熱帯林の人類史
熱帯林の人類史に関する総説(Scerri et al., 2022)が公表されました。
●ヒトの深い過去の辺境としての熱帯林
開けた草原とサバンナがヒトおよびその祖先の生態学的「発祥地」だった、との認識は、野外調査の地理的文脈、および初期人類の進化と拡散と文化的発展に関する支配的な物語の両方を形成してきました。対照的に、化石の保存が不充分な傾向にある熱帯林は、ヒトの影響を受けなかった比較的原始の環境、つまり先史時代の大半を通じてヒトにとって不利なように思われる生息地として提示されてきました。じっさい熱帯林はしばしば、アフリカにおいてヒトが「逃れた」原始の環境として組み立てられ、現代人の密接な近縁である(非ヒト)大型類人猿が生息してきました。
これらの見解は、世界のヒト先史時代および古環境の構築に多大な偏見をもたらすことにより、アフリカおよび出アフリカ後のヒト進化の物語に大きな影響を与えてきました。そうした偏見が意味してきたのは、古人類学的記録は基本的に狭い一連の生息地、とくに沿岸と開けた草原環境のヒトの歴史であり、そうした場所が他を犠牲にしてでも調査する価値のある唯一の領域である、という循環的議論を促進してきた、ということです。これらの環境と生息地は適応的核心の地位にまで高められ、「サバンナ回廊」もしくは沿岸「高速路」と退避地(関連記事)は、現生人類(Homo sapiens)の文化的開花と拡散に重要とみなされています。
ホモ属種はアフリカから拡大するにつれて、アジア南部および南東部全域と太平洋、現生人類の事例では最終的に熱帯アメリカ大陸で、熱帯林生物群系と遭遇して関わりました(図1)。広大で均質な緑の天蓋との一般的認識にも関わらず、これらの地域の熱帯林は信じられないほど多様な一連の生態系を構成します。湿潤で低地で常緑の熱帯雨林はこの生息地の典型的な現れとみなされることが多いものの、生態学者は、地球上に存在する多種多様な熱帯林に長く注目してきました。年間乾季の短い半常緑林、山地および亜高山帯林、閉鎖天蓋乾燥林、低湿地林はすべて、人類集団に一連の課題と機会を提示する、異なる特徴と構造と種組成を有しています。
多くの状況で、熱帯林は低地サバンナもしくは山地草原など開けた生態系のある斑状の景観を形成します。さらに、熱帯林は比較的変わらなかった、との仮定にも関わらず、降水量と気温と二酸化炭素濃度の過去の変動が、中新世と鮮新世と更新世と完新世を通じて、熱帯のさまざまな範囲の森林形態と範囲に影響を及ぼしてきた、という充分な証拠があります。人類、とくに現生人類のこれらの森林への到来は、火の動態や種の構成および構造にもさらなる変化をもたらしたかもしれません。
したがって熱帯林は、中央および南アメリカ大陸とアフリカ西部および中央部とインド西部とアジア南東部とオセアニアにわたる、北緯23度5分(北回帰線)と南緯23度5分(南回帰線)との間の環境として定義できますが、均一には程遠く、オーストラリアと中国の場合、局所的な土壌および水文状況が、過去にもそうであったように、天文学的に定義された熱帯を越えてそれた同様の生物群系をもたらしました。一部の著者は、霜害の危険性が存在せず、種の多様性急増を可能とする森林生物群系として定義される、メガサーマル(megathermal、熱帯に近い意味)森林に言及しています。始新世のような地球史の温暖期において、そうしたメガサーマル森林(機能的に熱帯林)はカナダとヨーロッパ北部の緯度に広がりました。以下は本論文の図1です。
アフリカの熱帯林生息地は、人類が生息していなかったどころか、人類の祖先にとって不可欠だったようで、とくにホモ・エレクトス(Homo erectus)は、アジア南東部に120万年前頃に到達し、その頃には熱帯林が広がっていた、と主張されてきましたが、議論もあります(関連記事)。これらの環境は、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)などの種で証明されているように(関連記事)、進化の局所的軌跡の背景の少なくとも一部を形成しました。
しかしホモ属史において、熱帯林に最も集中的に生息し、それを利用し続けたのは現生人類でした。長年、これはヒトの物語において比較的最近の章と考えられていました。熱帯林は単純に、あまりにも不適と考えられてきました。この見解では、熱帯雨林の密集した植生と潜在性動物相と疎らに分布する炭水化物および脂肪により、これらの生態系は洗練された技術や外部支援や交換体系に依存することなしには、ヒトにとって資源が不足しすぎていました。
これらの見解は、密林の広範な地域から野外調査に焦点を当てることにより、とくにアフリカの古人類学的研究で顕著に形成されてきました。じっさい、生態学および考古学両方で、アフリカの熱帯林は世界で最も調査されていない熱帯林のままです。人類学者とヒト生態学者と考古学者は、熱帯雨林を含めて熱帯林で狩猟採集民は恒久的に暮らせるし、そうしている、と繰り返し述べてきましたが、アフリカにおける地質学的年代の考古学と古人類学の議論では、しばしば無視され続けています。
代わりに、アジアにおける最近の研究では、熱帯林のヒトの利用と居住を更新世へと確実にさかのぼらせることにより、この分野の研究が一変してきました。スマトラ島の研究では、73000年前頃の熱帯雨林におけるヒトの存在の証拠が見つかりました(関連記事)。ボルネオ島では、有毒植物の処理、森林端部の変更の可能性、森林樹上動物の狩猟を含む一連の行動が、45000年前頃までさかのぼります。スリランカでは一見同時に、45000年前頃の「専門家」の熱帯林適応がサルの狩猟を含んでおり(関連記事)、同位体地質化学は、季節的な野営地ではなく通年の食生依存を論証します(関連記事)。
これらの発見は、森林資源の集中的利用がヒトの過去において重要な遺物だったことを確証します。これらの発見はそれだけではなく、農耕開始のずっと前に広い生態学的範囲にわたって繰り返し「専門家」の生態的地位拡大を行なった、現生人類の新しく独特な生態学的適応性を確証しているようです(関連記事)。同様に南アメリカ大陸では、ヒトは到達後すぐの14000~12000年前頃に、熱帯低地と山地森林環境に居住したようです。これは、川岸と低地および山地森林地帯のより乾燥した周辺沿いで最初に起きたようです。しかし、数千年以内に、ヒトの居住はおもに河川網に沿ってアマゾン森林地帯へとより深く押し込まれましたが、考古学的証拠はそうした行きやすい遺跡に偏っているかもしれません。ヒトの居住様式は、狩猟と採集から、マニオク(キャッサバ)やカボチャなど地元起源の栽培化に依存するか、トウモロコシなど中央アメリカ大陸から輸入した農耕体系にまで及びました。
しかし、こうした研究が増えているにも関わらず、世界の熱帯地域における深いヒトの過去について、多くの大きな問題が残っています。人類はさまざまな熱帯環境にいつ最初に移住し、これは進化的軌跡にどのように影響を与えましたか?多様な熱帯環境は、過去の人口構造と現生人類の出現をどのように駆動しましたか?最後に、いつどのようにヒトは熱帯林に大きく影響を及ぼし始めましたか?総説的な本論文も含まれるこの1849号は、世界の熱帯地域からのこれらの問題を調べる、一連の最先端の論文をまとめています。これらの論文は、現生人類の発祥地であるアフリカから始まり、こうした生態系が何千年にもわたってヒトの媒介により形成されてきたことを示します。この1849号への寄稿は、地質考古学から同位体分析、新たな年代測定計画から古生態学まで、多様でしばしば新規の方法論的適用が、熱帯のヒトの歴史のより豊かな全体像をともに提供しつつあることも浮き彫りにします。
●アフリカの熱帯林
アフリカの熱帯林は、現生人類とその人類の祖先が最初に遭遇したものでした。アフリカの森林は特定の構造的および植物の特徴を有しており、その中には動物の異常に高い生物量が含まれており、それはヒトにとって食資源として機能する可能性があります。たとえばアフリカの湿潤森林の多くの地域は、熱帯雨林圏の端に位置する比較的少ない降雨量により支えられています。それが意味するのは、降水量の小さな変化でさえ劇的な森林断片化を起こすかもしれない、ということです。
更新世と完新世を通じて、多くのアフリカの森林が気候条件の変動につれて拡大と縮小の期間を経たようで、しばしば混合した森林と草原の斑状の環境が、アフリカの熱帯林生物群系の多くの標準的状態でした。更新世の一般的な氷期条件と低湿度と二酸化炭素条件は、アフリカの森林の全体的な範囲が現在よりも一般的に小さかったことを意味します。アフリカにおける樹木種多様性もアマゾン地域とアジア南東部の森林より低かったものの、より高く大きな樹木が意味するのは、アフリカの森林が、たとえばアマゾン地域の森林よりも多くの炭素を貯蔵していた、ということです。そうした斑状の景観は、更新世を通じて現在の森林地帯のほとんどに広がっており、人類にとって独特で重要な機会を提供したかもしれません。
限定的な現在の証拠から、ヒトとその祖先は長期にわたって移行帯を利用してきたかもしれない、と示唆されます。アフリカ中央部の人類の歯から、少なくともいくつかの初期人口集団は250万年前頃に森林の端の混合環境で生息していた、と示唆されます。その後、現生人類の出現に続いて、ケニアのパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)遺跡からは、ヒトが象徴的物質とさまざまな技術的道具を製作しながら、混合熱帯森林・草原環境を78000年前頃に利用していた、と示されます(関連記事)。
アフリカ内陸部が更新世人口集団の大半を受け入れていたならば、多様な移行帯環境間で柔軟に変化することを要求する環境は、現生人類の生態学的現代性にとっての発祥地を形成したかもしれません。この新たな見解では、環境そのものよりも、さまざまな資源への依存が人口集団を引き離す原動力だったかもしれません(関連記事)。これらの過程は現生人類の根源にあるかもしれず、現生人類はアフリカ大陸の大半で細分化された人口集団において進化した、と今では考えられています(関連記事)。これはいつ始まり、人類はいつ熱帯林居住を始めたのでしょうか?
最近の研究では、以前の想定より長い歴史が示唆されています。具体的には、コンゴ盆地における人類の存在の最古の証拠が報告されており、その下限年代は85万~65万年前頃です。1987年に発見されたエラルメコラ(Elarmékora)は、ガボンのロペ国立公園(Lopé National Park)内のオゴウェ川(Ogooué River)の上に位置する高台です。その研究は、おもに堆積土砂内に埋まっていた礫石器で見つかった、わずかな石器群の最初の絶対年代を提示しています。宇宙線生成核種評価は、未診断の前期石器時代遺物群について、73万~62万年前頃の下限年代を示唆します。この年代は、アフリカ中央部西方における人類の存在の最古級の記録の一つで、この地域における人類の長い遺産を確証します。これらの結果から、熱帯林における人類の存在は農耕の到来に続く、との長きにわたった仮定は却下されるべきだと示唆しており、アフリカ内外のヒトの拡散の地理的評価は見直されます。
アフリカの熱帯林地域における長期の人類の存在のこの魅力的な全体像は、100万年の動的な気候および環境変化の背景の中にあります。最近の研究では、長期の陸と海の記録から、更新世と完新世の植生評価についての情報が統合され、人類にとっての植生資源の位置が経時的に地理的にどのように変化したのか、示されています。とくに興味深いのは、コンゴ盆地における人類の存在は一般的に湿潤条件と一致するので、断片化ではなく、森林拡大の時期の可能性がある、という事実です。さらに、アフリカの過去100万年間の水文気候における顕著な変化は、森林地帯の東西の相互に湿潤と乾燥の状態をもたらし、現生人類の最初の化石がアフリカの他地域で提案された時(関連記事)のこととなります。現生人類と関連するその後の期間には、植生変化はさまざまな地域で明らかに非同時的で、多くの地域における混合資源獲得の状態をもたらし、適応性を必要とした可能性があります。
最近の研究では、現生人類と関連する最初で最長の技術的目録である中期石器時代(MSA)の更新世の物質文化を通じて、混合資源獲得の問題が具体的に追及されています。より具体的には、ザンビアのカランボ滝(Kalambo Falls)の遺跡において、アフリカの赤道地帯森林で長く関連づけられてきた石器技術複合である(関連記事)ルペンバン(Lupemban)が注目されています。ルペンバンの年代は27万~17万年前頃です。現在、カランボの滝はミオンボ(Miombo)林帯が優先しており、もう一方のルペンバンの重要な遺跡であるツイン・リバーズ(Twin Rivers)は、開けた林と低草原地帯が優占します。開けた環境と閉鎖環境の頻繁な混在を考えて最近の研究では、現生人類は森林資源への部分的依存を示唆する移行帯地域内で柔軟な戦略を採用しつつあったかもしれない、と主張されています。最近の研究では、ルペンバンの披針形尖頭器は、独特なヒトの生態的地位を強調する可能性がある斑状の植生への適応だったかもしれない、と結論づけられています。
これらの結果は、熱帯アフリカにおける退避地の利用可能性に関する最近の研究を補完します。退避地は、気候変化のさまざまな周期を通じて、安定して居住可能だった場所です(関連記事)。現生人類が複数の氷期と間氷期の周期を経て明確に存続した唯一の大陸として、アフリカは古典的な退避地モデルが定式化され検証され得る重要な地域です。最近の研究では、民族誌研究に基づくヒトの生息に関する気候閾値が、降水量と生物群系分布についての高解像度のモデルデータセットと組み合わされて適用され、後期更新世(13万~1万年前頃)にわたる持続的な退避地が特定されました。その結果、驚くべきことに、控えめな推定値を用いても、退避地は後期更新世において稀な減少である可能性は低い、と分かりました。最も安定した地域の一つはセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)地域で、MSA石器群が顕著に持続しました(関連記事)。安定した移行帯地域の広範な分布も浮き彫りになり、長期のヒトの生息にとって重要だったかもしれません。
さらに後の時代については、最近の別の研究が、後期更新世から完新世におけるアフリカ西部および中央部の森林における過去の気候変動を統合し、経時的なこの地域におけるヒト共同体の発展と安定性への気候の相互作用の理解を試みました。その研究は、古気候と植生史を組み合わせて、アフリカ西部および中央部の森林地域における初期の人類の祖先の発展と生存に関する気候変動の重要性を強調します。大きな気候変動に対応して、アフリカ西部および中央部のサバンナは森林を犠牲に拡大しましたが、厳密に「森林」もしくは「サバンナ」のまとまりには移行しませんでした。むしろ、環境圧力の期間においてさえ、森林はさまざまな植生の種類とも生物多様性移行帯を有していました。これらのデータは、不均一で回復力のある生態系を示唆します。技術的変更や生計戦略の変化といった形で示されたヒトの行動は、気候および植生変化とは無関係に変わり、気候はヒトの行動もしくは共同体安定の主要な推進力ではなかった、と示唆されます。
最近の研究はコンゴ盆地の移住に関する遺伝学と古気候学と歴史言語学のデータを統合し、これを用いて、モタバ(Motaba)川沿いに暮らすバヤカ(Bayaka)狩猟採集民でコンゴ共和国北部における民族誌的研究を構築します。その研究の主張は、「関係のある富」の養成、つまり資源交換と相互扶助を可能とする強い社会的つながりの形成が、熱帯林環境での生存に重要である、というものです。これには現在、さまざまな森林採食民集団間のそうした富の養成や、農耕民との交易関係が含まれます。その研究は、この交易を農耕民への採食民の依存として割り当てるのは間違いである、と主張します。バヤカ人は農耕民から学んだ知識を用いて作られた森林菜園や、ヤマノイモ属など野生食料の成長のための空間確保のため、季節的に移動します。バヤカ人は季節ごとに移動性が高く、親が生まれた場所とその成人した子供が住んでいる場所との間の距離は、最大で82kmほどになります。じっさい、最近の研究では、遊動性は、生計革新や森の精霊の踊りなど、コンゴ盆地全体の知識の流れの中心である、と主張します。これは、この地域では成功して暮らすには高い遊動性が常に要求される、という以前の研究を補完します。同時に最近の研究では、採食民人口集団の東西の枝が、おそらくは農耕開始のずっと前の森林断片化に続く3万~2万年前頃に分岐した、とする遺伝学的研究が再調査されました。これは、さまざまな生態系間の重大な断絶が、混合資源もしくは特定の生息地のいずれかに適応した人口集団にとって、過去の主要な境界だった可能性を示唆します。
●アジア南東部と太平洋の森林
アフリカとアジア南部および東部の森林間には連続的な熱帯森林帯が存在しないので(図1)、熱帯の他地域への移動は、さまざまな熱帯林生態系への繰り返しの適応が含まれていたに違いありません。じっさい、アフリカを越えて拡大するヒト集団は、熱帯地帯に再度配入る前に、インドのタール砂漠へと広がるより乾燥した景観に遭遇したでしょう。いったん遭遇すると、アジアの熱帯林はアフリカとは完全に異なる一連の植物および動物の特徴を示しました。アフリカとは対照的に、アジアの熱帯林の範囲は更新世の一般的な氷河状態を通じて恐らくより大きく、それは、一般的に海洋気候が高い降雨量を維持しながら、低い海水準が陸地面積とスンダランドおよびサフルにおける接続性を増やしたからです。
ワラセア(ウォーレシア)と太平洋の熱帯林へと移動すると、ヒトは独特な島嶼熱帯生態系および航海の必要性とも直面しなければならなかったでしょう。考古学および古人類学的証拠が初期のヒトの適応と拡散における熱帯林の重要な役割を浮き彫りにし始めたのは、アジアにおいてでした。上述のように、スマトラ島では73000年前頃、ボルネオ島では50000~45000年前頃、スリランカでは45000年前頃、おそらく中国南部では早ければ65000年前頃(関連記事)に、ヒト集団は熱帯アジアのさまざまな地域に到来後すぐに、繰り返し熱帯林環境に適応しました。
これらの適応は均質な技術とともに一定の波に対応するのではなく、むしろさまざまな森林環境への繰り返しの変動する対応を浮き彫りにします。たとえば、スリランカにおける45000年前頃の弓矢と衣類の製作の発見(関連記事)は、この技術革新の、乾燥した草原もしくはヨーロッパのツンドラ状態との関連という仮定とはひじょうに異なる背景を提供します。同様に、後期更新世においてアジア南東部の大半で見つかる「ホアビン文化(Hoabhinian)」の石核と剥片の技術は、以前には「単純」とみなされてきましたが、最近の研究と実験分析は、これらの石器群の潜在的柔軟性と、有機物の人工遺物の製作との関連の可能性を浮き彫りにしました。
アジア南東部におけるヒトの到来の正確な状況の理解は、遺跡と人工遺物の保存の問題、人類と古人類学的記録との相関関係、年代学的構築の問題に悩まされてきました。最近の研究は、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡の化石堆積物を再調査し、熱帯林における現生人類の存在について最初の証拠のいくつかを記録しています。リダアジャー洞窟の2点のヒトの歯は73000~63000年前頃と推定され、この年代は遺伝学的データに基づくアフリカからの現生人類の移住の推定年代よりずっと古くなります。その研究は、リダアジャー洞窟の利用可能な年代と層序学的情報の新たな評価を提供し、その古さを確証します。堆積物は以前には、おもに豊富なオランウータン化石の存在に基づいて熱帯雨林として解釈されましたが、その正確な生態学的選好には議論の余地がありました。哺乳類化石の歯のエナメル質の炭素および酸素の安定同位体分析はさらに、初期のヒトは、この地域の現在とひじょうに類似した閉鎖林冠森林の優占するリダアジャー洞窟に海洋酸素同位体ステージ(MIS)4(74000~60000年前頃)に居住していた可能性が高いものの、化石オランウータンは現生種と比較して熱帯雨林のわずかに異なる生態的地位を占めていた、と論証しました。
同様に別の研究は、ベトナムの2ヶ所の遺跡の地理考古学的分析を行ないました。MIS3までに、現生人類がベトナム高地の多様な森林体系を含めてアジア南東部の大半に分布していたことは明らかです。ベトナム高地では、より湿潤で覆われた状態が、初期ヒト集団に魅力的だった森林退避地をもたらし、陸生カタツムリなど多様な資源の収集が伴い、回復力の生計戦略を提供しました。それにも関わらず、そうした証拠を記録する貝塚や、貝塚が形成された洞窟は、ヒトの適応の性質と速さおよび居住パターンの理解に必要な、一連の独特な続成作用および遺跡形成過程の影響を受けます。その研究では、薄い断片の微細形態が、熱帯全域の堆積および堆積後の遺跡へのより洗練された洞察をどのように提供しつつあるのか示しており、世界における熱帯林と現生人類との相互作用のより広範な分析の基礎を提供します。
最後に太平洋地域への移動に関する最近の研究は、これまでに近および遠オセアニア(ニアオセアニアとリモートオセアニアと)の熱帯島嶼環境で発掘された最初のヒト遺骸から、新たな放射性炭素および安定同位体データを提示します。太平洋は、初期の海洋横断、島嶼および沿岸環境へのヒトの適応、さまざまな人類種間の相互作用の可能性を調べるのに重要な地域です。最近の研究では、サフル大陸を越えての45000年前頃となる近オセアニアの最初の居住と、11800年前頃となるこの地域の最古のヒト遺骸との間に、現時点で顕著な間隙がある、と示されています。しかし、その研究は、ビスマルク諸島とバヌアツの島々で暮らす後期更新世から完新世のヒトが熱帯林の動植物に持続的に依存していた、と論証しました。これらの生息地は、単に沿岸の環境や到来してきた家畜だけではなく、ヒトの適応と景観操作のために重要な環境を提供しました。
●新熱帯区森林
現在の考古学およびゲノムデータから、アメリカ大陸には25000~15000年前頃に現生人類が移住し、それはアジア北東部からアメリカ大陸への太平洋沿岸回廊を通ったもので、チリには14300年前頃までに到達していた可能性が高い、と示唆されます(関連記事)。アメリカ大陸における初期のヒト集団は、沿岸資源と大型のサバンナの獲物を利用する遊動的な狩猟採集民として伝統的に描かれてきましたが、大型哺乳類の不在と密林植生における移動の困難の結果として、森林分布域が回避されました。この古典的枠組みとは逆に、蓄積されつつある証拠は、初期の移住が経済的に重要な樹木を活発に利用して管理し、すぐに一年生作物の初期耕作を始めた、と示唆します(関連記事)。これらのデータは、植物の栽培化、ヒトと植物の相互作用の長期の遺産、アマゾン地域における有益な植物の現在の過剰優占におけるヒトの潜在的役割の理解に重要な意味を有しています(関連記事)。
最近の研究は、古生態学的データを統合し、熱帯アンデスとアマゾン地域低地それぞれの、初期のヒトの到来の時期と生態学的影響の詳細な全体像を描きます。アンデス山脈では、ヒトの居住の最初の証拠は14000~12000年前頃となり、種が退氷温暖化に対応して高地へと移動する気候変化の時期と一致します。退氷によりアンデス高地(海抜3000~4000m)の比較的平らで乾燥した地域が開かれ、この地域は最初のヒトの定住にとって最も適したアメリカ大陸熱帯地域の一つだったようです。12000年前頃までに、現在では高地アンデス草原(プーナおよびパラモ)として特徴づけられるほとんどの地域が焼かれ、改変されていました。最近の研究では、広大な草原は長期の人為的な完新世景観としてみなされるべきで、同様に、アンデス山麓の森林と草原との間の急激な樹林帯も、気候に定義されるというよりは人為的と見なすべきである、と示唆されています。これら山麓の密集林はおそらく、より平坦で乾燥した高地よりも、地形と気候の理由から定住度が低かったでしょうが、中期完新世までに、山地森林地帯の行きやすい地域は大きく改変されて定住されました。
広大なアマゾン低地では、ヒトの居住の最初の証拠は12000年前頃に現れ、それはおもにアマゾン川流域とアマゾン森林周縁部の乾燥した森林・サバンナの斑状沿いに位置していました。アマゾン南部のより森林的な地域では、6000年前頃からの居住の痕跡が示され、4000年前頃以降に範囲と密度がかなり増加します。ヨーロッパ人の到来時までに、ヒトの居住はアマゾン生物群系の大半、とくに河川網沿いに広がっていました。アメリカ大陸に居住した最初のヒトは、風変わりで今では絶滅した豊富な大型動物と遭遇し、これは高緯度と同じく熱帯アメリカ大陸にも当てはまる可能性が高そうです。全体的に、大型動物47種のうち34種が南アメリカ大陸で絶滅しました。これらの大型動物は間違いなくサバンナやアンデス草原やサバンナ・森林移行帯に存在しましたが、密林地帯の大型動物生息の直接絶的証拠(たとえば、アフリカの熱帯林で見られるような)は、保存状態が悪いために限定的で妨げられています。これら大型動物絶滅の直接的原因は、急速な気候変動が野生集団を圧力下に置き、狩猟と生息地改変を通じてのヒトの圧力と相まってさらなる圧力を加え、以前の環境変動の後に生じた退避地からの回復を妨げたことなどの集合だったようです。
最近の研究は、アンデス全体の湖の古生態学的証拠の調査によって、この移行の時期を説明しており、火災増加直後の125000年前頃に大型動物が広範に消滅しました。その研究では、大型動物は急速な温暖化と湿潤状態により圧力を受け、個体群の回復は燃焼を通じてアンデス高地景観を変えた狩猟民により妨げられた、と提案されています。別の最近の研究は、新熱帯区のヒトと大型動物との間のこの最初の遭遇の説得力ある全体像を提示しており、コロンビアのセラニア・デ・ラ・リンドサ(Serranía de la Lindosa)で発見された岩絵と、アマゾン森林とオリノコ川のサバンナとの間の現在の移行帯に基づく、詳細な事例を報告しています。その研究では、この岩絵の年代は後期更新世で、巨大ナマケモノ(おそらくはエレモテリウム)やラクダ類(おそらくは古代ラマ)やおそらくは3本指の滑距目分類群(Xenorhinotherium)である有蹄類など、他の多くの絵のうち絶滅大型動物が描かれていた、と示唆されています。
新熱帯区森林へのヒトの影響には植物群との相互作用も含まれ、この地域は熱帯においてヒトの到来と耕作慣行との間の最小の時間的間隙の本場です。農耕の独立したアマゾン起源は近年においてとくに重要な発見で、早くも10400年前頃には、ボリビアのベニ(Beni)の季節的に氾濫するサバンナ人口の森林島で現れる、キャッサバ属やカボチャ属の耕作があります(関連記事)。9000年前頃の農耕はサバンナの北側の森林地帯でも現れ、アマゾン北西部の野営地遺跡の近くで耕作の痕跡があります。植物栽培から離れた地域では、前期~中期完新世の採食民がヤシや木の実や堅果を消費していました。これらの種の多くはアマゾン地域においてはひじょうに優占的で、アマゾン全域でのこうした種の量の増加は、数千年にわたる先住民人口集団による選択と管理を反映しているかもしれない、と示唆されてきました(関連記事)。
しかし、アマゾン地域が顕著で長期的なヒトの痕跡を伴う文化的景観である程度は、まだ議論されています。最近の研究は、アマゾン地域の初期のヒトの居住の生態学的影響の古生態学的統合を提示します。顕著な植生変化は、森林におけるヒトの定住の最初の痕跡後の数世紀から千年間にのみ見られる、と主張されることが多く、最初の住民は森林にじょじょに変化をもたらしただけである、と示唆されます。乾燥した森林・サバンナ地帯はとくに好まれたようです。アフリカと同様に、この斑状の景観はさまざまな資源と、植生整理や生態系の変化を促進するための、自然火災の利用と増進の枠組みの可能性も提供します。最近の研究は、アマゾン森林移行帯の構成と構造の形成において、景観利用と文化的燃焼と土壌富化の役割を調べました。その研究は、過去1万年間にわたって安定した森林植生が優占する、ボリビアのラグナ・ヴェルサレス(Laguna Versalles)の考古学および古生態学的データの6000年間を統合します。これらのデータは、森林の構成と構造の管理、文化的燃焼、可食植物の栽培、人為的なアマゾンの黒色土壌(ADE)の形成を記録します。頻繁な文化的燃焼は、燃焼の制御、燃焼負荷の減少、火に適した植物の量の増加により、ADE森林構成と構造を変えました。
新熱帯区森林におけるヒトの歴史の拡大とさまざまな記録が今では確立しており、季節的に乾燥した森林から低地熱帯雨林まで、利用可能なさまざまな生息地のヒトの居住がヒトの定住と適応と文化のパターンにどのように影響を及ぼしたのか、探求することは残っています。最近の研究は統計的手法を用いて、ヨーロッパ人到来前の熱帯アンデス全域の先住民人口集団の空間的分布を調べました。その研究は、標高、雲の頻度、川の近さ、季節的な感想度の変動が、どのようにヒトの居住を著しく変化させた可能性があるのか、指摘します。その研究は、先コロンブス期人口集団によるこの地域の居住割合の推定値を提示しており、かなりの森林生態系が依然として数世紀後に人為的影響をどのように記録しているのか、指摘します。アンデス熱帯林と北・中央・南アメリカ大陸の熱帯の他地域のさらなる詳細な調査は、更新世と完新世を通じての、この地域の熱帯林への繰り返されたヒトの適応の速度と性質のより詳しい理解を可能とするはずです。
●統合
熱帯林は明らかに、深いヒトの歴史の文脈ではもはや無視できない、重要なヒトの生息地を表しています。とくに、アジアと南アメリカ大陸の熱帯林で得られた豊富なデータと手法と洞察は、これまで現生人類の進化的発祥地であるアフリカにおいてやや遅れていた熱帯研究の課題を促進しつつあります。これまでに何を言うことができるでしょうか?また、おもな将来の研究課題と手法は何でしょうか(図2)?以下は本論文の図2です。
おそらく、熱帯林における考古学的研究増加の最も明らかな結果は、もはや熱帯林をヒトの進化と初期のヒトの過去にとっての周辺地域として考える余裕がなくなったことです。「新旧」両世界にわたるサバンナや草原や沿岸と結びついたさまざまな仮説の存続にも関わらず、ヒトはその行動において基本的に柔軟です。この柔軟さは、現生人類だけではなくより初期のホモ属種でも見られます。極端な事例として、ヒトが北極圏の狩猟採集民からアマゾン地域の耕作者まで数千年以内でどのように適応したのかは、注目に値します。したがって、ヒトが単一の狭い資源一式に自身を制約した可能性は低そうです(関連記事)。じっさい、現生人類と関連する最初で最長の文化的段階であるMSAのアフリカ全域の分布が、草原とサバンナだけにかつて存在した可能性は低そうです。これに基づいて、研究者はヒト居住の相互に排他的な地域としての「熱帯雨林」と「サバンナ」との間の単純な二分法を破棄し始めなければなりません。
適応の範囲に沿って、さまざまなヒト集団が選択した特定の居住地について「専門家的」解決策を見つけたかもしれません。しかし多くの事例では、専門性は柔軟性を維持し、さまざまな居住地と資源を利用する能力で見つかる可能性があります。じっさいそれは、現生人類をその最近縁分類群と区別するかもしれない、とりわけこうした居住地にさまざまな方法で適応する現生人類の明確で繰り返される能力です。上述のように、たとえばアフリカでは、熱帯林自体は均質なまとまりではありません。代わりに、たとえば森林は、開拓地、より乾燥した種類の森林、ヤシの沼地、森林回廊、草の茂る氾濫平原、サバンナと互いに組み合わせることができ、それらの環境は柔軟な利用をもたらします。これをさらに調べるにあたって、広範な熱帯林がまだ調査されていないことは明らかなようです。アジア南東部とアマゾン地域での新たな研究にも関わらず、かなりの地域、とくにアフリカについては、深いヒトの過去について言えることに関して、ほぼ完全に調べられていないままです。どのような予測を立て、どのような手法を用いるべきでしょうか?
本号の諸論文も、熱帯林と初期のヒトとの遭遇に関する理解における最新の進歩の多くが、社会科学と自然科学を横断するさまざまな手法の適用を含んでいる、と浮き彫りにします。ヒトの深い過去における熱帯林の役割の解決は、「目に見えないものの考古学」をしばしば含む、真に学際的な試みです。たとえば、ヒトの活動の痕跡は、コンゴ盆地のヤシの堅果やアマゾン川流域のブラジルナッツなど野生植物と樹木の現在の分布や群集組成、古環境コアと遺跡における木炭の蓄積のパターン、土壌組成の変化、動物群集で見つけられます(図2)。現在の樹木の年輪の研究(樹木年代学)は、より最近の期間における森林のヒトの管理をたどれることさえ示されました。有機物の保存が少なく、遺跡を見つけてその位置を特定するのが困難である温暖湿潤な生態系では、環境へのヒトの影響の痕跡は、時として過去の居住の唯一の証拠となるかもしれません。ヒトの歯のエナメル質の安定同位体分析も、不完全な動植物群に直面した場合に、全体的な食性依存を評価する手段として浮上してきました(関連記事)。そうした敏感な手法は、熱帯林と過去のヒトとの関与の文脈を完全に理解するため、追加の考古学的調査と組み合わせる必要があります。
更新世熱帯林の考古学に関しては、必ずしも劇的に変化した石器様式を予測すべきではなく、動的な状況の環境に対処できるより一般的で柔軟な道具も予測すべきです(図3)。アフリカでは、MSAの地域化により、純粋な環境決定要因ではなく、集団間の孤立の程度に光を当てられるかもしれず、さまざまなMSA道具の範囲は明らかに色々な状況で用いることができます。MSA道具一式の遍在的で一般的な要素もアフリカ全域で30万年以上にわたって見られ、さまざまな環境において柔軟で動的な必要性を満たしていたかもしれない、と示唆されます。
じっさい、アジア南東部の熱帯雨林の事例から、「専門家」的適応が単に石器だけではなく、タケや他の物質など有機物の道具の開発の形、標的となる獲物の種類、痕跡を残さない可能性がある罠技術、塊茎の無毒化など炭水化物の処理において見ることができる、と示唆されます。アジア南東部のホアビン文化技術は、将来的にはアフリカ西部および中央部のMSA技術との興味深い比較を提供するかもしれませんが、石器分析はしばしば、局所的で地域的な焦点を保ってきました。一方、初期の弓矢技術の一部と主張されている、スリランカで発見された細石器と骨器(関連記事)は、「専門家」的な熱帯適応への別の経路を示唆します。以下は本論文の図3です。
ヒト進化のこの世界的な熱帯記録の解明において、未知数のことが多くあります。これまでの研究にも関わらず、現生人類がいつ特定地域でさまざま種類の熱帯林を最初に集中的に利用し始めたのか、そうした行動が祖先種で観察され得るのかどうかについて、まだ明確な考えがないことはよくあります(図3)。これが具体的にどう特徴づけられるのかも、分かっていません。過去の更新世森林採食民は、高い遊動性と強い社会的交流網に依存していましたか?過去の更新世森林採食民は、たとえばアフリカにおける森林ゾウの通った跡や、アマゾン地域におけるヒトの移動性で重要になったかもしれない河川網を用いて、どのように森林を通り抜けましたか?過去の更新世森林採食民は、たとえば、ベトナム北部の陸生カタツムリなど1年の特定の時期における選好する野生食料の分布と場所の制御により、どのように森林を季節的に用いた可能性があるでしょうか?これらの問題の多くは、温帯のユーラシアとアフリカ南部および東部の更新世遺跡については、長く尋ねられてきました。しかし、ヒト進化のより広範な理論的議論における熱帯林の一般的な欠如は、これらの環境で利用できるようになり始めたばかりであることを意味します。より広い水準では、熱帯林が、たとえば人口構造の駆動など、依然として顕著な障壁を表しているのかどうか、まだ不明確です。ヒト進化において、森林の端と移行帯地域はどれほど重要でしたか?
完新世に入ると、証拠はやや増えてくるものの、多くの問題が残っています。偏りの多くも、依然として見つけることができます。たとえば、森林の研究は、河川もしくは乾燥した辺境に焦点を当てるなど、地理的偏りが支配的であり続けています。アフリカでは、完新世の森林研究は依然として、とくにアメリカ大陸における同様の研究に遅れています。しかし、後期更新世と完新世は、森林へのヒトの適応の理解を深める機会も提供します。それは、比較対照できる熱帯林環境のヒトの定着の複数事例があるからです。後期更新世と初期完新世においてヒトが居住した熱帯林の生態環境は、変化する大気の二酸化炭素と動的な移行する斑状の景観を考えると、後期完新世とは異なっています。大型動物はどのように、森林の居住を妨害もしくは促進しましたか?アジア南東部の、風の拡散が優占するフタバガキ科森林における比較的少ない果実など、熱帯全域の生物地理学的違いは、初期のヒトが森林資源を用いた方法にどのように影響を与えましたか?これら森林のヒト居住の長い歴史は、現代の熱帯林の種構成をどのように形成してきた可能性がありますか?
残りの「大きな問題」は以下の補足にまとめられています。こうした問題に取り組むには、「熱帯雨林」だけではなく、熱帯林生息地の全範囲があるという認識とともに、世界的な熱帯にわたる基礎研究の継続と拡大が必要でしょう。これらの目標の追及には、資金提供機関の投資とさらなる研究への危険性の公約が必要でしょう。結局のところ、以前の豊富な発見が将来の可能性を堅牢に証明している、草原とサバンナの「よく足を踏み入れた」地域はありません。とくに、熱帯林の考古学と古人類学の研究を高めるには、熱帯地域の学際的調査を主導する地元の研究者への資金提供が不可欠です。熱帯林への投資と熱帯地域の研究者は、深いヒトの過去の新しく豊かな理解につながるでしょう。これまでの証拠の蓄積と重要性は、この見解を間違いなく裏づけます。本号は、この目標を促進する重要な段階を表しており、集合的なヒトの先史時代がこの世界的に重要な生態学的地域とどのように混交したのか、新たな注意を払うよう、学者と資金提供者に同様に呼びかけています。
●補足:大きな問題
(1)ヒトと人類の熱帯林との時間的深さはどれくらいですか?
(2)ヒトは何回熱帯林に適応しましたか?
(3)熱帯林への繰り返しの適応は、世界の熱帯地帯全体でどのように比較され、そうした環境に固有の共通性により実証されますか?
(4)乾燥して開けた熱帯から森林環境への移行の速度はどのくらいでしたか?森林とサバンナの移行帯は入口としてどのように機能しましたか?
(5)熱帯林気候の活力と更新世を通じての分布をどのように特徴づけることができますか?初期のヒトが好んだ斑状の景観はどれでしたか?
(6)密集した熱帯林はおもに障壁もしくは回廊のどちらでしたか?
(7)熱帯林のさまざまな生態学的生物地理は、過去にヒトによりどのように使用され、管理されてきましたか?
(8)斑状の森林環境は、森林とサバンナだけの合計よりも多くの新たな資源を生み出しますか?
(9)多様な森林は、採食から農耕まで、どのように適応を形成してきましたか?たとえば、初期熱帯耕作に重要な季節的環境の議論です。これはどこまで維持され、大型動物減少の遺産は何でしたか?
(10)熱帯林とのヒトの相互作用の長い歴史は、こうした森林の現代の生態および機能にどのように影響しましたか?
参考文献:
Scerri EML. et al.(2022): Tropical forests in the deep human past. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 377, 1849, 20200500.
https://doi.org/10.1098/rstb.2020.0500
●ヒトの深い過去の辺境としての熱帯林
開けた草原とサバンナがヒトおよびその祖先の生態学的「発祥地」だった、との認識は、野外調査の地理的文脈、および初期人類の進化と拡散と文化的発展に関する支配的な物語の両方を形成してきました。対照的に、化石の保存が不充分な傾向にある熱帯林は、ヒトの影響を受けなかった比較的原始の環境、つまり先史時代の大半を通じてヒトにとって不利なように思われる生息地として提示されてきました。じっさい熱帯林はしばしば、アフリカにおいてヒトが「逃れた」原始の環境として組み立てられ、現代人の密接な近縁である(非ヒト)大型類人猿が生息してきました。
これらの見解は、世界のヒト先史時代および古環境の構築に多大な偏見をもたらすことにより、アフリカおよび出アフリカ後のヒト進化の物語に大きな影響を与えてきました。そうした偏見が意味してきたのは、古人類学的記録は基本的に狭い一連の生息地、とくに沿岸と開けた草原環境のヒトの歴史であり、そうした場所が他を犠牲にしてでも調査する価値のある唯一の領域である、という循環的議論を促進してきた、ということです。これらの環境と生息地は適応的核心の地位にまで高められ、「サバンナ回廊」もしくは沿岸「高速路」と退避地(関連記事)は、現生人類(Homo sapiens)の文化的開花と拡散に重要とみなされています。
ホモ属種はアフリカから拡大するにつれて、アジア南部および南東部全域と太平洋、現生人類の事例では最終的に熱帯アメリカ大陸で、熱帯林生物群系と遭遇して関わりました(図1)。広大で均質な緑の天蓋との一般的認識にも関わらず、これらの地域の熱帯林は信じられないほど多様な一連の生態系を構成します。湿潤で低地で常緑の熱帯雨林はこの生息地の典型的な現れとみなされることが多いものの、生態学者は、地球上に存在する多種多様な熱帯林に長く注目してきました。年間乾季の短い半常緑林、山地および亜高山帯林、閉鎖天蓋乾燥林、低湿地林はすべて、人類集団に一連の課題と機会を提示する、異なる特徴と構造と種組成を有しています。
多くの状況で、熱帯林は低地サバンナもしくは山地草原など開けた生態系のある斑状の景観を形成します。さらに、熱帯林は比較的変わらなかった、との仮定にも関わらず、降水量と気温と二酸化炭素濃度の過去の変動が、中新世と鮮新世と更新世と完新世を通じて、熱帯のさまざまな範囲の森林形態と範囲に影響を及ぼしてきた、という充分な証拠があります。人類、とくに現生人類のこれらの森林への到来は、火の動態や種の構成および構造にもさらなる変化をもたらしたかもしれません。
したがって熱帯林は、中央および南アメリカ大陸とアフリカ西部および中央部とインド西部とアジア南東部とオセアニアにわたる、北緯23度5分(北回帰線)と南緯23度5分(南回帰線)との間の環境として定義できますが、均一には程遠く、オーストラリアと中国の場合、局所的な土壌および水文状況が、過去にもそうであったように、天文学的に定義された熱帯を越えてそれた同様の生物群系をもたらしました。一部の著者は、霜害の危険性が存在せず、種の多様性急増を可能とする森林生物群系として定義される、メガサーマル(megathermal、熱帯に近い意味)森林に言及しています。始新世のような地球史の温暖期において、そうしたメガサーマル森林(機能的に熱帯林)はカナダとヨーロッパ北部の緯度に広がりました。以下は本論文の図1です。
アフリカの熱帯林生息地は、人類が生息していなかったどころか、人類の祖先にとって不可欠だったようで、とくにホモ・エレクトス(Homo erectus)は、アジア南東部に120万年前頃に到達し、その頃には熱帯林が広がっていた、と主張されてきましたが、議論もあります(関連記事)。これらの環境は、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)などの種で証明されているように(関連記事)、進化の局所的軌跡の背景の少なくとも一部を形成しました。
しかしホモ属史において、熱帯林に最も集中的に生息し、それを利用し続けたのは現生人類でした。長年、これはヒトの物語において比較的最近の章と考えられていました。熱帯林は単純に、あまりにも不適と考えられてきました。この見解では、熱帯雨林の密集した植生と潜在性動物相と疎らに分布する炭水化物および脂肪により、これらの生態系は洗練された技術や外部支援や交換体系に依存することなしには、ヒトにとって資源が不足しすぎていました。
これらの見解は、密林の広範な地域から野外調査に焦点を当てることにより、とくにアフリカの古人類学的研究で顕著に形成されてきました。じっさい、生態学および考古学両方で、アフリカの熱帯林は世界で最も調査されていない熱帯林のままです。人類学者とヒト生態学者と考古学者は、熱帯雨林を含めて熱帯林で狩猟採集民は恒久的に暮らせるし、そうしている、と繰り返し述べてきましたが、アフリカにおける地質学的年代の考古学と古人類学の議論では、しばしば無視され続けています。
代わりに、アジアにおける最近の研究では、熱帯林のヒトの利用と居住を更新世へと確実にさかのぼらせることにより、この分野の研究が一変してきました。スマトラ島の研究では、73000年前頃の熱帯雨林におけるヒトの存在の証拠が見つかりました(関連記事)。ボルネオ島では、有毒植物の処理、森林端部の変更の可能性、森林樹上動物の狩猟を含む一連の行動が、45000年前頃までさかのぼります。スリランカでは一見同時に、45000年前頃の「専門家」の熱帯林適応がサルの狩猟を含んでおり(関連記事)、同位体地質化学は、季節的な野営地ではなく通年の食生依存を論証します(関連記事)。
これらの発見は、森林資源の集中的利用がヒトの過去において重要な遺物だったことを確証します。これらの発見はそれだけではなく、農耕開始のずっと前に広い生態学的範囲にわたって繰り返し「専門家」の生態的地位拡大を行なった、現生人類の新しく独特な生態学的適応性を確証しているようです(関連記事)。同様に南アメリカ大陸では、ヒトは到達後すぐの14000~12000年前頃に、熱帯低地と山地森林環境に居住したようです。これは、川岸と低地および山地森林地帯のより乾燥した周辺沿いで最初に起きたようです。しかし、数千年以内に、ヒトの居住はおもに河川網に沿ってアマゾン森林地帯へとより深く押し込まれましたが、考古学的証拠はそうした行きやすい遺跡に偏っているかもしれません。ヒトの居住様式は、狩猟と採集から、マニオク(キャッサバ)やカボチャなど地元起源の栽培化に依存するか、トウモロコシなど中央アメリカ大陸から輸入した農耕体系にまで及びました。
しかし、こうした研究が増えているにも関わらず、世界の熱帯地域における深いヒトの過去について、多くの大きな問題が残っています。人類はさまざまな熱帯環境にいつ最初に移住し、これは進化的軌跡にどのように影響を与えましたか?多様な熱帯環境は、過去の人口構造と現生人類の出現をどのように駆動しましたか?最後に、いつどのようにヒトは熱帯林に大きく影響を及ぼし始めましたか?総説的な本論文も含まれるこの1849号は、世界の熱帯地域からのこれらの問題を調べる、一連の最先端の論文をまとめています。これらの論文は、現生人類の発祥地であるアフリカから始まり、こうした生態系が何千年にもわたってヒトの媒介により形成されてきたことを示します。この1849号への寄稿は、地質考古学から同位体分析、新たな年代測定計画から古生態学まで、多様でしばしば新規の方法論的適用が、熱帯のヒトの歴史のより豊かな全体像をともに提供しつつあることも浮き彫りにします。
●アフリカの熱帯林
アフリカの熱帯林は、現生人類とその人類の祖先が最初に遭遇したものでした。アフリカの森林は特定の構造的および植物の特徴を有しており、その中には動物の異常に高い生物量が含まれており、それはヒトにとって食資源として機能する可能性があります。たとえばアフリカの湿潤森林の多くの地域は、熱帯雨林圏の端に位置する比較的少ない降雨量により支えられています。それが意味するのは、降水量の小さな変化でさえ劇的な森林断片化を起こすかもしれない、ということです。
更新世と完新世を通じて、多くのアフリカの森林が気候条件の変動につれて拡大と縮小の期間を経たようで、しばしば混合した森林と草原の斑状の環境が、アフリカの熱帯林生物群系の多くの標準的状態でした。更新世の一般的な氷期条件と低湿度と二酸化炭素条件は、アフリカの森林の全体的な範囲が現在よりも一般的に小さかったことを意味します。アフリカにおける樹木種多様性もアマゾン地域とアジア南東部の森林より低かったものの、より高く大きな樹木が意味するのは、アフリカの森林が、たとえばアマゾン地域の森林よりも多くの炭素を貯蔵していた、ということです。そうした斑状の景観は、更新世を通じて現在の森林地帯のほとんどに広がっており、人類にとって独特で重要な機会を提供したかもしれません。
限定的な現在の証拠から、ヒトとその祖先は長期にわたって移行帯を利用してきたかもしれない、と示唆されます。アフリカ中央部の人類の歯から、少なくともいくつかの初期人口集団は250万年前頃に森林の端の混合環境で生息していた、と示唆されます。その後、現生人類の出現に続いて、ケニアのパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)遺跡からは、ヒトが象徴的物質とさまざまな技術的道具を製作しながら、混合熱帯森林・草原環境を78000年前頃に利用していた、と示されます(関連記事)。
アフリカ内陸部が更新世人口集団の大半を受け入れていたならば、多様な移行帯環境間で柔軟に変化することを要求する環境は、現生人類の生態学的現代性にとっての発祥地を形成したかもしれません。この新たな見解では、環境そのものよりも、さまざまな資源への依存が人口集団を引き離す原動力だったかもしれません(関連記事)。これらの過程は現生人類の根源にあるかもしれず、現生人類はアフリカ大陸の大半で細分化された人口集団において進化した、と今では考えられています(関連記事)。これはいつ始まり、人類はいつ熱帯林居住を始めたのでしょうか?
最近の研究では、以前の想定より長い歴史が示唆されています。具体的には、コンゴ盆地における人類の存在の最古の証拠が報告されており、その下限年代は85万~65万年前頃です。1987年に発見されたエラルメコラ(Elarmékora)は、ガボンのロペ国立公園(Lopé National Park)内のオゴウェ川(Ogooué River)の上に位置する高台です。その研究は、おもに堆積土砂内に埋まっていた礫石器で見つかった、わずかな石器群の最初の絶対年代を提示しています。宇宙線生成核種評価は、未診断の前期石器時代遺物群について、73万~62万年前頃の下限年代を示唆します。この年代は、アフリカ中央部西方における人類の存在の最古級の記録の一つで、この地域における人類の長い遺産を確証します。これらの結果から、熱帯林における人類の存在は農耕の到来に続く、との長きにわたった仮定は却下されるべきだと示唆しており、アフリカ内外のヒトの拡散の地理的評価は見直されます。
アフリカの熱帯林地域における長期の人類の存在のこの魅力的な全体像は、100万年の動的な気候および環境変化の背景の中にあります。最近の研究では、長期の陸と海の記録から、更新世と完新世の植生評価についての情報が統合され、人類にとっての植生資源の位置が経時的に地理的にどのように変化したのか、示されています。とくに興味深いのは、コンゴ盆地における人類の存在は一般的に湿潤条件と一致するので、断片化ではなく、森林拡大の時期の可能性がある、という事実です。さらに、アフリカの過去100万年間の水文気候における顕著な変化は、森林地帯の東西の相互に湿潤と乾燥の状態をもたらし、現生人類の最初の化石がアフリカの他地域で提案された時(関連記事)のこととなります。現生人類と関連するその後の期間には、植生変化はさまざまな地域で明らかに非同時的で、多くの地域における混合資源獲得の状態をもたらし、適応性を必要とした可能性があります。
最近の研究では、現生人類と関連する最初で最長の技術的目録である中期石器時代(MSA)の更新世の物質文化を通じて、混合資源獲得の問題が具体的に追及されています。より具体的には、ザンビアのカランボ滝(Kalambo Falls)の遺跡において、アフリカの赤道地帯森林で長く関連づけられてきた石器技術複合である(関連記事)ルペンバン(Lupemban)が注目されています。ルペンバンの年代は27万~17万年前頃です。現在、カランボの滝はミオンボ(Miombo)林帯が優先しており、もう一方のルペンバンの重要な遺跡であるツイン・リバーズ(Twin Rivers)は、開けた林と低草原地帯が優占します。開けた環境と閉鎖環境の頻繁な混在を考えて最近の研究では、現生人類は森林資源への部分的依存を示唆する移行帯地域内で柔軟な戦略を採用しつつあったかもしれない、と主張されています。最近の研究では、ルペンバンの披針形尖頭器は、独特なヒトの生態的地位を強調する可能性がある斑状の植生への適応だったかもしれない、と結論づけられています。
これらの結果は、熱帯アフリカにおける退避地の利用可能性に関する最近の研究を補完します。退避地は、気候変化のさまざまな周期を通じて、安定して居住可能だった場所です(関連記事)。現生人類が複数の氷期と間氷期の周期を経て明確に存続した唯一の大陸として、アフリカは古典的な退避地モデルが定式化され検証され得る重要な地域です。最近の研究では、民族誌研究に基づくヒトの生息に関する気候閾値が、降水量と生物群系分布についての高解像度のモデルデータセットと組み合わされて適用され、後期更新世(13万~1万年前頃)にわたる持続的な退避地が特定されました。その結果、驚くべきことに、控えめな推定値を用いても、退避地は後期更新世において稀な減少である可能性は低い、と分かりました。最も安定した地域の一つはセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)地域で、MSA石器群が顕著に持続しました(関連記事)。安定した移行帯地域の広範な分布も浮き彫りになり、長期のヒトの生息にとって重要だったかもしれません。
さらに後の時代については、最近の別の研究が、後期更新世から完新世におけるアフリカ西部および中央部の森林における過去の気候変動を統合し、経時的なこの地域におけるヒト共同体の発展と安定性への気候の相互作用の理解を試みました。その研究は、古気候と植生史を組み合わせて、アフリカ西部および中央部の森林地域における初期の人類の祖先の発展と生存に関する気候変動の重要性を強調します。大きな気候変動に対応して、アフリカ西部および中央部のサバンナは森林を犠牲に拡大しましたが、厳密に「森林」もしくは「サバンナ」のまとまりには移行しませんでした。むしろ、環境圧力の期間においてさえ、森林はさまざまな植生の種類とも生物多様性移行帯を有していました。これらのデータは、不均一で回復力のある生態系を示唆します。技術的変更や生計戦略の変化といった形で示されたヒトの行動は、気候および植生変化とは無関係に変わり、気候はヒトの行動もしくは共同体安定の主要な推進力ではなかった、と示唆されます。
最近の研究はコンゴ盆地の移住に関する遺伝学と古気候学と歴史言語学のデータを統合し、これを用いて、モタバ(Motaba)川沿いに暮らすバヤカ(Bayaka)狩猟採集民でコンゴ共和国北部における民族誌的研究を構築します。その研究の主張は、「関係のある富」の養成、つまり資源交換と相互扶助を可能とする強い社会的つながりの形成が、熱帯林環境での生存に重要である、というものです。これには現在、さまざまな森林採食民集団間のそうした富の養成や、農耕民との交易関係が含まれます。その研究は、この交易を農耕民への採食民の依存として割り当てるのは間違いである、と主張します。バヤカ人は農耕民から学んだ知識を用いて作られた森林菜園や、ヤマノイモ属など野生食料の成長のための空間確保のため、季節的に移動します。バヤカ人は季節ごとに移動性が高く、親が生まれた場所とその成人した子供が住んでいる場所との間の距離は、最大で82kmほどになります。じっさい、最近の研究では、遊動性は、生計革新や森の精霊の踊りなど、コンゴ盆地全体の知識の流れの中心である、と主張します。これは、この地域では成功して暮らすには高い遊動性が常に要求される、という以前の研究を補完します。同時に最近の研究では、採食民人口集団の東西の枝が、おそらくは農耕開始のずっと前の森林断片化に続く3万~2万年前頃に分岐した、とする遺伝学的研究が再調査されました。これは、さまざまな生態系間の重大な断絶が、混合資源もしくは特定の生息地のいずれかに適応した人口集団にとって、過去の主要な境界だった可能性を示唆します。
●アジア南東部と太平洋の森林
アフリカとアジア南部および東部の森林間には連続的な熱帯森林帯が存在しないので(図1)、熱帯の他地域への移動は、さまざまな熱帯林生態系への繰り返しの適応が含まれていたに違いありません。じっさい、アフリカを越えて拡大するヒト集団は、熱帯地帯に再度配入る前に、インドのタール砂漠へと広がるより乾燥した景観に遭遇したでしょう。いったん遭遇すると、アジアの熱帯林はアフリカとは完全に異なる一連の植物および動物の特徴を示しました。アフリカとは対照的に、アジアの熱帯林の範囲は更新世の一般的な氷河状態を通じて恐らくより大きく、それは、一般的に海洋気候が高い降雨量を維持しながら、低い海水準が陸地面積とスンダランドおよびサフルにおける接続性を増やしたからです。
ワラセア(ウォーレシア)と太平洋の熱帯林へと移動すると、ヒトは独特な島嶼熱帯生態系および航海の必要性とも直面しなければならなかったでしょう。考古学および古人類学的証拠が初期のヒトの適応と拡散における熱帯林の重要な役割を浮き彫りにし始めたのは、アジアにおいてでした。上述のように、スマトラ島では73000年前頃、ボルネオ島では50000~45000年前頃、スリランカでは45000年前頃、おそらく中国南部では早ければ65000年前頃(関連記事)に、ヒト集団は熱帯アジアのさまざまな地域に到来後すぐに、繰り返し熱帯林環境に適応しました。
これらの適応は均質な技術とともに一定の波に対応するのではなく、むしろさまざまな森林環境への繰り返しの変動する対応を浮き彫りにします。たとえば、スリランカにおける45000年前頃の弓矢と衣類の製作の発見(関連記事)は、この技術革新の、乾燥した草原もしくはヨーロッパのツンドラ状態との関連という仮定とはひじょうに異なる背景を提供します。同様に、後期更新世においてアジア南東部の大半で見つかる「ホアビン文化(Hoabhinian)」の石核と剥片の技術は、以前には「単純」とみなされてきましたが、最近の研究と実験分析は、これらの石器群の潜在的柔軟性と、有機物の人工遺物の製作との関連の可能性を浮き彫りにしました。
アジア南東部におけるヒトの到来の正確な状況の理解は、遺跡と人工遺物の保存の問題、人類と古人類学的記録との相関関係、年代学的構築の問題に悩まされてきました。最近の研究は、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡の化石堆積物を再調査し、熱帯林における現生人類の存在について最初の証拠のいくつかを記録しています。リダアジャー洞窟の2点のヒトの歯は73000~63000年前頃と推定され、この年代は遺伝学的データに基づくアフリカからの現生人類の移住の推定年代よりずっと古くなります。その研究は、リダアジャー洞窟の利用可能な年代と層序学的情報の新たな評価を提供し、その古さを確証します。堆積物は以前には、おもに豊富なオランウータン化石の存在に基づいて熱帯雨林として解釈されましたが、その正確な生態学的選好には議論の余地がありました。哺乳類化石の歯のエナメル質の炭素および酸素の安定同位体分析はさらに、初期のヒトは、この地域の現在とひじょうに類似した閉鎖林冠森林の優占するリダアジャー洞窟に海洋酸素同位体ステージ(MIS)4(74000~60000年前頃)に居住していた可能性が高いものの、化石オランウータンは現生種と比較して熱帯雨林のわずかに異なる生態的地位を占めていた、と論証しました。
同様に別の研究は、ベトナムの2ヶ所の遺跡の地理考古学的分析を行ないました。MIS3までに、現生人類がベトナム高地の多様な森林体系を含めてアジア南東部の大半に分布していたことは明らかです。ベトナム高地では、より湿潤で覆われた状態が、初期ヒト集団に魅力的だった森林退避地をもたらし、陸生カタツムリなど多様な資源の収集が伴い、回復力の生計戦略を提供しました。それにも関わらず、そうした証拠を記録する貝塚や、貝塚が形成された洞窟は、ヒトの適応の性質と速さおよび居住パターンの理解に必要な、一連の独特な続成作用および遺跡形成過程の影響を受けます。その研究では、薄い断片の微細形態が、熱帯全域の堆積および堆積後の遺跡へのより洗練された洞察をどのように提供しつつあるのか示しており、世界における熱帯林と現生人類との相互作用のより広範な分析の基礎を提供します。
最後に太平洋地域への移動に関する最近の研究は、これまでに近および遠オセアニア(ニアオセアニアとリモートオセアニアと)の熱帯島嶼環境で発掘された最初のヒト遺骸から、新たな放射性炭素および安定同位体データを提示します。太平洋は、初期の海洋横断、島嶼および沿岸環境へのヒトの適応、さまざまな人類種間の相互作用の可能性を調べるのに重要な地域です。最近の研究では、サフル大陸を越えての45000年前頃となる近オセアニアの最初の居住と、11800年前頃となるこの地域の最古のヒト遺骸との間に、現時点で顕著な間隙がある、と示されています。しかし、その研究は、ビスマルク諸島とバヌアツの島々で暮らす後期更新世から完新世のヒトが熱帯林の動植物に持続的に依存していた、と論証しました。これらの生息地は、単に沿岸の環境や到来してきた家畜だけではなく、ヒトの適応と景観操作のために重要な環境を提供しました。
●新熱帯区森林
現在の考古学およびゲノムデータから、アメリカ大陸には25000~15000年前頃に現生人類が移住し、それはアジア北東部からアメリカ大陸への太平洋沿岸回廊を通ったもので、チリには14300年前頃までに到達していた可能性が高い、と示唆されます(関連記事)。アメリカ大陸における初期のヒト集団は、沿岸資源と大型のサバンナの獲物を利用する遊動的な狩猟採集民として伝統的に描かれてきましたが、大型哺乳類の不在と密林植生における移動の困難の結果として、森林分布域が回避されました。この古典的枠組みとは逆に、蓄積されつつある証拠は、初期の移住が経済的に重要な樹木を活発に利用して管理し、すぐに一年生作物の初期耕作を始めた、と示唆します(関連記事)。これらのデータは、植物の栽培化、ヒトと植物の相互作用の長期の遺産、アマゾン地域における有益な植物の現在の過剰優占におけるヒトの潜在的役割の理解に重要な意味を有しています(関連記事)。
最近の研究は、古生態学的データを統合し、熱帯アンデスとアマゾン地域低地それぞれの、初期のヒトの到来の時期と生態学的影響の詳細な全体像を描きます。アンデス山脈では、ヒトの居住の最初の証拠は14000~12000年前頃となり、種が退氷温暖化に対応して高地へと移動する気候変化の時期と一致します。退氷によりアンデス高地(海抜3000~4000m)の比較的平らで乾燥した地域が開かれ、この地域は最初のヒトの定住にとって最も適したアメリカ大陸熱帯地域の一つだったようです。12000年前頃までに、現在では高地アンデス草原(プーナおよびパラモ)として特徴づけられるほとんどの地域が焼かれ、改変されていました。最近の研究では、広大な草原は長期の人為的な完新世景観としてみなされるべきで、同様に、アンデス山麓の森林と草原との間の急激な樹林帯も、気候に定義されるというよりは人為的と見なすべきである、と示唆されています。これら山麓の密集林はおそらく、より平坦で乾燥した高地よりも、地形と気候の理由から定住度が低かったでしょうが、中期完新世までに、山地森林地帯の行きやすい地域は大きく改変されて定住されました。
広大なアマゾン低地では、ヒトの居住の最初の証拠は12000年前頃に現れ、それはおもにアマゾン川流域とアマゾン森林周縁部の乾燥した森林・サバンナの斑状沿いに位置していました。アマゾン南部のより森林的な地域では、6000年前頃からの居住の痕跡が示され、4000年前頃以降に範囲と密度がかなり増加します。ヨーロッパ人の到来時までに、ヒトの居住はアマゾン生物群系の大半、とくに河川網沿いに広がっていました。アメリカ大陸に居住した最初のヒトは、風変わりで今では絶滅した豊富な大型動物と遭遇し、これは高緯度と同じく熱帯アメリカ大陸にも当てはまる可能性が高そうです。全体的に、大型動物47種のうち34種が南アメリカ大陸で絶滅しました。これらの大型動物は間違いなくサバンナやアンデス草原やサバンナ・森林移行帯に存在しましたが、密林地帯の大型動物生息の直接絶的証拠(たとえば、アフリカの熱帯林で見られるような)は、保存状態が悪いために限定的で妨げられています。これら大型動物絶滅の直接的原因は、急速な気候変動が野生集団を圧力下に置き、狩猟と生息地改変を通じてのヒトの圧力と相まってさらなる圧力を加え、以前の環境変動の後に生じた退避地からの回復を妨げたことなどの集合だったようです。
最近の研究は、アンデス全体の湖の古生態学的証拠の調査によって、この移行の時期を説明しており、火災増加直後の125000年前頃に大型動物が広範に消滅しました。その研究では、大型動物は急速な温暖化と湿潤状態により圧力を受け、個体群の回復は燃焼を通じてアンデス高地景観を変えた狩猟民により妨げられた、と提案されています。別の最近の研究は、新熱帯区のヒトと大型動物との間のこの最初の遭遇の説得力ある全体像を提示しており、コロンビアのセラニア・デ・ラ・リンドサ(Serranía de la Lindosa)で発見された岩絵と、アマゾン森林とオリノコ川のサバンナとの間の現在の移行帯に基づく、詳細な事例を報告しています。その研究では、この岩絵の年代は後期更新世で、巨大ナマケモノ(おそらくはエレモテリウム)やラクダ類(おそらくは古代ラマ)やおそらくは3本指の滑距目分類群(Xenorhinotherium)である有蹄類など、他の多くの絵のうち絶滅大型動物が描かれていた、と示唆されています。
新熱帯区森林へのヒトの影響には植物群との相互作用も含まれ、この地域は熱帯においてヒトの到来と耕作慣行との間の最小の時間的間隙の本場です。農耕の独立したアマゾン起源は近年においてとくに重要な発見で、早くも10400年前頃には、ボリビアのベニ(Beni)の季節的に氾濫するサバンナ人口の森林島で現れる、キャッサバ属やカボチャ属の耕作があります(関連記事)。9000年前頃の農耕はサバンナの北側の森林地帯でも現れ、アマゾン北西部の野営地遺跡の近くで耕作の痕跡があります。植物栽培から離れた地域では、前期~中期完新世の採食民がヤシや木の実や堅果を消費していました。これらの種の多くはアマゾン地域においてはひじょうに優占的で、アマゾン全域でのこうした種の量の増加は、数千年にわたる先住民人口集団による選択と管理を反映しているかもしれない、と示唆されてきました(関連記事)。
しかし、アマゾン地域が顕著で長期的なヒトの痕跡を伴う文化的景観である程度は、まだ議論されています。最近の研究は、アマゾン地域の初期のヒトの居住の生態学的影響の古生態学的統合を提示します。顕著な植生変化は、森林におけるヒトの定住の最初の痕跡後の数世紀から千年間にのみ見られる、と主張されることが多く、最初の住民は森林にじょじょに変化をもたらしただけである、と示唆されます。乾燥した森林・サバンナ地帯はとくに好まれたようです。アフリカと同様に、この斑状の景観はさまざまな資源と、植生整理や生態系の変化を促進するための、自然火災の利用と増進の枠組みの可能性も提供します。最近の研究は、アマゾン森林移行帯の構成と構造の形成において、景観利用と文化的燃焼と土壌富化の役割を調べました。その研究は、過去1万年間にわたって安定した森林植生が優占する、ボリビアのラグナ・ヴェルサレス(Laguna Versalles)の考古学および古生態学的データの6000年間を統合します。これらのデータは、森林の構成と構造の管理、文化的燃焼、可食植物の栽培、人為的なアマゾンの黒色土壌(ADE)の形成を記録します。頻繁な文化的燃焼は、燃焼の制御、燃焼負荷の減少、火に適した植物の量の増加により、ADE森林構成と構造を変えました。
新熱帯区森林におけるヒトの歴史の拡大とさまざまな記録が今では確立しており、季節的に乾燥した森林から低地熱帯雨林まで、利用可能なさまざまな生息地のヒトの居住がヒトの定住と適応と文化のパターンにどのように影響を及ぼしたのか、探求することは残っています。最近の研究は統計的手法を用いて、ヨーロッパ人到来前の熱帯アンデス全域の先住民人口集団の空間的分布を調べました。その研究は、標高、雲の頻度、川の近さ、季節的な感想度の変動が、どのようにヒトの居住を著しく変化させた可能性があるのか、指摘します。その研究は、先コロンブス期人口集団によるこの地域の居住割合の推定値を提示しており、かなりの森林生態系が依然として数世紀後に人為的影響をどのように記録しているのか、指摘します。アンデス熱帯林と北・中央・南アメリカ大陸の熱帯の他地域のさらなる詳細な調査は、更新世と完新世を通じての、この地域の熱帯林への繰り返されたヒトの適応の速度と性質のより詳しい理解を可能とするはずです。
●統合
熱帯林は明らかに、深いヒトの歴史の文脈ではもはや無視できない、重要なヒトの生息地を表しています。とくに、アジアと南アメリカ大陸の熱帯林で得られた豊富なデータと手法と洞察は、これまで現生人類の進化的発祥地であるアフリカにおいてやや遅れていた熱帯研究の課題を促進しつつあります。これまでに何を言うことができるでしょうか?また、おもな将来の研究課題と手法は何でしょうか(図2)?以下は本論文の図2です。
おそらく、熱帯林における考古学的研究増加の最も明らかな結果は、もはや熱帯林をヒトの進化と初期のヒトの過去にとっての周辺地域として考える余裕がなくなったことです。「新旧」両世界にわたるサバンナや草原や沿岸と結びついたさまざまな仮説の存続にも関わらず、ヒトはその行動において基本的に柔軟です。この柔軟さは、現生人類だけではなくより初期のホモ属種でも見られます。極端な事例として、ヒトが北極圏の狩猟採集民からアマゾン地域の耕作者まで数千年以内でどのように適応したのかは、注目に値します。したがって、ヒトが単一の狭い資源一式に自身を制約した可能性は低そうです(関連記事)。じっさい、現生人類と関連する最初で最長の文化的段階であるMSAのアフリカ全域の分布が、草原とサバンナだけにかつて存在した可能性は低そうです。これに基づいて、研究者はヒト居住の相互に排他的な地域としての「熱帯雨林」と「サバンナ」との間の単純な二分法を破棄し始めなければなりません。
適応の範囲に沿って、さまざまなヒト集団が選択した特定の居住地について「専門家的」解決策を見つけたかもしれません。しかし多くの事例では、専門性は柔軟性を維持し、さまざまな居住地と資源を利用する能力で見つかる可能性があります。じっさいそれは、現生人類をその最近縁分類群と区別するかもしれない、とりわけこうした居住地にさまざまな方法で適応する現生人類の明確で繰り返される能力です。上述のように、たとえばアフリカでは、熱帯林自体は均質なまとまりではありません。代わりに、たとえば森林は、開拓地、より乾燥した種類の森林、ヤシの沼地、森林回廊、草の茂る氾濫平原、サバンナと互いに組み合わせることができ、それらの環境は柔軟な利用をもたらします。これをさらに調べるにあたって、広範な熱帯林がまだ調査されていないことは明らかなようです。アジア南東部とアマゾン地域での新たな研究にも関わらず、かなりの地域、とくにアフリカについては、深いヒトの過去について言えることに関して、ほぼ完全に調べられていないままです。どのような予測を立て、どのような手法を用いるべきでしょうか?
本号の諸論文も、熱帯林と初期のヒトとの遭遇に関する理解における最新の進歩の多くが、社会科学と自然科学を横断するさまざまな手法の適用を含んでいる、と浮き彫りにします。ヒトの深い過去における熱帯林の役割の解決は、「目に見えないものの考古学」をしばしば含む、真に学際的な試みです。たとえば、ヒトの活動の痕跡は、コンゴ盆地のヤシの堅果やアマゾン川流域のブラジルナッツなど野生植物と樹木の現在の分布や群集組成、古環境コアと遺跡における木炭の蓄積のパターン、土壌組成の変化、動物群集で見つけられます(図2)。現在の樹木の年輪の研究(樹木年代学)は、より最近の期間における森林のヒトの管理をたどれることさえ示されました。有機物の保存が少なく、遺跡を見つけてその位置を特定するのが困難である温暖湿潤な生態系では、環境へのヒトの影響の痕跡は、時として過去の居住の唯一の証拠となるかもしれません。ヒトの歯のエナメル質の安定同位体分析も、不完全な動植物群に直面した場合に、全体的な食性依存を評価する手段として浮上してきました(関連記事)。そうした敏感な手法は、熱帯林と過去のヒトとの関与の文脈を完全に理解するため、追加の考古学的調査と組み合わせる必要があります。
更新世熱帯林の考古学に関しては、必ずしも劇的に変化した石器様式を予測すべきではなく、動的な状況の環境に対処できるより一般的で柔軟な道具も予測すべきです(図3)。アフリカでは、MSAの地域化により、純粋な環境決定要因ではなく、集団間の孤立の程度に光を当てられるかもしれず、さまざまなMSA道具の範囲は明らかに色々な状況で用いることができます。MSA道具一式の遍在的で一般的な要素もアフリカ全域で30万年以上にわたって見られ、さまざまな環境において柔軟で動的な必要性を満たしていたかもしれない、と示唆されます。
じっさい、アジア南東部の熱帯雨林の事例から、「専門家」的適応が単に石器だけではなく、タケや他の物質など有機物の道具の開発の形、標的となる獲物の種類、痕跡を残さない可能性がある罠技術、塊茎の無毒化など炭水化物の処理において見ることができる、と示唆されます。アジア南東部のホアビン文化技術は、将来的にはアフリカ西部および中央部のMSA技術との興味深い比較を提供するかもしれませんが、石器分析はしばしば、局所的で地域的な焦点を保ってきました。一方、初期の弓矢技術の一部と主張されている、スリランカで発見された細石器と骨器(関連記事)は、「専門家」的な熱帯適応への別の経路を示唆します。以下は本論文の図3です。
ヒト進化のこの世界的な熱帯記録の解明において、未知数のことが多くあります。これまでの研究にも関わらず、現生人類がいつ特定地域でさまざま種類の熱帯林を最初に集中的に利用し始めたのか、そうした行動が祖先種で観察され得るのかどうかについて、まだ明確な考えがないことはよくあります(図3)。これが具体的にどう特徴づけられるのかも、分かっていません。過去の更新世森林採食民は、高い遊動性と強い社会的交流網に依存していましたか?過去の更新世森林採食民は、たとえばアフリカにおける森林ゾウの通った跡や、アマゾン地域におけるヒトの移動性で重要になったかもしれない河川網を用いて、どのように森林を通り抜けましたか?過去の更新世森林採食民は、たとえば、ベトナム北部の陸生カタツムリなど1年の特定の時期における選好する野生食料の分布と場所の制御により、どのように森林を季節的に用いた可能性があるでしょうか?これらの問題の多くは、温帯のユーラシアとアフリカ南部および東部の更新世遺跡については、長く尋ねられてきました。しかし、ヒト進化のより広範な理論的議論における熱帯林の一般的な欠如は、これらの環境で利用できるようになり始めたばかりであることを意味します。より広い水準では、熱帯林が、たとえば人口構造の駆動など、依然として顕著な障壁を表しているのかどうか、まだ不明確です。ヒト進化において、森林の端と移行帯地域はどれほど重要でしたか?
完新世に入ると、証拠はやや増えてくるものの、多くの問題が残っています。偏りの多くも、依然として見つけることができます。たとえば、森林の研究は、河川もしくは乾燥した辺境に焦点を当てるなど、地理的偏りが支配的であり続けています。アフリカでは、完新世の森林研究は依然として、とくにアメリカ大陸における同様の研究に遅れています。しかし、後期更新世と完新世は、森林へのヒトの適応の理解を深める機会も提供します。それは、比較対照できる熱帯林環境のヒトの定着の複数事例があるからです。後期更新世と初期完新世においてヒトが居住した熱帯林の生態環境は、変化する大気の二酸化炭素と動的な移行する斑状の景観を考えると、後期完新世とは異なっています。大型動物はどのように、森林の居住を妨害もしくは促進しましたか?アジア南東部の、風の拡散が優占するフタバガキ科森林における比較的少ない果実など、熱帯全域の生物地理学的違いは、初期のヒトが森林資源を用いた方法にどのように影響を与えましたか?これら森林のヒト居住の長い歴史は、現代の熱帯林の種構成をどのように形成してきた可能性がありますか?
残りの「大きな問題」は以下の補足にまとめられています。こうした問題に取り組むには、「熱帯雨林」だけではなく、熱帯林生息地の全範囲があるという認識とともに、世界的な熱帯にわたる基礎研究の継続と拡大が必要でしょう。これらの目標の追及には、資金提供機関の投資とさらなる研究への危険性の公約が必要でしょう。結局のところ、以前の豊富な発見が将来の可能性を堅牢に証明している、草原とサバンナの「よく足を踏み入れた」地域はありません。とくに、熱帯林の考古学と古人類学の研究を高めるには、熱帯地域の学際的調査を主導する地元の研究者への資金提供が不可欠です。熱帯林への投資と熱帯地域の研究者は、深いヒトの過去の新しく豊かな理解につながるでしょう。これまでの証拠の蓄積と重要性は、この見解を間違いなく裏づけます。本号は、この目標を促進する重要な段階を表しており、集合的なヒトの先史時代がこの世界的に重要な生態学的地域とどのように混交したのか、新たな注意を払うよう、学者と資金提供者に同様に呼びかけています。
●補足:大きな問題
(1)ヒトと人類の熱帯林との時間的深さはどれくらいですか?
(2)ヒトは何回熱帯林に適応しましたか?
(3)熱帯林への繰り返しの適応は、世界の熱帯地帯全体でどのように比較され、そうした環境に固有の共通性により実証されますか?
(4)乾燥して開けた熱帯から森林環境への移行の速度はどのくらいでしたか?森林とサバンナの移行帯は入口としてどのように機能しましたか?
(5)熱帯林気候の活力と更新世を通じての分布をどのように特徴づけることができますか?初期のヒトが好んだ斑状の景観はどれでしたか?
(6)密集した熱帯林はおもに障壁もしくは回廊のどちらでしたか?
(7)熱帯林のさまざまな生態学的生物地理は、過去にヒトによりどのように使用され、管理されてきましたか?
(8)斑状の森林環境は、森林とサバンナだけの合計よりも多くの新たな資源を生み出しますか?
(9)多様な森林は、採食から農耕まで、どのように適応を形成してきましたか?たとえば、初期熱帯耕作に重要な季節的環境の議論です。これはどこまで維持され、大型動物減少の遺産は何でしたか?
(10)熱帯林とのヒトの相互作用の長い歴史は、こうした森林の現代の生態および機能にどのように影響しましたか?
参考文献:
Scerri EML. et al.(2022): Tropical forests in the deep human past. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 377, 1849, 20200500.
https://doi.org/10.1098/rstb.2020.0500
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