西村貴孝「ヒトの環境適応能 生理的適応現象とその多様性」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトには環境への生理機能(環境適応能)が備わっています。ヒトは短期的にも長期的にも、柔軟に環境に適応します。ヒトが最も快適に過ごせる環境は、長期にわたって進化してきた温暖なアフリカのサバンナだろう、と本論文は指摘します。一方、現代人はアフリカのサバンナだけではなく、寒冷な平坦地から高地まで、地球上の多様な環境に分布しています。本論文は、現生人類(Homo sapiens)が拡散の過程で過酷な環境に果敢に適応してきた、と指摘します。

 こうした多様な環境への適応にはさまざまな種類があり、寒冷適応にしても、各地域に応じた適応戦略がありました。たとえば亜北極地帯のイヌイットでは、積極的に産熱を亢進させることで体温を維持する代謝型適応が選択されました。そのエネルギー源は、アザラシなど脂質の豊富な肉です。亜北極地帯と比較して温暖なオーストラリアの先住民は、体表面温度を下げ、産熱を生じることなく核心部の体温をある程度維持します(断熱型適応)。この背景には限られた食料事情があるようです。標高800~1000mのカラハリ砂漠のサン人は、体表面の皮膚温を一定に保ち、深部体温を下げます(低体温型適応)。一方、暑さへの適応戦略には、寒冷適応のような地域的な特色は少ないようですが、地域集団間で能動汗腺数に違いがある(寒冷地域集団で多く、熱帯地域集団で少ない)、と報告されています。

 ヒトは高地では高山病を発症しますが、一部の現代人集団は高地に適応しています。アンデス集団は、血液中の赤血球数やヘモグロビン量が多く、酸素を取り込みにくい高地において、呼吸量を増やし、酸素を運ぶヘモグロビン量を増やすことで酸素飽和度の低さを補い、生体内の酸素水準を維持しています。ただ、ヘモグロビン量の多さは血液粘性を高めるため(多血症)、血液循環が悪くなり、慢性高山病の危険性を増加させます。アンデス集団の高地適応は生理的適応とされています。一方、チベット集団は、血流量を大幅に増やすことで酸素運搬能力を保管しています。低酸素誘導因子のHIF-1αとEPAS1というタンパク質の作用により、赤血球の産生を促進するエリスロポエチンが活性化し、ヘモグロビンが増加しますが、チベット集団ではEPAS1遺伝子に変異が見られ、その多型が低ヘモグロビンと関連しています。さらに、この変異は種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からもたらされた、と推測されています(関連記事)。また、明るさの感受性への地域集団間の差も指摘されています。

 生理機能の違いは集団間だけではなく個体間にも存在し、可塑的に変化します。季節ごとの環境変化への適応は、比較的短期間のことなので順化もしくは順応と呼ばれます。これはおもに時間的な気温変化への適応ですが、地理的な気温変化への個体の適応も見られ、それは高地への適応も同様です。現代人にはある程度の環境変化への適応能があるわけですが、たとえば高地では、チベット集団などを除いて遺伝的に対応できているわけではないので、高度を一気に上げないなど、慎重な対策が必要になります。また現代の都市部では、空調の普及により温度感受性が低下するなど、現代社会特有の問題が新たな課題となります。


参考文献:
西村貴孝(2021)「ヒトの環境適応能 生理的適応現象とその多様性」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第11章P173-189

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