黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』
平凡社新書の一冊として、平凡社より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。国衆を扱った一般向け書籍では、平山優『戦国大名と国衆』をすでに読みましたが(関連記事)、同書は甲信の戦国大名武田家を対象としているのに対して、本書は北条家と上杉家に西日本の大名も対象としているので、読むことにしました。本書は国衆を、戦国時代になって生まれた、戦国大名と同質の領域国家と定義します。ただ、国衆は領国を一円的・排他的に統治したものの(独立国家)、政治・軍事的に独立して存在できず、戦国大名に従属する立場にありました。しかし、戦国大名と国衆との間に主従関係があっても、それは双務的であり、戦国大名は、国衆を保護する力がないと判断されれば、国衆に離反されることもありました。
国衆は、(戦国時代よりも前の)室町時代以前の領主とは、領域権力だった点で異なっており、逆にこの点では戦国大名と同質でした。国衆と戦国大名の一門や家臣との違いは、国衆があくまでも戦国大名家の組織の外部に位置したことで、後の江戸時代の「外様大名」に該当します。国衆という用語は、室町時代から戦国時代にかけて一般的に使われていた普通名詞でした。国衆と戦国大名には共通する性格も多く、国衆が拡大して戦国大名になる事例は多そうに思われますが、本書は、国衆から戦国大名化したと確実に言えるのは、現時点では徳川と毛利と長宗我部と竜造寺に限定される、と指摘しています。
国衆の存在をはっきりと認識できるようになるのは1530年代~1550年代頃で、その頃までに国衆としての領国が形成されていたことになります。国衆(と戦国大名)の支配の特徴は、一族(庶家や庶子)と被官を一元的な主従制・知行制に編成したことで、これにより「家中」が成立します。室町時代の「国人」は、戦国時代には戦乱が恒常化するなか、近隣領主との抗争を通じて、本拠を中心とした一円的な領国形成により、排他的な領域権力を確立していった、というわけです。室町時代の領主は、本拠周辺に所領の大半を有していたものの、他の場所にも所領を有しており、その支配は一円的ではありませんでした。しかし、戦乱の恒常化により、遠方の所領は他者に横領されやすくなり、代わりに本拠周辺の他者の所領を自領に編入していったわけです。また、幕府や鎌倉府の直臣の立場にあった庶家は、惣領家の被官と同次元の一元的な家臣団に編成されていきます。
戦国大名が従属させた国衆をさらに被官化しようとする傾向は弱く、それは、恒常的な戦乱状況の中、直接的支配領域を拡大するだけの(人的および物質的)余力がなかったからでした。国衆が従属先の戦国大名に人質を出すことは珍しくなく、国衆が離反したさいには人質は戦国大名に殺されることもあるわけですが、上杉謙信は、離反されても人質を殺さず、それどころかその人質を養子として生家の国衆に送り込んだこともあるそうです。これは、実質的な人質の返還で、謙信はそれによりその国衆から忠節を引き出そうとしたのではないか、と本書は推測します。このように、戦国大名は国衆に配慮せざるを得ない側面が多分にあり、国衆に振り回されるところがありました。その典型例は武田家滅亡後の真田家で、北条家と徳川家と上杉家という東日本の有力大名の間を巧みに渡り歩きました。
国衆は、(戦国時代よりも前の)室町時代以前の領主とは、領域権力だった点で異なっており、逆にこの点では戦国大名と同質でした。国衆と戦国大名の一門や家臣との違いは、国衆があくまでも戦国大名家の組織の外部に位置したことで、後の江戸時代の「外様大名」に該当します。国衆という用語は、室町時代から戦国時代にかけて一般的に使われていた普通名詞でした。国衆と戦国大名には共通する性格も多く、国衆が拡大して戦国大名になる事例は多そうに思われますが、本書は、国衆から戦国大名化したと確実に言えるのは、現時点では徳川と毛利と長宗我部と竜造寺に限定される、と指摘しています。
国衆の存在をはっきりと認識できるようになるのは1530年代~1550年代頃で、その頃までに国衆としての領国が形成されていたことになります。国衆(と戦国大名)の支配の特徴は、一族(庶家や庶子)と被官を一元的な主従制・知行制に編成したことで、これにより「家中」が成立します。室町時代の「国人」は、戦国時代には戦乱が恒常化するなか、近隣領主との抗争を通じて、本拠を中心とした一円的な領国形成により、排他的な領域権力を確立していった、というわけです。室町時代の領主は、本拠周辺に所領の大半を有していたものの、他の場所にも所領を有しており、その支配は一円的ではありませんでした。しかし、戦乱の恒常化により、遠方の所領は他者に横領されやすくなり、代わりに本拠周辺の他者の所領を自領に編入していったわけです。また、幕府や鎌倉府の直臣の立場にあった庶家は、惣領家の被官と同次元の一元的な家臣団に編成されていきます。
戦国大名が従属させた国衆をさらに被官化しようとする傾向は弱く、それは、恒常的な戦乱状況の中、直接的支配領域を拡大するだけの(人的および物質的)余力がなかったからでした。国衆が従属先の戦国大名に人質を出すことは珍しくなく、国衆が離反したさいには人質は戦国大名に殺されることもあるわけですが、上杉謙信は、離反されても人質を殺さず、それどころかその人質を養子として生家の国衆に送り込んだこともあるそうです。これは、実質的な人質の返還で、謙信はそれによりその国衆から忠節を引き出そうとしたのではないか、と本書は推測します。このように、戦国大名は国衆に配慮せざるを得ない側面が多分にあり、国衆に振り回されるところがありました。その典型例は武田家滅亡後の真田家で、北条家と徳川家と上杉家という東日本の有力大名の間を巧みに渡り歩きました。
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