山田徹、谷口雄太、木下竜馬、川口成人『鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像』

 光文社新書の一冊として、光文社より2022年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。


●木下竜馬「第一章 部分的な存在としての鎌倉幕府」
 まず、鎌倉幕府は全ての領域を支配下に置いたわけではなく、御家人ではない武士たちは天皇や貴族や大規模な寺社勢力に属しており、鎌倉時代の国家的秩序において鎌倉幕府は部分的な存在だったことが、室町幕府や江戸幕府とは異なる、と指摘されています。また本論考では、鎌倉幕府が受動的に権力を拡大していった、と指摘します。鎌倉幕府にとって転機となったのは承久の乱で、これ以降、鎌倉幕府が皇位継承にも大きな影響力を有するようになります。しかし、これは幕府が積極的に介入したというよりは、皇統が分裂する中、朝廷側が幕府の支持を得ようと積極的だったことも、本論考は指摘します。こうした構造は、摂関家や寺社勢力でも見られました。


●山田徹「第二章 公・武の関係をどうとらえるか」
 室町幕府による朝廷の権限の接収との関連で、1990年代に大きな話題となった足利義満による王権簒奪計画については、その後の研究で批判されている、と指摘されています。ただ本論考は、晩年の義満の構想を断定はできない、と慎重な姿勢を示します。義満が天皇に代わって明王朝に権威を求めた、との見解についても、その後の研究で、「日本国王」号は対外関係でのみ使われ、国内向けには用いられず、あくまでも「通交名義」だった、と指摘されています。そもそも、室町幕府による朝廷の権限の接収については、戦乱への対応として幕府は朝廷を擁立しなければならず、幕府は積極的ではなかったことが指摘されています。こうした見直しの前提として、幕府と朝廷は対立しており、幕府には朝廷を超克する必要があった、との前提が指摘されています。


●木下竜馬「第三章 鎌倉時代の「守護」とは何だったのか」
 鎌倉時代の守護の権限は室町時代の守護や戦国大名と比較して弱いとされていますが、国衙の権限を掌握していき、国内の在庁官人を家臣とします。本来国衙が担っていた、寺社の修理や税の徴収や公家政権からの命令伝達などの公的業務が、守護に取って代わられます。こうした守護の国衙吸収の傾向は当初、幕府発祥地の東国と、平家の元拠点で幕府が力を入れた九州で強く、モンゴル襲来後に幕府が地方支配を強化するなかで、全国へと拡大しました。こうした1960年代以降の通説的理解に対して、守護による国衙吸収の度合いは国により異なり、国衙勢力が治承・寿永の内乱時に鎌倉方に敵対したのかどうかによっても異なる、との見解も提示されています。また、守護と国衙を対立的に把握する前提にも疑問が呈され、そもそも東国にはある時期まで守護が設置されていなかった、との見解も提示されています。


●谷口雄太「第四章 守護は地方にいなかった?」
 現在の室町時代の守護に関する有力な理解は、中央を幕府、地方を守護がそれぞれ担当し、両者が基本的には対立せず、互いに協力しながら結合・共存して全国を支配している、という「室町幕府─守護体制論」です。この認識では、守護は地域社会を統合する者であると同時に、幕府体制の一員として日本国家を運営していく者として位置づけられました。一方で21世紀になって、室町幕府には直接支配地域とそうではない地域がある、と強調されるようになりました。前者(室町殿御分国)はおもに近畿と中部と中国と四国(45ヶ国)、後者はそれ以外の地域です。近国が室町幕府の直接支配圏で、遠国は室町幕府の間接支配権だった、というわけです。また、近国の守護の在京もより明確になってきました。さらに、守護の在京というよりは、むしろ在京して幕政の一翼を担う有力者たる大名(タイメイ)が地域行政に携わる守護職を兼ねている、と認識されるようになりました。本論考は、首都への集中・集住状況は日本において前近代から続くかなり根深い構造である、と指摘します。


●木下竜馬「第五章 滅亡は必然か? 偶然か?」
 現在の学界の共通認識は、鎌倉幕府は全盛期において突如滅亡した、というものです。得宗でいえば一般的な印象では地味な北条貞時期が鎌倉幕府全盛期で、北条高時時も末まで目立った動揺は見られない、というわけです。第二次世界大戦後、鎌倉幕府滅亡要因の有力説は、得宗専制に対する在地領主の反発というものでした。これに対して、得宗専制は得宗個人が独裁的権力を行使するとは限らず、寄合などの制度によって運営されており、その運営が階層化していった、との指摘があります。また、北条氏一門が一枚岩ではないことも指摘されました。つまり、北条氏一門による幕府高官職での優占や守護職集積が得宗への権力集中を意味するとは限らない、というわけです。また、得宗専制を「黄金時代」だった執権政治期からの「堕落」ではなく、制度化が進んだ成熟期と評価する見解も提示されています。では、なぜ成熟し、室町幕府の末期と比較して安定した鎌倉幕府が滅亡したのかというと、本論考は、現時点で決定打と言えるほどの原因を特定できず、偶然の産物だった可能性もある、と指摘します。本論考は、結果論に陥らないよう、注意を喚起します。


●川口成人「第六章 存続と滅亡をめぐる問い」
 室町幕府は、応仁・文明の乱から100年ほど存続しました。その理由および該当期(一般的には戦国時代とされます)の室町幕府をどう位置づけるかについて、1970年代以降に議論が活発化しました。当初、戦国時代の室町幕府は、将軍を擁立した細川氏による専制政権として把握されました。しかし、1980年代以降、この「細川政権」とは別に「幕府」は機能しており、将軍は独自の政治機構を有していた、との反論が提示されます。戦国時代の室町幕府は、側近だけではなく大内や畠山や六角といった大名(タイメイ)に支えられることもありました。その延長線上に信長を含める見解も提示されています。室町幕府が戦国時代においても存続したのは、足利一門を上位とする秩序意識・価値観(足利的秩序)が共有されていたからで、実力の低下した室町幕府がその対応策として足利一門よりも実力者を儀礼的に優遇したことで、「足利的秩序」が想定化されていった、との見解も提示されています。


●「座談会 鎌倉幕府と室町幕府はどちらが強かったのか?」
 最近20年の中世史研究の動向の変化として、冷戦構造の崩壊やマルクス主義の影響力低下が大きい、と改めて指摘されています。地域研究がかなり緻密に進んだことで、そうした個々の研究を総合して全体的に考えられるようになり、個別の地域権力の研究だけでは見えてこなかった「全体」像が浮かび上がってくる、との指摘も興味深いと思います。鎌倉時代を具体例として、命名は必要ではあるものの、それにより変な縄張り意識のようなものも生まれてしまう弊害が指摘されており、これは歴史学に限らず多くの分野に通ずる問題でもあるでしょう。

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