前田啓介『昭和の参謀』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2022年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書でおもに取り上げられている参謀は、石原莞爾と服部卓四郎と辻政信と瀬島龍三と池田純久と堀栄三と八原博通です。本書は昭和期の陸軍参謀について、戦前と戦中だけではなく戦後の生き様も取り上げているのが特徴で、それにより大日本帝国陸軍参謀の性格を浮き彫りにしています。著者は読売新聞の記者で、取材時に存命だった堀栄三には直接、その他の参謀については実子のいなかった石原莞爾以外の子供に会い、証言を得ています。その意味で、本書は貴重な証言集にもなっている、と言えそうです。

 参謀は基本的に陸大出身で、その教育は、限られた時間と条件においていかに困難な問題を解決するのか、というものでした。そうして身につけた能力により、戦後の日本社会で「出世」していった元参謀も少なからずいました。一方で、議論達者を推奨する弊害があった、とも当時の軍人から指摘されています。また、陸大の自由闊達な教育は陸軍において活力になった一方で、下剋上無統制の一因にもなった、とも指摘されています。こうした陸大教育とも関連して、参謀本部の欠点としては、作戦偏重で情報や兵站が軽視されていたことも挙げられています。参謀本部、とくに作戦課の権威主義と特権意識は並外れていた、との指摘もあります。

 石原莞爾には虚実の定かではないさまざまな伝説があり、人を惹きつける軍人だったことが改めて了解されます。本書は、昭和陸軍参謀の「下剋上」と「上依存下」という体質を規定するのに重要な役割を果たしたのが石原莞爾だった、と指摘します。服部卓四郎については、当ブログで最近評伝を取り上げました(関連記事)。本書は、戦後も少なからぬ旧軍人を惹きつけた、服部の親分肌的な人間性を指摘します。その服部を慕っていたのが辻政信で、戦後は著書が売れ、衆議院議員と参議院議員にもなりましたが、在職中にラオスに入国したまま行方不明となっています。辻政信がラオスに行った後どうなったのか、私も噂話を聞いたことはありますが、何とも劇的な人生だと思います。辻政信は気力・体力ともに旺盛な人物で、それが派手な言動の基盤になっていたようです。本書は、辻の清廉潔白と有言実行は生涯変わらなかったものの、それは同じ環境と価値観の軍隊において最も効果的で、政界では仲間を得られなかった、と指摘します。

 瀬島龍三は私にとって、「歴史上の人物」だった石原莞爾や服部卓四郎や辻政信とは異なり、「現役」との印象が強く残っています。士官学校次席で陸大首席の瀬島は努力家だったようです。瀬島龍三については、シベリア抑留時にソ連のスパイになった、との噂が根強くありますが、瀬島龍三は生涯、シベリア抑留時のことを詳しく語りませんでした。池田純久は、陸大卒業後に東大経済学部に派遣された、軍人として異色の経歴の持ち主で、戦後はエチオピアの政治顧問を務めました。池田純久は永田鉄山に近く、総力戦体制構築にさいして理論的支柱となり、統制経済政策を強調しました。池田純久は、統制経済が単に国防上の要求ではなく、役割終えて機能を失った自由主義経済に替わるものだ、と考えていました。盧溝橋事件当時、池田純久は参謀としては数少ない不拡大派で、当時から中国における民族意識の発達を指摘していました。

 堀栄三は太平洋戦争中に情報参謀として活躍しましたが、陸大では体系的な情報参謀教育が行なわれず、大日本帝国陸軍の情報軽視が窺えます。堀栄三は1944年10月の台湾沖航空戦で当初発表された戦果が誇大に過ぎることを、海軍以外では逸早く的確に見抜き、情報参謀としての能力を高く評価されます。堀栄三は戦後、80歳近くになって町長を務め、2期目が始まった直後に没しました。沖縄戦で第32軍司令部の参謀だった八原博通は、士官学校では物静かだったものの、その優秀な頭脳が教官に注目されていたようです。八原博通は陸大卒業後アメリカ合衆国に2年ほど滞在し、その優れた工業力と戦時軍需生産力を警戒します。沖縄戦での八原博通は、航空作戦支援のための飛行場確保を優先する大本営に不満を抱き、地上決戦を構想していましたが、その構想通りに戦うことはできず、沖縄の日本軍は壊滅します。八原博通は司令官(もしくは参謀長)の命により、沖縄戦について大本営に伝えるために脱出を試みますが、捕虜となります。八原博通は戦後、沖縄戦についてはほとんど証言しませんでしたが、読売新聞記者の取材を受けて語り、後には回想録が刊行されました。

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