリア中央部に位置するローマ市の古ゲノム時間横断区(関連記事)は、帝政期(紀元前27~紀元後300年)における近東への祖先系統の移行を特定しましたが、この現象を引き起こした移民の起源を突き止められませんでした。本論文は、イタリア半島のデータと南アーチのデータとの共分析により、これら帝政期ローマの地理的供給源の特定を試みました。意外にも、帝政期においてローマ周辺に居住していた、ゲノムを分析された人々の標本の祖先系統は、差異の平均(図3A)およびパターン(図3B)の両方で、アナトリア半島のローマ帝国およびビザンツ帝国の個体群とほぼ同一だったのに対して、帝政期以前のイタリア半島の人々は、ひじょうに異なる分布を示しました(関連記事)。
多様なローマ帝国とビザンツ帝国と中世の個体群およびその直前の個体群を、その人口集団分類表示を用いずにまとめると、イタリア半島とアナトリア半島の個体群が先ローマ期アナトリア半島個体群とクラスタ化するのに対して、ローマ市周辺の先帝政期の人々は系統的に異なっていた、と分かりました(図3C)。これは、ローマ帝国がより短命の西部とアナトリア半島を中心とするより長命の東部の両方で、多様ではあるものの、アナトリア半島の先帝政期供給源にかなりの程度由来する、類似の人口集団を有していた、と示唆します。
歴史の皮肉で、共和政ローマは紀元前1世紀におけるポントス王国のミトリダテス6世により集められたアナトリア半島人に対しての実際の軍事闘争で優勢だったものの、ローマ帝国へのアナトリア半島の最終的な編入とその後の接続性増加は、ほぼ同じアナトリア半島人がローマ帝国自体の人口統計学的機関になる舞台を設置したかもしれません。これは歴史時代に、アエネアスとそのアナトリア半島からイタリア半島沿岸へのトロイ人の亡命の神話の旅を再現しました。以下は本論文の図3です。
南アーチは、2~3世紀のローマ期の黒海地域のサムスンで標本抽出された2個体など、歴史時代における地域外からの多くの移民の受け入れ地域でもありました。これらの個体は、EHG祖先系統といくぶんのユーラシア東部祖先系統を有しており、それは銅器時代以来、アマスィヤ(Amasya)における前期青銅器時代の移行にわたって、またポントス王国(紀元前1世紀)の時代に至るまで、安定してきた黒海地域の在来人口集団(関連記事)とは対照的です。
ローマ帝国期からビザンツ帝国期におけるアナトリア半島の広範な遺伝的安定性は孤立を意味しているわけではなく、レヴァントかヨーロッパ北部かドイツと、イベリア半島起源の可能性が高い外れ値が、ニカイア大聖堂(Basilica of Nicaea)もしくは現在のイズニク(Iznik)、およびエルデク(Erdek)のゼイティンリアダ(Zeytinliada)のある、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の帝都に近いマルマラ(Marmara)地域で見つかっており、より多様な外国人を惹きつけたかもしれません。他の外れ値は、鉄器時代におけるモルドヴァやルーマニアといった南アーチ周辺で、以前に議論された初期草原地帯移民のずっと後に見つかっています。これらは、アジア中央部スキタイ人個体群のユーラシア東部混合のため、独特です(関連記事1および関連記事2)。
●アナトリア半島とバルカン半島への中世の移住
ユーラシア東部祖先系統は、14~17世紀にさかのぼるトルコのエーゲ海沿岸のカパリパグ(Çapalıbağ)における注目すべき外れ値一式の特定にも役立ちます(図4)。これら外れ値個体は、トルコのビザンツ帝国期個体群とは異なり、ユーラシア東部祖先系統を18%程度有しており(図4B)、アジア中央部の影響を示唆しています。ローマ帝国およびビザンツ帝国とアジア中央部の供給源を用いると、混合年代の推定値はその12世代前で(図4C)、混合は11世紀のアナトリア半島へのセルジューク・トルコの到来および拡大の前後の期間に起きた、と示唆されます。現在のトルコの個体群の混合年代推定値は30.6±1.9世代前(図4D)、したがって同じ紀元後二千年紀初期の数百年となり、アナトリア半島の支配圏がローマ人からセルジューク人、最終的にはオスマン人へと移行したことと一致します。
アジア中央部テュルク諸語話者の現代人への遺伝的寄与は、現代トルコ人におけるアジア中央部祖先系統(9%以下)と、標本抽出されたアジア中央部古代人(41%以下~100%)の比較により暫定的に推定できます。本論文での現代トルコ人の標本は、トルコ共和国全体で8ヶ所に由来するので、一般的な人口を広く表しています。遺伝的データは、トルコ人が本論文で網羅される何千年もの間アナトリア半島に居住していた古代人と、テュルク諸語を話すアジア中央部から到来した人々両方の遺産を有している、と示します。以下は本論文の図4です。
中世は、現在の人口集団の遺伝学的分析に基づいて、バルカン半島へのスラブ人の移住により特徴づけられました。それは、6世紀のプロコピウス(Procopius)などの歴史文献にも記録されており、その頃にスラブ人集団はビザンツ帝国と接触するようになりました。バルカン半島の現在の南スラブ人は、スラブ語話者の主要な集団の一つで、その起源にどの移民が役割を果たしたのか、という問題は、中世までほとんど証明されていない、この言語群がどのようにヨーロッパ東部の大半に拡大するに至ったのかについて、理解する上で興味深いものです。本論文は、アルバニアとブルガリアとクロアチアとギリシアと北マケドニアとセルビアのローマ帝国期とビザンツ帝国期と中世の個体群を浮き彫りにし、そうした個体群は、バルカン半島における先行する個体群およびヒト起源配列(Human Origins Array)で遺伝子型決定された現代人の刊行データとともに研究されました(図5)。以下は本論文の図5です。
アナトリア半島新石器時代祖先系統の減少は、ヨーロッパ南東部における長期の過程で、それによりスラブ人の移住に先行する人々と現代の人口集団を区別できるようになります。この祖先系統の構成要素に沿って個体群を並べると(図5)、バルカン半島外の現代スラブ人が最も少ないのに対して、バルカン半島のスラブ人に先行する住民は最も多く有しており、ヨーロッパ南東部の現代人はこの両極の中間に位置します。ブルガリアのサモヴォデーネ(Samovodene)、北マケドニアのビトラ(Bitola)、クロアチアのトロギル(Trogir)の3個体(700~1100年頃)は、この祖先系統を最低水準で有しています。古代ギリシアの植民者により設立された、クロアチアのアドリア海の港湾都市であるトロギルのほとんどの個体は、ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Tarnovo)てリャホヴェッツ(Ryahovets)の12世紀の個体群、および4世紀半ばのギリシアのマラトンのローマ期1個体のように、700~900年頃まで現代人と重なっていましたが、マラトンの個体には、現在の人口集団では一貫して見つかるバルカン半島狩猟採集民祖先系統がありませんでした。
最後に、スラブ人の移住に先行する、アルバニアの中世(500~1000年頃)の3個体とブルガリアのボヤノヴォ(Boyanovo)の古代末期(500年頃)の1個体は、アナトリア半島新石器時代祖先系統を高水準で有するそれ以前の人口集団と重なりました。現代人では、ギリシア人とアルバニア人が、南スラブの隣人よりも多くのアナトリア半島新石器時代祖先系統を有しています。スラブ人の移住は、ヨーロッパ南東部へのヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の子孫の拡大の、約3000年後に呼応しています。両事象は変化をもたらしましたが、その類推が行き過ぎてはなりません。中世の移動は、アヴァール・カガン国やビザンツ帝国など複雑な国家と関わる大規模で組織化された共同体により行なわれており、ヤムナヤ文化期にはこれに匹敵する政治形態は存在しませんでした。まとめると、本論文のデータから示唆されるのは、バルカン半島集団は中世に祖先系統の変化を経たものの、地元民と移民の融合は多様で、多様な祖先系統の個体群が中世には存在して現在まで存続した、ということです。
●ユーラシア西部の文脈における南アーチの表現型
南アーチの人口集団に関する本論文の調査は祖先系統に焦点を当てていますが、生物学の他の側面も明らかにします。色素沈着など表面的な表現型は、古代の著述家により指摘されました。本論文は、経時的なユーラシア西部人口集団の予測される色素沈着および他の表現型の調査を実行し、古代の著述家の認識が、古代人の外見の遺伝的推測とどの程度対応している可能性があるのか、見つけます。ユーラシア西部古代人における目と肌と髪の色素沈着の形態上の表現型は、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の間でさえ、茶色の目、中間的な肌の色、茶色の髪であり、青い目と明るい色の肌および髪という、草原地帯の人々の典型的な特徴づけとは矛盾します。中間など、連続的な肌の濃淡の表現型の分類を使用する場合には、HIrisPlex-Sにより採用された分類表を参照することに要注意です。その参照表では、中間的な肌の色は一般的に地中海人口集団で、明るい肌の色は現在のヨーロッパ北部人で見つかります。
一般的な色素脱失の傾向は経時的に見ることができ(図6)、茶色の髪と中間的な肌の色の増加に伴って、黒い髪とより濃い色の肌は減少していきます。しかし、南アーチの住民は平均して全期間にわたって、その北方(南アーチ外のヨーロッパおよびユーラシア草原地帯として定義されます)の人々よりも顕著に濃い色素沈着を有しており(図6)、ケルト人やスキタイ人など、北方の一部集団でより一般的だとして明るい色素沈着表現型を指摘した、古代の著述家の特定の裏づけを提供します。古代の著述家による別の対比は、エジプト人やエチオピア人など、より濃い色素沈着と言われているアフリカの人々とのものでした。南アーチの人々とその南方の隣人との比較は、地中海の南側に居住している人々のゲノムデータが利用できると、可能になるでしょう。
複合色素沈着表現型を調べると(図6D)、平均的な色素沈着は南アーチとその北側の人口集団間を区別しましたが、明るい表現型は、類似の初期の年代において両地域で見つかり、最近の数千年では並行して増加した、と観察されます。ユーラシア西部の明るい色素沈着は、歴史時代まで続いた経時的な選択の結果で、19世紀と20世紀の一部の著述家が提案したようなインド・ヨーロッパ語族古代人の到来や、あるいは一部のギリシア・ローマの著述家が当時観察したパターンの説明に仮定した気候の直接的影響の産物ではありません。経時的なヒトの表現型の柔軟性と、暗い色や明るい色や中間的な色などいずれであれ、空間全体における多様な色の存在は、ヒトの文化と生物学のより意味のある側面を犠牲にして表面的な特徴を過度に強調する、偏見のある歴史観を弱めます。以下は本論文の図6です。
本論文は、考古学および文献の証拠と合わせて、古代世界のさまざまな文化の人々の考古遺伝学的研究の可能性を示します。古代の文書には、紀元前5世紀末にアテナイ人のクセノフォンが遭遇し、『アナバシス』で記録された多くの部族など、ほとんど知られていない集団記述が充分にあり、その時クセノフォンとその仲間の傭兵は、メソポタミアから北方へと黒海に逃れました。古代のこれらや他の命名された実態がどの程度、いつか古代世界の遺伝的景観に基づいて位置づけられるかもしれない祖先集団に相当したのでしょうか?古代DNAは、これら忘れられた人々の物語の一部を生き返らせ、その遺産に敬意を表します。
◎L論文B
本論文は、メソポタミア(本論文の対象地域では現在のトルコ南東部とイラク北部に相当)とキプロス島とザグロス北西部の先土器新石器時代の最初の古代DNAデータを、新石器時代アルメニアの最初の古代DNAデータと共に提示します。これらの地域およびその近隣の人口集団は、アナトリア半島とコーカサスとレヴァントの狩猟採集民と関連する新石器時代前の供給源の混合を通じて形成され、アジア西部の地理を反映する祖先系統の新石器時代連続体を形成する、と本論文は示します。アナトリア半島の先土器および土器新石器時代人口集団の分析により、先土器時代人口集団はメソポタミア関連供給源と在来の続旧石器時代関連供給源との間の混合に由来するものの、土器新石器時代人口集団は追加のレヴァント関連遺伝子流動を経た、と本論文は示すので、肥沃な三日月地帯の中心部からアナトリア半島の初期農耕民への、少なくとも2回の移住の波が証明されます。
●研究史と標本
先行研究は、ひじょうに分化した、古代アジア西部の新石器時代人口集団(関連記事)、およびコーカサス(関連記事)とイラン(関連記事)とアナトリア半島(関連記事)とレヴァント(関連記事)の新石器時代前の祖先の一部の存在を実証してきました。本論文は、アナトリア半島とヨーロッパ南部およびアジア西部におけるその近隣を含むものとして定義される南アーチの統合的なゲノム史を定着させるため(L論文C)、最初の新石器時代人口集団がどのように形成されたのか、とくにメソポタミア北部(もしくは上部)の先土器に焦点を当て、理解しようとしました。
メソポタミアは、トルコ南東部とイラク北西部とシリア北東部のティグリス川とユーフラテス川の間の地域で、先土器新石器時代の相互作用圏内にあります。考古学的記録におけるメソポタミアの中心性にも関わらず、初期メソポタミア農耕民のゲノム規模古代DNAデータは刊行されていませんでした。この研究は120万ヶ所の一塩基多型(SNP)について溶液内濃縮を用いて、メソポタミア北部のティグリス川の先土器新石器時代農耕民を調べます。その内訳は、トルコ南東部のマルディン(Mardin)近くのボンクル・タルラ(Boncuklu Tarla)遺跡の1個体と、イラク北部のネムリック9(Nemrik 9)遺跡の2個体です。
本論文は、アナトリア半島の南部とレヴァントの西部に位置するキプロス島の先土器新石器時代データも報告します。キプロス島では、地中海東部からの先土器新石器時代農耕民の最初の海洋拡大がありました。本論文のデータは、キッソネルガ・ミルトキア(Kissonerga-Mylouthkia)遺跡の、使用されておらず水で満たされていた井戸で断片的な遺骸が発見された3個体に由来します。
さらに本論文は、アルメニアの新石器時代の最初の古代DNAデータを報告します。これは、紀元前六千年紀のマシス・ブルール(Masis Blur)およびアナシェン(Aknashen)遺跡で埋葬された2個体に由来します。これらの個体は内陸部土器新石器時代人口集団を表しており、本論文はメソポタミア北部からアルメニアの南方に位置する先土器新石器時代人口集団、東方に位置するアゼルバイジャンの土器新石器時代人口集団、アルメニアのその後の銅器時代個体群と比較します。
最後に、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟のベスタンスール(Bestansur)およびザウィ・チェミ(Zawi Chemi)遺跡で、ザグロス北部の先土器新石器時代農耕民3個体が標本抽出され、この3個体はより西方および北方の個体群とイランのザグロス中央部の既知のデータとの間の間隙を埋めます。新たに標本抽出された個体群の詳細(L論文C)とその時空間的分布は、図1で示されます。以下は本論文の図1です。
分析の統計的検出力を改善するため、以前に報告されたデータで多くの個体のデータ品質も向上させ、イスラエルの続旧石器時代となるナトゥーフィアン(Natufian)の4個体、ヨルダンの先土器新石器時代6個体、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)およびメンテシェ(Menteşe)遺跡で構成されるマルマラ東部地域の新石器時代9個体の、追加の古代DNAライブラリが生成され、配列決定されました。マルマラ東部からは、バルシン遺跡の1個体とイリピナル(Ilıpınar)遺跡の以前には標本抽出されていなかった2個体も標本抽出されました。これら3ヶ所の遺跡の個体群は遺伝的に類似しており、それらは同じ遺跡の後の銅器時代個体群とともに、アナトリア半島後期の研究(L論文C)において分析されます。
●分析結果
主成分分析(PCA)が実行され(図2A)、ユーラシア西部現代人の差異に古代の個体群が投影されました。その結果、2つのクラスタが現れました。一方は、「地中海東部」アナトリア半島およびレヴァントクラスタで、キプロス島の地理的に中間の個体群も含み、もう一方は「内陸部」のザグロスとコーカサスとメソポタミアとアルメニアとアゼルバイジャンのクラスタです。これら集団内には構造があります。アナトリア半島個体群は相互およびキプロス島の個体群とまとまるのに対して、レヴァントの個体群は区別されます。
内陸部クラスタ内では、ジョージア(グルジア)のコーカサス狩猟採集民(CHG)やザグロス中央部のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡個体群といったコーカサス南部の個体群など、地中海から地理的により遠い個体群は、メソポタミアとアルメニアおよびアゼルバイジャンの地理的および遺伝的に中間の個体群と比較して、遺伝的にもより遠くなっています。
地中海東部および内陸部クラスタは、図2Aでは間隙により分離され、たとえばメソポタミア北部のユーフラテス川地域など、標本抽出位置間の地理的に中間の地域と対応しているかもしれません。新石器時代アジア西部は全体的に、CHG、ガンジュ・ダレー、レヴァント(イスラエル)のナトゥーフィアン、アナトリア半島中央部の続旧石器時代プナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡の個体群により形成された四角形の差異の範囲内に囲まれています。以下は本論文の図2です。
関連研究(L論文C)では、共通の測定基準で、南アーチ全体の時空間の個体群の祖先系統の割合推定のため、数学的枠組みが開発され、新石器時代へのこのモデルの適用の結果が議論されます。このモデルは祖先系統供給源の代理として、CHG、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代農耕民、セルビアの鉄門遺跡のバルカン半島狩猟採集民、アナトリア半島北西部のマルマラ地域のバルシン遺跡のアナトリア半島新石器時代農耕民を含んでいます。
この枠組み内で、アナトリア半島関連祖先系統の最高の割合は、新石器時代アナトリア半島人口集団とキプロス島初期農耕民で観察されます。ボンクル遺跡の先土器新石器時代人口集団とプナルバシュ遺跡の続旧石器時代1個体は、両方バルシン遺跡の土器新石器時代個体群に数千年先行しますが、そのバルカン半島狩猟採集民と関連する類似性は、これらのより古い個体群がヨーロッパ狩猟採集民と混合したことを示唆しません。むしろそれは、バルシン人口集団との比較において、プナルバシュおよびボンクル両遺跡の個体群が「よりレヴァント的ではない(図2A)」という事実を反映しており、以下の分析により明らかにされる土器新石器時代人口集団へのレヴァントからの流入と一致する調査結果です。
対照的な事例は、アナトリア半島およびレヴァント勾配に沿って「より多くレヴァント的」で、その祖先系統全てがレヴァント先土器新石器時代供給源に由来する、と推測されるナトゥーフィアン個体群です。もちろんこれは、初期ナトゥーフィアン個体群がその後の先土器新石器時代農耕民の子孫であることを意味するのではなく、両者が(じっさいにはナトゥーフィアン個体群から先土器新石器時代農耕民までの)祖先系統を共有しており、その祖先系統は5方向モデルの限界内でこの方法でモデル化される、ということです。同様に、内陸部のガンジュ・ダレー人口集団は、その祖先系統の全てが5方向モデルで用いられたCHG供給源に由来し、CHG関連祖先系統の水準は内陸部人口集団で高く、つまり、ザグロス北部、アルメニア、アゼルバイジャン、メソポタミア北部です。
このモデル(図2)とその後の分析(図3)により明らかにされた、キプロス島における高いアナトリア半島関連祖先系統は、キプロス島に先土器新石器文化を広めた人々の起源についての議論に光を当てます。生計と技術と集落構成と観念的標識の類似性は、キプロス島における先土器新石器時代Bの人々と本土の人々との間の密接な接触を示唆していますが、キプロス島の先土器新石器時代人口集団の地理的供給源は不明で、可能性のある多くの起源地が指摘されてきました。内陸部ユーフラテス川中流供給源は、建築および人工物の類似性に基づいて提案されてきました。しかし、キプロス島先土器新石器時代Bにおける動物相の記録と、石材としてのアナトリア半島黒曜石の使用は、アナトリア半島中央部および南部とのつながりを示唆しており、遺伝的データは、アナトリア半島中央部における主要な供給源というこのシナリオを支持する証拠の重みを増加させます。以下は本論文の図3です。
アルメニアのアナシェン遺跡(紀元前5900年頃)とマシス・ブルール遺跡(紀元前5600年頃)の2個体は、数世紀離れて200kmほどの距離にも関わらず、それぞれコーカサス的であることとアナトリア半島およびレヴァント的であることにより異なります。したがって、アルメニアの新石器時代の人々は均質ではないものの、代わりに近隣のアゼルバイジャンで埋葬された紀元前5700~紀元前5400年頃の2個体も含む差異を示しており、この2個体はPCAと5方向モデルの両方でアルメニアの2個体の中間に位置します。しかし、南方のメソポタミアの個体群との比較において、アルメニアとアゼルバイジャンの個体群はより多くのアナトリア半島新石器時代混合を示しました。
逆に、アナトリア半島中央部の一部の新石器時代人口集団は、プナルバシュ遺跡およびCHG関連祖先系統が明らかではないアナトリア半島北西部の供給源人口集団よりも多くのCHG関連混合を有していますが、アナトリア半島南東部のマルディン遺跡の1個体での推定割合よりも少なく、この個体は、イラク北部のネムリック9の隣人とともに、高いCHG関連祖先系統により特徴づけられる内陸部集団に属します。これらの観察結果は、一方の端のアナトリア半島およびレヴァント勾配と、もう一方の端のザグロスおよびコーカサスの一連の人口集団と関連する内陸部の影響により特徴づけられる、新石器時代連続体の一貫した全体像を形成し、遺伝的に中間の位置を占めるメソポタミアとアルメニアとアゼルバイジャンの個体群が地理的中間に位置します。
刊行順の偏り、つまり、全標本を等しく考慮してモデルを常に推測するのではなく、刊行されたモデルを更新して新たなデータを調節させる傾向を避けるため、新石器時代の新たなデータが以前に刊行されたデータと共分析され、全体として新石器時代アジア西部における遺伝的差異のパターンを説明できる新石器時代起源のモデルに到達しました。新石器時代の連続体はこの分析からも現れ、それは研究対象の全新石器時代人口集団が、アナトリア半島(プナルバシュ遺跡個体)、レヴァント(ナトゥーフィアン個体群)、内陸部供給源(図3AのCHGもしくは図3Bのガンジュ・ダレー個体)を表す新石器時代前の3供給源の混合としてモデル化できるからです。内陸部の2供給源は独立していませんが、第一近似値まで祖先系統の同じ供給源を表しています(図3C)。
供給源人口集団としてCHGもしくはガンジュ・ダレー個体を、外群として他集団を用いて新石器時代人口集団のモデル化を試みると、ほとんどの人口集団で合致する適切なモデルが得られます(さらに、どの人口集団も他よりも適切な供給源ではない、と示唆されます)。例外は、第一にアナシェン遺跡の高いCHG祖先系統で、CHGモデルが却下されませんが、ガンジュ・ダレー個体では却下されます。第二に、アゼルバイジャンとメソポタミアの新石器時代個体群については、両モデルが却下されます。第三に、バルシン遺跡新石器時代個体については、ガンジュ・ダレー個体のモデルが辛うじて却下されませんが、CHGでは却下されます。これらの結果から暫定的に示唆されるのは、CHGとガンジュ・ダレー新石器時代個体が内陸部混合の定量化の目的では互換性があるものの、一部の人口集団はどちらか一方とより明確なつながりがある、ということです。たとえば、アルメニアの新石器時代個体群はイランよりもむしろコーカサス南部の狩猟採集民とつながりがあり、地理的に中間のアゼルバイジャンとメソポタミアは両方とつながりがあります。
●考察
選択された供給源に関係なく、検証データが得られたさいには、アジア西部新石器時代人口集団がその新石器時代前の祖先の単純な子孫ではなかった(そのうち一部は図3A・Bの隅に位置します)、という事実から、混合の一部の歴史がその出現につながったかもしれない、と示唆されます。この過程の詳細は、アジア西部のより古い人口集団の調査によって解明できるでしょう。メソポタミア北部のように、新石器時代前の先行者を利用できない場合、在来の狩猟採集民がその地域最初の農耕民と遺伝的に連続しているのかどうか、あるいは新石器時代への移行全体にわたって混合の歴史があったのかどうか、問題は解決されないままです。これがとくに浮き彫りにするのは、図3の三角図の中間的な人口集団が、モデル化に用いられた隅の人口集団との混合により生じる必要はない、ということです。あるいは、中間的な人口集団は、アジア西部の標本抽出されていない新石器時代前の人口集団、たとえば本論文で調べられた先土器新石器時代農耕民に先行するティグリス川およびユーフラテス川地域の狩猟採集民により、中央に引き寄せられる可能性があります。
相互の混合として新石器時代人口集団のモデル化を試みると、少なくとも、データのほとんどが同じ地域に由来し、先土器新石器時代および土器新石器時代人口集団が刊行されているアナトリア半島では(図3D)、興味深い区別が明確になる、と観察されました。アナトリア半島中央部の先土器新石器時代人口集団は、在来のプナルバシュ遺跡続旧石器時代と関連する集団と、メソポタミア集団とのさまざまな割合(30~70%)の混合としてモデル化でき、アナトリア半島の先土器新石器時代文化は、在来の狩猟採集民と、農耕が初めて出現した東方からの移民両方の寄与で形成された、と示唆されます。しかし、先土器新石器時代アナトリア半島人を単なるこれら2供給源ではモデル化できず、代わりにレヴァント新石器時代個体群との6~23%の混合が必要です。この混合の供給源は不明です。それはレヴァント新石器時代個体群が標本抽出されている南部(ヨルダン)に由来する必要はなく、代わりにゲノム規模データが利用できない地理的により近い供給源、たとえばシリアを表しているかもしれません。シリアでは、ハラフィアン(Halafian)など初期土器新石器文化が繁栄し、それについて、ポリメラーゼ連鎖反応に基づくmtDNAのデータでは代替的シナリオを区別できません。
本論文の結果がメソポタミアとレヴァントの人口集団からの移住およびそれらとの混合を示す一方で、「移住」という用語を使う場合、「移住的な動き」、つまり数年以内の長距離にわたる多数の人々の計画された移動を検出した、と主張しているわけではないことに、要注意です。移住という用語の微妙な違いについては、以前の研究で議論されています(関連記事)。本論文において使用される意味での移住は、意図的である可能性もそうでない可能性もあります。「移住」は少数かもしれませんし、多数の可能性もあります。「移住」は急速なものだった可能性も、何世代にもわたって続いた可能性もあります。遺伝的データにより示唆されるように、一部のそうした移住と混合が起きたに違いありませんが、その原因と経路と詳細な時間性はまだ解明されていません。
さらなる注意は、アナトリア半島土器新石器時代人口集団で検出されたレヴァントの影響は、アナトリア半島への単方向の移住の結果である必要はないものの、アナトリア半島とレヴァントが両地域にまたがる配偶網の一部になった場合にも生じたかもしれない、ということです。この仮説を検証し、双方向で配偶相手の移動があったのかどうか判断するには、レヴァントの土器新石器時代文化のデータが必要です。レヴァント祖先系統は新石器時代に繁栄したかもしれませんが、レヴァント自体(現在のヨルダンとイスラエルとシリアとレバノンの個体群が含まれます)におけるその後の軌跡は、先土器新石器時代から中世にいたる千年ごとに8%程度の減少を示しており、北方(コーカサス)および西方(アナトリア半島)からの関連祖先系統によりほぼ置換されました(図4)。以下は本論文の図4です。
本論文で調べられた新石器時代アジア西部人口集団形成後の、この持続して一様の傾向は、大規模な混合が数千年間続いたことを想起させます。レヴァント新石器時代農耕民の寄与は、起源地となったレヴァントの人々において大きく減少したにも関わらず、この重要な祖先系統供給源はその後の期間の人々にも重要な貢献をしており、現在にいたるまで続き、移住と混合を通じ、南アーチ内およびそれを越えて(L論文CおよびL論文A)、その後の全ての人々の祖先系統の多様性を織り交ぜて作っています。
◎L論文C
本論文は、南アーチの過去1万年間の古代人727個体の配列決定により、広範な遺伝子流動がユーラシア草原地帯と絡み合った、紀元前5000~紀元前1000年頃となる銅器時代および青銅器時代を文脈化します。2つの移住の波が、コーカサスとアナトリア半島およびレヴァントの祖先系統を北方へと伝え、次に草原地帯で形成されたヤムナヤ文化牧畜民はバルカン半島へと南方に、またアルメニアへとコーカサスを横断して拡大し、アルメニアではヤムナヤ文化集団の多くの父系子孫が残りました。アナトリア半島は、アジア西部内の遺伝子流動により変容し、後のヤムナヤ文化移民の影響は無視できるほどでした。これは、インド・ヨーロッパ語族が話される他の全ての地域と対照的であり、インド・アナトリア語族の故地がアジア西部にあり、非アナトリア語派のインド・ヨーロッパ語族は草原地帯から二次的に拡散してきただけだった、と示唆されます。
●標本
バルカン半島とアナトリア半島は、ヨーロッパとアジア両大陸にまたがる相互接続地域の中心ではなく、両大陸にとって地理的に周辺として描かれることがよくあります。本論文は、「南アーチ」と呼ぶ地域(図1A)の体系的な遺伝的歴史の提供により、さまざまな観点を取り上げます。南アーチは大きなアナトリア半島(現在のトルコ)を中心としており、西方ではヨーロッパのバルカン半島とエーゲ海地域、南方と東方ではキプロス島とメソポタミアとレヴァントとアルメニアとアゼルバイジャンとイランを含みます。
本論文は、南アーチの777個体の新たなゲノム規模DNAデータを提示します。そのうち727個体は以前には標本抽出されておらず、以前に刊行されていた50個体については、新たに生成された1094点の古代DNAライブラリから新たなデータが報告されます。将来の標本抽出の試みを導く資料として、本論文は476点の標本の否定的な結果も報告します。これは、537点のライブラリを用いて検査したものの、信頼性の基準を満たす古代DNAデータを生成できなかった事例です。最後に本論文は、DNAが分析された同じ骨格要素について、239点の新たな放射性炭素年代を提供します。本論文はこれらの新たにデータが得られた個体群を、以前に刊行された個体群とともに調べ、古代人の合計標本規模は、この地域で1317個体となります。以下は本論文の図1です。
本論文で新たに報告されたデータは、南アーチの時空間的な多くの標本抽出の間隙を埋めます。トルコ(アナトリア半島)では、本論文の新たな標本抽出は、とくに西部(エーゲ海地域とマルマラ地域)と北部(黒海)と東部(アナトリア半島東部および南東部)の地域に焦点を当てており、これらは南アーチの他地域とつながっている地域です。高密度の標本抽出のもう一方の地域はアルメニアで、石器時代と鉄器時代をかなり網羅しており、以前に利用可能だった個体数よりも一桁多くなっています。青銅器時代から鉄器時代の枠組みの多くの個体は、ハサンルのイラン高原でも標本抽出され、ハサンルでは単一個体が以前に研究されており(関連記事)、アナトリア半島とメソポタミアとアルメニアとコーカサスに隣接するディンカ・テペ(Dinkha Tepe)遺跡でも標本抽出されました。
ヨーロッパ南東部の南部では、エーゲ海の複数地域でミケーネ期個体が標本抽出されました。バルカン半島南部からは、アルバニアの完全な時間横断区が提示されます。以前には単一の新石器時代個体のデータしか刊行されていなかった北マケドニアの多くの個体と、ブルガリアからは以前に利用可能だった古代DNAデータ数の2倍以上が提示されます。さらに北方では、南アーチの西翼において、クロアチアとモンテネグロ、西方ではセルビア、東方ではルーマニアとモルドヴァで標本抽出され、ヨーロッパ中央部とユーラシア草原地帯の広く研究されてきた世界とつながります。このデータセットには100人以上の青銅器時代個体があり、クロアチアのツェティナ川流域(Cetina Valley)とベズダニャカ洞窟(Bezdanjača Cave)の多くの個体が含まれ、クロアチア全域の以前に刊行されたわずか5個体に追加されます。
バルカン半島個体群の一部は、文化的にセルビアとブルガリアのヤムナヤ集団個体を含んでおり、ユーラシア草原地帯のヤムナヤ文化個体群との比較が可能になります。地域全体にわたる大きく強化されたデータセットで、時空間的および文化的文脈での標本抽出の大きな間隙を埋めることができます。本論文の大きな標本規模により、主要なクラスタと遺伝的外れ値の特定が可能になり、人口集団内の差異のパターンおよび近隣集団との接触網についての洞察を提供します。調べられた全個体の詳細は補足資料で見られます。
これらの個体の地理的分布を考察するため、柔軟な手法が採用され、生態学的もしくは地形学的名称を用いる場合も、遺伝的パターンとの整合性に応じて現在の国名を用いる場合もあります。一部の事例では、より具体的な位置情報を使用して正確さを加えます。南アーチの現在の政治地図に通じている読者が容易に利用できる統一された命名法のため、図1のように、3文字の国際標準化機構(International Standards Organization、略してISO)記号を前につけた分類表示のある個体群との比較の集団も参照します。
南アーチの長い歴史において同じ遺跡に複数の局所名が用いられてきており、本論文は通常、その期間もしくは現在の使用に適した分類表示を選択します。本論文は、個体群が暮らしていた期間を指定するため、各地域について慣習的な考古学的名称を用います。たとえば、銅が用いられた文化については、考古学的文献により、金石併用時代(Eneolithic)と銅器時代(Chalcolithic)の名称が用いられます。金石併用時代(Eneolithic)もしくは銅器時代(Chalcolithic)と青銅器時代との間の移行は、南アーチのさまざまな地域で同時に起きたわけではないことに要注意です。各個体の詳細な考古学的情報は上述の補足資料にあり、年代学と地理学と考古学と遺伝学の情報の統合に用いる分析分類表示が明示されます。
●南アーチの遺伝的差異の概観
南アーチの遺伝的差異を理解するため、本論文はADMIXTUREから始めました。ADMIXTUREは、非ユーラシア西部関連祖先系統のある個体の検出と、ADMIXTURE分析で現れるユーラシア西部の4構成要素の観点で差異の広範なパターンの識別を可能とします。それは、イランおよびコーカサス関連、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、アナトリア半島およびレヴァント関連、バルカン半島狩猟採集民です。他のユーラシア西部個体群と南アーチ個体群のPCA(図1C)は、ユーラシア西部の差異の連続体内における南アーチの中心的位置を示し、ヨーロッパ(左側)からアジア西部(右側)へとつなぐ個体群の長い「橋」がありますが、差異の全範囲にわたって個体が広がっています。
南アーチ個体群の祖先系統を定量化するため、qpAdmとF4admix 5を用いて供給源モデル化枠組みが開発されました。これらにより、全体および個体として、南アーチ人口集団の祖先系統の高解像度の記述が可能になります。本論文はこのモデルを生成するため、供給源人口集団の代理の特定の一式を事前に選択しないものの、代わりに、多くのあり得る一式を調べ、できるだけ多くの個体でモデルの統計的適合の品質を最大化する一方で、祖先系統の割合推定において標準誤差を最小化する、自動化された手順を用いました。この手順の適用後、本論文が用いた祖先系統の5供給源は、コーカサス狩猟採集民(CHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代、セルビアの鉄門のバルカン半島狩猟採集民(BHG)、アナトリア半島北西部のバルシン遺跡の新石器時代です。これらは、地中海相互作用地帯のアナトリア半島とレヴァントの端との間のさらなる区別により、4供給源ADMIXTUREモデルに対応します(L論文B)。
これら5供給源は、その記述的都合としての有用性を超えて過度に強調されるべきではありません。第一に、これら5供給源は、関連する供給源と交換可能です。たとえば、新石器時代イラン祖先系統は、CHGと同様に同じ深い祖先系統の大半を捕獲しています。第二に、これら5供給源は自身がそれ以前の(より「遠い」)人口集団に由来しています。たとえば、レヴァン先土器新石器時代農耕民は、同じ地域のナトゥーフィアン狩猟採集民に由来します。第三に、これら5供給源は、その祖先系統を後の(より「遠い」)供給源経由で伝えました。たとえば、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民を通じてのEHG関連祖先系統です。個体の祖先系統の推定割合は補足資料の補足図2~4で要約されており、詳細は補足図28~26で考察されます。
●南アーチの中核としてのアナトリア半島
アナトリア半島の個体群に本論文の5方向モデルを適用すると(図2A~E)、3000年前頃以前には、実質的に全ての祖先系統が在来のアジア西部供給源(以後は「アナトリア」と呼ばれるアナトリア半島北西部、レヴァント、コーカサス)に由来し、ヨーロッパの2供給源(BHGとEHG)からの寄与はごくわずかだった、と直ちに明らかになります。大まかに言えば、経時的傾向は、新石器時代と銅器時代の間のコーカサスおよびレヴァント関連祖先系統の増加と、それに対応するアナトリア関連祖先系統の減少です。
アナトリア半島におけるこの過程をより適切に理解するため、先行する新石器時代と比較して、銅器時代と青銅器時代の地理的亜集団が調べられました(図2F)。アナトリア半島北西部祖先系統は、マルマラ地域のバルシンとメンテシェとイリピナル遺跡の個体群(この祖先系統の構成要素を定義するため、バルシン遺跡個体の高品質データが用いられました)の100%から、アナトリア半島南東部およびメソポタミア北部のマルディン地域の先土器新石器時代個体の16%までさまざまだった、と観察されました。逆に、コーカサスおよびレヴァント祖先系統は、メソポタミア北部の32~50%から、アナトリア半島北西部の0%まで変わりました。以下は本論文の図2です。
アナトリア半島銅器時代の時間的範囲は広く、新石器時代末(紀元前6000年頃)から青銅器時代の開始(紀元前3000年頃)にまでわたります。本論文の分析での個体は、ほぼ後期銅器時代(紀元前4500年頃以後)と青銅器時代全体(紀元前1300年頃まで)です。全地域の銅器時代と青銅器時代の人口集団は両方、一般的に祖先系統の新石器時代範囲内で中間的な混合割合を有しています。これは、銅器時代と青銅器時代の人口集団が、先行する新石器時代人口集団の混合に由来するものとしてモデル化できることを示唆します。
マルマラ地域では、CHG祖先系統は銅器時代と青銅器時代の間で0~33%に増加し、銅器時代個体は本論文では、以前に刊行されたバルシン遺跡の単一個体に、イリピナル遺跡の4個体が追加されます。アナトリア半島中央部地域では、新石器時代のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡(関連記事)およびテペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡の個体群の10~15%から、同様の、銅器時代のキャムリベル・タルラシ(Çamlıbel Tarlası)遺跡(関連記事)個体の33%と青銅器時代のカレヒユク(KaleHöyük)およびオヴァエレン(Ovaören)遺跡の42%までの増加が示されます。
地中海地域(アナトリア半島南西部)では、同じ約1/3の割合が青銅器時代のハルマネレン・ゴンドリュレ(Harmanören Göndürle)遺跡個体に存在しました。エーゲ海地域(アナトリア半島西部)では、青銅器時代に類似の29%が観察されます。したがって、アナトリア半島のより西方の地域(マルマラ地域とエーゲ海地域と中央部と地中海)の個体群は全て、銅器時代と青銅器時代には先行する新石器時代人口集団よりも多くCHG関連祖先系統を有していて、それに対応してアナトリア関連祖先系統は少なくなっており、アナトリア半島を横断して西進したこの祖先系統の拡大は新石器時代の後に起きた、と示唆され、これはレヴァントでも観察されたパターンです。
アナトリア半島のより東方の地域では、東部のアルスランテペ(Arslantepe)遺跡、南東部のバトマン(Batman)県とガズィアンテプ(Gaziantep)県とキリス(Kilis)県とシュルナク(Şırnak)県(新データ)とティトリシュ・ホユック(Titriş Höyük)遺跡、黒海では、アマスィヤ(Amasya)県のデヴレット・ホユック(Devret Höyük)遺跡とイキステペ(İkiztepe)のサムスン(Samsun)遺跡(新データ)において、銅器時代と青銅器時代の人口集団は逆に、マルディン県の先土器新石器時代個体よりもアナトリア半島新石器時代関連祖先系統が多く、CHG関連祖先系統は少なくなっていました。このパターンは、銅器時代を青銅器時代と比較したさいにも観察されます。違いは小さいものの、ハタイ県(Hatay Province)の個体を除いて全て、アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統が増加する方向にあり、ハタイ県の個体では前期銅器時代(紀元前5500年頃)と中期~後期青銅器時代の間(紀元前2000年頃以後)との間に、アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統が減少して、CHG関連祖先系統が増加しました(14~43%)。
全体として、銅器時代と青銅器時代におけるアナトリア半島の遺伝的歴史は、均質化の一つとして特徴づけることができます。銅器時代と青銅器時代には、これらの違いの範囲は大幅に狭まりました。アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統の違いは40%(20~60%)、CHG関連祖先系統の違いは15%(ハタイ県の個体を除いて30~45%)へと半減しました。この均質化にも関わらず、いくつかの祖先系統の違いが存続しました。アナトリア半島において、東部地域では西部地域よりもCHG関連祖先系統が多かったものの、全体的なパターンは、一方にアナトリア半島西部および中央部、もう一方にメソポタミア北部のひじょうに分化した新石器時代人口集団に由来する、アナトリア半島内の遺伝子流動後の減少した差異の一つでした。
アナトリア半島における均質化は、ヨーロッパからの外因性遺伝子流動の不浸透性により結びつき、これは、外部移民の人口統計学的影響を減ずる大規模で安定した人口基盤か、遺伝子流動を妨げる文化的要因により説明できます。アナトリア半島とその近隣地域との間の遺伝子流動の非対称性はたとえば、CHG関連祖先系統がアナトリア半島を横断してバルカン半島へと西進し、またユーラシア草原地帯へと北進したものの、BHG祖先系統はアナトリア半島もしくはさらに東方へと流入せず、EHG祖先系統はアジア西部において南方ではせいぜいアルメニアまで、およびそれより少なくイランまでしか到達しなかった、という事実に明らかです。これは、鉄器時代のウラルトゥ期にさえ当てはまり、その頃には、EHG祖先系統を欠いている人口集団が、ヴァン王国の中心部に依然として存在していました(L論文A)。
●草原地帯牧畜民の起源と拡大
銅器時代と青銅器時代のアナトリア半島におけるヨーロッパ狩猟採集民との混合の欠如は、南アーチの北側と黒海およびカスピ海の北側の進展とは対照的で、黒海とカスピ海では、ヨーロッパ東部と南アーチの人口集団の混合を有する、金石併用時代(この地域では銅器時代の代わりに使われる用語です)と青銅器時代の牧畜民人口集団の形成がありました(関連記事)。草原地帯の個体群を調べると(図3)、紀元前5000年頃以後、CHG関連祖先系統が以前のEHG人口集団に追加され、フヴァリンスク(Khvalynsk)およびプログレス2(Progress-2)遺跡の金石併用時代人口集団を形成した、と観察されます。この祖先系統は、紀元前四千年紀の草原地帯マイコープ(Maykop)文化人口集団において存続しました。しかし、紀元前3000年頃以前のこれら人口集団の全てには、検出可能なアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統が欠けており、遅くとも新石器時代以来少なくとも一部はそうした祖先系統を有していた、南アーチの全ての同時代の人口集団とは対照的です(L論文B)。
南アーチのその後の全期間では、CHG関連祖先系統はそれ自体では決して見つからず、むしろ常にさまざまな程度でアナトリアおよびレヴァント祖先系統と混合していました。これが示唆するのは、金石併用時代草原地帯におけるCHG関連祖先系統の供給源が何であれ、それは南アーチで標本抽出された差異の範囲に由来しなかった可能性がある、ということで、その理由は、これがアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統をもたらしたからです。これは、金石併用時代草原地帯におけるCHG関連祖先系統の近位供給源は、金石併用時代までアナトリアおよびレヴァント関連の遺伝子流動を経なかった、標本抽出されていない集団で探されるべきであることを示唆しています。おそらく、この人口集団はコーカサス北部に存在し、そこからアナトリアおよびレヴァント関連ではなくCHG関連祖先系統が金石併用時代草原地帯に入ってきたかもしれません。以下は本論文の図3です。
金石併用時代草原地帯人口集団は、有意なアナトリア(3±1%)およびレヴァント(3.5±1%)関連祖先系統を有する紀元前3000年頃までの個体群のヤムナヤ文化クラスタとは対照的です(図3A)。この推測は、さまざまな時間深度のヤムナヤ祖先系統の詳細な分析により裏づけられ、少なくとも2つの南方供給源に由来する、と示唆されます。一方の供給源は金石併用時代で、CHG祖先系統のみを有しています。もう一方の供給源はヤムナヤ文化クラスタの形成前となり、(深い供給源として)CHG祖先系統か、アルメニアの新石器時代の人々と関連する祖先系統(より近位の供給源)か、コーカサスからアナトリア半島南東部にかけての銅器時代の人々と関連する祖先系統(さらに近位の供給源)に加えて、アナトリアおよびレヴァント関連祖先系統を含んでいます。紀元前四千年紀のコーカサス北部のマイコープ文化人口集団におけるより直接的で地理的に近い供給源も、提案されてきました。
現時点で正確な供給源を限定できませんが(全候補は同じアナトリアとレヴァントとコーカサスの祖先系統のさまざまな組み合わせを有しています)、それはこの銅器時代のコーカサスとアルメニアとアナトリア半島東部および南東部におけるメタ個体群(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)に由来し、このメタ個体群は、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の前身へと南アーチ祖先系統の第二の波をもたらしたに違いありません。この第二の波の遺伝的寄与は、ヤムナヤ文化集団におけるアナトリアおよびレヴァント祖先系統の合計と同じくらい低く6.5%か、組み合わされたCHGとアナトリアおよびレヴァント祖先系統の合計と同じくらい高く53.1%だったかもしれません。その下限値の可能性は低く、それは、CHG祖先系統が銅器時代にはアジア西部において遍在しており、そのうち一部は6.5%にまで追加されねばならないからです。上限値もありそうになく、それは、全てのCHG祖先系統は第二の波で北方へと流入した、と示唆されているので、金石併用時代草原地帯への独立した流入の証拠は無視されるからです。本論文のモデル化は21~26%と、6.5~53.1%の範囲の中間的な値を示唆しており、これは将来、より適切な供給源がアジア西部と草原地帯の両方で明らかになるにつれて、更新されるかもしれない推定値です。
考古学的証拠は、西方草原地帯人口集団が、ククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTCC)や球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)などヨーロッパ農耕民集団とどのように相互作用したのか、記録しており、以前には、そうした集団の祖先系統はヤムナヤ文化集団の祖先系統に寄与した、と提案されました(関連記事)。本論文の遺伝学的結果は、このシナリオと矛盾します。それは、ヨーロッパ農耕民がそれ自体、アナトリア半島新石器時代祖先系統とヨーロッパ狩猟採集民祖先系統の混合だからです。しかし、ヤムナヤ文化集団はヨーロッパ人をアジア西部農耕民と区別するヨーロッパ狩猟採集民祖先系統を欠いており、本論文の5方向モデルではレヴァント祖先系統とアナトリア祖先系統の比率は1:1で、ヨーロッパ農耕民におけるアナトリア祖先系統の圧倒的優勢とは対照的です。
以前の研究(関連記事)の、CHGとEHGとヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とアナトリア新石器時代の祖先系統のモデルは失敗し、それは、以前のモデルがレヴァント農耕民との共有された遺伝的浮動を過小評価していたからで、レヴァント農耕民のヤムナヤ文化集団への寄与は、そのモデル下では説明できません。これらの結果は、ヤムナヤ祖先系統の構成要素の祖先の起源探求を、草原地帯の南側および南アーチの東翼へと確実に移行させます。南方から草原地帯への2回の移動の最も直接的な供給源の判断は、これら3構成要素の違いのある人口集団が存在する、アナトリア半島とコーカサスとメソポタミアとザグロス地域全体でのさらなる標本抽出に依拠するでしょう。同様に、草原地帯側では、金石併用時代(先ヤムナヤ文化期)個体群の研究が、CHGの北方への浸透の動態を明らかにして、特徴的なヤムナヤ文化クラスタ出現の可能性の高い地理的領域を特定できるかもしれません。ヤムナヤ文化クラスタは紀元前五千年紀半ばの混合の常染色体兆候を有しており、草原地帯の金石併用時代個体群により提供された最初の南方の影響の直接的証拠と一致する、と本論文は示します。
ヨーロッパ本土へのEHGおよびアジア西部祖先系統両方の拡大におけるヤムナヤ文化的人口集団の役割は以前に認識されていたものの(関連記事)、アジア西部祖先系統の一部が草原地帯祖先系統の拡大とは別に、エーゲ海地域やシチリア島(関連記事)や、ずっと西方のイベリア半島(関連記事)にさえ青銅器時代までにヨーロッパに入ったことも、明らかになりました。ヤムナヤ文化集団においてCHG祖先系統からEHG祖先系統を引くと0%と観察され(図4B)、これにより、ヨーロッパ本土への草原地帯の移民が(不均衡なCHGとEHGの構成要素を有する)さまざまな草原地帯人口集団に由来するのかどうか、ということと、(EHGもしくはCHGどちらかの祖先系統をより多く有しており、したがって、差がゼロから遠ざかる)追加の移住が起きたのかどうか、両方の検証が可能になります。以下は本論文の図4です。
ヨーロッパの縄目文土器および鐘状ビーカー複合の個体群は全て、この2つの構成要素の均衡がとれた存在(ヤムナヤ文化的人口集団を通じて伝わったことと一致します)と一致している、と分かりました。第三の「北方」供給源がかなり関わっている、と示唆されてきたボヘミアの縄目文土器複合(関連記事)でさえ、違いはEHG祖先系統の3.1±2.1%の過剰という小さな違いで、本論文の統計分析の解像度の限界まで、ヤムナヤ文化集団により伝わったことと完全に一致します。これはヨーロッパ南東部には当てはまらず、エーゲ海地域(ミノ人とミケーネ人の両方で17%程度)だけではなくバルカン半島全体(7.4±1.7%、国単位の推定値は4~13%)で、青銅器時代個体群はEHG祖先系統に対してCHG祖先系統の過剰を有していました。
この過剰について考えられる説明は、ヨーロッパ南東部の新石器時代基層における5.2±0.6%と少量のCHG構成要素の存在です。この割合は、ハンガリーのスタルチェヴォ・ケレス(Starčevo-Körös)文化複合、フランス、スペイン、オーストリアとドイツとハンガリーの線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)という、別々の前期新石器時代4人口集団では0~1%と推定されます。したがって、ヨーロッパ中央部・北部西部と比較してのヨーロッパ南東部における青銅器時代CHG祖先系統は、新石器時代からのこの対比を再現しているかもしれません。しかし、エーゲ海地域(L論文A)で観察されるさらに高い水準(図3B)は、前期青銅器時代までの新石器時代の後の追加の遺伝子流動を示唆します(関連記事)。
●ヨーロッパ南東部における地元と草原地帯とアジア西部の祖先系統の相互作用
ヨーロッパ南東部はユーラシア草原地帯およびアナトリア半島と地理的に接しており、その遺伝的歴史(図4)は、8500年前頃に始まるアナトリア半島新石器時代農耕民による在来のBHGの部分的置換に始まり、その後のEHG祖先系統を有する5000年前頃となる草原地帯人口集団の拡大が続くという、両方つながりの痕跡が残っています(関連記事)。青銅器時代はアナトリア半島における部分的な均質化の期間でしたが、上述のように、ヨーロッパ南東部ではかなり対照的な時代でした。
この異質性の一側面は、在来のBHG祖先系統自体の保持で、これは(南アーチ内の)バルカン半島でのみ検出されたので、南アーチの他地域からのかなりの移住は排除されました。BHG祖先系統は青銅器時代に変化し、地理と関連していました。ルーマニア内では顕著な対照が見られ、本論文の新たなデータでは、BHG祖先系統は、ボドログケレスツル(Bodrogkeresztúr)遺跡銅器時代の42個体の祖先系統の12%、アルマン(Arman)のカルロマネスティ(Cârlomăneşti)遺跡とプロイェシュティ(Ploieşti)、およびカルパチア山脈の南側のタルグソル・ヴェチ(Târgşoru Vechi)の青銅器時代10個体では24~30%です。
BHG祖先系統が37%程度の鉄門遺跡近くとなるセルビアのパンディナ(Padina)遺跡の他の青銅器時代個体と合わせると、これらの結果は、バルカン半島北部において、アナトリア半島新石器時代および草原地帯祖先系統両方の到来に先行するかなりの狩猟採集民祖先系統保持を証明します。これは、新石器時代と青銅器時代どちらの人口集団も顕著なBHG祖先系統を有していなかったエーゲ海地域のバルカン半島南端とは対照的で(L論文A)、この地域の新石器時代の前の人口集団が、バルカン半島北部(BHG的)とアナトリア半島西部(したがって、アナトリア半島新石器時代人口集団と類似しています)のどちらかとより類似していたのか、という問題を提起します。
青銅器時代の不均質性の主要な動因は、散発的な銅器時代の出現後にヨーロッパ南東部で遍在するようになった、EHG祖先系統の出現でした。これはモルドヴァのいくつかの青銅器時代遺跡において最も明らかで(31~44%)、地下墓地(Catacomb)および多突帯文土器(Multi-cordoned Ware)文化の遺跡や、ルーマニアのカルパチア山脈の東部および南東部斜面のトレスティアナ(Trestiana)およびスメエニ(Smeeni)遺跡の個体群を含んでおり、アルマンの高い割合のBHG祖先系統を有する集団とは対照的です。モルドヴァの地下墓地文化とコーカサスの個体群間の対照も検出され、それはかなりのアナトリア半島新石器時代祖先系統(17±4%)を有するプルカリ(Purcari)遺跡の個体が原因で、黒海の反対側にあるこの文化内の一定の異質性を示唆します。バルカン半島の他の個体については、EHG祖先系統の量は15%程度で、ミケーネ期ギリシアでは4%、ミノア期クレタ島では無視できる水準にまで低下します(L論文A)。
本論文は、個体群の「高い割合の草原地帯祖先系統」一式を特定し、これは、同時代の個体群と比較してEHG祖先系統を異常に高い割合で有していた(図4B)、青銅器時代のバルカン半島個体群に使われる用語です。これには、ブルガリアのノヴァ・ザゴロ(Nova Zagora)およびクロアチアのヴチェドル(Vučedol、Vucedol)遺跡の以前に刊行された2個体と、アルバニアのシナマク(Çinamak)遺跡の青銅器時代1個体(紀元前2663~紀元前2472年頃)と文化的にヤムナヤ集団の4個体を含む、新たに報告された5個体が含まれます。文化的にヤムナヤ集団の4個体の内訳は、セルビアのヴォジュロヴィカ・フムカ(Vojlovica-Humka)遺跡の1個体、ブルガリアのボヤノヴォ遺跡の2個体、モギラ(Mogila)遺跡の1個体です。
全体としてこのバルカン半島集団は、35.9±2.5%のEHG祖先系統、36.4±1.9%のCHG祖先系統、23.0±1.9%のアナトリア半島新石器時代祖先系統を有しており、ヤムナヤ文化集団では、その割合がそれぞれ、46.1±1.0%、46.±1.6%、3.0±1.0%です。つまり、ヤムナヤ文化集団と同じ均衡のCHGおよびEHG祖先系統であるものの、究極的にはアナトリア半島起源の在来の新石器時代祖先系統により約1/5に希釈されています。
DATESを使用してヨーロッパ南東部人口集団における草原地帯祖先系統の混合を年代測定すると(図5F)、4850年前頃に起きた、との推定値に達します。つまり、正確にヤムナヤ文化の拡大後で、本論文の「高い割合の草原地帯」クラスタ個体群の時間枠内です。これは、(最初の概算として)青銅器時代以後のヨーロッパ南東部における草原地帯祖先系統が、散発的にこの地域に影響を及ぼした草原地帯からの初期の波ではなく、ほぼヤムナヤ文化集団と在来のバルカン半島人口集団の子孫により媒介された、と示唆します。バルカン半島のいくつかの地域におけるヤムナヤ文化集団的個体の存在により示唆されるように、この混合は1ヶ所で起きる必要なく、空間的には牧畜民と定住人口集団との間の文化伝播地帯、およびヨーロッパ東部平地から山岳地帯の地理的地域の両方で起きたかもしれません。
●アルメニア:持続するアジア西部の遺伝的背景に対する変動する草原地帯祖先系統
アルメニアはアジア西部の高地に位置し、アナトリア半島の東側、アジア西部と北方のユーラシア草原地帯を分離するコーカサス山脈の南側となります。アルメニアの祖先系統の軌跡を調べると、在来のCHG関連祖先系統(図5A)が新石器時代から現在まで常に最重要の構成要素で、過去8000年間では祖先系統の50~70%になります。アナトリア半島のように、アジア西部祖先系統の他の2つの構成要素も同様に強い存在を示しており、残りの大半を占めます。以下は本論文の図5です。
南アーチの他の全てのアジア地域と比較してのアルメニア史の最も注目すべき特徴は、EHG祖先系統の、アレニ1洞窟(Areni-1 Cave)個体における6000年前頃となる銅器時代の出現と、5000年前頃となる前期青銅器時代クラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化個体での消滅と、中期青銅器時代での再出現です。中期青銅器時代には、EHG祖先系統の割合が14%程度となり、後期青銅器時代と鉄器時代には10%程度、紀元前千年紀前半となるその後のウラルトゥ期には7%程度、アギトゥ(Aghitu)など紀元前千年紀後半以降の遺跡、およびガラク(Agarak)遺跡など中世から現在までは1~3%程度です。
EHG祖先系統の割合が最高で、20ヶ所以上の遺跡で確認されている、アルメニアの中期および後期青銅器時代個体群を、他のアジア西部とヨーロッパと草原地帯の人口集団と比較すると、アルメニアが外れ値であることは明らかです(図5E)。アルメニアの人口集団は、周辺の人口集団よりもずっと多くのEHG祖先系統を有しています。アナトリア半島とレヴァントでは、EHG祖先系統は青銅器時代には検出されず、イランでは全体の約2%で、コーカサス北部のマイコープ文化クラスタ人口集団でさえ、3%に達します。アルメニアにおけるこれらの分析から、EHG祖先系統が黒海の西側の草原地帯からヨーロッパ南東部へと流入し、エーゲ海地域とその東側で最小限獲得されただけではなく、コーカサスを横断してアルメニアへも流入した、と示されます。しかし、草原地帯祖先系統のかなりの割合は、東方からも西方からも、それ以上アナトリア半島へと広がりませんでした。
アレニ1洞窟におけるEHG祖先系統の出現は、アジア西部でのユーラシア草原地帯の人々の最初の既知の遺伝的影響ですが、銅器時代草原地帯の現在の疎らな標本抽出では、草原地帯内のEHG祖先系統の正確な地理的供給源は分かりません。アレニ遺跡個体群の年代は同じく紀元前五千年紀で、銅器時代草原地帯は南方からのCHG関連祖先系統に影響を受けるようになり、ヤムナヤ文化起源の本論文の混合年代測定もそのことを示します。しかし、EHG祖先系統がアルメニアにおいて定着したのはやっと中期~後期青銅器時代で、少なくともしばらくは、紀元前千年紀に最終的に消滅した、アジア西部における草原地帯祖先系統の影響の「飛び地」を形成します。
比較的高い割合の草原地帯祖先系統の期間は、青銅器時代~鉄器時代のルチャシェン・メトサモー(Lchashen-Metsamor)文化に相当します。平均して紀元前二千年紀後半の年代の広範な個体群における草原地帯混合の連鎖不平衡年代測定(図5F)から、その混合は紀元前三千年紀半ばで1500年早く起きたので、ヨーロッパ本土とバルカン半島の変容と同時だった、と示唆されます。アルメニア自体では、紀元前三千年紀半ばはクラ・アラクセス文化の終焉とそれに続く「前期クルガン(墳丘)」文化に相当し、その後に紀元前三千年紀末のトリアレティ・ヴァナゾル(Trialeti-Vanadzor)複合が続き、そのタヴシュット(Tavshut)遺跡個体(紀元前2127~紀元前1900年頃)はすでに、ルチャシェン・メトサモー文化人口集団の10%程度のEHG祖先系統を有しており、これは最初に記録された銅器時代の2000年後のアルメニアにおける草原地帯集団の子孫です。以下に示されるY染色体の分析は、EHG祖先系統のこの紀元前三千年紀の再出現後に、ヤムナヤ文化集団とアルメニア人口集団との間のつながりについて、独立した一連の証拠を提供します。
●ゲノム規模の文脈における草原地帯とアジア西部との間のY染色体のつながり
Y染色体の変異は、2人口集団が祖先を共有する年代について、信頼できる上限の提供に使えます。それは、配列可能なほぼ1000万以上のヌクレオチドにわたって分析できる膨大な変異が、系統の分岐年代が正確に分かっていることを意味するからです。古代の個体のY染色体分析は、社会的過程への洞察を提供する可能性も有しています。
YHg-R1b1a(L389)の下位クレード(単系統群)は、南アーチとユーラシア草原地帯との間のつながりの追跡について、とくに情報をもたらします(図6)。まず、YHg-R1b1a2(V1636)は、紀元前五千年紀において推測される共通祖先で、金石併用時代(銅器時代)における草原地帯と南アーチとの間の遺伝子流動を記録します(図6B)。YHg-R1b1a2は、トルコのアルスランテペ遺跡の後期銅器時代とアルメニアのカラヴァン(Kalavan)遺跡の前期青銅器時代の2個体に存在します。YHg-R1b1a2はコーカサス北部のプログレス2遺跡のピーモント地方、フヴァリンスク2遺跡、ヨーロッパ北部のゲアイル(Gjerrild)遺跡の単葬墳文化でも見つかっています(関連記事)。アルメニアとアルスランテペ遺跡の個体群には検出可能なEHG常染色体祖先系統が欠けており(図6C)、それはフヴァリンスク遺跡個体群で最大化されています。これは、YHg-R1b1a2の南方起源についていくつかの証拠を提供する観察です。
しかし、YHg-R1b1a2が北方のいくつかの遺跡でより早期に出現しており、それは草原地帯からの男性の移住が銅器時代に南アーチ人口集団へとYHg-R1b1a2をもたらしたものの、常染色体の遺伝的遺産はずっと多くの地元民により希釈された、との代替的シナリオと一致する可能性があることに要注意です。YHg-R1b1a(L389)の最初の個体は、YHg-R1b1a2の姉妹クレードであるYHg-R1b1a1(P297)に属しており、レビャジンカ4(Lebyazhinka IV)遺跡およびバルト海地域の狩猟採集民を含んでおり、両者はCHG祖先系統を有しておらず、最終的にはYHg-R1b1a1b(M269)が派生した、このクレードのヨーロッパ東部起源が示唆されます。YHg-R1b1a1bは、青銅器時代にひじょうに広範に拡大しました。以下は本論文の図6です。
YHg-R1b1a1bは紀元前五千年紀に祖先を共有していると推測されており、草原地帯集団拡大の理解に重要です。それは、YHg-R1b1a1bが、YHg-R1b1a1b1b(Z2103)→YHg-R1b1a1b1b(M12149)の下位系統に至る、紀元前四千年紀のヤムナヤ文化およびアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団の支配的な系統だからです。バルカン半島では、YHg-R1b1a1bの紀元前三千年紀の青銅器時代6個体が30%超のEHG祖先系統と関連しており、これは草原地帯に隣接するモルドヴァだけではなく、さらに南方のブルガリア(ボヤノヴォおよびモギラ遺跡で、モギラ遺跡の個体はヤムナヤ文化の埋葬慣習と関連しており、YHgは草原地帯ヤムナヤ文化に典型的なR1b1a1b1bです)のヤムナヤ文化の男性2個体と、高い割合の草原地帯祖先系統集団に属するアルバニアのシナマク遺跡の1個体の地下墓地および多突帯文土器を含んでいます。
後期青銅器時代(紀元前二千年紀後半)までに、およびその後、高い割合の草原地帯祖先系統の個体群は観察されませんが、草原地帯関連のYHgは存続し、北マケドニアのウランシ・ヴェレス(Ulanci-Veles)遺跡とアルバニアのシナマク遺跡と草原地帯とアルメニアをつなぐ、YHg-R1b1a1b1b3(Z2106)が含まれます。ヨーロッパ南東部の人口集団は、特定のY染色体系統と強く関連しているヨーロッパ中央部および北部とユーラシア草原地帯の紀元前3000~紀元前2000年頃の人口集団とはひじょうに対照的です。アファナシェヴォ文化ではヤムナヤ文化と同じYHg-R1b1a1b1b、縄目文土器文化とファチャノヴォ(Fatyanovo)文化とシンタシュタ(Sintashta)文化(関連記事)ではYHg-R1a1a1(M417)、鐘状ビーカー文化ではYHg-R1b1a1b1a(L51)です。
ヨーロッパ南東部では青銅器時代において、ヨーロッパ中央部および北部と草原地帯(R)、アジア西部(J)、在来狩猟採集民(I)、アナトリア半島新石器時代農耕民(G)と関連するYHgが、それぞれ32、30、21、11系統検出されました。バルカン半島個体群の常染色体祖先系統における並外れた不均質性と合わせると、バルカン半島古代人におけるさほど理解されていない言語学的多様性とよく対応しているかもしれない断片的な遺伝的景観の全体像が浮かび上がり、その言語学的多様性は、インド・ヨーロッパ語族ではラテン語およびスラブ語拡大前の古代バルカン諸語話者を含んでおり、唯一の現存代表はアルバニア語です。初期インド・ヨーロッパ語族は「共通語」として機能し、以前の農耕民および狩猟採集民人口集団の多様な言語の話者間の意思伝達を促進したので、ヨーロッパ南東部において成功しましたか?
本論文で新たに報告されたデータから、アルメニアとイラン北西部の大半の個体は紀元前二千年紀と紀元前千年紀前半にはYHg-R1b1a1b1b(Z2103)→YHg-R1b1a1b1b(M12149)に属する、と明らかになり、これらの地域におけるヤムナヤ文化集団との遺伝的つながりを提供します。これらの地域では、ヤムナヤ文化自体の存在は証明されていません。こうしたヤムナヤ文化とのYHgの関連は、YHg-R1b1a2(V1636)、もしくは紀元前五千年紀末となる銅器時代アルメニアのアレニ1洞窟個体におけるEHG祖先系統の初期の出現よりも直接的なつながりを表しており、草原地帯金石併用時代へのCHG祖先系統の逆移動の証拠を提供します。
本論文のデータにより証明されたY染色体の南方への移動にも関わらず、YHg-R保有者とEHG祖先系統との間の関連は草原地帯の南側では失われており、それはこれらが、アルメニアで2番目に割合の高い系統であるYHg-I2a2b(Y16419)保有者のように、類似の割合のEHG祖先系統を有しているからです。バーゲリ・チャラ(Bagheri Tchala)遺跡とノラトゥス(Noratus)遺跡では親族関係にない男性がそれぞれ7個体と12個体確認されており、かなりの標本規模となる青銅器時代~鉄器時代の遺跡ですが、そのYHg分布は対照的で、バーゲリ・チャラ遺跡ではYHg-R1b1a1b1b(M12149)、ノラトゥス遺跡ではYHg-I2a2b(Y16419)で、紀元前1000年頃のアルメニアにおける創始者効果か高い遺伝的浮動か父方居住配偶規則が示唆されます。イラン北西部の同じ時期のハサンル遺跡では、多くの個体がYHg-R1b1a1b1b の存在にも関わらずEHG祖先系統の痕跡を全く有しておらず、草原地帯でのEHG祖先系統とYHg-R1b1a1b1bの最初の関連は、YHg-R1b1a1b1b保有者がEHG祖先系統なしに南アーチ個体群と繁殖したので消滅した、と示唆されます(図6C)。
草原地帯では、紀元前三千年紀初頭においてYHg-R1b内のYHg-R1b1a1b1bはヤムナヤ文化と関連しており、次の千年紀の初頭までには、シンタシュタ文化(関連記事)など縄目文土器文化およびファティアノヴォ(Fatianovo、Fatyanovo)文化の草原地帯の子孫(関連記事)と関連する、YHg-R1a内のR1a1a1b2(Z93)により置換されました。遺伝的データは、このY染色体の置換が、一方は多様な改良した家畜ウマの利用など文化的適応(関連記事)を有していたかもしれない、草原地帯の父系集団間の競合の結果なのかどうか、あるいは、一方の集団がそれ以前の集団が引き払った生態的地位を単に埋めただけなのかどうか、区別できません。この重要な遺伝的変化の理由をより深く理解するには、遺伝学と考古学のデータを組み合わせて分析する必要があります。
その消滅の理由が何であれ、ヤムナヤ文化系統の父系であるYHg-R1b1a1b1b(Z2103)はアルメニアにおいて現在まで存続しており、アルメニアでは、本論文の調査で常染色体草原地帯祖先系統の大きな希釈が記録されているにも関わらず、YHg-R1b1a1b1bは全ての調査されたアルメニア人集団においてかなりの頻度で存在します。アルメニアにおけるヤムナヤ文化父系子孫の持続的存在は、草原地帯祖先系統がヤムナヤ文化人口集団の支配的なYHg-R1b1a1b1b(M12149)の父系子孫ではない、ヨーロッパ本土およびアジア南部とは対照的です。じっさい、ヨーロッパ本土およびアジア南部の人々は、異なる支配的なY染色体系統を有していながら、常染色体草原地帯祖先系統を有するさまざまな子孫集団に属していました。
アルメニアは、アナトリア半島(合計80個体)とも対照的です。アナトリア半島では、YHg-R1b1a1b(M269)が銅器時代や青銅器時代や古代(先ローマ期)には全く観察されず、YHg-J(36個体)とG(17個体)が最も一般的で、トルコの現代人ではYHg-Jの頻度は約1/3と依然として一般的であり、銅器時代の前にはバルシン遺跡やイリピナル遺跡やマルマラ地域の新石器時代の男性18個体のうち1個体しか確認されていないにも関わらず、現代ではそうした高頻度に達しました。YHg-Jの増加について可能性が高そうな説明は、YHg-Jが本論文の混合分析により推測された(図2)CHG祖先系統の拡大に伴っていた、というものです。この推測は、コティアス(Kotias)およびサツルブリア(Satsurblia)遺跡のCHG個体群と、イランのホツ洞窟(Hotu Cave)の中石器時代1個体が両方YHg-Jを有している、という事実により可能性が高くなっています。これは、コーカサスおよびイラン地域におけるYHg-Jのひじょうに古い存在を示唆しており、新石器時代マルマラ地域ではYHg-Gが18個体のうち10個体で確認されることとは対照的です。銅器時代までに、YHg-GおよびJはアナトリア半島において遍在するようになり、その時代には28個体のうち10個体で確認され、その時までに起きた均質化と並行していました。
●遺伝的データに照らしてのインド・ヒッタイト語仮説
本論文は、インド・ヨーロッパ語族とアナトリア語派の起源と拡大に関する仮説について、本論文の遺伝学的調査結果の意味を考察します。本論文は、警告も強調します。人々の移動についての調査結果とは対照的に、言語の起源に対する遺伝学の関連性はより間接的です。なぜならば、言語は遺伝子の変化が殆ど或いは全くなくても変化し、人口集団は言語学的変化が殆ど或いは全くなくても移動して混合するかもしれないからです。それにも関わらず、移住の検出は重要で、それは移住が言語変化の尤もな媒介だからです。
草原地帯からヨーロッパ中央部および西部への西進と、シベリア南部とアジア中央部および南部への東進の両方の大規模な移動の発見は、共通の祖先系統を通じてヨーロッパ北西部からインドおよび中国へと人口集団をつなげることによりインド・ヨーロッパ語族の起源を草原地帯とする理論に、強力な証拠を提供してきました。本論文は、おもに草原地帯祖先系統の個体群を含む、青銅器時代バルカン半島における草原地帯からの遍在する祖先系統の発見により、この理論へのさらなる裏づけを追加します。
バルカン半島では確かに、トラキア語やイリュリア語などインド・ヨーロッパ語族の古代バルカン諸語が話されていました。この理論は、アルメニア人が最初に証明された青銅器時代と鉄器時代のアルメニアにおける草原地帯祖先系統の遍在と、アルメニアと草原地帯とバルカン半島の間のつながりの記録によっても裏づけられます。またこの理論は、より低い水準にも関わらず、ギリシア語が最初に証明されたミケーネ期のエーゲ海地域における草原地帯祖先系統のさらなる考証(L論文A)により裏づけられます。インド・ヨーロッパ語族の全ての古代および現代の支系は、草原地帯の前期青銅器時代ヤムナヤ文化牧畜民もしくは遺伝的に類似した人口集団に由来するか、少なくとも関連している可能性があります。
アナトリア語派話者については、アナトリア半島におけるEHG祖先系統の欠如のため(関連記事)、草原地帯とのつながりを確証できていません。本論文はそれを、以下の3点で補強します。第一に、銅器時代から先ローマ期古代までのアナトリア半島の新たな100個体におけるEHG祖先系統の少なさの実証です。第二に、アナトリア半島西部と、その西方との中間的な近隣地域であるエーゲ海およびバルカン半島地域との対比です。第三に、アナトリア半島東部および北部と、その東方における近隣地域のアルメニアとの対比です。確かに、アナトリア半島におけるEHG祖先系統の欠如は分類上証明できず、それは標本抽出が常に一部のそうした祖先系統を明らかにする可能性があるからです。しかし現時点では、広範な標本抽出にも関わらず、そうした祖先系統は可能性のある侵入地点(陸路でのアナトリア半島西部および東部、あるいは海路による北部)あるいは人口集団全体で検出されていません。
インド・ヒッタイト語仮説は1926年にスターティヴァント(Edgar Howard Sturtevant)により最初に提案され、より現代的な系統言語学的分析により部分的に裏づけられてきており、ヒッタイト語などアナトリア語派はインド・ヨーロッパ語族の系統樹の残りの基底部に位置していることと、両者の初期の分岐が示唆されました。本論文は、ヤムナヤ文化牧畜民の形成時期までにはアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統も含んでいた、草原地帯金石併用時代人口集団が明らかであるように、アナトリア半島がじっさい、CHG関連祖先系統のアナトリア半島西端への拡大を通じて後期銅器時代に変容した、と示しました。アナトリア半島とメソポタミア北部とイラン西部とアルメニアとアゼルバイジャンとコーカサスの全ての候補供給源人口集団が充分に標本抽出される前に、これらの移動の近位供給源を特定するのは時期尚早です。
本論文の分析は、草原地帯人口集団を変容させ、言語学的変化を誘発した、アジア西部人と関連する2集団から草原地帯への少なくとも2回の遺伝子流動を示します。逆の移動はより限定的で、アレニ洞窟個体のように北方からの初期の影響があったか、おそらくはYHg-R1b1a2(V1636)と関連しており、アナトリア半島の人口集団には大きな影響を与えませんでした。その証拠は、2つの仮説と一致します。
仮説Aの想定は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族祖語の両方を含むインド・アナトリア語族祖語が、ほとんど祖先系統に寄与しなかった一方で、アナトリア半島において不均衡な言語学的影響を有した、高い割合のEHG祖先系統を有する人口集団により話されていた、というものです。アナトリア半島の青銅器時代の後の遺伝的景観では、ヨーロッパもしくは草原地帯の影響による外れ値が見つかりましたが、これはアナトリア半島が多くの言語学的に非アナトリア語派のインド・ヨーロッパ語族人口集団に影響を受けた期間で、フリギア人やギリシア人やペルシア人やガラテヤ人やローマ人など、わずか数例です。しかし、アナトリア半島中央部の都市であるゴルディオン(Gordion)の個体群では、ゴルディオンがフリギアの首都になり、次にペルシアとヘレニズム諸国に支配される前に、EHG祖先系統の割合はわずか2%程度で、少なくとも4つの異なるインド・ヨーロッパ語族話者集団に支配された地域にしてはわずかです。
中世には、テュルク諸語話者と関連するアジア中央部祖先系統が追加され、現在まで存続しています。明らかに、アナトリア半島は歴史時代には言語学的変化の影響を受けず、その変化の前兆も、外れ値であっても遺伝的に検出されます。対照的に、孤立した外れ値もしくは一般的に低水準の存在としての、銅器時代および青銅器時代におけるEHG祖先系統の完全な欠如は、あったとしてごくわずかな遺伝的影響を残した人口集団が、それにも関わらず大規模な言語学的変化をもたらした尤もらしい過程を提案する、草原地帯仮説に異議を唱えます。車輪付き乗り物の共通語彙は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族の残りの両方で証明されていないので、インド・ヨーロッパ語族の拡散に重要だったかもしれないと考えられた技術的優位は失われた可能性があります。
仮説Bは、インド・アナトリア語族祖語が、アナトリア半島と草原地帯の両方に影響を及ぼした、EHG祖先系統が少ないか全くないアジア西部とコーカサスの人口集団により話されていた、と仮定します。仮説Bは、ヒッタイト語やルヴィ語(Luwian)やパラー語(Palaic)などアナトリア語派話者と、ハッティ語(アナトリア半島中央部と北部の非インド・ヨーロッパ語族の孤立した言語)およびフルリ語(後の鉄器時代のウラルトゥ語と関連するアナトリア半島東部およびメソポタミア北部の非インド・ヨーロッパ語族言語)話者の両方が共存した、青銅器時代アナトリア半島で観察された言語学的多様性の説明に役立ちます。
アナトリア半島のみで証明されている非インド・ヨーロッパ語族のハッティ語が、高い割合のアナトリア関連祖先系統を有する人口集団により話されていた言語学的基盤を最も節約的に表す一方で、インド・ヨーロッパ語族は高い割合のCHG関連祖先系統の人口集団により話されていたでしょう。高い割合のCHG祖先系統の人々は東方からアナトリア半島全域に広がっており、そのうち少なくとも一部はアナトリア語派初期形態を話していたかもしれず、後期銅器時代前の遺伝的均質化(図2)と2つの言語学的集団の共存の両方を同時に説明するでしょう。CHG祖先系統の拡大と関連する人々のうちどれだけの人々がアナトリア語派を話していましたか?カルトヴェリ語族 (Kartvelian)やコーカサス北西部および北東部諸語など、コーカサスの多様な非インド・ヨーロッパ語族と関連する他の言語を話していた人々も、西方への移動に加わったかもしれません。
草原地帯については、南方からの少なくとも2回の移住の波(金石併用時代時代とヤムナヤ文化固有)が、アナトリア語派からのヤムナヤ文化の言語学的祖先の初期(銅器時代)の分岐解明の機会を提供し、その1000~2000年後に、ヤムナヤ文化の拡大とともに草原地帯からのインド・ヨーロッパ語族の拡散が続きます。インド・ヨーロッパ語族祖語とカルトヴェリ語族(おもにジョージアで話されています)など他の言語との間の言語借用は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地を突き止めるのに役立つかもしれませんが、或いはこれらは、この期間におけるフヴァリンスクからアナトリア半島まで3000km離れたYHg-R1b1a2(V1636)の存在のような証拠により証明されている、銅器時代以来の長距離移動に由来する可能性があります。
ヨーロッパ東部とシベリアの森林地帯で話されているウラル語族へのインド・ヨーロッパ語族の寄与は、4200年前頃のインド・ヨーロッパ語族話者のみが関わっていたようです。これが重要なのは、インド・ヨーロッパ語族祖語の移動の歴史を制約し、インド・ヨーロッパ語族祖語が草原地帯を通ってアジア南部へと拡大した、という遺伝学的証拠と一致し、インド・ヨーロッパ語族祖語がアジア西部からアジア南部へイラン高原を通って拡大した可能性を除外するからです。しかし、ウラル語族へのインド・ヨーロッパ語族の寄与は、初期のインド・アナトリア語族のより深い問題には光を当てません。インド・アナトリア語族祖語がCHG祖先系統の割合の高い人口集団において南方で形成された、との仮説への異議は、コーカサスもしくはアジア西部(いくつかの既存の提案はこの地域をインド・アナトリア語族の故地とします)におけるヤムナヤ文化集団の常染色体祖先系統の起源を追跡し、YHg-R1b1a1b(M269)の祖先系統が拡大した場所を特定することです。それは、これがアナトリア半島外のインド・ヨーロッパ語族拡大の最も妥当な第二の故地だからです。
インド・アナトリア語族祖語のアジア西部起源のシナリオは、トカラ語と残りの(内陸部インド・ヨーロッパ語族)言語との分岐を、紀元前3000年頃となるヤムナヤ文化の拡大および紀元前三千年紀におけるヤムナヤ文化の崩壊と関連づける言語学的分析、およびこれらの地域のインド・ヨーロッパ語族言語の部分集合についてバルカン半島とアルメニアへの大きな草原地帯との混合を想定する本論文の推測と一致します。その研究ではアナトリア語派の分岐は紀元前3700年頃(95%最高事後密度間隔で紀元前4314~紀元前3450年)に位置づけられ、この期間には、CHG祖先系統が遠く西方ではこの研究で標本抽出されたアナトリア半島北西部イリピナル遺跡の銅器時代個体群に現れ、CHG祖先系統の草原地帯への流動がすでに始まっていました。
全体として本論文の提案は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族が共通のアジア西部祖語に由来する、というシナリオが、以下の4点の理由で古代DNAにより提供された人口変化の証拠と一致する、というものです。第一に、新石器時代の後で後期銅器時代の前となるアナトリア半島の遺伝的変容(図2)は、ハッティ語とアナトリア語派の共存をもたらした言語拡大の明らかな機会でした。第二に、青銅器時代の前の金石併用時代における草原地帯人口集団の2つの変容は、強い南から北への方向性があり、言語拡大の機会で、言語学により推測されたアナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族の分岐と正確に一致します。第三に、バルカン半島(図4)やアルメニア(図5)やヨーロッパ中央部および北部などインド・ヨーロッパ語族の派生言語が話されていた地域への草原地帯からの移住は、インド・ヨーロッパ語族祖語の分解とユーラシア全域におけるその派生言語拡散にとって明らかな機会でした。第四に、近隣のアルメニアおよびヨーロッパ南東部の両方(図4および図5、L論文A)とは対照的なアナトリア半島への草原地帯からの移住の欠如は、インド・アナトリア語族と草原地帯祖先系統との関連において、アナトリア半島を唯一の例外とします。以下は本論文の要約図です。
この事象の概要は、草原地帯とアナトリア半島を結びつける、両地域の変容を促進した人口集団を特定するための、アジア西部とコーカサスとユーラシア草原地帯の考古学的文化の調査の具体的な研究計画を指し示します。(本論文の再構築が正しければ、インド・アナトリア語族祖語に相当する)そうした「まだ見つかっていない間隙(missing link)」の発見は、言語と一部の祖先系統を通じてアジアとヨーロッパの多くの人々を結びつけている共通の供給源についての、何世紀もの探求に終止符を打つでしょう。
参考文献:
Lazaridis I. et al.(2022A): A genetic probe into the ancient and medieval history of Southern Europe and West Asia. Science, 377, 6609, 940–951.
https://doi.org/10.1126/science.abq0755
Lazaridis I. et al.(2022B): Ancient DNA from Mesopotamia suggests distinct Pre-Pottery and Pottery Neolithic migrations into Anatolia. Science, 377, 6609, 982–987.
https://doi.org/10.1126/science.abq0762
Lazaridis I. et al.(2022C): The genetic history of the Southern Arc: A bridge between West Asia and Europe. Science, 377, 6609, eabm4247.
https://doi.org/10.1126/science.abm4247
◎L論文A
文学的および考古学的資料は、遺伝学により補完できる、青銅器時代以降のヨーロッパ南部とアジア西部の豊かな歴史を保存してきました。ギリシアのミケーネ期エリートは一般人と変わらず、いくらかの草原地帯祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する人々と、グリフィン戦士のようなそれを有さない他の人々の両方を含んでいました。同様に、ヴァン湖周辺のウラルトゥ王国の中央地域の人々は、王国北部の州の人々に特徴的な草原地帯祖先系統を欠いていました。アナトリア半島の人々は、ローマ帝国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)期にいたるまで並外れた連続性を示し、人々はローマ市自体を含むローマ帝国の大半の人口統計学的中核として機能しました。中世には、スラブ語およびテュルク語話者と関連する移住がこの地域に大きな影響を与えました。
●研究史
古代の著述家の作品は、古代世界への強力な洞察を提供し、さまざまな集団と政治組織と習慣と関係と軍事紛争に関する情報を記録しています。写本の伝統は、過去の地中海やアジア西部の文化の文献も含む考古学的記録により増加してきました。本論文は古代DNAの力を活用し、過去の国家や帝国に暮らしていた人々について第三の情報源を提供します。これらの側面の多くは、記載されている事象と近い時代の古代の文献において、記録されてきたか、示唆されてきました。しかし、完全に客観的な文献はなく、全ての文献は必然的に著者の偏見と世界観により形成されます。古代DNAはその長所と短所が備わった独立した証拠を提供し、それ自体で過去の全体像を描くことはできません。それにも関わらず、古代DNAは古代の文献と考古学的証拠を補完します。遺伝的データの使用により、とくに人々の移動と生物学的表現型について、古代DNAデータがない場合よりも過去の過程の微妙な痕跡を得られる、と期待できます。
本論文(L論文A)は、他の2本の論文(L論文BとL論文C)とともに、いわゆる「南アーチ(Southern Arc、アナトリア半島とヨーロッパ南東部およびアジア西部におけるその近隣)」の人口集団の遺伝的歴史の包括的な考古遺伝学的分析の一部となります。完全なデータセットの記述と分析の枠組みと銅器時代と青銅器時代の人口史の特徴づけは、L論文Cで述べられます。新石器時代の人口史の分析は、L論文Bで述べられます。本論文は、文献の情報もある人々に焦点を当てます。本論文の主題は、文献での洞察が遺伝的データによりどの程度裏づけられるのか、あるいは裏づけられないのか、検証することと、さらに、遺伝学がどのような補完的な情報を提供できるのか、調べることです。古代の文献を参照するさいには、ペルセウス電子図書館などオンライン書庫での文章検索のための標準的略語が用いられます。本論文は、青銅器時代末に始まり、紀元前千年紀とローマ帝国から現在までの3000年間にわたる地域史をたどります。
●青銅器時代のエーゲ海世界
先行研究で論証されてきたのは、ミノア期(紀元前3500~紀元前1100年頃となるクレタ島の青銅器時代全体)とミケーネ期(ギリシア本土その周辺の島々、中期ヘラディック期後半から後期ヘラディック期末となる青銅器時代後半)のギリシアの青銅器時代文化では、その祖先系統の大半がアナトリア半島農耕民と関連するこの地域の新石器時代住民にさかのぼる、遺伝的に類似した人口集団が居住していた、ということです(関連記事)。本論文は、これらの考古学的文脈と関連する人々をミノア人およびミケーネ人と呼びますが、そうした人々はほぼ確実に自身を考古学により定義されたこの枠組み(ミノア人とミケーネ人)とは考えていなかったでしょうし、じっさい後述のように、ミノア文化やミケーネ文化と関連する人々の祖先系統には広範な遺伝的差異があった、と認識しています。
ミケーネ人とミノア人は両方、ギリシアの新石器時代住民と比較して余分な「東方」コーカサス関連祖先系統を有していますが、ミノア人には欠けていた幾分の草原地帯祖先系統を集団として取り上げられたミケーネ人が有していた点で、相互に異なっていました(関連記事)。本論文は、以前には報告された古代DNAデータなしで複数の遺跡に地理的標本抽出を拡大し、以前に刊行された、ペロポネソス半島とサラミス島からのミケーネ人の古代DNAデータと、ラシティ(Lasithi)およびモニ・オディギトリア(Moni Odigitria)遺跡からのミノア人の古代DNAデータを補完します。クレタ島からは、ザクロス(Zakros)遺跡の中期ミノア文化の1個体が報告されます。
ギリシア本土の文脈では、ギリシア中央部からの最初のミケーネ人のデータが報告されます。これは以前には標本抽出されていなかったコリントス地峡北部地域で、アッティカとフォキダ(Phokis)県のデルポイ(Delphi)近郊のカストラウリ(Kastrouli)とフティオティダ(Phthiotis)県のロクリス(Lokris)が含まれます。ペロポネソス半島のコリントス地峡南部では、ピュロス(Pylos)の「ネストール宮殿(Palace of Nestor)」とその近郊から多くの個体のデータが報告され、ミノア期クレタ島で多くが作られた何百もの貴重な人工物とともに、大きな石造墓に埋葬された30~35歳頃となる若い男性エリートのグリフィン戦士(Griffin Warrior)が含まれます。
青銅器時代の変化を文脈化するには、青銅器時代の前の遺伝的景観を特徴づけることが重要です(図1)。これについては、新石器時代住民から始め、南アーチ完新世人口集団について開発された5供給源モデルを用いて、祖先系統の割合が推定されました。それには供給源の代理として、コーカサス狩猟採集民(CHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代民、セルビアの鉄門(Iron Gates)のバルカン半島狩猟採集民、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)の新石器時代住民が含まれます。ペロポネソス半島の新石器時代ギリシア人だけではなく、ギリシア北部の新石器時代ギリシア人も、CHG関連祖先系統を8~10%有する、と推定されます(図1C)。ヨーロッパ南部と新石器時代人口集団において一般的に少量のCHG関連祖先系統が見つかり、これはCHG関連祖先系統がないヨーロッパ中央部および西部のパターンとは異なります。これは、さまざまなアナトリア半島新石器時代人口集団からヨーロッパへの複数の移住の波の証明を提供します。以下は本論文の図1です。
CHGとEHG両方の関連祖先系統は青銅器時代エーゲ海では増加し、同時にアナトリア半島関連祖先系統は減少しており(図1)、ミケーネ期ギリシア人はCHG関連祖先系統を21.2±1.3%、EHG関連祖先系統を4.3±1.0%有しています。バルカン半島のヤムナヤ(Yamnaya)文化と「高地草原地帯」クラスタ(まとまり)におけるこれら構成要素の均衡のとれた割合を考えると、エーゲ海地域のEHG構成要素はそれ自体がもたらされたのではなく、CHG関連祖先系統の量とほぼ一致することに伴っていたので、CHG関連祖先系統の残りは21.2-4.3=16.9%となります。これにより、草原地帯の移民と、その構成要素にCHG関連祖先系統を約18.5%含んでいたに違いない人口集団とが混合した、と推測できます。とくに、ミノア人におけるCHG関連祖先系統の推定割合は、18.3±1.2%でほぼ同じです。
したがって、本論文の分析は、以前に提案された二つの仮説の一方を強く裏づけることにより、後期青銅器時代人口集団の起源に関する問題を解決します。つまり、ミケーネ人はヤムナヤ文化的な草原地帯からの移民の子孫とミケーネ人的な基盤との混合の結果で、これまであり得る代替的なシナリオとされてきた、アナトリア半島新石器時代住民的な基盤と、東方からのアルメニア人的な人口集団との混合の結果ではない、というわけです。この代替的なシナリオはさらに、ギリシア南部のキクラデス諸島とエウボイア島からの前期青銅器時代に属する紀元前2500年頃の先ミケーネ期個体群が、21.2±1.7%のCHG関連祖先系統を有しており(関連記事)、本論文の推定割合と一致し、予測されたミノア人的基盤についての直接的証拠を提供する、という事実と矛盾します。
ミケーネ人がヤムナヤ文化的な草原地帯に由来する人口集団とミノア人もしくは前期青銅器時代エーゲ海的人口集団との1:10の比率での混合としてモデル化できる事実から、ミノア人の形成への地理的に中間(草原地帯とエーゲ海地域との間)の人口集団の寄与はわずかだった、と示唆されます。この結論は、以下の点によりさらに裏づけられます(L論文C)。第一に、エーゲ海基盤集団の推定20%と比較して、バルカン半島の新石器時代住民におけるCHG関連祖先系統は5%と低いことです。第二に、他のヨーロッパ南東部人口集団とは対照的に、エーゲ海地域ではバルカン半島狩猟採集民関連祖先系統がほぼ存在しません。第三に、エーゲ海地域のすぐ北の最小限の在来祖先系統を伴うヤムナヤ文化的個体群が、前期青銅器時代のアルバニアとブルガリアに存在することです。ミケーネ人の祖先へと草原地帯祖先系統の拡大を媒介した人々の遺伝的構成が何であれ、エーゲ海地域人口集団への草原地帯の遺伝的影響は量的にはわずかでした。ミケーネ人におけるヤムナヤ文化関連の草原地帯祖先系統の割合は、北方のバルカン半島住民の1/3程度、東方のアルメニア住民の1/2程度、鐘状ビーカー(Bell Beaker)および縄目文土器(Corded Ware)文化と関連するヨーロッパ中央部および北部の人口集団の1/5~1/3程度の水準です。
ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民祖先系統の指標としてのEHG祖先系統は、クレタ島東端のザクロスの新たに報告された中期ミノア文化1個体には存在しません。この女性個体の祖先系統は以前の報告と概して似ていますが、顕著なレヴァント混合(30.5±9.1%)が伴い、その個体が東方からクレタ島への移民であるか、過去の民族的多様性が早くもホメロス『オデュッセイア』で言及されている、構造化されたクレタ島人口集団の一部だったことと一致します。
EHG祖先系統もミケーネ期個体群には存在しなかった、と示されます。これは、ギリシア本土とクレタ島との間の対照が顕著だったものの、EHG祖先系統の浸透が後期青銅器時代においてギリシア本土人口集団の全体に到達せず、ミケーネ文化遺跡内ではかなり変動があったことさえ示唆します。ピュロスのネストール宮殿の最古(紀元前1450年頃)の個体であるグリフィン戦士は、遺伝的にエーゲ海地域の一般的な人口集団のちょうど真ん中に位置するので、完全にエーゲ海地域在来の可能性が高そうです。この男性個体ではEHG祖先系統が検出されないのに対して、ピュロス宮殿で発見された残りのミケーネ期の個体群には平均して4.8±1.1%のEHG祖先系統があります。この発見は、この男性個体もしくはその祖先のクレタ島起源と一致するかもしれません。あるいは、ピュロス宮殿の後の2個体(一方は宮殿近くの玄室墓に、もう一方は石棺墓に埋葬されました)のように、この男性個体はEHGとの混合がなかったギリシア本土人口集団に由来するかもしれません。
EHG祖先系統の差異は、短い地理的距離の規模と同じ期間内で観察されます。コリクレピ・スパタ(Kolikrepi-Spata)に埋葬されたアッティカの標本の4個体(紀元前1450年頃)は、2±1%のEHG祖先系統しか有しておらず、これは近隣のサラミス島およびペロポネソス半島で標本抽出された個体群よりずっと少なくなっています。これは、プラトン『メネクセノス(Menex)』など、古典期アテナイが遠い過去には他のギリシアの都市国家よりも移民が少なかった、との主張は真実の要素を有していたかもしれない、と示唆しますが、そうした地理的パターンの決定的な確立にはより大規模な標本が必要でしょう。
北方からの移民は、たとえ控えめなものであれ、ギリシア本土全体で影響を残しました。これは男性系統でも証明されており、たとえば、ネストール宮殿の父系親族の組み合わせ間の稀なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b2(PF7562)の一致があり、このYHgは後期青銅器時代ミケーネ文化ギリシア人と、ヤムナヤ文化個体群と遺伝的に類似しているコーカサス北部リソゴルスキヤ(Lysogorskyja)の前期青銅器時代1個体とを結びつけます(関連記事)。ヤムナヤ文化個体群とのこの父系のつながりは、エリート埋葬の地位のある草原地帯祖先系統の一般的な関連性として解釈されるべきではありません。それは、本論文のミケーネ期個体群の大半を構成する一般人も草原地帯祖先系統を有していたのに対して、グリフィン戦士など一部のエリート構成員は草原地帯祖先系統の有意な証拠を有していないからです。
草原地帯祖先系統拡大期における同じ文化的状況の、他の個体よりも草原地帯祖先系統が少ないエリート1個体の類似の事例は、ブリテン島のストーンヘンジ埋葬景観の最も豪勢な墓である「エイムズベリーの射手(Amesbury Archer)」でも見られます(関連記事)。これら2事例は、社会的支配の物語と遺伝的祖先系統を混同する落とし穴を浮き彫りにします。エーゲ海地域への初期の草原地帯からの移民の社会的役割が何であれ、そうした移民は地元民との混合を排除するか、あるいは地元民が権力の地位に就くことを妨げる体制を確立しませんでした。この包括性は、移民と地元民が混ざり合ってミケーネ期人口集団の祖先を形成したように、エーゲ海地域における草原地帯祖先系統のかなりの希釈を説明できるかもしれず、一方では草原地帯祖先系統を通じてインド・ヨーロッパ人の残りと、他方ではギリシア語祖語話者に先行するエーゲ海地域の人々とつながる、ギリシア語の起源にも光を当てるかもしれません。
ピュロスの父系親族2個体のうち1個体(I13518)は、イトコ間の子供でした。そうした近親婚はミケーネ社会エリートだけではなく、青銅器時代南アーチのさまざまな場所で記録されており、その中にはオジと姪の間の子供である可能性が高い、クロアチアのベスダンヤカ(Bezdanjača)の1個体(I18717)が含まれます。これは、新石器時代に始まった近親交配慣行(関連記事)がその後も続いていることを示しますが、これが分析された埋葬の人口集団の偏った部分集合の結果なのか、それとも社会全体の文化的選好を反映しているのかは、本論文の利用可能な標本では解決できません。「英雄時代」の古典期の神話的記述におけるそうした近親交配は、著者自身の時体にまで続いた慣行を反映していますか?より多くの場所の古代DNA研究によって、一握りの遺跡から推測される配偶選好のこれらのパターンをより高解像度で特徴づけることができます。
●ギリシア植民期
本論文は、ミケーネ期の青銅器時代個体群と遺伝的に類似していた、南アーチとそれ以外両方の個体群の特定により、ギリシア植民期(紀元前8世紀~紀元前6世紀)と関連する人口統計学的パターンの予備的概観を報告します。これは、ギリシア本土のフォキダ県のデルポイ近郊のカストラウリで発見されたアルカイック期の1個体を特定し、スペイン北東部のギリシア植民地アンプリアス(Empúries)で発見された個体群は、ギリシア本土のミケーネ期個体群と遺伝的にひじょうに類似しています。アンプリアスは、自身を現在のフォキダ県からの植民者と言っていた、アナトリア半島西部のポカイア人(Phocaeans)による辺境植民地でした。したがって本論文は、地中海にわたる、ほとんど混合のない、長い伝達の連鎖の末端を把握します。アンプリアス個体群の祖先系統は、この連鎖の始まりにさかのぼれるか、あるいは別の遺伝的に類似の供給源に由来しますか?まだギリシア植民地世界の人々の標本抽出は多くありませんが、地中海と黒海沿岸に広がった多様なギリシア植民地の体系的標本抽出は、特定の主要都市植民地のつながりの証拠の体系的検証と、在来人口集団と移民との混合、および遺伝的異質性がギリシア植民地で果たした役割の程度の記録を可能とするでしょう。
ミケーネ期に典型的な祖先系統は、ペリシテの考古学的文脈と関連するアシュケロン(Ashkelon)の1個体の事例のように、地中海東部にも拡大しました(関連記事)。トラキア内陸部カピタン・アンデュレボ(Kapitan Andreevo)の数個体のミケーネ人の遺伝的特性との類似性も示され、ミケーネ人が遺伝的に、後期青銅器時代エーゲ海地域圏外であるバルカン半島東部の一部のトのラキア人と類似していた、と示唆されます。これは、遺伝的類似性と文化的類似性の混合の危険性を浮き彫りにする警告を提供します。
アナトリア半島沿岸地域は、ギリシアの植民の別の領域を形成し、アナトリア半島の大半はアレクサンドロス大王の後継者たちにより確立されたヘレニズム王国に組み込まれ、ヨーロッパ南東部からアナトリア半島への人口移動の機会を提供します。しかし、ミケーネ人的な個体は、エーゲ海地域の現代のボドルム(Bodrum)に相当するハリカルナッソス(Halicarnassus)など紀元前千年紀のギリシア植民地遺跡や、黒海地域の現代のサムスン(Samsun)に相当するアミソス(Amisos)では見つかっていません。このパターンはイベリア半島のアンプリアスとは質的に異なっており、アナトリア半島の初期ギリシア入植者が最初に植民した時にアナトリア半島の地元のカリア人(Carian)女性と結婚した、とのヘロドトスの記述と一致します。それは、アレクサンドロス自身の結婚と、その配下の征服したペルシア帝国の女性との結婚を想起させます。明らかに、ギリシア人はギリシアの一部では自身を非ギリシア人と社会的および繁殖的に分離しており、他の地域ではそうではありませんでした。将来の研究の重要な主題は、地元の共同体の人々と混合したギリシア人と相関していた要因を特定することです。
●ウラルトゥ王国とイランおよびメソポタミアの近隣諸国
上述のように、エーゲ海は限定的なEHG浸透の地域で、それにも関わらず、EHG祖先系統がごくわずかだった近隣のアナトリア半島と区別されます(L論文C)。さらに注目すべき事例は、トルコ東部とアルメニアの山地で地理的に断片化された地域に位置する鉄器時代のウラルトゥ王国で、この地域では言語学的景観が青銅器時代と鉄器時代には複雑だったに違いありません。トルコのチャウシュテペ(Çavuştepe)のヴァン湖とアルメニアにおけるその北方拡張部に位置するウラルトゥ王国中心部の人々は、物質文化により強く結びついており、わずか200km離れて埋葬されていましたが、ウラルトゥ王国初期(紀元前9~紀元前8世紀)には、ほとんど重ならずに異なる遺伝的クラスタを形成していました(図2)。ヴァン湖クラスタは、ヴァン湖地域における近隣のムラディエ(Muradiye)の先ウラルトゥ王国人口集団(紀元前1300年頃)とも連続的で、より多いレヴァント祖先系統と草原地帯祖先系統の欠如により特徴づけられます。それは、前期鉄器時代の先ウラルトゥ王国個体群のように、レヴァント祖先系統が少なく、いくぶん草原地帯祖先系統を有する、アルメニアのウラルトゥ王国期個体群のクラスタとは対照的です(L論文C)。
本論文の遺伝学的結果は、この地域における言語学的関係の形成の説明に役立ちます。より多くのレヴァント祖先系統を有するヴァン湖中核集団の人口連続性は、ウラルトゥ王国の非インド・ヨーロッパ語族言語を、より南方の分布ではシリアとメソポタミア北部を含む前期青銅器時代フルリ語と結びつけた、フルリ・ウラルトゥ語族(Hurro-Urartian language)とよく対応しているかもしれません。このフルリ・ウラルトゥ語族言語圏の周辺には、草原地帯混合人口集団が北方から到来し、その存在は草原地帯集団拡大の南端を示します。この上述の草原地帯集団拡大とそのウラルトゥ語話者との近接性は、ウラルトゥ語の単語をアルメニア語の語彙に組み込んだ過程を提供するでしょう。以下は本論文の図2です。
ウラルトゥ王国個体群をその近隣のイラン北西部の鉄器時代ハサンル(Hasanlu)遺跡の個体群(紀元前1000年頃)と比較すると(図2E)、ハサンル人口集団はいくらかのEHG祖先系統を有しているものの、アルメニアの同時代人よりもその割合は低い、と観察されました。ハサンル人口集団は、同じYHg-R1b1a1b1b(M12149)の存在によりアルメニア人ともつながっており、青銅器時代草原地帯のヤムナヤ文化人口集団と関連しています(L論文C)。この場合、どの言語が話されたのか、明らかではありませんが、この人口集団は、イラン語群話者の最も近縁な言語であるインド・アーリア語群話者の祖先となる、草原地帯人口集団に属するアジア中央部および南部の、高い割合のEHGのYHg-R1a1a1b2(Z93)を有する集団(関連記事)との関連を示しません。
現代イラン人はYHg-R1a1a1b2(Z93)もしくはより一般的なその上位系統のYHg-R1a1a(M17)を有しており、これはイランの多様な19人口集団の全てと現代インド人で見られ、現代イラン人ではほぼ完全にYHg-R1bが存在しません(1%未満)。したがって、YHg-R1aが古代と現代のインド・イラン人の間の共通のつながりを表しているように見える一方で、多くのハサンル男性が有していたYHg-R1bはそうではありません。ハサンル遺跡の男性16個体におけるYHg-R1aの欠如は、ハサンル遺跡の男性が代わりにアルメニア人と父系では関連していることから、(アルメニア人と関連しているか、非インド・ヨーロッパ語族の在来人口集団に属する)非インド・イラン人の言語がそこで話され、イラン語群は紀元後千年紀にやっとアジア中央部からイラン高原にもたらされたかもしれない、と示唆されます。
最後に、アッシリア北部メソポタミアの後期青銅器時代(紀元前1250年頃)の単一個体は、EHG祖先系統を欠いている点でウラルトゥ王国のヴァン湖個体群と類似しており、レヴァント常染色体祖先系統の量が最高で(42.8±5.3%)、強いレヴァントとの地理的関連がある派生的なYHg-J1a2a1a2(P58)を有しており(L論文C)、歴史の大半でこの地域において話されて記録されてきた言語など、セム語族話者だった可能性があります。考古学と歴史的文献は、古代近東の政治的地理について豊富な情報を供給しており、将来の遺伝学的研究は、自発的な移住もしくは国家政策により実施された人々の強制移動に起因する、人口集団の変化を解明するでしょう。
●ローマ帝国とビザンツ帝国の人口集団のアナトリア半島起源
イタリア中央部に位置するローマ市の古ゲノム時間横断区(関連記事)は、帝政期(紀元前27~紀元後300年)における近東への祖先系統の移行を特定しましたが、この現象を引き起こした移民の起源を突き止められませんでした。本論文は、イタリア半島のデータと南アーチのデータとの共分析により、これら帝政期ローマの地理的供給源の特定を試みました。意外にも、帝政期においてローマ周辺に居住していた、ゲノムを分析された人々の標本の祖先系統は、差異の平均(図3A)およびパターン(図3B)の両方で、アナトリア半島のローマ帝国およびビザンツ帝国の個体群とほぼ同一だったのに対して、帝政期以前のイタリア半島の人々は、ひじょうに異なる分布を示しました(関連記事)。
多様なローマ帝国とビザンツ帝国と中世の個体群およびその直前の個体群を、その人口集団分類表示を用いずにまとめると、イタリア半島とアナトリア半島の個体群が先ローマ期アナトリア半島個体群とクラスタ化するのに対して、ローマ市周辺の先帝政期の人々は系統的に異なっていた、と分かりました(図3C)。これは、ローマ帝国がより短命の西部とアナトリア半島を中心とするより長命の東部の両方で、多様ではあるものの、アナトリア半島の先帝政期供給源にかなりの程度由来する、類似の人口集団を有していた、と示唆します。
歴史の皮肉で、共和政ローマは紀元前1世紀におけるポントス王国のミトリダテス6世により集められたアナトリア半島人に対しての実際の軍事闘争で優勢だったものの、ローマ帝国へのアナトリア半島の最終的な編入とその後の接続性増加は、ほぼ同じアナトリア半島人がローマ帝国自体の人口統計学的機関になる舞台を設置したかもしれません。これは歴史時代に、アエネアスとそのアナトリア半島からイタリア半島沿岸へのトロイ人の亡命の神話の旅を再現しました。以下は本論文の図3です。
南アーチは、2~3世紀のローマ期の黒海地域のサムスンで標本抽出された2個体など、歴史時代における地域外からの多くの移民の受け入れ地域でもありました。これらの個体は、EHG祖先系統といくぶんのユーラシア東部祖先系統を有しており、それは銅器時代以来、アマスィヤ(Amasya)における前期青銅器時代の移行にわたって、またポントス王国(紀元前1世紀)の時代に至るまで、安定してきた黒海地域の在来人口集団(関連記事)とは対照的です。
ローマ帝国期からビザンツ帝国期におけるアナトリア半島の広範な遺伝的安定性は孤立を意味しているわけではなく、レヴァントかヨーロッパ北部かドイツと、イベリア半島起源の可能性が高い外れ値が、ニカイア大聖堂(Basilica of Nicaea)もしくは現在のイズニク(Iznik)、およびエルデク(Erdek)のゼイティンリアダ(Zeytinliada)のある、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の帝都に近いマルマラ(Marmara)地域で見つかっており、より多様な外国人を惹きつけたかもしれません。他の外れ値は、鉄器時代におけるモルドヴァやルーマニアといった南アーチ周辺で、以前に議論された初期草原地帯移民のずっと後に見つかっています。これらは、アジア中央部スキタイ人個体群のユーラシア東部混合のため、独特です(関連記事1および関連記事2)。
●アナトリア半島とバルカン半島への中世の移住
ユーラシア東部祖先系統は、14~17世紀にさかのぼるトルコのエーゲ海沿岸のカパリパグ(Çapalıbağ)における注目すべき外れ値一式の特定にも役立ちます(図4)。これら外れ値個体は、トルコのビザンツ帝国期個体群とは異なり、ユーラシア東部祖先系統を18%程度有しており(図4B)、アジア中央部の影響を示唆しています。ローマ帝国およびビザンツ帝国とアジア中央部の供給源を用いると、混合年代の推定値はその12世代前で(図4C)、混合は11世紀のアナトリア半島へのセルジューク・トルコの到来および拡大の前後の期間に起きた、と示唆されます。現在のトルコの個体群の混合年代推定値は30.6±1.9世代前(図4D)、したがって同じ紀元後二千年紀初期の数百年となり、アナトリア半島の支配圏がローマ人からセルジューク人、最終的にはオスマン人へと移行したことと一致します。
アジア中央部テュルク諸語話者の現代人への遺伝的寄与は、現代トルコ人におけるアジア中央部祖先系統(9%以下)と、標本抽出されたアジア中央部古代人(41%以下~100%)の比較により暫定的に推定できます。本論文での現代トルコ人の標本は、トルコ共和国全体で8ヶ所に由来するので、一般的な人口を広く表しています。遺伝的データは、トルコ人が本論文で網羅される何千年もの間アナトリア半島に居住していた古代人と、テュルク諸語を話すアジア中央部から到来した人々両方の遺産を有している、と示します。以下は本論文の図4です。
中世は、現在の人口集団の遺伝学的分析に基づいて、バルカン半島へのスラブ人の移住により特徴づけられました。それは、6世紀のプロコピウス(Procopius)などの歴史文献にも記録されており、その頃にスラブ人集団はビザンツ帝国と接触するようになりました。バルカン半島の現在の南スラブ人は、スラブ語話者の主要な集団の一つで、その起源にどの移民が役割を果たしたのか、という問題は、中世までほとんど証明されていない、この言語群がどのようにヨーロッパ東部の大半に拡大するに至ったのかについて、理解する上で興味深いものです。本論文は、アルバニアとブルガリアとクロアチアとギリシアと北マケドニアとセルビアのローマ帝国期とビザンツ帝国期と中世の個体群を浮き彫りにし、そうした個体群は、バルカン半島における先行する個体群およびヒト起源配列(Human Origins Array)で遺伝子型決定された現代人の刊行データとともに研究されました(図5)。以下は本論文の図5です。
アナトリア半島新石器時代祖先系統の減少は、ヨーロッパ南東部における長期の過程で、それによりスラブ人の移住に先行する人々と現代の人口集団を区別できるようになります。この祖先系統の構成要素に沿って個体群を並べると(図5)、バルカン半島外の現代スラブ人が最も少ないのに対して、バルカン半島のスラブ人に先行する住民は最も多く有しており、ヨーロッパ南東部の現代人はこの両極の中間に位置します。ブルガリアのサモヴォデーネ(Samovodene)、北マケドニアのビトラ(Bitola)、クロアチアのトロギル(Trogir)の3個体(700~1100年頃)は、この祖先系統を最低水準で有しています。古代ギリシアの植民者により設立された、クロアチアのアドリア海の港湾都市であるトロギルのほとんどの個体は、ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Tarnovo)てリャホヴェッツ(Ryahovets)の12世紀の個体群、および4世紀半ばのギリシアのマラトンのローマ期1個体のように、700~900年頃まで現代人と重なっていましたが、マラトンの個体には、現在の人口集団では一貫して見つかるバルカン半島狩猟採集民祖先系統がありませんでした。
最後に、スラブ人の移住に先行する、アルバニアの中世(500~1000年頃)の3個体とブルガリアのボヤノヴォ(Boyanovo)の古代末期(500年頃)の1個体は、アナトリア半島新石器時代祖先系統を高水準で有するそれ以前の人口集団と重なりました。現代人では、ギリシア人とアルバニア人が、南スラブの隣人よりも多くのアナトリア半島新石器時代祖先系統を有しています。スラブ人の移住は、ヨーロッパ南東部へのヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の子孫の拡大の、約3000年後に呼応しています。両事象は変化をもたらしましたが、その類推が行き過ぎてはなりません。中世の移動は、アヴァール・カガン国やビザンツ帝国など複雑な国家と関わる大規模で組織化された共同体により行なわれており、ヤムナヤ文化期にはこれに匹敵する政治形態は存在しませんでした。まとめると、本論文のデータから示唆されるのは、バルカン半島集団は中世に祖先系統の変化を経たものの、地元民と移民の融合は多様で、多様な祖先系統の個体群が中世には存在して現在まで存続した、ということです。
●ユーラシア西部の文脈における南アーチの表現型
南アーチの人口集団に関する本論文の調査は祖先系統に焦点を当てていますが、生物学の他の側面も明らかにします。色素沈着など表面的な表現型は、古代の著述家により指摘されました。本論文は、経時的なユーラシア西部人口集団の予測される色素沈着および他の表現型の調査を実行し、古代の著述家の認識が、古代人の外見の遺伝的推測とどの程度対応している可能性があるのか、見つけます。ユーラシア西部古代人における目と肌と髪の色素沈着の形態上の表現型は、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の間でさえ、茶色の目、中間的な肌の色、茶色の髪であり、青い目と明るい色の肌および髪という、草原地帯の人々の典型的な特徴づけとは矛盾します。中間など、連続的な肌の濃淡の表現型の分類を使用する場合には、HIrisPlex-Sにより採用された分類表を参照することに要注意です。その参照表では、中間的な肌の色は一般的に地中海人口集団で、明るい肌の色は現在のヨーロッパ北部人で見つかります。
一般的な色素脱失の傾向は経時的に見ることができ(図6)、茶色の髪と中間的な肌の色の増加に伴って、黒い髪とより濃い色の肌は減少していきます。しかし、南アーチの住民は平均して全期間にわたって、その北方(南アーチ外のヨーロッパおよびユーラシア草原地帯として定義されます)の人々よりも顕著に濃い色素沈着を有しており(図6)、ケルト人やスキタイ人など、北方の一部集団でより一般的だとして明るい色素沈着表現型を指摘した、古代の著述家の特定の裏づけを提供します。古代の著述家による別の対比は、エジプト人やエチオピア人など、より濃い色素沈着と言われているアフリカの人々とのものでした。南アーチの人々とその南方の隣人との比較は、地中海の南側に居住している人々のゲノムデータが利用できると、可能になるでしょう。
複合色素沈着表現型を調べると(図6D)、平均的な色素沈着は南アーチとその北側の人口集団間を区別しましたが、明るい表現型は、類似の初期の年代において両地域で見つかり、最近の数千年では並行して増加した、と観察されます。ユーラシア西部の明るい色素沈着は、歴史時代まで続いた経時的な選択の結果で、19世紀と20世紀の一部の著述家が提案したようなインド・ヨーロッパ語族古代人の到来や、あるいは一部のギリシア・ローマの著述家が当時観察したパターンの説明に仮定した気候の直接的影響の産物ではありません。経時的なヒトの表現型の柔軟性と、暗い色や明るい色や中間的な色などいずれであれ、空間全体における多様な色の存在は、ヒトの文化と生物学のより意味のある側面を犠牲にして表面的な特徴を過度に強調する、偏見のある歴史観を弱めます。以下は本論文の図6です。
本論文は、考古学および文献の証拠と合わせて、古代世界のさまざまな文化の人々の考古遺伝学的研究の可能性を示します。古代の文書には、紀元前5世紀末にアテナイ人のクセノフォンが遭遇し、『アナバシス』で記録された多くの部族など、ほとんど知られていない集団記述が充分にあり、その時クセノフォンとその仲間の傭兵は、メソポタミアから北方へと黒海に逃れました。古代のこれらや他の命名された実態がどの程度、いつか古代世界の遺伝的景観に基づいて位置づけられるかもしれない祖先集団に相当したのでしょうか?古代DNAは、これら忘れられた人々の物語の一部を生き返らせ、その遺産に敬意を表します。
◎L論文B
本論文は、メソポタミア(本論文の対象地域では現在のトルコ南東部とイラク北部に相当)とキプロス島とザグロス北西部の先土器新石器時代の最初の古代DNAデータを、新石器時代アルメニアの最初の古代DNAデータと共に提示します。これらの地域およびその近隣の人口集団は、アナトリア半島とコーカサスとレヴァントの狩猟採集民と関連する新石器時代前の供給源の混合を通じて形成され、アジア西部の地理を反映する祖先系統の新石器時代連続体を形成する、と本論文は示します。アナトリア半島の先土器および土器新石器時代人口集団の分析により、先土器時代人口集団はメソポタミア関連供給源と在来の続旧石器時代関連供給源との間の混合に由来するものの、土器新石器時代人口集団は追加のレヴァント関連遺伝子流動を経た、と本論文は示すので、肥沃な三日月地帯の中心部からアナトリア半島の初期農耕民への、少なくとも2回の移住の波が証明されます。
●研究史と標本
先行研究は、ひじょうに分化した、古代アジア西部の新石器時代人口集団(関連記事)、およびコーカサス(関連記事)とイラン(関連記事)とアナトリア半島(関連記事)とレヴァント(関連記事)の新石器時代前の祖先の一部の存在を実証してきました。本論文は、アナトリア半島とヨーロッパ南部およびアジア西部におけるその近隣を含むものとして定義される南アーチの統合的なゲノム史を定着させるため(L論文C)、最初の新石器時代人口集団がどのように形成されたのか、とくにメソポタミア北部(もしくは上部)の先土器に焦点を当て、理解しようとしました。
メソポタミアは、トルコ南東部とイラク北西部とシリア北東部のティグリス川とユーフラテス川の間の地域で、先土器新石器時代の相互作用圏内にあります。考古学的記録におけるメソポタミアの中心性にも関わらず、初期メソポタミア農耕民のゲノム規模古代DNAデータは刊行されていませんでした。この研究は120万ヶ所の一塩基多型(SNP)について溶液内濃縮を用いて、メソポタミア北部のティグリス川の先土器新石器時代農耕民を調べます。その内訳は、トルコ南東部のマルディン(Mardin)近くのボンクル・タルラ(Boncuklu Tarla)遺跡の1個体と、イラク北部のネムリック9(Nemrik 9)遺跡の2個体です。
本論文は、アナトリア半島の南部とレヴァントの西部に位置するキプロス島の先土器新石器時代データも報告します。キプロス島では、地中海東部からの先土器新石器時代農耕民の最初の海洋拡大がありました。本論文のデータは、キッソネルガ・ミルトキア(Kissonerga-Mylouthkia)遺跡の、使用されておらず水で満たされていた井戸で断片的な遺骸が発見された3個体に由来します。
さらに本論文は、アルメニアの新石器時代の最初の古代DNAデータを報告します。これは、紀元前六千年紀のマシス・ブルール(Masis Blur)およびアナシェン(Aknashen)遺跡で埋葬された2個体に由来します。これらの個体は内陸部土器新石器時代人口集団を表しており、本論文はメソポタミア北部からアルメニアの南方に位置する先土器新石器時代人口集団、東方に位置するアゼルバイジャンの土器新石器時代人口集団、アルメニアのその後の銅器時代個体群と比較します。
最後に、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟のベスタンスール(Bestansur)およびザウィ・チェミ(Zawi Chemi)遺跡で、ザグロス北部の先土器新石器時代農耕民3個体が標本抽出され、この3個体はより西方および北方の個体群とイランのザグロス中央部の既知のデータとの間の間隙を埋めます。新たに標本抽出された個体群の詳細(L論文C)とその時空間的分布は、図1で示されます。以下は本論文の図1です。
分析の統計的検出力を改善するため、以前に報告されたデータで多くの個体のデータ品質も向上させ、イスラエルの続旧石器時代となるナトゥーフィアン(Natufian)の4個体、ヨルダンの先土器新石器時代6個体、アナトリア半島北西部のバルシン(Barcın)およびメンテシェ(Menteşe)遺跡で構成されるマルマラ東部地域の新石器時代9個体の、追加の古代DNAライブラリが生成され、配列決定されました。マルマラ東部からは、バルシン遺跡の1個体とイリピナル(Ilıpınar)遺跡の以前には標本抽出されていなかった2個体も標本抽出されました。これら3ヶ所の遺跡の個体群は遺伝的に類似しており、それらは同じ遺跡の後の銅器時代個体群とともに、アナトリア半島後期の研究(L論文C)において分析されます。
●分析結果
主成分分析(PCA)が実行され(図2A)、ユーラシア西部現代人の差異に古代の個体群が投影されました。その結果、2つのクラスタが現れました。一方は、「地中海東部」アナトリア半島およびレヴァントクラスタで、キプロス島の地理的に中間の個体群も含み、もう一方は「内陸部」のザグロスとコーカサスとメソポタミアとアルメニアとアゼルバイジャンのクラスタです。これら集団内には構造があります。アナトリア半島個体群は相互およびキプロス島の個体群とまとまるのに対して、レヴァントの個体群は区別されます。
内陸部クラスタ内では、ジョージア(グルジア)のコーカサス狩猟採集民(CHG)やザグロス中央部のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡個体群といったコーカサス南部の個体群など、地中海から地理的により遠い個体群は、メソポタミアとアルメニアおよびアゼルバイジャンの地理的および遺伝的に中間の個体群と比較して、遺伝的にもより遠くなっています。
地中海東部および内陸部クラスタは、図2Aでは間隙により分離され、たとえばメソポタミア北部のユーフラテス川地域など、標本抽出位置間の地理的に中間の地域と対応しているかもしれません。新石器時代アジア西部は全体的に、CHG、ガンジュ・ダレー、レヴァント(イスラエル)のナトゥーフィアン、アナトリア半島中央部の続旧石器時代プナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡の個体群により形成された四角形の差異の範囲内に囲まれています。以下は本論文の図2です。
関連研究(L論文C)では、共通の測定基準で、南アーチ全体の時空間の個体群の祖先系統の割合推定のため、数学的枠組みが開発され、新石器時代へのこのモデルの適用の結果が議論されます。このモデルは祖先系統供給源の代理として、CHG、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代農耕民、セルビアの鉄門遺跡のバルカン半島狩猟採集民、アナトリア半島北西部のマルマラ地域のバルシン遺跡のアナトリア半島新石器時代農耕民を含んでいます。
この枠組み内で、アナトリア半島関連祖先系統の最高の割合は、新石器時代アナトリア半島人口集団とキプロス島初期農耕民で観察されます。ボンクル遺跡の先土器新石器時代人口集団とプナルバシュ遺跡の続旧石器時代1個体は、両方バルシン遺跡の土器新石器時代個体群に数千年先行しますが、そのバルカン半島狩猟採集民と関連する類似性は、これらのより古い個体群がヨーロッパ狩猟採集民と混合したことを示唆しません。むしろそれは、バルシン人口集団との比較において、プナルバシュおよびボンクル両遺跡の個体群が「よりレヴァント的ではない(図2A)」という事実を反映しており、以下の分析により明らかにされる土器新石器時代人口集団へのレヴァントからの流入と一致する調査結果です。
対照的な事例は、アナトリア半島およびレヴァント勾配に沿って「より多くレヴァント的」で、その祖先系統全てがレヴァント先土器新石器時代供給源に由来する、と推測されるナトゥーフィアン個体群です。もちろんこれは、初期ナトゥーフィアン個体群がその後の先土器新石器時代農耕民の子孫であることを意味するのではなく、両者が(じっさいにはナトゥーフィアン個体群から先土器新石器時代農耕民までの)祖先系統を共有しており、その祖先系統は5方向モデルの限界内でこの方法でモデル化される、ということです。同様に、内陸部のガンジュ・ダレー人口集団は、その祖先系統の全てが5方向モデルで用いられたCHG供給源に由来し、CHG関連祖先系統の水準は内陸部人口集団で高く、つまり、ザグロス北部、アルメニア、アゼルバイジャン、メソポタミア北部です。
このモデル(図2)とその後の分析(図3)により明らかにされた、キプロス島における高いアナトリア半島関連祖先系統は、キプロス島に先土器新石器文化を広めた人々の起源についての議論に光を当てます。生計と技術と集落構成と観念的標識の類似性は、キプロス島における先土器新石器時代Bの人々と本土の人々との間の密接な接触を示唆していますが、キプロス島の先土器新石器時代人口集団の地理的供給源は不明で、可能性のある多くの起源地が指摘されてきました。内陸部ユーフラテス川中流供給源は、建築および人工物の類似性に基づいて提案されてきました。しかし、キプロス島先土器新石器時代Bにおける動物相の記録と、石材としてのアナトリア半島黒曜石の使用は、アナトリア半島中央部および南部とのつながりを示唆しており、遺伝的データは、アナトリア半島中央部における主要な供給源というこのシナリオを支持する証拠の重みを増加させます。以下は本論文の図3です。
アルメニアのアナシェン遺跡(紀元前5900年頃)とマシス・ブルール遺跡(紀元前5600年頃)の2個体は、数世紀離れて200kmほどの距離にも関わらず、それぞれコーカサス的であることとアナトリア半島およびレヴァント的であることにより異なります。したがって、アルメニアの新石器時代の人々は均質ではないものの、代わりに近隣のアゼルバイジャンで埋葬された紀元前5700~紀元前5400年頃の2個体も含む差異を示しており、この2個体はPCAと5方向モデルの両方でアルメニアの2個体の中間に位置します。しかし、南方のメソポタミアの個体群との比較において、アルメニアとアゼルバイジャンの個体群はより多くのアナトリア半島新石器時代混合を示しました。
逆に、アナトリア半島中央部の一部の新石器時代人口集団は、プナルバシュ遺跡およびCHG関連祖先系統が明らかではないアナトリア半島北西部の供給源人口集団よりも多くのCHG関連混合を有していますが、アナトリア半島南東部のマルディン遺跡の1個体での推定割合よりも少なく、この個体は、イラク北部のネムリック9の隣人とともに、高いCHG関連祖先系統により特徴づけられる内陸部集団に属します。これらの観察結果は、一方の端のアナトリア半島およびレヴァント勾配と、もう一方の端のザグロスおよびコーカサスの一連の人口集団と関連する内陸部の影響により特徴づけられる、新石器時代連続体の一貫した全体像を形成し、遺伝的に中間の位置を占めるメソポタミアとアルメニアとアゼルバイジャンの個体群が地理的中間に位置します。
刊行順の偏り、つまり、全標本を等しく考慮してモデルを常に推測するのではなく、刊行されたモデルを更新して新たなデータを調節させる傾向を避けるため、新石器時代の新たなデータが以前に刊行されたデータと共分析され、全体として新石器時代アジア西部における遺伝的差異のパターンを説明できる新石器時代起源のモデルに到達しました。新石器時代の連続体はこの分析からも現れ、それは研究対象の全新石器時代人口集団が、アナトリア半島(プナルバシュ遺跡個体)、レヴァント(ナトゥーフィアン個体群)、内陸部供給源(図3AのCHGもしくは図3Bのガンジュ・ダレー個体)を表す新石器時代前の3供給源の混合としてモデル化できるからです。内陸部の2供給源は独立していませんが、第一近似値まで祖先系統の同じ供給源を表しています(図3C)。
供給源人口集団としてCHGもしくはガンジュ・ダレー個体を、外群として他集団を用いて新石器時代人口集団のモデル化を試みると、ほとんどの人口集団で合致する適切なモデルが得られます(さらに、どの人口集団も他よりも適切な供給源ではない、と示唆されます)。例外は、第一にアナシェン遺跡の高いCHG祖先系統で、CHGモデルが却下されませんが、ガンジュ・ダレー個体では却下されます。第二に、アゼルバイジャンとメソポタミアの新石器時代個体群については、両モデルが却下されます。第三に、バルシン遺跡新石器時代個体については、ガンジュ・ダレー個体のモデルが辛うじて却下されませんが、CHGでは却下されます。これらの結果から暫定的に示唆されるのは、CHGとガンジュ・ダレー新石器時代個体が内陸部混合の定量化の目的では互換性があるものの、一部の人口集団はどちらか一方とより明確なつながりがある、ということです。たとえば、アルメニアの新石器時代個体群はイランよりもむしろコーカサス南部の狩猟採集民とつながりがあり、地理的に中間のアゼルバイジャンとメソポタミアは両方とつながりがあります。
●考察
選択された供給源に関係なく、検証データが得られたさいには、アジア西部新石器時代人口集団がその新石器時代前の祖先の単純な子孫ではなかった(そのうち一部は図3A・Bの隅に位置します)、という事実から、混合の一部の歴史がその出現につながったかもしれない、と示唆されます。この過程の詳細は、アジア西部のより古い人口集団の調査によって解明できるでしょう。メソポタミア北部のように、新石器時代前の先行者を利用できない場合、在来の狩猟採集民がその地域最初の農耕民と遺伝的に連続しているのかどうか、あるいは新石器時代への移行全体にわたって混合の歴史があったのかどうか、問題は解決されないままです。これがとくに浮き彫りにするのは、図3の三角図の中間的な人口集団が、モデル化に用いられた隅の人口集団との混合により生じる必要はない、ということです。あるいは、中間的な人口集団は、アジア西部の標本抽出されていない新石器時代前の人口集団、たとえば本論文で調べられた先土器新石器時代農耕民に先行するティグリス川およびユーフラテス川地域の狩猟採集民により、中央に引き寄せられる可能性があります。
相互の混合として新石器時代人口集団のモデル化を試みると、少なくとも、データのほとんどが同じ地域に由来し、先土器新石器時代および土器新石器時代人口集団が刊行されているアナトリア半島では(図3D)、興味深い区別が明確になる、と観察されました。アナトリア半島中央部の先土器新石器時代人口集団は、在来のプナルバシュ遺跡続旧石器時代と関連する集団と、メソポタミア集団とのさまざまな割合(30~70%)の混合としてモデル化でき、アナトリア半島の先土器新石器時代文化は、在来の狩猟採集民と、農耕が初めて出現した東方からの移民両方の寄与で形成された、と示唆されます。しかし、先土器新石器時代アナトリア半島人を単なるこれら2供給源ではモデル化できず、代わりにレヴァント新石器時代個体群との6~23%の混合が必要です。この混合の供給源は不明です。それはレヴァント新石器時代個体群が標本抽出されている南部(ヨルダン)に由来する必要はなく、代わりにゲノム規模データが利用できない地理的により近い供給源、たとえばシリアを表しているかもしれません。シリアでは、ハラフィアン(Halafian)など初期土器新石器文化が繁栄し、それについて、ポリメラーゼ連鎖反応に基づくmtDNAのデータでは代替的シナリオを区別できません。
本論文の結果がメソポタミアとレヴァントの人口集団からの移住およびそれらとの混合を示す一方で、「移住」という用語を使う場合、「移住的な動き」、つまり数年以内の長距離にわたる多数の人々の計画された移動を検出した、と主張しているわけではないことに、要注意です。移住という用語の微妙な違いについては、以前の研究で議論されています(関連記事)。本論文において使用される意味での移住は、意図的である可能性もそうでない可能性もあります。「移住」は少数かもしれませんし、多数の可能性もあります。「移住」は急速なものだった可能性も、何世代にもわたって続いた可能性もあります。遺伝的データにより示唆されるように、一部のそうした移住と混合が起きたに違いありませんが、その原因と経路と詳細な時間性はまだ解明されていません。
さらなる注意は、アナトリア半島土器新石器時代人口集団で検出されたレヴァントの影響は、アナトリア半島への単方向の移住の結果である必要はないものの、アナトリア半島とレヴァントが両地域にまたがる配偶網の一部になった場合にも生じたかもしれない、ということです。この仮説を検証し、双方向で配偶相手の移動があったのかどうか判断するには、レヴァントの土器新石器時代文化のデータが必要です。レヴァント祖先系統は新石器時代に繁栄したかもしれませんが、レヴァント自体(現在のヨルダンとイスラエルとシリアとレバノンの個体群が含まれます)におけるその後の軌跡は、先土器新石器時代から中世にいたる千年ごとに8%程度の減少を示しており、北方(コーカサス)および西方(アナトリア半島)からの関連祖先系統によりほぼ置換されました(図4)。以下は本論文の図4です。
本論文で調べられた新石器時代アジア西部人口集団形成後の、この持続して一様の傾向は、大規模な混合が数千年間続いたことを想起させます。レヴァント新石器時代農耕民の寄与は、起源地となったレヴァントの人々において大きく減少したにも関わらず、この重要な祖先系統供給源はその後の期間の人々にも重要な貢献をしており、現在にいたるまで続き、移住と混合を通じ、南アーチ内およびそれを越えて(L論文CおよびL論文A)、その後の全ての人々の祖先系統の多様性を織り交ぜて作っています。
◎L論文C
本論文は、南アーチの過去1万年間の古代人727個体の配列決定により、広範な遺伝子流動がユーラシア草原地帯と絡み合った、紀元前5000~紀元前1000年頃となる銅器時代および青銅器時代を文脈化します。2つの移住の波が、コーカサスとアナトリア半島およびレヴァントの祖先系統を北方へと伝え、次に草原地帯で形成されたヤムナヤ文化牧畜民はバルカン半島へと南方に、またアルメニアへとコーカサスを横断して拡大し、アルメニアではヤムナヤ文化集団の多くの父系子孫が残りました。アナトリア半島は、アジア西部内の遺伝子流動により変容し、後のヤムナヤ文化移民の影響は無視できるほどでした。これは、インド・ヨーロッパ語族が話される他の全ての地域と対照的であり、インド・アナトリア語族の故地がアジア西部にあり、非アナトリア語派のインド・ヨーロッパ語族は草原地帯から二次的に拡散してきただけだった、と示唆されます。
●標本
バルカン半島とアナトリア半島は、ヨーロッパとアジア両大陸にまたがる相互接続地域の中心ではなく、両大陸にとって地理的に周辺として描かれることがよくあります。本論文は、「南アーチ」と呼ぶ地域(図1A)の体系的な遺伝的歴史の提供により、さまざまな観点を取り上げます。南アーチは大きなアナトリア半島(現在のトルコ)を中心としており、西方ではヨーロッパのバルカン半島とエーゲ海地域、南方と東方ではキプロス島とメソポタミアとレヴァントとアルメニアとアゼルバイジャンとイランを含みます。
本論文は、南アーチの777個体の新たなゲノム規模DNAデータを提示します。そのうち727個体は以前には標本抽出されておらず、以前に刊行されていた50個体については、新たに生成された1094点の古代DNAライブラリから新たなデータが報告されます。将来の標本抽出の試みを導く資料として、本論文は476点の標本の否定的な結果も報告します。これは、537点のライブラリを用いて検査したものの、信頼性の基準を満たす古代DNAデータを生成できなかった事例です。最後に本論文は、DNAが分析された同じ骨格要素について、239点の新たな放射性炭素年代を提供します。本論文はこれらの新たにデータが得られた個体群を、以前に刊行された個体群とともに調べ、古代人の合計標本規模は、この地域で1317個体となります。以下は本論文の図1です。
本論文で新たに報告されたデータは、南アーチの時空間的な多くの標本抽出の間隙を埋めます。トルコ(アナトリア半島)では、本論文の新たな標本抽出は、とくに西部(エーゲ海地域とマルマラ地域)と北部(黒海)と東部(アナトリア半島東部および南東部)の地域に焦点を当てており、これらは南アーチの他地域とつながっている地域です。高密度の標本抽出のもう一方の地域はアルメニアで、石器時代と鉄器時代をかなり網羅しており、以前に利用可能だった個体数よりも一桁多くなっています。青銅器時代から鉄器時代の枠組みの多くの個体は、ハサンルのイラン高原でも標本抽出され、ハサンルでは単一個体が以前に研究されており(関連記事)、アナトリア半島とメソポタミアとアルメニアとコーカサスに隣接するディンカ・テペ(Dinkha Tepe)遺跡でも標本抽出されました。
ヨーロッパ南東部の南部では、エーゲ海の複数地域でミケーネ期個体が標本抽出されました。バルカン半島南部からは、アルバニアの完全な時間横断区が提示されます。以前には単一の新石器時代個体のデータしか刊行されていなかった北マケドニアの多くの個体と、ブルガリアからは以前に利用可能だった古代DNAデータ数の2倍以上が提示されます。さらに北方では、南アーチの西翼において、クロアチアとモンテネグロ、西方ではセルビア、東方ではルーマニアとモルドヴァで標本抽出され、ヨーロッパ中央部とユーラシア草原地帯の広く研究されてきた世界とつながります。このデータセットには100人以上の青銅器時代個体があり、クロアチアのツェティナ川流域(Cetina Valley)とベズダニャカ洞窟(Bezdanjača Cave)の多くの個体が含まれ、クロアチア全域の以前に刊行されたわずか5個体に追加されます。
バルカン半島個体群の一部は、文化的にセルビアとブルガリアのヤムナヤ集団個体を含んでおり、ユーラシア草原地帯のヤムナヤ文化個体群との比較が可能になります。地域全体にわたる大きく強化されたデータセットで、時空間的および文化的文脈での標本抽出の大きな間隙を埋めることができます。本論文の大きな標本規模により、主要なクラスタと遺伝的外れ値の特定が可能になり、人口集団内の差異のパターンおよび近隣集団との接触網についての洞察を提供します。調べられた全個体の詳細は補足資料で見られます。
これらの個体の地理的分布を考察するため、柔軟な手法が採用され、生態学的もしくは地形学的名称を用いる場合も、遺伝的パターンとの整合性に応じて現在の国名を用いる場合もあります。一部の事例では、より具体的な位置情報を使用して正確さを加えます。南アーチの現在の政治地図に通じている読者が容易に利用できる統一された命名法のため、図1のように、3文字の国際標準化機構(International Standards Organization、略してISO)記号を前につけた分類表示のある個体群との比較の集団も参照します。
南アーチの長い歴史において同じ遺跡に複数の局所名が用いられてきており、本論文は通常、その期間もしくは現在の使用に適した分類表示を選択します。本論文は、個体群が暮らしていた期間を指定するため、各地域について慣習的な考古学的名称を用います。たとえば、銅が用いられた文化については、考古学的文献により、金石併用時代(Eneolithic)と銅器時代(Chalcolithic)の名称が用いられます。金石併用時代(Eneolithic)もしくは銅器時代(Chalcolithic)と青銅器時代との間の移行は、南アーチのさまざまな地域で同時に起きたわけではないことに要注意です。各個体の詳細な考古学的情報は上述の補足資料にあり、年代学と地理学と考古学と遺伝学の情報の統合に用いる分析分類表示が明示されます。
●南アーチの遺伝的差異の概観
南アーチの遺伝的差異を理解するため、本論文はADMIXTUREから始めました。ADMIXTUREは、非ユーラシア西部関連祖先系統のある個体の検出と、ADMIXTURE分析で現れるユーラシア西部の4構成要素の観点で差異の広範なパターンの識別を可能とします。それは、イランおよびコーカサス関連、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、アナトリア半島およびレヴァント関連、バルカン半島狩猟採集民です。他のユーラシア西部個体群と南アーチ個体群のPCA(図1C)は、ユーラシア西部の差異の連続体内における南アーチの中心的位置を示し、ヨーロッパ(左側)からアジア西部(右側)へとつなぐ個体群の長い「橋」がありますが、差異の全範囲にわたって個体が広がっています。
南アーチ個体群の祖先系統を定量化するため、qpAdmとF4admix 5を用いて供給源モデル化枠組みが開発されました。これらにより、全体および個体として、南アーチ人口集団の祖先系統の高解像度の記述が可能になります。本論文はこのモデルを生成するため、供給源人口集団の代理の特定の一式を事前に選択しないものの、代わりに、多くのあり得る一式を調べ、できるだけ多くの個体でモデルの統計的適合の品質を最大化する一方で、祖先系統の割合推定において標準誤差を最小化する、自動化された手順を用いました。この手順の適用後、本論文が用いた祖先系統の5供給源は、コーカサス狩猟採集民(CHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、レヴァント先土器新石器時代、セルビアの鉄門のバルカン半島狩猟採集民(BHG)、アナトリア半島北西部のバルシン遺跡の新石器時代です。これらは、地中海相互作用地帯のアナトリア半島とレヴァントの端との間のさらなる区別により、4供給源ADMIXTUREモデルに対応します(L論文B)。
これら5供給源は、その記述的都合としての有用性を超えて過度に強調されるべきではありません。第一に、これら5供給源は、関連する供給源と交換可能です。たとえば、新石器時代イラン祖先系統は、CHGと同様に同じ深い祖先系統の大半を捕獲しています。第二に、これら5供給源は自身がそれ以前の(より「遠い」)人口集団に由来しています。たとえば、レヴァン先土器新石器時代農耕民は、同じ地域のナトゥーフィアン狩猟採集民に由来します。第三に、これら5供給源は、その祖先系統を後の(より「遠い」)供給源経由で伝えました。たとえば、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民を通じてのEHG関連祖先系統です。個体の祖先系統の推定割合は補足資料の補足図2~4で要約されており、詳細は補足図28~26で考察されます。
●南アーチの中核としてのアナトリア半島
アナトリア半島の個体群に本論文の5方向モデルを適用すると(図2A~E)、3000年前頃以前には、実質的に全ての祖先系統が在来のアジア西部供給源(以後は「アナトリア」と呼ばれるアナトリア半島北西部、レヴァント、コーカサス)に由来し、ヨーロッパの2供給源(BHGとEHG)からの寄与はごくわずかだった、と直ちに明らかになります。大まかに言えば、経時的傾向は、新石器時代と銅器時代の間のコーカサスおよびレヴァント関連祖先系統の増加と、それに対応するアナトリア関連祖先系統の減少です。
アナトリア半島におけるこの過程をより適切に理解するため、先行する新石器時代と比較して、銅器時代と青銅器時代の地理的亜集団が調べられました(図2F)。アナトリア半島北西部祖先系統は、マルマラ地域のバルシンとメンテシェとイリピナル遺跡の個体群(この祖先系統の構成要素を定義するため、バルシン遺跡個体の高品質データが用いられました)の100%から、アナトリア半島南東部およびメソポタミア北部のマルディン地域の先土器新石器時代個体の16%までさまざまだった、と観察されました。逆に、コーカサスおよびレヴァント祖先系統は、メソポタミア北部の32~50%から、アナトリア半島北西部の0%まで変わりました。以下は本論文の図2です。
アナトリア半島銅器時代の時間的範囲は広く、新石器時代末(紀元前6000年頃)から青銅器時代の開始(紀元前3000年頃)にまでわたります。本論文の分析での個体は、ほぼ後期銅器時代(紀元前4500年頃以後)と青銅器時代全体(紀元前1300年頃まで)です。全地域の銅器時代と青銅器時代の人口集団は両方、一般的に祖先系統の新石器時代範囲内で中間的な混合割合を有しています。これは、銅器時代と青銅器時代の人口集団が、先行する新石器時代人口集団の混合に由来するものとしてモデル化できることを示唆します。
マルマラ地域では、CHG祖先系統は銅器時代と青銅器時代の間で0~33%に増加し、銅器時代個体は本論文では、以前に刊行されたバルシン遺跡の単一個体に、イリピナル遺跡の4個体が追加されます。アナトリア半島中央部地域では、新石器時代のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡(関連記事)およびテペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡の個体群の10~15%から、同様の、銅器時代のキャムリベル・タルラシ(Çamlıbel Tarlası)遺跡(関連記事)個体の33%と青銅器時代のカレヒユク(KaleHöyük)およびオヴァエレン(Ovaören)遺跡の42%までの増加が示されます。
地中海地域(アナトリア半島南西部)では、同じ約1/3の割合が青銅器時代のハルマネレン・ゴンドリュレ(Harmanören Göndürle)遺跡個体に存在しました。エーゲ海地域(アナトリア半島西部)では、青銅器時代に類似の29%が観察されます。したがって、アナトリア半島のより西方の地域(マルマラ地域とエーゲ海地域と中央部と地中海)の個体群は全て、銅器時代と青銅器時代には先行する新石器時代人口集団よりも多くCHG関連祖先系統を有していて、それに対応してアナトリア関連祖先系統は少なくなっており、アナトリア半島を横断して西進したこの祖先系統の拡大は新石器時代の後に起きた、と示唆され、これはレヴァントでも観察されたパターンです。
アナトリア半島のより東方の地域では、東部のアルスランテペ(Arslantepe)遺跡、南東部のバトマン(Batman)県とガズィアンテプ(Gaziantep)県とキリス(Kilis)県とシュルナク(Şırnak)県(新データ)とティトリシュ・ホユック(Titriş Höyük)遺跡、黒海では、アマスィヤ(Amasya)県のデヴレット・ホユック(Devret Höyük)遺跡とイキステペ(İkiztepe)のサムスン(Samsun)遺跡(新データ)において、銅器時代と青銅器時代の人口集団は逆に、マルディン県の先土器新石器時代個体よりもアナトリア半島新石器時代関連祖先系統が多く、CHG関連祖先系統は少なくなっていました。このパターンは、銅器時代を青銅器時代と比較したさいにも観察されます。違いは小さいものの、ハタイ県(Hatay Province)の個体を除いて全て、アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統が増加する方向にあり、ハタイ県の個体では前期銅器時代(紀元前5500年頃)と中期~後期青銅器時代の間(紀元前2000年頃以後)との間に、アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統が減少して、CHG関連祖先系統が増加しました(14~43%)。
全体として、銅器時代と青銅器時代におけるアナトリア半島の遺伝的歴史は、均質化の一つとして特徴づけることができます。銅器時代と青銅器時代には、これらの違いの範囲は大幅に狭まりました。アナトリア半島西部新石器時代関連祖先系統の違いは40%(20~60%)、CHG関連祖先系統の違いは15%(ハタイ県の個体を除いて30~45%)へと半減しました。この均質化にも関わらず、いくつかの祖先系統の違いが存続しました。アナトリア半島において、東部地域では西部地域よりもCHG関連祖先系統が多かったものの、全体的なパターンは、一方にアナトリア半島西部および中央部、もう一方にメソポタミア北部のひじょうに分化した新石器時代人口集団に由来する、アナトリア半島内の遺伝子流動後の減少した差異の一つでした。
アナトリア半島における均質化は、ヨーロッパからの外因性遺伝子流動の不浸透性により結びつき、これは、外部移民の人口統計学的影響を減ずる大規模で安定した人口基盤か、遺伝子流動を妨げる文化的要因により説明できます。アナトリア半島とその近隣地域との間の遺伝子流動の非対称性はたとえば、CHG関連祖先系統がアナトリア半島を横断してバルカン半島へと西進し、またユーラシア草原地帯へと北進したものの、BHG祖先系統はアナトリア半島もしくはさらに東方へと流入せず、EHG祖先系統はアジア西部において南方ではせいぜいアルメニアまで、およびそれより少なくイランまでしか到達しなかった、という事実に明らかです。これは、鉄器時代のウラルトゥ期にさえ当てはまり、その頃には、EHG祖先系統を欠いている人口集団が、ヴァン王国の中心部に依然として存在していました(L論文A)。
●草原地帯牧畜民の起源と拡大
銅器時代と青銅器時代のアナトリア半島におけるヨーロッパ狩猟採集民との混合の欠如は、南アーチの北側と黒海およびカスピ海の北側の進展とは対照的で、黒海とカスピ海では、ヨーロッパ東部と南アーチの人口集団の混合を有する、金石併用時代(この地域では銅器時代の代わりに使われる用語です)と青銅器時代の牧畜民人口集団の形成がありました(関連記事)。草原地帯の個体群を調べると(図3)、紀元前5000年頃以後、CHG関連祖先系統が以前のEHG人口集団に追加され、フヴァリンスク(Khvalynsk)およびプログレス2(Progress-2)遺跡の金石併用時代人口集団を形成した、と観察されます。この祖先系統は、紀元前四千年紀の草原地帯マイコープ(Maykop)文化人口集団において存続しました。しかし、紀元前3000年頃以前のこれら人口集団の全てには、検出可能なアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統が欠けており、遅くとも新石器時代以来少なくとも一部はそうした祖先系統を有していた、南アーチの全ての同時代の人口集団とは対照的です(L論文B)。
南アーチのその後の全期間では、CHG関連祖先系統はそれ自体では決して見つからず、むしろ常にさまざまな程度でアナトリアおよびレヴァント祖先系統と混合していました。これが示唆するのは、金石併用時代草原地帯におけるCHG関連祖先系統の供給源が何であれ、それは南アーチで標本抽出された差異の範囲に由来しなかった可能性がある、ということで、その理由は、これがアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統をもたらしたからです。これは、金石併用時代草原地帯におけるCHG関連祖先系統の近位供給源は、金石併用時代までアナトリアおよびレヴァント関連の遺伝子流動を経なかった、標本抽出されていない集団で探されるべきであることを示唆しています。おそらく、この人口集団はコーカサス北部に存在し、そこからアナトリアおよびレヴァント関連ではなくCHG関連祖先系統が金石併用時代草原地帯に入ってきたかもしれません。以下は本論文の図3です。
金石併用時代草原地帯人口集団は、有意なアナトリア(3±1%)およびレヴァント(3.5±1%)関連祖先系統を有する紀元前3000年頃までの個体群のヤムナヤ文化クラスタとは対照的です(図3A)。この推測は、さまざまな時間深度のヤムナヤ祖先系統の詳細な分析により裏づけられ、少なくとも2つの南方供給源に由来する、と示唆されます。一方の供給源は金石併用時代で、CHG祖先系統のみを有しています。もう一方の供給源はヤムナヤ文化クラスタの形成前となり、(深い供給源として)CHG祖先系統か、アルメニアの新石器時代の人々と関連する祖先系統(より近位の供給源)か、コーカサスからアナトリア半島南東部にかけての銅器時代の人々と関連する祖先系統(さらに近位の供給源)に加えて、アナトリアおよびレヴァント関連祖先系統を含んでいます。紀元前四千年紀のコーカサス北部のマイコープ文化人口集団におけるより直接的で地理的に近い供給源も、提案されてきました。
現時点で正確な供給源を限定できませんが(全候補は同じアナトリアとレヴァントとコーカサスの祖先系統のさまざまな組み合わせを有しています)、それはこの銅器時代のコーカサスとアルメニアとアナトリア半島東部および南東部におけるメタ個体群(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)に由来し、このメタ個体群は、ヤムナヤ文化草原地帯牧畜民の前身へと南アーチ祖先系統の第二の波をもたらしたに違いありません。この第二の波の遺伝的寄与は、ヤムナヤ文化集団におけるアナトリアおよびレヴァント祖先系統の合計と同じくらい低く6.5%か、組み合わされたCHGとアナトリアおよびレヴァント祖先系統の合計と同じくらい高く53.1%だったかもしれません。その下限値の可能性は低く、それは、CHG祖先系統が銅器時代にはアジア西部において遍在しており、そのうち一部は6.5%にまで追加されねばならないからです。上限値もありそうになく、それは、全てのCHG祖先系統は第二の波で北方へと流入した、と示唆されているので、金石併用時代草原地帯への独立した流入の証拠は無視されるからです。本論文のモデル化は21~26%と、6.5~53.1%の範囲の中間的な値を示唆しており、これは将来、より適切な供給源がアジア西部と草原地帯の両方で明らかになるにつれて、更新されるかもしれない推定値です。
考古学的証拠は、西方草原地帯人口集団が、ククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTCC)や球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)などヨーロッパ農耕民集団とどのように相互作用したのか、記録しており、以前には、そうした集団の祖先系統はヤムナヤ文化集団の祖先系統に寄与した、と提案されました(関連記事)。本論文の遺伝学的結果は、このシナリオと矛盾します。それは、ヨーロッパ農耕民がそれ自体、アナトリア半島新石器時代祖先系統とヨーロッパ狩猟採集民祖先系統の混合だからです。しかし、ヤムナヤ文化集団はヨーロッパ人をアジア西部農耕民と区別するヨーロッパ狩猟採集民祖先系統を欠いており、本論文の5方向モデルではレヴァント祖先系統とアナトリア祖先系統の比率は1:1で、ヨーロッパ農耕民におけるアナトリア祖先系統の圧倒的優勢とは対照的です。
以前の研究(関連記事)の、CHGとEHGとヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とアナトリア新石器時代の祖先系統のモデルは失敗し、それは、以前のモデルがレヴァント農耕民との共有された遺伝的浮動を過小評価していたからで、レヴァント農耕民のヤムナヤ文化集団への寄与は、そのモデル下では説明できません。これらの結果は、ヤムナヤ祖先系統の構成要素の祖先の起源探求を、草原地帯の南側および南アーチの東翼へと確実に移行させます。南方から草原地帯への2回の移動の最も直接的な供給源の判断は、これら3構成要素の違いのある人口集団が存在する、アナトリア半島とコーカサスとメソポタミアとザグロス地域全体でのさらなる標本抽出に依拠するでしょう。同様に、草原地帯側では、金石併用時代(先ヤムナヤ文化期)個体群の研究が、CHGの北方への浸透の動態を明らかにして、特徴的なヤムナヤ文化クラスタ出現の可能性の高い地理的領域を特定できるかもしれません。ヤムナヤ文化クラスタは紀元前五千年紀半ばの混合の常染色体兆候を有しており、草原地帯の金石併用時代個体群により提供された最初の南方の影響の直接的証拠と一致する、と本論文は示します。
ヨーロッパ本土へのEHGおよびアジア西部祖先系統両方の拡大におけるヤムナヤ文化的人口集団の役割は以前に認識されていたものの(関連記事)、アジア西部祖先系統の一部が草原地帯祖先系統の拡大とは別に、エーゲ海地域やシチリア島(関連記事)や、ずっと西方のイベリア半島(関連記事)にさえ青銅器時代までにヨーロッパに入ったことも、明らかになりました。ヤムナヤ文化集団においてCHG祖先系統からEHG祖先系統を引くと0%と観察され(図4B)、これにより、ヨーロッパ本土への草原地帯の移民が(不均衡なCHGとEHGの構成要素を有する)さまざまな草原地帯人口集団に由来するのかどうか、ということと、(EHGもしくはCHGどちらかの祖先系統をより多く有しており、したがって、差がゼロから遠ざかる)追加の移住が起きたのかどうか、両方の検証が可能になります。以下は本論文の図4です。
ヨーロッパの縄目文土器および鐘状ビーカー複合の個体群は全て、この2つの構成要素の均衡がとれた存在(ヤムナヤ文化的人口集団を通じて伝わったことと一致します)と一致している、と分かりました。第三の「北方」供給源がかなり関わっている、と示唆されてきたボヘミアの縄目文土器複合(関連記事)でさえ、違いはEHG祖先系統の3.1±2.1%の過剰という小さな違いで、本論文の統計分析の解像度の限界まで、ヤムナヤ文化集団により伝わったことと完全に一致します。これはヨーロッパ南東部には当てはまらず、エーゲ海地域(ミノ人とミケーネ人の両方で17%程度)だけではなくバルカン半島全体(7.4±1.7%、国単位の推定値は4~13%)で、青銅器時代個体群はEHG祖先系統に対してCHG祖先系統の過剰を有していました。
この過剰について考えられる説明は、ヨーロッパ南東部の新石器時代基層における5.2±0.6%と少量のCHG構成要素の存在です。この割合は、ハンガリーのスタルチェヴォ・ケレス(Starčevo-Körös)文化複合、フランス、スペイン、オーストリアとドイツとハンガリーの線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)という、別々の前期新石器時代4人口集団では0~1%と推定されます。したがって、ヨーロッパ中央部・北部西部と比較してのヨーロッパ南東部における青銅器時代CHG祖先系統は、新石器時代からのこの対比を再現しているかもしれません。しかし、エーゲ海地域(L論文A)で観察されるさらに高い水準(図3B)は、前期青銅器時代までの新石器時代の後の追加の遺伝子流動を示唆します(関連記事)。
●ヨーロッパ南東部における地元と草原地帯とアジア西部の祖先系統の相互作用
ヨーロッパ南東部はユーラシア草原地帯およびアナトリア半島と地理的に接しており、その遺伝的歴史(図4)は、8500年前頃に始まるアナトリア半島新石器時代農耕民による在来のBHGの部分的置換に始まり、その後のEHG祖先系統を有する5000年前頃となる草原地帯人口集団の拡大が続くという、両方つながりの痕跡が残っています(関連記事)。青銅器時代はアナトリア半島における部分的な均質化の期間でしたが、上述のように、ヨーロッパ南東部ではかなり対照的な時代でした。
この異質性の一側面は、在来のBHG祖先系統自体の保持で、これは(南アーチ内の)バルカン半島でのみ検出されたので、南アーチの他地域からのかなりの移住は排除されました。BHG祖先系統は青銅器時代に変化し、地理と関連していました。ルーマニア内では顕著な対照が見られ、本論文の新たなデータでは、BHG祖先系統は、ボドログケレスツル(Bodrogkeresztúr)遺跡銅器時代の42個体の祖先系統の12%、アルマン(Arman)のカルロマネスティ(Cârlomăneşti)遺跡とプロイェシュティ(Ploieşti)、およびカルパチア山脈の南側のタルグソル・ヴェチ(Târgşoru Vechi)の青銅器時代10個体では24~30%です。
BHG祖先系統が37%程度の鉄門遺跡近くとなるセルビアのパンディナ(Padina)遺跡の他の青銅器時代個体と合わせると、これらの結果は、バルカン半島北部において、アナトリア半島新石器時代および草原地帯祖先系統両方の到来に先行するかなりの狩猟採集民祖先系統保持を証明します。これは、新石器時代と青銅器時代どちらの人口集団も顕著なBHG祖先系統を有していなかったエーゲ海地域のバルカン半島南端とは対照的で(L論文A)、この地域の新石器時代の前の人口集団が、バルカン半島北部(BHG的)とアナトリア半島西部(したがって、アナトリア半島新石器時代人口集団と類似しています)のどちらかとより類似していたのか、という問題を提起します。
青銅器時代の不均質性の主要な動因は、散発的な銅器時代の出現後にヨーロッパ南東部で遍在するようになった、EHG祖先系統の出現でした。これはモルドヴァのいくつかの青銅器時代遺跡において最も明らかで(31~44%)、地下墓地(Catacomb)および多突帯文土器(Multi-cordoned Ware)文化の遺跡や、ルーマニアのカルパチア山脈の東部および南東部斜面のトレスティアナ(Trestiana)およびスメエニ(Smeeni)遺跡の個体群を含んでおり、アルマンの高い割合のBHG祖先系統を有する集団とは対照的です。モルドヴァの地下墓地文化とコーカサスの個体群間の対照も検出され、それはかなりのアナトリア半島新石器時代祖先系統(17±4%)を有するプルカリ(Purcari)遺跡の個体が原因で、黒海の反対側にあるこの文化内の一定の異質性を示唆します。バルカン半島の他の個体については、EHG祖先系統の量は15%程度で、ミケーネ期ギリシアでは4%、ミノア期クレタ島では無視できる水準にまで低下します(L論文A)。
本論文は、個体群の「高い割合の草原地帯祖先系統」一式を特定し、これは、同時代の個体群と比較してEHG祖先系統を異常に高い割合で有していた(図4B)、青銅器時代のバルカン半島個体群に使われる用語です。これには、ブルガリアのノヴァ・ザゴロ(Nova Zagora)およびクロアチアのヴチェドル(Vučedol、Vucedol)遺跡の以前に刊行された2個体と、アルバニアのシナマク(Çinamak)遺跡の青銅器時代1個体(紀元前2663~紀元前2472年頃)と文化的にヤムナヤ集団の4個体を含む、新たに報告された5個体が含まれます。文化的にヤムナヤ集団の4個体の内訳は、セルビアのヴォジュロヴィカ・フムカ(Vojlovica-Humka)遺跡の1個体、ブルガリアのボヤノヴォ遺跡の2個体、モギラ(Mogila)遺跡の1個体です。
全体としてこのバルカン半島集団は、35.9±2.5%のEHG祖先系統、36.4±1.9%のCHG祖先系統、23.0±1.9%のアナトリア半島新石器時代祖先系統を有しており、ヤムナヤ文化集団では、その割合がそれぞれ、46.1±1.0%、46.±1.6%、3.0±1.0%です。つまり、ヤムナヤ文化集団と同じ均衡のCHGおよびEHG祖先系統であるものの、究極的にはアナトリア半島起源の在来の新石器時代祖先系統により約1/5に希釈されています。
DATESを使用してヨーロッパ南東部人口集団における草原地帯祖先系統の混合を年代測定すると(図5F)、4850年前頃に起きた、との推定値に達します。つまり、正確にヤムナヤ文化の拡大後で、本論文の「高い割合の草原地帯」クラスタ個体群の時間枠内です。これは、(最初の概算として)青銅器時代以後のヨーロッパ南東部における草原地帯祖先系統が、散発的にこの地域に影響を及ぼした草原地帯からの初期の波ではなく、ほぼヤムナヤ文化集団と在来のバルカン半島人口集団の子孫により媒介された、と示唆します。バルカン半島のいくつかの地域におけるヤムナヤ文化集団的個体の存在により示唆されるように、この混合は1ヶ所で起きる必要なく、空間的には牧畜民と定住人口集団との間の文化伝播地帯、およびヨーロッパ東部平地から山岳地帯の地理的地域の両方で起きたかもしれません。
●アルメニア:持続するアジア西部の遺伝的背景に対する変動する草原地帯祖先系統
アルメニアはアジア西部の高地に位置し、アナトリア半島の東側、アジア西部と北方のユーラシア草原地帯を分離するコーカサス山脈の南側となります。アルメニアの祖先系統の軌跡を調べると、在来のCHG関連祖先系統(図5A)が新石器時代から現在まで常に最重要の構成要素で、過去8000年間では祖先系統の50~70%になります。アナトリア半島のように、アジア西部祖先系統の他の2つの構成要素も同様に強い存在を示しており、残りの大半を占めます。以下は本論文の図5です。
南アーチの他の全てのアジア地域と比較してのアルメニア史の最も注目すべき特徴は、EHG祖先系統の、アレニ1洞窟(Areni-1 Cave)個体における6000年前頃となる銅器時代の出現と、5000年前頃となる前期青銅器時代クラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化個体での消滅と、中期青銅器時代での再出現です。中期青銅器時代には、EHG祖先系統の割合が14%程度となり、後期青銅器時代と鉄器時代には10%程度、紀元前千年紀前半となるその後のウラルトゥ期には7%程度、アギトゥ(Aghitu)など紀元前千年紀後半以降の遺跡、およびガラク(Agarak)遺跡など中世から現在までは1~3%程度です。
EHG祖先系統の割合が最高で、20ヶ所以上の遺跡で確認されている、アルメニアの中期および後期青銅器時代個体群を、他のアジア西部とヨーロッパと草原地帯の人口集団と比較すると、アルメニアが外れ値であることは明らかです(図5E)。アルメニアの人口集団は、周辺の人口集団よりもずっと多くのEHG祖先系統を有しています。アナトリア半島とレヴァントでは、EHG祖先系統は青銅器時代には検出されず、イランでは全体の約2%で、コーカサス北部のマイコープ文化クラスタ人口集団でさえ、3%に達します。アルメニアにおけるこれらの分析から、EHG祖先系統が黒海の西側の草原地帯からヨーロッパ南東部へと流入し、エーゲ海地域とその東側で最小限獲得されただけではなく、コーカサスを横断してアルメニアへも流入した、と示されます。しかし、草原地帯祖先系統のかなりの割合は、東方からも西方からも、それ以上アナトリア半島へと広がりませんでした。
アレニ1洞窟におけるEHG祖先系統の出現は、アジア西部でのユーラシア草原地帯の人々の最初の既知の遺伝的影響ですが、銅器時代草原地帯の現在の疎らな標本抽出では、草原地帯内のEHG祖先系統の正確な地理的供給源は分かりません。アレニ遺跡個体群の年代は同じく紀元前五千年紀で、銅器時代草原地帯は南方からのCHG関連祖先系統に影響を受けるようになり、ヤムナヤ文化起源の本論文の混合年代測定もそのことを示します。しかし、EHG祖先系統がアルメニアにおいて定着したのはやっと中期~後期青銅器時代で、少なくともしばらくは、紀元前千年紀に最終的に消滅した、アジア西部における草原地帯祖先系統の影響の「飛び地」を形成します。
比較的高い割合の草原地帯祖先系統の期間は、青銅器時代~鉄器時代のルチャシェン・メトサモー(Lchashen-Metsamor)文化に相当します。平均して紀元前二千年紀後半の年代の広範な個体群における草原地帯混合の連鎖不平衡年代測定(図5F)から、その混合は紀元前三千年紀半ばで1500年早く起きたので、ヨーロッパ本土とバルカン半島の変容と同時だった、と示唆されます。アルメニア自体では、紀元前三千年紀半ばはクラ・アラクセス文化の終焉とそれに続く「前期クルガン(墳丘)」文化に相当し、その後に紀元前三千年紀末のトリアレティ・ヴァナゾル(Trialeti-Vanadzor)複合が続き、そのタヴシュット(Tavshut)遺跡個体(紀元前2127~紀元前1900年頃)はすでに、ルチャシェン・メトサモー文化人口集団の10%程度のEHG祖先系統を有しており、これは最初に記録された銅器時代の2000年後のアルメニアにおける草原地帯集団の子孫です。以下に示されるY染色体の分析は、EHG祖先系統のこの紀元前三千年紀の再出現後に、ヤムナヤ文化集団とアルメニア人口集団との間のつながりについて、独立した一連の証拠を提供します。
●ゲノム規模の文脈における草原地帯とアジア西部との間のY染色体のつながり
Y染色体の変異は、2人口集団が祖先を共有する年代について、信頼できる上限の提供に使えます。それは、配列可能なほぼ1000万以上のヌクレオチドにわたって分析できる膨大な変異が、系統の分岐年代が正確に分かっていることを意味するからです。古代の個体のY染色体分析は、社会的過程への洞察を提供する可能性も有しています。
YHg-R1b1a(L389)の下位クレード(単系統群)は、南アーチとユーラシア草原地帯との間のつながりの追跡について、とくに情報をもたらします(図6)。まず、YHg-R1b1a2(V1636)は、紀元前五千年紀において推測される共通祖先で、金石併用時代(銅器時代)における草原地帯と南アーチとの間の遺伝子流動を記録します(図6B)。YHg-R1b1a2は、トルコのアルスランテペ遺跡の後期銅器時代とアルメニアのカラヴァン(Kalavan)遺跡の前期青銅器時代の2個体に存在します。YHg-R1b1a2はコーカサス北部のプログレス2遺跡のピーモント地方、フヴァリンスク2遺跡、ヨーロッパ北部のゲアイル(Gjerrild)遺跡の単葬墳文化でも見つかっています(関連記事)。アルメニアとアルスランテペ遺跡の個体群には検出可能なEHG常染色体祖先系統が欠けており(図6C)、それはフヴァリンスク遺跡個体群で最大化されています。これは、YHg-R1b1a2の南方起源についていくつかの証拠を提供する観察です。
しかし、YHg-R1b1a2が北方のいくつかの遺跡でより早期に出現しており、それは草原地帯からの男性の移住が銅器時代に南アーチ人口集団へとYHg-R1b1a2をもたらしたものの、常染色体の遺伝的遺産はずっと多くの地元民により希釈された、との代替的シナリオと一致する可能性があることに要注意です。YHg-R1b1a(L389)の最初の個体は、YHg-R1b1a2の姉妹クレードであるYHg-R1b1a1(P297)に属しており、レビャジンカ4(Lebyazhinka IV)遺跡およびバルト海地域の狩猟採集民を含んでおり、両者はCHG祖先系統を有しておらず、最終的にはYHg-R1b1a1b(M269)が派生した、このクレードのヨーロッパ東部起源が示唆されます。YHg-R1b1a1bは、青銅器時代にひじょうに広範に拡大しました。以下は本論文の図6です。
YHg-R1b1a1bは紀元前五千年紀に祖先を共有していると推測されており、草原地帯集団拡大の理解に重要です。それは、YHg-R1b1a1bが、YHg-R1b1a1b1b(Z2103)→YHg-R1b1a1b1b(M12149)の下位系統に至る、紀元前四千年紀のヤムナヤ文化およびアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団の支配的な系統だからです。バルカン半島では、YHg-R1b1a1bの紀元前三千年紀の青銅器時代6個体が30%超のEHG祖先系統と関連しており、これは草原地帯に隣接するモルドヴァだけではなく、さらに南方のブルガリア(ボヤノヴォおよびモギラ遺跡で、モギラ遺跡の個体はヤムナヤ文化の埋葬慣習と関連しており、YHgは草原地帯ヤムナヤ文化に典型的なR1b1a1b1bです)のヤムナヤ文化の男性2個体と、高い割合の草原地帯祖先系統集団に属するアルバニアのシナマク遺跡の1個体の地下墓地および多突帯文土器を含んでいます。
後期青銅器時代(紀元前二千年紀後半)までに、およびその後、高い割合の草原地帯祖先系統の個体群は観察されませんが、草原地帯関連のYHgは存続し、北マケドニアのウランシ・ヴェレス(Ulanci-Veles)遺跡とアルバニアのシナマク遺跡と草原地帯とアルメニアをつなぐ、YHg-R1b1a1b1b3(Z2106)が含まれます。ヨーロッパ南東部の人口集団は、特定のY染色体系統と強く関連しているヨーロッパ中央部および北部とユーラシア草原地帯の紀元前3000~紀元前2000年頃の人口集団とはひじょうに対照的です。アファナシェヴォ文化ではヤムナヤ文化と同じYHg-R1b1a1b1b、縄目文土器文化とファチャノヴォ(Fatyanovo)文化とシンタシュタ(Sintashta)文化(関連記事)ではYHg-R1a1a1(M417)、鐘状ビーカー文化ではYHg-R1b1a1b1a(L51)です。
ヨーロッパ南東部では青銅器時代において、ヨーロッパ中央部および北部と草原地帯(R)、アジア西部(J)、在来狩猟採集民(I)、アナトリア半島新石器時代農耕民(G)と関連するYHgが、それぞれ32、30、21、11系統検出されました。バルカン半島個体群の常染色体祖先系統における並外れた不均質性と合わせると、バルカン半島古代人におけるさほど理解されていない言語学的多様性とよく対応しているかもしれない断片的な遺伝的景観の全体像が浮かび上がり、その言語学的多様性は、インド・ヨーロッパ語族ではラテン語およびスラブ語拡大前の古代バルカン諸語話者を含んでおり、唯一の現存代表はアルバニア語です。初期インド・ヨーロッパ語族は「共通語」として機能し、以前の農耕民および狩猟採集民人口集団の多様な言語の話者間の意思伝達を促進したので、ヨーロッパ南東部において成功しましたか?
本論文で新たに報告されたデータから、アルメニアとイラン北西部の大半の個体は紀元前二千年紀と紀元前千年紀前半にはYHg-R1b1a1b1b(Z2103)→YHg-R1b1a1b1b(M12149)に属する、と明らかになり、これらの地域におけるヤムナヤ文化集団との遺伝的つながりを提供します。これらの地域では、ヤムナヤ文化自体の存在は証明されていません。こうしたヤムナヤ文化とのYHgの関連は、YHg-R1b1a2(V1636)、もしくは紀元前五千年紀末となる銅器時代アルメニアのアレニ1洞窟個体におけるEHG祖先系統の初期の出現よりも直接的なつながりを表しており、草原地帯金石併用時代へのCHG祖先系統の逆移動の証拠を提供します。
本論文のデータにより証明されたY染色体の南方への移動にも関わらず、YHg-R保有者とEHG祖先系統との間の関連は草原地帯の南側では失われており、それはこれらが、アルメニアで2番目に割合の高い系統であるYHg-I2a2b(Y16419)保有者のように、類似の割合のEHG祖先系統を有しているからです。バーゲリ・チャラ(Bagheri Tchala)遺跡とノラトゥス(Noratus)遺跡では親族関係にない男性がそれぞれ7個体と12個体確認されており、かなりの標本規模となる青銅器時代~鉄器時代の遺跡ですが、そのYHg分布は対照的で、バーゲリ・チャラ遺跡ではYHg-R1b1a1b1b(M12149)、ノラトゥス遺跡ではYHg-I2a2b(Y16419)で、紀元前1000年頃のアルメニアにおける創始者効果か高い遺伝的浮動か父方居住配偶規則が示唆されます。イラン北西部の同じ時期のハサンル遺跡では、多くの個体がYHg-R1b1a1b1b の存在にも関わらずEHG祖先系統の痕跡を全く有しておらず、草原地帯でのEHG祖先系統とYHg-R1b1a1b1bの最初の関連は、YHg-R1b1a1b1b保有者がEHG祖先系統なしに南アーチ個体群と繁殖したので消滅した、と示唆されます(図6C)。
草原地帯では、紀元前三千年紀初頭においてYHg-R1b内のYHg-R1b1a1b1bはヤムナヤ文化と関連しており、次の千年紀の初頭までには、シンタシュタ文化(関連記事)など縄目文土器文化およびファティアノヴォ(Fatianovo、Fatyanovo)文化の草原地帯の子孫(関連記事)と関連する、YHg-R1a内のR1a1a1b2(Z93)により置換されました。遺伝的データは、このY染色体の置換が、一方は多様な改良した家畜ウマの利用など文化的適応(関連記事)を有していたかもしれない、草原地帯の父系集団間の競合の結果なのかどうか、あるいは、一方の集団がそれ以前の集団が引き払った生態的地位を単に埋めただけなのかどうか、区別できません。この重要な遺伝的変化の理由をより深く理解するには、遺伝学と考古学のデータを組み合わせて分析する必要があります。
その消滅の理由が何であれ、ヤムナヤ文化系統の父系であるYHg-R1b1a1b1b(Z2103)はアルメニアにおいて現在まで存続しており、アルメニアでは、本論文の調査で常染色体草原地帯祖先系統の大きな希釈が記録されているにも関わらず、YHg-R1b1a1b1bは全ての調査されたアルメニア人集団においてかなりの頻度で存在します。アルメニアにおけるヤムナヤ文化父系子孫の持続的存在は、草原地帯祖先系統がヤムナヤ文化人口集団の支配的なYHg-R1b1a1b1b(M12149)の父系子孫ではない、ヨーロッパ本土およびアジア南部とは対照的です。じっさい、ヨーロッパ本土およびアジア南部の人々は、異なる支配的なY染色体系統を有していながら、常染色体草原地帯祖先系統を有するさまざまな子孫集団に属していました。
アルメニアは、アナトリア半島(合計80個体)とも対照的です。アナトリア半島では、YHg-R1b1a1b(M269)が銅器時代や青銅器時代や古代(先ローマ期)には全く観察されず、YHg-J(36個体)とG(17個体)が最も一般的で、トルコの現代人ではYHg-Jの頻度は約1/3と依然として一般的であり、銅器時代の前にはバルシン遺跡やイリピナル遺跡やマルマラ地域の新石器時代の男性18個体のうち1個体しか確認されていないにも関わらず、現代ではそうした高頻度に達しました。YHg-Jの増加について可能性が高そうな説明は、YHg-Jが本論文の混合分析により推測された(図2)CHG祖先系統の拡大に伴っていた、というものです。この推測は、コティアス(Kotias)およびサツルブリア(Satsurblia)遺跡のCHG個体群と、イランのホツ洞窟(Hotu Cave)の中石器時代1個体が両方YHg-Jを有している、という事実により可能性が高くなっています。これは、コーカサスおよびイラン地域におけるYHg-Jのひじょうに古い存在を示唆しており、新石器時代マルマラ地域ではYHg-Gが18個体のうち10個体で確認されることとは対照的です。銅器時代までに、YHg-GおよびJはアナトリア半島において遍在するようになり、その時代には28個体のうち10個体で確認され、その時までに起きた均質化と並行していました。
●遺伝的データに照らしてのインド・ヒッタイト語仮説
本論文は、インド・ヨーロッパ語族とアナトリア語派の起源と拡大に関する仮説について、本論文の遺伝学的調査結果の意味を考察します。本論文は、警告も強調します。人々の移動についての調査結果とは対照的に、言語の起源に対する遺伝学の関連性はより間接的です。なぜならば、言語は遺伝子の変化が殆ど或いは全くなくても変化し、人口集団は言語学的変化が殆ど或いは全くなくても移動して混合するかもしれないからです。それにも関わらず、移住の検出は重要で、それは移住が言語変化の尤もな媒介だからです。
草原地帯からヨーロッパ中央部および西部への西進と、シベリア南部とアジア中央部および南部への東進の両方の大規模な移動の発見は、共通の祖先系統を通じてヨーロッパ北西部からインドおよび中国へと人口集団をつなげることによりインド・ヨーロッパ語族の起源を草原地帯とする理論に、強力な証拠を提供してきました。本論文は、おもに草原地帯祖先系統の個体群を含む、青銅器時代バルカン半島における草原地帯からの遍在する祖先系統の発見により、この理論へのさらなる裏づけを追加します。
バルカン半島では確かに、トラキア語やイリュリア語などインド・ヨーロッパ語族の古代バルカン諸語が話されていました。この理論は、アルメニア人が最初に証明された青銅器時代と鉄器時代のアルメニアにおける草原地帯祖先系統の遍在と、アルメニアと草原地帯とバルカン半島の間のつながりの記録によっても裏づけられます。またこの理論は、より低い水準にも関わらず、ギリシア語が最初に証明されたミケーネ期のエーゲ海地域における草原地帯祖先系統のさらなる考証(L論文A)により裏づけられます。インド・ヨーロッパ語族の全ての古代および現代の支系は、草原地帯の前期青銅器時代ヤムナヤ文化牧畜民もしくは遺伝的に類似した人口集団に由来するか、少なくとも関連している可能性があります。
アナトリア語派話者については、アナトリア半島におけるEHG祖先系統の欠如のため(関連記事)、草原地帯とのつながりを確証できていません。本論文はそれを、以下の3点で補強します。第一に、銅器時代から先ローマ期古代までのアナトリア半島の新たな100個体におけるEHG祖先系統の少なさの実証です。第二に、アナトリア半島西部と、その西方との中間的な近隣地域であるエーゲ海およびバルカン半島地域との対比です。第三に、アナトリア半島東部および北部と、その東方における近隣地域のアルメニアとの対比です。確かに、アナトリア半島におけるEHG祖先系統の欠如は分類上証明できず、それは標本抽出が常に一部のそうした祖先系統を明らかにする可能性があるからです。しかし現時点では、広範な標本抽出にも関わらず、そうした祖先系統は可能性のある侵入地点(陸路でのアナトリア半島西部および東部、あるいは海路による北部)あるいは人口集団全体で検出されていません。
インド・ヒッタイト語仮説は1926年にスターティヴァント(Edgar Howard Sturtevant)により最初に提案され、より現代的な系統言語学的分析により部分的に裏づけられてきており、ヒッタイト語などアナトリア語派はインド・ヨーロッパ語族の系統樹の残りの基底部に位置していることと、両者の初期の分岐が示唆されました。本論文は、ヤムナヤ文化牧畜民の形成時期までにはアナトリアおよびレヴァント関連祖先系統も含んでいた、草原地帯金石併用時代人口集団が明らかであるように、アナトリア半島がじっさい、CHG関連祖先系統のアナトリア半島西端への拡大を通じて後期銅器時代に変容した、と示しました。アナトリア半島とメソポタミア北部とイラン西部とアルメニアとアゼルバイジャンとコーカサスの全ての候補供給源人口集団が充分に標本抽出される前に、これらの移動の近位供給源を特定するのは時期尚早です。
本論文の分析は、草原地帯人口集団を変容させ、言語学的変化を誘発した、アジア西部人と関連する2集団から草原地帯への少なくとも2回の遺伝子流動を示します。逆の移動はより限定的で、アレニ洞窟個体のように北方からの初期の影響があったか、おそらくはYHg-R1b1a2(V1636)と関連しており、アナトリア半島の人口集団には大きな影響を与えませんでした。その証拠は、2つの仮説と一致します。
仮説Aの想定は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族祖語の両方を含むインド・アナトリア語族祖語が、ほとんど祖先系統に寄与しなかった一方で、アナトリア半島において不均衡な言語学的影響を有した、高い割合のEHG祖先系統を有する人口集団により話されていた、というものです。アナトリア半島の青銅器時代の後の遺伝的景観では、ヨーロッパもしくは草原地帯の影響による外れ値が見つかりましたが、これはアナトリア半島が多くの言語学的に非アナトリア語派のインド・ヨーロッパ語族人口集団に影響を受けた期間で、フリギア人やギリシア人やペルシア人やガラテヤ人やローマ人など、わずか数例です。しかし、アナトリア半島中央部の都市であるゴルディオン(Gordion)の個体群では、ゴルディオンがフリギアの首都になり、次にペルシアとヘレニズム諸国に支配される前に、EHG祖先系統の割合はわずか2%程度で、少なくとも4つの異なるインド・ヨーロッパ語族話者集団に支配された地域にしてはわずかです。
中世には、テュルク諸語話者と関連するアジア中央部祖先系統が追加され、現在まで存続しています。明らかに、アナトリア半島は歴史時代には言語学的変化の影響を受けず、その変化の前兆も、外れ値であっても遺伝的に検出されます。対照的に、孤立した外れ値もしくは一般的に低水準の存在としての、銅器時代および青銅器時代におけるEHG祖先系統の完全な欠如は、あったとしてごくわずかな遺伝的影響を残した人口集団が、それにも関わらず大規模な言語学的変化をもたらした尤もらしい過程を提案する、草原地帯仮説に異議を唱えます。車輪付き乗り物の共通語彙は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族の残りの両方で証明されていないので、インド・ヨーロッパ語族の拡散に重要だったかもしれないと考えられた技術的優位は失われた可能性があります。
仮説Bは、インド・アナトリア語族祖語が、アナトリア半島と草原地帯の両方に影響を及ぼした、EHG祖先系統が少ないか全くないアジア西部とコーカサスの人口集団により話されていた、と仮定します。仮説Bは、ヒッタイト語やルヴィ語(Luwian)やパラー語(Palaic)などアナトリア語派話者と、ハッティ語(アナトリア半島中央部と北部の非インド・ヨーロッパ語族の孤立した言語)およびフルリ語(後の鉄器時代のウラルトゥ語と関連するアナトリア半島東部およびメソポタミア北部の非インド・ヨーロッパ語族言語)話者の両方が共存した、青銅器時代アナトリア半島で観察された言語学的多様性の説明に役立ちます。
アナトリア半島のみで証明されている非インド・ヨーロッパ語族のハッティ語が、高い割合のアナトリア関連祖先系統を有する人口集団により話されていた言語学的基盤を最も節約的に表す一方で、インド・ヨーロッパ語族は高い割合のCHG関連祖先系統の人口集団により話されていたでしょう。高い割合のCHG祖先系統の人々は東方からアナトリア半島全域に広がっており、そのうち少なくとも一部はアナトリア語派初期形態を話していたかもしれず、後期銅器時代前の遺伝的均質化(図2)と2つの言語学的集団の共存の両方を同時に説明するでしょう。CHG祖先系統の拡大と関連する人々のうちどれだけの人々がアナトリア語派を話していましたか?カルトヴェリ語族 (Kartvelian)やコーカサス北西部および北東部諸語など、コーカサスの多様な非インド・ヨーロッパ語族と関連する他の言語を話していた人々も、西方への移動に加わったかもしれません。
草原地帯については、南方からの少なくとも2回の移住の波(金石併用時代時代とヤムナヤ文化固有)が、アナトリア語派からのヤムナヤ文化の言語学的祖先の初期(銅器時代)の分岐解明の機会を提供し、その1000~2000年後に、ヤムナヤ文化の拡大とともに草原地帯からのインド・ヨーロッパ語族の拡散が続きます。インド・ヨーロッパ語族祖語とカルトヴェリ語族(おもにジョージアで話されています)など他の言語との間の言語借用は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地を突き止めるのに役立つかもしれませんが、或いはこれらは、この期間におけるフヴァリンスクからアナトリア半島まで3000km離れたYHg-R1b1a2(V1636)の存在のような証拠により証明されている、銅器時代以来の長距離移動に由来する可能性があります。
ヨーロッパ東部とシベリアの森林地帯で話されているウラル語族へのインド・ヨーロッパ語族の寄与は、4200年前頃のインド・ヨーロッパ語族話者のみが関わっていたようです。これが重要なのは、インド・ヨーロッパ語族祖語の移動の歴史を制約し、インド・ヨーロッパ語族祖語が草原地帯を通ってアジア南部へと拡大した、という遺伝学的証拠と一致し、インド・ヨーロッパ語族祖語がアジア西部からアジア南部へイラン高原を通って拡大した可能性を除外するからです。しかし、ウラル語族へのインド・ヨーロッパ語族の寄与は、初期のインド・アナトリア語族のより深い問題には光を当てません。インド・アナトリア語族祖語がCHG祖先系統の割合の高い人口集団において南方で形成された、との仮説への異議は、コーカサスもしくはアジア西部(いくつかの既存の提案はこの地域をインド・アナトリア語族の故地とします)におけるヤムナヤ文化集団の常染色体祖先系統の起源を追跡し、YHg-R1b1a1b(M269)の祖先系統が拡大した場所を特定することです。それは、これがアナトリア半島外のインド・ヨーロッパ語族拡大の最も妥当な第二の故地だからです。
インド・アナトリア語族祖語のアジア西部起源のシナリオは、トカラ語と残りの(内陸部インド・ヨーロッパ語族)言語との分岐を、紀元前3000年頃となるヤムナヤ文化の拡大および紀元前三千年紀におけるヤムナヤ文化の崩壊と関連づける言語学的分析、およびこれらの地域のインド・ヨーロッパ語族言語の部分集合についてバルカン半島とアルメニアへの大きな草原地帯との混合を想定する本論文の推測と一致します。その研究ではアナトリア語派の分岐は紀元前3700年頃(95%最高事後密度間隔で紀元前4314~紀元前3450年)に位置づけられ、この期間には、CHG祖先系統が遠く西方ではこの研究で標本抽出されたアナトリア半島北西部イリピナル遺跡の銅器時代個体群に現れ、CHG祖先系統の草原地帯への流動がすでに始まっていました。
全体として本論文の提案は、アナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族が共通のアジア西部祖語に由来する、というシナリオが、以下の4点の理由で古代DNAにより提供された人口変化の証拠と一致する、というものです。第一に、新石器時代の後で後期銅器時代の前となるアナトリア半島の遺伝的変容(図2)は、ハッティ語とアナトリア語派の共存をもたらした言語拡大の明らかな機会でした。第二に、青銅器時代の前の金石併用時代における草原地帯人口集団の2つの変容は、強い南から北への方向性があり、言語拡大の機会で、言語学により推測されたアナトリア語派とインド・ヨーロッパ語族の分岐と正確に一致します。第三に、バルカン半島(図4)やアルメニア(図5)やヨーロッパ中央部および北部などインド・ヨーロッパ語族の派生言語が話されていた地域への草原地帯からの移住は、インド・ヨーロッパ語族祖語の分解とユーラシア全域におけるその派生言語拡散にとって明らかな機会でした。第四に、近隣のアルメニアおよびヨーロッパ南東部の両方(図4および図5、L論文A)とは対照的なアナトリア半島への草原地帯からの移住の欠如は、インド・アナトリア語族と草原地帯祖先系統との関連において、アナトリア半島を唯一の例外とします。以下は本論文の要約図です。
この事象の概要は、草原地帯とアナトリア半島を結びつける、両地域の変容を促進した人口集団を特定するための、アジア西部とコーカサスとユーラシア草原地帯の考古学的文化の調査の具体的な研究計画を指し示します。(本論文の再構築が正しければ、インド・アナトリア語族祖語に相当する)そうした「まだ見つかっていない間隙(missing link)」の発見は、言語と一部の祖先系統を通じてアジアとヨーロッパの多くの人々を結びつけている共通の供給源についての、何世紀もの探求に終止符を打つでしょう。
参考文献:
Lazaridis I. et al.(2022A): A genetic probe into the ancient and medieval history of Southern Europe and West Asia. Science, 377, 6609, 940–951.
https://doi.org/10.1126/science.abq0755
Lazaridis I. et al.(2022B): Ancient DNA from Mesopotamia suggests distinct Pre-Pottery and Pottery Neolithic migrations into Anatolia. Science, 377, 6609, 982–987.
https://doi.org/10.1126/science.abq0762
Lazaridis I. et al.(2022C): The genetic history of the Southern Arc: A bridge between West Asia and Europe. Science, 377, 6609, eabm4247.
https://doi.org/10.1126/science.abm4247
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