アフリカ南部のアウストラロピテクス属化石の年代の見直し

 アフリカ南部のアウストラロピテクス属化石の年代を見直した研究(Granger et al., 2022)が公表されました。南アフリカ共和国のアウストラロピテクス属の分類と系統と年代は長い間議論となっており、その中心はスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟遺跡です。「人類の揺り籠」のスタークフォンテンとマカパンスガット(Makapansgat)の遺跡群の化石は一般的に、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)として分類されてきましたが、両方の化石群は第二の種であるアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus)を含んでいると認識されており(リトルフットと呼ばれているStW 573頭蓋もこの種に分類されます)、いくつかの頭蓋と犬歯後方の歯の形態はパラントロプス属と類似しており、パラントロプス属の祖先かもしれない、と提案されました。

 367万±16万年前という以前の宇宙線等年代線堆積年代(関連記事)は、スタークフォンテン層内下部に位置するシルベルベルク洞窟(Silberberg Grotto)で発掘されたアウストラロピテクス・プロメテウス化石を、タンザニアのラエトリ(Laetoli)で発見されたアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)化石およびエチオピアのウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域の後期アウストラロピテクス・アナメンシス(関連記事)と類似の年代に位置づけます。スタークフォンテン洞窟体系内の別の下に位置する空洞であるジャコヴェック洞窟(Jacovec Cavern)における以前の埋没年代測定では、そこのアウストラロピテクス属化石群はStW 573と年代が近い、と示されました。しかし、これらの年代は疑問を呈されてきており、それは、その年代が洞窟のより高い位置のアウストラロピテクス属化石群を含む角礫岩の年代推定値よりずっと古いからです。本論文は、これらより高い位置のアウストラロピテクス属化石群を含む角礫岩の堆積年代を提供します。本論文は、スタークフォンテンにおけるウラン・鉛古磁気年代測定を用いての角礫岩内の流華石年代測定で決定されたずっと新しい年代と、角礫岩の宇宙線生成核種年代から決定された比較的古い年代とを一致させる、層序学的証拠も提供します。

 スタークフォンテン洞窟の充填物の本体は6ヶ所のメンバーに区別され、メンバー1~3は地下に、メンバー4~6は洞窟の屋根の浸食により露出しています(図1)。アウストラロピテクス属化石群の大半はメンバー4で回収され、例外はメンバー2の骨格StW 573と、ジャコヴェック洞窟のわずかな化石群です。StW 573頭蓋は、メンバー5とは異なる埋没段階に分類されましたが、年代は不明です。しかし今では、メンバー4の残存物と示されています。この堆積物の動物相と年代については、溶解の窪みと浸食が角礫岩に大きく影響を及ぼしたので、さらなる研究が必要です。アフリカ東部の遺跡群と動物相との相関は一般的に、メンバー4の年代が後期鮮新世もしくは前期更新世だと示唆しますが、4層とその上の5層との間の局所的混在が遺跡の一部で起きている可能性は高く、スタークフォンテン洞窟における顕著な層序学的複雑さは発掘のほとんどの期間において認識されませんでした。層序学的記録は1976年からの発掘中には残っておらず、1930年代と1947~1949年に化石が爆破されて調べられた標準遺跡の上のより新しいメンバーの存在は、当時は認識されていませんでした。化石の歯の電子スピン共鳴法(ESR)年代測定は、400万~100万年前頃という大きな広がりを示しており、複雑なウランの取り込みもしくは混合が示唆されています。メンバー4の角礫岩を通じての後の流体流動と炭酸塩の開放系の痕跡と証拠の可能性のため、ESR年代は信頼性が低いと考えられます。以下は本論文の図1です。
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 メンバー4の以前の放射性年代測定は、流華石のウラン・鉛年代に限定されていました。Sts 5頭蓋の発見地(OE-14)の近くにあるそうした流華石(図1および図2)の一つの年代は203万±6万年前です。第二の流華石は以前にはメンバー4の頂部と底部を囲むと考えられていました。流華石および隣接する細粒堆積物の磁気層序学と組み合わせると、メンバー4は261万~207万年前頃となり、メンバー2の370万年前頃という宇宙線年代よりずっと新しくなり、ドリモレン(Drimolen)古洞窟遺跡群におけるパラントロプス属とホモ属(関連記事)、およびマラパ(Malapa)におけるスタークフォンテン洞窟メンバー5とアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)との近接もしくは重複となります。しかし、以下のように、角礫岩の年代についてのこの解釈には、三つの主要な問題があります。

(1)流華石OE-14の推定される頂部は、メンバー4の年代を直接的には制約しません。それは洞窟壁に隣接する空洞で発達し、自生の苦灰石(ドロマイト)角礫岩と崩壊した苦灰石に直接的に堆積しました(図2)。それは、爆破により除去されたものの依然として走向に沿って存在している、苦灰石の垂直の鰭によりメンバー4とは分離しています(図2)。細粒のよく埋め込まれた砂質角礫岩は、層を交替させる際にその上部に流華石を配置しますが、この砂質堆積物をメンバー4もしくはその上のメンバー5と相関させる診断可能な特徴はありません。代わりに、それは別の入口と、洞窟天井近くの小さな空洞に由来する可能性の方が高そうです。この流華石がメンバー4を覆う層序系列に置かれた層序学的証拠はありません。以下は本論文の図2です。
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(2)推定される底部流華石BH4-9は実際には、以前に提案されたように基底部ではなく、メンバー4の上部中央に位置します(図1)。これは、以前の研究における崖錐の推定される傾斜が、メンバー4の崖層が遠位ではなく近位で、崖錐は南西に穏やかに沈む必要がある、という誤解のため不正確だったからです。以下で説明されるように、実地観察は代わりに北東への急な傾斜を示唆し、より高い層序学的水準に流華石を置きます。

(3)メンバー2で以前に論証され、メンバー4で一般的であるように、中核の流華石の殆どもしくは全てが侵入性で、溶解した堆積後の空洞を埋めている可能性が高そうです。

 メンバー4の年代測定の解釈は洞窟充填層準に大きく依存しているので、結果の提示の前に、堆積状況について説明されます。メンバー4は、垂直入口立坑の下に、洞窟内の崖錐として蓄積しました。洞窟の崖錐は表面の落石堆積物と多くの類似点を有しています。層になっていない砕屑物の豊富な堆積物では、傾斜角は通常、28度から38度の範囲です。大きくて丸い岩は、崖錐の側面と先端に運ばれますが、より小さい岩は、頂点近くに積み重なるか、裂け目に入るようになり、粒子サイズの分離につながります。崖錐近位部と遠位部の坂では、細長い砕屑物はその長軸が崖錐層と並行に並び、基盤に吊り下げられた状態で滑落する傾向があります。結果として、近位層はより微細になり、構造に現れる層理面で裏づけられる基盤になる傾向がありますが、遠位層は、より多くの岩や石があり、砕屑物に裏づけられ、開かれた構造になる傾向があります。崖錐の端は通常、洞窟の床を覆う、低い勾配の、細粒堆積物に移行する傾向があります。洞窟入口に落下した比較的低密度の植生は、一般的に崖錐の頂点近くに蓄積します。

 メンバー4の角礫岩は、表面露頭の南部から放射状に広がる急傾斜の層理のため、掘り出された崖錐として長く認識されてきました。角礫岩内の1000点超の細長い砕屑物の向きは、北東への42±16度の傾斜を確証します。メンバー4における化石化したツル植物の存在と、露出した崖錐の南端近くに優先的に位置することは、南に以前の入口があった追加の証拠を提供します。メンバー4の堆積の停止後に、おそらくは洞窟の充満と入口の閉鎖のため、角礫岩は方解石で固められ、次に部分的に溶解して角礫岩内の空洞を含む不規則な表面に浸食しました。メンバー5は次に、別の入口からさらに東方へと入り、メンバー4を不整合に覆い、溶解した空洞の一部に浸透しました。

 堆積後にメンバー4内で形成された空洞の多くは、方解石流華石で満たされています。1947年の発掘では角礫岩内について、「顕著でほぼ水平ではあるものの不規則な厚さの(白い方解石の)岩脈が、間違いなく、角礫岩の堆積に続いて形成された」と指摘されています。もっと最近の層序学的分析は、シルベルベルク洞窟のメンバー2における嵌入した流華石形成の明確な証拠を示しました。本論文は、BH4-9標本の下方の、化石洞窟(Fossil Cavern)の西端で露出している区画で、メンバー4における類似の関係を記録します。化石洞窟で露出したこれら流華石は、層理と並行して存在することもあるものの、例外なく嵌入性で、見つかった角礫岩よりも年代は新しくなります。その嵌入性の証拠は、溶解性不整合接触と、方解石流華石に埋まっている固まった角礫岩に由来します。

 堆積相と堆積構造からは、メンバー4が露出した角礫岩の南端から放射状に広がる崖錐として蓄積した、と強く示唆されます。堆積相は、この解釈にとって追加の証拠を提供します。入口に近い植物化石のあるより細粒で母岩に富む堆積相は、立杭底部における蓄積で典型的な、岩や石が多くあり、砕屑物に富む母岩の乏しい堆積相に移行します。しかし、露出した角礫岩の周辺に分布する5ヶ所の広く分離した堆積物コアの解釈に基づく文献では、かなり異なるモデルが提示されてきました。これらのコアは、広範に由来する崖錐の基部を示唆する、自生から異地性の物質への意向に、試掘孔全体にわたって連続的ではないとしても同位相で、堆積中に角礫岩と斜め上の系列で堆積した、と推測された流華石の存在に基づいて相関づけられました。これら流華石のいくつかは、ウラン・鉛法で年代測定され、コア間で相関づけされました。

 次に、角礫岩の供給源が、わずかな母岩の粗い角礫岩が洞窟入口や崖錐の中間のより細粒の母岩に支えられた相や最も遠方の細粒で水平に堆積した相に近いと考えられた、縦の相の属性に基づいて解釈されました。洞窟入口は丸石相と関連していると解釈され、メンバー4は入口から北東へと発する緩やかな傾斜面を形成した、と示唆されます。近位相と中位相のこれらの解釈は崖錐についての予測とは反対で、北東への洞窟入口は、南西からの観察された急な崖錐傾斜と正反対です。さらに、層序学的相関の根拠となっている流華石は嵌入である可能性が最も高く、流華石が見つかり、広く別々のコアで相関づけできる角礫岩より新しくなります。南から発する崖錐の実地調査の証拠に基づく解釈は正しい、と考えられます。

 流華石に基づく以前の年代測定の解釈には重大な層序学的問題があると認識され、メンバー4の角礫岩とその化石の真の年代が疑問視されるようになりました。メンバー4のアウストラロピテクス属化石はメンバー2の370万年前頃により近いのか、それともパラントロプス属やホモ属やアウストラロピテクス・セディバの210万年前頃の年代の方に近いのでしょうか?メンバー4の角礫岩を直接的に年代測定するため、発掘遺跡における最も深い露出から収集された砕屑物一式について、アルゴン26とベリリウム10で等年代埋没年代測定が用いられました。化石洞窟で収集された、メンバー4の上部中央の砂質母岩の単一標本(図1)と、ジャコヴェック洞窟の砂の単一標本も年代測定され、以前に報告されたデータが補完されました。


●年代測定結果

 等年代線標本の年代は341万±11万年前で(図3)、重みつき標準偏差の2乗平均が1.09となり、標本すべてが単一の埋没年代と一致する、と示唆されました。等年代線の傾きからの年代推定値は、切片からの埋没後の生産量推定値とはほとんど無関係ですが、推定される埋没後の生産量は、モデルにおける過程の内部監視を提供します。等年代線適合から決定された埋没後のベリリウム10はg⁻¹ yr⁻¹で0.028±0.003となり、深さ10mで密度g cm⁻³におけるg⁻¹ yr⁻¹の期待値0.030と一致し、解に信頼性を与えます。相互に宇宙線生成核種を比較するのに用いられた分析不確実性に加えて、崩壊定数の体系的不確実性が最終年代に2%の不確実性を、生産率比の3%の不確実性が5万年の不確実性を追加します。これらをまとめると、最適な年代は341万±11万(14万)年前で、以下、()内でその不確実性の合計が表されます。アウストラロピテクス属標本は等年代線標本と密接に関連しており、その中には1mも離れていないところで見つかった数点の下顎歯から構成される1個体(StW 537)が含まれます。StW 431の部分骨格は、同じ堆積物内で2.5m高く、2~3m北西に位置します。以下は本論文の図3です。
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 化石洞窟の堆積物標本の年代は349万±19万(24万)年前で、密度2.8g cm⁻³の岩の下に位置する深さ11mで埋没後の生産率を用いて計算された、等年代線年代の誤差内で区別できません。ここでは、1937年の発掘で4点のアウストラロピテクス属化石が発見され、上顎(TM 1512)、大腿骨遠位部(TM 1513)、上顎粉砕破片(TM 1514)、有頭骨(TM 1516)から構成されます。ジャコヴェック洞窟の標本の年代は363万±13万(17万)年前頃で、密度2.8g cm⁻³の岩盤における深さ29mの埋没後生産率を用いて計算されました。この年代は依然に刊行された2点の年代と一致しており、本論文で用いられた生産率と、改定されたベリリウム10および半減期で再計算されました。まとめると、3点のジャコヴェック洞窟の標本の年代は361万±9万(13万)年前頃です。ジャコヴェック洞窟で回収されたアウストラロピテクス属化石には、StW 578頭蓋と数点の頭蓋後方化石が含まれます。


●考察

 本論文で提示された年代は、メンバー4の大半の堆積物を340万年前頃に位置づけます。この年代は、以前に提案された261万~207万年前頃の範囲よりずっと古いものの、シルベルベルク洞窟とジャコヴェック洞窟のより下方の堆積物の以前の年代測定と一致します。その上のメンバー5の基底部近くのオルドワン(Oldowan)ユニットは、単純な埋没年代測定を用いて、以前に218万±21万(24万)年前と年代測定され、ユニット4と5の間の不整合全体の堆積における100万年の休止が示唆されます。そうした長期間の堆積休止により、不整合発達の充分な時間がもたらされ、その期間にメンバー4の大部分は溶解して浸食され、東への入口が開けた後にメンバー5の入る空間が形成されました。

 スタークフォンテン洞窟における以前の埋没年代測定は疑問視されており、それは、流華石のウラン・鉛年代測定と歯の化石のESR年代測定で決定された年代よりずっと古いからです。個々の標本の埋没年代測定は再堆積に起因する誤差の影響を受ける可能性がありますが、堆積物の全てが洞窟内のより高い固定していない堆積物から再堆積していない限り、等年代線埋没年代が同じ問題の影響を受ける可能性はひじょうに低そうです。スタークフォンテン洞窟には、堆積物が再固定化されるような、より古くて高い層の証拠はありません。ツル植物と脊椎動物の化石の存在から、洞窟は堆積物時に地表に開いていた、と強く示唆され、層序学は南への急な入口立坑の下でじょじょに蓄積されたことを示唆します。

 等年代線埋没年代測定法は、宇宙線生成核種と放射性崩壊というよく理解された物理学に基づいています。その正確性は、火山流の40Ar/39Ar年代測定(アルゴン-アルゴン法)と古磁気に対して検証されてきており、南アフリカ共和国のスワートクランズ(Swartkrans)における流華石のウラン・鉛年代測定と一致します。嵌入流華石堆積の実証的証拠があるスタークフォンテン洞窟でのみ、等年代線埋没年代測定と他の絶対年代測定手法との間に大きな不一致があります。ウラン・鉛年代測定と古磁気法による流華石の以前の年代測定は正しいものの、その年代は角礫岩の蓄積ではなく流華石の堆積年代を示唆している、と考えられます。より古い埋没年代とより新しい流華石の年代との間の不一致は、その層序学的関係に完全に起因します。化石の年代は、それを包む角礫岩により最もよく表されます。

 同様に、動物相の考慮に基づいて、メンバー4のより古い年代について懸念があります。しかし、初期の研究ではメンバー4と5の間の境界が認識されておらず、混合が遺跡に浸透している脱灰溶解の窪みにおいて沈下と生物攪乱により起こるかもしれないので、動物相の年代は慎重に見る必要があります。以前の調査では機械的に発掘され、層序学的詳細が観察されなかったので、メンバー4で多くの溶解の窪みの記録は写真のみです。溶解の窪みの堆積物は通常、腐植酸による不運において苦灰石から放出されたマンガンにより黒く染色されます。

 ウマはアフリカでは230万年前頃以降の属となり、本論文の年代と一致しませんが、以前の収集資料に基づくとメンバー4に分類されてきました。しかし以前の発掘では、今ではより新しいメンバー5に覆われていると知られている区画が爆破されており、それはより新しいメンバーが特定されたずっと前でした。その後の発掘に基づく化石のみを用いた研究では、区画O/42で回収されたメンバー4の単一のウマの歯が注目されました。この歯は、溶解の窪みに由来し、メンバー5からの嵌入の可能性が高いことを示唆する、マンガン着色を示しています。

 メンバー4領域内の以前の発掘に由来する2点の追加の頭蓋後方化石は、先行研究ではウマ科の水準までしか識別されていません。その一方は橈骨の遠位片(S94-13118-19)で、区画O/46に由来します。この標本は確認で位置づけられませんでしたが、密接に関連する石の分析は区画O/46の溶解の窪みを示唆するマンガン着色を示しているので、嵌入したと考えられるべきです。もう一方の標本(S94-11418)は区画U/47のより深い地点で見つかり、ウマの筒部として特定されました。しかし先行研究では、この骨が調べられ、クラス3サイズのウシ属の溶解した左筒部および有鉤骨と決定されました。本論文の年代測定は、全てのウマ化石が誤ってメンバー4に割り当てられた、という強い裏づけを追加します。

 同様の懸念は、メンバー4に割り当てられたより新しい分類群で生じ、絶滅イノシシ属(Metridiochoerus)やウシ科のスプリングボック属(Antidorcas)が含まれ、両者とも1936~1948年の収集標本に限定されます。絶滅イノシシ属(Metridiochoerus)は340万年前頃のウスノ(Usno)層で知られていますが、その第三大臼歯はアフリカ南部の同類よりも祖先的なようです。スプリングボック属は、ベリリウム10年代測定で290万年前頃のシュングラ(Shungura)層に存在します。要約すると、以上の由来が曖昧な分類群により、メンバー4の動物相年代推定値に関して長年文献で記載され続けてきた複雑さが論証されます。以前の発掘調査において、メンバー5の東への拡大がメンバー4の上に存在していたことは、遺跡で保存された残りの層序から確実です。少数の化石が誤ってメンバー4に割り当てられたならば、これら限定されたより新しい分類群の存在に基づく放射性年代を否定できません。

 メンバー4の動物相からの生態学的再構築は、現在よりも湿潤な気候を示唆し、斑状の草原とサバンナと回廊林があり、歯の化石から決定されたC3およびC4食性の両方と一致します。メンバー5の動物相は、乾燥気候およびずっと多くのグレーザー(体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物)と関連しています。メンバー4からメンバー5への動物相の移行は、250万年前頃となる鮮新世から更新世への気候変化に伴って急速に起きた、と推測されていました。しかし本論文の年代から、より湿潤な気候と関連した化石群は中期ピアセンジアン(Piacenzian)温暖期の前となる中期鮮新世であるのに対して、より乾燥した気候と関連した化石群は前期更新世となり、モザンビーク海峡の海洋記録から推定される同時期の風化強度減少へと向かう傾向と一致します。ホモ属の出現に重要と考えられている、鮮新世から更新世への気候変化は、スタークフォンテン洞窟ではよく表されないものの、当時の洞窟において流華石は堆積していました。

 本論文の年代は、スタークフォンテン洞窟のアウストラロピテクス属化石群の年代が370万~340万年前頃であることを示します。これらの化石は初期アウストラロピテクス属を表しており、形態学的に多様な中期鮮新世人類の年代と一致します。その中には、アウストラロピテクス・アファレンシス、アウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda)と分類された化石(関連記事)、ウォランソミル研究地域のブルテレ(Burtele)の未分類の足の化石BRT-VP-2/73(関連記事)、チャドのアウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)、トゥルカナ湖のケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)、ウォランソミル研究地域の後期アウストラロピテクス・アナメンシス(関連記事)が含まれます。スタークフォンテン洞窟のアウストラロピテクス属化石は、「人類の揺り籠」の近隣遺跡群のパラントロプス属とホモ属とアウストラロピテクス・セディバに100万年以上先行し、アフリカ南部における人類の存在と進化のより完全な全体像を提供し、中期鮮新世における人類の地理的範囲と分類学的多様性を増加させます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、アフリカでも東部と比較して年代測定が曖昧な南部のアウストラロピテクス属化石群について、以前の推定よりもずっと古い年代を提示しています。これにより、アウストラロピテクス・アフリカヌスがアウストラロピテクス・アファレンシスの子孫である、という有力説に疑問が呈され、初期人類の進化を大きく見直す必要が出てきました。上述のスタークフォンテン洞窟のStW 573の推定年代により、アフリカ南部に300万年以上前からアウストラロピテクス属が存在していた可能性は示唆されており、その意味ではあり得ない年代とは言えないように思います。

 上述のようにStW 573はアウストラロピテクス・プロメテウスに分類されており、アフリカ南部では300万年以上前からアウストラロピテクス属が複数種に分岐していった可能性も考えられます。またアフリカ南部において、更新世になって登場するパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)と中期鮮新世のアウストラロピテクス属との系統関係や、アフリカ東部のパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)とパラントロプス・ロブストスの系統関係も注目されます。あるいは、パラントロプス属と分類されている化石群は、アフリカ東部と南部でそれぞれ独立して進化した分類群を反映しているかもしれず、そうならば、パラントロプス属という分類群は成立しなくなります(関連記事)。


参考文献:
Granger DE. et al.(2022): Cosmogenic nuclide dating of Australopithecus at Sterkfontein, South Africa. PNAS, 119, 27, e2123516119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2123516119

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