岩井秀一郎『服部卓四郎と昭和陸軍 大東亜戦争を敗北に至らしめたものは何か』
PHP新書の一冊として、PHP研究所より2022年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。服部卓四郎は太平洋戦争の大半の期間で参謀本部第一部第二課長を務めました。第一部第二課は作戦を担当する「花形」部署で、服部が太平洋戦争中に一度第二課長の任を解かれながら再度就任したことや、それ以前にノモンハン事件で関東軍首脳部が予備役に編入されたのに、服部は「花形」部署に昇進したことなどから、服部は大日本帝国陸軍の「本質」を体現している人物と言えるのではないか、との観点で本書は服部を取り上げます。本書はこうした旧陸軍、さらには参謀の欠点は、明治時代の建軍初期にまでさかのぼる、と指摘します。
服部は陸軍士官学校で堀場一雄・西浦進と強い結びつきを築き、3人の深い関係は生涯続きました。服部は陸大卒業後に中隊長と参謀本部付を経た後に参謀本部の編成班に入り、士官学校で二期下の辻政信と知り合い、互いを認めるようになります。服部は1935~1936年の第二次エチオピア戦争においてエチオピア側の観戦武官として参加しましたが、その報告は当時の日本の孤立を指摘し、ヨーロッパにおける大戦勃発を予測した、かなり正確な世界情勢認識だった、と本書は評価します。この報告もあって服部は石原莞爾に高く評価されており、服部も石原に傾倒していたようです。ただ、対中慎重派の石原とは異なり服部は強硬派で、石原との関係についての服部の回想には誇張があるかもしれない、と本書は指摘します。また本書は、この頃から服部が「強硬論」の方へ傾きやすかったことにも注目します。強硬論は郡部で支持を得やすくて気分も高揚しやすく、服部は無意識的に「体制に順応する型」の人物だったようだ、と本書は指摘します。服部がアフリカやヨーロッパにいる間に、日本では永田鉄山殺害事件や二・二六事件が起きており、この点で服部は幸運だった、と本書は指摘します。
1939年、中佐に昇進した服部は関東軍の作戦主任参謀へと異動となります。この時、関東軍参謀本部作戦課には辻政信がおり、ノモンハン事件が勃発します。ノモンハン事件で服部は辻とともに強硬論を主張して大損害をもたらした、とよく指弾されますが、本書は、当時の関東軍司令官の植田謙吉が普段から強硬姿勢を示していたことも背景にある、と指摘します。ノモンハン事件において服部は辻の強硬論に同調しますが、敵の兵力や補給能力(日本軍と違って機械化されていました)の過小評価など判断の甘さが指摘されています。本書はここに、「敵情」について本来知るべきを知らなかった、あるいは知ろうとしなかった大日本帝国陸軍の通弊を見ています。
ノモンハン事件後、服部は一時左遷されますが(歩兵学校や陸大の教官)、1940年10月には、「花形」部署である参謀本部第一部第二課(作戦課)の作戦班長として参謀本部に戻ります。独ソ戦の勃発直後となる翌年7月、服部は作戦課の課長に昇進し、辻はその部下の戦力班長に就任します。本書は、服部がノモンハン事件での失態にも関わらず昇進した一因として、外面のよさを挙げます。服部は、一見すると温厚な人物として認識されており、辻のようなアクの強い人物がいる場所では、組織の潤滑油として小さくない役割を果たしただろう、というわけです。服部が作戦課長に昇進した時点で、すでに対米英開戦まで半年を切っていました。当時、北進と南進で議論になりましたが、服部は北進論に慎重で、独ソ戦の推移を見てソ連の弱体化が決定的になってから、と主張しました。北進論が下火になると、南進論が具体的に検討されるようになりました。この頃の服部は対米開戦一本鎗で、昭和天皇を説得できない軍高官にも不満を抱いていたようです。
1941年12月8日、太平洋戦争が始まり、緒戦は日本軍が優勢で急速に支配圏を拡大したものの、早くも1942年半ばには戦局が転換します。服部は、ガダルカナル島で苦戦していることを重視し、現地を視察します。しかし、服部はガダルカナル島からの撤退ではなく、継戦を主張し、船舶の徴傭で陸軍省と激しく意見を戦わせます。この過程で殴り合いもあり、服部は、自身が直接的に暴力をふるったわけではないものの、1942年12月14日に作戦課長を更迭され、陸軍大臣秘書官に左遷されます。本書は、首相兼陸相の東条英機に直接談判した参謀本部第一部長の田中新一が南方軍に左遷されたのに対して、服部が東条の秘書官になったことについて、外面は温和な服部の強みを見ています。また本書は、ガダルカナル島放棄が決まった後、服部が長期持久戦の視点から最終的にそれを受け入れたことについて、服部の柔軟性を指摘します。
服部は1年弱ほど東条の秘書官を務めた後、作戦課長に再任となります。この人事に疑問を抱いた者は陸軍で少なくなかったようですが、本書は、服部の能力というよりも外面は温和な「人間性」が、再任に大きく影響したのではないか、と推測します。服部は作戦課長復帰時代に大陸打通作戦に関わり、本土爆撃の回避を企図しましたが、すでに中国大陸で占領地域を拡大しても、太平洋方面で米軍が攻勢に出ている状況では本土爆撃を避けられず、この作戦は失敗だった、と本書は評価します。またサイパン島陥落に関して、服部が米軍のサイパン島攻撃は過失だと断言していたこともあり、参謀本部内でも強く批判されました。参謀本部の中心は作戦部作戦課で、その優越的地位は他の部局を圧倒していましたが、それが独善性や視野狭窄や旧態依然との批判を招来しました。戦局が悪化するなか、1940年2月、服部は作戦課長から中国戦線の指揮官(歩兵第65連隊長)に転じます。服部が戦場で部隊を指揮するのは、これが初めてでした。服部の前線での部隊指揮官としての評判は悪くなかったようで、表面的には柔和で人当たりがよいため、部下にも好印象を与えたのかもしれない、と本書は推測します。服部は連隊長として敗戦を迎えます。ポツダム宣言からその受諾決定までの期間、服部は日本から離れており、この点でも幸運だった、と本書は指摘します。
服部は1946年5月に復員しますが、この時はさすがにかなり憔悴していたようです。服部は帰国後、復員庁史実調査部に務め、さらには復員局資料整理部長を経てGHQの歴史課に務めます。服部は自身の戦争責任について、開戦時の作戦課長として自身を責任者の一人として認めつつ、国民意識の罵声が軍人前部に向けられていることへの反感や、旧陸海軍人の99.9%は国民の罵声や占領軍の法的制裁を受けるべきではない立派な軍人だった、と旧軍を擁護しています。本書は、戦争責任に関する服部の反省には具体性がなく、通り一遍の謝罪だった、と評価しています。朝鮮戦争勃発に伴い、日本では実質的な再軍備が進められ、服部の警察予備隊入りもGHQの一部では考慮されましたが、首相の吉田茂やGHQの一部の反対により実現しませんでした。さらに本書は、旧軍でも作戦課にいなかった人々の服部向ける視線が批判的だったことを指摘します。服部は、警察予備隊(自衛隊)入りこそ叶わなかったものの、国防や軍備への関心は変わらず、軍事評論家として活躍します。本書は、服部が戦前も戦後も巧みな処世術で乗り切ったものの、GHQに取り入ったことや自身の戦争責任について掘り下げなかったことに、日本社会全体とも通ずる倫理的問題点を見ています。
服部は陸軍士官学校で堀場一雄・西浦進と強い結びつきを築き、3人の深い関係は生涯続きました。服部は陸大卒業後に中隊長と参謀本部付を経た後に参謀本部の編成班に入り、士官学校で二期下の辻政信と知り合い、互いを認めるようになります。服部は1935~1936年の第二次エチオピア戦争においてエチオピア側の観戦武官として参加しましたが、その報告は当時の日本の孤立を指摘し、ヨーロッパにおける大戦勃発を予測した、かなり正確な世界情勢認識だった、と本書は評価します。この報告もあって服部は石原莞爾に高く評価されており、服部も石原に傾倒していたようです。ただ、対中慎重派の石原とは異なり服部は強硬派で、石原との関係についての服部の回想には誇張があるかもしれない、と本書は指摘します。また本書は、この頃から服部が「強硬論」の方へ傾きやすかったことにも注目します。強硬論は郡部で支持を得やすくて気分も高揚しやすく、服部は無意識的に「体制に順応する型」の人物だったようだ、と本書は指摘します。服部がアフリカやヨーロッパにいる間に、日本では永田鉄山殺害事件や二・二六事件が起きており、この点で服部は幸運だった、と本書は指摘します。
1939年、中佐に昇進した服部は関東軍の作戦主任参謀へと異動となります。この時、関東軍参謀本部作戦課には辻政信がおり、ノモンハン事件が勃発します。ノモンハン事件で服部は辻とともに強硬論を主張して大損害をもたらした、とよく指弾されますが、本書は、当時の関東軍司令官の植田謙吉が普段から強硬姿勢を示していたことも背景にある、と指摘します。ノモンハン事件において服部は辻の強硬論に同調しますが、敵の兵力や補給能力(日本軍と違って機械化されていました)の過小評価など判断の甘さが指摘されています。本書はここに、「敵情」について本来知るべきを知らなかった、あるいは知ろうとしなかった大日本帝国陸軍の通弊を見ています。
ノモンハン事件後、服部は一時左遷されますが(歩兵学校や陸大の教官)、1940年10月には、「花形」部署である参謀本部第一部第二課(作戦課)の作戦班長として参謀本部に戻ります。独ソ戦の勃発直後となる翌年7月、服部は作戦課の課長に昇進し、辻はその部下の戦力班長に就任します。本書は、服部がノモンハン事件での失態にも関わらず昇進した一因として、外面のよさを挙げます。服部は、一見すると温厚な人物として認識されており、辻のようなアクの強い人物がいる場所では、組織の潤滑油として小さくない役割を果たしただろう、というわけです。服部が作戦課長に昇進した時点で、すでに対米英開戦まで半年を切っていました。当時、北進と南進で議論になりましたが、服部は北進論に慎重で、独ソ戦の推移を見てソ連の弱体化が決定的になってから、と主張しました。北進論が下火になると、南進論が具体的に検討されるようになりました。この頃の服部は対米開戦一本鎗で、昭和天皇を説得できない軍高官にも不満を抱いていたようです。
1941年12月8日、太平洋戦争が始まり、緒戦は日本軍が優勢で急速に支配圏を拡大したものの、早くも1942年半ばには戦局が転換します。服部は、ガダルカナル島で苦戦していることを重視し、現地を視察します。しかし、服部はガダルカナル島からの撤退ではなく、継戦を主張し、船舶の徴傭で陸軍省と激しく意見を戦わせます。この過程で殴り合いもあり、服部は、自身が直接的に暴力をふるったわけではないものの、1942年12月14日に作戦課長を更迭され、陸軍大臣秘書官に左遷されます。本書は、首相兼陸相の東条英機に直接談判した参謀本部第一部長の田中新一が南方軍に左遷されたのに対して、服部が東条の秘書官になったことについて、外面は温和な服部の強みを見ています。また本書は、ガダルカナル島放棄が決まった後、服部が長期持久戦の視点から最終的にそれを受け入れたことについて、服部の柔軟性を指摘します。
服部は1年弱ほど東条の秘書官を務めた後、作戦課長に再任となります。この人事に疑問を抱いた者は陸軍で少なくなかったようですが、本書は、服部の能力というよりも外面は温和な「人間性」が、再任に大きく影響したのではないか、と推測します。服部は作戦課長復帰時代に大陸打通作戦に関わり、本土爆撃の回避を企図しましたが、すでに中国大陸で占領地域を拡大しても、太平洋方面で米軍が攻勢に出ている状況では本土爆撃を避けられず、この作戦は失敗だった、と本書は評価します。またサイパン島陥落に関して、服部が米軍のサイパン島攻撃は過失だと断言していたこともあり、参謀本部内でも強く批判されました。参謀本部の中心は作戦部作戦課で、その優越的地位は他の部局を圧倒していましたが、それが独善性や視野狭窄や旧態依然との批判を招来しました。戦局が悪化するなか、1940年2月、服部は作戦課長から中国戦線の指揮官(歩兵第65連隊長)に転じます。服部が戦場で部隊を指揮するのは、これが初めてでした。服部の前線での部隊指揮官としての評判は悪くなかったようで、表面的には柔和で人当たりがよいため、部下にも好印象を与えたのかもしれない、と本書は推測します。服部は連隊長として敗戦を迎えます。ポツダム宣言からその受諾決定までの期間、服部は日本から離れており、この点でも幸運だった、と本書は指摘します。
服部は1946年5月に復員しますが、この時はさすがにかなり憔悴していたようです。服部は帰国後、復員庁史実調査部に務め、さらには復員局資料整理部長を経てGHQの歴史課に務めます。服部は自身の戦争責任について、開戦時の作戦課長として自身を責任者の一人として認めつつ、国民意識の罵声が軍人前部に向けられていることへの反感や、旧陸海軍人の99.9%は国民の罵声や占領軍の法的制裁を受けるべきではない立派な軍人だった、と旧軍を擁護しています。本書は、戦争責任に関する服部の反省には具体性がなく、通り一遍の謝罪だった、と評価しています。朝鮮戦争勃発に伴い、日本では実質的な再軍備が進められ、服部の警察予備隊入りもGHQの一部では考慮されましたが、首相の吉田茂やGHQの一部の反対により実現しませんでした。さらに本書は、旧軍でも作戦課にいなかった人々の服部向ける視線が批判的だったことを指摘します。服部は、警察予備隊(自衛隊)入りこそ叶わなかったものの、国防や軍備への関心は変わらず、軍事評論家として活躍します。本書は、服部が戦前も戦後も巧みな処世術で乗り切ったものの、GHQに取り入ったことや自身の戦争責任について掘り下げなかったことに、日本社会全体とも通ずる倫理的問題点を見ています。
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