中部旧石器時代のイベリア半島南部の洞窟壁画
取り上げるのが遅れてしまいましたが、中部旧石器時代南部のイベリア半島南部の洞窟壁画に関する研究(Martí et al., 2021)が報道されました。AFPでも報道されています。芸術の制作は、人類の文化的進化における大きな飛躍とみなされています。それは、複雑な象徴的表現を永続的方法で記録し、伝える手段を表します。しかし、何世代にもわたる研究者の努力にも関わらず、旧石器時代芸術の起源と年代と技術と機能と意味に関する問題は未解決です。過去20年の研究は、図画表現の最初の事例(関連記事1および関連記事2)、主要な洞窟遺跡群の学際的分析、開地遺跡群の調査、新発見の提示、洞窟絵画(塗布)の最初の事例の年代測定に焦点を当ててきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。
とくに関連性があるのは、層序的に関連する方解石付着物へのウラン系列年代測定の適用により、これらの芸術的出現がこれまで考えられていたよりもはるかに古くからある、と示されたことです。スペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟では、408000年前頃という赤い円盤の下限年代値が得られ、ヨーロッパの最初の洞窟芸術のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の製作と一致しており(関連記事)、64800年以上前となるイベリア半島の3ヶ所の遺跡の、非具象的絵画と手のステンシル(物体を表面に置き、その上から塗装することで、表面に図を残すこと)により最終的には裏づけられました(関連記事)。ボルネオ島の手のステンシルの芸術(関連記事)とスラウェシ島の写実的絵画(関連記事)は、それぞれ下限年代が43900年前頃と39900年前頃となり、予測されたように、この慣行の最初のヨーロッパの出現との広範な同時性を確信的に論証します。イベリア半島の証拠には疑問が呈されていますが(関連記事)、全ての批判は徹底的に応答されています(関連記事)。
そうしたイベリア半島の洞窟芸術の初期の一例がスペイン南部のアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)です(図1)。アルダレス洞窟には長いものの断続的な研究史があり、1世紀以上前に始まって、最近の調査まで続いています。しかし、これまで、ウラン系列年代測定によるもの含めて、洞窟の絵(もしくは塗布)を構成する顔料は分析されていませんでした。ヨーロッパ南西部旧石器時代絵画技術の起源と進化を研究するより広範な計画の一部として、本論文は区画II.A.3の顕微鏡および化学的分析に焦点を当てます(図2)。以下は本論文の図1です。
方解石標本のウラン系列年代測定に基づくと、区画II.A.3の赤い染色の年代は、幕(状の石筍、以下「幕」で統一)5で45900年以上前、幕6で45300年以上前および48700年前以降、幕8で65500年以上前と制約されます(関連記事)。これらの結果は、その芸術活動を地域的なネアンデルタール人と関連した中部旧石器時代に位置づけ、その区画の年代測定されていない幕の装飾がさまざまな後の年代であるかもしれない、と示唆するものはありません。
本論文の目的は二つあります。第一に、区画II.A.3の赤い顔料の組成を特徴づけることです。顔料は、自然の染色を表しているかもしれない、と示唆されていますが、肉眼観察では裏づけられません。第二に、顔料組成と技術のパターンが、年代測定により論証された中部旧石器時代の芸術活動のさまざまな段階についてさらなる詳細を提供できるのかどうか、調べられます。アルダレス洞窟の床と壁から収集された、天然の鉄分を多く含む着色物質も分析され、これら地質物質の化学的痕跡が、塗布に用いられた顔料の供給源であることと一致するのかどうか、検証されました。
●アルダレス洞窟
アルダレス洞窟は、スペイン南部となるアンダルシア(Andalucía)州のマラガ(Málaga)県の、アルダレス村の近くに位置します(図1)。アルダレス洞窟は長さが1577mで、上層坑道と下層坑道の2層の重なりが特徴です。アルダレス洞窟は、地震により以前には崩壊堆積物で塞がれていた入口が再度開いた後の1821年に発見されましたが、旧石器時代の洞窟壁画がアンリ・ブルイユ(Henri Breuil)により発見されたのは1918年でした。
ほとんどが上部旧石器時代に分類されている、1000点以上の図形表現が報告されてきました。その中には、具象的および非具象的両方の彫込みと絵があり、252区画に分類されています。ほとんどの抽象的な赤い絵は洞窟二次生成物の上に描かれ、奥ではなく入口近くに位置します。つまり、考古学的発掘により中部旧石器時代のネアンデルタール人による空間の広く同時代の使用が裏づけられた、洞窟部分で見つかっています。本論文で取り上げられる区画II.A.3は、下層坑道の「星の広間(Sala de las Estrellas)」の印象的な石筍丸天井に位置します(図2)。以下は本論文の図2です。
●区画II.A.3の微小標本
標本は、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩(粘土鉱物と雲母)と方解石、一部では石英と無定形炭素で構成されます。分析では、少量の硫酸塩とリン酸塩に由来するかもしれない、燐光物質と硫黄の痕跡も検出されました。これら微小標本の走査電子顕微鏡(SEM)観察は、鉱物起源を示唆します。それは、これらの中に生体内鉱質形成で通常見つかる粒子形態(たとえば、糸状体や球菌様形態や数珠玉構造や生物膜)を特徴とするものがないからです。微小標本における結晶の形状と大きさも、鉱物性質と一致します。より詳細な分析により、興味深い質感と組成の違いが明らかになります(図3)。以下は本論文の図3です。
幕5(P-ARD-06)と幕8(P-ARD-03およびP-ARD-04)の標本は、測微法から準測微法の板状の鉄分の豊富な鉱物と粘土の固く結合した凝集体で構成されていますが、幕6(P-ARD-05)では、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩粒子は、凝集体としてではなく、個々の粒子の形で表れます。幕9(P-ARD-02)の赤い染色は、幕5および8とは、粗い分離した雲母小板の存在および水和粘土鉱物がない点で異なります。幕6とは異なり、幕5および8と同様に、赤鉄鉱と粘土の粒子は凝集体の形で幕9に発生します。さらに幕6(P-ARD-05)は、他の標本では検出されない無定形炭素の存在を明らかにします。
●地質標本
顔料として用いられた可能性がある、鉄分の多い堆積物6種が、アルダレス洞窟で特定されました。これらは、緩いオーカー堆積物から密集した紫色の岩まで不均質な物質で構成されています。代表的な標本のSEM分析から、これらの物質が区画II.A.3の標本と類似性を共有していないことは明らかです。X線回折分析により、地質標本のうち2点(G-ARD-01およびG-ARD-11)のみが赤鉄鉱を含んでいる、と示されます。赤鉄鉱は、石筍の赤い染色の原因鉱物ですが、どちらもその区画の標本とは比較できません。標本G-ARD-01は測微法から準測微法の粒状で巨大で針状の鉄とマンガンの豊富な結晶、鉄の豊富な硫酸塩小球、カリウムの豊富な雲母で構成されますが、標本G-ARD-11は、粘土の葉状母岩に2µmの円盤状の鉄の豊富な結晶のかたまりで構成されます(ケイ素、カリウム、アルミニウム、マグネシウム、チタン、カルシウム、マグネシウム)。
●洞窟二次生成物標本
幕9の染色を覆う洞窟二次生成物層で実行された顕微鏡元素分析は、それがおもに低マグネシウム方解石で構成されている、と示します。おそらくはアルミニウムの豊富な水酸化物からの少量のアルミニウムも存在します。鉄もしくは粘土の鉱物は検出されませんでした
●考察
区画で収集された微小標本の分析は、肉眼による区画の密接な観察に基づいて提案されたように、染色は鉱物起源で、微生物活動の結果として解釈できない、と示唆します。染色は、河川の流れや土壌からの浸透や浸水や壁の風化など、洞窟で通常起きる自然の地質学的過程の結果としても解釈できません。洪水は洞窟の壁や天井さえ覆うかもしれませんが、ほとんどの蓄積は床で発生し、一般的には広範囲に及びます。アルダレス洞窟では、洪水により形成された堆積物の痕跡は、区画II.A.3の位置する空洞の床でも壁でも見えません。さらに、洪水により運ばれた粘土小板はSEMでは一般的に、壊れているか丸い端を示し、本論文の標本には当てはまりません。水滴による酸化鉄の堆積は、方解石の拡散した赤い染色を生成しますが、塗料として解釈される堆積物は、方解石の上および/もしくは方解石に覆われた異なる層の形態で発生します。
鉄と粘土の豊富な鉱物の存在が洞窟二次生成物と関連しているかもしれない、という仮説を除外すると、分析された方解石標本はどちらも含まず、水滴中に存在する鉄の豊富な粒子はいずれも、区画II.A.3の顔料で見られる緩い赤鉄鉱と粘土小板の形成につながらないでしょう。岩盤の風化は、保存状態良好な参加立つと粘土小板の薄い層を生成できる唯一の過程ですが、大きな空間に位置する石筍の真ん中にある小さな領域の排他的影響と一致せず、その壁では類似の堆積物は観察されません。さらに、形態の観点では、模様は、赤い物質の濃度がじょじょに減少することを特徴とする接触変成帯に囲まれた、色密度の高い中央領域により特徴づけられます。このパターンは、実験的に再現されたように、飛び散ることによる塗料の着色を示唆します。本論文の結果は、区画II.A.3が自然仮定の結果かもしれない、という推測と一致しません。
旧石器時代の装飾が施された洞窟で見つかったいくつかの赤い染色は、洞窟の壁に印をつける意図的な過程に起因するのではなく、偶発的な接触結果かもしれない、と提案されてきました。狭い通路では、オーカー(黄土)で着色された服を着ているか身体を彩色した訪問者が偶然に壁を触ることは、じっさいあり得ます。しかし、区画II.A.3の事例では、偶然の染色は除外できます。なぜならば、塗布された丸天井はひじょうに大きな空間の真ん中にあるからです。さらに、色の痕跡は、石筍の襞の突出領域および凹んだ領域の両方で見つかります。じっさい、この色が見えるこの襞の窪みの一部はひじょうに深く、腕の届かないところにさえあります。顔料付着が観察できる場所の一部に到達できる唯一の方法は、実験的に再現された技術により飛ばされた点滴および小滴としてです。
地質学的標本と考古学的標本との間の顕著な違いは、この研究で標本抽出された洞窟堆積物のどれも、区画II.A.3の塗布に用いられた顔料の供給源として用いられなかったことを示唆します。さらに、考古学的標本のラマンスペクトルにおける赤鉄鉱帯の強度と幅の実質的変化も、針鉄鉱の豊富な原材料が熱処理された可能性を示唆する特徴も、観察されませんでした。したがって、洞窟に自然に存在した針鉄鉱の豊富な物質が、区画II.A.3の塗料の生成のために熱処理された、という仮説の裏づけは存在しません。本論文の結果が強く支持するのは、旧石器時代の(複数の)芸術家が、洞窟外で見つかる可能性が高いまだ知られていない供給源から、地層で収集された鉄の豊富な塊を使用したことです。将来の研究では、石筍の塗装に用いられたオーカーが近隣で見つかるのか、より遠い供給源に由来するのか確認するには、局所的な鉄の豊富な層を調査する必要があります。
区画II.A.3の微小標本の組成で観察された違いには、さまざまな原因が考えられます。一人もしくは複数の芸術家による芸術的活動の単一事象を仮定すると、組成のわずかな違いは、多様な地質学的起源および異なる技術で製造された顔料粉末を用いての(たとえば、それらの人々が異なる文化的伝統に属していたか、さまざまな地域からアルダレス洞窟遺跡に旅をしてきたため)、壁面もしくは異なる人に適用された混合の不完全な均質化に起因するかもしれません。あるいは、そうした変化は、さまざまな壁面がさまざまな時期に塗られており、塗料の配合が微妙に異なっていたか、各時期に用いられた供給源が異なっていた、という事実に起因するかもしれません。
これらの選択肢は、利用可能な年代測定証拠に対して評価され得ます。幕5および8の模様は、それぞれ45900年以上前と65500年以上前なので、それらが65500年前頃以前のある時点で行なわれた単一の塗布事象を表している、という見解を除外できません。そうした仮説は、模様は両方の幕においてひじょうに類似した塗布で作られており、鉄の多い鉱物と粘土の細粒の凝集体で構成されている、という本論文の発見と一致します。幕6は、年代が48700~45300年前頃なので、異なる侵入を表しているに違いありません。幕6の顔料が幕8と異なる、という本論文の発見は、用いられた着色材の性質における経時的変化を示唆します。幕8の顔料は赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩の粘土の大きさの板状粒子で構成されていますが、そうした粒子は幕6の場合、凝集体を形成するのではなく、散乱しています。幕9の顔料は、粗いカリウムの豊富な雲母と関連する細粒の鉄の豊富な鉱物と粘土で構成されており、分離した雲母小板の存在と水和粘土鉱物の欠如のため、幕5・6・8で用いられた塗料とは異なります。
要約すると、年代測定の証拠は、少なくとも2回の侵入を示唆します。オッカムの剃刀に基づくと、組成の類似性は同じ塗布事象の付属を反映している可能性がより高く、非類似性の場合はその逆です。これは、組成が異なることに加えて、それ自体が実証するわけではないものの、異なる塗料の使用と一致するアルダレス洞窟標本が異なる粒径も特徴としているため、より当てはまります。したがって、両方の一連の証拠(年代測定と組成)を組み合わせると、本論文の標本は少なくとも2回の塗布事象を表している、と確認できます。さらに、真の回数はおそらく少なくとも3回で、あるいは4回の可能性も考えられます。塗布事象の回数をさらに正確にするには、より多くの年代測定の証拠の獲得を待たねばなりません。
塗布は繰り返し追加された結果なので、ある種の若返りや修復の対象となる芸術の一部なのかについて、疑問が生じます。画題の若返りは岩絵で見られると示されてきており、民族誌的研究は、塗り直しが伝統的な共同体間で一般的な慣行だと論証してきました。旧石器時代の洞窟芸術についても、意図的な修正および/もしくは修復が提案されてきており、スペインとレヴァントの岩絵伝統の遺跡群で遍在しているようで、儀式目的もしくは劣化した図の復元について、復元か変更か拡張されたと考えられる区画を特徴とします。その事例にはスペインのカステリョン(Castellón)県のヴァルトルタ・ガスッラ(Valltorta-Gassulla)地域のレミギア洞窟(Cova Remigia)が含まれ、全体的もしくは部分的塗り直しと新たな要素もしくは別の色の追加が記載されており、図画的で物語的な再流用が示唆されます。
カステリョン県のサルタドラ洞窟(Coves de la Saltadora)では、化学的に異なる顔料の検出は、1点の模様が塗り直されたものとの解釈につながりました。2色の組み合わせの明確な事例は、最近スペインのレトゥル(Letur)のバランコ・デ・セゴヴィア(Barranco de Segovia)で記録されており、黒色の上の赤色の使用は、元々の値の増大として解釈されました。画像の性質と同一性を修正した意図的な上塗りの他の事例は、アルバラシン(Albarracín)のセジャ・デ・ピエザッロディラ(Ceja de Piezarrodilla)、オボン(Obón)のチョポ洞窟(Cueva del Chopo)、フミーリャ(Jumilla)のカント・ブランコ(Canto Blanco)、トルモン(Tormón)のブラド・デ・ラス・オリヴァナス(Prado de las Olivanas)、アルバセテ(Albacete)のビエハ洞窟(Cueva de la Vieja)で見られます。
アルダレス洞窟の区画II.A.3の事例では、画像の修復が行なわれたかどうかの評価は、カルシウムとマグネシウムの付着物により分離された異なる顔料層の識別によって可能ですが、そうした微細層序研究は、塗布と画壁面の両方への顕著な損傷を伴い、この研究の重要な前提の一つにより排除されています。つまり、標本抽出の間に塗布への損傷を与えないようにすることです。しかし、そうした行動が結果に反映される可能性は低そうです。
民族誌的類推は古代の行動について直接的に推論するのに信頼できませんが、それでも、可能性の範囲を説明し、考古学的証拠も解釈を助けるのに役立ちます。岩絵修復の民族誌的事例が示すのは、この慣行が経時的に消えていく特徴(形態、細部、色の関連性)を抽象的もしくは具象的表現に適用するのによく用いられる、ということです。若返りは、個別で認識できる象徴として表現を特定する診断上の特徴の集団の関連する構成員による視覚的認識を保証し、一部の事例では、場所と人々との間の象徴的つながりの更新も意図しています。それは、絵(塗布)の修復により、意味のある場所と祖先のつながりを培い、その場所に集団を結びつける芸術を更新します。
区画II.A.3で塗料を塗るのに用いられた技術と、その結果としての模様は、個別の特徴の認識を可能としません。これは、その場所とのつながりを培うことが、特定の表現との関連づけではなく、石筍に跡をつける主因だったに違いない、と示唆します。画像自体が象徴的情報を有しており、芸術活動の焦点である場合、画像の修復は意味が分かりますが、アルダレス洞窟で見られるものは異なります。この場合、象徴的情報の担い手は区画それ自体ではなく、区画のある巨大な石筍の丸天井であるように見えます。換言すると、画布としての丸天井を扱うことは有用な省略表現ですが、この巨大な層は塗布を並べるのに用いられる便利な表面にすぎず、これらの塗布はどこで作られたかに関係なくそれ自体が象徴的情報の保管庫である、と考えるべきではありません。代わりに、丸天井は象徴的で、塗布はその象徴として存在するのであり、その逆ではない、と本論文は考えます。この文脈では、繰り返しの塗布は、その意味を維持するか、強化するか、修正するための、既存の画題の修復もしくは修正と類似していません。むしろ、その場所あるいは「画布」自体の象徴的価値の新たな主張を代わりに表しているに違いありません。
本論文はこの研究の結果に基づいて、区画II.A.3は単語の狭い意味での「芸術」、つまり、「美しいか、感情を表現するような、対象や画像や音楽などの制作」、あるいは「絵画や図画や彫刻制作の活動」ではないものの、空間の象徴的意味を永続させようと意図する図画行動の結果である、と仮定します。フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)の証拠は、中部旧石器時代のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、カルストの奥深くの場所で、洞窟二次生成物の意図的変更と複雑な配置の構築に用いたことを含む、象徴的活動に関わっていたことを示します(関連記事)。
アルダレス洞窟の証拠は、一部のネアンデルタール人共同体の象徴的体系に洞窟二次生成物が基本的役割を果たした、との見解を裏づけます。したがって、区画II.A.3で見られるような、巨大で印象的な丸天井への飛散赤色顔料を用いての模様の塗布は、アルダレス洞窟の他の事例でも存在する、長期の伝統に深く根差した発展と見なすことができます。したがって岩絵は、ほぼ同じ種類の象徴的行動を表す、マルトラビエソ(Maltravieso)洞窟やラパシエガ(La Pasiega)洞窟(関連記事)やエルカスティーヨ洞窟(関連記事)やゴーラム洞窟(Gorham's Cave)遺跡(関連記事)など、イベリア半島の他の洞窟遺跡群で見られる中部旧石器時代の手のステンシルや幾何学的痕跡とともに、ヨーロッパで場所に模様を残す形態として始まったかもしれません。
アルダレス洞窟との類似性を有するより多くの塗布が、将来イベリア半島で特定され、中部旧石器時代と年代測定されるだろう、と本論文は予測します。上部旧石器時代の洞窟芸術は技術的にも主題的にもより複雑ですが、標識や手のステンシルはその中で重要な役割を果たしています。アルダレス洞窟や他のイベリア半島の遺跡群で特定されたような塗布は、社会的複雑化と関連する新たな必要性が、より多様で革新的な技術的慣行に支えられた新規の象徴的伝統の出現を誘発した、長い過程の前段階を表しているかもしれません。
なお、本論文の刊行後に公表された研究では、フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類(Homo sapiens)の存在が報告されており(関連記事)、中部旧石器時代のヨーロッパの洞窟遺跡における象徴的表現については、ネアンデルタール人独自の所産である可能性とともに、現生人類からの影響、もしくはネアンデルタール人と現生人類の相互作用の結果である可能性も想定しておくべきだと思います。ただ、現時点での証拠からは、5万年以上前のヨーロッパの現生人類は、ヨーロッパから撤退したか、絶滅したか、ネアンデルタール人集団に吸収され、その遺伝的痕跡をヨーロッパのネアンデルタール人集団に全く或いは殆ど残さなかった、という可能性が高そうです。
参考文献:
Martí AP. et al.(2021): The symbolic role of the underground world among Middle Paleolithic Neanderthals. PNAS, 118, 33, e2021495118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2021495118
とくに関連性があるのは、層序的に関連する方解石付着物へのウラン系列年代測定の適用により、これらの芸術的出現がこれまで考えられていたよりもはるかに古くからある、と示されたことです。スペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟では、408000年前頃という赤い円盤の下限年代値が得られ、ヨーロッパの最初の洞窟芸術のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の製作と一致しており(関連記事)、64800年以上前となるイベリア半島の3ヶ所の遺跡の、非具象的絵画と手のステンシル(物体を表面に置き、その上から塗装することで、表面に図を残すこと)により最終的には裏づけられました(関連記事)。ボルネオ島の手のステンシルの芸術(関連記事)とスラウェシ島の写実的絵画(関連記事)は、それぞれ下限年代が43900年前頃と39900年前頃となり、予測されたように、この慣行の最初のヨーロッパの出現との広範な同時性を確信的に論証します。イベリア半島の証拠には疑問が呈されていますが(関連記事)、全ての批判は徹底的に応答されています(関連記事)。
そうしたイベリア半島の洞窟芸術の初期の一例がスペイン南部のアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)です(図1)。アルダレス洞窟には長いものの断続的な研究史があり、1世紀以上前に始まって、最近の調査まで続いています。しかし、これまで、ウラン系列年代測定によるもの含めて、洞窟の絵(もしくは塗布)を構成する顔料は分析されていませんでした。ヨーロッパ南西部旧石器時代絵画技術の起源と進化を研究するより広範な計画の一部として、本論文は区画II.A.3の顕微鏡および化学的分析に焦点を当てます(図2)。以下は本論文の図1です。
方解石標本のウラン系列年代測定に基づくと、区画II.A.3の赤い染色の年代は、幕(状の石筍、以下「幕」で統一)5で45900年以上前、幕6で45300年以上前および48700年前以降、幕8で65500年以上前と制約されます(関連記事)。これらの結果は、その芸術活動を地域的なネアンデルタール人と関連した中部旧石器時代に位置づけ、その区画の年代測定されていない幕の装飾がさまざまな後の年代であるかもしれない、と示唆するものはありません。
本論文の目的は二つあります。第一に、区画II.A.3の赤い顔料の組成を特徴づけることです。顔料は、自然の染色を表しているかもしれない、と示唆されていますが、肉眼観察では裏づけられません。第二に、顔料組成と技術のパターンが、年代測定により論証された中部旧石器時代の芸術活動のさまざまな段階についてさらなる詳細を提供できるのかどうか、調べられます。アルダレス洞窟の床と壁から収集された、天然の鉄分を多く含む着色物質も分析され、これら地質物質の化学的痕跡が、塗布に用いられた顔料の供給源であることと一致するのかどうか、検証されました。
●アルダレス洞窟
アルダレス洞窟は、スペイン南部となるアンダルシア(Andalucía)州のマラガ(Málaga)県の、アルダレス村の近くに位置します(図1)。アルダレス洞窟は長さが1577mで、上層坑道と下層坑道の2層の重なりが特徴です。アルダレス洞窟は、地震により以前には崩壊堆積物で塞がれていた入口が再度開いた後の1821年に発見されましたが、旧石器時代の洞窟壁画がアンリ・ブルイユ(Henri Breuil)により発見されたのは1918年でした。
ほとんどが上部旧石器時代に分類されている、1000点以上の図形表現が報告されてきました。その中には、具象的および非具象的両方の彫込みと絵があり、252区画に分類されています。ほとんどの抽象的な赤い絵は洞窟二次生成物の上に描かれ、奥ではなく入口近くに位置します。つまり、考古学的発掘により中部旧石器時代のネアンデルタール人による空間の広く同時代の使用が裏づけられた、洞窟部分で見つかっています。本論文で取り上げられる区画II.A.3は、下層坑道の「星の広間(Sala de las Estrellas)」の印象的な石筍丸天井に位置します(図2)。以下は本論文の図2です。
●区画II.A.3の微小標本
標本は、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩(粘土鉱物と雲母)と方解石、一部では石英と無定形炭素で構成されます。分析では、少量の硫酸塩とリン酸塩に由来するかもしれない、燐光物質と硫黄の痕跡も検出されました。これら微小標本の走査電子顕微鏡(SEM)観察は、鉱物起源を示唆します。それは、これらの中に生体内鉱質形成で通常見つかる粒子形態(たとえば、糸状体や球菌様形態や数珠玉構造や生物膜)を特徴とするものがないからです。微小標本における結晶の形状と大きさも、鉱物性質と一致します。より詳細な分析により、興味深い質感と組成の違いが明らかになります(図3)。以下は本論文の図3です。
幕5(P-ARD-06)と幕8(P-ARD-03およびP-ARD-04)の標本は、測微法から準測微法の板状の鉄分の豊富な鉱物と粘土の固く結合した凝集体で構成されていますが、幕6(P-ARD-05)では、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩粒子は、凝集体としてではなく、個々の粒子の形で表れます。幕9(P-ARD-02)の赤い染色は、幕5および8とは、粗い分離した雲母小板の存在および水和粘土鉱物がない点で異なります。幕6とは異なり、幕5および8と同様に、赤鉄鉱と粘土の粒子は凝集体の形で幕9に発生します。さらに幕6(P-ARD-05)は、他の標本では検出されない無定形炭素の存在を明らかにします。
●地質標本
顔料として用いられた可能性がある、鉄分の多い堆積物6種が、アルダレス洞窟で特定されました。これらは、緩いオーカー堆積物から密集した紫色の岩まで不均質な物質で構成されています。代表的な標本のSEM分析から、これらの物質が区画II.A.3の標本と類似性を共有していないことは明らかです。X線回折分析により、地質標本のうち2点(G-ARD-01およびG-ARD-11)のみが赤鉄鉱を含んでいる、と示されます。赤鉄鉱は、石筍の赤い染色の原因鉱物ですが、どちらもその区画の標本とは比較できません。標本G-ARD-01は測微法から準測微法の粒状で巨大で針状の鉄とマンガンの豊富な結晶、鉄の豊富な硫酸塩小球、カリウムの豊富な雲母で構成されますが、標本G-ARD-11は、粘土の葉状母岩に2µmの円盤状の鉄の豊富な結晶のかたまりで構成されます(ケイ素、カリウム、アルミニウム、マグネシウム、チタン、カルシウム、マグネシウム)。
●洞窟二次生成物標本
幕9の染色を覆う洞窟二次生成物層で実行された顕微鏡元素分析は、それがおもに低マグネシウム方解石で構成されている、と示します。おそらくはアルミニウムの豊富な水酸化物からの少量のアルミニウムも存在します。鉄もしくは粘土の鉱物は検出されませんでした
●考察
区画で収集された微小標本の分析は、肉眼による区画の密接な観察に基づいて提案されたように、染色は鉱物起源で、微生物活動の結果として解釈できない、と示唆します。染色は、河川の流れや土壌からの浸透や浸水や壁の風化など、洞窟で通常起きる自然の地質学的過程の結果としても解釈できません。洪水は洞窟の壁や天井さえ覆うかもしれませんが、ほとんどの蓄積は床で発生し、一般的には広範囲に及びます。アルダレス洞窟では、洪水により形成された堆積物の痕跡は、区画II.A.3の位置する空洞の床でも壁でも見えません。さらに、洪水により運ばれた粘土小板はSEMでは一般的に、壊れているか丸い端を示し、本論文の標本には当てはまりません。水滴による酸化鉄の堆積は、方解石の拡散した赤い染色を生成しますが、塗料として解釈される堆積物は、方解石の上および/もしくは方解石に覆われた異なる層の形態で発生します。
鉄と粘土の豊富な鉱物の存在が洞窟二次生成物と関連しているかもしれない、という仮説を除外すると、分析された方解石標本はどちらも含まず、水滴中に存在する鉄の豊富な粒子はいずれも、区画II.A.3の顔料で見られる緩い赤鉄鉱と粘土小板の形成につながらないでしょう。岩盤の風化は、保存状態良好な参加立つと粘土小板の薄い層を生成できる唯一の過程ですが、大きな空間に位置する石筍の真ん中にある小さな領域の排他的影響と一致せず、その壁では類似の堆積物は観察されません。さらに、形態の観点では、模様は、赤い物質の濃度がじょじょに減少することを特徴とする接触変成帯に囲まれた、色密度の高い中央領域により特徴づけられます。このパターンは、実験的に再現されたように、飛び散ることによる塗料の着色を示唆します。本論文の結果は、区画II.A.3が自然仮定の結果かもしれない、という推測と一致しません。
旧石器時代の装飾が施された洞窟で見つかったいくつかの赤い染色は、洞窟の壁に印をつける意図的な過程に起因するのではなく、偶発的な接触結果かもしれない、と提案されてきました。狭い通路では、オーカー(黄土)で着色された服を着ているか身体を彩色した訪問者が偶然に壁を触ることは、じっさいあり得ます。しかし、区画II.A.3の事例では、偶然の染色は除外できます。なぜならば、塗布された丸天井はひじょうに大きな空間の真ん中にあるからです。さらに、色の痕跡は、石筍の襞の突出領域および凹んだ領域の両方で見つかります。じっさい、この色が見えるこの襞の窪みの一部はひじょうに深く、腕の届かないところにさえあります。顔料付着が観察できる場所の一部に到達できる唯一の方法は、実験的に再現された技術により飛ばされた点滴および小滴としてです。
地質学的標本と考古学的標本との間の顕著な違いは、この研究で標本抽出された洞窟堆積物のどれも、区画II.A.3の塗布に用いられた顔料の供給源として用いられなかったことを示唆します。さらに、考古学的標本のラマンスペクトルにおける赤鉄鉱帯の強度と幅の実質的変化も、針鉄鉱の豊富な原材料が熱処理された可能性を示唆する特徴も、観察されませんでした。したがって、洞窟に自然に存在した針鉄鉱の豊富な物質が、区画II.A.3の塗料の生成のために熱処理された、という仮説の裏づけは存在しません。本論文の結果が強く支持するのは、旧石器時代の(複数の)芸術家が、洞窟外で見つかる可能性が高いまだ知られていない供給源から、地層で収集された鉄の豊富な塊を使用したことです。将来の研究では、石筍の塗装に用いられたオーカーが近隣で見つかるのか、より遠い供給源に由来するのか確認するには、局所的な鉄の豊富な層を調査する必要があります。
区画II.A.3の微小標本の組成で観察された違いには、さまざまな原因が考えられます。一人もしくは複数の芸術家による芸術的活動の単一事象を仮定すると、組成のわずかな違いは、多様な地質学的起源および異なる技術で製造された顔料粉末を用いての(たとえば、それらの人々が異なる文化的伝統に属していたか、さまざまな地域からアルダレス洞窟遺跡に旅をしてきたため)、壁面もしくは異なる人に適用された混合の不完全な均質化に起因するかもしれません。あるいは、そうした変化は、さまざまな壁面がさまざまな時期に塗られており、塗料の配合が微妙に異なっていたか、各時期に用いられた供給源が異なっていた、という事実に起因するかもしれません。
これらの選択肢は、利用可能な年代測定証拠に対して評価され得ます。幕5および8の模様は、それぞれ45900年以上前と65500年以上前なので、それらが65500年前頃以前のある時点で行なわれた単一の塗布事象を表している、という見解を除外できません。そうした仮説は、模様は両方の幕においてひじょうに類似した塗布で作られており、鉄の多い鉱物と粘土の細粒の凝集体で構成されている、という本論文の発見と一致します。幕6は、年代が48700~45300年前頃なので、異なる侵入を表しているに違いありません。幕6の顔料が幕8と異なる、という本論文の発見は、用いられた着色材の性質における経時的変化を示唆します。幕8の顔料は赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩の粘土の大きさの板状粒子で構成されていますが、そうした粒子は幕6の場合、凝集体を形成するのではなく、散乱しています。幕9の顔料は、粗いカリウムの豊富な雲母と関連する細粒の鉄の豊富な鉱物と粘土で構成されており、分離した雲母小板の存在と水和粘土鉱物の欠如のため、幕5・6・8で用いられた塗料とは異なります。
要約すると、年代測定の証拠は、少なくとも2回の侵入を示唆します。オッカムの剃刀に基づくと、組成の類似性は同じ塗布事象の付属を反映している可能性がより高く、非類似性の場合はその逆です。これは、組成が異なることに加えて、それ自体が実証するわけではないものの、異なる塗料の使用と一致するアルダレス洞窟標本が異なる粒径も特徴としているため、より当てはまります。したがって、両方の一連の証拠(年代測定と組成)を組み合わせると、本論文の標本は少なくとも2回の塗布事象を表している、と確認できます。さらに、真の回数はおそらく少なくとも3回で、あるいは4回の可能性も考えられます。塗布事象の回数をさらに正確にするには、より多くの年代測定の証拠の獲得を待たねばなりません。
塗布は繰り返し追加された結果なので、ある種の若返りや修復の対象となる芸術の一部なのかについて、疑問が生じます。画題の若返りは岩絵で見られると示されてきており、民族誌的研究は、塗り直しが伝統的な共同体間で一般的な慣行だと論証してきました。旧石器時代の洞窟芸術についても、意図的な修正および/もしくは修復が提案されてきており、スペインとレヴァントの岩絵伝統の遺跡群で遍在しているようで、儀式目的もしくは劣化した図の復元について、復元か変更か拡張されたと考えられる区画を特徴とします。その事例にはスペインのカステリョン(Castellón)県のヴァルトルタ・ガスッラ(Valltorta-Gassulla)地域のレミギア洞窟(Cova Remigia)が含まれ、全体的もしくは部分的塗り直しと新たな要素もしくは別の色の追加が記載されており、図画的で物語的な再流用が示唆されます。
カステリョン県のサルタドラ洞窟(Coves de la Saltadora)では、化学的に異なる顔料の検出は、1点の模様が塗り直されたものとの解釈につながりました。2色の組み合わせの明確な事例は、最近スペインのレトゥル(Letur)のバランコ・デ・セゴヴィア(Barranco de Segovia)で記録されており、黒色の上の赤色の使用は、元々の値の増大として解釈されました。画像の性質と同一性を修正した意図的な上塗りの他の事例は、アルバラシン(Albarracín)のセジャ・デ・ピエザッロディラ(Ceja de Piezarrodilla)、オボン(Obón)のチョポ洞窟(Cueva del Chopo)、フミーリャ(Jumilla)のカント・ブランコ(Canto Blanco)、トルモン(Tormón)のブラド・デ・ラス・オリヴァナス(Prado de las Olivanas)、アルバセテ(Albacete)のビエハ洞窟(Cueva de la Vieja)で見られます。
アルダレス洞窟の区画II.A.3の事例では、画像の修復が行なわれたかどうかの評価は、カルシウムとマグネシウムの付着物により分離された異なる顔料層の識別によって可能ですが、そうした微細層序研究は、塗布と画壁面の両方への顕著な損傷を伴い、この研究の重要な前提の一つにより排除されています。つまり、標本抽出の間に塗布への損傷を与えないようにすることです。しかし、そうした行動が結果に反映される可能性は低そうです。
民族誌的類推は古代の行動について直接的に推論するのに信頼できませんが、それでも、可能性の範囲を説明し、考古学的証拠も解釈を助けるのに役立ちます。岩絵修復の民族誌的事例が示すのは、この慣行が経時的に消えていく特徴(形態、細部、色の関連性)を抽象的もしくは具象的表現に適用するのによく用いられる、ということです。若返りは、個別で認識できる象徴として表現を特定する診断上の特徴の集団の関連する構成員による視覚的認識を保証し、一部の事例では、場所と人々との間の象徴的つながりの更新も意図しています。それは、絵(塗布)の修復により、意味のある場所と祖先のつながりを培い、その場所に集団を結びつける芸術を更新します。
区画II.A.3で塗料を塗るのに用いられた技術と、その結果としての模様は、個別の特徴の認識を可能としません。これは、その場所とのつながりを培うことが、特定の表現との関連づけではなく、石筍に跡をつける主因だったに違いない、と示唆します。画像自体が象徴的情報を有しており、芸術活動の焦点である場合、画像の修復は意味が分かりますが、アルダレス洞窟で見られるものは異なります。この場合、象徴的情報の担い手は区画それ自体ではなく、区画のある巨大な石筍の丸天井であるように見えます。換言すると、画布としての丸天井を扱うことは有用な省略表現ですが、この巨大な層は塗布を並べるのに用いられる便利な表面にすぎず、これらの塗布はどこで作られたかに関係なくそれ自体が象徴的情報の保管庫である、と考えるべきではありません。代わりに、丸天井は象徴的で、塗布はその象徴として存在するのであり、その逆ではない、と本論文は考えます。この文脈では、繰り返しの塗布は、その意味を維持するか、強化するか、修正するための、既存の画題の修復もしくは修正と類似していません。むしろ、その場所あるいは「画布」自体の象徴的価値の新たな主張を代わりに表しているに違いありません。
本論文はこの研究の結果に基づいて、区画II.A.3は単語の狭い意味での「芸術」、つまり、「美しいか、感情を表現するような、対象や画像や音楽などの制作」、あるいは「絵画や図画や彫刻制作の活動」ではないものの、空間の象徴的意味を永続させようと意図する図画行動の結果である、と仮定します。フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)の証拠は、中部旧石器時代のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、カルストの奥深くの場所で、洞窟二次生成物の意図的変更と複雑な配置の構築に用いたことを含む、象徴的活動に関わっていたことを示します(関連記事)。
アルダレス洞窟の証拠は、一部のネアンデルタール人共同体の象徴的体系に洞窟二次生成物が基本的役割を果たした、との見解を裏づけます。したがって、区画II.A.3で見られるような、巨大で印象的な丸天井への飛散赤色顔料を用いての模様の塗布は、アルダレス洞窟の他の事例でも存在する、長期の伝統に深く根差した発展と見なすことができます。したがって岩絵は、ほぼ同じ種類の象徴的行動を表す、マルトラビエソ(Maltravieso)洞窟やラパシエガ(La Pasiega)洞窟(関連記事)やエルカスティーヨ洞窟(関連記事)やゴーラム洞窟(Gorham's Cave)遺跡(関連記事)など、イベリア半島の他の洞窟遺跡群で見られる中部旧石器時代の手のステンシルや幾何学的痕跡とともに、ヨーロッパで場所に模様を残す形態として始まったかもしれません。
アルダレス洞窟との類似性を有するより多くの塗布が、将来イベリア半島で特定され、中部旧石器時代と年代測定されるだろう、と本論文は予測します。上部旧石器時代の洞窟芸術は技術的にも主題的にもより複雑ですが、標識や手のステンシルはその中で重要な役割を果たしています。アルダレス洞窟や他のイベリア半島の遺跡群で特定されたような塗布は、社会的複雑化と関連する新たな必要性が、より多様で革新的な技術的慣行に支えられた新規の象徴的伝統の出現を誘発した、長い過程の前段階を表しているかもしれません。
なお、本論文の刊行後に公表された研究では、フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類(Homo sapiens)の存在が報告されており(関連記事)、中部旧石器時代のヨーロッパの洞窟遺跡における象徴的表現については、ネアンデルタール人独自の所産である可能性とともに、現生人類からの影響、もしくはネアンデルタール人と現生人類の相互作用の結果である可能性も想定しておくべきだと思います。ただ、現時点での証拠からは、5万年以上前のヨーロッパの現生人類は、ヨーロッパから撤退したか、絶滅したか、ネアンデルタール人集団に吸収され、その遺伝的痕跡をヨーロッパのネアンデルタール人集団に全く或いは殆ど残さなかった、という可能性が高そうです。
参考文献:
Martí AP. et al.(2021): The symbolic role of the underground world among Middle Paleolithic Neanderthals. PNAS, 118, 33, e2021495118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2021495118
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