手嶋泰伸『日本海軍と政治』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2015年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。大日本帝国、とくに戦前戦中昭和期の軍部については、頑迷固陋な陸軍と開明的な海軍との通俗的印象はまだ根強いかもしれず、それは陸軍を悪玉、海軍を善玉とするような認識につながりやすい、と言えるでしょう。大日本帝国では、海軍は陸軍よりも政治に関わろうとしない傾向が強かったようで、海軍が日独伊三国同盟の締結に陸軍よりも消極的な傾向にあったことなど(もちろん、海軍も陸軍もこの問題に限らず一枚岩ではありませんが)、根拠が皆無だったわけではないように思います。これには、海軍将校の人的規模が陸軍の1/5程度と小さく、海軍の政治力が陸軍より劣っていたことも影響しているようです。本書は、善玉か悪玉かという二項対立的な図式ではなく、大日本帝国海軍の特徴と行為が近代日本にどのような影響を与え、それは何に起因するのか、という視点で、管掌範囲を切り口に政治との関わり合いから大日本帝国海軍の在り様を検証します。管掌範囲の点での大日本帝国の特徴は分立的な統治構造で、これはその一端を担う海軍にも当てはまり、海軍省と軍令部は形式上、別個の機関でした。こうした特徴の海軍の明治維新期の形成過程から崩壊までを、本書は取り上げます。

 四方を海に囲まれた日本にとって、海軍の充実は明治維新当初からの重要な課題となり、海軍にとって、欧米列強の海軍への対抗は、単なる組織利益の確保ではなく、国防を全うする責任でもありました。組織利益と国防を担う責任とが重なる領域において、海軍は主観としては責任感からとしても、客観的には政治への介入と言えることも行ないました。したとみなされる大日本帝国海軍は、同じ島国のイギリスをモデルとし、とくに海相(軍政担当)への権力一元化に大きな影響を受けました。これは、大日本帝国陸軍がプロイセンから大きな影響を受け、参謀本部(軍令担当)の権能が広範に設定されていたこととは対照的でした。海軍では後に軍令部が設置されますが、その後も海軍省が強い権限を有していました。日本の地理的条件を考えると、外敵に備えるには陸軍よりも海軍の方が重要とも考えられ、明治維新直後では「海陸軍」と表記されることもありましたが、この時期にはむしろ内乱の方が大きな問題となり、陸軍の整備が優先されました。そのため、島国である日本を防衛するのは海軍との自負と責任を持っていた海軍は、陸軍への対抗意識を強めます。そのため、一時は海軍の軍令を担当する部門が参謀本部に移管されると、海軍はその独立を強く要求し、1893年に陸軍から完全に独立した機関として軍令部が設置されました。

 日露戦争後、イギリスの画期的な戦艦ドレッドノートの登場とともに建艦競争が激化し、大日本帝国海軍も新規拡張を訴えますが、厳しい財政状況のため、実質的には予算獲得に失敗します。この過程で、海軍は政友会に接近しますが、シーメンス事件により挫折します。その後、海相に就任した加藤友三郎は、第一次世界大戦の勃発に伴う好景気による財政状況好転のなか、政局への直接的関与を控えながらも、海軍の整備を漸進的に進めていきます。これにより、軍人は政治に関わらない、との規範が海軍において再度確固たるものとなっていきます。それもあり、ロンドン海軍軍縮条約の内容に、東郷平八郎や伏見宮博恭王や加藤寛治は強い不満を抱きましたが、政府決定を最終的には尊重することについて、異議はありませんでした。一方で、そうした「艦隊派」は自らの専門性への自負を強く抱いており、国防への見通しについてではありませんでした。この時日本国内で大きく取り上げられた統帥権干犯問題も、あくまでも海軍内部における手続き上のことであり、政府との間で争点とはなっていませんでした。ただ、海軍は国防上の問題については、自らの管掌範囲と強く主張し、それが政治への圧力ともなっていきます。

 1930年代には、対外危機により軍部が影響力を強めていきますが、その背景には、大日本帝国憲法下の分立的体制があり、それを補っていた元老の減少と影響力低下が分立的体制の問題を浮上させていきました。さらに、満洲事変の前後より軍部中堅層の統制が困難になりつつあったことも、この問題の解決を難しくしていました。海軍では「艦隊派」と「条約派」の対立が強まったものの、組織利益の確保という点では一致しており、それは仮想敵国であるアメリカ合衆国との戦争に耐え得る軍備でした。日露戦争後、日本は世界最大の海軍力を有するイギリスとは(1923年まで)同盟関係にあったため、海軍は、極東で衝突する可能性のあった唯一の強力な海軍保有国であるアメリカ合衆国を仮想敵国としました。「艦隊派」は没落しますが、組織利益確保のための粘り強い交渉により、海軍は主観的には政治に関与していないつもりだったものの、実際には政治への関与を深めていきます。広田内閣の崩壊は陸軍と海軍の対立により起き、一見すると政党との妥協に傾いていた海軍は「穏健な」存在であるものの、実際には海軍が自己の要求に固執したことこそ原因でした。

 1937年7月、日中戦争が始まりましたが、その長期化と全面化には、海相の米内光政に大きな責任がありました。当初米内は、軍令部の主張していた中国南部への派兵には強く反対していましたが、上海で海軍が中国軍戦闘機に攻撃を受けると、強硬に派兵を主張しました。米内は、戦端が開かれた後は、軍事行動の主管者である軍令部の意見が優先されるとの考えから、不拡大方針を放棄しました。また、対中交渉の継続を主張した陸軍参謀本部に外相の広田弘毅が反対すると、米内はその専門性尊重から広田を支持しました。こうした姿勢は米内個人だけではなく海軍で広く見られ、日中戦争が泥沼化すると、軍部の管掌領域が拡大していき、海軍は以前よりも多くの予算や外交施策を強く要求するようになりました。それは、海軍が政治介入に積極的になったからではなく、管掌領域の拡大に伴ったものだったので、海軍の主観としては、政治に関与すべきではない、との規範が根強く残っていました。さらに、米内は日独伊三国同盟に一貫して強く反対していたわけではなく、外務省の意向を確認後しばらくは、反対意見を控えていました。

 対米開戦の決定過程において海軍は、開戦からごく短期間の軍事作戦までだけが自己の単独責任の範囲で、それ以降の見通しやそれを踏まえての開戦の正式決定は国力全体の問題が関わるため、海軍単独の管掌領域ではない、と認識していました。しかし、近衛首相は軍部による完全な戦勝予測を求めており、陸軍は海軍が対米戦不可の判断を単独で下すよう、求めていました。海軍以外の政治主体は、決定の責任が海軍にある、と判断していたわけです。海軍は、戦争に消極的な姿勢を貫くと、海軍は戦争ができないと批判され、予算も減らされることから、対米戦不可との意見を率直には表明できませんでした。海軍が責任を回避し、開戦か否かの決定者が曖昧な会議の設定により、自動的に決定されることになります。こうして対米戦は、その決定過程における海軍と他の政治主体との間の管掌範囲認識のずれにより始まりました。

 太平洋戦争が始まり、戦局が悪化した後も、海軍の政治への介入は消極的で、東条内閣打倒運動にしても、東条英機の過剰反応により起きた例外的事例で、そもそも即時終戦ではなく戦局の挽回を企図したものでした。東条内閣の後に成立した小磯内閣で米内は再度海相に就任しますが、それは講和のための戦局打開(一撃和平)を目的としており、小磯内閣では米内は和平工作を行なおうとはしませんでした。米内は小磯内閣の次に成立した鈴木内閣でも「一撃和平」に拘っていましたが、沖縄での敗戦が確定的となったことで、ようやく本格的に和平工作を意識し始めました。それでも米内は、管掌範囲遵守から和平工作を主導して開始しようとはしませんでした。こうした軍首脳部の管掌範囲遵守意識が、ポツダム宣言の受諾をめぐる議論で、大局的な政治判断ではなく、執行過程の問題がおもに取り上げられた要因でした。軍人は政治に関わらない、という管掌範囲遵守意識が、敗戦の決定を停滞させたわけです。

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