性別は連続体ではありません

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、表題の評論が公表されました。著者は昆虫の行動の研究者であるコリン・ライト(Colin Wright)氏ですが、現在は学界から離れているそうです。ライト氏については、「社会正義の活動家たち(social justice activists)」による進化学への攻撃に対する批判(関連記事)や、「人種」差別的な「科学的研究」への批判に対する批判(関連記事)で取り上げたことがあります。性別(sex)が連続体であるとの見解は、今や「wokeness」陣営では「常識」になった感があり、日本社会でも「進歩的で良心的な」知識層において常識になっているように思えますが、ライト氏は以前から、性別はあくまでも二元的(binary)だと主張していました。私はこの評論も含めて、ライト氏の見解に基本的に同意します。以下、この評論の日本語訳ですが、【】は私の補足です。補足がない場合、性別は「sex」を指します。訳語に迷った場合も【】で原語を示します。


 自身をトランス【trans、転換者】やノンバイナリー【nonbinary、男性にも女性にも分類されない性別認識】や性別不一致【gender-non-conforming】と呼ぶ人が増えるにつれて、生物学的実体としての男性と女性に関する我々の共通理解は時代遅れである、という語りを活動家たちは断固として推し進めてきました。男性と女性の代わりに、「男性らしさ」と「女性らしさ」の程度の違いしかない、と主張する人もいます。このため、二元的な性別区分を用いて空間もしくはスポーツを分離することは論理的ではありません。それは、もし【二元的な性別区分の】明確な線を引けないならば、「男性」と称される人が本当は女性ではないと誰が言えるのか、ということだからです。多くの人は、我々がどのような性別であるのか、まるで個人的選択であるかのように人々に自身で決めさせるべきである、とさえ主張します。

 性別は連続体であるであるという見解は、もはや大学の人文学科や密閉されたインターネット界隈【communities】に限定されていません。一部はひじょうに共感的なメディア環境のおかげで、それ【性別は連続体であるであるという見解】は今やかなり主流文化に食い込んでいます。『Nature』のような権威ある科学誌でさえ、「二つの性別という考え方は単純です」、「生物学者たちは今や、【性別二元論】より広い連続体があると考えている」、と主張する著者に誌面を与えています。別の『Nature』誌の論説では、解剖学と遺伝学組み合わせの使用により個人の性別を分類する試みは「科学的根拠がない」と主張されています。最近の『性別の連続体:男性と女性と間性【intersex】の科学』では、全編を通してこの立場が主張されています。それを刊行したカナダ学術出版社は、「この変革的入門書は我々の現在の生物学的性別の理解を完全に破壊します」と賞賛しています。

 2020年2月、私【コリン・ライト氏】はこの問題について、「性別の危険な否定」と題する署名入りの共著記事をウォール・ストリート・ジャーナル【以下、WSJと省略】に掲載しました。私は共著者の発生生物学者であるエマ・ヒルトン【Emma Hilton】氏とともに、性別連続体の疑似科学が子供や女性や同性愛男性や同性愛女性を含む弱者集団に付け込むかもしれない害悪を強調しました。ヒルトン博士と私は新聞の署名入り記事という形式に制限されたので、生物学的性別の現実の科学と性別連続体空論【ideology】を詳細に調べる紙面は不充分でした。それがこの小論の主題です。

 性別は「連続体」上に位置する非二元的属性である、という主張の擁護で一般的に提供される、二つの主要な議論があります。その一方は、間性状態の存在、つまり中間的もしくは不確定な性別特徴の人々に基づいています。この議論は、男女間のどこかに位置するように燃える性的な解剖学的構造を有する個体がいるならば、性別は二元的ではあり得ない、と主張します。この議論は、間性状態を「典型的な女性」から「典型的な男性」の範囲にわたる連続的な軸に沿って記入する図で頻繁に説明されます。それは、2017年の『Scientific American』誌の記事「連続体としての性別視覚化」から広く再現された図です。

 性別連続体モデルの擁護で一般的に提供されるもう一方の議論は、第二次性器官および第二次性徴に基づいています。第二次性器官は、第一次性器官である生殖腺を除いた、我々の生殖解剖学的組織の全ての要素を包含しています。一方、第二次性徴は、女性では乳房の発達や腰が広くなること、男性では顔に毛が生えること、声が低くなることや、より筋肉質になること、肩幅が広くなることなど、思春期に分化する性別の関連する解剖学的組織です。これらの第二次性徴の分布は男女間で重複する可能性があるので、性別を連続体生物学的とみなすべきだ、と主張されています。

 生物学的性別についてのこの考え方は今では、以下に示すジェンダーブレッド【ジンジャーブレッドという生姜を用いた洋菓子に因んだ造語】のような漫画の図解を用いて、学校で子供たちに頻繁に示されています。「生物学的性別」と分類された紫色の枠では、あなたは「男性【male】」と「女性【female】」という用語が使われていないことに気づくでしょう。代わりに、「男性らしさ【male-ness】」と「女性らしさ【female-ness】」という連続的変数として性別の考え方を示す用語が選ばれています。個人の男性らしさと女性らしさの程度を定義するものとして掲載されている特徴の多くは、第二次性器官と第二次性徴です。つまり、生殖器の形態や体型や声の高さや体毛などです。この図表では、第一次性器官(生殖腺、つまり女性の卵巣と男性の清掃)、もしくは女性の月経や男性の射精など性別と関連する典型的機能の言及が一貫して欠けています。卵子や精子(それぞれ卵巣と精巣で作られます)についても言及されていません。
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 これらの議論の両方、つまり間性状態からの議論と第二次性徴および第二次性器官次性からの議論は、生物が生成する配偶子(生殖細胞)の異なる種類と関連する、生物学的性別の性質についての根本的誤解に起因します。広い概念として、男性は小さな配偶子(精子)を、女性は大きな配偶子(卵子)を生成する性です。中間的な配偶子はなく、それが性別の連続体がない理由です。ヒトの生物学的性別は二元的体系です。

 しかし、ある種内の個体の性別は、個体がじっさいに特定の配偶子をある瞬間に作れるかどうかに基づいていない、と注意することが重要です。思春期前の男性は精子を作りませんし、男女の不妊症の成人は、さまざまな不妊症のために配偶子を作りません。しかし、これらの個体が識別可能な性別を有していない、と言うのは間違いです。それは、個体の生物学的性別が、過去や現在や将来の機能性に関わらず、精子もしくは卵子の生成のために発達した、生殖解剖学的組織(つまり、卵巣もしくは精巣)の二つの異なる種類のうち一つに対応するからです。ヒトでは、トランスジェンダーといわゆる「ノンバイナリー」も例外ではなく、この生殖解剖学的組織は99.98%以上、明確な男性か女性です。

 個体の性別を決定する基準としての卵巣と精巣との間の二元的区別は、恣意的でもヒトに特有でもありません。卵巣と精巣の進化的機能は、それぞれ卵子と精子を作ることで、有性生殖を行なうにはそれらの結合が必要です。もしその結合が起きなければ、ヒトは存在しません。この知識は1660年代には最先端の科学だったかもしれませんが、我々が2020年に突然それを論争として扱わねばならないのは、奇妙なことです。

 上述の99.98%という数場は、間性である約0.02%を含んでいるため、100%に達しません(実際の数字は約0.018%と推定されています)。しかし、間性の状態が性別連続体モデルを裏づけるとの主張は、「二つの性別しかない」(真)という命題を、「全てのヒトは男性もしくは女性として明確に分類できる」(偽)という命題と混合しています。性別が二つしかないことは、性別が曖昧ではない、と意味しているわけではありません。しかし、間性の個体は、性別が連続体であることを論証していません。一部の人の性別が曖昧かもしれないからといって、全てのヒトにとって性別が曖昧とは(そして、一部の評論家が推定するように、恣意的である)限りません。

 たとえるならば、我々は二者択一の決定を無作為化するために硬貨を放り投げますが、それは硬貨が表と裏の二面しかないからです。しかし、硬貨には縁もあり、6000回5セント硬貨で投げると1回(0.0166%)は縁で立つでしょう。これは、間性の状態で生まれてくる確率とほぼ同じです。硬貨を放り投げるとほぼ全て表か裏となり、それら表と裏は程度や混ざり具合に差はありません。それは、表と裏が質的に異なり、相互に排他的な結果だからです。縁で立つ事例の存在により、この事実は変わりません。表と裏は、縁の存在にも関わらず、別々の結果のままです。

 同様に、ヒトにおける性別発達の結果は、ほぼ常に明確に男性か女性です。卵巣と精巣、したがって女性と男性の発達も、大多数のヒトにとって相互に排他的であり、混ざり具合もしくは程度の差がない、質的に異なる結果です。男性と女性は、間性状態の存在にも関わらず、別々の結果のままです。

 女性スポーツや他の文脈にトランス(転換者)女性を含める主張をするさいに、男女間の線を曖昧にする試みにおいて、間性状態の存在がよく持ち出されます。しかし、トランスジェンダー主義は、間性であることとは全く関係がありません。トランスもしくは非二元的自己認識を主張する人々の大半にとって、その性別は問題ではありません。自己認識ではなく第一次性器官が、そのヒトの性別を決定します。

 第二次性器官と第二次性からの議論に関して、主要な欠陥は、そうした議論が原因と結果を混同していることです。第二次性徴は思春期に分化する解剖学的構造であることを、思い出してください。女性では、これらは(とりわけ)乳房の発達、腰の幅が広くなること、腰や尻に脂肪がつきやすい傾向を含みます。男性では、第二次性徴は、より低い声、平均身長が高くなること、顔面の髭、肩幅が広くなること、筋肉が増えること、脂肪が胴回りにつきやすくなるとことを含みます。しかし、これらの第二次性徴は、見た目には分かりやすく、男女についてほとんどの素人が考えるさいに切り離せないやり方ですが、実際には個人の生物学的性別を定義するわけではありません。むしろ、これらの特徴は通常、思春期に生成されるホルモン環境の違いにより、これらの性別の結果として発達します。

 第二次性徴は異なる方法で男女の進化的適合に寄与するので、男女の異なる発達の軌跡は、それ自身が自然選択の何百万年もの産物です。より狭い腰幅の女性は大きな頭の子供を産むのが難しかったので、より大きな腰幅の女性が進化的に有利でした。これは男性には関係ないものの、その身体が異なって見える傾向の一因です。しかし、それは、個人の腰もしくは顎髭や胸など第二次性徴のどれかがその生物学的性別を定義する、と意味するわけではありません。これらの特徴は、性別特有の選択圧によって進化してきましたが、個人の生物学的性別の定義のさいにはまったく関係がありません。

 そこで、もう一つ類例を挙げてみましょう。バイク乗りは単車にのりますが、自転車乗りは自転車に乗ります。これら二つの乗り物には多くの共通点(二つの車輪やサドルや輻など)がありますが、少なくとも一つの基本的な点で異なっています。単車はエンジンと燃料を動力源としますが、自転車はペダルを踏むことで動力を得ています。誰かがバイク乗りか自転車乗りなのかは、単車とバイクのどちらに乗るかという二元的基準に完全に基づきます。これがバイク乗りと自転車乗りを定義する第一次的特徴です。しかし、バイク乗りおよび自転車乗りと関連する多くの第二次的特徴もあります。たとえば、バイク乗りは革ジャンやジーンズやバンダナを着用する傾向があります。自転車乗りは肌に密着したスパンデックスを着用する傾向があります。バイク乗りは、頭全体を覆い顔面遮蔽物を含むヘルメットをかぶります。自転車乗りは通常、頭頂部のみを覆う計量のヘルメットをかぶります。

 バイク乗りと自転車乗りの第二次的特徴の多くは、恣意的もしくは偶然の一致ではありません。男女の第二次性徴のように、我々はバイク乗りと自転車乗りの第二次的特徴の有用性をその第一次的特徴に対応づけることができます。バイク乗りは頑丈な服を着ますが、それはより速く動くためで、事故の場合や風速冷却を軽減するため保護的な衣服が必要です。一方、自転車乗りは、自転車の重さに加えて自分の全体重でペダルをこぐ大きな身体労力を用いており、それはより軽くて通気性があり、風を通さない衣服と保護具が必要です。自転車乗りの衝突速度が【単車より】遅いことを考えると、防護用具の軽量化を選ぶトレードオフ【交換】には価値があります。

 しかし、スパンデックス素材のスーツを着てより軽いヘルメットをかぶる単車に乗る個人は、自転車乗りと一般的により関連する第二次的特徴を共有しているからといって、自転車乗りにはなりません(あるいは、バイク乗りにならなくなるわけではありません)。また、ジーンズや革ジャンを着用する自転車に乗る個人は、バイク乗りにより典型的な第二次的特徴を共有することにより、バイク乗りになるわけではありません(あるいは、自転車乗りにならなくなるわけではありません)。これらの第二次的特徴がバイク乗りと自転車乗りを定義しないのと同様に、第二次性徴が男性と女性を定義するわけではありません。

 生物学は複雑なので、人々は図表や図面に容易に揺らぐ可能性があり、とくに、性別は二元的ではなく連続体であるという、推定されるリベラルな概念など、とにかく信じようとしたいことを証明しようとする場合はそうです。しかし、連続体は量的な軸を意味し、これを真に受けると、厄介な結論につながります。とくに人気のある図表描写は性別を二峰性として示します。つまり、「男性らしさ」と「女性らしさ」を表す二つの最大値があり、その周囲にほとんどのヒトがまとまる傾向にある、というわけです。Twitter使用者@ScienceVet2のウイルス性の呟きは、今では17000以上のリツイートがあり【2021年2月2日時点、2022年6月9日時点では18000のリツイート】、以下のような図を用いて、二峰性の性別連続体モデルを伝えています。
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 この種の表現が好まれる理由はお分かりでしょう。それは、ほとんどのヒトが男性もしくは女性の類型論の周辺に集まる、という我々の直感的感覚と一致しますが、これら二つの区分の間には広く居住に適した連続体がある、という思いつきも保存されます。おそらく、さまざまな測定を行ない、我々が連続体に沿ってどこに属するのか、正確に判断できます。

 繰り返すと、これは全て、理論的にはひじょうに進歩的に聞こえます。しかし、その結果はじっさいには退行的です。それは、性別連続体の熱心な主張者が訴えるが男性らしさと女性らしさの兆候は常に、我々の祖父母が認識していただろう、性差別主義者の理想や固定観念に基づいているからです。

 以下の修正図において、男性Aは女性B「よりも」男性的でしょうか?女性Dは女性C「よりも」女性的でしょうか?何十年もの間、この種の論理は侮辱的で有害であり、より男性的な特徴のある少女は、よりありふれた女性的体格の友人とお湯滋養に少女である、と我々は適切に子供たちに適切に教えました。この図のX軸が生殖器の形態もしくは第二次性徴か第二次性行動の混合物であろうとなかろうと、その含意は、髭が濃く、声が低く、陰茎が大きく、より多いテストステロンの背が高くて攻撃的な男性、逆の描写に相当するおとなしい性格の背が低い男性「よりも」男性的である、というものです。同様に、乳房がより大きく、より「女性的な」胴のくびれと腰の比率で、体毛が少ない女性は、乳房が小さく、曲線が緩床で、毛深い女性「よりも」女性的とみなされるでしょう。
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 この性別連続体の論理がいじめっ子の論理に酷似していると思うなら、その通りです。次のシナリオを想像してください。16歳のジェームズはひじょうに女性らしい少年です。彼はその女性的な外見と仕草のため、高校で容赦なく虐められています。彼の同級生は、「何、お前は少女なのか?」とからかいます。彼の先生はこれを聞いて、彼の性別連続体図表を調べ、クラスに「多分」と言います。

 この概念のもう一つの心配な結果は、間性の乳児への外科的介入(間性の生殖器切除と呼ばれることもあります)が疑似科学的な性別連続体に沿って個人の実際の位置を変えるかもしれない、ということです。その場合に親は、自身の子供を「理想的に(心の中で)」より男性もしくは女性にするために、乳児の真の(生殖腺の)生物学的性別とは時として一致せずに、他の「矯正的」外科手術を選択することで、より正当化されると感じるかもしれません。公平を期すために、ほとんどの性別連続体支持者は、間性の乳児への外科的介入を非難しますが(そして当然のことながら私見では)、支持者たちの教義がそうした実践をどのように促進するのか、という可能性については考慮していません。

 個人の性別は最終的に決定できない、という性別連続体疑似科学の見込みは、すでにその自己認識とつながる問題に取り組んでいる人々にとって、自然な魅力を有しています。我々が性別のような基本的なものを制御できるかもしれない、と想像することは力になります。性別連続体の支持者であるアインズワース・クレア【Claire Ainsworth】博士が著者である、『Nature』誌に掲載された2015年の記事「性別の再定義」で、最終段落は次のように書かれています【日本語訳もあります】。

 「あらゆる他の媒介変数をしのぐ一つの生物学的媒介変数はないので、結局のところ、ジェンダーの自己認識は最も合理的な媒介変数であるように見える、と私は思います」とヴィレン氏は述べています。換言すると、誰かが男性なのか女性なのか知りたいならば、ただ尋ねるのが最善かもしれません。

 このエリック・ヴィレン【Eric Vilain】博士は、ロサンゼルスのカリフォルニア大学のジェンダーに基づく生物学センターの臨床医であり所長で、生物学的性別は「一つの生物学的媒介変数」(真ではありません)に減らせないので、性別分類を完全に破棄し、個人の完全に主観的なジェンダー自己認識を支持する、と主張しています。これは不可解な結論です。それは、性別連続体モデルが正しいとしても、個人が位置する連続体に沿って選択できることにはならないからです。さらに、ヴィレン氏の言葉のクレア氏の解釈では、性別は連続体であるという主張から、性別は恣意的で無意味であるというずっと極端な主張までの、それほど微妙な変化が見えません。この理解によると、個人は単にそのように述べることにより、あたかも錬金術のように、文字通り自身の生物学を新たに認識するかもしれません。ヒトが主張するなんと驚くべき力でしょうか。ただ、それが実際に存在した場合のみですが。

 一部のトランス権利活動家は、私【コリン・ライト氏】のような人々が、賭け金がひじょうに少ないように見える問題にそれほど固執しているのはなぜなのか、と尋ねてきました。しかし、賭け金は少なくありません。生物学的性別の概念を、男女間の違いが充分に明らかである運動競技の分野で覆すことができれば、他の全ての領域での性別連続体疑似科学を押し戻すための戦いは、男性の女性刑務所や強姦危機センターへの収監から、学童の性別転換外科手術の促進まで、失われることでしょう。トーマス・サウエル【Thomas Sowell】氏は著書『無限の正義』で、「一般的な理論と手に負えない現実との間には、社会が生き残れるほどの相違しかありません。しかし平等の理論は、未開“社会”よりも道徳的に優れているという性急な感覚に基礎を提供するさい、再検討されるか、初めて検討される可能性は低そうです」と簡潔に述べています。

 性別連続体モデルの支持者は、これらの理論が最初に展開された時、間違いなく良い意味を持っていました。結局のところ、我々の自己概念と理解の変化する形態の全てを検証したヒト生物学の説明に部分的ではないでしょうか?しかし、時が経つにつれて、性別連続体モデルの支持者はヒトの性質を曲解し、弱い個人に害を及ぼす、生物学の誤った理論を生み出した、と明らかになりました。現実の歪曲により平等と正義を達成しようとすると、不平等と不公正はけっして排除されず、移転されるだけです。

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