トルクメニスタンの青銅器時代個体のゲノムデータ

 トルクメニスタンの青銅器時代個体のゲノムデータを報告した研究(Guarino-Vignon et al., 2022)が公表されました。オクサス(Oxus)文化もしくはバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)は、アジア中央部南方における青銅器時代の主要な考古学的文化でした。古遺伝学的分析は、以前にはBMAC東部の標本でおもに行なわれていました。BMACと関連する人口集団は在来の銅器時代人口集団の子孫で、草原地帯もしくはアジア南部の子孫である外れ値個体も存在します。

 本論文は、トルクメニスタンのウルグ・デペ(Ulug-depe)遺跡の1個体の新たなゲノム規模データを提示します。ウルグ・デペはBMACの主要な遺跡の一つで、BMACの南西端に位置します。この個体は遺伝的にBMACクラスタ(まとまり)に属する、と本論文は論証します。この個体のゲノムを用いて、アジア中央部の現代のインド・イラン語派話者人口集団はBMAC人口集団にその祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が由来し、西方草原地帯とアルタイ草原地帯からの追加の遺伝子流動があり、その割合はヤグノブ人民族集団(関連記事)よりもタジク人の間で高い割合になる、と確証されます。


●研究史

 アジア中央部は、現生人類(Homo sapiens)により居住されたアフリカ外の最初の地域の一つでした。アジア中央部は人類史において重要な役割を果たしてきており、一方でヨーロッパとアジアとの間の、もう一方でシベリアとユーラシア南部との間のつながりとして、何千年も機能してきました。アジア中央部は、高い遺伝的・言語的・民族的多様性を示します。現在、いくつかの民族集団がアジア中央部に存在し、2つの語族に属しています。一方はインド・イラン語派で、タジク人およびヤグノブ人集団から構成され、伝統的に定住農耕民です。もう一方はテュルク・モンゴルで、ウズベク人とトルクメン人とカザフ人とキルギス人を含み、伝統的に遊牧民で、父系子孫集団に組織化されています。

 アジア中央部の約40の人口集団についてのこの研究調査団の遺伝的分析により、アジア中央部の遺伝的多様性についての社会組織および文化的慣行の大きな影響に光が当てられました。父方居住習慣は女性の移住を促す一方で、男性の空間的・言語的・民族的構造化を増加させ、父系で継承されるY染色体について、母系で継承されるミトコンドリアDNA(mtDNA)よりも大きな人口集団間の遺伝的違いを説明できます。女性ではなく男性の有効人口規模は、父系のトルコ人およびモンゴル人では母系のインド・イラン語派人口集団よりも小さいと分かっており、親子関係習慣の影響を説明します。じっさい、父系の親子関係習慣は、男性の有効人口規模を劇的に減少させ、繁殖成功の男性の伝達を強調します。最終的に、民族集団および部族についての遺伝的および所与の歴史的年代を対比することにより、アジア中央部の民族性と部族組織は、生物学的実体ではなく文化的構築である可能性が高い、と明らかになりました。これらの文化的行動はアジア中央部集団の人口史に影響を及ぼす、と予測されます。

 遺伝的分析も、これらの人口集団の起源と歴史の理解に役立ってきました。第一に、遺伝的分析により、2つの文化的集団は遺伝的に異なっている、と証明されました。インド・イラン語派話者が現代のユーラシア西部人口集団と最も近いのに対して、テュルク・モンゴル人はおもにユーラシア東部人(アジア北部)と関連しています。しかし、トルクメン人はこの一般的な結論から際立っています。トルクメン人はテュルク・モンゴル語を話しているにも関わらず、インド・イラン語派話者集団の方と関連しており、言語と生活様式の両方における最近の変化が示唆されます(関連記事)。第二に、近似ベイズ計算を用いると、インド・イラン語派集団はユーラシア東西の集団間の最初の先史時代の混合から生じた、と推測されました。その後、2300年前頃、テュルク・モンゴル集団が原初インド・イラン人とユーラシア東部人との間の第二の混合から出現しました。しかし、現代人のデータにのみ基づく遺伝的分析は、参照として採用された人口集団の最近の特有の人口史により歪められるかもしれません。

 過去15年間の古ゲノミクスの発展により、これらの人口集団の歴史を形成した人口統計学的事象をより深く理解することが可能となりました。複雑な移住史のあるこの地域では、古代DNAは移住の異なる波の解明にとって貴重です。さらに、正確な考古学的文脈に依拠することで、経時的な文化および人口統計学的変化の共同研究が可能になりました。とくに、新石器時代の生活様式は、北部(現在のカザフスタンとキルギスとウズベキスタン北部に相当します)で紀元前4000年頃にボタイ(Botaï)文化とともに発展しました。

 後に、紀元前2000年頃となる中期青銅器時代において、ボタイ文化はシンタシュタ(Sintashta)文化と関連する人々により置換され、それは草原地帯における車輪付き戦車(チャリオット)とウマの飼育をもたらしました。シンタシュタ文化は文化的および遺伝学的観点から西部草原地帯集団と関連しており、青銅器時代と鉄器時代(紀元前三千年紀~紀元前千年紀)におけるアジア中央部北方におけるその存在は、いくつかのユーラシア西部から東部への移住(関連記事1および関連記事2)と、牧畜に関連する大きな移動性を示唆します。中期~後期青銅器時代には、シンタシュタ文化から派生したアンドロノヴォ(Andronovo)複合との連続性があるようです。青銅器時代末~鉄器時代の開始期には、いくつかのアジア東部の人口集団がこの地域に拡大し、テュルク・モンゴルの西方への拡大の開始を反映している可能性が高そうです。

 アジア中央部南方(現在のウズベキスタン南部とタジキスタンとトルクメニスタンとキルギス南部とアフガニスタン北部とイラン北東部に相当します)では、農牧共同体が紀元前6000年頃以降に存在しており、イラン北東部では早くも紀元前八千年紀に見られます。これらの集団は遺伝的に新石器時代イラン共同体と類似しており(関連記事1および関連記事2)、農耕生活様式はアジア中央部南方においてユーラシア南西部農耕民人口集団の拡大を通じて得られたか、在来の狩猟採集民祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)がイランとコーカサスで見られる広範な人口集団と関連している、と示唆されます。

 銅器時代と青銅器時代を通じて、農耕の発展は村落の規模増加および灌漑の開始と関連しており、それはBMACの発展で最高潮に達します。いくつかの遺跡から得られた遺伝的データは、新石器時代とBMACの開始との間の強い遺伝的連続性を示し、他集団の遺伝的寄与はごく限られています。BMACは何千人も集まったアジア中央部南方の最初の構造化された原初都市と、深い社会構造を示します。BMACはインダス文化(現在のインド北部とパキスタン)やシリア・アナトリア半島地域やメソポタミアやイラン高原との文化的相互作用および地域間交換の動的な回路網である、「中期アジア相互作用圏」の一部でした。

 BMAC期に見られ、中期青銅器時代以後にはより高頻度になる、アジア南部もしくは草原地帯人口集団に由来する一部の外れ値が証明されており、遺物群で見られる長距離の関係は遺伝的水準を反映している、と示唆されます。理由は不明ですが、紀元前1800~紀元前1500年頃となる後期青銅器時代は、アジア中央部南方における大きな文化的・経済的・観念形態的変化と対応し、オクサス文化の消滅につながっており、中期アジア相互作用圏内における工芸産業の品質低下と長距離交換の消滅により特徴づけられます。しかし、近隣の草原地帯のアンドロノヴォ文化共同体との接触は、後期および末期青銅器時代に増加しました。

 その後の鉄器時代は文化の斑状により特徴づけられ、その特徴は赤い幾何学模様のある固有の手作り土器で、「ヤズ1(Yaz I)文化」としても知られており、これはBMACの領域よりも広く拡大し、居住パターンの根本的変化を伴い、小さな定住村落が大きな原初都市遺跡に取って代わり、新たな地域に広がりました。葬儀慣行がこの時期に変わり、土葬は死骸の遺棄と腐食動物による肉剥ぎに取って代わられたので、この期間のヒト遺骸の数は少なくなっています。たとえば、トルクメニスタンではこの時期のゲノム規模データは1個体しか刊行されておらず、その祖先系統はBMAC人口集団とアンドロノヴォ文化と関連する草原地帯人口集団との間の混合の結果です。現代のインド・イラン人とこの個体との比較は、鉄器時代以来の遺伝的連続性を示唆します。それは、ヤグノブ人の祖先系統の90%がBMACから継承され、アジア東部人口集団からの移住の波はごく限られており、タジク人集団については、アジア南部からの移住があったからです(関連記事)。

 いくつかのBMAC遺跡からゲノム規模データが刊行されているにも関わらず、トルクメニスタンのウルグ・デペ遺跡からはこれまでゲノム規模データが刊行されていませんでした。ウルグ・デペはBMAC最大の原初都市遺跡(13ha)で、BMACの形成地域に位置しており、トルクメニスタンの首都であるアシガバードの東方175km、ナマズガ・デペ(Namazga-depe)およびアルティン・デペ(Altyn-depe)遺跡の中間に位置します(図1A・B)。ウルグ・デペ遺跡はまず1960年代に、次に2000年代初期に調査されました。ウルグ・デペは、前期銅器時代から中期鉄器時代までとなるアジア中央部南方の最長の層序系列を示し、BMACの起源と発展の理解にとって重要な遺跡です。以下は本論文の図1です。
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 ウルグ・デペ遺跡ではネクロポリスは(まだ)見つかっていませんが、青銅器時代の最大100点の埋葬が家屋内で発見されています。試掘坑1東(図1C)の家屋内では、墓が依然として居住されていた可能性の高い部屋の隅に設置されていました。そのピット(小さな穴や細い穴状の遺構)状の墓には、3人の周産期の子供が含まれていました。青銅器時代のウルグ・デペ遺跡の遺伝的多様性をより深く理解するため、BMAC期の13点および鉄器時代の3点の標本でDNA抽出が試みられ、中期青銅器時代(ナマズガ4期)の生後10ヶ月の女性乳児1個体(ULG75)で133761ヶ所の一塩基多型(SNP)が得られ、これはゲノム規模データの分析に充分で、既知の古代人および現代人と比較されました。


●mtDNA分析

 ULG75のmtDNAハプログループ(mtHg)はHV(+3,197+12,358+16,311)です。mtHg-HVは新石器時代以来ユーラシア西部に広く存在しますが、稀です。mtHg-HV(+3,197+12,358+16,311)は現在、どの古代DNAデータベースでも証明されていませんが、mtHg-HV+3,197はヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の2個体で確認されています。


●他のBMAC個体とULG75との遺伝的類似性

 ウルグ・デペ遺跡の新たに配列された個体(ULG75)とBMACの他の古代の人口集団との間の遺伝的関係を解明するため、現代人で主成分分析(PCA)が実行され、古代の個体群が投影されました。ULG75は、ジャルクタン(Dzharkutan)もしくはゴヌル・テペ(Gonur-Depe)遺跡を含むオクサス文化の他の個体の範囲内に収まりました。

 BMACの他の個体とULG75との遺伝的類似性をさらに調べるため、ADMIXTURE分析が実行されました。BMAC個体群の以前の分析では、これらの遺跡は他の起源地(草原地帯人口集団とアジア南部人口集団)からの個体が流入した、と示され、後には外れ値として識別されました。ULG75は他のBMAC個体群および新石器時代と銅器時代のトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)と近い特性を示し、トゥーランの鉄器時代個体群とBMACの外れ値個体で見つかる草原地帯構成要素(赤色)がありません(図2)。

 f3外群統計(ムブティ人;ULG75、検証集団X)で、ULG75は銅器時代および後期青銅器時代のトゥーラン集団と最も多くの遺伝的浮動を共有する、とも推定されました。これらの結果をf3外群統計(ムブティ人;BMAC集団、検証集団X)の結果と比較することにより、ウルグ・デペ遺跡個体(ULG75)で観察された値は他のBMAC個体群で得られたものと相関している、と分かりました。以下は本論文の図2です。
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 ULG75がすでに刊行されたBMAC個体群と均質な集団を形成すると確証するため、D統計(ムブティ人、古代の人口集団;ULG75、BMAC)も計算されました。全てのD統計でゼロの統計値が得られ、ULG75がBMACクラスタ(まとまり)に属する、と分かりました(図3)。青銅器時代の東方の外れ値個体についてBMACとのULG75のクレード(単系統群)性を完全に検証するため、ULG75、およびシャール1・ソクタ(Shahr I Sokhta)やインダス周辺プールクラスタやセー・ガビ(Seh Gabi)の銅器時代個体群など、外れ値人口集団の固有の供給源として、以前に刊行されたBMAC個体群でのみqpAdm分析が実行されました。全ての検定で有意な結果は得られず、BMACとのULG75により形成されたクレードは壊せないことを意味します。以下は本論文の図3です。
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 最終的に、以前の研究(関連記事)でBMAC集団(さまざまな遺跡の複数個体により形成されます)がモデル化されたので、ULG75のモデル化が試みられました。全てのモデルが機能しましたが、混合割合の推定値について標準誤差がより大きくなり、恐らくは限定的な網羅率の1個体のみを考慮に入れたからです。ULG75を、ジオクシュール(Geoksyur)の銅器時代人口集団(54~63±10%)、イランのハッジ・フィルズ(Hajji Firuz)の銅器時代人口集団(12±5%)もしくはセー・ガビの銅器時代人口集団(19±9%)、インダス周辺人口集団(24±7%)の混合として、確信的にモデル化できました。残りのモデルでは0.05を超えるp値が得られましたが、以前の研究とは混合割合が異なっていました。ULG75はほとんどの場合、イランのシャー・イ・ショクタ(Shahr-i-Shokhta)遺跡の青銅器時代人口集団の1回の寄与でよりよくモデル化されるようで、それは、ULG75をシャー・イ・ショクタ人口集団100%として推定する入れ子モデルが、3方向もしくは2方向の混合で却下できないからです。


●BMAC集団と現代のインド・イラン語派人口集団との間の遺伝的連続性

 Y(古代の人口集団の選択)で計算するD統計(ムブティ人、Y;インド・イラン語派話者、ULG75)では、ULG75と現代のインド・イラン語派話者との間の遺伝的連続性が観察され、タジク人におけるさまざまな草原地帯人口集団からの明らかな遺伝子流動がありました。まず、タジク人とアラクル(Alakul)とサカ(Saka)とヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)について負のD統計値が得られ、西部もしくは中央部草原地帯に由来する遺伝子流動が示されます。D形式(ムブティ人、匈奴およびシャマンカ;タジク人、ULG75)の負のD統計値も得られ、強いバイカル湖祖先系統を有する東部草原地帯からの遺伝子流動を示唆します。

 ヤグノブ人について有意に負のD統計値は得られませんでしたが、ULG75とガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡のイラン農耕民とトゥーランの銅器時代人口集団との間の遺伝的類似性はヤグノブ人とタジク人よりも近く、ヤグノブ人とタジク人は青銅器時代以降にイラン新石器時代祖先系統を失い、草原地帯人口集団のほとんどのように、おそらくは少ないイラン新石器時代祖先系統を有する人口集団からの遺伝子流動と関連しています。それにも関わらず、ULG75の低網羅率により、全ての遺伝子流動の特定に充分な感度を得られないかもしれません。


●青銅器時代BMACにおける遺伝的均質性

 ウルグ・デペ遺跡の中期青銅器時代個体(ULG75)の古代DNA分析により、ULG75がゴヌル・テペやジャルクタンやブスタン(Bustan)やサッパリ・テペ(Sappali-tepe)の個体群により表されるBMACクラスタに属す、と示されました。これは、人口集団水準でウルグ・デペ遺跡のオクサス文化への統合を強化します。ウルグ・デペ遺跡の前期および中期青銅器時代個体群のストロンチウムと酸素同位体の分析は、より早い時期における顕著な移動性を示し、それはBMACの台頭とともに明らかに減少しました。オクサス文化開始期における同位体分析結果により見つかったこの遺跡間の移動性は、BMAC集落間で観察された遺伝的均質性に確かに寄与しました。

 一方、ジャルクタンやゴヌル・テペやブスタンやサッパリ・テペの青銅器時代人口集団についての以前の遺伝的分析では、BMAC遺伝的クラスタに加えて、ユーラシアのさまざまな地域からの第一もしくは第二世代の移民がオクサス文化内に存在した、と示されてきました。興味深いことに、これらの外れ値は2つの異なる人口集団とクラスタ化します。つまり、一方はアジア中央部北方の草原地帯人口集団と、もう一方はインダス周辺の人口集団と関連しています。ウルグ・デペ遺跡個体(ULG75)のDNA保存状態が悪いため、遺跡内の遺伝的多様性の比較はできませんでした。しかし、ULG75におけるこれらの人口集団のいずれかに由来する遺伝的祖先系統の欠如は、これらの移民がウルグ・デペに存在したならば、この個体の祖先の一部ではなかったことを示唆します。同位体分析の観点から、ULG75の同時代の個体群はほとんど移動性を示さず、周囲の環境を広範に利用していました。外来者は特定できませんでした。


●青銅器時代BMACの起源と遺産

 以前の研究(関連記事)のように本論文では、BMAC個体群はおもに、ジオクシュール遺跡の個体群と類似した在来の銅器時代人口集団に由来する、と観察されました。この遺伝的連続性は、いくつかのBMAC集落、とくにウルグ・デペ遺跡の長期の居住と一致します。遺伝学的観点からは、BMACの非外れ値個体群はイラン新石器時代のようなより南方の人口集団と強く関連しており、考古学的観察とも一致します。トゥーランの考古学的層序は、アジア南西部のものを反映しているようです。早くも紀元前七千年紀後期には、アジア中央部南方の新石器時代共同体は近東およびイランと同じ生計パターンを有していました。紀元前四千年紀末までに、アジア中央部南方の新石器時代共同体は土器や金属や灌漑などの生産の技術的基盤を共有しており、イラン高原との物質的接触を示す多くの証拠があります。これらの接触は遺伝子流動も示唆し、この広範な地域における遺伝的均質性に関わっているかもしれません。

 この遺伝的連続性は今も続いています。インド・イラン語派人口集団と古代人のゲノムとの比較(関連記事)は、BMACクラスタとの遺伝的連続性、BMAC末に起きた草原地帯人口集団との高い混合を示しました。いくつかのBMAC個体で観察された最初の遺伝的外れ値は、この人口統計学的事象のごく初期を表しているかもしれません。鉄器時代後の東方からの遺伝子流動の証拠も見つかり、匈奴人口集団により最良にモデル化されます。この結果は以前の研究(関連記事)と一致しており、匈奴を、テュルク・モンゴル人口集団を形成し、在来のインド・イラン語派人口集団と混合した遺伝子流動のモデル化の良好な代理として強化します。

 アジア南部人口集団とのより限定的な遺伝子流動はタジク人でも証明されましたが、ヤグノブ人では異なり、この遺伝子流動がおもに2つのインド・イラン語派話者集団間の分岐後に起きたことを示唆します。一方で、インダス周辺集団の構成要素を多く有する外れ値は、ブスタンなどいくつかのBMAC集団で見つかっており、ULG75のゲノムはインダス周辺に由来する祖先系統の24%程でモデル化できます。したがって、現代のトゥーラン人口集団で見つかる少ないアジア南部祖先系統は、古代の低い継続的な遺伝子流動により説明できるかもしれません。

 この分析は、アジア中央部における遺伝的多様性の進化をより深く理解するための、古代DNAデータの追加の強みを示します。異なる人口統計学的事象の時期についていくつかの問題が残り、この温暖で乾燥した地域における古代DNAの乏しい保存に起因する困難にも関わらず、より多くの古遺伝学的データが求められます。


参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2022): Genetic analysis of a bronze age individual from Ulug-depe (Turkmenistan). Frontiers in Genetics, 13, 884612.
https://doi.org/10.3389/fgene.2022.884612

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